彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

対馬巡礼の旅

神々のふるさと、対馬巡礼の旅=番外編 古代神道を残す「赤米神事」

神々のふるさと、対馬巡礼の旅=18 多久頭魂(たくづたま)神社
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1



 現在、古代神道の名残である「赤米神事」の習俗を残すのは、対馬の多久頭魂神社(タクヅタマ)と鹿児島の種子島にある宝満(ホウマン)神社、それに岡山の総社市にある国司(クニシ)神社の3か所だけである。この3地点に古代米と云われる赤米の神事が千数百年にわたり連綿と伝承されていることから、稲作の伝播経路に大きく二つの流れがあり、それが瀬戸内海を通り順次畿内へと普及していった姿が浮かび上がって来る。


対馬豆酘・赤米神田
豆酘・多久頭魂神社脇の赤米神田

 

その「赤米神事」(国選択無形民俗文化財)を対馬でただ一人継承しているのが、豆酘で漁業を営む主藤公敏さんである。2010213日付長崎新聞は『神事は、田植えや稲刈りなども含め年間10回あり、頭(トウ)仲間と呼ばれる住民が輪番で受け継いできた。1990年に10戸だった頭仲間は、神事に伴う金銭的な負担もあり、年々減少し、2007年に1人になった』と伝えている。


 農耕の種蒔きの時期や収穫の成否が占いに拠った時代、卜部(亀卜)の宗家たる天児屋命(アマノコヤネノミコト)の末裔である中臣烏賊津使主(ナカトミノイカツオミ)が縣主であった対馬に、「赤米神事」という形で古代農耕の姿が当地の一族により引き継がれ今に保存されている、その連綿と続く気の遠くなるような時間の流れにあらためて想いを致す時、深い崇敬の念を抱くのである。

2010_赤味がかった赤米神田


さて、「神意」に基づく政(マツリゴト)を中心に据えた上古の社会で、この「赤米神事」は「紀」もその由来について語っている。


【神代下第9段 「葦原中国の平定、皇孫降臨と木花之開耶姫」 】

「・・・且(マタ)天児屋命は神事を主(ツカサド)る宗源者(モト)なり故、太占(フトマニ)の卜事(ウラゴト)を以ちて仕へ奉(マツ)らしむ(注1)。高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)、因(ヨ)りて勅(ミコトノリ)して(天照大神)曰(ノタマ)はく、『吾(ワレ)は天津神籬(アマツヒモロギ)と天津磐境(アマツイワサカ)とを起樹(オコシタ)て、吾(ア)が孫(ミマゴ)の為に斎(イハ)ひ奉(マツ)るべし。汝(ナレ)天児屋命・太玉命(フトタマノミコト)、天津神籬を持ちて葦原中国(アシハラノナカツクニ)に降り、亦吾が孫の為に斎ひ奉るべし』とのたまひ、乃ち二神(フタハシラノカミ)をして天忍穂耳尊(アマノオシホミミノミコト)に陪従(ソ)へて降らしめたまふ。

・・・(中略)・・・

又勅して(天照大神)曰はく、「吾が高天原に御(キコ)しめす斎庭(サニワ)の穂を以ちて、亦吾が児(ミコ)に御(マカ)せまつるべし」とのたまふ。〔これが赤米神事の起源となるものと考えられる〕

則ち高皇産霊尊の女(ムスメ)、万幡姫(ヨロヅハタヒメ)と号(マヲ)すを以ちて、天忍穂耳尊に配(アハ)せ妃(ミメ)として、降らしめたまふ。故(カレ)、時に虚天(オホゾラ)に居(マ)しまして児(ミコ)を生みたまふ。天津彦瓊々杵尊と号す。因りて此の皇孫(スメミマ)を以ちて、親に代へて降らしめむと欲(オモホ)す。故、天児屋命・太玉命と諸部神等(モロトモノヲノカミタチ)を以ちて、悉皆(コトゴトク)に相授(サヅ)けたまふ。且(マタ)服御之物(メシモノ)、一(モハラ)に前(サキ)に依りて授けたまふ。然(シカ)して後に天忍穂耳尊、天に復還(カヘ)りたまふ。」

(注1):「天児屋命」は神事を司る本家であり、太占の「卜」を以て仕えるとある。


    紀「神代上第7段」に、「中臣連が遠祖(トホツオヤ)天児屋命、忌部(イミベ)が遠祖太玉命」との、記述あり。


【神代下第9段一書第二】

「是の〔天忍穂耳尊を葦原中国に降臨させた〕時に天照大神、手に宝鏡(タカラノカガミ)(注1)を持ち、天忍穂耳尊に授けて(注2)、祝(ホ)きて曰はく、『吾が児(ミコ)、此の宝鏡を視(ミ)まさむこと、吾(アレ)を視るが猶(ゴト)くすべし。与(トモ)に床を同じくし殿(オホトノ)を共にして、斎鏡(イハイノカガミ)と為すべし』とのたまふ。復(マタ)天児屋命・太玉命に勅(ミコトノリ)したまはく、「惟爾(コレナムジ)二神も、同じく殿内(オホトノノウチ)に侍(サモラ)ひ、善く防ぎ護(マモ)りまつることを為せ」とのたまふ。又勅して(天照大神)曰はく、「吾が高天原に御(キコ)しめす斎庭(サニワ)の穂(イナホ)を以ちて、亦吾が児(ミコ)に御(マカ)せまつるべし」とのたまふ。


(注1)〔紀の注より〕

「宝鏡は一書第一では『八咫鏡(ヤタカガミ)』とあり、八坂瓊曲玉(ヤサカニノマガタマ)・草薙剣(クサナギノツルギ)と合わせて『三種の神器』とあるが、ここでは、この「宝鏡」一種についてのみ記され、他の記述はない」


(注2)〔紀の注より〕

宝鏡は一書第一では皇孫(天津彦彦火瓊々杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト))に授けるが、ここでは子の天忍穂耳尊に授けている。


この「斎庭の穂」の「斎庭」とは神に奉る稲を作る神聖な田のこと。そこで作られた稲穂を皇孫(瓊々杵尊)或いは子の天忍穂耳尊に持たせたとあることが、「赤米神事」で赤米を栽培する田が、神の田、即ち「神田」とかつて(8世紀初め頃)呼ばれていたことが「斎庭」に擬せられていることは容易に想像される。


そして「紀」の「顕宗(ケンゾウ)天皇3年春2月」の条に、対馬に在る「日神」が「磐余(イワレ)の田を以ちて、我が祖高皇産霊(タカミムスビノミコト)に献(タテマツ)れ」と大和王朝に命じたとある。


対馬の「赤米神事」がそもそも高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)を祭神として祀る高御魂(タカミムスビ)神社(多久頭魂神社の境内社)の祭事であったことや「神田」で作った赤米を高御魂神社に奉納している事実は、「紀」の上の記述と併せ考えるときわめて興味深いことである。



加えて、折々にねずみ藻という海藻を使う「赤米神事」という古代農耕の習俗は、上古の対馬を「日神」の本貫とみなす「紀」の内容は単なる作り話ではなく、対馬が具体的事実に基づいた天孫降臨族と海人族の融合の地であったことを明確に示唆するものと云ってよい。



神々のふるさと、対馬巡礼の旅=18 多久頭魂(たくづたま)神社



 

   天童に所縁の神社なれど、ご祭神は皇孫の神也(藤仲郷「対馬州神社大帳」

 


多久頭魂神社に到るには、先の「美女塚」からさらに1kmほど南下し、左手の脇道へ入り細い田んぼ沿いの道をゆっくりと行く。


対馬、赤米神田と豆酘の海
田の中央の茶色味を帯びた辺りが赤米神田、遠くに豆酘の海が見える

 

其の日は8月の末であったが、田んぼの稲穂は実りで頭を垂れ始めていた。途中に「赤米神田(アカゴメシンデン)」という標識が目についた。


赤米神田の標識

 

古代米の赤米である。多久頭魂神社で年間10回行なわれている「赤米神事」という祭祀用に栽培されているものである(「番外編 赤米神事」参照)。その神田の横を過ぎると多久頭魂神社の一の鳥居が突然、目の前に顕れた。その出現の仕方に唐突感があったのを覚えている。


多久頭魂神社の一の鳥居

 

人の気配の全くしない奇妙な感覚に捉われる空間である。鳥居前の小さな空き地に駐車し、一の鳥居の奥を覗く。高い樹木が鬱蒼と茂る境内に足を踏み入れると空は真っ青なのに参道はほの暗く、思った通り人っ子一人いない。


2010_083110年8月対馬0084
一の鳥居から参道をのぞく

高御魂神社・多久頭魂神社の案内板

 

代わりに我々を迎えてくれたのは薮蚊の大群であった。夏場の参拝には虫よけスプレーおよび帽子、長袖シャツを装備、装着されることをお勧めする。薮蚊がそれほどに人に飢えているのは、当社を訪れる人がきわめて少ないということなのだろうか。それとも天道法師の遥拝所とされる当社に入る禊ぎの一つでもあるのだろうか。


参道左手の手すりの階段の上に鐘楼

梵鐘案内板

神仏習合の名残の鐘楼
康永3年(1344)改鋳の国指定重要文化財

鬱蒼とした樹木の中に続く参道

神仏習合の名残だろう、山門前に狛犬、正面奥に社殿

 

冗談はともあれ、「新撰姓氏録」に「多久頭魂神」は「神皇産霊尊(カミムスビノミコト)」の子とある。神皇産霊尊は神代三代の造化の神、国常立尊(クニノトコタチノミコト)・国狭槌尊(クニサツチノミコト=天御中主尊(アマノミナカヌシノミコト))に続く三代目の高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)と同一と見られる神である。



対馬に関わる神々の系譜

高皇産霊尊に始まる対馬に関わる神々の系譜

 

天照大神の長子である天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)と高皇産霊尊の娘である栲幡千千姫(タクハタチヂヒメ)の間に生まれたのが、神武天皇の曽祖父たる瓊々杵尊(ニニギノミコト)である。ここにおいて天孫(高皇産霊尊からの血統)と皇孫(天照大神からの血統)が同一の血統へと収斂することになる。


境内社・高御魂神社

 

当社境内に多久頭魂神の父たる高皇産霊尊を祀る「高御魂(タカミムスビ)神社」があるのも、この地が天孫降臨族と深い関わりを持つ場所であることを示し、さらに赤米神事が当社の重要な神事として古来伝わっているのも、この豆酘の地が、天孫族が持ち込んだ稲作に特別の意味を持つ場所であったことを容易に推測させる。


多久頭魂神社・社殿
社殿前の橘
対馬亀卜の神官・橘氏との関係もあるのだろうか、橘の案内板

【多久頭魂(タクヅタマ)神社概要】

社殿内

社殿内の古い絵馬

色あせているが、絵柄はしっかりとした絵馬である

・    住所:厳原町豆酘

    社号:「神社誌」に「天道」とある。天神社(大小)・多久頭魂神社(大帳・明細帳)

    祭神:天照大御神・天忍穂耳命〔天照大神の子〕・瓊々杵尊〔天照大神の孫/皇孫〕・日子穂々手見命〔山幸彦〕・鵜茅不合葺命〔豊玉姫と彦火火出見命との子/瓊々杵尊の孫/神武天皇の父〕(明細帳による)

    天道信仰の聖地

    由緒

(明細帳)

神武天皇の御代天神地祇を祭らしめて玉ふ所にして、則勸請神武元年なり。又神功皇后三韓に向ひ玉ふ時、諸神を拝し給ふ所にして、承和四年(837年)二月被授従五位下、貞観十二年(870年)三月被授従四位下、延喜式神明帳に載る所の社なり。



幹周り7.09m、樹高30mの樹齢650年ともいわれる楠は当社のご神木
2010_083110年8月対馬0108
太い幹周り、左に見えるのは社殿

 

(大帳・藤仲郷の説)

多久頭魂神社は龍良山上に在る。古の神社は今の世の如く、宮殿を建てず。霊山霊地、亀卜を以って其の地を定む。そして鏡・鈴・劒は根曳きに着け、神魂(ヲガタマ)の木は中央に植える。其の廻り八町を以って神籬磐坂と為す。其の内の諸々の木は立ち仕る。敢えて人は入らず。天神地祇之座(イマ)す地と為す也。当地に在るは皇孫〔多久頭魂神社〕の神也佐古村に在るは天孫〔天神多久頭魂神社〕の神也。之を靱(ユキ)鋤(スキ)の神と謂う。当社は靱宮と号す。神武天皇、諸国に命令を下し、天神地祇を造らしむる也。其の時の神社也。又云う、天道地を神籬磐坂と称ぜしめる也。海道諸国記曰く、「対馬嶋の南北に高山有り、皆、天神名づく。南は子神と称し、北は母神と称す。家々素饌(ソゼン)を以ちて之を祭る。山の草木禽獣、人はあえて犯す者無し、罪人神堂に走り入りたるは、すなわち亦敢えて追捕せず」昔、伝燈法師と曰(モウ)す者、罪有りて此の大山に走り入り、そして隠れる也。その後、俗仏は、天道と伝燈、其の字の音が同じに因り、之を欺く。そして此の神社を為して、伝燈法師の入定の地と為す。次第にこの神社は亡び、知る人も無くなる。延喜式神明帳多久頭魂神社是也。承和四年(837年)二月五日奉従五位下、従五位上、正五位下、正五位上。貞観十二年(870年)三月五日奉従四位下。其の後段々有叙位、正四位下。神山を廻る八町にして、外に垢離川有り、横川と号す。潮湯浜有り、外浜と号す也。



明細帳記載の祭神を見ると、天照大御神天忍穂耳命〔天照大神の子〕・瓊々杵尊〔天照大神の孫/皇孫〕・日子穂々手見命〔山幸彦〕鵜茅不合葺命〔豊玉姫と彦火火出見命との子/瓊々杵尊の孫/神武天皇の父〕と、皇孫の血統が見事にそろい踏みしている。藤仲郷が「当地(多久頭魂神社)に在るは皇孫の神なり」と述べている通りであり、下記に示す天道法師との由縁を祭神から窺うことはできない。また、境内に天道伝説の痕跡を境内で見つけることもできなかった。



多久頭魂神社のすぐ北に位置する龍良山(タテラサン)山中の八町角と呼ばれる場所が天道法師の墓所といわれ、昔から「オソロシ所」と呼ばれ、「不入の聖地(アジール=聖域・治外法権領域)」とされていた。その為、墓所を直接参拝できぬ天道信仰の信者たちが南接する当社を遥拝所とみなし、天道の墓所である磐境を同社の神籬磐境とし崇拝したという。(2009対馬現地調査報告/豆酘龍良山国有林」・本田佳奈より


対馬・高御魂神社
高御魂神社

 

ただ、多久頭魂神の父たる高皇産霊尊を祀る「高御魂神社」という高い格式の延喜式内社を当社が境内社として抱える謎や、稲作の伝来ルートを印す「赤米神事」を習俗として残すなど詳らかならぬ当社の由来は、「対馬が神々のふるさと」である何かを現代の我々に伝えようとしているように思えてならぬ。


