彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

歴史・文化・芸術

細川奈津子さんのヴァイオリン・リサイタルの夜を愉しみました

細川奈津子リサイタル
細川奈津子ヴァイオリンリサイタル・パンフレット表紙

奈津ちゃんに初めて会ったのは約3年前の2009826日である。山中恵介氏(ピアニスト山中和子氏の御主人)の信州黒姫のお宅での恒例のホームコンサートの場であった。


2009年のホームコンサートでの細川奈津子さん
2009年8月の信州黒姫のホームコンサートでの奈津ちゃん

当時、ウィーン国立音楽大学に留学中の奈津ちゃんが夏休みで地元である黒姫に帰郷しており、山中和子氏の誘いで、ホームコンサートに顔を出してくれたのである。


その時は、“タイスの瞑想曲”や浅田真央ちゃんのスケーティング曲であまりにも有名となった“チャルダッシュ”が聴けてうれしかったのと同時に、まだ愛らしい女の子、学生さんという印象を受けたものである。


そして昨年の8月、4年間留学していたウィーン国立音楽大学の第二ディプロマを最高位の成績で取得し帰国したばかりの奈津ちゃんに、また黒姫のホームコンサートで会うこととなった。


黒姫ホームコンサートでの細川奈津子氏
2011年8月の黒姫での圧巻のチゴイネルワイゼン

その夜、彼女の激情的なチゴイネルワイゼンを聴いた時、ほんの二年前、ここに立っていたあの愛らしい女の子とはまったく別人の、ひとりの音楽家がわたしの目の前で演奏してくれていると震えるような感動を味わったのである。まさに、夏の夜の夢を見せてくれた奈津ちゃんであった。


ディナー会場での即興演奏
黒姫ではディナー後にこうして自由な演奏をやってくれるのが楽しみ・・・

それから約1年。今回は東京の代々木上原の“MUSICASA(ムジカーザ)”(渋谷区西原3丁目33)で、“細川奈津子ヴァイオリンリサイタル”が開催された。こじんまりとしたホールであるが、音楽をこよなく愛する人々が集うのには格好の肩の凝らぬお洒落な空間である。


代々木上原・ムジカーザ
”MUSICASA(ムジカーサ・音楽の家の意)”

演目は以下の通りであった。


当夜の演目
当夜の演目

モーツアルトとブラームスの曲目が終ったところで、休憩となった。その20分間の休憩時間に聴衆には簡単なオードブルとワインが供される。以前の山中和子さん(今回のピアノ伴奏)のコンサートでもワインがふるまわれたが、この形式はクラシックが肩肘張った小難しい教養といったものをひけらかす小道具などではなく、人間の日常生活の潤いのためにあることを改めて認識させるもので、素晴らしいアイデアであると前回、感心したところであった。


ワインお変わり自由
個々人がワインをカウンターに取りにゆきます
休憩時間にワインとオードブル
写真を撮るため、ちょっと椅子の上に置きました。もちろん、立って歓談しながら呑むんですよ

その愉しい休憩時間をおいしいワイン(二杯もお代わりしてしまったなぁ・・・)と、仲間との楽しい語らいで過ごし、リサイタルは後半の部へと入っていった。


ムジカーザ
こじんまりした空間です。私の席から撮りました

そして最初のクライスラーの小品“前奏曲とアレグロ”で、わたしはまたまた奈津ちゃん、いや、もう細川奈津子氏と呼ばねばならぬ、成長著しい音楽家の勢いというものを感じ、また感動したのである。


細川奈津子・山中和子略歴
細川奈津子・山中和子氏のプロフィール

クライスラーの曲もそうだが、最後の曲となったラフマニノフの“二つのサロン風小品作品6”においても、あの童女のような愛らしい顔とは正反対の内面に蔵する迸る情感を見事に空間に解き放つ見事な演奏であった。


細川奈津子さん
終演後に出口でお客様を笑顔で送ってくれました

内面に秘する激情を弾きこなす細川奈津子、今後のさらなる成長が楽しみである。

 

 

東京国立博物館140周年特別展『ボストン美術館・日本美術の至宝』は6月10日まで

文化の香り高い上野で鰻(うなぎ)の“亀屋・一睡亭”=上野・不忍池グルメ

上野の東京国立博物館・平成館において、現在、東京国立博物館の創設140周年を記念して、特別展『ボストン美術館・日本美術の至宝』が催されている。

ボストン美術館・日本美術の至宝
6月10日まで”ボストン美術館・日本美術の至宝”特別展を開催中

10万点を超える東洋の文化財のコレクションを誇り、“東洋美術の殿堂”とも称されるアメリカのボストン美術館が収蔵する日本美術の傑作92点が里帰りしてのお披露目ということになる。

国立博物館
国立博物館

展示された作品は仏像や曼荼羅などの仏画や平治物語や吉備大臣入唐を描いた大作絵巻、それに中世水墨画から近世絵画にいたるまでの傑作が一堂に展示されており、見応えのある特別展となっている。

平成館
特別展が開かれている平成館

なかでも特に印象に残ったのは、やはり今回の目玉の一つである曽我蕭白(そがしょうはく)の迫力ある“雲龍図”であった。

曽我蕭白・雲龍図
曽我蕭白の雲龍図(当館販売絵葉書より)

この雲龍図は、そもそも何枚もの襖絵に描かれていた雲龍図を襖から剥がし、いわゆる“めくり”の状態でボストン美術館で保存されていた。

しかし、1911年に同美術館で収蔵した時の状態はすでに絵具の剥離も多く、紙の損傷・劣化も進んでおり、お世辞にも保存状態がよいとは言えなかったとのこと。

6年前からその修復に取り組み、この度、りっぱな一幅の大画布に貼り直され、今回、世界で初めての公開となったものである。そして、このようにしてわれわれの目に触れることとなった。

ただ、この雲龍図をじっくり見ると分かるが、胴体部分の幾枚かの襖絵が抜け落ちている。その寸詰まりの姿が今にも飛びかかって来るような緊張感を醸し出し、かえって龍の迫力を増しているようにわたしには思えたから不思議だ。

胴体部分の襖絵は行方不明のままで、今もってその存在は不明とのこと。

長谷川等伯・龍虎図屏風
長谷川等伯の龍虎図屏風の龍(当館販売絵葉書より)

その曽我蕭白の雲龍図へ行きつく前に、長谷川等伯の“龍虎図屏風” がある。拝観者は最初にこの等伯の龍を目にすることになり、みんなそこでその筆の巧みさに「ほ〜っ」と感嘆の声を挙げるわけだが、ちょっと先に進み、蕭白の豪壮な“雲龍図”にぶつかり、頭を殴打されたように一瞬、息を呑むことになる。

それほどにその跳びかからんばかりの躍動感と龍の眼力に圧倒されるのである。

京都の相国寺の法堂天井の描かれた“蟠龍図(ばんりゅうず)”や妙心寺や東福寺の法堂天井から見下ろす“雲龍図”も、その堂内の薄暗さや森閑とした静寂さのなかで、ある霊感をともなう迫力を覚えたものだが、曽我蕭白の雲龍図には龍の荒い息遣いをそれこそすぐ身近に感じたのである。まさに雲龍図の傑作といってよい。

また、東大寺法華堂に飾られていた“根本曼荼羅図”にはちょっと複雑な気持ちを持った。まさに国宝級の文化財がどういう経緯か分からぬが、遠く海を渡り他国で収蔵されていることに、多分、時代の混乱の中でそうなったのだと納得しようとするのだが、国力のなさ故か痩せ細った精神故か、何しろ寂しくも哀しい、やるせない気持ちになったものである。

吉備大臣入唐絵巻
吉備大臣入唐絵巻(当館販売絵葉書より)
平治物語絵巻・三条殿夜討巻
平治物語絵巻・三条殿夜討の巻(当館販売絵葉書より)

