彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

四国八十八箇所遍路の旅

道草しながら車遍路(逆打ち)の四国88か所霊場めぐり 第86番札所・志度寺

(当ブログの写真・記事等の無断転用を禁じます。) 

長尾寺から県道3号線をほぼ真北へ向かって走ると、志度湾に面して建つ志度寺へ達する。
距離にして7・0km、所要時間は16短い行程である(経路地図)

1・志度寺
第86番札所・志度寺
志度寺は藤原不比等(藤原鎌足の子)を開基とし、国宝の十一面観音立像が本尊である。

2・志度寺・仁王門
仁王門
仁王門から入り、書院を右手に左手に向き合うようにして大きな本堂が見える。

3・本堂
本堂
その本堂正面から左手突き当りに五重塔が見える。

4・本堂前から五重塔
本堂前から五重塔を見る
この時期はあいにく葉叢が分厚く境内を覆うため視界が狭く、すっきりと五重塔を見上げることは難しい。

5・志度寺五重塔
本堂右に大師堂がある。

6・大師堂
大師堂
大師堂を南に下がると薬師堂。

7・薬師堂
薬師堂
薬師堂から西に向かうと左手に先ほどの書院へ通じる小さな門がある。

8・書院入口
書院への門
書院の南側には淡海公(不比等)と海女の珠取説話をテーマにした枯山水の無染庭が見える。

9・珠取説話の無染庭
無染庭
その生垣の外に日本で三つしかないという曲水式庭園が広がる。

10・曲水式庭園
曲水式庭園
そのひとつが滋賀県高島市にある旧秀隣寺庭園(現・興聖寺)であるというが、十一面観音立像の楠が流出した地がその辺りであるという不思議な縁をここにも感じる。


そんなせっかくの文化遺産であるが、手入れが行き届いていないのか全体を見渡すのが難しく、実に残念である。

11・草で覆われた曲水式庭園
曲水の石組が見えなくなっている庭
この曲水式庭園の奥にひっそりとお辻の井戸がある。

12・曲水の庭と書院の生垣に沿った奥にお辻の井戸
お辻の井戸
説明版によれば、歌舞伎や浄瑠璃の演目・「花上野誉石碑(はなのうえののほまれのいしぶみ) 志度寺の段」でお辻が水垢離し、のちに身を投じて自害した井戸と伝えられるものである。

13・お辻の井戸・納経所・五重塔・書院
左隅にお辻の井戸 手前が書院、左が納経所 遠くに五重塔
そして、御朱印をいただく納経所は書院の脇に隠れるようにしてあった。

14・納経所
さて、この寺にはその由来をひも解く「志度寺縁起文7巻」と重要文化財・「絹本著色志度寺縁起絵図6幅」(鎌倉後期)が伝わっている。その構成は次のごとくである(「珠取説話の伝承圏」(大橋直義氏)より)。

  御衣木の縁起

  讃州志度道場縁起

  白杖童子縁起

  當願暮當之縁起

  松竹童子縁起

  千歳童子蘇生記(この縁起文の縁起絵が欠漏し、縁起絵図は6幅)

  阿一蘇生之縁起

 

この縁起文・絵図の第2幅・「讃州志度道場縁起」に謡曲・能の名作「海人」の下敷きとなった珠取説話が語られている。

 

唐の第3代皇帝・高宗に嫁いでいた藤原不比等の妹が宝珠を奈良・興福寺(蘇我入鹿を討った父・鎌足の供養する藤原氏の氏寺)へ贈ろうとしたが、志度の浦で龍神により奪われてしまう。そこで宝珠を取り戻すため志度を訪れた不比等は海女を娶り、一子(房前・のちに藤原道長を輩出する北家の祖)をなす。

 

海女は房前を世継ぎとするとの約束を不比等と交わし龍神から珠を奪い返すため海に潜る。宝珠は無事、不比等の手に渡るが、龍神との戦いにより海女は息絶えてしまうといった物語である。

 

不比等が海女を供養して建立した堂宇が志度寺であり、のちに藤原家を継いだ房前がこの地をたずね、母の菩提を弔い千基の石塔を建てた一部が境内に残る海女の墓五輪塔群である。