境内社・国本神社
境内社・神住居神社
境内社・師殿神社
観音堂
境内社・五王神社
境内社・下宮神社

 

「記紀」にも一切その名を登場させぬ、そして「神社明細書」や「対馬州神社大帳」、「対馬國大小神社帳」にも当社の祭神として名を顕さぬ「多久頭魂神」という神が天孫族たる高皇産霊尊の本貫(本籍)地、天孫族のエルサレムと呼ぶべきこの豆酘に祀られている理由は何なのか謎は深まるばかりである。



また上対馬佐護にある天孫の神を祀ると云う「天神多久頭魂(アメノカミタクヅタマ)神社」との関係も、天童伝説の母子関係で捉えるという後世のフィルターを捨象し、天孫と皇孫つまり高皇産霊神と天照大神を対峙的関係として見るのが妥当と考える。


神々のふるさと、対馬巡礼の旅=番外編 天道信仰と対馬神道(下)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅=番外編 天道信仰と対馬神道(上)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1


1.不入の地、神籬磐境(ヒモロギイワサカ)の祭祀
 

   龍良山(タテラヤマ)

龍良山559m・雄龍良山(オタテラヤマ)・雌龍良山(メタテラヤマ))は古来、天道山」と云われ、天道信仰の聖地とされてきた。故に禁伐林であったため榊・柞(ユス)など老木の繁茂する天然記念物原始林である。雄龍良山麓には八町角(ハッチョウカク)と呼ばれる天道法師の墓所と伝える場所がある。そして雌龍良山の山中には天道法師の母の墓所と称するものがあり、八町角呼ばれている。対州神社誌には、「天道は豆酘之内卒塔山に入定す云々。母今のおそろし所の地にて死と云。又久根の矢立山に葬之と云」とある。


龍良山辺り

海側から龍良山方向を

ある書に「龍良山・・・558m、大字豆酘の東北に屹立し、対馬縦走山脈南端の最高峰である。旧名雄龍良または天道山といい、神山で多久頭魂神社の神籬磐境であり、頂上に烽火台の跡がある。」とある。


かように母神・子神崇拝は、対馬に深い縁故を有す神功皇后・応神天皇母子二柱を祀る「八幡信仰」にその起源を有すとも云える。


   清浄の神地たる不入の地、浅藻(アザモ)

 対馬の南端に位置する豆酘に向かって県道24号線を南下してゆく途中に「美女塚」がある。


  これは昔、采女(ウネメ)制度(大宝律令)があったころ、豆酘に鶴という美しい娘がいた。母一人娘一人の仲の良い母娘であった。その鶴が采女として遠く都へと召されることとなった。鶴はその母一人を残し生まれ育った村を離れて行くのがつらく、役人に連れて行かれる途中で、「これからはわたしのような辛い思いをさせぬように、豆酘には美人が産まれぬように」と祈り、舌を噛み切って死んでしまったという。母や村人は村思い、親思いの鶴を深く哀れみ、「鶴王御前」と呼び、その命を絶ったという峠辺りに「美女塚」を立て弔ったという。対馬では実際に「豆酘美人」という言葉があり、昔から豆酘が美人の産地であったのは確からしい。


  天道法師が帝から病治癒の御礼に何なりと願いを聴くと言われた際に、その一つに「対馬撰女」すなわち対馬から采女を召し出すことを免じて欲しいと申し出ている。

 

 このことはこの「美女塚」にまつわる哀しい話が当時すでに人口に膾炙していたと思われ、また天道法師自身の母親がその素性を「内院女御」と呼ばれたことから、采女として召し出され、そうした母娘別離といった哀しい過去を背負っていたのかも知れぬと想像したりする。


 内院にある美女塚には天道法師伝説と深く関わる話があるように思えてならぬのである。

 さて豆酘(ツツ)村は、大きく分けて豆酘と浅藻(アザモ)に分かれている。


豆酘から浅藻への道
豆酘郵便局


  鈴木棠三(1911-1992)が「対馬の神道」を表わすために対馬入りした昭和12年(1937)時点は、「現在の浅藻の村ができたのは、明治何年かに中国筋の漁民が移住して以来のことである。(中略)豆酘と浅藻の距離は一里半余りであるが、浅藻には豆酘の本村から移住した家は全くなく、「内地」からの移住者のみから成り、通婚も最近の一二の例を除く他は、国元から配偶者を連れて来ているようだ」とあり、明治まではこの豆酘村の浅藻地区は不入の地として人が住むことはなかった。


浅藻湾
コモ崎からの景色

 しかし、明治初期に中国地方より漁民が移り住んで以来、人が住む土地となったが、もちろん、その移住者が死に絶えるなどということはなかった。


 ただ、豆酘の村人は死人のあった忌明けには、卒塔見(ソトミ)と称して、コモ崎の上に登り、眼下に見える浅藻の入江に向けて小石を投げて、後ろを見ずに帰る風習がつい先年まで残っていた。神地としての地元民の尊敬は残されていた。


浅茅近くの卒塔(ソト)山(天道山)山腹が天道法師が亡くなった地であり、「もし汚穢の人がその地に入れば、たちまちにして神罰が降り死に絶える」との言い伝えが古来、村人により守られて来た事実は重い。

この天道信仰と対馬の神社との関係を記すと、藤仲郷の説を採用した「津島紀事」(平山東山著・1809-1810)のなかで、「浅藻(アザモ)の八丁角が延喜式内多久頭魂神社の磐境、裏八丁が高皇産霊尊の本社」と推定されている。 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅=番外編 天道信仰と対馬神道(上)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅---17 府中/厳原八幡宮神社

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(上)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(上)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅=番外編 天道信仰と対馬神道(下)

1.

 天道信仰について、鈴木棠三(トウゾウ)は「対馬の神道」のなかで、「天道信仰は、豆酘村の中の八丁角と俗に称せられる磐坂を中心とし、これに対応して佐護にも天道の一大中心があり、島の南北にあって相対している。この信仰の主要なる点は、神地崇拝の風の強烈なる点で、一に天道地と云えば、何によらず不入の聖地を意味する。第二にこれを母神および童神二神相添う形と信じていることで、神道家は神皇産霊尊とその御子多久豆玉神ならんとしているのである。而して、対州神社誌当時の天道信仰は或る意味で対馬神道の根幹をなしているかの観を呈していた」と述べている。


そして、天道法師の生誕話は「母が懐妊の際に強烈な日の光を浴びたことをその因とする」筋立てになっているが、鈴木棠三はその種の話はこの手の怪童伝説にはよくある話であると突き放した見方をし、「天道」は「天童」であるとの解釈を採っている。


しかし、「鶏子(トリコ)のような気が天より降りてきて」、女が懐妊し生まれ出た高句麗王朝の始祖・朱蒙の生誕伝説、すなわち、神秘な気に感精して懐妊するという北方系の「日光感精型神話」が、日神の地、対馬だからこそ天道法師の神秘性を演出する為に当り前のように拝借されたのだとする方がわたしには自然な気がするのである。


また、日神の誕生の地という天地開闢(カイビャク)という創世期から間近いところの歴史を有す対馬だからこそ、中世の怪人に対する生誕譚として「日光感精型神話」が持ち出されたのではないかと推測される。


【天童伝説】(対州神社誌「P345」より)

「天道 神体並びに社 無之

対馬州豆酘郡内院村に、照日之某と云者有。一人之娘を生す。天智天皇之御宇白鳳十三甲申歳〔673年〕二月十七日、此女日輪之光に感して有妊(ハラミ)て、男子を生す。其子長するに及て聡明俊慧にして、知覺出群、僧と成て後巫祝の術を得たり。朱鳥六壬辰年〔691年〕十一月十五日、天道童子九歳にして上洛し、文武天皇御宇大寶三癸卯年〔703年〕、対馬州に帰来る。


霊亀二丙辰年〔716年〕、天童三十三歳也。此時に嘗(カツ)て、元正天皇不豫(フヨ)有。博士をして占しむ。占曰、対馬州に法師有。彼れ能祈、召て祈しめて可也と云。於是其言を奏問す。天皇則然とし給ひ、詔(ミコトノリ)して召之しむ。勅使内院へ来臨、言を宣ふ。天道則内院某地壱州小まきへ飛、夫(ソレカラ)筑前國寶満嶽に至り、京都へ上洛す。内院之飛所を飛坂と云。又御跡七ツ草つみとも云也。


 天道 吉祥教化千手教化志賀法意秘密しやかなふらの御経を誦し、祈念して御悩(ナヤミ)平復す。是於 天皇大に感悦し給ひて、賞を望にまかせ給ふ。天道其時対州之年貢を赦し給はん事を請て、又銀山を封し止めんと願。依之豆酘之郷三里、渚之寄物浮物、同浜之和布、瀬同市之峯之篦(ヘラ)黒木弓木、立亀之鶯、櫛村之山雀、與良之紺青、犬ケ浦之鰯、対馬撰女、幷(ナラビニ)、州中之罪人天道地へ遁入之輩、悉(コトゴトク)可免罪科叓(カジ)、右之通許容。又寶野上人之號を給わりて帰國す。其時行基菩薩を誘引し、対州へ帰國す。行基観音之像六躰を刻、今之六観音、佐護、仁田、峯、曾、佐須、豆酘に有者(アルハ)、是也。


其後天道は豆酘之内卒土山に入定すと云々。母后今之おとろし所の地にて死と云。又久根之矢立山に葬之と云多久頭魂神社。其後天道佐護之湊山に出現有と云。今之天道山是也天神多久頭魂神社。又母公を中古より正八幡と云俗説有。無據(コンキョナク)不可考。右之外俗説多しといへとも難記。仍(ヨッテ)略之。不詳也。」


以上が貞享三年(1686年)十一月に編纂された「対州神社誌」記載の「天道法師の由来譚」である。その4年後の元禄三年(1690年)二月に梅山玄常なる人物が「天道法師縁起」なる書をものした。原文は漢文であるが、「対馬の神道」のなかで、以下の通り、その筋書きを平易な現代文に訳しているので、やや長くなるもののここに紹介する。


「昔天武天皇の白鳳二年(壬申の乱の翌々年。674年*)に、豆酘郡内院村(今の下県郡久田村字内院)に一人の童子が誕生した。その母の素性をたずねると、かつて内院女御という方の召仕であって、或朝、旭光に向って尿溺し日光に感じて姙(ハラ)んだのが、この童子であるという。故にその誕辰に当っては瑞雲四面に棚引くなどの天瑞があった。すなわち童子の名を天道童子、また日輪の精なるが故に十一面観音の化身とも伝える。この天道童子の誕生の地を、今に茂林(シゲバヤシ)と呼ぶ。対馬では茂または茂地とは神地のことである。童子長じて三十一歳、大宝三年(703年)のことであったが、時の天子文武天皇御不予にわたらせられ、亀卜を以て占わしむるに、海西対馬国天道法師なる者がある。彼をして祈らしめば皇上の病癒ゆべしとの奉答であったから、急使を遣わして天道法師(童子)を迎えしめられた。法師は使を受けるや、さきに修得した飛行の術によって内院から壱岐の小城山に飛び、さらに筑前宝満嶽に、さらにさらに帝都の金門に飛んだのであった。ここに帝の御ために祈ること十七日、たちまち御悩は癒えた。帝は法師の法力に感じ給い、宝野上人の号並びに菩薩号を賜り、また大いに褒賞を加え、欲するところを与えんとの詔があった。法師は、対馬は西陲(セイスイ)の辺土にして民は貢物に苦しむ故に是を免ぜられたきこと、また島中の罪人にして天道の食邑の地に入り来った者は、罪の軽重を論ぜずことごとく宥(ユル)されたきことなど奏上して、勅許を得たのであった。また、古記によれば、天道菩薩の社田として筑前国佐和良郡出田に八百町歩があったというが、いつの頃よりか廃絶したと。天道菩薩入定の地は豆酘(ツツ)郡卒土(ソト)山の半腹の地に、縦横八町余を劃して中に平石を積んだのがそれである。もし汚穢(オワイ)の人が其処に到れば、踵を廻らさずして身命を失う。故に里民畏避して今に到るまで足跡を容れる者がない。」


   「白鳳」は書紀には現れない私年号であり、中世以降の寺社縁起等によると、白鳳二年は西暦673年に算定される。

   「大宝三年」は「対馬の神道」の703年で正しい。


天道伝説

神々のふるさと、対馬巡礼の旅---17 府中/厳原八幡宮神社

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(上)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(上)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 4(大吉戸神社・鋸割岩・金田城・和多都美神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(大吉戸神社と金田城の謎・金田城は椎根にあった!)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

 当社は、木坂の海神神社とならび神功皇后の新羅征伐凱旋時の伝承を持つ八幡宮の発祥に深く関わる神社である。木坂八幡本宮(海神神社)に当初納められた八旒の旗が、のちに二旒ずつこの府中八幡宮、黒瀬の大吉刀神社(城八幡宮)、大分県の宇佐八幡宮に分けられたとする伝承が海神神社に残されていることは、同神社の項において詳述したが、府中八幡宮や宇佐八幡宮がこの伝承を一切紹介していないのはきわめて残念であり、日本国民の財産として共有すべき「ひと時の歴史」を私する行為であり、厳しく非難されるべきものと考える。



右手石段を昇ると神門を抜け、拝殿・本殿へ

拝殿

拝殿内

拝殿から本殿を

境内社として延喜式式内社の宇努刀(うのと)神社が
 

(海神神社に残された「八幡」の伝播の伝承)

代々の対馬國総宮司職の家系である藤仲郷(トウ・ナカサト=斎長の子/17331800)が「対州古蹟集」のなかで八幡宮縁起について以下のごとく言及。

「皇后征韓の時、供奉の御旌八旒を此州〔木坂八幡宮〕に留玉ふを廟主とす。其の鈴二口宝とす。〔八旒の旗の内〕二口は府の八幡宮に分置し、二口は豊前宇佐宮に分ち、又二口は黒瀬城〔城八幡宮〕に納むと。今、州〔対馬の〕中に伝もの六口也」と、八幡宮の発祥が対馬にあることを述べている。



神門扁額

神門内より

(厳原八幡宮概要)

    住所:厳原町中村字清水山645

    社号:八幡宮。木坂八幡本宮に対し、「新宮」と称す

    祭神:神功皇后、応神天皇、仲哀天皇、姫大神、武内宿禰



神門を入ると神功皇后の銅像が
 

    由緒(木坂八幡宮と内容的に同一)

