揺らぐ「シビリアンコントロールへの信頼」
国会ではテロ特措法延長に代わる給油・給水新法問題で与野党の鍔(つば)迫り合いが続いている。そうした政治情勢のなかでつい先日まで防衛省の天皇とまで呼ばれていた守屋武昌前次官と防衛関係商社山田洋行との癒着疑惑が浮上してきた。
また一方で、03年2月、海上自衛隊の補給艦が米補給艦に行った給油量についての数字未訂正、隠蔽問題が発覚した。当時、海上幕僚監部が石破茂防衛庁長官(当時)ら政府に報告していた給油量の数字が、当初報告の20万ガロンではなく80万ガロンであったことを幕僚監部は03年時点から気がついていたにも拘わらず、訂正することなく隠蔽(いんぺい)していたとするものである。この20万ガロンという数字は当時の政治情勢のなかで、福田官房長官(当時)や石破防衛庁長官(同)が補給量の少なさからイラン戦争には使用されるはずがないと答弁する根拠となった政治的意味合いを持つ重要な数字であった。
こうした防衛省の不祥事を受けて、この国の文民統制いわゆるシビリアンコントロールという仕組みに重大な亀裂が生じていたことに正直、驚きを隠せないとともに深い憂慮の念を抱かざるをえない。わが国では先の大戦の反省を踏まえ、兵器を装備する自衛隊に対し「文民統制」という形で、将来の自衛隊の暴走ひいては軍事優先という事態を抑止する仕組みをシステムとして組み込んでいる。つまりその予算や人事権さらには国防といった軍事行動の究極的な命令権を国民の代表である政治家すなわち時の政府や議会にゆだねることで、制度により軍事優先を阻止しさせ民主主義を維持させる担保としている。
そうした民主主義体制のひとつの大切な生命維持装置でもある仕組みに、この長い平和が続いたことで弛みが発生し、そして亀裂が生じてきているのである。今回発生している二つの問題はシビリアンコントロールという仕組みも、その現場の手足たる事務官が強い使命感と緊張感を持って業務を遂行しなければ、必要なときに何ら文民統制という仕組みが機能しないことをいみじくも教えてくれたと言ってよい。また今回発覚した補給量の過少報告のように制服組の情報隠蔽を容易に許すこと自体(現段階では事務次官ら事務官は当時知らなかったことになっている)、すでにシビリアンコントロールがその制度の末端において機能していないことを明らかにしたとも言える。事務官がまったくその事実に気づいていないとすれば、これまでの意思決定プロセスや決裁プロセスさらにはレポーティングラインなど文民の手足である現場の事務官のチェック組織が何ら機能していなかったと言わざるを得ない。そして政府ならびに議会に正確な情報を迅速に伝えることのできぬ、いわば「ザルのシビリアンコントロール」であったと言うしかない。防衛事務次官が業者とゴルフに呆けていることを単に叩けばよいといったのんきな状況ではないのである。
自衛隊という軍隊が恣意的に情報を操り、国政に対し意図的に誤った情報を流すという重大な違反行為をなしたとすれば、その罪はきわめて大きい。さらにそれを許した文民政治家ならびにその手足たる防衛省の背広組(事務官)の責任はそれ以上に大きいと言うべきである。
先の大戦で関東軍が暴走を始めたときにちゃんとした情報が中央に入っておれば、また歴史は違っていたのかも知れぬと考えることがある。しかし今日のシビリアンコントロールという制度のなかで文民たる政治家および政府に正確な情報が伝えられない限り、文民統制とは名前ばかりの単なる画餅に過ぎず、自衛隊の暴走を止める安全装置が存在していると過信することがかえって取り返しのつかぬ事態を招来する可能性がある。今回の防衛省の不祥事から、シビリアンコントロールという制度があればそれで安心ということではなく、逆に国民にその制度が十分機能していると錯覚させることで、この国が後戻りできぬ状況のところまで行ってしまうことの怖さをわれわれはよく学び取っておかなければならない。
22日、防衛省は石破防衛相を中心として、シビリアンコントロールを担保するための検討機関を設置することを決めたと発表した。揺らぐ「シビリアンコントロールへの信頼」を取り戻す実効性ある機関となるか否か、われわれ国民はじっくりとその成り行きを見極めていかねばならない。