履修漏れ救済は教育基本法改正議論の試金石(上)
履修漏れ救済は教育基本法改正議論の試金石(下)

しかし、今国会の大きな目玉の一つが、安倍総理が公約に掲げている教育基本法の改正である。これまでの戦後教育のあり方、仕組みなどを抜本的に見直す、国民にとってはこれからの日本を規定する最重要政策である。その審議の入口で噴出したこの履修漏れ問題。この対応のあり方自体が、すなわち「教育」と表裏の関係にある「学ぶ」という概念をどう規定、定義するのかという、教育基本法改正を議論する前の重要な試金石として問われることになる。対応いかんによって国会や文科省を含めた教育界が、教育という問題を議論するそもそも資格があるのかないのかが、明らかにされると考えるのである。

 

 その意味において、今回の履修漏れ問題に対し、目前に迫った大学受験をどう乗り切り、どのようにして高校卒業資格を取得させるか、履修単位の辻褄合わせをさせるかという姑息で技術的な対応策でお茶を濁すべきではないとわたしは考える。「教育」はまさに国を構成する最も重要な要素である人つまり国民の資質を高め、育む最も重要な国家としての役割であり、国策としても最上位に来るべきテーマである。その百年の計を議論するに当たり、「教育」「学ぶ」ということの本質は何かを、国民ならびに国政は原点に返って真剣に考え直してみる必要がある。今回の事件はその意味で、われわれに大きな試練を与えたと考えるべきである。

 

 この履修漏れ問題は、教育に大学受験に合格するための効率性または各学校間の競争を促す原理を導入したところに問題の芽が見て取れる。「教育」「学ぶ」とは何かという原点を見失った現在の教育行政・現場の実態が、大事な教育基本法改正議論の前に噴出したことで、結果としては原点に立ち返り問題点を整理し議論を深めるうえで、最良のタイミングであったとも言える。

 

 受験生、高校側、文科省および大手メディアの目下の発言や論調を見ると、受験科目でない科目を勉強することは時間の無駄であることを、公に認めているとしか見えぬ扱いに、わたしは「教育」に関わる当事者たちの痩せ細った「教育観」、「学ぶ意識」を見てしまう。世界史であれ、地理であれ、数学であれ、どんな学科も大学受験などとはまったく無縁に独立して同等の価値を有する学問である。あらゆる学問は人類にとって貴重な共通の知的財産であることをすっぽりと忘れた議論が平気でなされていることに、この国の「知」に対する意識の貧困さと価値観の堕落を覚え、目先の打算的価値観の蔓延に国家としての勢いの衰えを感じるのである。