彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

国のかたち

政権交代! Yes or No?5

政権交代! Yes or No

 

45回衆議院議員総選挙が来る830日(日)に行なわれる。721日の「バカ太郎解散」とも一部で呼ばれる衆議院解散から41日目の投票ということになる。

 

今回は各種世論調査でも政権交代を予感させる数字が続出している。与野党間をふくめメディアなどで交わされる議論も、ある種、選挙結果を待たずにもう政権交代が既定の事実となっているかのような錯覚すら覚えてしまう。

 

かような事態のなか戦後の混乱期と細川政権時代を除いて、これまで長らく政権与党の座についていた自民党の狼狽振りとその悲愴感は分からぬではない。しかし、半世紀を超える長きに亙る一党支配の政治がこの日本に明らかな制度疲労をもたらし、それが社会の荒廃という形で顕在化して来ていることは否めない事実である。

 

政権維持に不利な情報の隠蔽、与党と官僚のもたれあい、社保庁に代表される行政組織の弛緩、地方財政までを巻き込んだ利権構造のしがらみ、行政・司法人事の一党に偏した流れなど、社会構造の硬直化と主権在民の形骸化、そして政治・行政の透明性欠如とも併せて、国の仕組み自体のガラガラポンが必至であることは言を俟たない。

 

そうしたなかでの総選挙である。衆議院議員選挙法改正により婦人参政権が与えられた戦後初の総選挙(第22回総選挙・衆議院解散 19451218日、投票日1946410日=投票日までの期間114日)を除いて、公選法第313項「衆議院の解散に因る衆議院議員の総選挙は、解散の日から40日以内に行う」を目一杯に適用した40日間におよぶ実質的選挙運動が、盛夏の8月一杯にわたり行なわれる(公示日は818日)。

 

われわれ国民もここは心してこの総選挙に臨まねばならない。幸い今回は、前回の郵政選挙のような熱病にうなされることなく、投票日までの時間もある。TV、新聞等を通じて、マニフェスト(政権公約)の概要たる「自民党の政策・みなさんとの約束」や「民主党の政権政策・政策集」など(政権公約は公選法の規定で公示日以降、配布可)自民、民主等の掲げる政策の検証、比較、論争も前回選挙に較べ明らかに活発になってきている。もちろん812日の麻生太郎、鳩山由紀夫両党首の間で行なわれた党首討論やメディア等の政策検証の緻密さや具体性などは必ずしも満足のいくものでないとしても、それは政党政策自体に大きく具体性を欠く部分があるということでもあり、仕方がないとも言える。ただ党首討論のディベートのあり方、質の面での水準アップは必須であるのは言うまでもない。

 

さて、わたしは721日の解散以降、さまざまな意味において今度の選挙をどう考えたらよいか悩んできた。前述の二大政党の政策もHPから刷り出し、読んだ。メディアの各党の政策比較なども参考にした。その間、心は右に左に揺れ動き通しだったというのが、正直なところである。自民党が攻撃する政権担当能力が果たして民主党にはあるのか。素人目にも、政権を狙うには同党の国家ビジョンは分かりづらいうえに、安全保障問題など国家運営の根幹の部分における党内議論の統一化が図られていないなど大きな弱点、問題点が日々、露呈されるのが実情である。

 

それを目にする日には、いやとてもこの党に日本を任せるわけには行かぬということになる。しかし、この人心の荒廃した、経済基盤が脆弱化した日本を見るにつけ、これまでの半世紀余、政権を担当してきた自民党には、一体、政権担当能力があると言えるのか。そう考えると、今のこの日本の体たらくをもたらしたのは自民党、あなたではないかということになる。右に左に心が揺れ動くわけである。どっちもどっちで不甲斐ないのだから。

 

であれば、やはり一度、政権交代によって戦後政治の膿を出し尽くして、日本は出直しをするしか道はないのだと思い定めたところである。衆参の捻じれだけで、いろいろとこれまで隠されていた情報・事実が表に表われたことひとつで、その実効性は実証済みと言えるのではないか。

 

だからまずは民主党による政権交代を行なわせ、そこで硬直化した社会構造に風穴を開けさせる。次に戦後の中央・地方を巻き込んだ利権構造をぶち壊す。そして隠蔽されたさまざまな情報を国民の目の前に開示してもらう。その過程で、大きな政・官・財の疑獄も出てくるかもしれない。そうした戦後政治の大掃除をやることが、今の日本が置かれた環境では、待ったなしの方途なのだと思う。

 

