彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

中御茶屋

後水尾上皇を巡る人物と建築物 2の5---修学院離宮・中御茶屋・楽只軒5

2の5 修学院離宮--中御茶屋(中離宮)の楽只軒(らくしけん)

  

【楽只軒(らくしけん)】


 中御茶屋の大きな表門(下の写真)を入り、中門を抜けるとまず楽只軒を拝観する。
 

中御茶屋表門

中御茶屋表門

 

 楽只軒は1668年に朱宮(あけのみや)第八皇女光子内親王のために造営された朱宮御所の最初の建築物である。

 御所といっても一の間と二の間から簡素な建物である。瓦葺の裳裾をつけた�達(こけら)葺き屋根という少々、変わった屋根をいただく建築物である。

 

 楽只軒扁額
扁額

 

 扁額の周囲やその奥に見える壁に残された煤跡はかつてここで護摩を焚き病気平癒を祈祷した際に、真黒になっていたものを近時、煤落しを行なって、ようやく当初の壁の色まで戻したという。

 

手前が一の間・奥が二の間(龍田川の紅葉の襖絵)

楽只軒一の間、二の間 


 室内もいたって簡素だが、そこは女性らしく6畳の一の間には狩野探信(探幽の子)の手になる淡い吉野山の桜が床の間に、二の間には龍田川の紅葉が襖絵に描かれ、寂寥とした室内にほのかな王朝時代の芳(かぐわ)しさをかもし出してもいる。

 一の間と二の間の間に「楽只軒の扁額」

壁が煤けた楽只軒扁額


「一の間」吉野山の桜が床の間と襖絵に

楽只軒吉野山の桜の絵

 南面して低い広縁をとり、前面に池を配した庭が広がっている。

 

後水尾上皇を巡る人物と建築物--1にもどる

【2−6客殿につづく

 

 

後水尾上皇を巡る人物と建築物 2の3=修学院離宮(中御茶屋へ)5

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2の3 中御茶屋(なかのおちゃや)=中離宮 (楽只軒・客殿)


 【本来の修学院離宮の姿と後水尾上皇の造営コンセプト

 

 中御茶屋はそもそも後水尾上皇が造営した離宮を構成する構築物ではない。「2の1 沿革」のなかで引用した「修学院離宮の歴史」(宮内庁監修)で述べられているように明治18年(1885年)林丘寺門跡から境内の半分が楽只軒(らくしけん)、客殿とともに宮内省に返還されたので、離宮に編入したものである。昭和39年(1964年)上・中・下の各離宮の間に展開する8万?に及ぶ水田畑地を買い上げて付属農地とし、景観保護の備えにも万全を期して今日に至って」おり、上皇の離宮造営の構想にはなかった構築物であり、上皇が離宮として使用したものではない。


赤松並木の間から見える田畑
赤松並木から垣間見える買い取った田畑


 

 つまり創建当時の修学院離宮は、下御茶屋と上御茶屋という二つのゾーンとそれを結ぶ畦道から構成された構築物と庭園であった。したがって後水尾上皇との関係において離宮を語るときには、この中御茶屋をはずして評論するのが適当である。

 

その視点で上御茶屋との対比において下御茶屋の意味を問い直して見る、また下御茶屋との対比における上御茶屋の位置づけを考えて見るのも一興ではなかろうか。わたしには、幕府と相対峙した不屈の人物、後水尾上皇がさまざまな思いの中で造営に全精力を尽した修学院という離宮本来の姿が、そのことでより鮮明に浮かび上がってくるように思えるのである。

 

 

上御茶屋でいまわれわれが目にできる建屋は寿月観のみである。しかし、現在では名を残すのみであるが、創建時には最大の建物であった「彎曲閣(わんきょくかく)」や「蔵六庵(茶室)」、「御清所(台所)」とともに相応のもてなしのできる機能は整えられていたという。

 

 また宮内庁職員の案内によると、現在の離宮は周囲に境界としての垣根が厳重に設けられているが、明治に入り離宮が宮内省の所管となるまでは全周にわたる垣根は存在せず、洛北の自然と一体となったいたってのんびりとした開放的な山荘であったという。

 

 そうした話も参考に離宮のコンセプトを考えると、下御茶屋では厨房を備えた宿泊設備も整えられた彎曲閣で、はるばる洛北のはずれまで足を延ばしてくれた賓客を心ゆくまでもてなしたのではなかろうか。そして寿月観から東山の頭上にかかる名月をめでたに違いない。

 

 そして名月を堪能した翌日にでもハイキングのような感覚で、上御茶屋へと畦道を上り、隣雲亭(りんうんてい)で眼下に洛中の街並み、西方に西山の連山、その奥に突き出る愛宕山の山頂を眺めて自然の大パノラマを満喫し、雄滝の落水の音に清涼感を覚え、窮邃亭(きゅうすいてい)で乾いた喉を潤したのではなかろうか。
 


西山愛宕山を望む


隣雲亭(上御茶屋)から見る西山連峰

 

 さらに浴龍地(よくりゅうち)で船遊びに興じ、疲れては万松塢の御腰掛けでひと時の休息をとったのであろう。夕日が西山にかかる頃、大刈込みの堰堤の上に当たる西浜の小径から夕日にきらめく下御茶屋を見下ろし、その向こうに広がる洛中の街並みや西山連峰の景観を目にし、自然との一体感を全身で感じ取って、下御茶屋へと下っていったのであろう。 

浴龍池

隣雲亭からの浴龍池

 

 そう想像してみると、下御茶屋の今はない彎曲閣もふくめその造園形式は大自然との対比において、敢えてこじんまりとさせかつ人工的なものであったのではないかと考えられる。

 

 そう考えると、寿月観へ至る池を配した小さな庭園の意味がより鮮明に理解できる。

この修学院離宮は下御茶屋の人工美と上御茶屋の自然美という対比で造られたと、考えたくなるのである。畦道というなんの作為もない、しかしどこか「能舞台」に至る一の松、二の松、三の松を配した「橋懸り」のような一本道を通じ、その対極の世界を東西にしかも高低差をもたせて対置させた。貴人には40mの高低差はきつい。また上御茶屋の御成門に入ってから隣雲亭に至る小経は両脇に垣根が迫り、狭隘感を客人に抱かせる。またその急勾配が喉の渇きをいっそうつのらせたことだろう。

 

 だからこそ人ひとりの幅しかない最後の石段を登り終え、隣雲亭の縁側に腰を掛けた時、眼前に広がる大パノラマは、それまでの小経との対比においてその開放感という一点で効果は抜群であろう。また客人の頬を撫でる比叡下しの涼風は至上のもてなしに思えたことであろう。

 

 この心憎いばかりの「対比」の演出が、この修学院離宮を造営した後水尾上皇のコンセプトだったのではなかろうか。それはまた叔父にあたる八条宮智仁親王が30年程前に造営した「桂離宮」という人工美の極致との「対比」、「対抗心」でもあったのではないのか。

 

 そしてその「対比」こそが、後水尾上皇が内奥に秘めた性格、「強い執着」そのものだったのではなかろうか。

 

【2の4につづく】
後水尾上皇を巡る人物と建築物 1 にもどる


中離宮表門

中御茶屋表門

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