また、24mにもおよぶ吉備大臣入唐絵巻を一挙に目に出来ることも驚きであった。平治物語絵巻もそうであったが、その保存状態は良く、平安・鎌倉時代の鮮やかな色遣いが美しく、見事であった。

弥勒菩薩立像
弥勒菩薩立像(当館販売絵葉書より)

快慶作の弥勒菩薩立像も、飛鳥白鳳時代の広隆寺・弥勒菩薩半跏像とは異なり、日本文化がその独自性を確立してゆく鎌倉時代という時代背景を想わせるどっしりとした安定感と快慶ならではの気品も窺わせる傑作であった。 


このほかにもまだまだ素晴らしい作品があるので、“百聞は一見に如かず”である。ぜひ、国立博物館へ足を運ばれることをお薦めする。東京国立博物館は610日までの公開である。わたしももう一度足を運ぼうと思っている。


また、その他の地域は以下の通りの公開予定となっている。

2012320()610() 東京国立博物館

2012623()917(月・祝) 2012929()129() 名古屋ボストン美術館

201311(火・祝)317()(予定)  九州国立博物館

201342()2013616()(予定) 大阪市立美術館

「鬼は外、福は内!!」、2月3日は節分でした

節分
お不動さんで買ってきた炒り豆

“節分”は読んで字のごとく季節の分かれ目のことであり、四季それぞれの分かれ目を“節分”と呼ぶのだろうが、いま節分といえば立春前日の23日を一般的にはいうようだ。


今年の立夏は55日の子供の日であるが、ということは次の節分は54日となるが、ゴールデン・ウィークの真っ只中に「鬼は外、福は内」をやったとすると、多分、ご近所の人は、「あの家は何をまた季節外れの無教養なご家庭か」と、笑われてしまうのだろう。


わたしも、やはり「鬼は外、福は内」は、窓を開け、冷たい北風が室内に吹き込むなかで、口早に「鬼は外!福は内」と言いながら窓を閉めるのが、一番、季節感があってよいと思う。  

鬼はそと〜!!

結婚して初めの頃は、玄関脇に柊の枝とイワシの頭を突き差す風習をまねていたが、毎年、翌朝になると野良猫がイワシを食い散らかし玄関先が汚れるので、3、4年でそれは止めてしまった。

 


「あの柊はどうしていたの」と、今回、家内に問うたところ、昔は節分が近づくとお店に鰯と柊の枝がセットで売っていたが、最近は目にしないとのこと。

 


そう言えば、この頃は恵方巻とかいう関西の風習とやらで、節分が近づくとチラシで巻き寿司の写真をよく目にしたりするが、何かバレンタインチョコがチョコレート企業の陰謀であったように、鰯の生臭さとは異なるスーパーなどの“売らんかな”魂胆の胡散臭さを感じ、うちではその“恵方巻かじり”はやっていないし、やる気もさらさらない。


ただ、こうやってグダグダ書いていて、なかなか宝くじが当らないのも、「鬼は外」は、結構大きな声で威勢よく豆を撒くのに対し、「福は内」は後の始末が大変でないように控えめな声で炒り豆を室内に撒くのが一因なのではないかと・・・、いま、気づいたところである。

あまり散らからぬように「福はうち〜!」と撒くの結構、難しいんだよな・・・

節分が終ってなるほどと合点した。これを“後の祭り”というのだろう。来年こそは大声で「福は内」も叫び、遠慮なく福を呼び込み、宝くじを当てようと誓った今日である。ただ、「買わなければ当らないのよ」と、いつも家内に言われる通り、まずは、購入することを忘れないようにしなければとも、思っているところであります。


冗談はともあれ、インフルエンザが流行しているとか、くれぐれも皆さま、今年も健康に留意され元気に過ごされんことをお祈りいたし、節分の記とさせていただきます。

2012年も七草粥で無病息災を祈りました

七草粥を食べて無病息災を願いました(2011.1.8)
七草粥(2010.1.8)

春の七草、せり、なずな、ごぎょう、はこべら、仏の座、すずな、すずしろ、すらすらと言えました。
 

七草粥

因みに秋の七草は、おみなえし、おばな、ききょう、なでしこ、ふじばかま、くず、はぎ、の7種です。秋に七草粥って食べないねと不用意に口をすべらしたところ、間髪いれずに「食用ではないので、粥で食べることはしません」と、家内に突っ込まれました。


でも、葛(くず)は食べられるよねと言い返したところ、「七種そろって七草粥でしょ」と、また切り返されました。 

水餃子鍋

今年は七草粥より、土鍋に大きく盛られた水餃子鍋の方が目立ち、こんなことで正月に痛めつけた胃袋が果たして休まるのだろうかと小さな疑念がちらりと頭をかすめましたが、また何か言って切り返されるのも癪なので、「おいしいね」とひと言つぶやき、七草粥を口に入れました。


厳しい冬を迎えてもまだ復旧もままならぬ東北の被災地の方々を思うと、そんな“おちゃらけ”が言える小さな幸せを本当にかみしめ、これからも家族仲良く生きてゆかなければと思っています。

 

 

わが家のおせち料理

わが家のおせち料理を紹介しよう。

正月飾りの膳
取り皿を兼ねた祝い膳

わが家のおせちは三段重と取り皿を兼ねての祝い膳がついている。

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一の重
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二の重
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三の重
そして、これは家内が持ち込んだ文化であるが、わが家では元旦は関東風のお雑煮が供されるが、二日目以降は、白味噌仕立ての餡餅入り雑煮となる。
関東風雑煮
元旦の関東風雑煮
結婚当初の数年間は、二日目以降に来られるお客が餡餅入りの雑煮を食べて、目を白黒させるのを見るのが楽しみで、お正月のひとつの風物詩にもなった。
餡入り雑煮
二日目の白味噌仕立て餡入り雑煮
しかし、銀婚式(25年)、さらに真珠婚(30年)も過ぎ、珊瑚婚(35年)も間近となると、みなさん、もうわが家の餡入り雑煮に驚く人はいなくなり、元旦に来られる人の中に、掟破りの餡入り雑煮を所望する人まで出て来ているのが実態である。
白味噌の中に餡餅が
白味噌の中に餡入り丸餅が見える・・・
白味噌仕立ての餡入り雑煮は、四国は讃岐の名物というか、伝統的雑煮である。
結婚当初、「何だこれは!」と叫んでいたわたしも、正月二日のお雑煮がいつの間にか楽しみになっていることに気づき、われわれ夫婦のうえに長い月日が静かに流れて来たことを実感するのである。

あと、正月のお屠蘇(とそ)であるが、父が存命の頃は大晦日にお屠蘇を用意するのが父の仕事であった。まだ若かったわたしは、日本酒に砂糖に味醂・・・と何だかいろいろと調合し、その中に屠蘇散をつけるそんな父の姿を、まぁ、ご苦労なこったなんて横目で見るだけで、どちらかというと冷ややかに見ていた気がする。

2010_01072010年正月の光景0212
いまは味醂に屠蘇散をつけ込んだだけのお屠蘇・・・、反省してます・・・
父がいなくなり、今度は自分の役割となったが、一年目に日本酒、味醂、砂糖を適当に混ぜ、正月を迎え、家族に「これ、何?」と言われて以来、味醂に屠蘇散のパックを一日つけた簡便お屠蘇で正月を迎えるようになった。味は味醂の甘味が効いておいしいのだが、父の造った屠蘇散の香りがよくきいたお屠蘇とは明らかに別物である。

父の享年に自分の年が近づくにつれ、そろそろ本物のわが家のお屠蘇造りに励まねばならぬと考え始めている。

2011年”長崎くんち” もってこおい!=(上)---コッコデショ・御座船奉納踊

秋の好日、“長崎くんち”の粋と鯔背を満喫した。

本古川町・御座船
本古川町・御座船 ”寸止め”に挑む
“長崎くんち”は毎年10月の7日〜9日の三日間、長崎の産土神である諏訪神社(長崎市上西山町)でおこなわれる秋の例大祭である。昭和54年に国の重要無形文化財に指定されている約400年の歴史を有す祭りである。

