彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

歴史・文化・芸術

2016年のNHK交響楽団の「第9・合唱」はブラボー!!

散々なお正月でしたが、彦左の正眼、今年もよろしく(2015.1.5)

2016年もNHK交響楽団による年末恒例のベートーヴェンの交響曲第9番の演奏会がやってきた。

N響第9コンサートのエンブレム
N響第9演奏会恒例の飾りつけ
今年はN響創立90周年の節目の年ということで、NHK放送文化賞を受賞し、NHK交響楽団から桂冠名誉指揮者の称号も授与されたヘルベルト・ブロムシュテット氏がタクトを振った。

N響90周年エンブレム
N響90周年のエンブレム
御年89歳の超高齢の指揮者だと知って、指揮台脇には途中休憩の椅子でも用意されているのではと思ったが、豈図らんや誰かが手を携えることもなく足取りも軽やかに矍鑠(かくしゃく)としたお姿で現れた。まことに失敬なことであったと反省している。

NHKホール
指揮台に椅子はない
そして、ブロムシュテット氏の「第9」はこの5年間通ったN響の「第9」演奏会のなかで最高のものであった。


終演後、家内も同様の感想を述べたので、素人ながらも互いに心に感じたところは一緒だったのであろう。

切れ味が鋭いというのとは少しニュアンスは異なるが、区切りの良い明快な演奏が心地よく感じられた。だから流れ出す音楽のなかにすんなりと没入できたような気がする。

23 第9演奏会PF
2016年パンフレット
わたしは第4楽章の冒頭あたりから実際に鳥肌が立っていたが、「東京オペラシンガーズ」の圧倒的な合唱が始まるや、いつしか目じりからうっすらと涙が滲みだして来た。高齢による涙腺のゆるみだけではなかろう、タクトが停止した瞬間、万雷の拍手はいつまでも鳴りやむことはなかった。

第9
今年の「第9」で特筆すべきはもちろん筆頭にヘルベルト・ブロムシュテット氏の派手さはないが静かななかにメリハリのついた名指揮ぶりがあげられる。


加えて、1992年、「世界的水準のコーラスを」との小澤征爾氏の要請を受けて結成された「東京オペラシンガーズ」の合唱が場内を揺るがす迫力はつわもののソリストたちが消し飛ぶほどの歌唱力であったと高く評価したい。

終演後の会場
終演後のNHKホール
もちろんバスのパク・ジョンミンはさすがという出来栄えであったし、ソプラノのシモーナ・シャトゥロヴァも素晴らしかったが、惜しむらくはテノールとメゾソプラノであったとの感想を抱いた。所詮、こんなものは“ど素人”の勝手な批評であるのでお許し願いたい。


そんなことで、2016年のN響コンサートも終わりをつげ、あとはいよいよ大晦日まで一週間を残すところとなった。


NHKホールを後にするころにはもう夕闇が迫っていたが、ホールの大きなガラス窓には茜色の夕空が映え淡いローズ色に染まっていたのが印象的であった。

コンサートを終えて
来年がこのような美しい彩りを装う年になりますようにと呟きながら、クリスマスの夜を演出するイルミネーション目当てで大勢の人が闊歩する表参道へと足を向けた。


2015年のSEIJI OZAWA MATSUMOTO FESTIVAL 小澤征爾さんの全身全霊の指揮に涙した

2015年9月6日(日)、松本市のキッセイ文化ホール(長野県松本文化会館)において、9月1日に傘寿(さんじゅ)のお祝いを迎えられたばかりの小澤征爾氏指揮によるベートーヴェンの交響曲第2番を聴いた。

キッセイ文化ホール
9月6日、雨のキッセイ文化ホール

8月9日から9月15日までひと月を越す期間、開催されている「SEIJI OZAWA MATSUMOTO FESTIVAL」の終盤を飾るコンサートである。

小澤征爾松本フェスティバル・PF

1992年から松本市で毎夏のひと月余にわたって開かれてきた音楽祭、「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」が、今年から「SEIJI OZAWA MATSUMOTO FESTIVAL」と名を変えての初回の記念すべき音楽祭である。

パンフレット

かねて、一度はと思いながら思い立った時には、もうその稀少なチケットは完売ということの繰り返しであった。今年、そんな願いが叶ったのは、信州の知人というより常々お世話になっている人生の大先輩がチケット発売と同時に早朝より列んで購入していただいたからである。

SEIJI OZAWA MATSUMOTO  FESTIVAL

この方のご厚意により小澤征爾さんの傘寿の歳に、その稀なるコンサートの末席を汚し、夫婦して大いなる感激を分かち合うことができた。

この前列2番目で聴きました
この前列2番目の席でした

8月の上旬、小澤征爾氏が浴室で転倒し、腰の骨を折り8月下旬に上演の3回のオペラの指揮を降板するとのニュースに接した時には、「あぁ、折角の機会だったのに」とガックリきたものだった。


しかし、幸いにも療養は順調で9月1日に80歳の誕生日を迎えた「マエストロ・オザワ80歳バースデー・コンサート」において、約22分のベートーヴェンの「合唱幻想曲」を指揮されたと知り、ひと安心。


6日の演目は「オーケストラコンサート Bプログラム」の小澤征爾さん指揮による「ベートーヴェン:交響曲 第2番」と、「バルトーク:管弦楽のための協奏曲」(指揮:ロバート・スパーノ)である。そして、演奏は「サイトウ・キネン・オーケストラ」であった。

小澤征爾氏の幼少期に弾いていたピアノ
幼少時に弾いていた小澤征爾氏のピアノが展示されていた

そんな演目の順も、オケ名を最後に書いてしまうのは失礼とは知りつつも、やはり、夢であった生・小澤征爾の指揮を目の当たりにし、会場いっぱいに溢れかえったあの熱気を思い起こすと、どうしてもこう書かざるを得ない。

エントランスに溢れる人
エントランスに溢れる人々

ロバート・スパーノの指揮によるバルトークの「管弦楽のための協奏曲」が終了。20分間の休憩をはさみいよいよ小澤征爾さんの登場である。楽団員が入って来て着席してから登場と思いきや、5、6人の団員がステージに現れたころ、あの印象的な白髪頭をした小澤さんが団員と談笑しながら入場する。のっけから、何だか、音楽は楽しくなくっちゃって、小澤さんんが語りかけているようで、ますます演奏が楽しみになる。


指揮台に立つ小澤さんが立ち、あの指先が動くと第一楽章が始まった。しばらくして、指揮台に置かれた椅子に腰を落としての指揮に変わったが、ここという音符が踊る場面ではピョンと跳ねるようにして立ち上がり、全身を動かし指揮をとる。
第四楽章へは休憩をとることなくなだれ込んでいった。その熱い思いとほとんど座ることなく全身を震わせ、右へ左へ体の向きを変えての指揮は、楽団員の気持ちをひとつにし、いよいよクライマックス。

小澤征爾コンサートプレート
記念プレート:このポーズ、見ました!!

第二楽章、第三楽章への合間には指揮台を降り、脇に置かれた椅子に座り、給水だろうか水分をとっておられた。


小澤さんの動きがピタッと停まるや全楽器の音色が一斉に消えた。

小澤征爾氏が今まで立っていた指揮台
終演後のステージ・指揮台の椅子についさっきまで小澤征爾さんが・・・

満員の場内は瞬間、静寂に支配された。そして、じわっと目尻に熱いものが湧いてきた。素晴らしかった。

まさに万来の拍手である。久しぶりにこんなに自分も必死に手を打った。手のひらが赤くなるほど拍手した。


4度、小澤さんはステージに現れた。そして、楽団員一人ひとりにねぎらいの言葉をかけ、握手をして回った。ティンパニー奏者の最上階の雛壇の上にまで上がり、言葉をかけ、握手を求めた。


みんなでこのコンサートをやり遂げたねという小澤さんの音楽に対する心もちが伝わってくる素晴らしいフィナーレであった。


その頃、場内は拍手から「セイジ!」、「セイジ!」という掛け声に合わせた手拍子に変わった。

小澤さんの笑顔が遠い2階席からもはっきりと見えた。本当に思い出に残る素晴らしい演奏会であった。


家路へ急ぐ聴衆の人たちも興奮冷めやらぬようで、昂揚した笑顔の人々が続々と文化ホールから吐き出されてくる。

コンサートが終わって・・・

そして、雨の中、タクシー乗り場にならぶ長蛇の列ができていたが、みんな笑顔である。音楽というものが人々に笑顔を確かに贈ることをしみじみ実感させられた松本の一日であった。



浅草寺に立つ平成中村座で陽春大歌舞伎を観る

4月1日の初日から5月3日の千穐楽までひと月にわたり浅草寺境内に立てられた小屋で平成中村座による陽春大歌舞伎が催されている。

7 陽春大歌舞伎

江戸の芝居小屋の雰囲気、劇場空間を愉しみたくて春の一日、歌舞伎観劇と洒落こんだ。

2・浅草雷門
浅草雷門

浅草寺本堂裏に立てられた大テントの芝居小屋。想像していた江戸風情の外観はなく、どちらかというとサーカス場のように見えた。

3・平成中村座のテント小屋
イメージと違った芝居小屋

もう少し、役者の幟やまねき、絵看板などが飾られていると気分が出るのになあと感じた。

4・平成中村座  5・平成中村座入口
芝居小屋の入口

天保6年(1835)に建てられた現存する日本最古となる四国の“こんぴら歌舞伎”の芝居小屋と同じようにとは、さすがに言うつもりはない。

4 小屋二階席
こんぴら歌舞伎の芝居小屋の内部

しかし、せめて雰囲気づくりくらい、もう少し金をかけてもらいたいと思った。

4 こんぴら歌舞伎小屋・まねきと絵看板
風情は最高のこんぴら歌舞伎

やはり、幟を目にしながら気分を高めながら小屋へ近づく。

4 小屋への坂道にも幟
金毘羅歌舞伎、この坂道に立つ幟がイイ!!

そして、あの招き看板と絵看板と出会って、あぁ、今日は芝居を愉しむんだというあの昂揚感がほしいのである。

4・小屋に掛けられた”招き看板”
まねきと絵看板は小屋の必須の条件

折角、浅草寺の本堂や五重塔にかこまれた場所で興行を打つのだからなおさらである。そこはまさに東京に残る数少ない江戸の香りを残す場所なのだから。

6・この感じ、浅草の芝居小屋です
入口は入って、お弁当売場の景色が江戸・・・かな

まぁ、芝居小屋の体裁はこの程度にして、夜の部(16時半開演)観劇について記そう。

演目は、「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」、「高坏(たかつき)」、「幡隨長兵衛(ばんずいちょうべい)」の三つ。


「妹背山婦女庭訓」は、お三輪を演じる七之助は若さゆえの華やかさはあるが、芸の方はまだまだというところか。官女たちの執拗ないじめと求女への一途な思いからそれに耐える三輪の仕草が見ものなのだが、どうもその不憫さが当方に伝わって来ぬ。

官女とのやり取りがどうもパターン化しすぎたきらいもあるのだろうか、要は胸に迫るものがない。切々たる思いが舞台上から客席まで届いて来ぬのである。

7・小屋の内
場内はそれなりの小屋の風情も

次の「高坏」であるが、中村屋のお家芸ともいうべき世話物である。勘九郎演じる次郎冠者の滑稽さが売りの舞踊劇であり、高下駄を履いてタップダンスを踊るという目玉も楽しみな演目である。


其れなりに世話物の小品としてまとまってはいたが、勘九郎もまだまだ精進が必要と感じたところ。つい、観客は18世勘三郎、さらには17世勘三郎の舞踊を目蓋において観てしまうのだから、さぞや勘九郎もつらかろうと思う。


しかし、勘九郎のちょっとした仕種、台詞回しに、中村屋の飄々とした洒脱とでもいおうかその血筋はたしかに伝わっていると感じたことも確かである。


もう42年前になろうか、わたしは17世勘三郎の「うかれ坊主」をみた。その見事な舞踊、いや、江戸庶民の匂いをただひとつの仕種であらわしてみせる芸に、歌舞伎の凄味、培われてきた伝統といったものを教えられた。マイケルジャクソンのムーン・ウォークよりはるか昔に、17世勘三郎はその創造性豊かなダンスを歌舞伎座の舞台で踊って見せていたのだ。