その後に、民主党の安全保障の考え方、日教組を大きな支援母体とする同党の教育改革の考え方など、国家運営の根幹、バックボーンの存念を、国民の前で明らかにしてもらう。そして民主党が現状のままの党内事情であるとすれば、当然、その根幹の問題で党内統一を図ることは不可能である。この急所をついてゆけば、閣内不一致どころか、同党は自壊の道を歩んでゆくしかない。

 

その倒閣運動のなかで、自民、民主などの既存政党の枠を超えた、本来の主義主張の旗の下に、政界が再編されてゆくのが、最もすっきりした、国民に分かりやすい二大政党政治の成り立ちなのだと思う。対立軸は、「憲法9条を守る」のか、それとも「米国からの独立、つまり核の傘から脱け、自主防衛の道を探る」のかでもよいし、「北欧型の高福祉・高負担国家」を選択するのか、「中福祉・中負担」あるいは小泉内閣が目指した市場に任せた「小さな政府」国家を選択するのかでもよい。

 

その大きな選択をするためには、やはり一度、この国の大掃除をやっておく必要がある。わたしはこうした以上の手順を踏んでこれからの日本の政治が動いていって欲しいと願い、この30日、投票所へ行こう決めたところである。

未曽有の危機が迫るなか、政治空白を許す能天気な国家4

未曽有の危機が迫るなか、政治空白を許す能天気な国家

 

 北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)総書記の重病説が伝えられるなか、朝鮮日報が韓国政府の北朝鮮情報筋の話として「北朝鮮が今年に入って東倉里(トンチャンリ)試験場で長距離ミサイルのロケットエンジン燃焼試験を行っていることが、米国のKH―12偵察衛星により把握された」と、伝えた(16日)。今回のエンジン燃焼試験は、20067月、試験発射が行われ失敗したテポドン2号(射程距離6700km)、あるいはその改良型(射程距離1km以上)と推定されているという。テポドン2号は米アラスカ州を、その改良型であれば米国のほぼ全域を射程範囲に収めるという。そうした国際関係の緊張を高める軍事実験が海を挟んだ指呼(しこ)の距離の国で行われていると言う事実。

 

また日本の領海内でもこの14日早朝、足摺岬沖の豊後水道周辺において国籍不明の潜水艦を海上自衛隊のイージス艦「あたご」が発見したものの、潜水艦が領海外に出奔(しゅっぽん)した後に見失ったという失態ともいうべき事件が起きたばかりである。

 

日本の安全保障を脅かす事態が続けざまに起きている。

 

そして、経済面ではリーマン・ブラザーズの経営破たんが世界的な金融危機ひいては大恐慌のトリガーとならないか、いま、全世界は息を潜めて米国政府の一挙手一投足を見守っている。わが国の金融システムへの影響は本当に大丈夫なのか。ただでさえ後退局面に入った国内景気に甚大な影響が及ぶのではないのか。

 

日本の経済を脅かす事態も急速に現実化してきた。

 

そうした緊迫した国際環境と金融不安や更なる景気悪化が懸念される国内情勢のなか、わが国の政治はというと、与党自民党は22日の自民党総裁選挙に向けてメディアと国民の目を釘づけにしようと、総裁候補仲良し5人組みによる全国行脚が・・・。片方ではメディア・ジャックの戦略に遅れをとった、いやドブ板行脚が政権への近道なのだ云々と党内議論にエネルギーを費やす相変わらずの民主党・・・。

 

福田康夫首相はとんでもない時期に政権を放り出してくれたものだ。これから総裁選挙、臨時国会そして、憲政の常道から言えば、臨時国会冒頭での解散、総選挙による国民の審判を問うという手続きが今度こそ必要なはずである。

 

しかし、ここ数週間で内外情勢は激変した。解散総選挙などという政治の空白期間をこれ以上、続けることが果たして許されるのだろうか。当然のことだが国際情勢はわが国の都合で動いてくれるわけはない。ましてや自民党の都合で動きなどしない。

 

政治は寸時に情勢の変化に対応しなければならぬ。その政治の頂点にいるはずの総理大臣が辞意を表明し、内閣はまさに開店休業の状態である。民主党も政権奪取に血道を上げ、目下の危機に対しての国家の対応をどうすべきかの議論をしようとしない。国会閉会中審査を与党に要求し、国家の危機管理につき早急な対応策を講じるべきである。政府与党も汚染米や年金不祥事問題の追及を怖がり、野党が言わぬからと頬かむりをせずに自らの発意で閉会中審査を開くべきである。

 