くんちの冊子

今年は三連休と重なったうえ、好天にも恵まれ、さらに人気の出し物もあったことから昨年を4万5千人上回る約25万人の人出を記録した(長崎署調べ)。


7日(マエビ)当日、午前5時の“遷御斎行”の煙火打ち上げ花火を夢うつつのなかで聴いたわたしも、日頃になく5時半過ぎには起床し、家族にせっつかれながら朝の準備をすませ“お諏訪さま”へと急いだ。

踊馬場・満員の桟敷席
最初から最後まで満員の桟敷席でした

開始30分ほど前に諏訪神社前に到着したが、観覧客がぞくぞくと階段を登っている。遠くに見える長坂の階段席はすでに人でいっぱいである。

踊馬場の長坂はすでに人でビッシリ

くんち運営の世話をする“年番町(ネンバンチョウ)”の人たちが踊馬場の桟敷席(4名一桝)への誘導をテキパキと行なう。われわれの桟敷は中段ほどのところにあった。馬場の一番手前奥が見づらくはあったが、超・入手困難な今年の桟敷席、感謝!感謝である〔長崎の叔母の強力(キョウリョクじゃないよ、ゴウリキと読む)でGet!〕。 後日(アトビ)の9日にはアノ小泉純一郎元首相も観覧に訪れていたが、彼は最前列の席で、まぁ、見やすかっただろうなぁと、どこまでこの男はわたしの神経を逆撫でするのだろうと、つまらぬことを思ったものである。

ともあれ、その桟敷から“平成23年の長崎くんち”の初の“奉納踊り”を観覧する栄に浴したのだから、結構と云わねば罰が当たるというもの。そして、午前7時、“奉納踊りの開始”を知らせる花火が「ド〜ン!」と秋空に轟き、いよいよ本場所がスタートした。


今年の踊町(オドッチョウ)は紺屋町・出島町・東古川町・小川町・本古川町・大黒町・樺島町の7ヶ町である。


踊町について、「長崎くんち ミニ事典」(長崎伝統芸能振興会)は、「その年に奉納踊を披露する当番の町を踊町という。現在、長崎市内に全部で59カ町存在し、7つの組に分けられている。当番は7年に一度回ってくる。」と説明している。「寛文12年(1672年) 町の数が77ヶ町に増えたので、11ヶ町づつ7年廻りとなり、近年までこの組み合わせが続く」(くんち塾フォーラムより)とあり、この7年巡りの方式を崩すことなく340年もの間、その踊町の役回りを継承してきた長崎の人々に深い敬意を表するところである。


さて、2011年の演し物(ダシモノ)だが、踊り、曳き物、担ぎ物があり、それが諏訪神社の神前で各町趣向を凝らし、順次、奉納されてゆく。以下に踊番組順に紹介するとしよう。


踊馬場にまず傘鉾が登場する。重さが百数十キロもする“傘鉾”は、必ずひとりの“傘鉾持ち”が担がなければならず、踊町の行列の常に先頭に立ち、何人(ナンビト)もその前へ出ることは許されないという。“傘鉾”は各町毎一基所有するが、町標、いわば江戸の町火消しの纏(マトイ)のような意味合いを持つものであるが、それぞれ飾り付けに趣向が施され、その町の歴史や特色が見てとれて興味深い。


この傘鉾は次に出て来る華やかな“演し物”の前に登場するわけだが、演し物の先触れということではなく、馬場をぐるりと回ったり一か所でクルクル回転したりすることが神様への“傘鉾の奉納”として位置づけられている。したがって、紋付き袴姿の踊町の会長以下役員も傘鉾のうしろに続き入場し、くんち独特の山高帽も神前であるため脱いで登場することとなる。


傘鉾奉納の後に、今度は“先曳き”と呼ばれる子供たちが親に付き添われて時計回りに入場するが、婦人方は神前であるためやはり日よけ傘を閉じて登場する。“ハレの日”に子供の衣装、母親たちの着物姿がこの上なく美しい。


そしてその人たちが退場し、いよいよ“奉納踊”すなわち“演し物”が登場する。演し物は、踊り、曳き物、担ぎ物などに分類されるが、“長崎くんち”が、「遊女高尾・音羽の両人が神前に謡曲小舞を奉納(1634年)」したことを嚆矢(コウシ)とすることから奉納踊が主体の祭りであった事は想像に難くない。


人気の高い担ぎ物の“コッコデショ”(樺島町)も寛政11年(1799)に初登場し、その歴史は212年ということになり、“くんち”の歴史の半分ほどの期間でしかない。


さて、付け焼刃の講釈はほどほどにして、早速、写真で2011年の踊町の“演し物”をお見せしよう。


第一番 紺屋町:傘鉾・本踊

傘鉾
紺屋町・本踊
本踊・稔秋染耀千種彩(ミノルアキソメテカガヤクチグサノイロドリ)

第二番 出島町:傘鉾・阿蘭陀船

傘鉾
長崎くんち・出島町阿蘭陀船
阿蘭陀船を回す
阿蘭陀船

第三番 東古川町:傘鉾・川船

傘鉾
東古川町・川船網打ち
菊池在真君の見事な網打ち
東古川町・川船
川船を曳く

第四番 小川町:傘鉾・唐子獅子踊

傘鉾(トイレに行っていたので、写真は市役所通りの傘鉾行列のもの。小川町の皆さん、スミマセン・・)
小川町・唐子獅子踊
肩車した唐子獅子踊

第五番 本古川町:傘鉾・御座船

傘鉾
本古川町・御座船
御座船
囃子
本古川町・御座船
挑む、鬼の形相
本古川町・御座船
男の美学、ここにあり!!
御座船・寸止めへ挑む
いざ!!寸止めに挑む
御座船を回す

第六番 大黒町:傘鉾・本踊・唐人船


傘鉾
大黒町先曳き・親子で”ハレ”の衣装
大黒町唐人船
唐人船
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本踊・うかれ唐人
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長崎ならではの異国情緒豊かな装束

第七番 樺島町:傘鉾・太鼓山〜コッコデショ


傘鉾
コッコデショの登場
この少年の反り返りにまず度肝を抜かれる
樺島町・太鼓山コッコデショ
颯爽と登場した太鼓山
コッコデショ・天空舞
これが噂の天空舞である
コッコデショ・見事に片手支え
ピタリと片手止め、お見事!!

太鼓山が廻る
もってこ〜い! もってこい!
よ〜し、戻ってきたぞ
もう一回、キバレ!
もう一回、キバレ!!
コッコデショ・見事な天空舞
天空舞、太鼓山は空高く、すばらしい
コッコデショ・見事に止めた
ピタリと止めた
片手止めが決まり、子供たちが一斉に反り返る、綺麗だ!
さぁ、最後だ・・・階段へ向かってゆく
7年後に会いましょう!!