15・古跡海女の墓 志度寺
海女の墓の石碑と木柵に囲われた五輪塔群
そして、この宝珠がその後どうなったかであるが、志度寺縁起および興福寺に係る「太鏡底容鈔」に、不比等の手により興福寺の本尊の御髪に籠められたと記述されており、志度寺が藤原氏と極めて深い関係を有していることに驚かされる。

16・海女の石塔
海女の墓の石塔群
また、「御衣木(みそぎ)之縁起」にも藤原家との濃密なつながりを伝える不思議な言伝えが描かれている。十一面観音立像の御衣木つまり像材となった楠の大木に関する奇譚である。

 

近江国高島郡三尾里から流出した楠の大木が志度浦にたどり着く。凡薗子尼(おおしそのこに)がこの霊木を引き上げ、造立されたのが本尊・十一面観音立像であるのだと語っている。

 

そして、まことに不思議なことに、この高島郡三尾里から流出した楠を御衣木(像材)として本尊の十一面観音立像を造ったという同じ縁起を有する寺が奈良の長谷寺と高島郡(現高島市)に建つ長谷寺である。

17・長谷寺の登り廊
奈良の長谷寺の登廊
この両寺院にも藤原不比等と房前が本尊建立や開基に深くかかわっており、この三寺院の縁起に流れる通奏低音(つうそうていおん)は現代のわれわれに何を語りかけようとしているのか、耳を澄ましてそのひそかごとを聴き分ける必要がある。

18・白蓮山長谷寺
滋賀県高島市の長谷寺
さらに、大津市の園城寺の寺門伝記補録に、境内に鎮座する三尾神社について、三尾里から漂着した大楠にのっていた三匹の子蛇が当社の祭神・三尾明神が化身したものであったと記されている。

19・園城寺内、三尾神社拝殿
園城寺境内の三尾神社拝殿
また、その補録には奈良の長谷寺縁起との関連も記述されており、園城寺も本尊の由来ということではないが、同じ根っこを持つ一連の霊木奇譚に因縁を有す寺院である。

20・園城寺仁王門
園城寺(三井寺)の仁王門
さらに仁王門を出たところに二つの塔頭がある。

21・仁王門と左に圓通寺・右に常楽寺
仁王門に向かって左が圓通寺、右が常楽寺
仁王門を出て右が讃岐33観音霊場の圓通寺である。

22・圓通寺本堂
圓通寺本堂
左手が自性院(常楽寺)である。境内に入ってすぐ右に苔むした古い墓石が立っている。江戸時代中期に活躍した志度出身の平賀源内の墓石である。

23・平賀源内の墓 常楽寺
平賀源内のお墓
そんなこんなで歌舞伎・謡曲などの舞台を目にし、豊かな伝承の世界にも身を浸すことのできる志度寺。
24・書院の甍と五重塔
志度寺書院の甍と五重塔
弘法大師にはまことに申し訳ないが、ちょっと霊場めぐりだけで拝観するのは惜しい、見どころ満載の八六番札所のお寺なのである。


道草遍路(87番長尾寺) 静御前の終焉の地、静薬師庵

(当ブログの写真の転用・二次利用を禁じます)

香川県木田郡三木町井戸

 

お遍路第87番札所の長尾寺で初めて知った静御前と讃岐のつながり。ナビにもうまく入らず、納経所で丁寧に教えていただいた道順で鍛冶池傍らに立つ静御前のお墓を探すも、結構、悪戦苦闘。

0・静御前の墓と鍛冶池
鍛冶池のほとりに立つ静御前の墓
道しるべが一切なく、畦道を舗装した車一台通るだけの農道をおそるおそる進んだ先にようやく鍛冶池らしきところへ到達。

1・右手の細道をやってきた
右手の細道を走ってきた 薬師庵より
駐車場へ車を止め、わずかな坂道を上る。そこに静薬師の説明書きがあった。

2・静薬師庵 3・静薬師の説明
薬師庵階段下に説明板
階段の上に小さなお堂が見えた。そこが静薬師庵である。

4・ひっそりと薬師庵
静薬師庵
説明書きによれば、長尾寺で得度し、尼となった静御前(宥心尼)はここにささやかな庵をむすび義経の菩提い、この地で没したとある。

5・静御前伝承
静御前の伝承説明板
そもそも静御前と讃岐の縁であるが、舞の名手であった静御前の母、磯禅師は大内郡入野郷小磯浦、現在の東かがわ市小磯705と番地までわかるほどの豪農、長町庄左衛門とツタの娘として生まれたと詳細な消息が知られている。伝誦とは知りつつも、やはり、番地までが特定さると信憑性が増すから不思議だ。

