北京五輪野球、星野仙一監督には言われたくない
冷静さを欠く彦左衛門(`ε´)ムカー
野球日本代表の闘将星野仙一監督は北京五輪の野球競技において4勝5敗でメダルを逸した直後、「敗軍の将、兵を語らず」で、ただひと言「申し訳ない」と述べ、闘将としての「男らしさ」を演じてみせた。
しかし、そのあとの記者との談話のなかで「日本はすぐにたたきにかかる。そんなことをしたら若い人が夢を語れなくなる。たたくのは時間が止まってる人間だろう」と語った(8月25日付け日刊スポーツ)ということを知り、そうならば批判せねばならぬと筆を執った。
いま星野野球を批判している日本人は、銅メダルに手が届かなかった結果もさることながら、それ以上に日本チームの試合内容の不甲斐無さに憤りを覚えているのではないのだろうか。ここでわたしも別にメダルを取れなかった結果に対して批判などするつもりはない。
闘将星野氏は戦前7月、日本で五輪の場では「野球の存在感を示したい」、「とにかく、一番輝くものを狙っていく」と語った。そしてキューバ戦前日の8月12日、現地ジャパンハウスで行われた記者会見で「とりあえずは北京が(メダルがとれる正式競技として)最後になる。そこに新たにわれわれの歴史を刻む」と胸を張り、語ってみせたものである。
また同監督は3か月前の4月26日、長野市で行なわれた聖火リレーで第1走者という、晴れ舞台での大役を務めたこともわれわれの記憶に新しい。五輪開幕前、野球競技については選手ではなく星野監督が頭抜けて脚光を浴びていたと言ってよい。
そうした諸々の前段の事象を踏まえての「批判」について、星野仙一氏は「日本はすぐにたたきにかかる。そんなことをしたら若い人が夢を語れなくなる。たたくのは時間が止まってる人間だろう」と開き直ってみせた。
わたしは、若い人が夢を語り、その夢に挑戦し、その結果、首尾がうまくなかったとしても、決して「批判」などしないし、ましてや「すぐにたたきにかかる」ことなどしない。その挑戦に至る努力や姿勢、戦う真摯な姿を見て、「たたいたり」「批判」する人は、逆に少ないのではないかとさえ思う。
星野氏が「日本はすぐにたたきにかかる」と日本人を批評すること自体、同氏自身にそもそも監督として必要な最低限の要素である分析力や評価力という能力が欠如していることの証なのではないのかとすら考えてしまう。
そうした監督がプロ野球選手で固めたオールジャパンを率いて行った試合が、あの試合内容なのである。あの試合内容のどこに、われわれは「日本野球の存在感」を認めたらよいのか、どのシーンが「新たにわれわれの歴史を刻む」ことだったのか、これについて監督としての戦略や戦術がどうであって、どう相手戦力の分析なり、相手選手の評価があったのか。それをまず聞きたいのである。どう贔屓目(ひいきめ)に見ても星野監督が戦前に胸を張って述べた抽象的言葉と、生まれ出た結果・事実とは大きく乖離(かいり)があったとしか言いようがないのである。どうしてこんな不甲斐無い仕儀となったのかを、それこそ潔(いさぎよ)く説明してもらいたいものである。
帰国後の25日には、同監督はあえて?報道番組「NEWS ZERO」(日本テレビ)に出演した。そのなかで、「逃げの言葉は嫌い」、「私は男の子ですからバッシングなれてますから」と語り、また金メダルを取りに行くと言ったことに対しては、「参加することに意義あるとか、勝負師としていえない」。そして、「日本は野球先進国ですから、国際試合には違和感が生まれる」と敗れたことの言い訳ともとれる発言もあった。試合内容が「日本の存在感」を示すことや「歴史に刻む」こととはほど遠い不甲斐無い仕儀となったことについて勝負師の口からは一切、説明の言葉はなかった。時折?出てくる選手への責任転嫁の言葉に、星野仙一という人物の矮小さを見るのみであった。
「強いものが勝つんじゃなくて、勝ったものが強いんだと感じた大会だった」と、勝負の世界で生きてきたはずの男が、今更、「感じた」などと何ら恥ずることなく言い切った。あきれるばかりである。
「ファンに期待をもたせた。でもそれを裏切ったわけだし、それを受けるのはオレ1人だ。こんな幸せなことはない」とも言った。番組中で、悪いのはオレじゃないと陰に陽に語っていたのに、バッシングを受けるのは「オレ一人だ」という脳内構造!おめでたいばかりである。
そんな「あきれるばかり」の「おめでたいばかり」の人物、しかも分析力や評価能力に欠けているとしか思えぬ試合運びを続けた人物から、「たたくのは時間が止まってる人間だろう」などと、「日本人」であるわたしは一切、言われる筋合いはない。
冗談じゃなく、五輪ソフトボールチームの斉藤春香監督や上野由岐子投手の爪の垢でも煎じて飲ませてもらったらよい。
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