彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

光市母子殺害事件

光市母子殺害事件の死刑判決=国民に分かりにくい最近の裁判3

光市母子殺害事件の差戻し審において広島高裁(楢崎康英裁判長)は22日、「死刑を回避すべき事情は認められない」とし、無期懲役の1審判決を破棄、求刑通りに死刑判決を下した。

 

判決後の記者会見で被告側弁護団は「裁判所は被告人の心を完全に見誤っている」、「181カ月という未熟な未成年の犯行ということを真正面からとらえていない判決だ」、「裁判所は本当のことを話したいという被告の姿勢を逆手に取っている」など「不当判決」であると批判し、即日、上告の申し立てをした。そうした弁護団の裁判所批判の言葉にわたしは何ら心を動かされることはなかったし、世間も予想した死刑判決が当然のように下されたことに何の違和感もなかった。

 

しかし、安田好弘弁護士に「従来の判例の適用を間違っている。永山判決を逸脱し、最高裁が手続きをふまえずに判例を変更し、高裁がそのままのっとった」「最高裁の判決に忠実に従った極めて不当な判決だ」と語らせた本裁判に対する最高裁判所の対応には、別の意味で大きな不満と分かりづらさを覚えているのも事実である。

 

20066月に最高裁は上告審判決で「少年だったことは死刑回避の決定的事情とまでは言え」ず、「量刑は甚だしく不当」として二審判決を破棄し、審理を広島高裁に差し戻した。そのときわたしは、「そこ(元少年の責任は誠に重大で、特に酌むべき事情がない限り死刑を選択するほかない)まで言うのなら何故、審理差し戻しなのか、何故、最高裁が自判(じはん)しないのか」と、首を捻らざるを得なかった。当時、メディアでは、高裁でさらなる「更生の可能性についての審議を深める必要」があるとの解説がなされていたが、最高裁は「(二審判決の)量刑(無期懲役)は甚だしく不当で、破棄しなければ著しく正義に反する」とまで言い切ったのである。世間の常識であれば、自判による「死刑」判決が下されるのが自然であると思えたのだが、それはわたしが司法の素人だったからなのだろうか。

 

そのときあらたな判断を示しておれば、今回、永山判決を逸脱したなどという批判を浴びることなどなかったはずである。最高裁の自判回避は自ら手を下したくないという腰の引けた姿勢にしか見えず、法の最後の番人として責任を全うしないものであると思ったものである。本村洋氏が「ここまで7年。これから高裁へ戻され、また上告して最高裁へ。どれだけの歳月が流れるのか」、「無期懲役を最高裁が妥当と思わないのなら、差し戻しでなく自ら死刑判決を下してほしかった」と、当時、述懐したが、その言葉の重みをわれわれは、いま、あらためて思い起こす必要がある。

 

一方でこの417日、自衛隊のイラク派兵差止等請求控訴事件における名古屋高裁(青山邦夫裁判長)の判決が下った。判決主文、「1.本件控訴をいずれも棄却する 2.控訴費用は控訴人らの負担とする」とする国側の勝訴となった。

 

しかし主文に続く「事実及び理由」において、首都バグダッドは「イラク特措法にいう戦闘地域に該当する」として、「イラクで行われている空輸活動は、憲法9条に違反する活動を含んでいる」としたため、原告側が「自衛隊イラク派兵は憲法違反」・「画期的判決」で実質勝訴と沸き上がったのはつい先日のことである。

 

名古屋高裁は「事実及び理由」の第3「当裁判所の判断」において「控訴人らの本件違憲確認請求及び本件差止請求にかかる訴えはいずれも不適法であるから却下すべき(中略)と判断するが、その理由は以下のとおりである」とした。そうであれば、訴えの不適法である理由のみを述べればよいわけで、憲法判断をわざわざここでする必要はない。

 

航空自衛隊によるバグダッドへの空輸活動が違憲であると判断したのであれば、控訴人が請求したように「派遣してはならない」のだから、裁判所は自衛隊の即刻帰還を言うべきであろう。法律の専門的なことは素人のわたしにはよく分らぬが、違憲であれば、自衛隊は戻ってくるのが筋と考えるのは誰でも分かる理屈ではないのか。しかし、この訴訟は国の勝訴であり、国は違憲判断に対する対抗措置の講じようもないのが実際のところである。

 