 

都へのぼった母に舞を教わり都随一と名を挙げた静御前であるが、義経との悲恋ののち親子して母の郷里である讃岐に戻り、世をはかなみ先の長尾寺で二人して得度、剃髪したのだという。

 

そして、静御前が宥心尼(ユウシンニ)、磯禅師が磯禅尼(イソノゼンニ)と名乗った。その断髪の際に切り落とした髪を長尾寺に埋めて供養したのが、あの剃髪塚なのだという。まさに“びっくりポンや!!”のお話なのである。

6・長尾寺・剃髪塚
長尾寺の静御前の剃髪塚
親娘は得度の後、この庵に移り住んだ。そこに侍女の琴路が都からやってきて、三人して義経や鎌倉で殺された静の子の冥福を祈る生活にふけった。

だが、翌年に磯禅尼、その一年後の建久3年(1192年)3月14日には静が24歳という若さでその命を閉じる。

7・静御前墓の五輪塔と鍛冶池
静御前の墓と鍛冶池
それから7日目の夜、後を追うように琴路も鍛冶池に入水して相果てたという伝説が残っているのである。

8・侍女叓路・静御前の子・静御前の墓
左から侍女の琴路、静の子、静御前の墓がならぶ
そうした哀しい伝誦を伝える鍛冶池は、この日、ほとりに咲く白い花を咲かせ、静かな水面には過ぎ去りし800年余の時空を昇華させたに違いない底抜けの蒼穹を美しくも哀しく映しこんでいた。

9・鍛冶池
鍛冶池
湖畔の説明版によると、鍛冶池をめぐる遊歩道は、“四国のみち(四国自然歩道)”の一部をなしていて、諏訪神社から前山ダムまでの約5・5kmの“木漏れ日の道”と名付けられた路ということである。

湖畔の路に立ち、静御前が眺めたであろう景色を目に焼き付けようとした。

10・鍛冶池と白山
遊歩道の左奥に東讃岐富士・白山が見える
北の方角に美しい山容を見せる讃岐富士(白山)が見渡せた。静はこの堤に立ち、あの白山を目にし、東国へ渡るときにいとしい人を想いながら仰ぎ見た富士山を思い起こしていたのかも知れぬと思った。

 

庵のそばには長年の風雪でお顔も定かならぬ数体の石地蔵が口も開かずさびしげにならんでいた。

11・鍛冶池のほとりに地蔵様がならぶ
池のほとり、庵の脇に地蔵様がならぶ
抒情あふれる道草遍路の次は第86番志度寺へと向かう。ここも道草遍路のメッカである。次回ブログをお楽しみに。

道草遍路 四国88ヶ所霊場 第87番札所 補陀落山観音院 長尾寺

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香川県さぬき市長尾西653

87 長尾寺

87 長尾寺
 

87番長尾寺 御朱印
長尾寺御朱印

88番大窪寺から車で30分弱、第87番札所 補陀落山(フダラクサン)観音院 長尾寺へ到着。琴平電鉄・長尾線の終点、長尾駅から徒歩200mの平坦な町中にあって、山深い大窪寺からするとあれも遍路、これも遍路といった感じで、すべてが難所じゃないんだと実感するお寺である。

1・こぢんまりした外観の長尾寺の正面
左側は駐車場
仁王門からの外観はこぢんまりとしたお寺で、たとえて言えば“おらが町”のお寺といった第一印象である。

2・長尾寺
コンパクトな佇まいの長尾寺
その仁王門の前に2mほどの高さの凝灰岩の石柱が二基立っている。経文を埋納する経幢(キョウドウ)というものだそうで、仁王門に向かって右手の経幢が弘安9年(1286年)、鎌倉時代後期のもので高さは253cmと高い。

3・東側経幢 弘安9年
右手の経幢(きょうどう)
向かって左、西側の経幢は高さ200cm、弘安6年(1283年)の建立で、きわめて古い時代のものということでちょっと珍しいので、境内に入る前によく観察されたらよい。