午前7時に始まった2011年の踊馬場での奉納踊は、興奮と歓声の中で午前1047分に無事終了した。


今年は7年ぶりに“コッコデショ”が登場するということで、前評判も例年に増し高かったというが、もちろん樺島町の“コッコデショ”は豪快で恰好よかったが、紺屋町や大黒町の本踊での名取衆や芸妓衆の華麗な舞姿、そして石畳にじかに坐って唄い、爪弾く地方衆の背筋の伸びたたたずまいは殊のほか粋で姿良いものであった。


また、出島町の阿蘭陀船や大黒町の唐人船も豪快かつ華麗であった。東古川町の川船と少年の網打ちの姿はキリリとして美しかった。小川町の唐子獅子踊は肩車というサプライズもあり、その軽妙な動きとあわせて新鮮な驚きを覚えたのか会場は大いに沸いた。


最後に、わたしが最も感激したのは本古川町の御座船である。青々とした坊主頭に波濤をあしらった真青の衣装。そして長采の田代英樹氏をめがけて20人の根曳衆が“寸止め”に挑む。その瞬間の男の気迫ある形相は、わたしの脳漿を完璧なまでにしびれさせた。


これこそ、“男の美学”と、唸ったものである。


また、来年も“おくんち”にコンバ!!と、かたく心に誓ったわたしであった。

落ち込んだときには、岡本太郎絶賛の“万治の石仏”にお参りしてみたら

かねて一度は訪ねて見たいねと言いつつ、行けなかった“万治の石仏”にようやく会うことができた。「南無阿弥陀仏万治3111日願主明誉浄光・心誉廣春」と胴体向かって左下に刻まれていることから、万治3年(1660)に明誉浄光と心誉廣春二人の祈願によって造られたものであることが分かる。そこで、この石仏を「万治の石仏」と呼ぶようになり、この地に「下諏訪町字石仏」という地籍を残すなど、この石仏が庶民に慕われ、祈願の対象として大切にされてきたことがうかがわれる。

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石仏は、諏訪大社春宮から徒歩3分のところにある。


春宮・国重要文化財・幣拝殿

境内でお参りしてから、春宮の脇を流れる砥川の中州にある浮島神社を抜け、朱塗りの橋を渡ってすぐに“万治の石仏”は鎮座していた。

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一見して、圧倒的な存在感である。そして不思議だけれど、どこか懐かしい温かみをもった石仏であった。


岡本太郎揮毫の石碑

奇才岡本太郎が絶賛したというが、これだけの石仏である。岡本太郎でなくとも、一度、見たら、このどこか愛嬌のある石仏である、誰しも、大好きになるのは請けあいである。


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どこか愛嬌を感じさせるお顔・・・

すこし気分が落ち込んだときとか、ちょっとさみしいなぁと思ったときなど、お顔を拝見に行ってみたらいかがであろうか。


“万治の石仏“さんに会いに来た人はみんな、石仏の周りを時計回りに3回廻って、各々の願い事をしていた(案内板にそう書いてあった)。



3回廻って、願い事・・・

もちろん、わたしも3回廻って、万治さんのメタボな胴体にそっと手で触れ、「家族が健康でありますように」、そして「大震災の被害にあわれた方々に早く穏やかな日々が訪れますように」とお願いしました。

 


横顔
横顔
後ろ姿

朝ドラ「おひさま」で飾られた「松本押絵雛」=穂高郷土資料館

湧水の郷、安曇野を歩く その1=NHK「おひさま」ロケ地・陽子の通学したあぜ道
「おひさま」ロケ地・安曇野を歩く その2=陽子(若尾文子)の「百白花」・大王わさび園水車のある風景

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松本押絵雛(穂高郷土資料館展示)

安曇野を訪れる二日前の放映(83日・第105回)であった。陽子(井上真央)の長女、日向子が肺炎に罹った時に、徳子(樋口可南子)が自分たちで出来ることをと辛い時でも明るさを求めようとして、雛飾りをした場面があった。

 その雛人形が紙か布で作られた羽子板の薄っぺらな飾りのような、変わった雛人形である。

DSCF8735
斜めから見ると厚みが分かる

「ずいぶん変わった雛人形なんだね。当時、信州の方では簡素な雛飾りで庶民はお祝いをしていたんだろうね」と、家内と語り合ったばかりであった。

史料館碑
館内にはわれわれ夫婦だけだった穂高郷土資料館

 松尾寺を訪ねた際に、その隣に立つ「穂高郷土資料館」を覗いたところ、その雛飾りが展示されていたのである。家内ともども、ちょっとびっくりしたが、徳子が真知子(マイコ)や育子(満島ひかり)たちと飾った雛人形が「松本押絵雛」と呼ばれる当地独特のものであることを知った。展示されている押絵雛は有明、北穂高、柏原地区などで明治から大正にかけて、実際に桃の節句に飾られていたものだそうだ。

「押絵雛」には当時の時代背景を映し、神功皇后と武内宿禰や武田信玄など武将ものもある

同館の説明書きによると、「松本押絵雛」は天保年間(1830-1840)当時の松本藩主・戸田氏が藩の殖産興業のひとつとして奨励、藩士の家庭で婦人によって作られ始めたものだという。それが松本の人形店や行商人によって売り出され、信州各地に広まっていき、ついには町内のどこの家でも子供が生まれると贈ったり、嫁入り道具のひとつとして持って行く風習ができあがったとのこと

しかし、その風習も明治・大正までで、大正の大火により製作者が四散したことから、急速に廃れていったそうで、徳子が箱で持ち出してきた押絵雛は多分、丸庵(丸山家)に残されていた懐かしい「押絵雛」のひとつということになるのだろう。

大王わさび園・蓼川にあそぶ川藻
陽子たちがピクニックにいった堤下の清流にあそぶ水藻(大王わさび園)

二人して、なるほど、ウン!ウン!と納得した次第であった。此度の安曇野探訪で「おひさま」ファンもますます筋金入りとなってきたと感じた瞬間であった。

 

ジャン! ジャン! 

NHK朝ドラ「おひさま」ロケ地=旧制松本高等学校の本館・講堂

「おひさま」ロケ地・安曇野を歩く その2=陽子(若尾文子)の「百白花」・大王わさび園水車のある風景
湧水の郷、安曇野を歩く その1=NHK「おひさま」ロケ地・陽子の通学したあぜ道
木曽路・奈良井宿、「古き良き日本」を歩く=NHK朝ドラ「おひさま」のロケ地

木曽路の食事処「こころ音」=奈良井宿の蕎麦・五平餅

松本市県(あがた)3-1-1

 

2008_08312008年8月29日信州松本0276
陽子や川原たちが散策した松本城

NHK朝ドラ「おひさま」で、白紙同盟なる主人公の陽子と相馬真知子、筒井育子の三人が兄の春樹と陽子の初恋の人、川原功一を訪ねて旧制松本高等学校へ行く場面があった。



旧制松本高校正門

 

そのロケが行われた場所は、現在、松本市の「あがたの森公園」内の「文化会館」として使用されているが、現存する旧松本高等学校の本館と講堂(共に重要文化財指定)とその前の道路を実際に使っている。松本駅から徒歩で15分のところに位置している。


2008_08312008年8月29日信州松本0359
旧制松本高校本館(重要文化財)・現在、あがたの森文化会館
本館の正面階段

 

また、陽子が松本女子師範学校を受験する際に使われたのも、この旧制松本高校講堂前の道路や建物外観である。


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旧制松本高校の講堂(重要文化財)

 

 わたしが訪れたのは2008年8月の生憎の雨の日で、じっくりと建物外観を写真に収めることができなかった。まさか、ここが後に朝ドラのロケ地となることなど想像もできなかったが、大正9年(1920)竣工のパステルグリーンの洋風建築を眺めながら、往時にはバンカラ学生がここで高下駄を履き高歌放吟しながら闊歩する姿が目に見えるようであった。


2008_08312008年8月29日信州松本0365
旧制高校校舎

 

 その本館の隣には、松本高校に限らず全国の旧制高等学校の資料や復元された当時の寮室などが見れる「旧制高等学校記念館」も設置されている。

 


旧制高等学校記念館

十代の後半でゲーテやカントを語り、また天下国家を論じ熱き血潮をたぎらせた戦前の青春群像に想いを馳せるのも、ドラマへの興味とは別に一興である。






 



平戸・蔦屋総本家の「カスドース」=戦国時代のスイーツ


本店:平戸市木引田町431(按針の館)
桟橋店:平戸市崎方町825

「蔦屋総本家」は、150年前に制作されたスイーツの元祖レシピ本と云ってもよい「百菓乃図元本」(松浦家・第35代当主松浦熙(ヒロム)の命で作成)の後書きにもその名が認められるように、平戸藩松浦家の御用菓子の勤めを担ってきた老舗であるが、その歴史をたどると、創業は文亀二年(1502)と五百余年もの歴史を有する由緒ある菓子舗である。