それが政治、政治家の最も大切な責務であり、政権を預っている、またこれから預ろうとしている政党の大事な資質だと思うのだが。

 

本当に、こんな能天気な国ってあるのだろうか。いや、極東の島国に厳然と無責任極まりない政治を行なう能天気な国があるのだから、「こんな国って嘘みたいだが、存在するのだ」ということになる。

 

昭和は遠くなりにけり3

 読売新聞に「子供の声『騒音』の時代、自治体への苦情増加」(10月22日)という記事がのっていた。その記事の冒頭にもあったが、10月1日、東京都西東京市にある「西東京いこいの森公園」の噴水で遊ぶ子供の声を東京地裁八王子支部が騒音と認定し、翌2日から市が噴水を止める事態となったとのテレビ各局の報道に接したわたしは正直、驚きを隠せなかった。

この西東京市の公園の噴水と子供の騒音問題については、公園の設計思想そのものが周辺地域への配慮を欠いている等の指摘もなされているので、この件を「子供の声が『騒音』の時代」の象徴的な事例として取り上げることはふさわしくないのかも知れぬ。

しかし、それを契機とし読売新聞社が全国の県庁所在地や政令市等73自治体を対象に調査を行った結果にはまたまた驚かされた。何と48もの自治体において子供の声や部活動で生じる様々な音に対する苦情が寄せられていることがわかった
。そしてその実態を知って、正直、驚きを隠しきれなかった。

 

もちろんこの調査結果のなかに西東京市の例のように何らか特殊事情が絡んでいるケースも含まれていると考えられるので、一概にその数字を鵜呑みすることは危険である。しかし、やはり子供の声を騒音と捉えるか否かについて議論がなされること自体、最近の世相を表したものとしてやはり戸惑いを隠せぬのである。

 

開発後40年ほどが過ぎたわたしの住宅地では小さな子供の姿を見かけることが珍しくなり、近所の公園をたまに訪ねてもそこで遊びに興じる子供たちの姿を見ることもここ久しくなくなった。子どもたちの歓声を耳にすることやその活気を肌で感じることが少なくなったことに、最近では共同体としての活力の減衰を思うことの多かったわたしには、「子供の声が騒音の時代に」はやはりショックであり、その世相の移り変わりにある意味で「脱力感」を覚えてしまった。

 

昭和の高度成長期の時代、この国は燃え上がるような熱気やエネルギーを放ち、そして子供心にもなにか夢にあふれた社会が自分たちの将来に待っているように思えたものである。子どもたちだけでなく大人たちの瞳もキラキラと希望に輝いて見えた。日本全体に成長という槌(つち)音が響き、その果てに夢がかなう現実があると信じた社会全体の大きな鼓動を刻む躍動という音にまぎれて、大人たちの耳や心に子供の歓声などは「騒音」として入りこむ余地などなかったのかも知れぬ。

 

時代は成熟し、少子高齢社会となり、格差社会と呼ばれる時代の閉塞感から街角から夢という槌音を拾い採ることが難しくなったこの時代、次の日本を背負う子供たちの活力を「騒音」と聴いてしまう今の大人たちそして社会。いつのまにかこの国は大事なものをどこかに置き忘れ、不健康・不健全な社会を作りあげてしまったのではないかと、この読売新聞の記事を目にして考えさせられた。そして「昭和は遠くなりにけり・・・」と思ってしまったのである。

 



安倍後継内閣が早急になさねばならぬこと3

安倍晋三総理大臣の突然の辞任表明で12日午後からこの日本は、上を下への大騒ぎとなった。自民党の有力者たちも記者の問い掛けに対し、言葉がすぐには口を突いて出てこないといった状況で、永田町の混乱振りがテレビを通じて国民の目の前に曝されることとなった。

 

また小沢一郎民主党代表も当日の記者会見では驚きと戸惑いの表情を隠さなかった。テロ特措法の延長問題で手ぐすねひいて政権交代のシナリオを練りに練っていたところに、正面の敵が忽然(こつぜん)と消え去ったのである。鳩山由紀夫民主党幹事長の「一番打者としてバッターボックスに入ろうと思った瞬間に、投手がいなくなった」との表現はまさに言い得て妙である。小沢代表は会見で「自民党の総裁が代わったからといって、民主党の考え方が変わることはありえない」旨の発言を行なったが、そのことは当然であり、事の道理でもある。

 

 一方、自民党は即日、次期総裁候補選びに向けて走り出した。そして安倍総理の辞任表明から一夜明けた13日、メディアも一斉に後継総裁が誰になるのか、その取材合戦はヒートアップしている。