4・西側経幢 弘安6年
左手の経幢
仁王門は威圧感を感じるどころかかわいらしいと表現してよい親近感がもてるもの。

5・仁王門
この仁王門、なんともかわいらしい
そして、門をくぐる真上には吊り梵鐘が下がっている。手が届かないんだけど・・・、どうやって衝くんだい・・・・・・いやはや不思議感を催させて面白い。

6・仁王門 補陀落山の変額と梵鐘
頭上の梵鐘
仁王門をくぐるとすぐ右手に大きな楠が立っている。

0・長尾寺の大楠
こんなに大きいんです、この櫲樟(くすのき) 本堂から仁王門を
その陰を落とす石畳の参道の先にはエッというほどの境内が東西に開け、ここでまた意外感を演出。何だか、お遍路寺というよりサプライズを楽しませる趣を有すとても開放的で気分の良いお寺なのである。

7・長尾寺 左より護摩堂・本堂・大師堂
左から護摩堂・本堂・大師堂
本堂でまずお参り。もちろん、般若心経と光明真言“おんあぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まにはんどまじんばらはらばりたやうん”を三度、唱える。

8・長尾寺・本堂
近寄ると迫力がある本堂
次に本堂の東側、右手にある大師堂へ。

9・大師堂斜めより
本堂前から大師堂
大師堂のさらに右手に薬師堂と東門がある。

10・薬師堂と東門
境内東側に薬師堂と東門
そこで踵を返して本堂の前を過ぎ、護摩堂へ参拝。

11・護摩堂
本堂前から護摩堂
この護摩堂の左手前に妙なパネルが見えた。近づくと、何やら平安装束の女子の体裁。

12・静御前パネル
ややっ・・・何者じゃ?
目を凝らすと、静御前の剃髪塚との説明版が目に入る。小高く盛ったところに苔むした石塔がたっていた。

13・静御前剃髪塚
なんとあの静御前の剃髪塚とや・・・はてはて?
義経と別れ、鎌倉へと移送された静御前が、頼朝の前で“しずやしず しずのおだまき 繰り返し むかしを今に なすよしもがな”と詠いながら哀しく舞った逸話は有名であるが、その後、この讃岐に来ていたことはあまり知られていない。

14・興亜地蔵尊像と静御前剃髪塚
興亜地蔵尊と静御前の剃髪塚
わたしはもちろん、讃岐出身の家内もまったく知らなかった。

そして・・・なんと、あの静御前がこの、この長尾寺で得度して尼となり、その際の断髪した髪をここに埋めたのだという。長尾寺の片隅に都中に美しい舞の名手として名をとどろかせた白拍子、静御前のぬばたまの黒髪がここに埋まっている・・・ロマンである。

15・天神宮正面
境内西南隅に天神宮
仁王門のかわいらしさ、吊り梵鐘のサプライズ、狭い門から入って一挙に広がる境内の解放感など意外感満載の長尾寺であったが、この剃髪塚、これは、ほんとにびっくりポンな出来事であった。

 

寄り道遍路第一弾の静御前・薬師庵は次回ブログにてご案内。そこはとても美しく抒情あふれるところでしたね。

道草遍路 四国88ヶ所霊場 第88番札所 医王山遍照光院 大窪寺

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香川県霊場マップ(88〜66番)

第88番 大窪寺 香川県さぬき市多和兼割96番地

大窪寺 御朱印

新緑の葉叢に漉され青味がかった線条の光が驟雨のように零れ落ちるなか、女体山(標高774m)の中腹に伽藍する四国霊場・第八十八番札所・医王山遍照光院大窪寺に到着した。

後背にそびえる女体山と大窪寺
第88番札所 大窪寺
高松市内から車で50分ほどの距離だが、途中から山間の街道を縫い山腹をめぐるように勾配をつくる自動車道を登攀する。