2011_04252011年4月平戸神田0450
当日、立ち寄った「蔦屋総本家桟橋店」

そして現在も、肥前平戸藩の4代藩主となる松浦鎮信(松浦家29代)が興した武家茶道の一派である「鎮信(チンシン)流」の御茶請をこの蔦屋が提供しているという(初代平戸藩主も松浦鎮信というが、”鎮信流”を興したのは4代目の殿様の方である)。


献上菓子の石碑
店内に掲げられた「蔦屋」の由来書き

 当店の一押し人気商品の「カスドース」(日持ち14日間)は、ポルトガル船の来航の際に、カステラと一緒に伝わった南蛮菓子のひとつである。戦前までは松浦家の「お留め菓子」として藩侯の催す茶会の御茶請や献上品としてのみ限定的に製造されていた、いわば門外不出のスイーツであり、この「蔦屋」を代表する銘菓である。

2011_04292011年4月平戸・蔦屋0020
カスドース

 「カスドース」は「一口大に切り分けたカステラを溶いた卵黄にくぐらせ、熱した糖蜜に浮かべ、最後に砂糖をまぶす」と当店HPに製法が記されている通り、そのしっとりとした濃厚な甘さがスイ−ツ・オタクには堪らない。初めて口にした時、正直、その贅沢な甘さに驚いたものである。砂糖や卵がとんでもないほどの貴重品であった五百年前に、この平戸にこうしたスイーツがあったこと自体が奇跡と云ってよい。

カスドースの内側は白い

 人間の「食」に対する欲望は今も昔も変わらぬものなのだと思った。そして、五百年前には殿様しか食べられなかったスイーツが、こうして庶民のわたしの口にも入る、今の時代の幸せに改めて感謝した次第である。 

「百菓乃図」に掲載された菓子で、「牛蒡餅」と「烏羽玉(うばだま)」がある。当日は「カスドース」のほかにその二つを求めようとしたが、松浦史料館監修の下で再現された「烏羽玉」は、足が早い(日持ち3日間)ため午前中早くに売り切れとなったとかで、購入できなくて残念であった。「黒ゴマ入り練り餡を柔らかい求肥で包み讃岐三盆糖をまぶした(HP)」烏羽玉、食べてみたかった。

「牛蒡餅」(日持ち7日間)は「中国からの伝来と伝えられ、慶弔時の菓子として用いられその姿が牛蒡に似ていたことからその名がついた」と当店のHPで説明されている。モチッとした食感は・・・、うん、まさに餅だ。カスドースとは異なり、至極、あっさりとした淡白な味の菓子である。

白の牛蒡餅
茶色の牛蒡餅

 やはり、絶品は「カスドース」である。こうした菓子はこれまで口にした記憶がない。オンラインショップで購入できることになっているが、TVで紹介されたとかでここ数カ月は注文殺到のため常に「SOLD OUT」と表示されており、しばらく模様を観てから注文にこぎつけたいと考えている。

どうしてももう一度食べたい「カスドース」

 

しかし、五百年の歴史を有す老舗で「sold out」とは、やはり由緒ある南蛮菓子、スイーツの店舗の為せる洒落た技であると、妙に感心している。


古の南蛮貿易港、「平戸」を歩く

平戸生月の山田教会
生月の山田教会礼拝堂

平戸は鎖国前の江戸初期まで、南蛮貿易で栄えた国際貿易港であった。そのため当地には南蛮文化の香り高い文物が多く残されている。



ただ、絶滅危惧種に指定されている「シマシャジン」(キキョウ科の多年草)が、ここ平戸島の南部と五島市福江島の最西端(大瀬崎)および済州島にのみ自生している事実が語るように、海流の関係や朝鮮半島に近いという地勢上の理由から、この地はそれ以前からも海外の文明や人間の交雑する場所であったことは想像に難くない。唐人あるいは倭寇に所縁があるといわれる奇妙な「六角井戸」が平戸と福江にあるのもそうした歴史の延長線上にあるのではないかとロマンが膨らむ。



六角井戸(松浦史料博物館傍)

事実、南蛮渡来の350年ほど前の1191年、栄西が南宋留学から当地へ帰着し、禅宗と茶をわが国に初めて伝えている。 



そして世界が大航海時代の最中にあった1550年、ポルトガルの貿易船が初めて平戸へ入港する。同年には薩摩半島の坊津に上陸した(1549年)フランシスコ・ザビエルが早くも当地へ入り宣教活動を行なった。



平戸城から平戸港・ザビエル教会を望む

ザビエル像から平戸港を望む

 さらに1584年にはスペイン船が来航。1609年にはオランダ、1613年にはイギリスと商館の設置(イギリスは23年に閉鎖)が続いた。また、徳川家康の外交顧問として仕えた三浦按針(ウィリアム・アダムス)も1620年に当地で病没している。



オランダ塀のある坂

このように16世紀中盤より17世紀前半にかけて平戸を訪れた国々の変遷を見て見ると、この九州西端のちっぽけな島が「大航海時代」という世界史の中でも進取の気性あふれた時代の潮流を真正面から受けていたことに気づき、少々、驚きの念を禁じ得なかった。 



天守閣から見下ろすオランダ商館(復元)・対岸岸壁の白い横長の二階建て

 そうした進取の気性で賑わい、華やかな南蛮貿易で栄えた平戸の時代も1641年のオランダ館の出島移転により終焉を迎えることになる。


その南蛮貿易の名残として、平戸には日本で「初」という「初尽くし」がある。前述の「茶」、「禅宗」は中国からだが、「ビール」、「煙草」、「パン」、「ペンキ」そして「カステラ」、「ビスケット」など硬派から軟派?まで幅広く取りそろえた感じで、想像すると当時の賑わいと人々の興奮、目の輝きまでが見えてくるようである。



平戸城天守閣
川内峠頂上

 

今回、訪れた場所は平戸の全貌を見渡す川内峠や平戸城。



川内峠より九十九島を
川内峠

さらに中国商人との交易や南蛮貿易の香りを残す六角井戸、幸橋(オランダ)橋やイギリス商館跡地。 



オランダ橋


オランダ橋上より英国商館跡地を(門を潜って右手に石碑)

そして殉教の地、生月の山田教会(生月町山田免442)、ザビエル教会、そして、有名な観光スポット「寺院と教会の見える風景」などである。 



山田教会
礼拝堂の正面
礼拝堂内

2011_04252011年4月平戸神田0514
寺院と教会の見える風景

ザビエル教会
ザビエル教会礼拝堂内

 


松浦史料博物館

 平戸の街並みは古い景観も処々に残し、想像以上にきれいに整備されていた。四百年前の大航海時代の沸き立つような充溢した気分をいまの平戸に探すことはもはや難しいが、生月の小さな「山田教会」で信者の方にお会いでき、礼拝堂のなかを拝見せていただいた時には、この地が抱えてきた「隠れキリシタン」という華やかに見える南蛮貿易の別の側面、いや裏面史を覗いた思いがしたものである。


生月の港から生月大橋を望む

山田教会

 

小さな教会の静かな堂内にステンド・ガラス越しに幾筋もの光が降り注ぐ。


山田教会のステンドガラス

 その情景は、殉教者たちの凄絶なまでの生きざまが「信仰」というステンド・グラスを透かして見た時、その姿は息をのむような美しさに変じて見えるのだということを教えてくれているようでもあった。

西トマス殉教の石碑

 生月島というキリスト教殉教の地に立ち深く感じたことである。

天城山隧道越えで「河津七滝」をめぐる

 川端康成の「伊豆の踊子」で有名な「天城山隧道(ずいどう)」を抜けて、天城山麓を南に下ってゆく途中に、「河津七滝」はある。


湯ヶ島側入口・右側にこぎれいなトイレがある

天城山隧道の標記

明治34年貫通を記す石碑
 

 天城峠は、最近は「伊豆の踊子」よりも石川さゆりの絶唱「天城越え」の方で有名なのかも知れない。「走り水 迷い恋 風の群れ 天城隧道」、「あな〜たと〜越え〜たい アマギ〜越〜え♪」の「天城隧道」のなかはひんやりとして、いや2月の風が吹き抜けて寒かった。


