神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 10(太祝詞(フトノリト)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 9(雷命(ライメイ)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 13(能理刀(ノリト)神社)
 


 
塔ノ鼻の石塔

 

曽根崎神社が鎮座する塔ノ鼻には、対馬海峡に面して四基の石塔が立つ。その内、二基は時代も古く、この石積みが何を意味するかは、今もって謎である。対馬で多く見られる天道信仰に関係する石塔とも考えられるが、曽根崎神社の鳥居が海岸の岩場に北面して海上に向かい立っていることから、朝鮮半島との関連を連想させ、また航海の安全を祈願する石塔のようにも見える。

 


 海に
北面して磯に立つ鳥居

 


 
対馬海峡に面する岩場

 

 曽根崎神社は、五根緒港から車で僅かに3、4分のところにあるが、本殿のある海辺に出る細い脇径の入り口には標識もないため、非常に分かりづらい。当日はたまたま、漁師の方に出会い、丁寧に教えていただいたので辿り着けたが、その案内なくば目的地に到達するのは至難である。

 


 
塔ノ鼻

 


 
塔ノ鼻へ崖っぷちの路をたどる

 


 

本殿から細い道の先に鳥居。その右手崖上に四基の石塔

鳥居を100mほど右手に岩場を伝って行くと謎の石塔が・・・

 

(曽根崎神社の概要)

    住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地

    社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。

    祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良

    五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」

と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。

 

 

赤いペンキで塗られた本殿

 


本殿と鳥居


岩場から本殿を

 

五根緒(ゴニョウ)は明治の初期に、現在の地点に村ごと移転してきたという変わった履歴を持つ村である。元の村が存在した場所は舟志湾の南岸、湾口近くにあり、現在は元五根緒と呼ばれていると云う。

 


 
岩場の鳥居から本殿を

 

 そもそも、霹靂神社の由緒に書かれている磯武良が上陸した地点に祀られた「五根緒浦神社」は、対州神社誌で、「大明神」と表記されている唐舟志(舟志湾の北突端)に鎮座するもうひとつの曽根崎神社が比定されている。

 


 
崖頭に立つ謎の石塔

 


 
四基の石塔

 

従って、私の訪ねた塔ノ鼻の曽根崎神社は、対州神社誌にある五根緒村の「氏神曾根山房(古くは曽根崎神社)」が、先の村の移転に伴い、村の中心から数百メートル南東にはなるが、現在の石塔の立つ地に何らかの由緒と併せて移祀されたものと推測される。

 


 
磯良が上陸したかも知れぬ磯の岩場

 


 

浸食された海

 


 
鳥居の岩場から対馬海峡を望む

 

 唐舟志の曽根崎神社も港に北面して鳥居が立っていることを考えると、現在の五根緒に北面して鎮座する当社も、霹靂神社の由緒にある「磯武良は同郡五根緒村に揚れり」に纏わる何らかの由縁があったとするのが古代ロマンを愛する者にとっては愉快である。荒々しい岩場に対馬海峡を睨むようにして立つ鳥居を一見した時、この石塔を目印に磯良が波しぶきを浴び、海上から上陸してきたに違いないと思えてくるのである。

 


 
五根緒の港へ戻る途中に金毘羅神社が

 


 
扁額

 


 
眼下に五根緒の海岸と遠く対馬海峡が広がる

 

 

 五根緒の港へ戻る途中に航海の神である金毘羅神社を見つけた。こちらも、対馬海峡を見下ろす絶景の地に鎮座していた。本殿は曽根崎神社と同様の赤いペンキで塗られていた。

 

 夏の日差しを浴びながらふと空を見上げた。一羽のトンビが海峡の風に身を任せるように、人間界を睥睨するかのようにゆうゆうと舞っていた。

 


 
一羽のトンビが大空に舞う