ころぼっくるひゅって

景観保護と自然の営み

 

 信州霧ケ峰高原の車山肩にある「ころぼっくるひゅって」はオーナーである手塚宗求(むねやす)氏が24歳のとき(1956年)に創立した山小屋である。

ころぼっくる途中風景

看板

玄関

 

 

 

 

 

 

 ころぼっくるへ     看板     ヒュッテ入口

 

 わたしは「ころぼっくる」のオープンテラスの一番先端に位置するテーブルに陣取って熱いココアを呑むのが好きである。その席に先客があるときなどは、後ろのテーブルでじっと空くのを待って、移動するのが常である。

 

 なぜなら、前面に視界を遮るもののないそのテーブルに肘をつき、眼前に展がるなだらかな草原にぼんやり目を投じるのがとても気持ちがよいからである。そして車山肩のなだらかな稜線の上空をゆったりと流れるさまざまな姿の雲を眺めるのが、何にもまして大好きだからである。

テラスより

カップと空

テラスと草原

 

 

 

 

 

 

 

草原テラスより   ココアと空    オープンテラス

 そして、この6月はレンゲ躑躅(つつじ)の満開を是非見ようと思い立ち、「ころぼっくる」を訪れた。事前に手塚氏に電話で模様を確認し意気込んで訪ねたのだが、花の心はやはり移り気で数日早すぎた。残念!(手塚氏から「一日の気温によって開花の時期は簡単にずれてしまうため、この日というのは難しい」と云われていた)

レンゲ躑躅

蕾

ころぼっくる遠望

 

 

 

 

 

 

レンゲ躑躅     まだまだ蕾     ヒュッテ遠望

当日はテラスから草原のなかにオレンジの色取りを拾い取ることはできるのだが、ここに至る途中の標高の少し低い山肌に群生するレンゲ躑躅がかなり花を開花させていたのに比べると、まだ蕾の状態で色はややくすんで見えた。この週末あたりには多分、草原は青い空の下、上品なオレンジ色のベールを一面に装うことになるのだろう。想像するだけで、胸がすかっとする光景である。

 

 のんびりとした時を過ごした帰り際、手塚氏と少し雑談をさせていただいた。同氏は「この季節が一年で一番好きだ」という。「とくにこの時期の薄暮、テラスからひとり眺めるなだらかな高原の風景は素晴らしい」と語った。そのときの瞳は自然のなかに生きる少年の目のように澄んだ輝きを放って見えた。

 

その少年の瞳に陰りが差したのが景観保護と自然との共生の問題に話がおよんだときである。「最近、この草原地帯に森林が侵蝕してきている。それをどうするか」という問題が発生しているというのだ。地元の自然保護グループの間でもそれぞれその対応につき意見が異なり、難しい問題となっているという。

ここ霧ケ峰は八ヶ岳中信高原国定公園の中心に位置する。ニッコウキスゲなど様々な高山植物が群生するが、高地であるにもかかわらずなだらかな稜線を持つ高原とも相俟って、ここの特色ある景観を形造り、それが大きな観光資源となっている。

 

森林が侵蝕してくるとそうした高山植物の植生が荒らされ、霧が峰の美しさが損なわれてゆくことになる。また、わたしの愛するテラスからのなだらかな高原の稜線も高い木々が育つことによって、その景観のよさは失われる。現在、手塚氏のグループはその稜線については木々を刈り取るなどの景観保護に努めているという。

 

しかし、自然保護グループのなかにはすでに大きく侵蝕してきた森林をも伐採し草原の景観を旧来の姿に復すべきという考えを有するところもあり、そこまで踏み込むべきか悩ましい問題であると語られた。

 

わたしは京都の借景の名所である圓通寺を拝観した際、「洛北の地、圓通寺--失われゆく借景に自然との共生の難しさを痛感」(2008.5.18)というタイトルのブログのなかで「生活水準や生活環境の向上を図ろうとすることは、人間としてある意味当然の願いではある。しかしそれは同時に自然と共生して進められてゆくものでなければならない」と記した。借景という自然の美しさと開発をともなう人間生活の向上とのバランスをどうとってゆくのか、現実的には非常に難しい問題であると感じたところを述べた。

 

今回の「ころぼっくる」の話は、皮肉にもそれとは逆のケースに当たるのではないのかと考えさせられた。

 

人間にとって美しいと感じられる景観を守るために、自然の摂理であろう森林の侵食、つまり植生の自然な変遷を人の手によって切断、停止、捻じ曲げてしまうことの是非は如何という命題である。

 

もちろん答えはそう簡単ではないのだと思う。たぶんどっちかと云った二者択一の答えでもないのだろうと思う。では、具体的にどうしたらよいのか。

 

いまわたしは何の答も有していない。ただ、「自然の声に真摯に耳を傾け」、「自然と共生する人間の営み」とは何かを真剣に考え続けてゆくしかない。

 

便利さという文明の追求による行き過ぎた自然破壊に目を向け、地球こそ偉大な生命体であるという当然のことを再確認し、文明神話への過信を見直すべき時がやってきていることだけは確かなことであるのだから。

 

風呂敷を広げて言えば、大きな自然の摂理のなかでわれわれ人類も生の営みを継続しているのだという「当たり前」のことを見つめ直し、われわれの営みの在り方を変えてゆく必要がある。

 

それは「言うは易く、行なうは難き」、きわめて悩ましく苦痛を伴う問題である。さらにスピードアップして具体的かつ実効性のある議論をかさねる必要がある。

 

この続きは次回「ころぼっくる」に行ってから、述べることにしよう・・・。          ココア

 

大好きなココア!

 

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