車一台でギリギリの隧道内
 

 隧道の入口で車を止め記念写真を撮るカップルが二組いたが、森閑とした山中にその話し声も自然とひそやかになっていた。


下田側出口

「天城山隧道」の苔蒸した標記
 

明治37年完成(貫通34年)の天城隧道は石造隧道のなかで現存する最長のものだという。石造の隧道入口の苔蒸して読み取れぬ「天城隧道」の文字に、遠く過ぎ去った明治、大正そして、早や20数年前となった昭和の時代を想った。446mにおよぶ真っ暗な隧道の先の出口がほんのりと小さく明るく見えるのは、どんなに暗い世の中にも必ず明るい未来があることを教えてくれているようであった。


遠くに小さく出口の明るみが・・・
 

河津七滝は、「ななだる」と読むことを今回知った。滝を水が垂れることから垂水(たるみ)と呼んでいた古語に因むもので、なかなか趣がある。


かに滝
 

初景滝への途中で落ち椿を見下ろす

その「ななだる」は上流から「釜滝(かまだる)」・「えび滝(えびだる)」・「蛇滝(へびだる)」・「初景滝(しょけいだる)」・「かに滝(かにだる)」・「出合滝(であいだる)」・「大滝(おおだる)」の順にある。


初景滝

蛇滝

くねる蛇滝

出合滝

出合滝

大滝

30mの七滝最大の瀑布
 

足が不便なわたしは七滝のうち、最大の高さ(30m)を誇る「大滝」と「初景滝」に立ち寄ったが、健脚で好奇心あふれる家内は、上流の「釜滝」・「えび滝」をのぞく五滝を踏破?した。だから、写真の大半は家内撮影のものである。







京都のロケ地めぐり―――4=南禅寺水路閣


 

 二時間ミステリードラマで犯人逮捕の定番の場所である。アンティークなアーチ型のレンガ造りの橋脚がならびその柱の陰に犯人が隠れ、何も知らない主人公が待ち人を探す。それも決まって犯人に背を向けて待つのだ。いやぁ、分かっていてもドキドキ・・・なのだから、単純だねぇわたしも。


 

この水路閣のトンネルのように連なる橋脚のアーチ型の空間を小道具に結構スリリングな最終場面を演出する。ミステリードラマの言ってみれば解決編の地である。


 

本当に何百人の犯人がこの場所で捕えられたことか。実際にこうした見事な推理で犯人を追いつめ捕縛できるのであれば、「世に盗人の種は」とっくに尽きているはずなのですがね。




 この水路閣を抜けて南禅院の階段を抜けて、さらにちょっとした石段を昇ると、橋上の疏水路を見ることができる。 



 

 そもそもは皆さんご存じのように、明治時代に造られた琵琶湖の湖水を京都市内へ導く疏水(水路)であり、百余年を経た現在も写真のように奇麗な水を流す現役の設備である。


 

明治人の豪胆な構想力と高い技術力に加え、均整のとれた重厚な美意識に、ただただ頭が下がるのみである。


河津桜はこの週末頃(2月26、27日)から満開!!

伊豆・稲取の「雛のつるし飾りまつり」を楽しんだ
天城山隧道越えで「河津七滝」をめぐる



  一足も二足も早い、花見に行って来た。伊豆の河津桜である。


 河津桜は沖縄や台湾など南方地域で目にする寒緋(かんひ)桜と伊豆大島に自生する早咲きの大島桜との自然交配種ではないかと見られている。南方や温暖な地のDNAを抱えているからだろう、こんなに早く花が咲き、桜好きの日本人の目を楽しませてくれる。



沖縄・今帰仁(ナキジン)城の寒緋桜

2007324日撮影・花は既に落ち、葉桜に)


 花の色はソメイヨシノなどの淡いさくら色より濃いのが特色であるが、桃の花までは色がきつくない。そして花弁は当然だが正真正銘の桜の花びらの形をしている。


 

 河津役場のHPに河津桜の由来が次のように書かれている。


 


 


「河津桜の原木は、河津町田中の飯田勝美氏(故人)が昭和30年頃の2月のある日に河津川沿いの冬枯れの雑草の中で芽吹いている桜の苗を見つけて、現在地(飯田邸)に植えたものです。昭和41年から開花が見られ1月下旬頃から1ヶ月にわたり咲き続けました。この桜は、河津町に原木があることから、昭和49年に河津桜と命名され、昭和50年に河津町の木に指定されました。」


飯田邸前に植わる河津桜の原木
 

そして、その原木は現在、「樹齢約50年・樹高約10m、樹巾約10m、幹周約115cm」に達しているとのことで、その日も飯田邸の前には観光客がひっきりなしに訪れ、8分咲きの原木の下で記念写真を撮っていた。



 


 例年であれば満開の時期を狙って河津の峰温泉に宿を予約し、一足先の花見と洒落こんだが、今年はやはり直前の降雪や天候不順の影響で、開花が一週間ほど遅れ、われわれ家族が訪れた20日過ぎはまだ4分咲き、5分咲きの状態であった。


 

 しかし、河津川の清流を挟んで川沿いに連なる桜並木は観光客の心と目を暖かな桃色に染めてくれた。



 さらに頭上を仰ぎみると如月の真っ青な空をキャンバスに花びら模様に桃色の絵具を置いていったそのコントラストは見事であった。


 

 また、夜はその開放的な鮮やかさとは一転して、黄色燈でライトアップされた桜花のトンネルが美しくも幻想的であった。



 

河津川のせせらぎの音に紛れて、桜の精がわたしの真横をさ〜っと駆け抜けていったように思えた。


 刹那ではあったが確かに首筋から右腕にかけてヒンヤリとした霊気のようなものを感じたのだから・・・






 


 

伊豆・稲取の「雛のつるし飾りまつり」を楽しんだ

河津桜はこの週末頃(2月26、27日)から満開!!
天城山隧道越えで「河津七滝」をめぐる

 熱川と河津のほぼ中間に位置する稲取に江戸時代より伝わる「雛のつるし飾り」、昔は「つるし雛」と呼ばれた風習が、今でも残っている。今年も120日から331日まで「稲取温泉 雛のつるし飾りまつり」が、「文化公園雛の館」や「雛の館 むかい庵」など数か所を会場にして開催されている。


文化会館の雛の館


雛の館前の河津桜は満開
 われわれは海辺の臨時駐車場(無料・会場まで徒歩2、3分)に車を置き、「文化公園雛の館」で、90対(9900個)におよぶ「つるし飾り」を楽しんだ。写真でお分かりのように館内に一歩足を踏み入れただけで、その満艦飾の美に圧倒される。見物客が一様に「ワァ〜!」、「キレ〜イ!」と、第一声をあげるのもむべなるかなである。

 

 

 
 庶民が雛飾りなど買えない時代、母親やおばあさんが娘や孫娘の健やかな成長と幸せを願い古い端切れを使って拵(こしら)えた和裁細工の「雛のつるし飾り」。今日でも母親や祖母の願いは変わることなく、吊るされたひとつひとつの和裁細工には愛情がいっぱい詰まっているのが分かった。


ひとつひとつに娘や孫娘への愛情が


和裁細工
 

現在、つるし飾りは関東地方各地でもよく見られこの時期の風物誌となっているが、稲取の「雛のつるし飾り」は、九州・柳川の「さげもん」、山形・酒田の「傘福」とならびその歴史的背景や由来、残された「つるし飾り」の文献資料から、由緒ある「日本の三大つるし飾り」と称されている。「文化公園雛の館」にはその「さげもん」と「傘福」も陳列されている。


酒田の傘福


柳川のさげもん

大相撲の八百長、そこまで目くじら立てることかい?