 

 しかし、そもそも729日の参議院総選挙の自民党大敗を受けた衆参両議院のねじれ現象から政局は混迷を深め、今後の国会運営の見通しも定かでない状況にあった。そうしたなかでの辞任表明である。わが国の政治は一挙にその不安定さを増幅させることとなった。

このままの「ねじれ国会」の状態で自民党の後継内閣が出てきたとしても、今後、整斉と政策論議を闘わせることはきわめて難しいと言わざるをえない。

 

民主党は小沢代表の言うように「できるだけ早い機会に総選挙の実施」に持ち込むためあらゆる手段を弄してくることは必至である。北朝鮮の核保有問題やイラク戦争の帰趨、米国大統領選の本格化、温暖化防止、信頼を失墜した年金制度、格差社会の拡大等々、わが国をめぐる問題は内外を問わず山積している。その置かれている政治環境から一時の政治の空白、政策判断の猶予も許されないことは明らかである。

 

自民党内での総裁選日程決着に至る綱引きや駆け引き、さらには与野党ふくめたいたずらな「政局ごっこ」をする暇(いとま)は寸時もないと心得るべきである。政治の混乱を一刻も早く収拾し、内外の懸案解決にむけて議論を重ね、その成果をひとつひとつ挙げてゆくことこそいま政治に求められているもっとも大きな使命のはずである。要はあらたな政権はその拠って立つ正統性を具備してなければならないということである。

 

 そのためには、特にこうした唐突な形で首相が辞任した場合には、まず後継内閣の性格は選挙管理内閣でなければならぬ。そして速やかに衆議院の解散、総選挙を行なうことで国民に政権選択の道を与えるのが、議会制民主主義の本来の筋というものではなかろうか。今この時期、自民党政権の延命という党利党略だけで国民の意思をないがしろにしたまま、いたずらに政治の混乱を続けさせるべきではない。

 

国の主権者たる国民が総選挙によって選択した政権にこそ「正統性」が与えられる。ちょうど二年前の熱に浮かされたような郵政総選挙の結果は、そもそも安倍自公政権そのものに正統性を与えたものでなかったことは自明である。自民党は早急に選挙管理内閣を準備し、そのうえであらためて政権選択を国民に問うべきである。その結果が自民党政権になるのか、民主党政権になるのか、いずれにせよ総選挙によって選ばれた政権には、国会のねじれ現象が残るか否かに関わらず、その正統性が国民によって与えられたことだけは紛れもない事実なのだから。そうした国民の強い意思をたとえ自民党であろうが、民主党であろうが、無視することなどできようはずはないのである。安倍後継内閣のなさねばならぬことはただひとつである。


つづり方指導教師を検挙した国の共謀罪どうなる?(上)4

つづり方指導教師を検挙した国の共謀罪どうなる?(下)

 

この国は、戦前、現実をありのまま表現させる進歩的な綴方(つづりかた)指導を推進した教師たちが、戦時思想に反する教育を企画したとして特高警察に検挙され、拷問を受けるなどした暗い歴史を背負っている。

その教育熱心な教師たちを連行、検挙した根拠法が治安維持法であった。治安維持法は、「国体(天皇制)の変革」等を目的として結社を組織した者や加入した者、結社の目的遂行のためにする行為を行った者等に対し、死刑または無期ないし5年以上の懲役等を科するものであった。その後、治安維持法はその適用範囲を戦時体制強化の下に勝手に拡大させ、それを法的に強化させるため「結社に属さずともその目的遂行に資する一切の個人行為」も処罰対象に盛り込むなど改悪の歴史をたどった。

 

冒頭の「北海道綴方教育連盟事件」は、国体変革とはまったく無関係の「作文を通じた進歩的な情操教育の研究を目的とする組織」に加盟する教師たちが、戦時思想に反した教育を企画したとして検挙されたものである。不幸な時代の流れのなかで治安維持法が自由主義的思想を持った人々をパージする根拠法として使用されたわけだが、集会・結社・表現の自由という基本的人権が、たったひとつの法律の拡大解釈によりいとも簡単に反故にされ、弾圧されていった具体的な事例である。これはわずか60数年前の日本で実際に起きたことである。

 

さて自民党法務部会はこの1月25日、共謀罪を創設する「組織犯罪処罰法改正案」に関するプロジェクトチームを設置し同法案の修正を検討する方針を固め、今国会の会期中に一定の結論を出すとの考えを示した。

 

