「八田與一を知ってるかい?」
先日、TVで八田與一(はったよいち)という台湾最大の穀倉地帯を作った明治男を知った。そして、日本人に昔、脈々と流れていたノーブレスオブリージという高貴な精神を想い起こした。
八田與一は1886年(明治19年)に金沢市に生まれ、東京帝国大学の土木工学を卒業して、台湾総督府の内務局土木課に奉職した。24歳で当地に渡り56歳で亡くなるまでのほぼ全生涯を当時、植民地であった台湾のためになげうった。八田與一は台北の上水道整備など水利工事の分野で頭角を現すと、いよいよ1920年にライフワークとなる当時アジア最大と云われる烏山頭(ウーシャントー)ダムと総延長1万6千キロにおよぶ灌漑用水路建設という世紀の大工事に着手する。烏山頭は台湾南部の台南市から東北にバスで1時間20分ほどのところに位置するが、その西下流域に台湾南部最大の嘉南平野が広がっている。ただ、その平原には流れる河川も少なく20世紀になるまでは水利の悪さからサトウキビすら育たなかったと云われていた。
その旱魃に悩み貧しい土地に万里の長城(全長5千キロ)の三倍を超える距離の灌漑用水路網を整備し、その東方の山地に最大貯水量1億5千万㎥、満水面積6千haのアジア最大のダムを建設しようという気の遠くなるほどに稀有壮大な大工事であった。完成は1930年(昭和5年)。10年という歳月を費やし、與一の半生のすべてを注ぎ込んだと云ってよい。その間、烏山嶺隧道工事の最中に起きた死者50余名にのぼる爆発事故や、工事期間中に本土で起こった関東大震災による国家財政逼迫の煽りからの大幅な補助金削減。それに伴う工員の半数におよぶ規模の大幅な人員整理。次から次へと襲いかかる難題を不屈の精神力と高度な専門技術知識で乗り越え、さらに人情味あふれる工員との接触で人心を掌握し、この難工事を成功へと導いていった。
人員整理の際には、優秀な工員をの方を解雇したと云う。「勿論、力のあるものを残したい。だが、能力あるものは再雇用の道も求めやすい。そうでないものは家族共々、路頭に迷うことになる。だから、敢えて惜しいと思われる人間に辞めてもらうことにした」と、與一はその苦しい理由を部下たちに説明したと云う。その心臓の張り裂けんばかりの心情を今の私が察することは余りにおこがましい行為だと云わざるを得ない。そしてその首を切った者たちの再就職には與一自らが奔走し、烏山頭ダムに勤めていた時よりも高い報酬を新たな勤め先に確約させるなどその生活の再建には心血を注いだと云う。
こうして15万haにおよぶ痩せた大地に潤沢な灌漑用水が供給されるようになった。水稲やサトウキビなどの農産物の豊富な実りを実現させ、嘉南平野を現在では台湾最大の穀倉地帯と呼ばせるほどの肥沃な平野にその姿を一変させたのである。
八田與一は1942年(昭和17年)に陸軍に徴用されて、米潜水艦にフィリピン沖で乗船する船を撃沈されて戦死した。烏山頭に疎開していた妻、外代樹(とよき)は他の疎開先より戻った息子の無事を確認すると、昭和20年9月1日深夜に夫と共に全身全霊を捧げ尽くし築きあげた烏山頭ダムの放水口に身を投げ、最愛の夫、與一の後を追ったと云う。
いま、その地には嘉南地方の人々の手によって建立された日本式の與一の墓がある。台湾の人々に愛された八田與一はほとんどの日本人に知られることもなく、その地で愛する妻、外代樹と共に静かに眠っている。そして、自らのやり遂げた実績を自慢吹聴することもなく、大穀倉地帯を吹き渡る緑のさわやかな風を満身に受けながら・・・静かにこの田園風景に優しい目を時たま、投じているのであろう・・・。