そして18世勘三郎がいい味を出し、その飄逸な芸風に磨きがかかりはじめた矢先の無念の早逝。


若くして中村屋をその双肩で支えることになった勘九郎。躰は柔らかいが、やはり、まだまだ、その芸はこなれていない。タップももっとリズムにのって軽妙にステップを踏んでほしいと思ったものだ。高下駄ですよと彼は言うかもしれないが、17世であれば、下駄自体の工夫も重ねて、無重力の世界のタップをきっと見せてくれたと思う。


今後のさらなる精進を心より祈っている。


最後の演目、中村橋之助の「幡随長兵衛」。これは、橋之助、さすがという出来栄えであった。さらに、客席のそこかしこから役者が出て来ては舞台と掛け合いをやる様は、まさに江戸の小屋ではもっとこんな芝居がたくさんあったのだろうなと感じさせる「生きた芝居」であった。


江戸の庶民の粋、サムライ以上の漢の生き様を橋之助がスマートに演じる。あの声といい、なかなかのものであった。


わたしたちは思い立ったのが遅く、ネット予約でこの日の松席(1階平場)は満席、竹席の2階がわずかに空いていたのみ。そこで二階の三列目の右端二席をとったのだが、小屋自体がそう大きくないので、観ること自体に問題はなかった。

8・二階席から
二階席から

二階中央にお大尽席があった。そう云えば予約のときもそこだけは空いていたが、何せ一人3万5千円という値段に尻込みした。当日、その席のふかふか座布団にどっかと座り、高坏膳を前に舞台を眺めおろすご婦人方を拝見し、さすがお金持ちは違うわいと江戸の庶民は思ったところでありやした。

9・芝居が終わり、家路へ

そして、舞台が跳ねて場外へでた観客たちは、浅草寺のライトアップされたお堂や五重塔を目にして「夜の方がきれいだ!」、「芝居の土産話が一つ増えたね」と語り合いながら家路へと足を急がせていた。



散々なお正月でしたが、彦左の正眼、今年もよろしく

2016年のNHK交響楽団の「第9・合唱」はブラボー!!(2016.12.25)

我が夫婦の2014年はN響のニューイヤーで始まり、

3 N響ニューイヤーコンサート

そして、N響の第九演奏会で〆た・・・と悦に入った途端・・・

N響第九演奏会

散々な新年を迎える羽目となりました。


年末、フランソワ・グザヴィエ・ロト指揮によるN響の第九は圧巻であった。

NHKホール

2012年のロジャー・ノリントン指揮による何とも味気ない第九に失望していたわれわれとしては、今回の第九こそ、年末を締めくくるに相応しい演奏会であったと互いに満足して、代々木公園の夜道を家路へと急いだものである。


そんな翌々日、グループホームから一時帰宅した娘が急に体調を崩し、嘔吐。
O157ではないかと心配し、年末最終日の診察となった金曜日に病院へと駆け込む羽目に。


幸い、急性胃腸炎とのことでまずはひと安心。娘は2日間は絶食、その後も重湯からお粥と、徐々に平常食へと移行するようにとの指示。


そうしているうちに、今度、家内が具合が悪くなった。熱があるなかお節の用意を頑張るも、苦しそうで明日病院へ行こうとリタイア。


そして、30日、31日と病院通い。
これも幸いインフルエンザではなく、ほっとするも胸のむかつきが止まらず、熱も簡単には下がらない。急遽、年末年始をわが家で過ごす予定の息子夫婦、弟夫婦に断りの電話を入れる。


そして、久方ぶりの静かだが、ちょっと寂しい正月を迎えることとなった。

2014年正月
今年の鏡餅は手造りではありません・・・

元旦、簡単なお節でたった三人のお正月を祝うが、先の二人もまだ体調は十分には戻らず、今度はわたしが胸がむかつき、微熱が出てきて、こりゃ、大変と、元旦は昼過ぎに早々に床に就く始末。


箱根駅伝を毛布にくるまりながら応援したが、例年のように弟や息子とワイワイ言いながらの観戦ではなく、何とも味気ないし、食欲も、呑み気もまったくもようさない。


そして、ようやく、本日になり、体調も回復。家内も娘も平常に戻り、これから久方ぶりの御馳走をいただく。


昨年は旅行にコンサートに、美術展にと、忙しくも充実した日々を過ごしてきたが、最後の最後になって、全員ダウンといった惨状。


好事魔多しとはこのことである。そんな諺(ことわざ)を思い知らされた年末年始であった。


そんなこんな大忙し、気苦労の多い年越しではあったが、2015年が始まった。

今年、わたしも64歳になる。健康に人一倍気をつけて、でも、大好きな寺社巡りは、やはり、続けてゆきたい。


また、一年間、時折の躰のチューニングを怠ること無しにそろりそろりと人生を過ごしてゆこうと思っている。


今年も彦左の正眼をどうかご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。



あと3日、東京国立博物館にて開催中の日本国宝展へ急ぎ足を運ぼう

東京国立博物館の平成館特別展示室において開催されている「日本国宝展」 はこの12月7日(日)までで終了。好評のため最終日の7日まで毎日午後8時まで時間を延長し開館中とのこと。

東京国立博物館
東京国立博物館

この2日まで奈良へ行ってきた。日本書紀の記述の跡を巡る旅であったが、そのなかで、せっかく訪れたのにお目当てのお宝がなくて気落ちしたのだが、この東京で開催中の国宝展に出品中とのこと。

日本国宝展・平成館
平成館にて開催中

帰京直後であったが日にちがない。雨模様の寒い一日であったが、上野まで足を運んだ。


まず、法隆寺の玉虫厨子。

玉虫厨子
玉虫厨子(館内売店絵葉書より)

大宝蔵院に置かれているはずの“玉虫厨子”がなかった。百済観音はお目にかかれたが、そこでわれわれは厨子の複製を目にしたのみであった。今回、東博平成館で入場と同時に本物の“玉虫厨子”に対面できた。江戸の敵を長崎で討つことが出来た? ちょっと違うか・・・


次に安倍文殊院で日本三大文殊のひとつ、国宝・渡海文殊菩薩像を拝観したが、その脇侍仏である国宝・善財童子立像と国宝・須菩提像がやはり東京へ出張中。

安倍文殊院善財童子立像
可愛らしい善財童子立像(同上)

それも本日、ようやく本物とご対面。文殊院では写真パネルが文殊菩薩の両脇に置かれておりました。何だかなぁ・・・味気なかったなぁ・・・


そして、奈良市の元興寺(がんごうじ)では宝物殿に置かれているはずの五重小塔が見当たらず、その場所にはほかの仏さまが・・・

元興寺五重小塔
五重小塔(同上)

そんな五重小塔、いやりっぱな五重塔であった、何せ高さが5・5mもあるのだから・・・やはり目にしてみて初めてその小塔という名はふさわしくないと思うほどに大きかった。


例の漢の委の奴な国宝の金印も・・・と思ったが、これは11月末で終了でした。残念!!

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悔しいので金印の絵葉書、買っちゃいました

国宝展のポスターに採用されていた三千院の阿弥陀如来の脇侍、勢至菩薩坐像と観音菩薩坐像の二体は久しぶりのご対面であった。

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左:勢至菩薩坐像    右:観音菩薩坐像

厳しい大原の寒さの中、阿弥陀如来さんはさぞかしお寂しいことであろうとご同情申し上げたところである。


一度は目にした、耳にしたことのある有名な日本の国宝が一堂に会した国宝展、行って損はしません。

日本国宝展
平成館館内

今日は天候不順ということか20分待ちの行列ですんだが、多い時は2時間待ちというが、国宝、それも名品ぞろい、ぜひぜひ、ご覧あれ。あと3日です!!


チューリヒ美術館展で芸術の秋を愉しむ=国立新美術館 12月15日(月)まで

ーーー印象派からシュルレアリスムまでーーー

 

1・チューリヒ美術館展ポスター

友人の誘いで六本木にある国立新美術館で開催中の“チューリヒ美術館展”を見に行った。

2・国立新美術館
六本木の国立新美術館

スイスを代表する美術館のひとつであるチューリヒ美術館は、中世美術から現代アートまで10万点以上の作品を所蔵し、特に19世紀の印象派以降の近現代美術コレクションは圧巻であるという。

3・チューリヒ美術館展

モネ、セザンヌ、ピカソといった近代美術の巨人たちが描いた傑作やその代表作がなんと74点も一挙に、一堂に会している。

4・パブロ・ピカソ 大きな裸婦
ピカソの”大きな裸婦”(館内売店・ポストカードより)

美術の素人でもどこかで目にしたことのある一点や名前を聞いたことのある作品がならんでいる贅沢な美術展である。

5・ワシリー・カンディンスキー 黒い色斑
カンディンスキーの”黒い色斑”(同ポストカードより)

シャガールの“戦争”は国土を戦火で嘗め尽くされた日本人には特に胸に迫る迫力をもつ辛い大作である。

6・マルク・シャガール 戦争
シャガールの”戦争”(同ポストカードより)

ゴッホも南仏の陽光を燦々と浴びて、こんなに健康的な作品を描いていた時期もあったのだとあらためて思った作品である。

7・フィンセント・ファン・ゴッホ サント=マリーの白い小屋
ゴッホの”サントマリーの白い小屋”(同ポストカードより)

このなかで、この絵、感じがいいなと思ったのが、モーリス・ド・ブラマンクの“シャトゥーの船遊び”という一作である。

8・モーリス・ド・ヴラマンク シャトゥーの船遊び

左手の街路樹の幹ひとつ描くことでで絵に奥ゆきを見せる見事な一品と見た。

 

美術ファンはもちろん、芸術の秋を満喫されたい方にはこの秋必見の美術展のひとつである。

9・国立新美術館館内
国立新美術館・館内

金曜日は夜8時までの開館となっており、仕事帰りにちょっと寄って見ることができるのも魅力。

 

このチューリヒ美術館展は12月15日(月)まで開催中である。



世界遺産富岡製糸場、近代日本の曙を見る

富岡市富岡1番地1  ☎ 0274−64−0005


長野の善光寺参りの帰途、日ごろ利用することの少ない上信越自動車道を通行した。

好天にも恵まれ、帰宅までの時間も余裕があったことから富岡ICで下車、約10分(駐車場まで)のところにある富岡製糸場を見学した。

1・富岡製糸場正門
富岡製糸場正門

日本の世界遺産は、現在、14件の文化遺産(法隆寺、京都の文化財など)と4件の自然遺産(白神山地、知床など・富士山は文化遺産)の合計18件が登録されている。

2・法隆寺・世界遺産石碑
日本初の世界文化遺産の法隆寺

富国強兵を強力に推し進めた近代日本の象徴でもある富岡製糸場は、長期間の蚕種貯蔵を可能にした“荒船風穴(下仁田町)”や清涼育という養蚕技術を確立した“田島弥平旧宅(伊勢崎市)”などの養蚕関連の文化財と合わせ「富岡製糸場と絹産業遺産群」として平成26年6月25日に、昨年6月の富士山につづき世界遺産の文化遺産に登録された。

3・木骨レンガ造りの東繭倉庫
木骨レンガ造りの東繭倉庫

富岡製糸場について我々世代は、機械がズラッと並ぶ工場内で生糸生産に励む着物姿の女工さんたちの写真を教科書で一度は目にしていると思う。


富岡ICから富岡市の公設駐車場が富岡製糸場の徒歩10分圏内に4か所設けられている。われわれはちょっと遠いが、唯一の無料駐車場のP4に停めてのんびり徒歩で20分ほどゆき富岡製糸場へ到着。P1〜3の有料駐車場(100円/30分)からは徒歩10分ほどで便利。

4・上信電鉄”上州富岡駅”前歩道
上信電鉄・上信富岡駅前舗道

また、駐車場から製糸場への途中には駐車料1000円ほどの数台程度停められる私営の臨時駐車場があり、足元が悪い人は休日の混雑時でない限り工場近くまでアクセスが可能である。