そもそも共謀罪の法案化問題は、テロや麻薬密輸など国境を越えた組織犯罪に対処することを目的として200011月に国連総会で採択された「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約」(以下「国際組織犯罪防止条約」)に端を発す。そして日本は同年12月、イタリアのパレルモで同条約の本体条約に署名したが、それを批准するためには国内関連法案の整備が必要と政府は説明している。

 

「国際組織犯罪防止条約」はその第一条の「目的」に「一層効果的に国際的な組織犯罪を防止し及びこれと戦うための協力を促進することにある」と謳うように、その主旨は是とされ、すでに126カ国もの国が批准を終えている(0610月現在)。そして批准のための国内手続きとして必要なのが国内法の整備であるとされている。その柱となるのが共謀するだけで実行の着手がなくても可罰的とする「共謀罪」の新設なのである。

 

共謀罪の立法化は2003年3月に初めて国会に提出されて以来、廃案、再提出、継続審議等その取扱いはまれにみる迷走ぶりを見せてきた。前国会においては継続審議で議決を見たものの、その後、第三次修正案等紆余曲折の末、結局、廃案となった。そしてこの1月、安倍晋三首相は長勢甚遠法相と外務省の谷内正太郎事務次官に共謀罪改正案について、今通常国会で成立を目指すよう指示した。それを受けて自民党法務部会はPTを立上げ、31日に共謀罪案に大幅な修正を加える方向で方針をまとめたことが伝えられた。

 

それではなぜ、これほどまでに共謀罪法案の新設は紛糾し、迷走を続けているのか。

 

それは冒頭に述べたような忌わしい歴史をわれわれが有しているからにほかならない。

そして共謀罪という法律が社会不安を背景に公権力が力を強めようとする局面で、国民の集会、結社、思想、宗教、表現等の自由を奪う根拠法となる可能性を秘めるものだからである。


ならぬことはならぬものです3

ならぬことはならぬものです

 

 いま、この国の教育が大きく揺らいでいる。

そして第165回国会の衆議院教育基本法特別委員会において、教育基本法改正法案が審議されている。教育改革は安倍晋三総理が自民党総裁選で掲げた大きな政策課題であり、所信表明演説でも力をこめて語られた部分である。

 

いじめや履修漏れ問題で、目下、学校教育は大きく揺れているが、学級崩壊といわれ、教育現場の荒廃がいわれてからは久しい。また一方で、しつけができぬ家庭や子育てノイローゼにかかる若い母親たちの増加も目立っている。その孤立する家庭や母親を支援すべき地域共同体の結びつきも弱体化し、個人が、家庭が、孤立化を深めている。見わたす限り、この国の「教育」に関連する光景は荒廃し、その風景のひとつの要素である人々の心もささくれだっている。

 

かつてこの国の家庭では「礼儀作法」や「躾け」がやかましく言われ、隣近所との濃厚な「近所つき合い」や親戚との面倒ともいわれた「親戚つき合い」が当然のように行なわれてきた。

またルース・ベネディクトの「菊と刀」のなかで「恥の文化」と評された他人の目を意識する、気配りや謙虚さ、協調性といった人間関係を重んじたこの国の「美徳」の風景は、21世紀に入り、ものの見事に破壊され、荒れ果てた殺伐とした社会へと変わり果ててしまった。

 

敗戦後、軍国主義批判の名のもとに連綿と続いてきたわが国教育は、民族の貴重な歴史文化への誇りとともに、根こそぎ否定され捨て去られた。また一方で戦後の貧しさから政治も経済偏重の政策が強力に推し進められたことで、この国の文化の連続性は為政者によっても、また国民によってもいつしか見事なまでに断ち切られてしまった。現在の荒廃した教育の風景は、まさにその極端な偏りの行き着く先であった。

 

この荒廃した風景をかつての美しい国へと築き直すのは、一朝一夕にいかぬことは誰しも分かりきったことである。ただ、一朝一夕が不可能であっても、それをやらねば国が滅びるのであれば、誰しもが小石を積み上げるようにして、その再興に努めねばならぬ。

 

その一歩が、「ならぬことは、ならぬものです」という会津藩士の幼児教育で行なわれた「什の掟」の最後に唱えられる言葉を国民一人一人が実践することであろう。

優先席付近で携帯電話を使う人には電源を切るように注意する。道にポイ捨てする人にはゴミ箱に捨てるよう声をかける。優先席には妊婦やお年寄り、足の不自由な人たちに優先的に坐っていただく。横断歩道で戸惑っているご老人には、すすんで手を差し伸べ、一緒に道路を渡ってゆく。近所ですれ違う人々には、すすんで挨拶し、声を掛け合う。

