神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 5(鴨居瀬の住吉神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 6(鴨居瀬の住吉神社・赤島)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

 

鶏知(ケチ)は、ほぼ対馬の中央部に位置し、鎌倉時代中頃まで対馬統治の庁が置かれていた土地である。



 
鶏知の住吉神社



 
一之鳥居と参道

 

その鶏知に鴨居瀬同様に住吉神社(美津島町鶏知甲1281)が鎮座する。鴨居瀬の住吉神社を移祭したと由緒にあるが、祭神は綿津見系の海神であり、住吉の名を冠しながら、肝心要の住吉三神が同社に祀られていないのが奇妙である。

 


階段の上に神門が

二之鳥居


 



 
拝殿正面



 
阿(ア)形の狛犬



 
吽(ウン)形の狛犬

 


本殿

 

また、境内社が本殿脇にあるが、明細帳では和多都美神社(祭神:豊玉姫命・玉依姫命)、大小神社帳では宗像神社(祭神:宗像三女神)とされている。いずれにしても、住吉系の神ではないのが、不思議である。

 


 
境内社(和多都美神社or宗像神社)




 
拝殿脇に階段を昇って境内社が


 

(鶏知住吉神社の概略)


 住吉神社の扁額

扁額

    社号:住吉大明神、鶏知(ケチノ)住吉神社、住吉神社(大帳・明細帳)

    祭神:神功皇后(大小)、彦波瀲武鵜茅不合葺尊(ヒコナギサタケ・ウガヤフキアエズノミコト)(大帳)、彦波瀲武鵜茅不合葺尊・豊玉姫命・玉依姫命(明細帳)

    由緒(明細帳)

対馬國下縣郡鴨居瀬村紫瀬戸住吉神を移祭す。年月不詳。康永元年(1342年)九月十三日大宰府の命に由り放生會神事再興、明治七年六月郷社に列せらる。神功皇后新羅を征伐し対馬に還御、下縣郡鶏知村の行宮に入御し玉ひ、和多都美神社を造営し給ひし神社なりしが、現今白江山住吉神社に合祭す。

 


藤氏寄贈の燈籠
 
寄進者に「藤」氏の名が。対馬國総宮司職「藤」氏の末裔であろう

 


拝殿から広い上の境内を(土俵と神門を見える)

階段上も広い境内・拝殿脇に境内社が



 

 

 

 

    「神奈備」というHPは、「鶏知」の地名の由来を「神功皇后が黒瀬の城山に登り四方を眺望した時、東方から鶏の鳴き声が聞こえたので、村のあることを知り、当地に宮を造営した。」と紹介しているが、その伝承の出所を確認することはできなかった。

 


 

写真の左、北位方向に黒瀬の城山がある(上見坂展望台より)



 
鶏知、向こうに空港(城山は写真の外、左奥の方向)

手前右の町が

 

「鶏知(ケチ)」は、対馬の支配者であった阿比留一族の本拠地として、歴史を刻んでいた。寛元四年(1246)、阿比留氏に代わり宗氏が統治者となるが、阿比留一族への島民の崇敬の念は変わらず、祭祀の分野で一族を遇することで、侵略者たる宗氏に対する島民の反発をそらした。文永十年(1273)、豆酘寺の別当阿比留の講師長範の子長久に父の職を継がせるなど一連の処遇の中に、鶏知・住吉神社の神主任命があった。以下に、当社に関わる部分を「対馬の神道」から引用する。

 

「応永四年(1397)、大掾(ダイジョウ)阿比留三郎兵衛を鶏知の住吉神社の神主に任じたのも、動機は豆酘寺別当を復職させたのと同じであったろう。鶏知の住吉神社は、木坂の八幡本宮(国幣中社海神神社)および国府の八幡新宮(県社八幡宮神社)のいわゆる両八幡宮に次ぐ名社であったが、さらに時代を遡れば、紫瀬戸の住吉神社、木坂の八幡宮等と三社並ぶ古社でさえあった。かかる位置の高い、由緒の古い社の神官として阿比留氏が、宗家政権の下において祭祀に奉仕したという事実は大きな意味をもつものと考えざるを得ないのである。

大帳の記事によれば、康永元年(1342913日大宰府より御書が下って、木坂および国府の両八幡宮の例に準じて、鶏知村住吉神社においても放生会が執行せられることとなった。(中略)

この社の放生会に際して、阿比留大掾が奏する祝詞を『阿比留祝詞』と呼ぶ。(P147)」」とあり、

 

当社の対馬における社格の高さが記されている。加えて文政10年(1827)までの五百年の間は確実に、その『阿比留祝詞』が実際に奏上されていた事実は重い。しかもその内容も「虚見日高大八洲所知今皇帝西海筑紫乃於盧橘乃澳ナル津島国司以下百吏神主祝部等諸聞ト宣フ・・・」など、今後、解明すべき興味深いものがある。

 

 また阿比留氏に関しては、「古代文字たる謎の阿比留文字」の存在がある。

阿比留文字という対馬の阿比留氏(宗家の前の支配者)に伝わったというハングル文字に似た古代文字がある。その文字の刻まれた石碑や道祖神が、北九州や信州安曇野という安曇氏に所縁の深い土地で発見されていることも、海人族と天孫族の抗争を考える上でのひとつの考察の視点であり、今後の課題であると楽しい思いが膨らんでくる。