神功皇后が新羅御征伐の時、対馬に御着船し、上県郡和珥津より新羅に渡り給ひ、新羅を平げ給ひ、高麗、百済も亦(マタ)来臨し、御凱旋の時、下縣郡與良の地(今、厳原と云ふ)に着御す。清水山を叡覧あり、此の山は神霊の止(トドマ)りぬべき山なりと宣ひ給ひ、御幸ありて、岩上に御鏡と幣帛(ヘイハク)を置かれ、皇后親(ミズカ)ら天神地祇を祭り給ひ、永く異國の寇を守り給へと祈り給ひ、神籬磐境を定め、亦朕が霊も共に此の山に止まらんと宣給(ノタマ)ひし遺蹟なり。天武天皇白鳳四年(664年)の勅により、同六年(666年)此の地に宮を作らし給ひ、応神天皇、仁徳天皇、神功皇后、仲哀天皇、姫大神、武内宿禰五柱[ここでは六柱。仁徳は応神の次の天皇である故、当初、仁徳は除かれていたのではないか。後に仁徳天皇時代に外寇ある時、清水山より吹いた神風で敵の船団を壊滅させたとの故事が伝わるが、その時点で仁徳が祀られ、六柱と思われる]の神霊を御鎮祭ありて、八幡宮と称し奉る。八幡宮と称するは、皇后新羅御征伐の時持せ給へる御旗八流残し給ひしに依る。(明細帳)



    厳原八幡宮は、木坂の八幡宮(海神神社)に対し「国府八幡新宮」と称された。また中世の頃は、上県郡にある海神神社を上津八幡宮、下県にある当社を下津八幡宮と称していたこともある。

    上記の由緒ある古社の神官は、宗家以前の対馬の豪族、阿比留氏である。対馬藩主である宗家は、阿比留氏の影響が大きく、「政教」の「教」という重要な伝来の神事を任せることで、その支配をスムースに行おうとしたことがうかがわれる。



    式内社として、宇努刀(うのと)神社平(ひらの)神社が境内社として祭祀されている。



この石段上に今宮・若宮神社が
 

    さらに今宮・若宮神社(天神神社)が境内社として祀られている。祭神は小西行長の長女として生まれ対馬の宋義智(宗家20代・徳川幕府初代対馬藩藩主)夫人として金石城に入った小西夫人マリア(クリスチャン)とその御子。今若・若宮神社として祀られていたものが天神神社と合祀されて現在に至っている。



今宮・若宮神社
 

宇努刀(うのと)神社】

・祭神:素戔嗚尊

・境内看板に「本社は神功皇后新羅征伐畢らせ給ひ凱還の時上県郡豊村に着給ひて島大国魂神社を拝し夫より佐賀村に着せられ此の地に島大国魂神社の神霊を分つて皇后親から祭り給ふ。延喜式神名帳に載る上県郡宇努刀神社定なり。延徳三年六月十四日佐賀村より下県郡厳原町八幡神社境内に遷し祭る」と由緒が記されている。


宇努刀神社
 

【平(ひらの)神社】

・祭神:天穂日命(アマノホヒノミコト)・仁徳天皇・日本武尊・菟道稚郎子皇子(ウジノワキイラツコノミコ)

・境内看板に「本社は瓊々杵尊の朝天日神命津島県主たりし時に祖神天穂日命を祭られしなり其の後日武尊仁徳天皇莵道皇子の三神を加祭す。延喜式神名帳にのる下県郡平神社是なり」と由緒が記されている。




    天穂日命(アマノホヒノミコト):天照大神の第二子、出雲国造・出雲大社宮司の祖。天照大神の第一子(天穂日命の兄)が天忍穂耳尊(アマノオシホミミノミコト)で、天皇家の祖。天忍穂耳尊の子が瓊々杵尊(ニニギノミコト)。瓊々杵尊の子が海幸帆・山幸彦。

    菟道稚郎子皇子(ウジノワキイラツコノミコ):応神天皇と和弭臣の祖で日触使主(ヒフレノオミ)の女、宮主宅媛(ミヤヌシヤカヒメ)との間の皇子



 



 


 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 番外編 阿曇磯良(アズミノイソラ) 〔下〕

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 番外編 阿曇磯良(アズミノイソラ) 〔上〕
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 番外編 阿曇磯良(アズミノイソラ) 〔中〕
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(上)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(上)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1


神功皇后の三韓征伐を先導した海人族の祖、阿曇磯良(あずみのいそら)




③ 対馬に残る磯良伝説

阿曇磯良の墓であると伝わる磐座が和多都美神社の潮溜まりに残されているように、上古の対馬の歴史を海人族抜きで考えることは難しい。そして、磯良の伝承は神功皇后に寄り添うかのように、皇后の所縁の地に残されている。


【胡禄神社/琴崎大明神】

    住所:上対馬町琴字琴崎3

    社号:琴崎大明神/胡禄神社(明細帳)

    神籬・磐境型式の古代神道

    祭神:海神(大小神社帳)、表津少童命 中津少童命 底津少童命 磯良(大帳)、表田少童命 中津命 底津命 太田命(明細帳)

    由緒

神功皇后新羅征伐し給ふとて、此の琴崎東澳(オキ)を過ぎ玉ふとき、此の海辺に御船を繋ぎ玉ふとき、御船の碇海底に沈む。是に於いて安曇磯武良海中に入り、碇を取り上げると云ふ。今の祭場は皇后の行宮の故跡也。古くは藩が営繕費を総て公衙(コウガ)より支給す。(明細帳)


胡禄御子神社



【五根緒浦(ゴニョウウラ)神社/曽祢崎神社】

    住所:上対馬町五根緒字平山188番地

    社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。

    祭神:五十猛命(イシタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯良

    五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イシタケラ)とも考えられる。同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」

と、あることからも、ここの場合、五十猛=磯武良と比定するのが妥当。


曽根崎神社の対馬海峡に向いた鳥居


    塔ノ崎の四基の石塔の二基は古く、この石積みが何を意味するのかは謎である。何か海岸に位置する鳥居が北面して海上に向かっていることから、この石積みは灯台のようでもあり、航海の安全を祈願する石塔のようにも見える。




④ 阿曇氏の祖である磯良。信州安曇野に残る海人族安曇氏と対馬の影

●穂高神社・穂高見命(長野県安曇野市穂高6079 穂高神社HP

    穂高神社の御祭神が穂高見命。信州の臍にあたる安曇野市穂高に建ち、その奥宮は上高地にある明神池のほとりに鎮座している。毎年、108日、雅楽の調べのなか、二艘の龍頭鷁首(リュウトウゲキシュ)を神秘的な池に浮かべ「御船神事」が催される。さらに峰宮は、北アルプスの主峰、奥穂高岳頂上(標高3190M)に鎮座する。

    穂高見命は、海神(豊玉彦命)の長男でかつ安曇磯良の伯父にあたることから、安曇族の祖神ということになる。安曇族は、抑々は北九州を拠点に栄え、海運を司り、早くから大陸方面とも交渉をもつなど高い文化を誇る海人族だが、なぜ、海に面せぬしかも山深い高地に海神を祀る氏族の拠点が存在するのか。

    そのひとつの理由として考えられるのが、船の建造用木材すなわち森林資源の確保のために良質の木材を擁する山脈を支配したというものである。

    穂高神社は、醍醐天皇の延長五年(927年)に選定された「延喜式の神名帳」には名神大社として列せられている。

    また、穂高見命は、古来、大きな湖であった処の堤を決壊させ、安曇野という沃地を拓いたと伝承される信州の昔話「泉小太郎」と重ね合わせることができる。


●道祖神に残る古代文字たる阿比留文字

 阿比留文字という対馬の阿比留氏(宗家の前の支配者)に伝わったというハングル文字に似た古代文字がある。その文字が刻まれた石碑や道祖神が、北九州や信州安曇野という安曇氏に所縁の深い土地で発見されていることも、海人族と天孫族の抗争を考える上でのひとつの考察の視点であり、今後の課題であると楽しい思いで認識している。



 


 


 


 


 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 番外編 阿曇磯良(アズミノイソラ) 〔中〕

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 番外編 阿曇磯良(アズミノイソラ) 〔上〕
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 番外編 阿曇磯良(アズミノイソラ) 〔下〕
神々のふるさと、対馬巡礼の旅---17 府中/厳原八幡宮神社

神功皇后の三韓征伐を先導した海人族の祖、阿曇磯良



  磯良伝説が色濃い「志賀海神社」と「君が代」の謎


【志賀海神社(シカウミジンジャ)】

    住所:福岡市東区志賀島877

    全国の綿津見神社の総本宮(海神の総本社)

    祭神:底津綿津見神(ソコツワタツミノカミ)・仲津綿津見神(ナカツワタツミノカミ)・表津綿津見神(ウハツワタツミノカミ)の三柱(綿津見三神

    4月と11月の例祭において「君が代」の神楽が奉納される

    代々阿曇氏が宮司職に就く。

    『筑前國風土記』(注1)に神功皇后が三韓征伐の際に志賀島に立ち寄ったとの記述があり、阿曇氏の祖神である阿曇磯良が舵取りを務めたとされる。

上記下線部分は『風土記』に記載なし。


(注1)筑前國風土記

「筑紫の國の風土記に曰はく、糟屋の郡。資珂嶋(シカシマ)。昔者(ムカシ)、氣長足尊(オキナガタラシヒメノミコト=神功皇后)、新羅に幸(イデマ)しし時、御船、夜来て此の嶋に泊(ハ)てき陪從(ミトモビト)、名は大濱小濱と云ふ者あり。便(スナハ)ち小濱に敕(ミコトノリ)して、此の嶋に遣りて火を覓(ト)めしたまふに、得て早く來つ。大濱問ひけらく、『近く家ありや』といふに、小濱答へけらく、『此の嶋と打昇(ウチアゲ)の濱と、近く相連接(アヒツヅ)けり。殆(ホトホト)同じき地(トコロ)と謂ふべし』といひき。因りて近(チカ)嶋と曰(イ)ひき。今、訛(ヨコナマ)りて資珂(シカ)嶋と謂ふ。


「君が代」の元歌ではないかとされる志賀海神社の《山誉漁猟祭(やまほめかりすなどりさい)神事》の神楽歌。次に記す通り。


君が代<だい>は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまで

あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身骸<みがい>に命<いのち> 千歳<せんざい>という

花こそ 咲いたる 沖の御津<おんづ>の汐早にはえたらむ釣尾<つるお>にくわざらむ 鯛は沖のむれんだいほやと言い、次に別当が、


志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで

今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う 御船になりけるよ

いるかよ いるか 汐早のいるか 磯良<いそら>が崎に 鯛釣るおきなと言う。


その後、禰宜がいくせで釣る 別当がよせてぞ釣ると三度繰り返し言う。

*別当《元来は本官のある者が別の役を兼ねて当たる意》


志賀海神社の《山誉漁猟祭(やまほめかりすなどりさい)神事》の神楽歌が「君が代」源流とする説 (「君が代の源流」を参照)


 『君が代』の歌詞には、「現在に残る筑紫の地名や神社そして祭神の名前が多く含まれている。千代は字名、八千代は博多湾のこと。福岡県前原市(伊都国)三雲に細石(サザレイシ)神社が現存。糸島市志摩船越桜谷にある若宮神社(古くは桜谷神社)の祭神が苔牟須売(コケムスメ)神と木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)。」と、これだけ揃えば逆に、「君が代」とはまったく無縁というのもそれなりの説明が必要だと思う。


 以上のように志賀海神社の神楽「君が代」の内容や当社代々の宮司が阿曇氏であることなどを考慮すると、阿曇磯良が海人族の長の一人であり、阿曇族が北九州を中心とした一円を支配する大王として崇められていたことは確かと云える。




 


 


 


 


 


 


 


 


 


 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 番外編 阿曇磯良(アズミノイソラ) 〔上〕

阿曇磯良の墓との伝説のある神体石(和多都美神社)


神功皇后の三韓征伐を先導した海人族の祖、阿曇磯良


  海人族の祖である阿曇磯良

神功皇后の新羅征討説話のなかで、占い神事に長けたものとして随行した中臣烏賊津使主(雷大臣)とともに出てくるのが、阿曇磯良である。その時、海人族たる磯良は航海の先導役としての役割を担っていた。磯良は海神とも目され、或いはまた海神(豊玉彦)の娘である豊玉姫の子であるとも云われており、海人族の有力豪族安曇氏の始祖として祀られる存在である。そのため、安曇氏の本拠地とされる福岡県の志賀島周辺にも多くの伝承を残す。


対馬に関わる神々の相関図


【安曇磯良】Wikipediaより)

    安曇(阿曇)磯良は神道の神である。海の神とされ、また、安曇氏(阿曇氏)の祖神とされる。磯武良(いそたけら)と称されることもある。

    石清水八幡宮の縁起である『八幡愚童訓』には「安曇磯良と申す志賀海大明神」とあり、当時は志賀海神社(福岡市)の祭神であったということになる(現在は綿津見三神を祀る)。同社は古代の創建以来、阿曇氏が祭祀を司っている。


    民間伝承では、阿曇磯良(磯武良)は豊玉毘売命の子とされており、「日子波限建」(ひこなぎさたけ)と冠されることのある鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と同神であるとする説がある(磯と渚はどちらも海岸である)。また、『八幡宮御縁起』では、磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神であるとしている。


    『太平記』には、磯良(阿度部(あどべ)の磯良)の出現について以下のように記している。神功皇后は三韓出兵の際に諸神を招いたが、海底に住む阿度部の磯良だけは、顔に牡蠣や鮑がついていて醜いのでそれを恥じて現れなかった。そこで住吉神は海中に舞台を構えて磯良が好む舞を奏して誘い出すと、それに応じて磯良が現れた。磯良は龍宮から潮を操る霊力を持つ潮盈珠(シホミツタマ)・潮乾珠(シホフルタマ)(海幸山幸神話に登場)を借り受けて皇后に献上し、そのおかげで皇后は三韓出兵に成功したのだという。志賀海神社の社伝でも、「神功皇后が三韓出兵の際に海路の安全を願って阿曇磯良に協力を求め、磯良は熟考の上で承諾して皇后を庇護した」とある。北九州市の関門海峡に面する和布刈神社は、三韓出兵からの帰途、磯良の奇魂・幸魂を速門に鎮めたのに始まると伝えられる。


    阿曇磯良は「阿曇磯良丸」と呼ぶこともあり、船の名前に「丸」をつけるのはこれに由来するとする説がある(ほかにも諸説ある)。宮中に伝わる神楽の一つ「阿知女作法」の「阿知女(あちめ)」は阿曇または阿度部(あとべ)のことである。