どれもこれも些細で簡単なことである。しかしこの時代、少し怖い。また親切にしようとするのも、ちょっと照れくさいし、思い切りが要る。でも、こうしたことは小さな勇気をだして行なえば、思いのほか簡単にできるものである。ルール違反を注意された人間は気まずそうに正すし、また手を差し伸べられた人は照れくさそうにではあるがうれしそうに親切を受け取る。そこに少しずつではあるが見知らぬ人間同士に交流が生まれ、人間への信頼が芽生えてくる。

そうした小さな実践の積み重ねが「教育」を再興し、子供を含め人と人に信頼関係が築かれ、結果として社会規範というものが再興されていく道につながることをわれわれは、もっと自覚しなければならぬ。次に「什(じゅう)の掟」を転記するが、いま教育界などで注目を浴びているものである。会津藩士の十歳未満の幼時が、什という地区グループに属し、そこで什長(什に属する一番年長の子)のもと毎日、唱えた社会規範である。それに背くと、「無念」「しっぺい」といった罰が、子供のなかで与えられたという。七番目の婦人と言葉云々は武家社会という時代背景を表すものであるが、現代に欠けた社会規範、ルール、規範がすべて盛られている。子供だけでなくわれわれ日本人すべてが、もう一度、社会の構成員たる人として、この什の掟を大声で唱える必要があろう。そして、最後に「ならぬことは、ならぬものです」と締める。戦後日本の教育が、先の大戦を反省するあまり、大戦以前から行なわれてきた教育のすべてを否定し、捨て去ったところに現代の精神の荒廃があると、この什の掟を読みながら思った。

 

われわれ日本人は、七番目の「戸外で婦人と言葉・・」の教育を改めればよかったものを、一番から六番目までの当然の社会規範までも、軍国主義、封建制度の悪しき道徳とし、七番目の項目とひと括りにして捨て去ってしまったのではないだろうか。

 

「ならぬことは、ならぬものです」という当たり前の規範意識を持っておれば、福島県の佐藤栄佐久前知事や和歌山県の木村良樹知事がその職を辞することはなかったことは、確かである。

 

什の掟

     年長者の言うことをきかねばなりませぬ。

     年長者にはお辞儀をしなければなりませる。

     虚言(うそ)を言ってはなりませぬ。

     卑怯な振舞をしてはなりませぬ。

     弱いものをいじめてはなりませぬ。

     戸外(そと)で物を食べてはなりませぬ。

     戸外(そと)で婦人(おんな)と言葉を交わしてはなりませぬ。

 

「ならぬことは、ならぬものです。」

 

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履修漏れ救済は教育基本法改正議論の試金石(下)3

履修漏れ救済は教育基本法改正議論の試金石(上)
履修漏れ救済は教育基本法改正議論の試金石(中)

 

そして早稲田大学や山形大学の当り前の対応がなぜか凛々しく見えることに、虚しさと寂しさを覚えてしまう。推薦入学申請に当たり提出する内申書の改ざんは、りっぱな私文書偽造罪にあたる。この訂正を求めるのは当然の行為であり、訴えられれば高校側は罪に問われる。法治国家としては至極、当り前のことである。そうした法治国家に帰属する国民に遵法精神のイロハを教えることは、言うまでもなく教育の重要な要素である。その原理原則を教育する側の犯した罪は、本来、「申し訳ない」で済む話ではもちろんない。

 

 では、今回の履修漏れ問題にどのように対応すべきなのか。

 

答えはひとつしかない。会津藩の幼時教育で行なわれた「什(じゅう)の掟」で、最後に唱える誓いの言葉「ならぬことは、ならぬものです」という教育の原点にもどり、対応するしかないのだと思う。教育基本法の改正を議論する前に、われわれ自身が、教育とは何か、学ぶということは何か、原点に立ち戻り結論を出すべきであると考える。

 

 すなわち「履修単位が不足すれば卒業は出来ぬ」ということであり、法の穴を抜けるような姑息な手段をこの国の将来を担う若者たちに慫慂し、形だけ整えればよいといった処世術を教唆することは避けねばならぬと考えるのである。社会通念を超えた特例措置、いや誤魔化しは決して子供たちの将来の利になるはずはないからである。姑息な単位の辻褄合わせなどは、「学ぶ」という基本を過たせる百害あって一利なしの行為そのものであるからである。これから人生の花を向かえる若人たちに、これからの一年は決して無駄ではないと教えることこそ、大人たち社会が「教育」するべき大切なことなのではないだろうか。