そもそも国の根本である憲法解釈については、正攻法の堂々たる法廷論議を重ねるべきだと考える。とくに憲法第9条は改憲議論における中核テーマである。そうした国民の最も関心の深い事柄について、言うだけ言って反論を許さぬ名古屋高裁のあり方や姿勢は、どう考えてもおかしい。光市事件での最高裁の自判回避や違憲だが自衛隊はイラクから戻る必要はないといった裁判所の判断や姿勢は、法曹界の玄人には至極、当然のことということなのだろうか。

 

来年の521日からいよいよ裁判員制度がスタートする。そうした時機に立て続けに起きた分かりづらい裁判所の判決と判断。こんなことで、裁判所は「国民のみなさんが刑事裁判に参加することにより,裁判が身近で分かりやすいものとなり,司法に対する国民のみなさんの信頼の向上につながることが期待されています」とする裁判員制度導入の目的が本当に果たされるとでも思っているのだろうか。最近のこの分かりづらい裁判を見ると、わたしはどう考えてもそんなことはできるはずがないと思われてきて仕方がないのだが。



最近の裁判報道って、どこかおかしくないか?5

山口県光市母子殺害事件の差し戻し控訴審が24日、広島高裁(楢崎康英裁判長)で開始された。昨年6月の最高裁の「特に酌むべき事情がない限り、死刑を選択するほかない」と二審の無期懲役判決を破棄しての自判回避から約一年が経過した。

 

被告側の膨れ上がった弁護団はこれまでの事実の認定や量刑に誤りがあるとして、今度の公判ではそれらの誤りを正すとしている。そのひとつの理由として、「被告は自分の過ちを現実感をもってとらえることができなかったが、被告人は26歳になり、反省と贖罪(しょくざい)の意を深めている」ことを挙げた。

 

実はこの「反省と贖罪(しょくざい)の意を深めている」という物事の捉え方にわたしは違和感というか、それは違うのじゃないかと強い反発を覚えるのである。容疑者逮捕後の事件報道や裁判報道において「容疑者は未だ反省の弁を述べていない」とか「被告は涙を流してすまなかったと語った」というアナウンサーの声をよく耳にする。

 

今回の弁護団に覚えた違和感もまさにメディアによるこうした被告の「反省の有無」報道と同様のものであった。もちろん、殺人や反社会的な事件を引き起こした容疑者なり被告が、その犯した罪に反省の弁を述べること自体は人間として当然の行為であるし、そうあって欲しいと願っている。

 

しかしそのこととメディア報道は別物であることを、われわれははっきりと認識しておかねばならない。とくに最近のメディアは、起訴された被告について決り文句のように「『反省の言葉をまだ発していない』『申し訳ないことをした』と語った」云々とやたらに被告の現在の心情について言及する。メディアのこの一面的で表層的な物事の捉え方にわたしはどうも違和感を覚えてしまうのである。

 

それはこれから裁判が進められていくうえで、被告の反省の言葉や姿勢は量刑を下すうえで何ら本質的な事柄でもなく、関係のないことだからである。つまり犯行の事実を解明し真実を究明したうえで、被告の「犯した罪」という「事実」に対して相当する量刑が科されるのであって、罪を犯した被告の反省の弁などはその量刑判断の要素とはなりえぬからである。

 

量刑が確定し、刑に服す過程で反省が深まり受刑態度が良好等の理由により、裁判所の判断で仮釈放することはあっても、そもそもの「犯した罪」の重さを量る量刑判断の段階で、犯行後における被告の反省の気持ちが斟酌されるようなことがあってはならないし、それはまったくのお門違いと言うものである。

 

犯行にいたる際に同情すべき事情があったとして裁判官の裁量で量刑が減じられるいわゆる「情状酌量」は、まさに罪を犯さざるを得なかった事情を斟酌するものであって、罪を犯したあとの反省の有無によってなどではないことは明らかである。「反省の気持ち」が量刑判断の構成要素となることなどあってはならないし、そんなことがあるはずもない。

 

そうであるのに、なぜかメディアは判で押したように「反省の弁は一切ない」「被告が涙ながらに反省の弁を語っている」といった類の報道を垂れ流す。「こんな罪を犯しておいて、反省もしていない、とんでもない奴だ」と、もっと罪を重くしろとでも言うのであろうか。また逆に「手紙まで出してこんなに深く反省している」とこれからの公判で意味を取り違えた「情状酌量」でも期待しているのだろうか。そうした類の報道に何の意味があるのかわたしは心底理解に苦しむ。

 