【神功皇后の三韓征伐説話の中に安曇磯良が登場】「紀の中の安曇氏」

1.「八幡愚童訓(ハチマングドウクン)」(鎌倉中後期/著者不明・石清水八幡宮の僧との伝/八幡神の霊験、神徳を説いた寺社縁起)に残る説話


「仲哀天皇の御世のことである。異国が攻めてきた。天皇は長門の豊浦まで来て戦われたが討ち死にされた。その後、神功皇后に天照大神の『三韓が攻めてくる前にこちらから向いなさい』という託宣があってから、住吉大明神が現われた。皇后は48艘の船をお造りになった。住吉大明神が『梶取には、常陸国の海底にすむ安曇礒良が良い』というので、皇后は礒良を召し出そうとされたがなかなか来ない。住吉大明神は、自らが拍子をとり神楽を催した。すると、礒良は慌てて足袋と脚半を着け、亀に乗って常陸から豊浦までやって来た。そして、顔が醜いので袖で隠し、首には鼓をかけて、細男(せいなう)舞(注1)を舞った。皇后は妹の豊姫を使いとし、高良大明神と水先人の礒良を伴わせて竜宮へ行くよう命じられた。一行3人は海の竜王から旱珠・満珠を借りることが出来た。安曇礒良は、筑前国では鹿島(しかのしま)大明神、常陸国では鹿島(かしま)大明神、大和国では春日大明神という。異名であるが同一神である。神功皇后は軍船を率いて敵国に向われた。梶取は志賀島大明神、大将軍は住吉大明神、副将軍は高良大明神である。敵は大軍であった。しかし、皇后は旱珠・満珠をお使いになり、敵を溺れさせて勝つ事ができた。


(注1)細男舞(セイナウマイ)

    「続日本紀」天平3年7月の条に、「筑紫の風俗が宮廷に献上され、雅楽寮で宮廷楽舞として伝習されるようになった」とあるが、これが細男舞ではないかと推測される。

    現に、「細男舞」は奈良の日若宮神社の例祭「おん祭」において現代も舞われている。

    海人族の長、阿曇氏の先祖である阿曇磯良が、神功皇后と応神八幡に従属した様子を模したという。応神が海中に舞台を構え、磯良が好む細男舞を奏すと、磯良は首に鼓をかけ、浄衣の舞姿で亀に乗って浮き上がって来た。しかし長いこと海中にいた為、顔に鮑や牡蠣がくっつき見苦しい為、白覆面をして舞ったという。


 


 


 


 


 


 


 


 


 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(下)

  
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(上)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(中)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅---対馬に関わる神々の相関図

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(上)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 6(鴨居瀬の住吉神社・赤島)


  
海神神社の鎮座する木坂・伊豆山に残る風習


鳶崎と御前浜

御前浜

 

   藻小屋(もごや)

     海神神社の前に広がる御前浜の海岸端に石造りの壁を持った数棟の小屋が見えた。海岸に流れ着いた藻やカジメなど海藻を収納し肥料にするため貯蔵しておくための小屋だといい、壁が石造りとなっているのは冬場の強い風に耐えるためだという。地元ではこれを「藻小屋(もごや)」と称し、御前浜には現在、6棟存在する。但し、これは復元されたものであるが、かつては全島一帯に設けられていたものである。


藻小屋と手前に「ヤクマの塔」

 

     この「藻小屋」の存在は、対馬における海人族のあり方を語っている。民俗学者の宮本常一氏はその著「海の民」(未来社)のなかで、海人が海藻を採るのは藻塩焼製塩に用いるほかに、鰯などとともに農耕の肥料として用いるといった用途があったため、「対馬では近世まで、農耕地を持つ者のみが海藻の採取権を持ち、土地を持たぬ漁民は藻を刈ることはできなかった」と記している。このことは古来、対馬では農耕を行う者が海人族であったことを意味し、海人族が跋扈する土地であったことの傍証となるものである。


   ヤクマ祭り・ヤクマの塔

     韓国済州島の石塔(タブ)にそっくりの「ヤクマの塔」(頂上に置く縦長の石はカラス石と呼ぶ)【「古代朝鮮と倭族」(鳥越憲三郎著・1992中公新書P118)より】以下の写真の出所も同様。


     手前の海岸にある石積みの塔は「ヤクマの塔」と呼ばれ、旧暦6月の初午の日に行われるヤクマ祭りの時に、その石塔に御幣を挿し、男子誕生と健やかな成長を願う。石塔の頂に置かれている縦長の石を「カラス石」と称す。上県郡峰村郷土誌によれば、古来、旧暦6月の初午の日に五穀豊穣を祈るため競馬を行なう風習があったという。6月初午の日を、「ヤクマ」と称して祭る風は、現在ではこの木坂と同じ海神神社の氏子村である青海(オウミ)に残るのみだが、昔は対馬全島で広く行なわれていた。


     ヤクマは「厄魔」という説を採るのが、藤仲郷の「対馬州神社大帳(天明年間(17871-1789の著作))である。大己貴神(オオナムチノカミ=大国主命の別名)、少彦名命(スクナビコノミコト=大国主命の協力者)という「医薬」・「穀物」の二神を祀る薬師神社と関連付けて、「ヤクカミ」・「ヤクシ」と呼び、それが「厄魔」に変じたとする。また同氏は、薬師神は土俗信仰でいう郡津(グンツ)または寄神(ヨリガミ)と同質のいわゆる国津神であるという。巷間で「ヤクマ」と称し、六月初午に初穂を神に供え厄払いの祭りをするが、それは薬師(ヤクカミ=厄神)に祈って厄除けをするものだとも解説している。


     もうひとつが、鈴木棠三氏が「対馬の神道」で若干触れている「役馬の神馬」の見方である。


対馬に残る安徳天皇御陵墓伝説地(厳原町久根田舎)から2kmほどの地に安徳帝に所縁の納言殿塚や馬塚、犬塚があるが、その御料の馬が埋葬された場所を「役馬神馬」といい、当地で茂地(シゲチ)という「不入の聖地」となっているとの話が掲載されている。

その久根田舎の聖地にさらに「ゴンシゲ(午(護)王の茂地)」と呼ぶ場所があり、そこがヤクマの競馬場であったと云われていると紹介されている。そして場所は異なるがとして、「峰村郷土誌によれば、旧暦六月の初午の日に豊作を祈念し競馬を行なう風が古来、行なわれていた。そして、その風習は対馬全島で広く行なわれていた」と、木坂の話も取り上げられている。


また木坂の北北東約10kmにある仁田地区では、2002年、「仁田の厄馬(ヤクマ)」別名「馬跳ばせ」の風習が、町おこし・対州馬種の保存の目的とも併せ約40年ぶりに復活を見、現在に至っているという事実がある。


ここで考えるべきは、旧暦六月の初午の日に催される「ヤクマ祭り」で、今も競馬が行なわれていることと、古来、五穀豊穣を祈り競馬が行なわれていたという事実の符合である。


「初午」の日に「競馬」による祈りの儀式を行ないその年の「厄」を除けるという永年の習俗を現在においても見せつけられると、「ヤクマ」は「厄馬」と解するのが、妥当であると考える。


   鹽井(シオイ)川

「対州神社誌」の文中にある海神神社より130間にある「鹽井川」は「鹽斎(シオイ)」→「潮斎(シオイ)」と解すると、神功皇后が伊豆山(斎(イツキ)山)に「神籬磐境(ヒモロギイワサカ)を定め、斎き祭り給ふ」とある「斎」伝承に関連すると考えられ、新羅凱旋の折、佐賀の浦に設けた斎庭(サニワ)にも通じるものと推測される。


その「鹽井(シオイ)」は、海水や砂で家、田畑、人を清める御潮斎または御潮井(オシオイ)という風習にその名を認める。有名なところでは、博多祇園山笠に「お塩取り(お潮斎取)」という縁起物の儀式があるが、男たちが箱崎浜の砂を体に振りかけ身を清めるというものである。


また福岡県みやま市瀬高町文廣に「潮斎(シオイ)神社(別称:朝妻神社/祭神:水の神 瀬織津姫)」という名の神社があるが、そこには当社近くの朝妻川で景行天皇が禊ぎをしたとの伝承が残されており、その例祭に西側に流れる矢部川の清流を汲む「御汐井汲」という「鹽井」の名を冠する禊ぎの儀式が伝えられているという。こうした「シオイ」という地名にも、この伊豆山の地が神霊なる土地であることが強くうかがわれる。


   「原上(ハルア)がり」と山幸・海幸物語

     『対馬紀事』(文化6年(1809))に「当邑(木坂村) 産に臨んで 俄(ニハカ)に産屋を効に造り、其の産舎の未だ成らざるうちに分娩すと云。之を原上り(ハルアガリ)と曰ふ。是乃ち土風なり。相伝えて豊玉姫の安産に倣うの遺風也」とある習俗が明治中頃まで残っていた。この習俗は鴨居瀬の住吉神社がある「産の浦」と呼ぶ一帯に残る海浜に建てた仮設の産屋での出産と云う風習と同様である。


     対馬の郷土史家、永留久恵氏は木坂の里の産土の習俗に着目し、この海神神社を式内大社の和多都美御子神社に比定している。『対馬紀事』に「当邑 産に臨んで 俄に産屋を効に造り、其の産舎の未だ成らざるうちに分娩すと云う。之を原上り(ハルアガリ)と曰う。是乃ち土風なり。相伝えて豊玉姫の安産に倣うの遺風なり。」とある。鴨居瀬の住吉神社の項で、山幸・海幸に係る「紀」の記述に習う「産の浦」地区の出産習俗を紹介した。

 

     津嶋部神社という名の神社が大阪府守口市にある。その旧鎮座地が対馬江(北東約500m・寝屋川市対馬江町付近)であったとされ、延喜式神祇にも「津島朝臣・津島直の族此の地に来たりて住み、其の祖天児屋根命を祀れるならむ」とあることなどから、対馬の卜部たちが都に上る時に上陸地としてこの湊を利用するうちに対馬の民が棲みついたため「対馬江」という地名が冠されたものと推測される。


  そしてその地に、対馬の民が本貫の地の「津嶋女大神」という名の祭神を祀った。その大神が何を意味するかは謎であるが(その謎は別の項で語るとして)、かつてこの神社の近辺には、産婦は近くの海辺・川辺にわざわざ建てた産屋で子供を出産する習俗があったという。


海人族が力を有した対馬の習俗が遠く畿内の地にも伝播していた事実から、上古、「対馬の卜部」の影響力は想像以上に大きなものであったと考えられる。と同時に、「対馬」という地が、「日神」さらには「天孫族」の本貫地であったとするわたしの推測もあながち見当外れと云えぬのではないかと思うところである。

   「厳原」の名の起源が「伊豆原」

海神神社の本殿は、伊豆山の山腹を277段もの急峻な階段を上った中腹の辺り、伊豆原と呼ばれる平坦地にある。「イヅ(稜・威・厳)」とは神霊を斎(イツ)き祀ることの意味で、神功皇后が神霊強き山と呼んだところから「イヅヤマ」すなわち「伊豆山」と称された。後に八幡宮を国府の地に遷した(厳原八幡宮)ときに、その地を「イヅハラ」すなわち「厳原」と改名したのも、八幡本宮(海神神社)がそもそもあった伊豆原に由来したものである。

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(中)


神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(上)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(下)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

伊豆山

 
 海神神社について「対州神社誌」は、「一.八幡宮本社より鳥居迄道法百六拾間 鳥居よりしをひ川迄百三拾間 鹽(しお)井川より宮司家迄百四拾五間 一.神山東西八町程 南北四町程 樫松有 山之八分目程之所へ本社あり ・・・ 一.神器品類 不暇枚挙」と記載しているように、当社は古来、神山すなわち伊豆山全体を
神域とし、その本殿は山腹を大きく鈎型に縫うように277段の階段を上った山の八分目あたり、かつて「伊豆原」と呼称された平坦地に建っている。

山腹八分目にある平坦地、伊豆原

御前浜に面するように建つ一之鳥居をくぐり境内に足を踏み入れたとき、この神社がまさかこれほど壮大なものだと考えてはいなかった。

手水舎(ちょうずや)

一之鳥居を入ってすぐの境内


境内由緒書き


海神神社の鎮座する伊豆山は、その本殿を中心に約86haが国設鳥獣保護区として指定され、「野鳥の森」としてその生態系が保護されている。そのため今日に至るまで千古斧を入れぬ原生林として古来の姿を保っているという。

二之鳥居と右手に野鳥の森の観察路標識

二之鳥居


 神社由緒に神功皇后は神霊強き山とした「斎(イツキ)の山」の頂上に神籬磐境(ヒモロギイワサカ)を定め国土守護を斎き祀ったとあるが、その本殿までの長くて急な階段を昇り、山腹途中から朝鮮海峡を眺め渡した時、まさにこの伊豆山自体が御神体であり、国を守護する神山であることを確信する。

二之鳥居を過ぎてすぐに目に付く磐座

急勾配だが幅の広い堅牢な石段

この上に三之鳥居が

山肌を覆う常緑広葉樹林の木の下闇に続く堅牢な石段を一段一段踏みしめながら、時折、葉叢の間を縫ってくる潮風が頬を撫でてゆく。

樹間から見える海峡

その風は遠い昔からこうして朝鮮半島から海峡を渡り異国あるいは母国の匂いをこの対島の人々に運び続けてきたのだろうと感じた。

三之鳥居

扁額

 長い階段を昇り切り顔を挙げたその真正面に、1.5メートルほどの高さに組まれた一重基壇の上に床下に亀腹(カメバラ)を有する2メートル弱の高床式の拝殿を見上げることになる。

海神神社の堂々たる拝殿

一重基壇に高床式の堂々たる拝殿

「対州神社誌」に「拝殿貮間に三間 此外に二間に三間之廊下これあり」とあるが、石段四段その上に木の階段四段を上ったところに均整のとれた堂々たる拝殿はある。

BlogPaint

拝殿南側から・床下に「亀腹」が見える

そして、本殿は「但し、本社と拝殿之取付なり」とあるように、拝殿の広間の奥、弊殿へ進み十段の階段を昇ったところに建つ。「神社誌」に「本社桁間七間入五間 此の内に四尺間にして小御所五間これあり」と、これまた威風辺りを払う威厳を感じさせるものである。

拝殿広間から弊殿を伝い、本殿階段へゆく

弊殿前に「16菊」の神紋が

ここで本殿の屋根は銅葺きの切妻造りだが、大棟に載る鰹木(カツオギ)は奇数の五本で、奇数の場合は男神を祀るという定説がある。そこで建造物の特色からは「木坂八幡本宮」たる祭神は男子たる応神天皇ということになる。



本殿

さて、ここで非常に不思議なのが、海神神社の本殿には神社特有の「千木(チギ)」がないことである。因みに木坂から遷されたとされる厳原八幡宮本殿には女神を祀るとされる内削ぎの「千木」が置かれている。(但し、どなたかの写真では千木が置かれていた。修復中でもあったのだろうか・・・)

千木のない本殿

神仏混合などの影響の濃い神社に「鰹木・千木」のない本殿を有すものがあることは仄聞したことがあるが、「鰹木」はあるのに「千木」がない神社というのは浅学非才にして訊いたことがない。

本殿と拝殿、境内社を南側から

次に拝殿の上から右手にそう広くない平坦地に境内社が五つ整然と列んでいるのが見下ろせる。本殿に連なるその一群の社の後背には斎き山なる伊豆山の頂上が迫っている。

拝殿の屋根越しに伊豆山の頂きが

拝殿より南側に境内社を見下ろす(この5社はかつて官社であった)