当日は横川ICから富岡製糸場問い合わせの番号に電話し、混雑を確認した。12時過ぎであったこともあり、待ち時間は5分ほどとのことであったが、実際に工場に着き、受付の時間待ちはなく、とてもスムーズに入場できた。


ただ、場内にはボランティアガイドさんに引率された団体、グループの見学者が多く、そうした人々の波を上手に掻い潜り自分のペースで見て回りたい方々は受付でイヤフォーンガイド(200円)を借りるとよい。

5・場内には団体客が多い
平日でも団体客で賑わう(東繭倉庫前)

興味があるところはじっくり、そうでもないところはさっと見るだけといった臨機応変の見学が効率性もよく、おすすめである。

6・繰糸場内と製紙機械
繰糸場内、ここで着物姿の女工さんが製紙器械を操作していた

また、ちょっとしたエピソードや詳しい説明が欲しい人はちょっと面倒でもボランティアガイドさんに引率された見学が質問も可能であるのでお薦めである。


われわれはイヤフォーンを借り、通りすがりにボラティアさんの面白そうな話は立ち止まって耳を傾けるといった都合の良い廻り方をした。

7・繰糸場外観
繰糸場外観

そんなこんなで約1時間半で富岡製糸工場見学を終えたが、多分、混んでいるときにはもう少し時間の余裕を見る方がよいと思う。


残念であったのは、今年2月の豪雪で乾燥場がほぼ全壊し、それがまだ再建されずに見学不能であったことである。

8・雪害で崩壊した乾燥場と煙突
雪害で乾燥工場は崩壊、煙突のみ残る

世界遺産登録が確定していたにもかかわらずにこうした被害に合わざるを得なかったのは、この国の文化財行政予算の貧困によるものではなかったかと慙愧に堪えない。


富岡製糸場は明治5年(1872)に日本初の近代的官営工場として設立、運営された。

BlogPaint
東繭倉庫入口上部に”明治五年”の刻字

そして、富国強兵を企図する明治政府が日本の輸出産業の柱となる生糸生産の近代化を急ぎ、その結果、外貨獲得に大きく寄与したと理解していた。


しかし、今回の見学で、その工場の設立目的が直接的な生糸生産にあるのではなく、全国に近代的製糸工場を増やしてゆく際の機械操作の女性指導者を育成する教育機関であったことを初めて知った。

10・女工館(仏人女性指導者宿舎
女工館(仏人女性教官の宿舎)

フランス人のポール・ブリュナ(Paul Brunat)がその日本人幹部女性の教育指導に当たったが、当初は彼が呑む赤ワインは若い女性の生血であるといった話が信じられ、全国から応募を募ったが人が集まらず、大変な苦労をしたのだという。

11・ブリュナ館  12・ブリュナ館・裏手より
壮大なブリュナ館(左:表側 右:裏手よりテラスつきの広大な住居)

そしてそんな苦労を乗り越え、器械製紙産業の普及、技術者育成という当初の目的が遂げられた明治明治26年(1893)に三井家に払い下げされ、ここで民間企業としての歴史を刻み始めている。


その後、明治35年には横浜の三渓園で有名な原合名会社に譲渡され、昭和13年には株式会社富岡製糸所として独立。戦時色の強まる昭和14年には当時、日本最大の製糸会社であった片倉製糸紡績株式会社(現・片倉工業株式会社)に合併された。

13・旧・片倉組事務所(岡谷市)
岡谷市に現存する旧片倉組事務所

戦後も現役の製糸工場として稼働を続けたものの、生糸産業の衰退も極まり、昭和62年にとうとう操業停止のやむなきに至った。


明治初期から昭和62年までの115年間におよぶ富岡製糸場の歴史の内、官営工場であった期間はわずかに21年間であったことは、ちょっと意外であった。

14・西繭倉庫
西繭倉庫

明治政府の官がやるべき時は官、民がやるべき時期には民という機動性、迅速性、効率性といった政治哲学は、今の政治がなかなか上手く公営事業の民営化を果たすことが出来ぬことと較べ、学ぶべき点が数多あると思い知らされたものである。

15・右が東繭倉庫、左が女工館
右が東繭倉庫、左が女工館

秋の好日、そんな近代日本の曙の息吹が感じられる世界遺産・富岡製糸場を見学できたことは実り多い貴重な一日であった。


秘宝・“翠玉白菜(すいぎょくはくさい)”を鑑賞、日中関係を想う=特別展「台北 國立故宮博物院 神品至宝」

7月7日(月)七夕の日、東京国立博物館にて開催中の特別展「台北國立故宮博物院−神品至宝−」に駆け付けた。

1・特別展示室のある本館
翠玉白菜が展示される東京国立博物館・本館

というのも、門外不出の素材の美と至高の技が織りなす究極の「神品」“翠玉白菜(すいぎょくはくさい)”2週間限定公開であり、7日がその終了日ということを知ったからである。


4、5日前、知人から台湾旅行の土産として“高山茶”が送られてきた。 “滑り込みで日本への旅立ち前日の白菜を見られました”との謎めいた一文がしたためられた葉書が同封されていた。


「何だこの葉書?」と、戴いた高山茶を喫みながらつぶやくと、家内が「いま東博でやっているハクサイよ」と応じた。


「ハクサイ?」 「博祭(ハクサイ)、東博の祭典?」 「百歳・・・ヒャクサイ?」

ってな、“?(はてな)”が、脳内細胞に張り巡らされた脳神経のネットワークを全速力で駆け巡る・・・


その怪訝な表情のわたしを哀れむかのように家内が語った。

「台湾の故宮博物院の秘宝の特別展が上野の国立博物館で開催されているでしょ。その一番の目玉が“白菜”なの」と。


翡翠で造られた白菜だというではないか。

はぁ? 宝石で何で野菜なんか造るわけ?

訳の分らぬ話の展開に、ようやくネットで検索。写真でその“白菜”なるものをとらえた。

だから・・・なに?とも思ったが、まぁそれだけの秘宝と云うからには百聞は一見に如かずとなった次第。


だが、それが7日までたったの2週間限定の公開だというではないか。あとの展示品は基本的に会期末の9月15日まで見ることが出来るのに・・・。


でも、知人が見た秘宝・“白菜”だけはすぐに台湾へ戻されるのだという。今回、初めて故宮博物院の外へ持ち出されたのだそうで2週間が限度とのことらしい。


その代わりにというのだろうか、10月7日(火)から11月30日(日)まで九州国立博物館に場所を替えて開かれる同特別展において、台湾にある残り一つの三大至宝、瑪瑙(めのう)の肉形石が同じく2週間限定で出展されるのだそうだ(三大至宝:翠玉白菜の他に、肉型石(台北故宮博物院)、清明上河図(北京の故宮博物院所蔵)をいう)。

0・肉形石
三大至宝の肉形石 館内販売所にて購入ポストカードより

そういったことで、二人の予定が何とかついたのが最終日の7月7日に雨の降るなか遠路、上野へと出かけたわけである。


月曜日は東博は休館日であるが、白菜最終日ということで特別展だけは開館というお役所仕事とは思えぬ大サービス。

そのお蔭で、こうやって“白菜”報告が出来たわけである。最近の役所は捨てたものでもないなと少し見直した。


さて博物館の敷地に入ると、雨傘の長い列が見えるではないか。列の最後尾には110分の表示。

2・110分待ちの行列
最後尾から行列を見る

なんと午前10時25分に列んだのにあと約2時間行列のなかに・・・あぁ・・・しかも、雨の中・・・


秘宝鑑賞の最終日なのでこれも仕方がないかと二人とも素直に納得。従順な羊よろしく雨中行軍の一兵士としての心構えを固めた。


だが、これまた最近のお役所仕事は素晴らしい。
雨除けのテントが用意されている。

3・テントに列ぶ人々とNHKのニューススタッフ
テントに列ぶ人々、NHKのニューススタッフが報道

しかも、途中、テントが途切れた際には、急遽、近くの表慶館へ。

4・迂回路の表慶館内
雨を避けるため表慶館のなかに迂回路を

雨に打たれて列ぶわれわれを迂回路を準備した館内へと次々に誘導。その臨機応変、機動力、心遣いにも少々驚いたところである。


ところで、特別展「台北 國立故宮博物院−神品至宝−」は平成館で開催されている。

5・主たる会場・平成館
翠玉白菜を除く展示品は平成館に並ぶ

ただ一点、この秘宝“翠玉白菜”は、あのモナリザとツタンカーメンを展示したのみという本館の特別展示室に飾られていたのである。ますます期待は高まってゆく。


いよいよ、われわれは“翠玉白菜”目指して本館内へ突入。列び出してちょうど一時間であった。

6・翠玉白菜の特別展示室
翠玉白菜を展示する本館内

110分を大幅に短縮した偉業を達成と思ったのも束の間。本館内左手の待合室へと誘導され、そこでクネクネと折り返しの行列。やはりあと1時間は列ぶのかと意気消沈したものだが、そこからは特別展示室の翠玉白菜までは40分弱。

7・特別展示室入口
この特別展示室の奥に翠玉白菜が飾られている

“翠玉白菜”は、半分が白、半分が緑色をしたひとつの翡翠輝石を原石として、その形状や色合いを巧みに生かし彫り出した「俏色(しょうしょく)」と呼ばれる玉器工芸品である。

8・翠玉白菜
三代至宝の”翠玉白菜” 館内販売所にて購入・ポストカードより

目の前にある翠玉白菜は抱いていたイメージよりも小さく、高さ18・7cm、幅9・1cm、厚さ5・07cmの工芸品であった。写真で見ていたし、白菜というのだから円みを帯びた形状をしていると勝手に想像していた。


しかし、ぐるりと一周しながら360度の角度で鑑賞できる。実はこの白菜は横から見ると分厚いかまぼこ板のような形状で、白菜の頭部、緑色の部分には厚みがあるということが分った。


そして、正面から見ると、あら不思議や不思議、あの写真のように見事に円みをおびて見えるではないか。これぞ、造形の妙、匠の神技なのだろう。素晴らしいのひと言である。


学芸員の人に訊ねたところ、本日は非常にゆっくりとこの翠玉白菜(すいぎょくはくさい)を鑑賞できるのだという。昨日までは狭いブースのなかに四重、五重の人の輪ができ、ゆっくり会話しながらの鑑賞などとても無理だったのだそうで、大変、幸せなことであったと感謝したものである。


秘宝を熟視玩味したあと、廊下つづきで平成館へと移動。

9・平成館エントランス
平成館エントランス

故宮博物院の宝物の多数を時間の許す限り、わたしの脚力の続く限り、見て回った。書あり、画あり、青銅器あり、磁器あり、刺繍あり、玉工芸品あり・・・


皇帝のコレクション、西周時代・前9〜前8世紀の“散氏盤(さんしばん)”も、そこに書かれた350の文字に、わが国の縄文時代に既に中国にはこうした文物がと、その歴史の厚み、奥深さには到底敵わないと心底思った。

10・散氏盤
”散氏盤(さんしばん)” 館内販売所購入・ポストカードより

また、これも白と黒の色合いを持つ一つの原石を彫った愛らしい“人と熊”。

11・愛らしい”人と熊”
高さ6、7cmの”人と熊” ポストカード売切れのためポスターを撮影

それを創り出した諧謔(かいぎゃく)溢れる人物も中国人なのだと思うといまの両国の確執はいったい何なのだと思わざるを得なかった。


こうした展示物をじっくり見て回っているうちに、故宮の至宝は何も“白菜”だけではないと、正直、思ったのである。


そして、(所蔵は台湾であるにしても・・・)中国という悠久の歴史を誇る国家はやはり凄い国だと思った。こんなにも豊かな文化を作り上げた国である。豊かな心がいまの中国人のなかにないはずはないとも思った。