大相撲は、2007年の時津風部屋の力士の暴行による死亡事件、2008年のロシア人力士による大麻問題、2010年、野球賭博の発覚や暴力団組長の維持員席での観戦など、ここのところほぼ毎年にわたり決して軽微でない不祥事が連続している。


 そして今回の八百長問題である。野球賭博捜査の際に竹縄親方(元前頭・春日錦、春日野部屋)や十両千代白鵬(九重部屋)等から押収した携帯電話の消去メールの復元を行なったところ、八百長をうかがわせるメールが出てきたという。いま現在、竹縄親方、十両の千代白鵬、三段目の恵那司(入間川部屋)の3人が八百長への関与を認めており、以前から疑惑が囁かれていた八百長相撲が角界に存在していたことは、これで明白となった。

 

 テレビを始めメディアはここぞとばかり、開催中の国会ニュースの詳細を伝えるよりも、この八百長問題を熱っぽく語り、事細かに情報を流している。


 ただ、金銭で勝ち星をやり取りするのはさすがに問題だと思うが、大相撲が相撲興行と呼ばれているように、完全なスポーツであると信じている人もそうは多くないのではないか。私自身は相撲は純粋なスポーツというよりもあくまで「興行」であると思っている。


 だから、客がその取り組みを楽しみにし、その迫力ある立ち会いや次々と繰り出さられる技に熱狂し、贔屓力士の勝敗に一喜一憂し、観戦後に「あぁ楽しかった」となれば、それでよいのだと考えている。


 今回、野球とばく事件で押収した携帯電話のメール復元により八百長の生々しい実態が白日の下に曝され、こうした相撲の裏の顔が大っぴらになった。


だが、共同通信のアンケート調査にあるように、力士らのメールのやりとりが発覚する以前から「八百長はあると思っていた」が76.1%に達し、「ないと思っていた」の18.6%を大幅に上回っている。


また、八百長は58.7%が「絶対にいけないこと」としているが、「大相撲の性格上、やむを得ない面がある」という回答も27.8%を占めている。その背景となる意識と云ってよいと思うが、「大相撲がスポーツか伝統文化か」の問いに、「スポーツ」であるが15.9% 、「伝統文化」だと思うが57.2%、「どちらとも言えない」が25.3%と、大相撲を純粋なスポーツととらえていない見方が大勢を占めている。


私も純粋なスポーツととらえていないという意味において、観客を熱狂させるための多少の演出はあってもよいと考えている。その演出を八百長と云うのであればいたし方ないが、この手の古くからある興行には、庶民の喝采を博するための玄人の演出があるのだと思っている。


そしてそこには演じる者、観る者双方に暗黙の了解のようなものがあるような気がしている。ただ、今回発覚した金銭での星のやり取りはさすがに度を越えいただけないが、武士の情け的な取り組みがあってもそれはそれでよいのではないかとも思っている。


今回の八百長問題のあまりのメディアのハシャギぶりに、わたしは1984年のロサンゼルスオリンピックの山下泰裕選手とエジプトのモハメド・ラシュワン選手の柔道の決勝戦を思い浮かべた。


銀メダルに終わったが、肉離れを起こした山下選手の右足を敢えて狙わずに戦ったラシュワン選手(試合後に語った)に、「武士道」と清々しいフェアープレーを教えられたことを想起したのである。


柔道は「道」ではあるが、「スポーツ」である。勝つことを至上とするのであれば、ラシュワン選手は、明らかに痛めた右足を攻め立て、一本を取りに行くべきであった。山下選手は棄権せずに決勝戦に臨んできたのだから、そこに温情は必要ないはずである。


しかし、ラシュワン選手は確実に勝てる技を敢えて使わず、その結果、瞬時のすきを狙った山下選手に寝技に持ち込まれ、四方固めで一本を取られた。


試合後、足を引きずり表彰台に上がろうとする山下選手に手を差しのべたラシュワン選手の爽やかな仕種が今でも鮮やかに脳裡に浮かんでくる。ただこれも理屈を言えば、意図的に相手の弱点を狙わないのは、真剣勝負であれば相手に便宜を供与する一種の利得行為である。広い意味での「八百長」と云ってよい。


しかし、あのオリンピックの決勝戦を観て、これは「八百長だ!」と叫んだ人間は少ないのではないか。「これぞ、柔道!」「これぞ、漢(おとこ)」と叫んだ日本男児が多かったはずである。他ならぬ私もいたくこのエジプトの柔道家に惚れ込んだものであった。


今回の金銭でやり取りする八百長は、薄汚く、とてもいただけないが、観客を喜ばせるためにプロの演出があるのであれば、それはそれで興行ということで、わたしは十分認めてよいのではないかと考える。


何が何でも真剣勝負だと叫ぶのであれば、あの巨体同士で15日間ぶつかり合い、年6場所を戦うのはとても無理である。怪我人を出さないためにも場所数や1場所の番数を半減するなどして、純粋なスポーツ競技団体として再出発させるしかないのではないか。それでもけが人続出で、恒常的な開催は難しいのではないかと思う。


常に11敗で終わる地方の伝統的な相撲神事も、相撲のひとつの態様を表していることも最後に申し添えておく。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 

七草粥を食べて無病息災を願いました

今年も七草粥の日を迎えました。

 七草粥とは17日の「人日(じんじつ)の節句」の行事で、唐の時代、「七種菜羹(ななしゅさいのかん)」という
七種類の若菜が入った汁物を食べ無病息災を願ったことがそのルーツなのだそうです。
ネットで勉強しました。便利ですね〜


やさしい七草粥


  そんな講釈は兎も角、これまでの一年間、家族が健康で過ごせたことに感謝し、またこれからの一年間、みんなが健やかな日々を送れますようにと祈りながら、ほどよい柔らかさに仕上がったお粥を口に運びました。

お正月料理とお酒で疲労の極に達した胃袋に、塩分控えめの若菜の香りがほのかに匂うお粥がいたわるように沁み込むようで、生きている安らぎを覚えた。こんな感慨にしみじみ耽るのもやはり年齢かなぁ〜・・・。


七草粥


 でも、本当に昔の人は偉かった。体に良い、よく考えた食習慣を作り上げたものだと、頭ではなく胃袋で心から納得した七草粥でありました。


 

最後に、みなさまのこの一年間の無病息災を心よりお祈り申し上げます。


 

龍馬伝、京都を歩く

龍馬伝、長崎を歩く


京都のロケ地めぐり 1 =鴨川の飛び石

京都のロケ地めぐり--- 2 = 巽橋・白川一本橋(行者橋)

京都のロケ地めぐり--- 3 =法観寺(ホウカンジ)・八坂の塔

京都のロケ地めぐり―――4=南禅寺水路閣


  つい先日、福山雅治扮する坂本龍馬が京都河原町の近江屋で暗殺され、NHK「龍馬伝」は最終回を迎えた。


昨今の不甲斐ないわが国の政治情勢を見るにつけ、この維新の時代を駆け抜けた龍馬をはじめとする青春群像は、あまりにまぶしくわたしの目に映った。そうした想いもあってこの八月に長崎を訪れた折に、龍馬ゆかりの亀山社中や長崎奉行所などを訪ね歩いた。


長崎・亀山社中前の龍馬ブーツ像


そして最終回を迎え、龍馬が勇躍闊歩し最後に凶刃に倒れた京都を訪れ、ゆかりの地を歩いた。


同郷の土佐人で神戸海軍操練所からの龍馬の友でもある望月亀弥太が遭遇した池田屋事件の跡地を訪れた。三条小橋の旅館池田屋の跡地には、かつてのパチン店が閉鎖となり、今では居酒屋チェーンの海鮮茶屋「池田屋はなの舞」が後を襲い、池田屋の名をこの地に復活さていた。その店内には、幕末ドラマで誰しも一度は目にしたことのある「池田屋階段落ち」の8メートルの階段もご丁寧に設けられているという。