境内社については「大小神社帳」の記載に拠った。拝殿から近い順に記す。なお( )内は御祭神である。



    一ノ宮(神功皇后)

以下、脇宮として

    若宮(仁徳天皇)

    新霊(菟道皇子)

    軍殿(日本武尊)

    瓊宮(ニノミヤ・豊姫霊)



当社の祭神として応神天皇のほかに、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)と豊玉姫(海神豊玉彦命の娘)、さらに「大帳」によれば先の二柱の御子、鵜茅不合葺尊(ウガヤフキアエズノミコト=神武天皇の父≒阿曇磯良)も同様に祀られていることも、当神社が「八幡宮」の創始とされる一方で、海人族と天孫族との融合に強い縁を有する聖地であったことを強く窺わせる。神功皇后が「息長帯足比売命(オキナガタラシヒメノミコト)」とも呼ばれ、その出自を「息の長い」海人族と推定すれば、この神山に鎮座する海神神社は、その名にも顕されているように海の民、海人族と極めて深い関係を持つと考えるのは至当であり、きわめて自然である。

境内

 斎(イツキ)の山の頂近くの斎原(イツキ)に鎮座する海神神社。その神山の山裾には「御潮斎(オシオイ)」という禊ぎの儀式を想わせる鹽井川が流れている。そして、後述するように社前の御前浜で今日もなお行なわれている「ヤクマ祭り」といった儀式を考え合わせると、この地はまさに「海神」という海人族の神を祀るに相応しい聖地であると云うべきである。




 


 


 

境内端より樹間に海峡が望める

 夏の一日、斎きの山頂でひとり朝鮮半島を想うと、遠き昔、一衣帯水の地より巧みに潮路を伝い、この対馬へ渡って来た人々の息遣いが、この「斎きの原」のそこここに聴こえてくるような気がした。


 


神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(上)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(中)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(下)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(上)



海神神社一之鳥居


海神神社一之鳥居



   我が国の八幡宮の起源「木坂八幡本宮」



 神々のふるさと、対馬巡礼の旅---番外編(神功皇后は実在した1・2)」で見たごとく神功皇后の実在の可能性が高いとする一つの根拠が、対馬に数多く残る皇后の新羅への出征時および凱旋時の対馬寄港の伝承であり、凱遷時に国防祈願をしたという八幡宮の存在である。そうした話を神社の由来として伝えるのが、かつて木坂八幡本宮と呼ばれた海神神社であり、木坂から遷された厳原八幡宮である。この二つの神社には神功皇后の凱旋時にまつわる酷似する伝承が残されており、全体の物語の構成としても不自然さがないことに、リアリティーという点で注目したいところである。



神功皇后の新羅征伐に係る対馬に関する「紀」の記述は以下の通りである。



【神功皇后(摂政前紀 仲哀天皇99月―10月) 「神助により新羅親征」】

「冬十月の己亥(キガイ)の朔(ツキタチ)にして辛丑(シンチウ=3日)に和珥津(ワニツ)より発ちたまふ。時に飛廉風(カゼノカミカゼ)を起し、陽侯浪(ウミノカミナミ)を挙げ、海中の大魚悉に浮びて船を扶く。則ち大風順に吹き、帆舶波に随ひ、櫨楫(カヂカイ)を労(イタツ)かずして、便ち新羅に到る。・・・」との記述。

和珥津(ワニツ):対馬北端、上県郡対馬町の鰐浦。



「神功皇后(摂政元年3月―53月)「誉田別皇子の立太子」の記述のなかで、人質とした新羅の奈勿(ナモチ)王の子、微叱己知(ミシコチ)が奪還される場面で、対馬に宿泊。その時、人質奪還をされた土地の名が「サヒノウミ」の「水門」であると以下の通り登場する。

「〔人質の微叱己知(ミシコチ)と新羅の使者毛麻利叱智(モマリシチ)等と神功皇后が見張りとして随行させた葛城襲津彦(カヅラキノソツヒコ)と〕共に対馬に至り、�窶海(サヒノウミ)の水門(ミナト)に宿る」



「紀」の注では、『「�窶(サヒ)」は「鋤」に同じく農耕具で、鋭利な武器でもあったか。鰐はその鋭利な歯から、「サヒ持ちの神」(古事記)といわれたことの連想によるか。』とあり、「サヒノウミの水門」は「和珥津」と同地と推定している。



但し、「対州神社誌」の「府内」の「(厳原)八幡宮」の厳原町久田道字宝満山に鎮座する「村社・與良祖神社」の「明細帳」(注)において、「山幸海幸の説話の(注)に、『海宮は津島の事なり。小船の着しは津島下県郡鴨居瀬村の東海瀬戸なり。爰(ココ)に小島あ、此島南北に連流し、此小島と鴨居瀬との間に瀬戸あり。�窶(スキ)の水戸と云。春気を受け紫藻を生ず。紫瀬戸と云。津島の東海絶景の第一とす』とある。



 これによれば、「紀」による人質奪還の場所、「�窶海の水門」は、現在の鴨居瀬の住吉神社の建つ場所ということになる。



 このように新羅征伐の一連の記述の中で、対馬は新羅征伐への出立地及び凱旋後の新羅からの人質を奪還された場所として、北端の港である「和珥津(ワニツ)」や鴨居瀬とも推定される「�窶海の水門」の名が登場するのみであり、凱旋時に国防祈願として造営した八幡宮に関わる話は、「紀」のなかにおいては一切言及されていない。



その一方で、巷間の伝承などを参考としたであろう「対州神社誌」や「海神神社神社明細書」に「木坂八幡本宮」、「明細帳」に「(厳原)八幡宮」の由緒が詳述されている。



(海神神社概略)

    住所:峰町木坂247

    社号:「対州神社誌」に「八幡宮」、「大小神社帳」に「木坂八幡本宮」とある。厳原の新宮に対し、本宮と呼ぶ。明治時代までは八幡宮と称していた。明治3年に、和多都美神社と改称し、さらに明治6年に海神神社となる。

    祭神:応神天皇・彦火火出見尊(山幸彦)・仲哀天皇・豊玉姫(山幸彦の夫)・武内宿禰

    由緒(対州神社誌より)

藤仲郷は「対州古蹟集」の中で、この八幡宮を「日本八幡宮の旧本社なり」と主張している。当神社の由来書によれば、次記の通り。



「神功皇后御征韓の役を終わらせ給い、帰途対馬をよぎらせ給う御時、佐賀の浜に八幡を建て給い、木坂山に鰭(ヒレ)神を祭らせ給う」とある。そして「津島紀事」に「皇后は佐賀の浦に斎庭をしつらえ、三韓出征の折、宗像神から授かった『振波幡』、『切波幡』、『振風幡』、『切風幡』、『豊幡』、『真幡』、『広幡』、『拷幡』の八旌の旌旗と鈴とを浜辺に張り巡らし捕虜の釈放(放生会の始め)や矛舞など凱旋の祝いを行った。次いで八旒の旗をこの地に蔵し国土守護の『うけひ』をせられた。仁徳天帝癸丑の年に、佐賀八旒を木坂に遷して廟主となし、神功皇后を奉祭しこの社を一宮と称した。さらに継体帝丁亥の年には、応神天皇以下の神を木坂の伊豆山に奉祀し、この神功・応神両神廟を八幡宮と称えた」とある。

「津島紀事」とは、対馬府中藩士の平山東山(ヒラヤマトウサン17621816)が郡奉行の任にある時、視察のため来島した幕臣土屋帯刀(タテワキ)に命じられて対馬の史誌を編修し、幕府に提出したもの。

    一宮を木坂伊豆山に奉祀した由緒(海神神社神社明細書より)

「神功皇后新羅より還御の時対州西面の要害を御船より巡検し給ふ時、木坂山を叡覧ありて、此の山は神霊強き山なり、彼の山頭に鰭神等祭祀し異国降伏祈らんと宣ひ、武内大臣を奉じ、神籬磐境(ヒモロギイワサカ)を定め、斎き祭り給ふとなり」とある。これは、厳原の八幡宮(新宮)の清水山由緒に同種の記述あり。



    さらに、藤仲郷は「対州古蹟集」の中で、「皇后征韓の時、供奉の御旌八旒を此州に留玉ふを廟主とす。其の鈴二口宝とす。〔八旒の旗の内〕二口は府〔厳原〕の八幡宮に分置し、二口は豊前宇佐宮に分ち、又二口は黒瀬城〔現・金田城〕に納むと。今、州(対馬の)中に伝もの六口也」と、述べている。



    「仁徳天皇の御宇、異国の賊船数百艘西方海上に顕れた際、木坂の伊豆山の頂より神風が強く吹き起こり、異船ことごとく行方知れずになった」との言い伝えがあるが、後に白髪翁が現れて、「是即ち気長足媛尊(神功皇后)の祭り置せ給ふ国主和多都美の御神霊の為す所よと喜ひて」(海神神社明細書)と、仁徳紀に八幡と鈴が木坂に遷された由縁が分かる。さらに国府(厳原)と黒瀬と宇佐へと鈴と八旒が遷された。これに関連して、現在、八幡宮の総本社とされる宇佐由緒では、欽明天皇三十二年に八幡神が現れたとなっている。



    統一新羅時代(8世紀)の銅造如来立像(国の重要文化財)が収蔵されている



    大小神社帳に、境内社として本殿左に建つ五宇が紹介されている。即ち、一ノ宮(祭神:神功皇后)・若宮(同仁徳天皇)・新霊(同菟道皇子)・軍殿(同日本武尊)・瓊宮(ニノミヤ・同豊姫霊)。この5社は「官社」であると記載されている。

また、木坂八幡本宮は古くは「和多都美神社」又は「上津(カウヅ)八幡宮」と号したとある。

神々のふるさと、対馬巡礼の旅---対馬に関わる神々の相関図

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(上)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(上)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 2(和多都美神社)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 3 和多都美神社の玉の井

対馬に関わる神々の系譜について、Wordで作成したものをスキャンしてご案内する。少々ボケて見づらいのですがご勘弁を。

なお、この写真の相関図に書き切れてない神代7代など「対馬巡礼の旅」を理解する上で必要なものを付記しておく。




 


【神代7代について】

神代3代(造化の神と呼ぶ)がこの世界に初めて生まれ出た神様で、すべて男性神


      国常立尊(クニトコタチノミコト)→国狭槌尊(クニノサツチノミコト)(or 天御中主尊(アマノミナカヌシノミコト))→豊斟渟尊(トヨクムヌノミコト)(or 高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)の順で生まれ出る。(赤字が神代三代)


      神代3代の次に生れたのが、4対偶の男女4カップルの神(8柱の神)で、先の3代と合わせて神代7代と呼ぶ。その最後の7代目に生まれたのが、伊奘諾尊、伊奘冉尊の男女神である。


      伊奘冉尊と伊奘冉尊は、大八洲国を生み、山川草木を生んだ後、「天下(アメノシタ)の主者(キミタルモノ)を生まざらむ」として、「日神(大日孁貴(オホヒルメノムチ)or天照大神)」、「月神(月読尊(ツキヨミノミコト))」、「蛭児(ヒルコ)」、「素戔鳴尊」と順に生んでゆく。



【山幸彦竜宮説話に関わる神々】

      玉姫は豊玉彦命(海神・綿津見神)の娘

      山幸彦は天照大神の孫の瓊々杵尊(ニニギノミコト)と木花佐久夜毘売(コノハタサクヤヒメ)の間にできた子供。

      豊玉姫は出産の時に本来の和邇(ワニ=)の姿になったのを山幸彦に見られ、綿津見神の国に戻る。子供の鵜茅不合葺命(ウガヤフキアエズノミコト)の養育を妹の玉依姫命に頼む。後に、玉依姫はその鵜茅不合葺命との間に「神武天皇」を生む

      阿曇磯良は豊玉姫命の子。父が誰かは分からず。


阿曇磯良(アズミノイソラ)
鵜茅不合葺命が同一人物という説もある。と言うことは、阿曇磯良は神武天皇の父or叔父ということにもなる

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(下)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(上)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(中)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 14 (胡禄御子(コロクミコ)神社)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(三柱鳥居と天照御魂神社の謎)


一之鳥居扁額


阿麻テ留神社は、かつて対馬がまだひとつの島であった時代、対馬海峡の東水道から西水道へ入るために、船を陸に揚げ移動させた「小船越」という陸の隘路を見下ろす小高い丘の上にある。いわば古の要衝の地に立地している。現在より海が深く陸地に切れ込んでいた古代、この小高い丘からは東西の水道を左右真下に見下ろせたはずであり、半島への使者たちが小船越を常時、往来したことは想像に難くない。


小高い丘の上に阿麻テ留神社が

 

阿閇臣事代(アヘノオミコトシロ)がこの小船越に上陸したときに、そのすぐ脇にある丘の上の阿麻テ留神社に坐す日神(天照大神)がその随行員に憑依し、神意を伝えたのも十分に理解でき、納得するものである。


階段から一之鳥居を見下ろす(国道382号線が前を走る)


現在、東の小船越浦から西の浅茅湾深浦へこの小船越を越えて僅かに陸路で300mの距離である。その真中を国道382号線が南北に通るが、その国道沿い小船越郵便局手前、左側に阿麻テ留神社の石の鳥居がある。標識や案内板もなく、まさに国道脇の歩道に一之鳥居があるため、ゆっくり徐行でもしないかぎり通り過ごす危険性がある。


一之鳥居

一之鳥居から二之鳥居を

この急な階段を昇り、頂上に拝殿がある

頂上の境内から最後の階段を見下ろす

拝殿


この拝殿を目にしてこれが伊勢神宮の源流とはとても考えられない。しかし、「天照」を「阿麻テ留」と表記を変えた大和王朝の隠れされた意図を考えると、この社殿の粗末な佇まいが返って大和王朝が何としてでもこの神社を無視し抹殺しなければならなかった強い意志を感じるようでもあり極めて興味深い。


アマテル神社の御祭神「日神命」、「天照御魂命」とは一体、何ものであるか?