お互いの歴史の中に息づくこうした文化の交流からも何とかいまの冷え切った日中関係の雪解けを図っていく道筋を見出して行けたならばと強く感じた一日でもあった。


翠玉白菜は帰国するが、先の“人と熊”もまだある。教科書で覚えた“永楽大典”の実物も間近に見ることが出来る。


ぜひ、中国という国の奥深くに潜む人間の英知に触れるために、東京国立博物館へ足を向けられることを願う。


こうした時代であるからこそ、なおさら必要なことであると思った。




流刑の地・佐渡で夢幻能を演じて見せた世阿弥を辿る=佐渡の旅

世阿弥が配流された佐渡島で“天領佐渡両津薪能”にパルピテーション=佐渡の旅
2014年6月9日、佐渡・大野亀はトビシマカンゾウが見頃でした=佐渡の旅
彦左の美術館=佐渡の幻想・大野亀
佐渡・“トキの森公園”で、朱鷺色?のトキに“トキ”めいた〜=佐渡の旅

文中3年(1374)、京都の新熊野(いまくまの)神社(東山区今熊野椥ノ森町42)にて観世清次(後の観阿弥)は結崎座を率い”今熊野勧進猿楽”を興行した。

世阿弥直筆の花鏡から採った”能”の字を刻む石碑
新熊野神社に建つ世阿弥直筆の花鏡から採った”能”の字

時の将軍足利義満はそこで藤若丸(後の世阿弥)を認め、その美貌と技量を高く評価し、父と共に将軍の同朋衆へと取り立てた。


世阿弥は生来の素質を開花させ、義満の庇護の下で申楽を能へと大成させていった。

新熊野神社
能発祥の地、新熊野神社

しかし、齢とともに将軍も代が変わりその恩寵も薄れてゆくなか、観世流の本流は甥の音阿弥(世阿弥の弟・四朗の子)が仕切り、公職たる楽頭職も同人に移っていった。


世阿弥71歳の時、著作・『却来華』のなかで「(後継者であった嫡男の)元雅早世するによて、当流の道絶えて、一座すでに破滅しぬ」と記すなど、能の表舞台から遠ざけられ、後継者たる嫡男を一年前に失い前途を悲観していたことがうかがわれる。


そうした失意のなかにあった永享6年(1434)、罪状は定かではないが72歳という高齢で、第6代将軍義教により佐渡配流の憂き目にあうのである。


さて、世阿弥は佐渡で七編よりなる小謡曲舞(こうたいくせまい)集・“金島(きんとう)書” を著している。それに拠って世阿弥所縁の地を訪ねてみることにしよう。


第二編の『海路』に、「下(しも)の弓張りの月もはや、曙の波に松見えて、早くぞ爰

(ここ)に岸影の、爰はと問えば佐渡の海、大田(おほだ)の浦に着きにけり」とあるように、世阿弥は日蓮が上陸した松ヶ崎に隣接する多田の地に配流の一歩を刻んでいる。


「(佐渡に着いた)その夜は大田の浦に留まり、海人の庵の磯枕して、明くれば山路を分け登りて、笠かりという峠に着きて駒を休めたり」とあり、「そのまま山路を降り下れば、長谷と申て観音の霊地わたらせ給。故郷にても聞きし名仏にてわたらせ給えば、ねんごろに礼拝」している。

3.観音堂から見る長谷の山々
長谷寺観音堂から見る長谷の山並み

配流一日目は多田の浦で一泊、翌日、笠借峠(現在の笠取峠・誤記との説も)を越える。そして、長谷(ちょうこく)寺に立ち寄っている。

4.長谷寺・仁王門
長谷寺・仁王門

そこで今では33年に一回開帳される秘仏のご本尊、十一面観音立像三体を世阿弥は礼拝したと記している。

5.階段上に観音堂
自然石の急な石段がつづく

長谷寺の急な石段を登り切った処に観音堂が建つ。

6.長谷寺・本堂
長谷寺・本堂

そして本堂は石段半ばに位置している。

7.世阿弥も参拝した観音堂
観音堂

当時、世阿弥がどちらに礼拝したかはもちろん詳細は分らぬが、説明板は観音堂の前にあった。


長谷寺に立ち寄ったあと、「その夜は雑太(さうた)の郡、新保(しんぽ)と云ところに着きぬ。国の守の代官受け取りて、万福寺と申す少院に宿せたり」とその行程を述べている。

8.世阿弥配処・万福寺跡石碑
佐渡市役所の西側辺りが万福寺跡

いまの佐渡市役所の西に隣接する万福寺跡が最初の配処ということになる。わたしが立つこの地をあの能聖・世阿弥も同じように踏みしめたのかと思うと、”跡”という語感もしみじみと耳に響いてきて趣きがある。

9.万福寺跡説明板

ここが、世阿弥の最初の配処である。

10.万福寺跡石碑

現在、万福寺は廃寺となっており、往時をしのぶよすがはそこに建つ石碑のみである。


第四編の『泉』に、「泉と申す所なり。これはいにしえ順徳院(順徳天皇)の御配所なり。・・・鄙(ひな)の長路(ながじ)の御住居、思いやられて傷(いた)はしや。所は萱が軒端の草、忍ぶの簾絶々(たえだえ)なり」とある。

11.黒木御所跡前
県道306号線に面する順徳天皇配処・黒木御所跡

世阿弥は次の第五編で述べているが万福寺より泉という地に移された。その泉の配処・正法(しょうぼう)寺から北へほんの400mほど歩いたところに順徳天皇(承久の変で配流)の仮御所・黒木御所跡がある。

12.黒木御所敷地内
黒木御所跡敷地内

世阿弥は徒然なるままに近くの黒木御所跡をたびたび訪れていたのであろう。


そして22年間の流刑の末、この地で果てた順徳天皇が荼毘に付された真野山・火葬塚(真野御陵)にも世阿弥は足を運んだに違いない。

13.真野御陵
順徳天皇の火葬塚・真野御陵

そこには天皇が失意のなかたびたび散策されたという御陵参道の先に小暗がりの石道があるからである。

14.奥に順徳天皇の御陵
手前柵外から撮る・この奥に火葬塚

おそらくこの石道を世阿弥は順徳天皇に心を寄せながらひとり歩いたことだろう。

15.真野御陵参道
真野御陵参拝所への参道

今では“順徳天皇遺愛の石道”と刻まれた石柱が道端にぽつんと建つのみである。

16.御陵前に建つ”順徳天皇御遺愛の石道”を刻む石柱
御陵参道の礼拝所への曲り角に建つ”ご遺愛石道”の碑

人影のまったく見えぬひっそりとした世の中から取り残されたようなさびしい小道である。


第五編『十社』に、「かくて国に戦起こりて国中穏やかならず、配所も合戦の巷になりしかば、在所を変えて今の泉という所に宿す。さる程に秋去り冬暮れて、永享7年(1435)の春にもなりぬ」とあり、戦によって新穂の万福寺から逃れ、泉の正法寺へと配流先が変わったことを述べている。

17・正法寺山門
正法寺(しょうぼうじ)山門を見る

そして、この正法寺にて、「ここ当国十社の神まします。敬神のために一曲を法楽す」とあり、能を奉納したことが記されている。

18・正法寺本殿
正法寺・本殿

これが佐渡で世阿弥が能を舞ったといわれる唯一の記録である。

19・この本堂内で”ろうそく能”を催す
この本堂内で行われる”ろうそく能”のように、世阿弥もここで舞ったのか・・・

であれば、正法寺に伝わる世阿弥の“雨乞いの面”を被り、世阿弥がこの本堂で能を舞ったということも十分、考えられるのである。

20・神事面べしみ・佐渡HDR写真研究所より
正法寺に伝わる世阿弥の雨乞いの面(佐渡HDR写真研究所より)

後日、分かったのだが、事前に正法寺に電話でお願いしておけば、住職自ら、雨乞いの面を見せていただけるということで、残念至極、無念やるかたないところである。

21・世阿弥太夫御腰掛石
世阿弥の腰掛石

境内には、世阿弥が腰掛けたと伝わる“腰掛石”も史蹟として残されている。

能に興味のあられる方は、是非とも訪れる価値のある正法寺である。

22・山門前に”世阿弥太夫旧跡記念碑”
正法寺山門前に建つ”世阿弥太夫旧蹟記念碑”

正法寺は記録で確認される限り世阿弥が最後に能を舞った処である。まさに能のパワースポットともいえる場所である。


そして、嫡男元雅亡き後、後継者と定めた女婿・金春禅竹に宛てた書状、永享7年(1435)6月8日付の “佐渡状”を最後に、世阿弥の足跡は張りつめた絹糸を断ち切ったように見事なまでに絶たれ、その行方、没年も杳(よう)として知れないのである。


一説によれば、嘉吉3年(1443)、世阿弥は81歳で他界したという。

観月能・紅葉狩り
厳島・観月能

その歿地も佐渡であったのか赦免されてどこか他国にて死去したのか、宿敵義教暗殺が観能の最中だったという宿怨、まさに怨霊を演ずる夢幻能のごとく世阿弥はその現身を霧の中にかき消すようにして己の生涯の幕を閉じたのである。


能を能たらしめた夢幻能を世阿弥自身が存在を晦ますことによって昇華させたとしか云えぬ不思議な夢現の生涯であったように思えてならない。





京都国立博物館・“南山城の古寺巡礼展”は必見、6月15日まで

前日の湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の秘仏本尊御開帳を巡ったあと、京都国立博物館で4月22日から6月15日まで開催されている“南山城の古寺巡礼・祈りと癒しの地”展を拝観した。

南山城古寺巡礼・禅定寺の重文十一面観音立像
禅定寺蔵 重文・十一面観音立像

どちらも貴重な機会であり、時間がある方はぜひご覧になられたらよい。ちなみに湖東三山の秘仏公開は6月1日までである。

百済寺石碑

南山城は京都府の南部、木津川流域の辺りを指す旧国名である。その地は古代から水運に利用された交通の大動脈であったため、縄文時代よりたくさんの人々が住みついた場所であった。

京博入口

その証拠に縄文遺跡や古墳時代前期の椿井大塚山古墳など多くの考古学的な遺跡が残されている。


また、奈良時代の740年に聖武天皇の勅によりこの南山城の地(現在の木津川市賀茂地区)に遷都が行われた。いわゆる恭仁(くに)京であるが、この地に都があったのはわずか2年の短期間であるが、その後も平安、鎌倉と仏教寺が、多数、創建されており、現代に多くの文化財を伝えている。

京都国立博物館

南山城は“古仏の宝庫”なのだという。それも十一面観音信仰が色濃く残る古寺の集積地だと説明された。


一堂に集められた南山城の主な古寺は以下の通りである。


相楽郡笠置町     笠置寺

木津川市加茂町   海住山(かいじゅうせん)寺・浄瑠璃寺・岩船(がんせん)寺・現光寺

木津川市山城町    蟹満(かにまん)寺・神童(じんどう)寺

京田辺市         観音寺・寿宝(じゅほう)寺・酬恩(しゅうおう)庵(一休寺)

綴喜郡宇治田原町   禅定寺


南山城古寺巡礼では、そうした古仏のほかに、京都国立博物館の今回の文化財調査を通じて初めて明らかにされた仏像・工芸品・書跡・絵画なども併せて展示されており、仏教美術に深い関心のおありになる方は必見である。

大御堂観音寺・国宝十一面観音立像
観音寺・国宝十一面観音立像(京博・販売写真)

交通が不便な南山城にある一寺、一寺を訪ね歩くと大変な時間と労力がかかるのを、今回は京都国立博物館へ足を運びさえすれば、そのすばらしい古仏が一堂に会し、われわれを待っていてくれる。


わたしたちは約3時間かけて美しい仏像や貴重な仏宝を堪能した。これほどの文化財をわずか3時間で見ることが出来たのである。


そして、「なかでもとくに気に入ったのが、観音寺の国宝・十一面観音立像である。天平時代を代表する美しい仏様である。」と、当初、このブログに記載したが、南山城の巡礼を実際になさっておられる”まさこ”様から、ご指摘があり、今回、この観音様は出展されていませんでした。

