「ドミニカ棄民政策に見る日本国政府の本質」
「ドミニカ移民訴訟」にいて、6月7日、東京地裁の金井康雄裁判長は「国は農地を備えた移住先の確保に配慮する義務があった」と国の責任を認定したものの、20年の除斥期間【(一定期間内に権利を行使しないと消滅する)という考えにもとづき権利を制限する制度。民法724条が根拠】が経過したことにより、原告の賠償請求権は消滅したとして、原告側の請求を棄却した。
最終意見陳述で原告団団長の嶽釜徹(67)(たけがまとおる)さんは「国側は時効を主張しているが、消えてしまったのは政府の良心と罪の意識。入植以来四十九年間に受けた移住者の苦しみや心の傷に時効はありません」と述べていた。
そして、一審判決を前にして、同氏は次のように語った。
「自分の祖国を訴えるのは、我が身を切るよりつらいこと」と。
この言葉を今の日本国民はどう受け止めるのか。教育基本法改正案で、正に「愛国心」という言葉の字面や、愛国心を教育現場で評価する動きなどが議論されているなかでの発言であった。わたしは、嶽釜(たけがま)氏の言葉は、現在国会で議論されているどんな言葉よりも重い言葉だと感じた。「国を慕う素直な感情」が切々とわたしの胸を打ち、そして、その国を訴えざるを得ない身を切られるような痛切な心情に言葉を失した。
そして昨日の敗訴である。
それを受けて、同氏は記者会見の席上で沈痛な面持ちで、次のような悲痛な言葉を吐いた。「われわれは国の棄民」「祖国とは一体、何なのか」と、搾り出すようにして口にしたこの言葉を、われわれは極めて重く受け止めねばならぬ。さらに、「苦しみに時効はない。不当だ」として、原告は直ちに控訴するとのことだが、当然のことである。
片方で、国会では継続審議が確実視されている「教育基本法改正案」が審議中である。そのなかでの「我が国と郷土を愛する態度を養う」というお題目が、何と空々しく響くことか。政治が「祖国に捨てられた国民」を救わぬ国家を誰が愛するというのか。有言実行とは、こうした時に使用されるべき言葉であろう。ドミニカ移民の方々のあの苦渋に満ちた表情を目にし、国に捨てられた50年におよぶ想像を絶する苦難に満ちた人生に思いを致すとき、わたしは、この国、いやこの国の大半の人たち(勿論、わたしも)は同胞の苦境に目を向けることなく、やれ高度成長だ、やれバブルだ、そして、やれファンドだと、あまりに安寧の惰眠をむさぼってこなかったか。
嶽釜徹氏以下、原告団およびドミニカ共和国で故国を偲びながら亡くなった方々に対し、われわれは、一体、どういった形で償いをしたら良いのか・・・。ただ、言葉を綴るだけでは到底、何の意味もなさないと思いながら・・・、もうこれ以上文章を書き続けることが出来ない。