どう考えて見ても、天孫族の御祖(みおや)としか考えられぬのである。


拝殿脇から境内と階段下り口

拝殿脇から本殿を

本殿

拝殿内

拝殿内部

拝殿上空の空


(阿麻テ留神社の概要)

・住所:美津島町小船越字河岸川352

・社号:「対州神社誌」では「三所権現」とあるが、「大小神社帳」では、「照日権現神社」、古くは「天照乃神社(アマテルノジンジャ)」とある。「明細帳」に「阿麻テ留神社」とある。

・祭神:「大小神社帳」では天津向津姫神。「大帳」には「対馬下県主『日神命』または『天照魂命』」とある。また、「明細帳」には、祭神は「天日神命(ヒニミタマ)」とある。天日神命は対馬県主の祖。対馬県主は、姓氏録未定雑姓・摂津国神別に津島直・津島朝臣が天児屋根命〔神事の宗家〕から出るとあり、中臣氏系と見ることができる

・由緒(大帳)

「則〔日神命が〕御住地也。高御魂尊之孫裔也。皇孫降臨之時供奉之神也。古事本紀曰、天日神津島縣主等祖云々」

つまり、阿麻テ留神社の場所が、対馬下県主たる日神命(天照魂命)が住まわれた土地であると云う。日神命(天照魂命)は高御魂尊の末裔で、皇孫降臨の時に、お供奉った神である。古い本紀に曰く、天日神は対馬県主等の祖云々とある。延喜式神名帳に載っている阿麻テ留神社は是である。(大帳による)


境内の石灯籠


貞観十二年(870年)三月正五位下を授かる(明細帳による)。〔律令制においての位階制。五位以上の者には「位田」が支給される規定となっていた。五位以上の者が「貴族」と呼ばれ、昇殿などの特権が与えられた〕


『神名帳考證』(寛文年間1661-73年)にも、「阿麻テ留神是天日神命也」とあり、天日神命(ヒニミタマ)つまり「天の日の神」が津嶋縣直の祖神であることを云っている。


と云うことは、「阿麻テ留」は「天照(アマテル)」すなわち「天照大神」としてよいのではないか。つまり、対馬が日神つまり伊弉諾尊・伊奘冉尊が生んだ天照大神を、壱岐が月神つまり月読尊を祀る本貫地であると比定することは、一概に荒唐無稽な暴論であると一蹴すべき話ではないと考え及んだところである。

一之鳥居前の狛犬

 

そして対馬下県主たる「日神命(天照魂命)」という神の名が、三柱鳥居のある京都の太秦にある「木嶋坐天照御魂神社」の社名に酷似していること。また天照大神と豊受大神が伊勢神宮に遷る前に遷座した吉佐宮とされる元伊勢と呼ばれる京都丹後一の宮、「籠(この)神社」の祭神、彦火明命の別名「天照御魂神」とも共通していることなど、興味深い謎が次々と浮かんでくる。

海が近いことを私に知らせるように本殿下に出現した蟹


さらに籠神社に伝わる極秘伝である「同命(彦火明命)が山城の賀茂別雷神と異名同神であり、その御祖の大神(下鴨)も併せ祭られている」との伝承が、対馬懸主の祖であり対馬亀卜の祖たる中臣烏賊津使主(イカツオミ)すなわち雷大臣命(イカツオミノミコト)を見事に想起させる。


木嶋坐天照御魂神社と賀茂神社の神紋が「双葉葵・加茂葵」と同一であること。水位・潮位といった水に深く関連すると思われる三柱鳥居を有する対馬の和多都美神社、太秦の木嶋坐天照御魂神社、向島の三囲(ミメグリ)神社。古来、京の水の司として賀茂神社の祝(ハフリ)の家柄である鴨脚(イチョウ)氏の存在から推測される鴨氏と水、双葉葵の神紋と元糺(もとただす)の森(木嶋神社)と糺(ただす)の森(下鴨神社)の関係。木嶋神社(秦氏が建立)と賀茂神社。秦氏と鴨氏の深い関係。そこから秦氏からハタ → 韓国語の海(ハタ)→ 海人族・・・と、連想ゲームは果てしなく続いてゆく・・・・。


こう想いを巡らせて来たとき、阿麻テ留神社は天照神社と称すべきなのかもしれぬとも思った。また逆に天照大神は本来、阿麻テ留大神と称すべき神であったのかも知れないと想いを馳せて見たりしてみるのであった。


神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(中)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(上)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(下)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 14 (胡禄御子(コロクミコ)神社)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1
王家の谷、善通寺・有岡古墳群を歩く=積石塚古墳・野田院古墳(2013.11.23)

(「アマテル」の「テ」は「氏」に下バーの「_」)


●阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ)について
「15 阿麻テ留(アマテル)神社(上)」の「紀」の注1につづく


【仲哀天皇二年7月―8月条 「熊襲征討」】

「阿閉嶋(アヘシマ)」の記述あり。山口県下関市北西の海上にある六連(ムツレ)島の西北の藍島のことか。(紀第一巻P407の注13)


【神功皇后(摂政前紀仲哀天皇9年4月―9月条) 「神助により新羅親征」】

「是(ココ)に吾瓮海人(アヘノアマ)烏摩呂(オマロ)をして、西海(ニシノミチ)に出でて国有りやと察(ミ)しめたまふ。還りて曰(マヲ)さく、『国見えず』とまをす。又、磯鹿海人(シカノアマ)名草(ナグサ)を遣わして覩(ミ)しめたまふに、数日(ヒカズヘ)て還りて曰さく、『西北に山有り。帯雲(クモイ)にして横に�嚀(ワタ)れり。蓋し国有らむか』とまをす。」

がある。

こうした記述を参考にするとしても、新羅との外交交渉を担当する
阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ)は、紀の注釈にある伊賀国阿閉郡を本拠とする氏族や下関の阿閉嶋(アヘシマ)出身の人物とするより、当時の新羅征討に関連する人物群や地勢的特性から推定して、対馬の「阿連」、旧名「阿惠(アヘ)」に棲む海人族の一支族とするのが、妥当な解釈のように思える。仲哀天皇9年4月―9月条の磯鹿海人(シカノアマ)も、新羅征討の伝承に深く関わる志賀島のやはり海人である。

ここで、以上の『顕宗紀』に係る「紀の注記」をまとめると、以下の通りである。

    日神(ひのかみ):延喜式神名帳に対馬島下県郡 阿麻テ留(あまてる)神社

    磐余:神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)=神武天皇の名前の中に「磐余」が入っている。「神」は神々しい。「日本」の文字は「公式令」詔書式の規定による修文、このヤマトは奈良県。「磐余」はイハレ、桜井市中西部から橿原市東部にかけての古地名。

    高皇産霊(タカミムスミノミコト):「延喜式」神名に「大和国十市郡目原坐高御魂神社」、対馬島下県郡高御魂神社

    対馬の下県直(シモツアガタノアタイ):「姓氏録」摂津未定雑姓に「津嶋直、天児屋根命十四世孫、雷大臣命乃後也」

    祠:高御魂神社の祭祀をさす


(参考)

*高皇産霊

高皇産霊神は忌部氏の祖神であり、阿波や讃岐地方と深い関係があると考えられる。その地域には同様の墳墓形式、すなわち前方後円墳以前の積石塚墳墓が集中している。高句麗系の墳墓様式とされる積石塚墳墓は、対馬や香川の高松市の石清尾山、徳島の吉野川流域、和歌山、長野県といったツングース系渡来人が居住していたといわれる地域に多い。


以上をまとめて整理すると、「顕宗天皇紀」は、天照大神が対馬で顕れ、月読尊が壱岐で顕れたと述べている。そこで云う「日神」並びに「月神」が一般論の日・月信仰のものでないことは、人に憑依した日神・月神双方ともに、「我が祖高皇産霊(タカミムスミノミコト)」と、云っていることである。

それはつまり、伊奘諾尊・伊奘冉尊から遡る(「神代7代」の3代目が「
高皇産霊」であり、7代目が「伊奘諾尊・伊奘冉尊」である。「高皇産霊」は「伊奘諾尊・伊奘冉尊」の直系の祖である)という意味で「
我が祖高皇産霊」と云っているわけで、「日神」は別名「天照大神」であることから、対馬が天上界すなわち高天原ということに論理的にはなるということである。

なぜ、大和から遠いしかも離島の対馬で日神が出現し、壱岐で月神が顕れ出たのか。それは、日本書紀が編纂された当時の人々にとって対馬と壱岐という地に日神、月神が顕れても不思議ではない、或る共有化された事実、歴史認識があったと考えるしかないのである。

であれば、「天照る」は「海人(アマ)照る」の方が対馬には相応しいとするのが自然である。つまり、高天原は天界ではなく絶海の只中に浮かぶ島(対馬・壱岐)の上に存在することになる。

天孫降臨族の祖先が、大陸・半島から九州・本州へ渡る際に必ず中継点として足を止める地が「対馬」であった。そして、そこはそもそも先住人たる海人族が支配する土地であった。つまり、山幸彦と豊玉姫の伝説はそのことを伝える物語であったことになる。その王族二人の婚姻こそが天孫族と海人族の融合を示す説話ということになるのである。

結論的に対馬・壱岐は海人族と混血した「新たなる天孫族」の発祥の地・本貫の地ということになる。そしてそうした認識が「紀」の時代の支配者層にはあったと云うのがロマンを求める筆者の見解でもあるのである。

その日神たる天照大神を祀る伊勢神宮の源流が、これから紹介する「阿麻テ留神社」ということになる。「テ」は漢字では「氏」の下辺に「_」の下バーを記した文字。



神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(上)





阿麻テ留神社の扁額

卑弥呼畿内説や大和王朝至上主義の史観に囚われることなく、「日本書紀」を純粋に歴史書として注意深く読んでいると、対馬が、ある時代、天孫降臨族の本貫地として認識されていたことを示唆する記述があることに気づく。

すなわち、「紀」に対馬が天孫族の発祥地であることを窺わせる「日神」に関わる一連の記述がある。それは壱岐における「月神」の顕現に続いて、対馬では「日神」が人に憑依し、託宣を行なう様子として描かれている。

まず、その「日神」・「月神」の生誕についてであるが、「紀」は伊奘諾尊(イザナギノミコト)と伊奘冉尊(イザナミノミコト)の二神が大八洲国を生み、山川草木を生んだ後、「天下(アメノシタ)の主者(キミタルモノ)を生まざらむ」として、「日神(大日孁貴(オホヒルメノムチ)or天照大神)を生みたまふ」たとある。

そしてこの日神があまりに明るく美しく、「未だ此(カク)の若(ゴトク)く霊異(クスビニアヤ)しき児(コ)有らず」と類稀な神秘性から、伊奘諾尊と伊奘冉尊は、「久しく此の国に留むべからず。自当(マサ)に早く天に送りて、授くるに天上の事を以てすべし」と、地上から天上界へ昇らしめ、高天原の政事(マツリゴト)を担うこととさせたのだと語っている。

次に「月神(月読尊(ツキヨミノミコト))を生みたま」ひ、さらに「其の光彩(ヒカリ)日に亜(ツ)げり」と、月神の美しい光は「日神」に次ぐもので月神は日神に従属するものと捉えられている。そして月神も日神とともに天上界を治めるため同じく天上界へと昇っている。


その日神と月神の坐す処が「対馬」および「壱岐」であるということが、「紀」の「顕宗(ケンゾウ)天皇3年」に記されているのである。顕宗天皇(23代):在位485487

【紀:顕宗(ケンゾウ)天皇32月条 任那と百済の攻防】(月の神について)


 「三年の春二月の丁巳(テイシ)の朔(ツキタチ・一日)に、阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ)、命(オホミコト)を銜(ウ)けて、出でて任那に使す。是(ココ)に月神(ツキノカミ)、人に著(カカ)りて謂(カタ)りて曰(ノタマ)はく、『我が祖高皇産霊(タカミムスミノミコト)、預(ソ)ひて天地を鎔造(ヨウゾウ)せる功有(コウマ)します。民地(ミンチ)を以(モ)ちて、我が月神に奉(タテマツ)れ。若(モ)し請(コヒ)の依(マニマ)に我に献(タテマツ)らば、福慶(フクケイ)あらむ』とのたまふ。事代、是(コレ)に由(ヨ)りて、京(ミヤコ)に還りて具(ツブサ)に奏(マヲ)し、奉(タテマツ)るに歌荒樔田(ウタアラスダ)を以ちてす。歌荒樔田は、山背国葛野郡(カヅノコホリ)に在り。壱伎県主の先祖(トホツヤ)押見宿禰(オシミノスクネ)、祠(ホコラ)に侍(ツカ)へまつる。」(次の「*」に続く)

とある。阿閇臣事代(アヘノオミコトシロ)(注1)が任那に使いする途中、壱岐を通過した際、人に憑依した月神の「京の民地を我が月神に奉れ」との託宣に触れ、山背国葛野郡の歌荒樔田の地を献上したことが記述されている。



(紀の注1)

「阿閉臣事代:伊賀国阿閉郡(三重県阿山郡西部・上野市)を本拠とした氏族。天武十三年十一月、朝臣賜姓。アヘは饗応の意味で、それに因む氏族名。阿倍臣(アヘノオミ)と同じ。始祖は孝元天皇と皇后鬱色謎命(ウツシコメノミコト・穂積臣の女)の第一子である大彦命(オオビコノミコト)で、阿倍臣・膳臣(カシハデノオミ)・阿閉臣・狭狭城山臣(ササキヤマノオミ)・筑紫国造(ツクシノクニノミヤツコ)・越国造(コシノクニノミヤツコ)・伊賀臣(イガノオミ)の七族が後裔。」とある。

  なお、「15 阿麻テ留(アマテル)神社(中)」において、「紀」とは異なる「阿閉臣事代」のわたしの解釈を述べる。

この託宣した月神は「延喜式神名帳」に掲載される「壱岐郡月読神社」の祭神と看做されている。高皇産霊(タカミムスミノミコト)は延喜式神名に「壱岐郡高御祖神社」とある。この月神に続いて、日神についての記述が登場する。すなわち、先の「*」から続き、

【紀:顕宗(ケンゾウ)天皇3年春4月】
(日の神について)にそれが詳しく記載されている。


「夏四月の丙辰(ヘイシン)の朔(ツキタチ)にして庚申(コウシン)に、
日神(ヒノカミ)、人に著(カカ)かりて、阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ)に謂(カタ)りて曰(ノタマ)はく、「磐余(イワレ)の田を以ちて、我が祖高皇産霊(タカミムスミノミコト)に献(タテマツ)れ」とのたまふ。事代、便(スナハ)ち奏(マヲ)して、神の乞(コハシ)の依(マニマ)に、田十四町を献る。対馬の下県直(シモツアガタノアタイ)、祠(ホコラ)に侍(ツカ)へまつる。」

と、壱岐の月神に続き、阿閇臣事代が対馬に立ち寄った時に、今度は日神が人に憑依し「我が祖高皇産霊(タカミムスミノミコト)に大和の磐余に神田を十四町、献上しろ」と、託宣しているのである。



  ここで、日神が造化三神(神代三代)のひとつである高皇産霊を我が祖と云っていることは、極めて重要な事柄である。即ち、天孫族の始祖である高皇産霊のために、対馬に坐ます日神が、大和朝廷に対し「神田」の献上を命じ、朝廷がその意向に従っている。さらに壱岐同様に対馬の下県直をわざわざ都に遣わし、祠を建て、その献上地を祀らせている。その記述の内容は畏怖する神に大和王朝がひれ伏すかのようで、そのことは対馬の日神・壱岐の月神が天孫族の系譜のなかで大和王朝の御祖(ミオヤ)として上位にあることをはっきりと示唆していると云ってよい。

