つづり方指導教師を検挙した国の共謀罪どうなる?(上)
社会情勢が混乱を極め、国民が公権力にその安定化を求めたとき、国家はどのようにして権力拡大を図ってきたかそのなかで国民はどのように陰湿な行動をとったか、われわれは過去の歴史を紐解き、よく考えてみなければならない。
わたしの脳裡には、戦時体制に反対する考え、思想を持つだけで冤罪で検挙された人、流言飛語によるおぞましい魔女狩りで投獄された人たちなど不幸な事例が浮かんでくるのみである。そして無辜(むこ)の国民を守るべきメディアがいつしか権力の走狗となっていたことも併せてわれわれは思い起こさねばならない。
日本人はつい60数年前、情報統制の下で陰湿な密告により魔女狩りという疎ましい行為に走った国民である。自分の隣人が突然、密告者、いや自分を貶める人間に豹変する恐怖を想像して見たとき、そして己自身が密告者あるいは魔女狩りの先頭に立っている姿を想像して見たとき、「ひとつの法律」を「時の公権力が拡大解釈」すれば、われわれ平凡な市井人はいとも簡単に被害者になり、そして加害者にもなるという忌わしい事実を思い起こすべきである。
その意味で共謀罪の議論に際しては、戦前の治安維持法が拡大解釈を重ねることで適用範囲を広げていった歴史の検証とあわせて、共謀罪新設が本当に政府の言うような批准の要件であるとすれば、政府は国民に対しその立法主旨と必然性をもっとわかりやすく理解、納得させるべきであり、そのうえで条約の目的にのみ適った法律案とすべきである。
間違っても当初案のような「死刑または無期もしくは長期4年以上の懲役もしくは禁錮の刑が定められた600種類を超える罪状に当たる行為」を共謀罪の適用範囲とする「投網をかけるような法案」であってはならない。今の共謀罪案は615種類の犯罪について遂行の具体的準備(予備罪)の手前の共謀(犯罪の合意)をしただけで摘発が可能となる、適用範囲を定めた基準、目的がきわめて不明朗な法律案となっている。具体的事例で説明すると、「有印私文書偽造」、「同意堕胎致死傷」、「私用文書等毀棄」、「偽りその他不正の行為による消費税の免脱等」、「火災報知器等損壊等」、「所有者以外の者による重要文化財の損壊等」などどう考えても条約の目的にいう国際的な組織犯罪におよそ無関係と思われる犯罪にもこの共謀罪は適用されることになる。
「国際組織犯罪防止条約」では、その第3条で「適用範囲」を以下のように定めている。
1. この条約は、別段の定めがある場合を除くほか、次の犯罪であって、性質上国際的なものであり、かつ、組織的な犯罪集団が関与するものの防止、捜査及び訴追について適用する。
(a)第5条(組織的な犯罪集団への参加の犯罪化)、第6条(犯罪収益の洗浄の犯罪化)、第8条(腐敗行為の犯罪化)及び第23条(司法妨害の犯罪化)の規定に従って定められる犯罪
(b)前条に規定する重大な犯罪(長期4年以上の刑またはこれより重い刑を科す犯罪)
2. 1の規定の適用上、次の場合には、犯罪は、性質上国際的である。
(a)二以上の国において行われる場合
(b)一の国において行われるものであるが、その準備、計画、指示又は統制の実質的な部分が他の国において行なわれる場合
(c)一の国において行われるものであるが、二以上の国において犯罪活動を行う組織的な犯罪集団が関与する場合
(d)一の国において行われるものであるが、他の国に実質的な影響を及ぼす場合
この条文の「次の犯罪であって、性質上国際的なもの」を素直に読めば、同意堕胎致死傷や火災報知器等損壊等の犯罪が、国を跨ぐ国際的な犯罪に該当するなどとはとても思えない。「性質上国際的なもの」を考慮せずに、「長期4年以上の刑またはこれより重い刑を科す犯罪」を一網打尽にくくった結果、適用範囲に厳格性を欠く共謀罪案ができたとしか考えられない。
そして共謀罪が及ぼす影響力の大きさを考えたとき、その杜撰ともいえる立法姿勢にそもそもわたしは憤りを覚える。条約目的に適った犯罪にのみ限定するという立法責任者の積上げ努力の痕跡がまったく見られぬ法案となっているからである。まさに手抜き法案と言わざるを得ない。
さらに一旦そのように適用が自在な法律が施行されると、その拡大解釈により権力はいとも容易に暴走を始める。共謀罪ではなく「凶暴罪」と法律名を変更した方が、その内容に適切な法案名であるとも言える。公権力の恣意的な法の適用を想定しない権力性善説の法案では困るのである。権力の権限拡大欲を常に抑制する、常に権力の暴走をチェックする立法精神で法案は作成されねばならない。その意味で集会や思想弾圧にも拡大適用される可能性を秘めた共謀罪はそう易々と国会を通過させるわけにはいかない。われわれはこれからはじまる共謀罪の検討過程について真剣に目を光らせていかねばならない。二度と戦前の轍を踏むべきではないからである。
政府もG8のなかでわが国のみがまだ批准ができていず、国連総会決議やG8サミットで繰り返し条約締結につき要請がなされていることのみを強調するのは、いかがなものか。国民がこの条約主旨そのものに反対するはずはない。国内法整備の柱である共謀罪の内容が条約締結に必要とされる構成要件以上の要件を含むことから、将来の権力による適用範囲拡大に国民は怖れを抱いているのである。要は立法の主旨に適った限定的かつ厳密な適用範囲が示された内容であれば、条約の主旨からして反対する理由はないはずである。
また別の観点から見ると、条約を批准した126カ国のうち共謀罪を新設した国はノルウェーなどごくわずかであることや、アメリカが一部の州できわめて限定された共謀罪の法制しかないことを理由に留保を付して条約を批准していることが最近判明したことなどから、これまで政府が説明してきた「批准の為には共謀罪の新設が必要である」との理由自体に大きな疑問を呈せざるを得ない。共謀罪を何としてでも通過させたい隠された狙いでもあるのだろうか。政府のこれまでの頑なな姿勢を見ていると、ついそのような邪推すらしたくなる。
共謀罪をあえて新設しなくとも、国際犯罪防止条約の目的を達成できる国内法の整備はすでに出来ているという法律家も多数存在している。現行の「組織犯罪処罰法」の第6条「組織的な殺人の予備」や「刑法」の第201条「殺人の予備」など個別重要な犯罪には未遂前の段階で摘発可能な予備罪・共謀罪が用意されており、その数は58にのぼるとされる。
こうした諸外国の批准内容や現行国内法の整備状況を見たとき、あえて適用範囲が限定化されず広範囲に及ぶ共謀罪を新設する必要が本当にあるのだろうか。もう一度、その点につき検討をしてみる価値があるように思えてならない。
いま国政は「産む機械」発言や「事務所費等政治とカネ」などで混乱の度を増している。これらの問題をわたしは軽視する気はないが、われわれの子孫にきわめて重大な影を落とす性格を有す共謀罪案がこうしたドタバタ劇の陰で、知らぬうちに検討、審議が進められ、突然、上程、採択されるようなことだけは決してあってはならぬと考える。