赤面の至りですが、その誤解の弁明はコメントの返信で詳述しましたが、次は実際に京田辺市普賢寺下にある観音寺へ参拝し、直接この美しい観音様にお目にかかってこようと思います。

ということでございまして、出展されていない仏様にも場合によっては、お目に掛かれるこの
“南山城の古寺巡礼展”は6月15日まで、あとわずかである。






2014年京都・葵祭の“社頭の儀”に参列する

(当ブログ・「彦左の正眼」内の一切の写真・記事等の転用を禁じます)

2014年5月15日午前11時40分から下鴨神社の“社頭の儀”に参列した。

斎王代の参進


葵祭は賀茂御祖神社(かもみおや・下鴨神社)賀茂別雷神社(かもわけいかづち・上賀茂神社)で5月15日(陰暦四月の中の酉の日)に執り行われる例祭であり、1400余年もの歴史を有する。


葵祭といえば、あでやかな十二単をまとい、腰輿(およよ)に載った斎王代の行列の様子が有名であるが、それは祭儀のなかで“路頭の儀”という儀式の一部分ということだそうだ。今回、知人のご厚誼により“社頭の儀”への参列が叶ったが、葵祭の祭儀が“宮中の儀”、“路頭の儀”、“社頭の儀”の三つで構成されていることを初めて知った次第である。


10時半に京都御所を進発した行列は、近衛使代(勅使代)を中心とした本列と斎王代に従う斎王代列に分かれて最初の目的地・下鴨神社へ向けて都大路を進む。


その規模は総勢500余名、馬36匹、牛4頭、牛車2台におよび行列の長さは1km、最終目的地・上賀茂神社までの総行程は8kmにおよぶ。

京都御苑の玉砂利を踏んで行列が通ります
1時間前に葵祭りの行列を待つ京都御苑内の見物客


今回は当初、京都御苑で路頭の儀を拝見し、すぐに下鴨神社へタクシーで向かい、社頭の儀に参列の心づもりでいたが、斎王代の行列を見てから交通規制が布かれたところでタクシーを調達するのは至難の業であると判断し、急遽、下鴨神社へ直行することになった。

鳥居横から入場

下鴨神社へ到着すると、ここも行列到着の1時間以上前というのに人出は多く驚いた。受付を済まし、南口鳥居の脇から“社頭の儀”の催される楼門内へと入ってゆく。

楼門前で記念撮影・黒袍が宮司、赤袍が副宮司 左より権宮司・宮司・勅使
行列到着前に勅使と宮司・権宮司が楼門前で記念写真を撮っておられました


われわれは舞殿の東に位置する橋殿に設けられた平場の席へ着いた。

舞子さんも参列していました
舞子さんも参列

席は自由ということだったが、すでに前三列まではいっぱいで、四列目に陣取ることとなった。右隣りは斎王代関係者などが坐る椅子席となっていた。

4列目に陣取る 斎王代関係者の椅子席

そして、ほぼ予定通りに行列が南口鳥居前に到着との案内があった。11時50分過ぎ楼門が開き、虎の敷物を抱える従者を従えた本列の人物が入って来る。

本列の社頭参進

そして、楽隊の一団が入場したあとに、斎王代の行列が入って来る。

斎王代列が入って来る

斎王代は鳥居の前で腰輿(およよ)を降りられ、童女に裾を持たせて歩いて参進してくる。


華やかな十二単の衣装が美しい。


今年の斎王代の太田梨紗子(神戸大2年・20歳)さんは、京菓子司老松のお嬢さんである。

斎王代・太田梨紗子さん 斎王代に続く女人

女人列の命婦や女官たちが続く様子は、なるほど王朝絵巻を見るようである。


それに続き、社頭の儀の主役である勅使が陪従や舞人を従え、入場する。下鴨神社では、いったん剣の間に入り、勅使は腰の剣を解かれる。

勅使
剣の間で刀を解いた勅使が舞殿前に参進

それから参進され、内蔵使代から祭文を受取る。

内蔵使代より御祭文を受取る勅使
内蔵使代が祭文を手渡す
内蔵使代
内蔵使代

そして、舞殿の南階段を昇り、しずしずと歩み、祭文の座に着く。

祭文の座に進む勅使


祭文の奏上は微音にて行われるため、頭を垂れたわれわれ参列者の耳にその声は届かない。

祭文奏上が終わると宮司が北階段を昇り、神宣を勅使に伝える。

勅使に神宣を伝える新木宮司

宮司は一旦、舞殿を退き、今度は神禄を捧げ持ち、階段を昇り、勅使に授ける。

神禄を捧げる宮司

これで祭儀の肝の部分が終了。勅使は舞殿を退下し、剣の間にて佩刀される。


その間に、招待客による拝礼が順次行われる。今年の参列者総代は京都国立博物館の広報特使を務める藤原紀香さんであった。

藤原紀香さん 参列者総代の藤原紀香さんの拝礼

さすがに他の拝礼者とはカメラのシャッター音が異なった。ご祭神も苦笑いというところだろうか。


拝礼が終わると、神服殿で控えていた斎王代以下の女人たちが退出しはじめる。


その間に佩刀した勅使が陪従を従えて剣の間より出てこられ、橋殿の前に立つ。


そして、東游(あずまあそび)の序歌を陪従が唄うなか、牽馬(けんば)之儀が執り行われる。

牽馬(ひきうま)之儀

馬寮使が馬二頭を馬部に牽かせ、西から東へ舞殿を三廻りする。今年は舞殿正面で馬寮使が最敬礼する度に白馬も一緒に頭を下げるのが愛らしく、参列者に笑みがこぼれた。

舞殿を三廻りする



そして、舞人による“東游(あずまあそび)”が優雅に披露される。
駿河舞
まず、駿河舞が舞われる。
舞人・駿河舞

次に、求子(もとめご)舞が舞われる。

求子(もとめご)舞

東游が終わって、神前での社頭の儀は滞りなく終了ということになる。


ここで、勅使も陪従や舞人を従え、楼門より退出される。

勅使と陪従


参列者もこれにて橋殿を去ることになる。

風流傘と楼門
楼門前に路頭の儀で使用する風流傘が飾られていた

風流傘と神馬

牽馬之儀を終えた馬が厩舎で休憩中


そして、引き続き糺の森の馬場で“走馬の儀”が行われる。

走馬の儀

数頭の馬が疾駆し終えて、社頭の儀の一切が終了となる。


11時40分に始まった社頭の儀がすべて終了したのは午後2時10分であった。2時間半におよぶ厳粛な祭儀に参列できて、1400年余続いてきた古儀のなかに息づく日本人の敬虔な信仰の心、文化の伝承の大切さをあらためて思い返したのである。



主人公の誕生を待つ端午の節句飾り=日本の伝統行事

近所で鯉のぼりを立てる家を見なくなって久しい。


よくテレビで川の両岸に綱を渡し、たくさんの鯉のぼりを泳がせる光景は見るが、個人の家で鯉のぼりを揚げているのを、ここ東京で目にすることはほとんどない。

岡山・吉備津彦神社の鯉のぼり
岡山・吉備津彦神社の鯉のぼり

都会の住宅事情があるのは分かるが、何とも味気ない世の中になったものだ。


そう言いながら、我が家も息子が30歳を越した今、鯉のぼりもないのは世の常識だが、孫でもできたらと密かに思っていたところ、初孫が女の子ときた。


そこで雛の初節句を3月に行ったことは、先般、当ブログにもアップしたところである。


5月は端午の節句。主人公の登場が待ち遠しい節句である。

端午の節句飾り

疾うに息子は嫁取りをし、家を離れており、さすがに鯉のぼりというわけにもいかないが、数年前から節句のお飾りだけはしようということになった。


何だかこの齢になってくると、日本の伝統といったものの良さが分って来たのか、各地の伝統の祭りや節句の風習など季節の行事に心を配るようになったのである。


ちょっと佇まいを正して物申すと、こうした伝統、日本人の心や精神文化を、我々の年代はとくに大切に後世に伝えてゆく責任があると考えている。


ただ、家内に訊いたところ、鯉のぼりに関しては、鯉のぼり自体は残してあるが、それを揚げる高いポールはかなり昔に捨ててしまったという。庭に地中に突き刺したポールの一部が錆びついて残っているのみだそうだ。


次に男の孫が出来たらよいなぁ、その時にはポールを買い直そうなどと思いながら、主人公を待つ鎧兜を一人眺めているわたしである。




小保方晴子さん、「STAP細胞は200回以上作製に成功」=5.5日に一回作成できた

小保方晴子・理研研究ユニットリーダー(UL)が、8日1時より大阪市内のホテルで、弁護士を伴ない記者会見を開いた。


そのなかで、「STAP細胞は(これまで)200回以上作製に成功しており、真実です」と語った。


今回のSTAP細胞論文疑惑の騒動のなかで、もっとも知りたかった事実、つまり、STAP細胞の存在の有無であるが、この件につき同氏は冒頭の発言をし、「真実」という言葉で、疑惑を一蹴しようとした。


3時現在でまだ、記者会見は継続中だが、ご本人はSTAP細胞なるものの作製に200回以上も成功し、それを自分は確認しているとした。


ある記者の方が「(STAP細胞の存在を証明するため)、これまで以上の強力な材料を新たに提供することはあるのか」といった質問をしたが、これに対しての納得できる確答はなかった。


そして、記者会見を訊いていて、どうも小保方
さんは今回の騒動の本質がわかっておられないのではと感じられてしようがなかった。


今回のSTAP細胞論文不正疑惑は、論文の作成過程のねつ造、画像改ざんがあったかどうかが本質ではなく、STAP細胞という再生医療の世界において夢のような万能細胞が本当に出現したのか否かということが確認されれば、言葉は乱暴で適切でないことは承知のうえで申し上げれば、夢のようなSTAP細胞の作製が現実に存在するのだと世界に知らしめることが出来るのであれば、画像をねつ造しようが一部、改ざんしようがそんなことはどうでもよい。


人類の夢である再生医療に多大な貢献をするSTAP細胞が創出できたのだから。


しかし、それが科学的な客観的データで再生が確認されること、それこそが科学者としての反論、ロジックで正当性を立証するのが、自然科学の世界の常識だと考える。


同氏がいう「200回以上も作製に成功」というのであれば、3年間で200回のSTAP細胞が作製できたことになる。


そうすると、単純なわたしの頭で算数すれば、(365日×3年間)÷200回=1回/5.5日という計算になる。


要すれば、平均5.5日で1回のSTAP細胞の作製が可能であると言うことになる。


そうであれば、すぐにでも、第三者を側に置いた実験においてSTAP細胞を作ってみせることである。理研が言ったような1年間も再現実験にモヤモヤの月日を費やす必要はないし、貴重な頭脳、費用を無駄にすることはない。


さらに、会見の席上で、小保方
さんとはインディペンデントな第三者がSTAP細胞を作製していることを同氏が明らかにした。


名前はこの場では言えないとしたが、これほどの大発見である。堂々とその第三者にもご登場いただき、速や
かにこの偉大な発見に対する謂われない疑惑、中傷を払拭してもらいたいし、科学の発展のためにも当然そうすべきである。


と、言いながら、何だかなぁ・・・この大発見・・・、算数の問題で結論がでるような気がしてきたのも、会見を訊いた後の率直な感想である。




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小保方晴子、科学者の志が一片でも残っているのであれば、正直に全てを話すべき

本日、理研の丹羽仁史・プロジェクトリーダー(PL)の会見があった。


同氏は小保方晴子・研究ユニットリーダー(UL)が英科学雑誌「Nature」に発表した「STAP細胞」論文の共著者の一人で、論文不正問題をうけて、渦中にある “STAP細胞”の再現実験で研究実施責任者を務める。


同氏について、4月1日、” 研究論文の疑義に関する調査委員会”(石井俊輔委員長)は、「論文作成の遅い段階でこの研究に参加したものであり、画像データの抽出等には関与しておらず、不正は認められなかった」とした。


丹羽仁史氏は幹細胞生物学の分野の一線で活躍する研究者だというが、その人物が今日、憔悴し疲労の影を濃く落とした姿で、時折、苦渋の表情を浮かべて、「STAP細胞」論文ではより簡便に作成できるとされたSTAP細胞の再現実験を行う手法・手順等について説明を行なった。