しかも見逃せないことは、日神に「我が祖高皇産霊(タカミムスミノミコト)」と、云わしめていることである。それはまさに、天照大神の親神である伊奘諾尊・伊奘冉尊から遡る神代7代のなかの3代目にあたる高皇産霊尊という意味で「我が祖高皇産霊」と云っているのである。このことからも対馬に坐す「日神」が単なる太陽信仰というのではなく、天孫族の系譜のなかにおける「日神」すなわち「天照大神」であることに間違いはないと云える。



 神代三代・七代について

日本書紀において、神代3代(造化の神と呼ぶ)がこの世界に初めて生まれ出た神様で、すべて男性神である。

国常立尊(クニトコタチノミコト)→国狭槌尊(クニノサツチノミコト)(or 天御中主尊(アマノミナカヌシノミコト))→豊斟渟尊(トヨクムヌノミコト)(or 高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)の順で生まれ出る。これを神代三代と呼ぶ(赤字が神代三代)。

・神代3代の次に生れたのが、4対偶の男女4カップルの神(8柱の神)で、先の3代と合わせ神代7代と呼ぶ。その最後の7代目に生まれたのが、伊奘諾尊、伊奘冉尊の男女神である。

・伊奘冉尊と伊奘冉尊は、大八洲国を生み、山川草木を生んだ後、「天下(アメノシタ)の主者(キミタルモノ)を生まざらむ」として、「日神(大日孁貴(オホヒルメノムチ)or天照大神)」、「月神月読尊(ツキヨミノミコト))」、「蛭児(ヒルコ)」、素戔鳴尊と順に生んでゆく。 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 14 (胡禄御子(コロクミコ)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 13(能理刀(ノリト)神社)神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(神功皇后は実在した!―2)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について) 



入江に向かい建つ鳥居の奥に拝殿

 

 胡禄御子神社は対馬を去る日の最後に訪れた神社となった。胡禄神社を目指し、間違って辿り着いたのが、胡禄御子神社であった。事前に調べた資料は役に立たなかったが、こうして「対州神社誌」を再度、めくり確認すると、ここが延喜式・式内社の「胡禄神社」に比定されるとの「大帳」の記載もあり、江戸時代(18世紀の末)において既に、「胡禄御子」と「胡禄」神社の区別が分からなくなっていたことを知った。

 


胡禄御子神社の扁額

 

 住吉三神と阿曇磯良という海神を祭神とする神社であれば、荒海に面した鳥居を有す、琴崎大明神即ち胡禄神社の方が、同じく磯良伝承を残す曽根崎神社と酷似した立地となっていて、ふさわしいとの思いは強いが、そちらには飛行機の時間の関係で行くことはできなかった。

 



鳥居がならぶ奥に簡素な拝殿が


簡素な拝殿

 

 そこで、ここでは胡禄御子(コロクミコ)神社について記載することにする。

 







夏草に坐す阿吽の高麗犬

 


(胡禄御子神社概要)

    住所:上対馬町琴字琴崎3

    社号:がうの浦(対州神社誌)・郷崎大明神(大小)・郷崎神社(大帳)・胡禄御子神社

    祭神:海神(大小神社帳)、表筒男・中筒男・底筒男磯武良(大帳)、表筒男命・中筒男命・底筒男命・磯武良

    由緒

古帳の神人三十一人人在り、神社は神功皇后が祀り賜わる也。郷崎は甲崎の訛ったものである。その甲浦が濁ると国家に凶事があると云われている。延喜式神名帳に載る胡禄神社は是也(大帳)

神功皇后祭り玉ふ所也と云ふ。(明細帳)

 


 



拝殿内

拝殿内に大江神社という別の神社名が・・・

 

 飛行機の時間が迫るなか、目印もない当社に辿り着くのは至難であった。近くまで来て集落の橋の上で談笑する数名のご婦人方に「胡禄神社」を訊ねてもはっきりしなかった。「この海岸縁の路を行くと神社がある」とのことで辿り着いたのが、この「胡禄御子神社」であった。帰京後、対州神社誌を読み直し、当社が胡禄神社に比定されてもいる事実を知り、これも何かの縁であると感じたところである。

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(神功皇后は実在した!―2)


神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(神功皇后は実在した!―1)


神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 13(能理刀(ノリト)神社)


【神功皇后 摂政五年三月「誉田別皇子の立太子」】―(B)


「五年の春三月の癸卯(キボウ)の朔にして己酉(キイウ)に、新羅王、汗礼斯伐(ウレシホツ)・毛麻利叱智(モマリシチ)・富羅母智(フラモチ)等(ラ)を遣(マダ)して朝貢(ミツキタテマツ)る。仍(ヨ)りて、先の質(ムカハリ)
微叱己知(ミシコチ)伐旱(バッカン)を返(トリカエ)さむといふ情(ココロ)有り。是を以ちて、許智伐旱に誂(アトラ)へ、紿(アザム)かしめて曰(マヲ)さしむらく、「使者汗礼斯伐(ウレシホツ)・毛麻利叱智(モマリシチ)等、臣に告げて曰く、『我が王、臣が久しく還(カヘ)らざるに坐(ヨ)りて、悉くに妻子(メコ)を没(オサ)めて孥(ツカサヤツコ)と為せり』といふ。冀(ネガ)はくは、暫く本土(モトツクニ)に還り、虚実を知りて請(マヲ)さむ」とまをさしむ。皇太后、則ち聴(ユル)したまふ。因りて、葛城襲津彦(カヅラキノソツヒコ)を副(ソ)へて遣したまふ。共に対馬に到り、鋤海(サヒノウミ)の水門(ミナト)に宿る。時に新羅の使者毛麻利叱智等、窃(ヒソカ)に船と水手(カコ)とを分(ワカ)ち、微叱旱岐(ミシカンキ)を載せて新羅に逃れしむ。乃(スナハ)ちクサ霊(ヒトカタ)(注3)を造り、微叱己知(ミシコチ)の床に置き、詳(イツハ)りて病人(ヤミヒト)として、襲津彦に告げて曰く、『微叱己知、忽(タチマチ)に病みて死(ミマカ)らむとす』といふ。襲津彦、人を使して病を看しむ。即ち欺かれしを知りて、新羅の使者三人を捉(トラヘ)へ、檻中(ヒトヤ)に納め、火を以ちて焚(ヤ)きて殺しつ。・・・

 

と、新羅征服の際に新羅の実聖王が先代の奈勿王の皇子を人質(注2)として差し出したことが記され(A)その後、新羅王が、人質奪還を企てたことが記載されている(B)このA・Bの記述に着目して、「紀」の歴史書としての価値を評価し、三韓併合の事実云々につき考察を試みる。

 

(注1)         人質の人選(奈勿王の皇子)については、実聖王がかつて即位前、自身が奈勿王により高句麗へ人質に出されたことへの報復とも考えられるとの見方がある。

(注2)         クサヒトカタ:茅で作った人形。「礼記」檀弓の鄭玄注に「クサヒトカタは茅を束ねて人馬を為(ツク)る。之を霊(ヒトカタ)と謂ふは、神の類」とある。

 

(A)で神功皇后により征服されたとされる新羅王「波沙・寐錦(ハサ・ムキチ)」が、『三国史記』「新羅本紀」にある第5代「波沙・尼師今」(在位:西暦80112)の名と一致しており、互いの歴史書において双方の記述の信憑性という面での結節点ともなるべき具体的な人物名である〔「尼師今」は「寐錦」と同義で「王」の意〕。

 

・一方で、『三国史記』「新羅本紀」には、実聖尼師今(新羅第18代・実聖王)元年(402年)三月条に、「倭国と好(ヨシミ)を通じ、奈勿王の子未斯欣を以て質と為す」と、(A)と平仄の合う記述が存在する。ただ、『三国史記』は未斯欣を人質として差し出したのは実聖王元年(402年)としており、「三国遣事」は第17代・那密王(奈勿王)三十六年庚寅の年(391年)となっており、人質を差し出した王および年号が異なる形で記録が残されている。

 

また人質奪還について、『三国史記』は、巻三・訥祇(トギツ)麻立干(19代訥祇王:在位41745817代奈勿王の皇子)二年(418)条の「秋に王(訥祇王)の弟未斯欣、倭国より逃れ還る」と記述しており、年代的ズレはあるものの、そうした事実があったことについて、「紀」の(B)の記載と見事に対応している。しかも、(B)の記述の赤字の部分などは、国の正史としてはリアリティに溢れ、この事件が実際にあったとしか思えぬ具体的で詳細な描写となっている。

 

さらに、人質拠出の年代を「三国遣事」の391年と考えると、実は、かの有名な好太王(高句麗第19代広開土王)碑に刻まれる『百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民』の碑文、即ち、『そもそも新羅・百残(百済)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。』とする新羅侵寇の年号、西暦391年に合致する。そのことは、「倭による新羅征服或いは侵寇」は絵空事であったとするより、事実である可能性が高いとする方が、文献上からは妥当であると考える。

 

ただ、彼我(日韓)で異なる部分の記述で、征服時の新羅王の違いからくる年代の違いが大きく、その点の問題は残る。即ち、「紀」では、第5代「波沙尼師今」(在位:西暦80112)、『三国史記』では実聖王元年(402年)、「三国遣事」は那密王(奈勿王)36年(391年)とあり、そこに300年ほどの大きな誤差が存在する。また、神功皇后が在位(201269)したとされる年代とも100年以上の差異があるが、「2運」下げした年代(321389年)を採用すると、それも誤差の範囲に入って来る。

 

その年代の誤差については、日韓史書のその他の記述との平仄を見る限り、この新羅王の「紀」の名前が誤記されたのだと考えるしかない。

 

 

3. 結論---神功皇后は実在した
 
 そして最後に、そもそも「神功皇后は実在したのか」であるが、日韓の文献や好太王碑文から新羅征服或いは侵寇の可能性が高いのであれば、倭に大軍事作戦を指導した王がいたとするのは、自然なことである。

 

 その指導者が女性であったか否か、しかも神功皇后という人物であったのかは、『三国史記』や好太王碑にも、一切、記述はない。ただ、「紀」の取り扱い方や、まさに対馬や壱岐、北九州に残された幾多の伝承の存在から、そうした女性の「大王」が存在したことは、限りなく史実に近いとするのが妥当である。また、神功皇后の出身は「息長氏」であり、「息が長い」氏族から、「潜水漁労」や鞴(フイゴ)を吹く「蹈鞴(タタラ)・製鉄」に関わる一族であったとの説もあり、神功皇后説話のなかに海人族に関わる話(住吉三神・阿曇磯良)が多いことも、実在を補強する材料とも云えるのである。

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(神功皇后は実在した!―1)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(神功皇后は実在した!―2)


神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 13(能理刀(ノリト)神社)


  これまで、この「対馬巡礼の旅」のなかで、神功皇后の伝承を数多く紹介してきた。そのことは、対馬がまるで神功皇后の伝承を載せて浮かぶ島のようにも思えてくるのである。

 

しかし、巷間云われるように皇后が単なる伝説上の人物で、記・紀で語られることがすべて神話で作りごとであるとなれば、対馬に伝わる伝承も実体の裏付けのない、大人が真顔で語るのも憚られる世迷言にもなりかねない。

 

 そこで、そもそも「神功皇后」なる人物は実在したのか、三韓併合などという歴史的事実が存在したのかという素朴な疑問に答えられなければ、対馬に伝わる皇后伝承も色褪せた不毛の作り話と看做さざるを得ず、ここらで、そういった点につき、触れておく必要があろう。

 

1. 神功皇后とは記・紀においてどのような人物として描かれているのか

 

神功皇后(在位201269年〔321389〕)は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の子の第14代天皇たる仲哀天皇の御后である。「紀」では、気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)、「記」では息長帯比売命(同左)と云う。父は息長宿禰王、母は葛城高ヌカ媛(カズラキノタカヌカヒメ)とされている。

 

「紀」における神功皇后の取り扱いは、摂政であるにも拘わらず独立した項目が立てられ、しかも相当数の頁が割かれている。なかでも、朝鮮半島との軍事抗争にはかなりの労力がかけられている。そして、神功皇后の在位期間が201269年と三世紀前半としていることが、魏志倭人伝で描かれている卑弥呼(景初2年(238年)以降に「親魏倭王」に任じられた)に擬せられる一つの要因となっている。

 

一方、「記」において、神功皇后は夫である仲哀天皇の項立のなかで語られ、独立した取り扱いとはなっていない。但し、仲哀紀のなかで肝心の天皇についての記述は冒頭の崩御の場面だけで、残り全ては神功皇后の事蹟に関することである。要は仲哀紀を神功紀と読み替えて欲しいと云っているようなものであり、その意味で、皇后に対する取り上げ方は、「紀」と同様に、朝鮮半島との確執の中心にいた人物として描かれていることは確かである。

 

 記紀において、神功皇后は、仲哀天皇が神託に背いたことで神の怒りに触れ、崩御した後、神託に沿って新羅親征を進め、それを完遂した人物として描かれる。そして、神が皇后自身に憑依する巫女的性格を色濃く持ち、しかも神の意思を体現し、実行する人物として描かれている。さらにこの話の中では、中臣烏賊津使主(ナカオミノイカツオミ)ではなく、武内宿禰が審神者(サニハ)としての役割を果たしている。

 

なお、皇后の在位期間で〔 〕内の年は、紀の干支と百済本記の干支による年次を2運(120年)繰り下げると、朝鮮半島の歴史上の出来事の年次と符合する。その「2運」下げした年次を参考として記載した。

 

2. 神功皇后は実在したのか、三韓征伐などあったのか

日・韓の正史である「日本書紀」と『三国史記(注1)』の中で新羅征伐に関わる記述を拾い、比較考量を行ない、神功皇后の実在および三韓征伐の史実につき検討する。

 

(注1)「三国史記」

高麗17代仁宗の命により作成された、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを紀伝式で記述した朝鮮最古の歴史書(1145年完成)

 

まず、「紀」の「新羅親征」から見ていくことにする。

 

【紀:気長足姫尊 神功皇后 「神助により新羅親征】―(A)