 

 そのことは、こうした履修スケジュールを作った学校現場の校長、それを知っていて見過ごしてきたであろう教育委員会、それらを総括的に管理する文科省が、数万人におよぶ卒業できぬ高校生たちの心と経済的負担および可能性のある貴重な一年間を奪い去る代償として、自らの今後の人生で償うことと同時になされねばならぬ。その責任のとり方こそが教育基本法改正の議論の前になされるべき、まさに教育そのものであると考える。戦後教育の抜本的改革とは、それほどに重くそして大きな犠牲なくして成就することはありえぬ難題であると考えるからである。


履修漏れ救済は教育基本法改正議論の試金石(中)3

履修漏れ救済は教育基本法改正議論の試金石(上)
履修漏れ救済は教育基本法改正議論の試金石(下)

しかし、今国会の大きな目玉の一つが、安倍総理が公約に掲げている教育基本法の改正である。これまでの戦後教育のあり方、仕組みなどを抜本的に見直す、国民にとってはこれからの日本を規定する最重要政策である。その審議の入口で噴出したこの履修漏れ問題。この対応のあり方自体が、すなわち「教育」と表裏の関係にある「学ぶ」という概念をどう規定、定義するのかという、教育基本法改正を議論する前の重要な試金石として問われることになる。対応いかんによって国会や文科省を含めた教育界が、教育という問題を議論するそもそも資格があるのかないのかが、明らかにされると考えるのである。

 

 その意味において、今回の履修漏れ問題に対し、目前に迫った大学受験をどう乗り切り、どのようにして高校卒業資格を取得させるか、履修単位の辻褄合わせをさせるかという姑息で技術的な対応策でお茶を濁すべきではないとわたしは考える。「教育」はまさに国を構成する最も重要な要素である人つまり国民の資質を高め、育む最も重要な国家としての役割であり、国策としても最上位に来るべきテーマである。その百年の計を議論するに当たり、「教育」「学ぶ」ということの本質は何かを、国民ならびに国政は原点に返って真剣に考え直してみる必要がある。今回の事件はその意味で、われわれに大きな試練を与えたと考えるべきである。

 

 この履修漏れ問題は、教育に大学受験に合格するための効率性または各学校間の競争を促す原理を導入したところに問題の芽が見て取れる。「教育」「学ぶ」とは何かという原点を見失った現在の教育行政・現場の実態が、大事な教育基本法改正議論の前に噴出したことで、結果としては原点に立ち返り問題点を整理し議論を深めるうえで、最良のタイミングであったとも言える。

 

 受験生、高校側、文科省および大手メディアの目下の発言や論調を見ると、受験科目でない科目を勉強することは時間の無駄であることを、公に認めているとしか見えぬ扱いに、わたしは「教育」に関わる当事者たちの痩せ細った「教育観」、「学ぶ意識」を見てしまう。世界史であれ、地理であれ、数学であれ、どんな学科も大学受験などとはまったく無縁に独立して同等の価値を有する学問である。あらゆる学問は人類にとって貴重な共通の知的財産であることをすっぽりと忘れた議論が平気でなされていることに、この国の「知」に対する意識の貧困さと価値観の堕落を覚え、目先の打算的価値観の蔓延に国家としての勢いの衰えを感じるのである。



安倍晋三官房長官の総理の資格1

安倍晋三官房長官の総理の資格

 

読売新聞92日「改憲・教育・美しい国・・・安倍氏が出馬表明し政権構想」

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20060901it12.htm

 

 安倍晋三官房長官(51)が1日、広島市の広島プリンスホテルで記者会見した。大本命と目される人物が、ついに自民党総裁選(9月8日告示、20日投開票)への立候補を正式に表明し、そして政権構想を発表した。

 

 まだ、「小泉施政5年の総括」の最終章に予定しているジニ係数が0.498H14実績)までに悪化している「格差の固定化」について語り終える前に、安倍氏の総理就任がほぼ、決定を見てしまったようだ。小泉総理の総括を踏まえて次期総理の資格を問おうと思っていたが、福田康夫氏の「立候補せず」の発言により永田町は一挙に、猟官運動の場へと先生方の関心は移ってしまった。まず、ひと言ここで安倍氏について私見を述べておきたい。

 

 国民は次期総理に何を求めるべきか?