時代の最先端を走る難解な研究テーマであるため、実況中継の一部を聴いたくらいでは、当方、チンプンカンプンで、もちろん、理解などできない。


ただ、STAP細胞の存在の有無について質問された際に、この論文発表に関わった科学者としての言葉を発したことで、このSTAP細胞不正問題については、これ以上、検証に無駄な時間や頭脳、それから税金を投入すべきではないと強く感じた。


と言うのは、丹羽PLが「(わたしは)Nature論文の撤回に同意していますので・・・」と語尾をフェイドアウトした語り口が、現段階で、“STAP細胞は存在しない”との強い心象を抱いていることを伝えたように思えたのである。


さらにSTAP細胞の存在について同氏が、「あるかどうか分からない」という立場で、「あるかどうかを(科学者として)知りたいというスタンスから、検証実験に参加することにした」と、咽喉から絞り出すようにして語った時、総合的な見地から、もう、こんな猿芝居、茶番劇は止めにすべきであると思った。


そもそも、論文の画像の一部に不正、ねつ造があったと調査委によって断定されたSTAP細胞問題だが、誰しもが不思議に思うのが、小保方晴子ULが簡単にできると言っていたSTAP細胞の再現を純粋な科学者として淡々とやってみせれば、この混乱、疑惑は一挙に収まり、逆にまた賞賛の嵐となるのは当たり前のことであるからである。


何も弁護士までつけて、「悪意のない間違いにもかかわらず改竄、捏造と決めつけられたことは、とても承服できない」と反論したり、不服申し立てを行うなど無駄な時間を費やすことなく科学者として、STAP細胞再現という客観的事実を示すことにより、わたしのような愚かなる世の民を納得させればよい。


彼女がいま取り組むべき最重要課題はSTAP細胞の再現であり、いまの彼女の有り様はロゴスこそが命のはずの科学者からは遠い対極にあるパトスの支配する愚かなる姿であると云わざるを得ない。


小保方晴子という人物にいささかでも科学者としての志、あるいは魂のひと欠片でも残っているのであれば、もういい加減に人前に出てきて、正直に全ての真実を語るべきである。


小保方ULの研究不正という事態を招いたことの責任は重大であると指摘された笹井芳樹・CDB 副センター長や若山照彦・国立山梨大学生命環境学部教授の両名についても、同様に早いところ会見場に姿を現し、これまでの経緯につき真摯に事実を述べてもらいたい。


そのうえで、日本の優秀な頭脳集団のひとつとされてきた理研の、組織としての問題点の洗い出しを徹底的に行ない、こうした問題の再発を防止する対策を講じ、責任をどう具体的にとるのか結論を出すべきである。


このSTAP細胞の再現追試に貴重な時間とコストを費やす研究者は日本にも世界にも見当たらないとも云われている。


だが、理研は自らが招いた疑惑であるため、事の決着をつけざるを得ないことも、事実である。


Nature」に論文を通すため、丹羽氏は誰か上司から共著者として名前を貸せとでも云われたのかも知れない。そして、共著者ではあるが、不正問題についてはシロとされたため、一年間のおそらく徒労に終わるであろう不正論文の追試という研究者としての十字架を背負わされたのではなかろうか。


そんな不条理を避けるためにも、小保方晴子は速やかに真実を正直に語らねばならない。さもなければ、堂々とSTAP細胞を創り出して見せればよい。


とるべき行動は単純であり、下すべき決断は一瞬である。



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上高地・穂高神社奥宮の古式ゆかしい御船神事を参観する

(当ブログ・「彦左の正眼」内の一切の写真・記事等の転用を禁じます)

パワースポット・霊峰明神岳の下、明神池湖畔に鎮まる“穂高神社・奥宮”(2013.11.2)

穂高神社・奥宮の例祭で、毎年108日に催される“御船神事”を参観してみたいものとかねてより思っていたが、今年、ようやくその願いがかなった。

10月8日朝、神事の準備の進む奥宮
10月8日朝、御船神事の準備が進む奥宮
御饌の準備をする神官 御饌の岩魚
御饌(みけ)の岩魚を用意する神官

安曇野市穂高に鎮座する穂高神社本宮では、例年、92627日、例大祭として御船祭りと呼ばれる御船神事が執り行われる。

穂高神社・拝殿
穂高神社・本宮拝殿

海洋と遠く離れた急峻な山脈に囲まれた信濃という地で何故に船祭りかとまことに不思議ではあるが、その謎はいずれ謎解きに汗をかくとして、ここでは御船祭りについて簡単に説明しておく。


長峰山から安曇野を一望
長峰山から安曇野を一望

御船祭りの起源は定かでない。

北九州を本拠とする海人(あま)族の安曇族は6世紀頃にはこの安曇野へ進出したという。

海神である綿津見命(わたつみのみこと)とその子・穂高見命(ほたかみのみこと)をこの地に祀り、そして、海民としてのもだしがたいDNAかそれとも白村江の海戦を指揮した海人族の矜持なのか、船合戦の模様を後世に伝承すべく祭りという形で様式化したのか、いまにしてはもうその真相を推し量る術はないが、千数百年前へ遠く思いを馳せる壮大なロマンを感じさせる神事である。

穂高神社・御船会館
穂高神社本宮・御船会館

そんな本宮の御船祭りの10日ほど後に、奥宮の例大祭として御船神事が催される。毎年、108日の午前11時からその神事は始まる。11時から奥宮前で神官の祝詞や巫女の舞の奉納が30分にわたって行われる。そのなかに併せて、「日本アルプス山岳遭難者慰霊祭」も斎行されている。

アルプス遭難者慰霊祭も同時に執り行われる

これが当日の神事としてのメインなのだが、観光客の関心は、私を含め、明神池を龍頭鷁首の舟が廻る“絵になる”儀式の方に集まるのは、仕方のないところか。


そのお目当ての御船神事は11時半ころより執り行われる。
すでに湖畔にはたくさんの人たちがカメラ片手に待ちわびる。そのなかを、番いの鴛鴦が余興のようにして池の畔に寄って来て、参観者の目を愉しませる。

神事の前に鴛鴦が二羽

一瞬、どよめきが・・・
明神の神使(しんし)であろうか、明神岳の高みから一羽の白鷺が湖面すれすれに舞い降りてきたのだ。
対岸の木の枝に羽を休める白鷺が美しい。

枝にとまる白鷺

しばらくして、もう一度、湖面を滑空し、明神岳麓の一の池奥の湖面の枯れ木に停まる。

明神池の奥に羽を休める白鷺

その姿は端正で神々しくすらある。その様子はまるで神事の前触れでもあるかのようである。


明神池・一の池の桟橋に係留された龍島鷁首の二艘の舟に神官、巫女、雅楽師が乗り込む。

神官が船に乗り込みます

そして、いよいよその姿を明神池にあらわす。御船神事の一番の見どころのスタートである。

御船神事がスタート


その刹那、明神池奥から先ほどの白鷺がさ〜っと池の上を横切り、いずこかへ飛び去ったのである。

夢のような一瞬であった。明神さまのお使いだったことは、不思議なことに撮ったはずの写真に飛空する白鷺の姿がひとつもなかったことからそう信じるしかないのである。

御船神事は神官と巫女が乗り込む一艘目には氏子が幣帛を高く捧げている。

一艘に幣帛を捧げ、神官と巫女が乗船

二艘目には雅楽師が乗り込み、湖上に雅な雅楽の響きをわたらす。

二艘目に雅楽師が乗船


さぁ、これから、順次、写真で御船神事の一切をご覧いただくことにしよう。

湖面に映じる装束
池の中央左へと一列に舟が進みます
湖面を進む龍頭舟
池の中央よりに龍頭の舟がゆく。湖面に映る神官らの姿が美しい
明神岳麓で御船神事
明神岳麓をゆきます
明神岳麓をめぐる龍頭鷁首の二艘の舟
明神池の奥、明神岳の麓に沿い、龍頭鷁首の舟が進みます
明神池奥をゆく龍頭舟
明神池奥を厳かに進む龍頭の舟
雅楽師がゆく
雅楽師もゆきます
ここから異変
このまま、二艘目が流れに押され、池の奥へと・・・
方向転換
何とか方向転換しました
少々、距離があきすぎちゃいました
少々、距離があいちゃいました
大自然の中で行われる御船神事
大自然の中で行われる神事の迫力です
紅葉のなかをゆく龍島鷁首
追いつきました・・・紅葉のなか素晴らしい光景です
紅葉をゆく御船神事
紅葉をゆきます
御船神事もいよいよ終了です
そして桟橋へ戻ってきました

こうして、2013年の穂高神社・奥宮の御船神事は無事、終了の運びとなった。

御船神事の無事終了に満足気な明神岳
眼下で斎行された御船神事の一切を見届け終えた明神岳


終わってみると、舟が池を廻った時間はほんの10分余と短かったのだが、その厳かななかに雅な華やかさを感じさせる神事は、その物理的時間よりもはるかに永い時の流れを観るものに与えたから不思議である。


夢のようなひとときに酔い痴れた人々が明神池をあとにし始めたとき、この神事を参観した人々がこんなにもたくさんいたのかと、社務所脇の出口を埋め尽くす人の列を目にして驚いた。

神事を終え、社務所出口へ向かうたくさんの参観者
出口の混雑もひどかった
神事終了後の奥宮境内の人、人、人

そして、前日にあれほど静かだった奥宮の前が人で溢れかえるさまを見て、御船神事という古式ゆかしい例大祭への関心が、想像以上に高まっていることに嬉しいような、ちょっと寂しいような複雑な気持ちに襲われたところである。




硬いばかりが・・・、軟らかいのと合体して味がでるというものじゃ=うふふ・・・の陰陽石

どうも最近の“彦左の正眼”、硬い話や鬱陶しい話が多過ぎて、書いているこの彦左衛門本人が楽しくない。


そこで、すこ〜し、ここで軟らかい話でもしようかいな。ここの読者は酸いも甘いも知り尽くしたご仁が多かろうて、たまには、こんな話も面白かろう。


この世には男と女、雄と雌しかいぬことは、いまさら語るまでもない。


そして、昔から初めて男と女が出逢うたとき、最初に頭に浮かんでくるのは、言わずと知れた“アレ”のことじゃて。そんなの“あなただけ”と女房殿に叱られようが、自然界の営みを見ておれば、これは生物の生物たる本能そのものであり自然の摂理であって、決して恥ずかしきことではない。つまるところ、神聖なるものということじゃ。


だからして、“アレ”が古来、縁結びや安産の神として崇められてきたのじゃな・・・


まず、神様も摂社、いや、拙者と同様、“好きもの”じゃなぁというところから始めようかの〜。


長崎市に“おくんち”で有名な“諏訪神社”というりっぱな神社があるのを知ってござろう。

諏訪神社
諏訪神社一之鳥居

その神社を参詣するときに、隠れた楽しみ、いや、恋の成就を手助けしてくれる“よかもん”があるんじゃ。


この彦左衛門、見つけたのであるなぁ。写真を撮りまくる拙者を見る女房殿の視線がつとに痛かったのう、あの日は・・・。人間、己の心に正直であらねばならぬとあれほど常々、教え諭しておるのに・・・、女房殿、素直でないのぅ。


さて、諏訪神社の参道には、なんと、陰陽石が埋められておるんじゃよ。そして、ご丁寧に両性合体石までがあるんじゃぁな。なんとまぁ、至れり尽くせりの神社である。


諏訪神社のHP縁結びの陰陽石”に、「男性は女石、女性は男石を踏んだ後、拝殿前の両性が合体した石を踏んで参拝すると、縁結びの願い事が叶うと言われています」と、堂々と、いやご丁寧に書いてござる。


まず一之鳥居をくぐってすぐに“陽石”がござる。HPによれば“男石”と言っておったな。これはオナゴが踏むのじゃぞ。

陽石・男石
この丸いのが”陽石”、なにの断面図であるな

次に四之鳥居付近に、“陰石”つまり“女石”があり申したなぁ。これは彦左が・・・、おっと、わしゃ、もう隠居の身であったわい・・・(=^・・^=) いやはや、ハッ、ハッ、ハッ!

