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六月七日、椎崎諏訪神社にて“天領佐渡両津薪能”に興じた。
佐渡には神社の境内を中心に33もの能舞台が存在し、その数は日本全体の能舞台の1/3におよんでいる(新潟文化物語・佐渡の能)という。
佐渡がこれほど能に縁の深い土地となったのには、初代佐渡奉行となった大久保長安の貢献が大きい。
佐渡金山の生産量を飛躍的に伸張させた大久保長安であるが、大和の猿楽師の息子に生まれ、必然、能の愛好家でもあった。
それゆえ長安は佐渡に春日神社を建立し、大和から常太夫と杢太夫を招き、能を奉納した。その後、二人は佐渡(相川)に留まり、土地の人に能の手ほどきをしたと伝えられている。
当初は武士の間で能が楽しまれてきたが、孤島の佐渡では支配階級の武士の人数も少なく、任期も短いなか一国天領というのびのびとした国柄もあり、徐々に庶民が能に接するようになり、神社への奉納舞としての出自を背負ったこともあり、神事として領民の生活の一部ともなっていったものと考えられる。
そうした経緯、背景から佐渡の人々にとっての“お能”は、単に受け身の観るものではなく、自らが舞い、謡(うた)い、囃(はや)す能動的なもので、まさに自らが能を演じる“演能”として育っていったのである。
能が最盛期となった幕末から明治、大正年間には、島内の能舞台は200を超えるほどの数となったということである。
現在に残っているのは33と大きく数を減らしているとはいえ、依然、日本全体の1/3の数を擁する能興行のメッカであると言ってよい。六月は週末ごと集中的に能が上演されており、週末に来島した観光客はどこかで能を鑑賞できることになっている。
6月7日(土)に“天領佐渡両津薪能”を椎崎諏訪神社で観覧した。
椎崎諏訪神社の境内にはりっぱな能舞台が常設されている。
当日は境内内といってよい場所に立地するホテルを宿泊先としていた。薪能の開演は7時半ということで、まず賀茂湖を見下ろす露天風呂で一汗流し、荷物をホテル従業員に預けて、そのまま諏訪神社におもむく。
境内には能舞台前にブルーシートが敷かれ、その後ろに椅子席が設けられていた。観覧料はひとり五百円。
われわれは地の利を活かし、一時間少し前に席を確保した。椅子席の方が足腰には楽だし、能舞台の床、つまり演者の足元もよく見えるのでよいのだが、かぶりつき(下世話な言い方で失礼)で見ることなどそうそう機会はないということで、正面の階(きざはし)の真ん前に陣取った。
どっかとシートに腰を下ろし、開演までの一時間余を拝殿での参拝、舞台の見学、薪能の開演直前の段取り等を具に観察させてもらった。
七時半に近づくと、ぞくぞくと客が集合。旅館の送迎バスも繰出すなど、この演能月間が観光客に周知されていることを知る。
時間通りに開演するも、場内アナウンスで開演直前から強まってきた風の影響で、火入れ式は行わないという。火の粉がお客に降りかかるので説明されるが、わたしをはじめ観客ははしたなくも「えぇ〜!」と、ブーイングの声を上げた。
これでは薪能のあの幽玄の空気感が整わない・・・
佐渡まで来たのに・・・と、心中、恨み節でいっぱいである。
時折、強い風が境内の巨木の枝をご〜っと鳴らすなか、いよいよ開演である。
ふと頭を上げると西の上空に上弦の月が鮮やかに見えた。
天気は大丈夫そうだ。まず、能の前に仕舞が披露される。
切戸口から舞手と地謡が入場してくると、さすがに場内は一斉に鎮まり、舞台上に目が吸いつけられる。
高校生だろうか鈴木貴江さんが天鼓を舞う。
次に、福島かおりさんが山姥を舞う。
両人ともその所作、構えと運びはりりしく、美しい。本格的に修行をされていると心から思った。
そして賀茂湖を渡る風が能舞台の演者と見所の観客を包み込むようで、一体感を感じる。
厳粛な仕舞が終わる。暗くなった境内に咳(しわぶき)のひとつもない。
そこに風がおさまってきたので、薪に火をつけるという。場内に拍手が湧く。正式な火入れ式は残念ながら省略され、待機していた巫女さんもさぞ残念であったろうと思う。
それでも、松明を手にした古風な装束の火守り役の若者が二人、篝(かがり)に火を燈す。
炎が夜風に揺れ、火の粉が飛ぶ・・・やはり、薪能はこれでなくっちゃ・・・
気分が盛り上がったところで、いよいよ能・“花月”の上演である。
“能・花月”は行方不明になった息子を探し、僧となって諸国をめぐる父(ワキ)が、都の清水寺の門前で喝食(かっしき)となった息子・花月(シテ)と再会する場面の遣り取りを描いた物語である。
出逢いを仲立ちした門前の男(間)が旅僧のために所望し、花月に恋の唄を詠わせ、弓矢の舞を舞わせる。
次いで、清水寺の縁起を曲舞で舞う、その演技は見物である。
そして、その間の遣り取りで親子と判って、花月が鞨鼓を打ち叩きながら天狗にさらわれてからの身の上話をする件(くだり)が能の最高潮の場面となる。
能舞台の灯りと白洲の篝火と月明かりのみの闇のなか、自然の風が渡る神社の境内で繰り広げられる薪能・“花月”。
東京の国立能楽堂でのいわゆる職業能、玄人による能と比較しても、一歩も引けを取らぬ出来栄えであり、質である。
もちろん、当方、能についてはズブの素人ではあるが、その全身で受け止めた“天領佐渡両津薪能”からのパルピテーション(Palpitation)は、あきらかに国立能楽堂のエアコンの効いた人工的空間で受けたインパクトとは大きく異なるものであった。
薪能が終了、演者が橋掛りから去り、切戸口に消え人影がなくなった能舞台。
まだ灯りを燈され能舞台の明るさが、四囲に押し寄せた漆黒の闇に徐々に融け込んでゆく様子は人間世界の夢うつつの境の実相を顕わしているようでもあり、つい先ほどまで仄かに残された“生”の温かみが冷酷な “死”の世界に非情にも浸み出していっているようにも感じられた。
そんな人の“生き死に”の儚(はかな)さ、老いは確実に“生命”を切り刻んでいるという冷厳な現実を胸に秘め、ホテルまでのわずかな夜道を二人で黙然として戻っていった。