5.「カンジャ」は「カンシャ」に通ず
「カンジャ」は濁点を取れば「感謝」と云う言葉になる。私は三ヶ月半の闘病生活とその後の生活の中で数多の人に出会い様々な人生に触れた。その貴重な経験の中で濁点のひとつ位は取れた気がする。従って現在、感謝と云う澄みきった心までは到達していないが、患いのおかげで人生の豊かさを少しは手にした気になっている。病後五年が経ち、強がりでもなく素直にそう思える。
私はたまたま運がよく日常生活もそう不自由なく過ごすことができる。もちろん、昔のように駆けることは出来ないし、高い場所の本を脚立に昇って取るのも難しい。しかし、ゆっくりと流れる時間の素晴らしさを知ったし、見知らぬ人に声を掛け手伝いをお願いする小さな勇気も持った。人は病に罹り初めて健康のありがたみを知るとはよくいわれるが、自分は己の内面とじっくり向き合い、家族や人生にとり大切なものは一体何かをしっかり考えることができた。そして、今まで見えていたものとは異なる風景がいとおしく感じられるようになった。視点というか、光源が変わるとこれ程までに目にする映像が異なるものかとびっくりする。
これから残り一つの濁点を取るためにも、自分はこの病に罹る人のために少しでも役立ちたいと願っている。入院中もリハビリの終わった後の時間に主治医の研究の手伝いをさせてもらった。微弱電流を流し筋肉の反応を見るような実験だ。何の負担も感じない簡単な作業である。先生の話では、いつもは患者の協力が得られないので、研究者が自らの手足を紐で縛って擬似麻痺を起こし数値分析を行うのだという。身近にれっきとした患者がいるのにである。人それぞれ病に対する思いは複雑であろう。しかし、生きることを許されたからには、前を向いて価値のある生き方をしたい。これから患者になる人々のために、微力でも協力できることがあれば手助けをしていきたい。そして、そのことで最後の濁点が消えた時、初めて、私は患ったことで自分の心の中に「感謝」の二文字を深く刻み込めるのだと思う。
パレットに風の色置く春日かな
この駄句を披露し、今日私にこうした穏やかな日々を与えてくださった医療関係の方々をはじめ応援してくださった多くの人々に心より感謝の念を伝え、この連載の最後としたい。
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