大窪寺へ 山肌をめぐる自動車道
ひんやりとした山気の気配を感じるころ数軒の土産物屋風の建屋が見えてくる。二天門前のいたってこぢんまりとした門前町である。

二天門前の門前町
門前町
その一軒の駐車場に車を止めた。門前で納経帳を買い求め、二天門からいよいよ遍路のはじまりである。

本来であればこの大窪寺で八十八ケ所霊場巡りはめでたく結願(ケチガン)を迎えるが、逆打ち(サカウチ・ギャクウチ)はここが遥か遍路の第一歩ということになる。

88番結願所を刻む石標
二天門前の石段・右手に結願所と刻む石標
“八十八番結願所”を刻む石標の建つ石段から楓の若葉がおおいかぶるところに二天門(山門)が見える。

5・大窪寺・二天門
二天門
二天門を潜ったところに遍路の本願成就を謝したのだろう奉納された二足の大草鞋が立つ。

6・境内より二天門
大草鞋が山門両脇に
山門から一直線に10段ほどの石段を二つそなえた石畳がつづくが、その先に後背に女体山をかかえた本堂礼堂と多宝塔(本堂奥殿)の相輪が見通せる。

7・二天門から本堂を
二天門から本堂へはすぐに到達。

8・女体山と本堂
実は、順打ち遍路の最後のお寺ということで、極めつけの修行の道になっているのかと覚悟していたが、本堂を前にしてホッとした。さすがお大師様であると妙な感心、いや、感謝した次第である。

9・大窪寺・本堂
納経所から本堂を見る
線香の煙が立ちこめた本堂で般若心経を唱え、お参りする。まだまだ新米のお遍路さんゆえ読経の声もボソボソと気恥ずかしい。遍路の最後のころにはこの声も変わってくるのだろうかと心をかすめるほどに集中力を欠いた念仏である。

10・お香のこもる本堂内
本堂内
本堂の右手に阿弥陀堂が建つが、現在は工事中で柵が設けられており、参拝は叶わなかった。

11・阿弥陀堂
本堂から阿弥陀堂を見る
そして本堂を背に斜め右手にある納経所で御朱印をいただく。ここで順打ちの遍路は結願証明書をいただくことができる。

12・結願証明書を渡す納経所
この納経所を夢に見た遍路は数多あった・・・
八十八番札所の大窪寺のみで発行されるということなので、逆打ちの場合はここに再度お礼参りを兼ねて証明書をいただきにあがるのだろうが、さてさて、いつ頃、ここに再来できるのか。

 

遍路の途中で客死なんてことになればそれも叶わぬ夢かなどとつまらぬ想念も胸をよぎる。そんな弱気を振り払うようにして、次に大師堂へ向かう。

13・大師堂へ向かう
この坂の先に大師堂
大師堂の手前になぜか“原爆の火”が灯されていた。鎮魂の意味であるからこれもありかと納得。

14・大師堂横に原爆の火
広島の原爆の火
その向こう側に遍路で使用した金剛杖を納めた“寶杖堂”がある。これも結願所ならではのお堂である。

15・寶杖堂
ガラス内にたくさんの金剛杖
そのすぐ横に大師堂がある。参拝する正面の間口は広くはないが、奥行きは長い平屋建てである。

16・大師堂
大師堂
大師堂の奥横にりっぱな大師像が立っている。弘法大師が入定(835年)してから千百五十年を記念して建立されたと記されている。ただ、ここまでやってきて参拝する人はあまり多くないように見えた。

17・大師堂と大師像
ここで一応、奥之院をのぞき大窪寺を一周したことになる。

元来た道を二天門の方へ戻るが、その途中で大きな仁王門を見下ろせる。

18・仁王門
仁王門
仁王門は堂々とした造りではあるが、平成二年に完成したまだ新しい鉄筋造りの門である。

19・二天門から門前を見下ろす
二天門から
その時はそのことも知らぬ身であったが、見たところ近代的で有難みに欠けると感じたので、趣のある二天門を再度潜って大窪寺をあとにしたいと思ったのである。

 

次は逆打ち遍路の二番目となる八十七番霊場の長尾寺を目指すことになる。


四国八十八ヶ所霊場の逆打ち、いよいよスタート

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四国88ヶ所霊場マップ


四国88ヶ所霊場マップ(四国八十八ヶ所霊場会HPより)

四国八十八ヶ所霊場めぐりを開始したのを機に、半年以上にわたり放置していた“彦左の正眼”を再開することにした。ブログをながらく更新しなかったのに特段の理由はない。健康も大丈夫だし、相変わらず旅にも出ているし、大好きなお酒もおいしい肴をつまみにほどほどに嗜んでいる。