「冬十月の己亥(キガイ)の朔(ツキタチ)にして辛丑(シンチウ)に、和珥津より発ちたまふ。時に、飛廉風(カゼノカミカゼ)を起し、陽侯浪(ウミノカミナミ)を挙げ、海中(ワタナカ)の大魚(オフヲ)悉(コトゴトク)に浮びて船を扶(タス)く。則ち大風順に吹き、帆舶波(ホツムナミ)に随ひ、艣楫(カジカイ)を労(イタツ)かずして、便(スナワ)ち新羅に到る。時に、船に随へる潮波(ウシホ)、遠く国中に逮(ミチイタ)る。即ち知る。天神(アマツカミ)地祇(クニツカミ)の悉に助けたまへるかといふことを。新羅王(コニキシ)、是に戦戦慄慄(オヂワナナ)きて厝身無所(セムスベナシ)。則ち諸人(モロモロノヒト)を集へて曰く、「新羅の国を建てしより以来(コノカタ)、未だ嘗(カツ)て海水(ウシホ)の国に凌(ノボ)るといふことを聞かず。若(ケダ)し天運尽きて、国、海と為らむとするか」といふ。是の言(コト)未だ訖(ヲハ)らざる間に、船師(フナイクサ)海に満ち、旌旗(セイキ)日に耀き、鼓吹(コスイ)声を起し、山川悉に振(フル)ふ。新羅王、遥に望みて、非常(オモヒノホカ)の兵(イクサ)将(マサ)に己が国を滅さむとすと以為(オモ)ひ、讋(オ)ぢて失志(ココロマト)ひぬ。乃今(イマシ)醒めて曰く、「吾が聞かく、東に神国有り、日本と謂う。亦(マタ)聖王(ヒジリノキミ)有り、天皇(スメラミコト)と謂ふといふことを。必ず其の国の神兵ならむ。豈兵(イクサ)を挙げて拒(フセ)くべけむや」といふ。即ち素旆(シラハタ)あげて自ら服(マツロ)ひ、素組(シロキクミ)して面縛(メンバク)し、図籍(シルシヘフミタ)を封(ユヒカタ)めて、王船(ミフネ)の前に降(クダ)る。

・・・・・ (中略) ・・・・・

爰(ココ)に新羅王波沙・寐錦(ハサムキチ)、即ち微叱己知・波珍干岐(ミシコチ・ハトリカンキ)(注1)を以ちて質(ムカハリ=人質)とし、・・・官軍(ミイクサ)に従はしむ」

 

と、出征の途上、対馬に寄り、和珥津から新羅へ向かったことが記されている。そして、対馬と半島との関係の中で皇后の名前が出てくる。

 

 この神功皇后の対馬寄港については、島内各所にさまざまな云い伝えや伝承地を残すが、これについては各々の由緒等において詳述する。ここでは、人質「微叱己知(ミシコチ)」の記述に着目し、実在云々の検討を進めてゆく。

 

(注1)         微叱己知・波珍干岐(ミシコチ・ハトリカンキ)

「微叱己知」は奈勿王(ナコツオウ)の子「未斯欣」(『三国史記』)のこと。次に記す「紀」のBの「微叱己知(シチコチ)」と同一人。「三国遺事」は「美海」、「未叱喜」とも。「波珍干岐(ハトリカンキ)」は新羅17等官位の第4「波珍飡(海干)」にあたる。〔以上、「紀」の注。P430

【2につづく】

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 13(能理刀(ノリト)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 10(太祝詞(フトノリト)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 9(雷命(ライメイ)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(中臣烏賊津使主と雷大臣命)
 

 比田勝港を見下ろす権現山(標高186m)の中腹に鎮座する能理刀(ノリト)神社は、その名前が示すように「祝詞」に関わりの深い神社である。

 

拝殿前から西泊の港を見下ろす
拝殿前から西泊の港を見る
 

能理刀神社の由緒書
一之鳥居脇に由緒書(左に本殿への急な石段)

 

(能理刀神社概要)

    住所:上対馬町大字西泊字横道218

    社号:氏神熊野権現/西泊能理刀神社(大小)/能理刀神社(大帳・明細帳)

    祭神:素戔鳴尊(大小)/宇摩志摩治命(注1・2)・天児屋命・雷大臣命(大帳・明細帳)

(注1)  物部氏の祖。ニギハヤノミコトの子。

(注2)  藤仲郷の説では「宇麻志麻治命は久慈真智(クシマチ)命にして、太詔戸(フトノリト)と共に卜庭(サニハ)神であり、この二坐を併せて太詔戸神ということもある」としている。また、京中2座の注釈にある久慈真智(クシマチ)命の本社とされる天香山神社には、久慈真智命が深くうらないにかかわり、対島の卜部の神であったとの話も伝わる。(10太祝詞神社より)

 

    由緒 

昔、老人夫婦が能理刀神を小舟に乗せて、邑の西北の隣ヶ浜に来り。殿を造り留り居れり。其の所に榎木あり、衣掛けと云う。後に、現在のこの地に移し祭りて、〔その後〕老人夫婦が行去る所を知らず。此の地は神功皇后の新羅征伐の時、〔戦勝祈願をした〕行宮の古跡也。亀卜所の神を祭り、在る時、異艦西泊、比田勝二つの邑の浦に寇せり。州兵、是を防ぐ時、始め〔殿が〕在りせし隣ヶ浜の上手なる山半腹より大石三つ落ち来り、異艦を覆し破る。異賊迯げ去りて行方を知らず。其の石今に存せり。(明細帳)

 

赤字部分同一に続いて)其の時代は京都より対馬守〔の格〕は御下の頃也。昔、當浦より比田勝浦にかけ蒙古の賊船数千艘酉刻頃に入船す。昔、此の神初めて着船の浜?(ナラビ)に奥の浜に賊船二、三艘着の時、里人騒動して此の神に祈れば、忽ち神が有りて、此の神、山の並び脇の山頭(トウゲ)六、七合目の處の地中より大石三つ飛び出し、彼の賊船悉(コトゴト)く、覆し碎(クダ)く。其の響きに恐れ、其の夜中片時の間に沖の船一艘も見へず、散じて失(ウエ)けり。右の大石今にあり。四五百年以前までは此の大石の下に賊船の板木見たりと云へり。扨(サ)て當浦の外目に昔、此の神の最初に着きせ玉ふ浜辺に、朝日が出る前に里人至れば、年の頃六十歳ばかりの御形にて、冠を召し至りて、貴き官人座ませり。是を見奉りて、里に帰り即ち死す。其の後も彼の處に未明に至ると即ち死す。それより此の浜へ〔里人は〕朝至らず。・・・(大帳)

 

能理刀神社の一之鳥居
能理刀神社の一之鳥居
 


 能理刀神社の大権現扁額

熊野三所大権現神を顕す「大権現」の鳥居扁額

 

能理刀神社の急勾配の石段
石段が続く

 

以上の由緒に、老夫婦が「能理刀神」を船に乗せてやって来たとある。さて、その「能理刀神」即ち、「祝詞神」とは一体、何者かということだが、当社の祭神として「大帳」および「明細帳」に記されているのは、天児屋命(アマノコヤネノミコト)、宇摩志摩治命(ウマシマジノミコト)および雷大臣命(イカツオミノミコト)という占い神事の宗家ならびに占いに深く関わる神々である。

 


 
漸く趣のある拝殿へ


能理刀神社拝殿正面
 
拝殿正面

 

能理刀神社の拝殿内部
拝殿内

 

主祭神はその三柱のうちのいずれかということになろう。これまで紹介してきた対馬所縁の諸々の伝承から考えると、津嶋直、天児屋根命十四世孫、雷大臣命乃後也云云」(「姓氏録」より)とあるように、対馬縣主の祖である雷大臣命かその祖である天児屋命のどちらかとするのがふさわしい。

 

能理刀神社拝殿内から本殿を
 
拝殿内から本殿を見る


能理刀神社の拝殿奥の本殿と境内社
 
本殿・手前が拝殿・左は境内社

 


本殿

 

さらに、当社のそもそもの鎮座地はいまより少し西北の同じ権現山の山麓にあった。その地が明細帳の由緒では、神功皇后の新羅征伐の際の行宮の古跡であり、亀卜所の神も祀ったとある。そのことを踏まえると、ここの主祭神は皇后に随行した雷大臣命と比定するのが至極妥当である。

 


西泊の港、ここに大石が三つ落ち、異国船を沈める

 

美津島町加志にある、太詔戸命、即ち雷大臣命の祖である天児屋根命と、加志に住居し亀卜に従事した雷大臣命自身を主祭神とする太祝詞(フトノリト)神社のことを考慮しても、能理刀神社の方は雷大臣命を主祭神とするのが自然である。

 

 その能理刀神社は外部の人間には非常に分かりづらい場所にあった。湾に沿って突端近くまで行ったがどうも場所が分からず、途方に暮れていた。近くにお婆ちゃんを見つけたので早速、尋ねたところ、「それは、うちの神社じゃ」と場所を教えてくれたのである。さらに、「車は公民館の前に止めるとよい」と言ってくれた。お礼を言い、車をUターンさせ、ゆっくりと注意深く右手の家並みを眺めながら進むと、先ほどのお婆ちゃんがスタスタと追い越して行くではないか。

 

 そして、お出でお出での手招きである。家並みから少し引っ込んだところにある公民館前の小さな空き地まで先回りしてくれたのである。しかも、車を降りたわれわれ夫婦に、階段の下まで案内してくれると云う(娘は車の中で休憩すると云って、畏れ多くも能理刀神に御挨拶をしなかった)。恐縮したが、お婆ちゃんは「さぁ、どうぞ」と個人のお宅の裏の道というより、庭?、筋?に入ってゆく。

 

 こちらも、こりゃ、ちょっと大変と、お婆ちゃんの後に続くことにした。何しろ、不審者として咎められたら一大事である。10軒ほどのお宅のオープンな裏窓を横目に見ながら進むと、袋小路の突き当たりのような場所に出た。右手に急峻な階段があった。

 

能理刀神社の登り口
 
袋小路の突き当りのような場所(石段の上から)

 

能理刀神社へこの石段を昇る
 
この狭くて急峻な階段を昇って本殿に到達する(袋小路から)

 

「ここの上だよ」と、お婆ちゃんは言った。短い言葉であったが、ありがたい言葉であった。こちらに何を尋ねるわけでもなく、「うちの神社」へ案内してくれたお婆ちゃん。お礼を言うと、お婆ちゃんは、もう踵を返し、元へ戻って行った。その何とも言えぬ素朴な心遣いに心がじわ〜っと温まってきた。

 

対馬の西泊のお婆ちゃん、本当にありがとうございました。お陰で、お婆ちゃんの「能理刀神社」を拝ませていただくことができました。

 

あと、一之鳥居手前右手に西福寺(サイフクジ)というお寺がある。そこに「宗晴康の供養塔」との標示板があった。宗家第15代当主の晴康(14751563)のことであり、引退後(1553)に当寺に隠棲し、没後、そこに菩提を弔った。ちょうど一之鳥居の右手辺りに立つ宝篋印塔が晴康のお墓である。

 

西福寺の本堂と宗晴康供養塔標示板
標示板と一般家屋のような西福寺本堂

 

宗晴康の宝篋印塔
 
宗晴康の宝篋印塔

 

同寺には、また県指定有形文化財の「元版大般若経」約600巻があるが、その内の約170巻が20061月に盗難にあい、まだ解決を見ていない。「大般若経」は中国杭州普寧寺で元朝1326年の作成された貴重な元版であることが、巻末の記載から分かっている。宗家第8代当主である宗貞茂(〜1418)が西福寺に寄進していることから、1418年以前に当寺に収蔵されたことになる。

 

同寺の縁起に「大陸からの使者は、まず西泊湾に停泊し府城に向かっている。西福寺はそれら使節の宿泊所でもあった。西泊は、大陸文化が最初に入ったところであり、多くの歴史を秘めた名所である」と記されている。

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 12(曽根崎神社・塔ノ鼻の石塔)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 10(太祝詞(フトノリト)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 9(雷命(ライメイ)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 13(能理刀(ノリト)神社)
 


 
塔ノ鼻の石塔

 

曽根崎神社が鎮座する塔ノ鼻には、対馬海峡に面して四基の石塔が立つ。その内、二基は時代も古く、この石積みが何を意味するかは、今もって謎である。対馬で多く見られる天道信仰に関係する石塔とも考えられるが、曽根崎神社の鳥居が海岸の岩場に北面して海上に向かい立っていることから、朝鮮半島との関連を連想させ、また航海の安全を祈願する石塔のようにも見える。

 


 海に
北面して磯に立つ鳥居

 


 
対馬海峡に面する岩場

 

 曽根崎神社は、五根緒港から車で僅かに3、4分のところにあるが、本殿のある海辺に出る細い脇径の入り口には標識もないため、非常に分かりづらい。当日はたまたま、漁師の方に出会い、丁寧に教えていただいたので辿り着けたが、その案内なくば目的地に到達するのは至難である。

 


 
塔ノ鼻

 


 
塔ノ鼻へ崖っぷちの路をたどる

 


 

本殿から細い道の先に鳥居。その右手崖上に四基の石塔

鳥居を100mほど右手に岩場を伝って行くと謎の石塔が・・・

 

(曽根崎神社の概要)

    住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地

    社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。

    祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良

    五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」

と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。

 

 

赤いペンキで塗られた本殿

 


本殿と鳥居


岩場から本殿を

 

五根緒(ゴニョウ)は明治の初期に、現在の地点に村ごと移転してきたという変わった履歴を持つ村である。元の村が存在した場所は舟志湾の南岸、湾口近くにあり、現在は元五根緒と呼ばれていると云う。

 


 
岩場の鳥居から本殿を

 

 そもそも、霹靂神社の由緒に書かれている磯武良が上陸した地点に祀られた「五根緒浦神社」は、対州神社誌で、「大明神」と表記されている唐舟志(舟志湾の北突端)に鎮座するもうひとつの曽根崎神社が比定されている。

 


 
崖頭に立つ謎の石塔

 


 
四基の石塔

 

従って、私の訪ねた塔ノ鼻の曽根崎神社は、対州神社誌にある五根緒村の「氏神曾根山房(古くは曽根崎神社)」が、先の村の移転に伴い、村の中心から数百メートル南東にはなるが、現在の石塔の立つ地に何らかの由緒と併せて移祀されたものと推測される。

 


 
磯良が上陸したかも知れぬ磯の岩場

 


 

浸食された海

 


 
鳥居の岩場から対馬海峡を望む

 

 唐舟志の曽根崎神社も港に北面して鳥居が立っていることを考えると、現在の五根緒に北面して鎮座する当社も、霹靂神社の由緒にある「磯武良は同郡五根緒村に揚れり」に纏わる何らかの由縁があったとするのが古代ロマンを愛する者にとっては愉快である。荒々しい岩場に対馬海峡を睨むようにして立つ鳥居を一見した時、この石塔を目印に磯良が波しぶきを浴び、海上から上陸してきたに違いないと思えてくるのである。

 


 
五根緒の港へ戻る途中に金毘羅神社が

 


 
扁額

 


 
眼下に五根緒の海岸と遠く対馬海峡が広がる

 

 

 五根緒の港へ戻る途中に航海の神である金毘羅神社を見つけた。こちらも、対馬海峡を見下ろす絶景の地に鎮座していた。本殿は曽根崎神社と同様の赤いペンキで塗られていた。

 

 夏の日差しを浴びながらふと空を見上げた。一羽のトンビが海峡の風に身を任せるように、人間界を睥睨するかのようにゆうゆうと舞っていた。

 


 
一羽のトンビが大空に舞う

 

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