陰石・女石
こりゃ、かなりリアルであるのぅ

そして長〜い階段を登り切ると、正面にりっぱな拝殿がある。

諏訪神社拝殿
拝殿

この前に“アレ”が埋まっているはず・・・ あった〜!! 参拝客が多いので、シャッターチャンスがぁ〜 

両性合体石
両性合体!!

う〜ん、なるほどなぁ・・・。 この“生命の源”が何かを知らずして踏みつけておるご仁がタ〜クサンおったなぁ〜。 じゃが、そうした男女の方が存外、ご利益があったりするものじゃて・・・


長崎の“お諏訪さま”もこれでなかなか粋で面倒見のいい神様であることを分かってもらえたかのぅ。


さて、次はぐっと東へ飛んで、愛知は足助町じゃ。ここには紅葉で有名な香嵐渓があるぞ。その国道153号線沿い、梶平の信号すぐに庚申堂がござる。

庚申堂
足助町の庚申堂

その小さな前庭に“ソレ”は“チン”座しておるのである。

左に埋まるのが陰石・真ん中が陽石
左に埋もれたようなのが陰石、中央が陽石である

陽石は花崗岩で高さが80僉⊆りは1m20僂世修Δ犬磧人工の手を加えぬ男根形の道祖神としてはおそらく日本一というておったわな。

人工の手を加えぬ日本一の陽石
どうじゃ、日本男児の・・・

この極太には拙者はひと言もない。ただ、この短軀にはなぜか日本男児として、至極、親しみが湧くのじゃなぁ〜


陰石は脇に草花に隠れるようにして奥ゆかしく鎮まっておる。大和撫子とはよくぞ言うたもんじゃ。

うん、陰石ですなぁ〜
この慎ましさがいかにもよい・・・

さぁ次に、さらに東へと移動。所は高崎市、榛名神社から榛名湖へ向かう天神峠に突如出現するのが・・・

榛名神社一之鳥居
榛名神社一之鳥居

その名も直截な“男根岩”である。

男根岩
その名の通り。

う〜ん、男子としてはただただ、圧倒されるばかり・・・。注連縄なんか・・・拙者の・・・には・・・、無理に決まってるわな〜・・・ご無礼つかまつった (-_-;)


さてさて、最後に控えしが、今度はまた遠〜く西へ飛び、雲仙の温泉地。

雲仙温泉郷
雲仙温泉郷

そこにの木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)神社に”アレ”があるのでござる。神社は元禄時代頃の創祀だという。

木花開耶姫神社由来
神社由来書き

その参道というより狭い山道の樹々の枝に、たくさんの短冊が吊られておる。

神さびた鳥居と参道に垂れる短冊
神さびた鳥居に参道には白い短冊が吊られている

これを横目に登ってゆくのじゃが、いやはや、途中から彦左の頬はゆるみ、ニヤニヤ、目尻は下がるといった態で、女房殿が“イヤラシイ”と、一緒について来たことを後悔するような、旦那さまを批難するかのような目つきをしておるではござらぬか。


不届きものめが!!


次なる短冊に書かれし名句をご覧じよ。


“新婚で 登りて見れば 明日の励みよ”

“はじらいて 登る二人の 若さかな” ・・・・ 若いもんはいつの世も、よいもんじゃ。


“夫婦喧嘩 あの時ばかりは 仲直り”

“あの人は 口で言う程 できもせず” ・・・・ うむ・・・う〜む・・・


“若後家は 登る道々 冷やかされ” ・・・・ 艶っぽいのぅ


“還暦は とうに過ぎたが まだ欲しか”

“古希なれど せがれはいまだ 二十才”

名句じゃ!
う〜ん、わかる、わかる・・・

日本男児もまだまだ捨てたものではないと、思ったものじゃ。

そしていよいよ坂道の突き当り、小さな平地になっている。だーれもいなかったなぁ。


正面左に、リアリティー満載の“アレ”が天を指し、屹立しておる。

ひっそりと立つ陽石

近づくとなるほど、見事のひと言!

お見事!!
お見事!!

その男根の横に吊るされた短冊には、“あら大き モデルはどこの誰じゃろかい”と、これまた名句でござったなぁ。


そして右手にちょっと行ったところの洞穴に女陰、いや、陰石がこれまたりっぱに祀られておったの〜

洞穴に祀られる陰石

女房殿は男根と女陰を一瞥するや、古びた木製ベンチへ腰掛け、メールを打ってござったな。恥ずかしがらずともよいのになぁ・・・


といった塩梅で、肩の凝らぬというか、ちょっとニヤリとするお話をさせてもらい申した。いやぁ、彦左も久しぶりに愉しませてもらったのう。長々と年よりの妄言にお付き合いいただき、厚く礼を申す次第じゃ。

見逃すと大変!! “国宝 大神社展”・東京国立博物館へ急ごう

東京国立博物館
東京国立博物館

平成2562日(日)まで、東京国立博物館平成館にて、“国宝・大神社展”が開かれている。

大神社展開催中の平成館
大神社展が開かれている平成館

当展は2013年が伊勢神宮の62回目の式年遷宮にあたるのを機に企画されたもので、全国の神社からこれまで門外不出であった秘宝など国宝・重文160点を含め、総展示品目数244におよぶ、空前絶後の神社パワー全開の大展覧会である。

大神社展

“神社オタク”を自認する不肖わたくしは、こうした大展覧会の存在を実はまったく知らずにいたのでありました。 


それが、412日、13日と、たまたま思い立って千葉の香取神宮と茨城の鹿島神宮を訪ねたのであります。それもひとり旅で・・・。


そして一日目に訪れた香取神宮で、宝物館に展示されていた国宝・“海獣葡萄鏡”の説明に、「国宝大神社展貸出中 本品は複製品」とあるのを発見した次第なのである。

海獣葡萄鏡・複製品
複製品の海獣葡萄鏡

もちろん気落ちしたのだが、同時に翌日の鹿島神宮の“直刀(布都御魂剣・フツノミタマノツルギ)”もまさか・・・と訪ねたところ、やはり、同展へ貸出中であり、複製品を拝む格好となった。


鹿島神宮では国宝・直刀がないため、宝物館拝観量を通常300円のところを200円にオマケしてくれ、受付の男性がわざわざ付き添って展示品の説明を丁寧にしてくれたのだが、やはり実物から発揮される神宝パワーはなく、これはどうしても上野へ行かねばならぬと、昨日、今度は家内同行のうえ、この“国宝・大神社展”へ参上した次第である。

平成館館内
平成館館内

平日にも拘わらず館内の展示ケースにはかなりの人が数珠つなぎで並び、熱心に展示物を覗きこみ、説明板に目を凝らしていた。


われわれも音声ガイドを借り、ひとつひとつ丁寧に拝観して廻ったところ、優に2時間半は時間を要しただろうか、見終わった頃には、もう足は棒のようになっていた。


ただ、お目当ての“海獣葡萄鏡”や取っ手の長さで271cmもある“直刀”の実物を目にし、それぞれの大きさに驚き、本物が発する霊験パワーを浴びて、満足したところである。


さらにわたしが愛読している古事記の春瑜(シュンユ)書写(重文)日本書紀の巻第一上神代上(重文)を実際に目にした時、この国のはじまりの物語に熱い想いを馳せたところである。


そして、極めつけが、奈良県天理市の石上(イソノカミ)神宮が提供した“国宝・七支刀”である。この国宝はさすがに見ることは叶わぬと思っていたので、これを目にした時には正直、身内が震えるような心地で、時間をかけてじっくりと堪能した。

奈良県石上神宮・七支刀
七支刀・国立博物館販売のポストカードより

この七支刀は、日本書紀の巻第九神功皇后摂政52年秋9月に、「(百済の使節の)久氐(クテイ)等が千熊長彦に従ってやってきた。そのとき、七枝刀(ナナサヤノタチ)一口、七子鏡(ナナコノカガミ)一面、および種々の重宝を献(タテマツ)る」とある、その実物と云われているものである。


また滋賀県若松神社の”一角獣の狛犬”も失われたユダヤの10支族との絡みで非常に興味あるお宝であった。 

滋賀県若松神社 獅子・一角狛犬
滋賀県若松神社の”阿形の獅子・吽形の一角の狛犬”・国立博物館販売ポストカードより

さらに3月のお水取りで奈良を訪ねた際に参拝した春日大社の国宝・黒漆平文飾劒(クロウルシ・ヒョウモンノ・カザリタチ)など多数の古神宝なども素晴らしいものであった。


“大神社展”、62日まであと3週間余。七支刀は大神社展前期の展示(56日まで)のみであったものを、当神宮の好意により12日までその展示が延長されており、その恩恵にわれわれも与ったわけだが、この稀有な機会を逃さずに、是非、上野へ足を運んでいただきたいと、神社オタクは強く願うものである。何しろ、これだけの全国の神宝を一度に見ることができるなんて、今後、そうざらにはないのだから。

冬至には、ゆず湯とカボチャ、ですよねぇ〜

きょうは冬至。

毎年、なぜか冬至の日にはお風呂に柚子が浮かび、食卓にカボチャの煮物がならんでいる。

このゆず湯、暖かそうですね
浴室に柚子の香りがただよっています

昔からの風習だというので、まぁ何か御利益があるのだろうと、されるがままに“ゆず湯”に入り、最近はそう、結構、好物となってきた南瓜(かぼちゃ)もおいしくいただく。

冬至のカボチャ
最近はおいしいと思うようになった冬至の南瓜

そこで、せっかくだからとブログにアップすることにした。

例年は半分に切った柚子を洗濯ネットに入れたものが湯船に浮かんでいるのだが、今年は写真撮影がしたいと家内に頼み、素のままの柚子、それから半分に切ってみた柚子を浮かべたショットを撮った。

丸ごと浮かべてみました
丸ごと浮かべてみましたが、香りがいまいち・・・

当然、香は半分に切った方が浴室に柚子の香りがふわ〜っと漂い、わぁ〜冬至だ〜となる。

冬至のゆず湯
半分に切って浮かべ直しました・・・、もちろん、家内が・・・

例年のネット越しの無粋な柚子が今年は素でプカリプカリと浮かんでいる。見た目に美しいがよく湯船を見ると、底に柚子の大きな種がコロコロと転がっていて、あまりよろしくない。

種が沈んでいます
湯船の左隅に種のツブツブが見えますでしょうか?ちょっと・・・ですよねぇ・・・

風呂からあがり、「種が沈んで結構、汚れるね」とお気楽を述べたら、「でしょ〜」と家内のひと言。表面的な美観だけで物事を判断してはいかぬと年も押し迫った冬至の日にひとつ悟りをひらいたわたしでありました。

そこで、なぜ冬至にゆず湯? 南瓜?