量刑判決とは犯した罪の重さであるという刑事罰の原則がないがしろにされ、何か情緒的なものでゆるがせにされようとしているように思えてならないのである。何度も繰り返すが、あくまでも犯した罪の事実により量刑は下されるべきであり、その後の反省の有無といったことが量刑判断に影響を与えるべきではない。「犯した罪」に対する正当な「量刑」を下すのが公正な裁判であることは、今更言うまでもないことである。

 

今回の光市の事件においても当時少年であった被告のその後の反省度合いに注目した報道がなされる場面があるが、どうも公判報道においてそうした視点は見当違いのように思えてならないのである。

 

光市母子殺害事件の次回公判は626日から3日連続で開かれる。


光市母子殺害事件の最高裁自判回避に不満4

「光市母子殺害事件の最高裁自判回避に不満」

 

 99年に光市で起きた母子殺害事件に、最高裁第三小法廷(浜田邦夫裁判長)は20日、無期懲役とした二審・広島高裁判決を破棄し、審理を差し戻す判決を下した。浜田裁判長(退官)と上田豊三、藤田宙靖、堀籠幸男の各裁判官の4人全員一致による結論であったということだ。

 

 法曹界では現在、裁判の迅速化・裁判員制度の導入(h21.5までに施行)など平成11年7月に内閣に「司法制度改革審議会」が設置されて以降、司法制度改革は「法制面の整備」においては着々と進められていると言ってよい。

 

95年に起きた凶悪なオームサリン事件において、首謀者である松本智津夫被告の一審死刑判決(04.2)まで9年もの歳月を費やし、あまりにも悠長な裁判審議に世論の批判が集中した。そうした、国民の苛立ちが改革の後押しをしたといってよい。もちろん、冤罪(えんざい)を避けるために慎重な証拠固めや証人からの証言の聴取などやるべきことをやるのは当然であるが、それこそ限度、世間の常識というものがあってもよいのではなかろうか。

 

 そのバランス感覚からいって、無差別テロ事件であることがはっきりしているオーム裁判に、何故、これほどの公判回数が必要なのか、審議時間の長さは異様であり、無意味である。

 

司法にズブの素人であるわたしが、あまり無責任なことを言ってはいけないが、「世間の常識」というものは存外、庶民の公正なバランス感覚によって構成されていると思う。国政選挙での与党圧勝の次は、野党が議席数を回復するといった意図せざる平衡感覚が今、現在の国民には存在しているように思われる。

 

 今回、光市の、当時18歳1ヶ月であった少年による強姦致死という痛ましい事件において、最高裁判決は、やはり、世間の常識からいって「そこまで(元少年の責任は誠に重大で、特に酌むべき事情がない限り死刑を選択するほかない)言うのなら、何故、審理差し戻しなのか、何故、最高裁が自判(じはん)しないのか」と、首を捻らざるを得ない。TVなどでは、一応、高裁で「更生の可能性についての審議を深める必要」ということだといった解説がなされているが、最高裁は「(二審判決の)量刑(無期懲役)は甚だしく不当で、破棄しなければ著しく正義に反する」とまで言い切ったのである。世間の常識であれば、自判で「死刑」の判決が下されるのが自然であると思える。

もう一方で鋭意、進められている「裁判の迅速化」の観点から、それは当然なされねばならぬことだと考える。最高裁自らがその範を垂れずして、何が司法改革か。審理差し戻しであれば、逆に「量刑(無期懲役)は甚だしく不当で、破棄しなければ著しく正義に反する」とまで言い切れない何かが、それまでの公判のなかに残されている、審議不充分であると判断したのだと、世間のわたしたちは考えてしまうのだが、実際はどうなのであろうか。

 

 今回の最高裁の自判回避には、最高裁は「庶民の感情に媚を売り、だが、審議はどうも不充分である、もう少し進めなさい。自ら手は下したくない」と、その姿勢は、どう考えても責任回避としか見えてこない。法の番人の頂点にある最高裁自らがそうしたポピュリズムに陥っているとしたら・・・、この国の将来ははなはだしく暗い。本村洋氏の「ここまで7年。これから高裁へ戻され、また上告して最高裁へ。どれだけの歳月が流れるのか」「無期懲役を最高裁が妥当と思わないのなら、差し戻しでなく自ら死刑判決を下してほしかった」との述懐の言葉をわれわれは極めて重く受け止めねばならぬ。大きな不満の残る判決であった。

 

司法改革―市民のための司法をめざして

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