池田屋の跡・居酒屋「池田屋 はなの舞」


池田屋騒動の石碑と説明書き


池田屋正面


その池田屋のすぐ近く百数十メートルほど東に、東海道五十三次の西の起点となる三条大橋がある。


東海道五十三次の起点・弥次さん、喜多さんの銅像


欄干の二つ目の擬宝珠に池田屋事件の際に付けられたといわれる刀傷が残っている。その刀傷は大きく切れ込み、当時の時代の騒擾を今に伝えるようである。


擬宝珠に池田屋騒動の際の刀傷が


次いで、海援隊の京都における活動拠点である「酢屋」を訪ねた。「酢屋」は享保6年(1721)に屋号「酢屋」として創業した材木商である。当主が土佐藩出入りの商人であったことから、その二階を海援隊に提供し使用させた。「酢屋」はその後「千本銘木商会」と社名を変えながら現在も10代目当主の中川敦子千本銘木商会社長のもとで同じ材木を商う事業を営んでいる。


酢屋外観


坂本龍馬寓居の跡・石碑


 当日は生憎開館前(ギャラリー開館:11:0017:00)に訪ねたため内部を拝観できなかったが、二階部分を「龍馬の部屋」として当時の姿に再現しているという。「酢屋」は今回廻った龍馬ゆかりの地のなかで唯一幕末維新を偲ぶことのできる建造物であった。現在は隣地が駐車場となっているため、横から建物を眺めることができる。京都特有の間口が狭く奥行きの深い敷地の上に細長く「酢屋」が建っていることがよく分かる。


京都特有の間口が狭く、奥行きの深い構造


最後に龍馬終焉の地である醤油屋「近江屋」の跡地(
中京区河原町通四条上ル)を訪ねた。人通りの多い場所であり、歴史を偲ぶものはと言えば、ただ「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難地」の石碑が立つのみである。跡地には当世を象徴するコンビニが建っている。自分の終焉の地のこの変わりように、龍馬もおそらく草場の陰で苦笑いしていることだろう。写真を撮るのも忙(セワ)しない、そんな当世絵図であった。



いまも龍馬暗殺の地に花が手向けられている


近江屋跡に建つコンビニ


前を走る河原町通り


 また龍馬が足繁く通ったであろう長州藩邸の跡地が、宿泊先の「京都ホテルオークラ」が建つ場所であったことに、今回の旅の不思議な縁を感じたものである。ホテル前に龍馬の盟友桂小五郎の銅像が建っていることも今回初めて知った。

長州藩邸跡に建つ京都ホテルオークラ



桂小五郎の銅像


陶芸家、山中恵介氏の展示会に行ってきました

 11月3日(水)から7日(日)まで、成城学園の「成城さくらさくギャラリー」において、陶芸家、山中恵介氏の展示会が開かれている。

 

さくらさくギャラリー
 
成城さくらさくギャラリー

 

場所:「成城さくらさくギャラリー」世田谷区成城2-15-1

開催日時:11月3日(水)〜7日(日)11001900

アクセス:小田急線成城学園前駅南口より徒歩6分

 

山中恵介工房:長野県上水内郡信濃町大井2924-14 電話:026-255-2569

 

 「文化の日」の3日は素晴らしい秋の行楽日和であった。そこでわたしどもも、文化の香りの一欠くらい嗅がねばならぬと、ご案内をいただいていた展示会に伺った。

 

山中恵介展示会
 
展示会のかわいい看板

 

 初日ということで、小さな2階のギャラリーは人でいっぱいで、ゆっくりと山中氏とお話する時間もなかったが、恵介ワールドである「淡い青と白の世界」に浸り、ひと時の心の癒しをいただいたものである。

 

恵介の青と白の世界
 淡い青と白の恵介ワールド

食のうつわ
食のうつわ

 

 作品をいくつか目にするうちに、この淡い青と白の色調が、恵介氏の優しい性格がそのまま陶芸品に表れていることに気づかされた。なんか、ホッとする、あったかい作品群であった。

 


 
陶芸家・山中恵介氏

 

 期間中は、その場での即売も行われている。また、ギャラリーに作品のみ飾られているものは、注文すれば後日、恵介氏が焼いてくれるとのことで、その場で予約さえすればよい。

 

箸置き
 
これって、箸置きです

 

漁師
 
この漁師さんって、子供だよね・・・

 


 
ほら、笠の下にはかわいい顔が・・・

 

 「食のうつわ」という展示会名のとおり、このやさしく、ほんわかとした食器で家族で食卓を囲み、小さな憩いの時間を持てたら素敵だと本当に思わされた。

 

 お時間のある方は、ちょっと「成城さくらさくギャラリー」を覗いてみてはいかがでしょうか。可愛らしい「食のうつわ」があなたを待っていますよ。

 

万燈会(マンドウエ)の法要と声明(ショウミョウ)

 この日曜日、菩提寺において新しい山門の開元供養として万燈会の法要が催された。真言宗における万燈会は、空海が59歳の時(天長9年(832))に高野山で「万燈万華会(マンドウマンゲエ)」を修したことを嚆矢とするため、各種法要の中でも高い位置づけが与えられているとのことであった。

 

万燈会を迎える本堂
 
万燈会を迎える本堂

 
 
暗くなって万燈に灯がともされる

 

万燈会は、そもそも衆生の懺悔・滅罪のために仏・菩薩に一万の燈明を供養する法会である。天長9年に空海が初めて万燈会を行なった際の願文(ガンモン)のなかで「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」【「続遍照発揮性霊集補闕抄(ゾク・ヘンジョウ・ホッキ・ショウリョウシュウ・ホケツショウ)」〔空海・済暹(サイセン)・真済(シンゼイ)著〕の巻第八】と唱えている。それは、「宇宙法界に存在するありとあらゆるものが一つ残らず全て仏の境界(悟りの境地)に至ることを願い続けるという意味なのだそうだ。おそらく、仏に燈明をあげ供養することで、生きとし生けるものの安寧を祈る法会なのだろうと勝手に解釈して、この煩悩多きわたしも万燈会に参加した。

 

万燈会の法要が行われる堂内

 当日は、東京以外の北海道などの遠方からも駆けつけた真言宗の若い僧侶たち総勢15名による法要であった。この若い仲間は、現在、「声明(ショウミョウ)の会」を熱心に開催し、先般もヨーロッパで声明を紹介し高い評価を得るなど、仏教界の新しい息吹を感じさせる草の根活動を展開している。

 

僧侶たちの入場
 
法要を執り行う僧侶たちの入場

 

 法会は本堂内で、声明という僧侶たちによる男性合唱を堂内に響き渡らせ、1時間強を費やし行なわれた。惜しむらくは天井がもう少し高ければ、共鳴した音色ももっと素晴らしいかったろうにと感じたことである。そして、西洋の教会は音楽を通じた布教活動という点では、よく考えられた造りになっているのだと改めて気づかされた。しかし、そうしたことを忘れさせるに十分な趣のある法要であったことは云うまでもない。僧侶たちが薄暗い堂内にコの字型に座り、一斉に声明を和す。

 声明を和す僧侶たち

 

そして、時折、立ち上がっては、方形に連なり声明を唱えながら歩を進める。

 


 
方形に歩きながら声明を唱える

 

また、方形に対面しながら後方に散華札(サンゲフダ)を撒く情景はどこか秘密めいていて、自分の心と堂内の「気」がまさに燈明の炎のように揺らいでくるのを感じる。その神秘的雰囲気のなかで不思議と心は鎮まり安らいでゆくのである。

 

 散華札を撒く僧侶たち

方形に対面し声明を和しながら散華札を撒く

 




境内に整然と点された燈籠
 

境内に万燈の灯が・・・

 

こうした気持ちにみんながなれたら、もっとこのささくれ立った社会も明るく、安らかなものになるだろうにと思った。こうした心の平安を与えてくれた当日の若い僧侶たちに、本当に心から感謝したい。そしてこれからの益々の活躍を願っている。

 

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