ゆず湯は、「寿命が長く病気にも強い柚子の木にならって、柚子風呂に入って無病息災を祈る風習」なんだとか。

南瓜は、「緑黄色野菜の少ない冬にカロチンやビタミンの多く含まれるかぼちゃを食べ、ると風邪をひきにくい」のだとかで、昔の人はこうした日常の気づかいで家族の健康を守っていたのだと、これまたもういくつ寝るとお正月になろうかという日に、ひとつ先人の知恵に頭をさげたところでした。


来年からはまたわが家のゆず湯も、いつもどおりに洗濯ネットにおさまって湯船に浮かぶこととなります。

みなさま、寒さが急速に厳しさを増して参りました。くれぐれも風邪など召しませぬようお気をつけください。


それでは最後に一句

五七五の浮かび出でたるゆず湯かな

お粗末さまでした。

“辰野・ほたる祭り”に行って来た=松尾峡・ほたる童謡公園

美山荘の蛍狩り(2006.7.5)
京料理・「粟田(あわた)山荘」で「蛍の夕べ」を愉しむ(2011.7.1)
東京の「ほたる狩り」=うかい鳥山(八王子)6月3日〜7月13日(2010.5.29)

長野県辰野町上平出1006-1


ゲンジボタルの群生では東日本随一と言われている信州は辰野町の“ほたる祭り”に出掛け、“蛍狩り”を思う存分愉しんだ。


辰野ほたる祭りポスター

今年で第64回目というのだから、戦後すぐの昭和23年に第一回目が開かれたことになる。さらに戦前もほたる祭りは催されていたということで、正確には戦後復活してから今年が第64回目に当るということらしい。


また平成9年からは、祭りの期間中、その会場である“松尾峡・ほたる童謡公園”で20時〜21時の間に発生したホタルの数を集計している。辰野町の公式ホームページにその集計表が掲載され、日々、更新されている。


その目視調査に携わっているのは辰野町の人々であるが、当番制となっているため、急にホタルの発生数が増えた台風の翌日(20日)など、人手が足りずに確認漏れが相当数あったとのこと。


ただ、バードウォッチング(bird watching)ならぬホタルウォッチング(firefly watching)って、あの暗いなかでどうやって正確に数えているのかは、う〜ん、正直、まだ分からない。


因みにわたしどもが訪れた625日は5,286匹の発生であったが、翌日は4,088匹と徐々にピークアウトしていた時期に当る。祭り最終日の71日は僅かに649匹となり、今年の最盛期は台風一過の20日の11,168匹ということになる。


さて、そんな細かい数字などどうでもよいのであって、当日の情景をお話しなければならぬ。


当日は朝から天気もよかったので、「今日はホタルもたくさん発生するぞ」と期待に胸膨らませたのは言うまでもない。

第一駐車場前に建つ”ほたる童謡公園の碑”

ほたる祭り会場の“ほたる童謡公園”には6時前に到着した。ホタルが出て来るのが745分頃ということだったので、2時間前に会場に到着したことになる。その御蔭で、足の悪いわたしには会場至近の第一駐車場に車が置け、わたしの全体力を心置きなく蛍狩りに注ぎ込むことができた。


第一駐車場はそもそもが“ほたる童謡公園”専用の駐車場で、公園への入口となる“わらべ橋”のたもとにある。



天竜川にかかる”わらべ橋”

橋上より天竜川を見る

諏訪湖を源流とする天竜川に架かる“わらべ橋”を渡り公園中心部へと入ってゆくと、直に公園が一望できる開放的な場所へ出た。

ほたる童謡公園の中心部へ
ほたる童謡公園中心部へゆく道

目の前に広がる光景は回遊路を設けた一面の草むらであるが、よくよく見ると水路といおうか小川が縦横に張り巡らされ、里山の豊富な沢水がそこへ流れ込むように設計されており、ホタルの棲息に適した環境が整備されていた。“ほたる童謡公園”という名が表わしているように、かなり人工的な臭いがするのは致し方のないところか。 


この水路群に蛍が棲息している
公園内にめぐらされた水路が見える
ほたる童謡公園
ほたる童謡公園全貌
ほたる童謡公園全貌

そしてわれわれは暗くなって見知らぬ道を歩くのも危なっかしいので、一応、事前に公園内を探索して歩いた。


カメラセット完了
ベストポイントで待つアマチュア・カメラマン

するとまだホタルが出るまで2時間もあるというのに、おそらくベストポジションと思われるポイントにカメラを据え付けた三脚を立てたアマチュア・カメラマンの姿がそこここに認められた。


カメラ準備万端
あとはホタルを待つだけ・準備万端

皆さん、立派なカメラをお持ちで周到に事前調査も済ませたのだろう、のんびりと同好の士としての会話など楽しんでいる様子であった。こちらの単機能デジカメでは蛍の曳光など写せぬことは承知していたものの、ちょっと彼らが羨ましい気がした。


また園内にはさり気なくホタルブクロの花も咲いており、蛍狩りへの期待は弥(いや)が上にも昂まって来る。


ホタルブクロがたくさん
ホタルブクロがさりげなく咲いていた
赤紫のホタルブクロ

関東では珍しい白いホタルブクロ

そして回遊路の所々に設置されたベンチに腰かけて待つこと1時間ほど経った720分頃、突然、家内が「あっ!飛んでる」と、右斜め上空を指差すではないか。


辰野町の日の入りは7時ちょっと過ぎであったが、上空一帯はまだまだ明るく、蛍の曳光を認めるなど到底無理だと思っていた矢先のことであった。


明るい大気のなかを一匹のホタルがハロゲンランプのような強い光を点滅させながらふらふらと飛行しているではないか。


周りにいつしか増えていた見物客も一斉に家内の指差す方向に目を投じ、「あっ、いる!」、「あっ、ホタル飛んでる」、「あそこ、あそこ」、「わ〜っ!」と弾むような声をそこかしこで挙げた。


ベンチに腰かけていた人たちも立ち上がり、回遊路の柵の前に立ち、まだ草むらや小川がはっきりと見えるなかホタルの小さく可愛らしい光を見つけんと、目を必死に凝らし始めた。


そして数分も立つとそこかしこで、「あっ、あそこ!」、「あの草むらに一匹」などと、園内にいくつもの声が響き出した。

ホタル飛ぶ
ホタルの曳光

なるほど745分頃になると急速に公園内は闇に包まれ、草むらに潜んでいたゲンジボタルが一挙に表に湧き出て来たかのように、あっちへ飛びこっちへ飛びと忙しく活動を開始した。


ホタルの曳光
薄く山影が見えるなか、ホタルが飛んでいる・・・、見えますか?

先程まで見ていた園内の無造作な草むらは、まるでこっそりとクリスマスのイルミネーションを装ったかのように、突如として一斉に光の競演の幕を開けたのである。


辰野町HP観光サイトより
辰野町HP・観光サイトより引用・ホタルの乱舞です

もうどっちを向いてもゲンジボタルの乱舞が目に入って来る。そしてまだ空中に飛び立たぬホタルも草むらの蔭でぼ〜っと蛍光の点滅を繰り返している。


ホタルの光が赤く写っています

偶然、闇に一点の光が写っています

わたしの写真はご覧いただいているように、一匹の光を偶然捉えた際にのみホタルの曳光が残っているものである。ただ画面に広がる闇の部分にこそ、実際には無数のホタルの光が点滅し、流れていたのである。カメラの限界か技量のなさか、誠に申し訳ない。皆さんの心の目を大きく見開いて闇の部分に目を凝らしていただきたい。



きっとホタルの幽玄な光のダンスの様が目蓋の内に浮かんでくるはずである。これらの写真の闇のなかに多くのホタルの光が埋もれ隠れ、潜んでいるのだから・・・



すーっと蛍が飛んでいる・・・

そうしてホタルの集団の乱舞を愉しんでいた時、一匹のホタルがふ〜らふ〜らとわれわれの上空へ寄り添って来た。


周りの人たちも「こっちおいで」とか、「ホ〜タル来い」とかそのホタルを自分の元へ呼び寄せようと声を掛けた。


すると、あろうことか家内が差し出した指先にそのホタルが止まってくれたではないか。それが次の写真である。もちろん場内はフラッシュ禁止なので、この程度が精一杯の映像なのだが、まぁ、幻想的?とでもご評価いただけると幸いである。


指に停まってくれたホタル
家内の指に蛍がとまってくれたのです・・・

そう言えば、ちょうど一年前に京都の“粟田山荘で蛍の夕べ”(2011.7.1)を愉しんだ際にも、一匹の蛍がわたしどもの部屋へ迷い込み、家内の肩先に停まったものだ。


京都粟田山荘で肩に停まる蛍
昨年の6月、京都の粟田山荘の”蛍の夕べ”にて

ホタルはそもそも女性好きなのか、それともわたしが蛍に嫌われているのか・・・。雅な世界にどうにも下らぬことを云って申し訳ないが、少々、気になるところではある。


まぁ、そんな些細なことはどうでもよい・・・、何せ十分に心ゆくまでホタルの幽玄の光の競演を愉しめたのだから・・・


そして天竜川に寄り添う辰野という小さな町は、実にホタルの似合うところであった。

マチュピチュ「発見」100年“インカ帝国展”は6月24日まで=国立科学博物館

インカ帝国展

1911年714日、米人の歴史学者ハイラム・ビンガムが天空都市マチュピチュを発見してから100年目を記念して、現在、上野の国立科学博物館で624日まで、マチュピチュ「発見」100年“インカ帝国展”が開催されている。 

世界遺産マチュピチュ
世界遺産マチュピチュ(館内撮影可のコーナーに飾られた写真)
国立科学博物館
国立科学博物館

1438年にパチャクテクの即位により南米アンデスの高地に興ったインカ帝国は、1533年にスペイン人コンキスタドールによって滅ぼされるまでの約100年間で、南北4千kmに広がる大帝国を築いた。

クエラップ要塞への入口
15世紀末にインカに征服された集団チャチャポヤのクエラップ要塞への入口(撮影可コーナーの写真)
金合金製の小型人物像
金合金製の男女像(同館販売絵葉書より)

太陽神を崇拝し、金や銀、錫、銅といった鉱物資源を豊富に有し、金属精錬技術に長けた絢爛たるインカ文明であったが、世界が鉄器文明と呼ばれる歴史を重ねていた16世紀まで、鉄器を知ることなくまた火器も有することがなかった。

農業試験場であったモライ遺跡
農業試験場であったモライ遺跡(館内撮影可コーナーに飾られた写真)
アリバロ(酒器)
トウモロコシ酒を入れる土器・アリバロ(同館販売絵葉書より)

昨今の古人骨のミトコンドリアDNA分析からアメリカ先住民の祖先集団はアジアに由来し、ベーリング海峡が陸続きだった約2万年前にアメリカ大陸へ移動し、その後急速に南北アメリカ大陸へ拡散、展開していったことが分かって来た。

ロス・コンドロス沼にある墓地
ロス・コンドロス沼の山の傾斜面にある墓地(撮影可コーナーの写真)
小型女性人物像
墓に埋葬されていた小型女性人物像(館内販売絵葉書より)

われわれ日本人の祖先とも遠い遠い古代に一緒に焚火でも囲んでいたのかもしれないと想像すると、インカ文明が至極身近に感じられて来た。

マラス塩田
マラス塩田(撮影可のコーナーに飾られた写真)
玉座
玉座(同館販売絵葉書より)

それもあって、科学博物館の会場は平日にも拘わらず来館者はかなりの数であったが、じっくりとひとつひとつの展示品を見て回った。

チケット販売場に列ぶ来館者
チケット購入に列ぶ来館者
入場入口案内板
会場入口案内板
国立科学博物館入口にあるSL
このSLのところが会場入口です

何か日本文化との共通点はないだろうかなどと、にわか考古学者を気取って見たのである。

インカ最後の縄橋
インカ最後の縄橋(館内撮影可コーナーの写真)

もちろんそんな素人にビックリするような発見などあるわけもなかったが、ただわたしに流れる血がざわつき、少し泡立っているような奇妙な親近感のようなものを感じ取ったのは事実である。


最後のマチュピチュコーナーでは、コンドルとなって標高2430mの天空都市マチュピチュを俯瞰したり、“太陽の神殿”や“コンドルの神殿”などを歩き廻っているような感覚を覚える12分間におよぶ3D上映もあった。

マチュピチュ遺跡
マチュピチュ遺跡(同館販売絵葉書より)

日本文化との共通点をあなたなら発見できるかも知れない。ぜひ、インカ帝国展へ急がれると良い。

国立科学博物館出口から
出口から見える大きなシロナガスクジラ
国立科学博物館
国立科学博物館では6月24日まで

同展は国立科学博物館での展示のあとは全国8か所で201422日まで開催される。開催スケジュールは以下の通り。


201276日〜99日 仙台市博物館

2012918日〜1114日 山梨県立考古博物館

20121127日〜2013127日 静岡県立美術館

201329日〜47日 富山県民会館美術館

2013416日〜623日 京都文化博物館

2013630日〜91日 福岡市博物館

2013910日〜1023日 鹿児島県歴史資料センター黎明館

2013119日〜201422日 沖縄県立博物館・美術館

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