遍路
同行二人のお遍路さん(88番札所 大窪寺)
ただ、昨年六月から10か月ほど神社仏閣の観光を軸とした地方創生にかかる団体の設立、運営に携わってきたことから落ち着いた時間がなかなかとれず、ずるずると更新が後ろ倒しになりついにはキッカケをつかめぬまま放置状態となったというのが実態である。事情説明はこれくらいにし、さっそく、お遍路のはなしに話題を転じよう。

 

わたしは、今からちょうど40年前、社会人最初の赴任地であった高松で同僚とともに土曜日の午後から日曜日をつかいお遍路を始めたことがある。徳島にある一番札所の霊山寺からスタートした。歩き遍路など時間の関係でとても無理。同僚の真っ赤なジェミニでドライブをかねたスタンプラリー感覚で廻ったというのが正直なところである。

 

そして、阿波国の「発心の道場」の霊場23ヶ寺、土佐国の「修行の道場」の霊場16ヶ寺の39ヶ寺を巡ったところで東京への異動となり、自身の足での遍路は終了した。その後は高松の家内の両親に廻っていただき、高野山での結願ということになった。

 

それから40年もの星霜を重ねた。その間、内外の社会は想定をはるかに超える変容をとげた。特に21世紀に入ってからは2001年の9・11米同時多発テロ事件を嚆矢とし、地球のいたるところで民族、宗教間の確執や貧困、格差といった社会問題に根差したテロが日常的に勃発する時代となった。わが国も阪神淡路大震災以来、多くの天変地異に襲われ、2011年3月11日には未曽有の大津波をともなう東日本大震災に見舞われ、日本人の心は悲痛な苦しみで引き裂かれた。

 

そんな恐怖と心の荒廃の時代に、わたしもいよいよ高齢者の一隅に身を置くこととなった。今では、家内は父を、わたしは父母を喪い、92歳の義母を高松に一人残すだけとなった。

 

40年前に出来上がった納経帳はその二年後に急逝したわたしの母のお棺に入れた。装丁された掛け軸はお盆や法事の時にいまも床の間に架けられ、わたしの目に触れる。

88箇所掛け軸
88箇所掛け軸
このたび家内とともに遍路を始めることになった理由であるが、老いた母の身の回りの世話にたびたび帰高する家内に同行する機会が増え、夫婦で88ヶ所めぐりでもどうだろうかとの提案に、介護の合間に気分転換もかねて、同行二人でなく同行三人(わたしと家内と弘法大師)ということで参りましょうとなった次第。

同行二人 八栗寺にて
歩き遍路
時間はあるので歩き遍路といいたいところだが、左半身に麻痺を抱えるわたしである。お大師様には心苦しいが、車遍路でご勘弁いただくことにした。そして、2016年は60年に一回まわってくる丙の申である。丙申に始める逆打ち(さかうち 88番から逆順)という遍路は、通常の順打ち(1番から順に88番まで遍路する)とくらべてご利益が多いのだそうだ。

大窪寺門前店で求めた逆打ち納経帳
第88番大窪寺で求めた逆打ち納経帳
40年前に阿波、土佐の二国のみを巡ったわたしである。今度は讃岐、伊予と逆に巡っていったらどうか、それに今年は逆打ちに最適の丙申であるとの筋道だった家内の薦めで、自身では結願をしてもいないのに逆打ちなどと玄人風の遍路に挑戦を始めたというわけである。

 

若いころのスタンプラリーをこの年齢でやる気はない。霊場ではしっかり般若心経を唱えながら、各地の歴史や風光明媚な名所も愉しみつつ遍路を重ねることで、豊かでふくよかな心をはぐくみ、おだやかな巡礼の光景や遍路道に生える草々の柔らかな緑を目にすることで世界の痛々しい映像に疲れ切った瞳に生気をあたえ、自然(ジネン)の呼吸をさせてあげたいと思う。

 

そんなお遍路の旅にしたいと思っている。

 

2016年6月10日、いよいよ「涅槃の道場」である讃岐の88番札所、大窪寺の寺域に遍路の一歩を印すこととなった。


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