 

 いや、われわれ国民がそれを言う前に、国民は何を自民党に対し、新総理に対して望んでいるのかの議論が、本来、総裁選では具体的に議論されるべきである。しかし、今の永田町からは全く聞こえてこない。耳障りのいい言葉と、何となく「よさ気な映像」だけは新聞、TVなどを通じ流れてくる。それは相も変わらず芸能ニュースと政治家の政策論を同列に扱うメディア得意の「お笑い」の乗りで、国民の耳に届くから尚更始末が悪いと言ってよい。

 

 特に安倍氏が立候補を表明してからは、貴種を好むこの国の国民性に媚びるかのように、安倍晋三氏の動向が、際限なく無批判に垂れ流されている。自民党が総裁選を盛り上げようと各地方で行なっている麻生外務大臣、谷垣財務大臣を加えた3候補者による地域ブロック大会をちらっと見たが、討論の中で最も具体性を欠いているのが安倍晋三氏である。抽象論でもよいのだが、国家ビジョンというにしても、ある種のコアになる具体的柱、芯がなければ、国民の心には目指すべき国家のイメージすら浮かんでこない。小泉内閣の過ちを二度と繰り返してはならぬことは当然であり、この5年間で国家の基盤、社会規範をメチャクチャにされた、その修復について具体的項目を挙げて政策論と具体的手順を明示すべきである。

 

 ムードばかり相変わらず先行しているが、現在、この国は五年前の経済危機の時代よりも、「独立国家としての存亡の危機」というもっと重大な危機に直面している。そうした現状認識から総裁選の議論はスタートさせられるべきであろう。その意味で安倍官房長官の政権構想とこれまでの靖国、改憲論を含めた言動には、大きな不安と危惧に加えて頼りなさを覚えざるをえない。国家の舵取りを託すには、その見識や実績を評価するに当たっての材料が余りに少な過ぎるのである。国民が判断しようにも、これまで示された政治的・政策的実績が極端に少なすぎる。熱に浮かされるようにして国家の指導者を選ぶ愚かさと怖さは、既に小泉純一郎氏でこの国民は嫌と言うほど学んだはずである。同じ過ちを犯したくないものと強く感じる。

 

 ただ、若い、何となくソフト、何となくハンサム、何となく品がよさそう、何となく幸せにしてくれそう・・・なだけで、指導者を選ぶような民主主義を体現しているはずの自民党の先生たちであったとしたら・・・。

 

 自民党に将来はないというより、この日本と言う国家に将来はないと言わざるを得ない。その意味で安倍氏にはそうした懸念をぶち破る若い力を発揮し、堅実な政策議論を誠実に積み重ねていくことを強く願って止まない。

 

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北朝鮮のテポドン2号発射準備完了1

「北朝鮮のテポドン2号発射準備完了」

 

北朝鮮ミサイル、すでに燃料注入の可能性…韓国通信社

【ソウル=平野真一】韓国の聯合ニュースは18日、ワシントン発で、複数の外交消息筋の話として、北朝鮮が発射準備を進めているとされる長距離弾道ミサイル「テポドン2号」に、すでに燃料を注入した可能性があると報じた。

ミサイル周辺に数十基の燃料タンクがあるのが衛星写真で確認されたという。同ニュースによれば、ある消息筋は「ミサイルに燃料タンクが装着されたと聞いた」と発言。別の筋は「ミサイル周辺に燃料タンク数十基があり、燃料をミサイルに注入した可能性もあるが、断定はできない」と述べたという。

(読売新聞) 6月18日20時28分

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060618-00000012-yom-int

 

 大河ドラマ「功名が辻」を見終えた午後8時45分のNHKニュースで、「北朝鮮は発射準備を進めている模様で、ミサイル発射の可能性は否定できない」と報じ、そのうえで、「日本に着弾する可能性もゼロとはいえない」と報じた。

そして、すぐに画面は変わり、今夜十時からのワールドカップ、クロアチア戦まであと一時間と昂揚するサポーターの映像を伝えた。

 

わたしは、その能天気な映像と事の軽重をまったく無視したNHKの報道姿勢に「えっ!」と、驚くとともに、この国の平和ボケとあまりの危機意識への鈍感さに開いた口がふさがらなかった。可能性がゼロでないということは、日本のどこかの町にミサイルが落ちると言っているのである。

 

サッカーの試合とこのテポドン2号の報道は、誰が考えても異質のニュースである。報道は、先の着弾の可能性に触れたのちに、サッカーのニュースなどではなく、こう伝えるべきなのではないか。

「可能性がゼロではないが、万が一発射された場合も、迎撃ミサイルで打ち落とす準備は完了している」あるいは「日本へ向けて発射されたとしても、日本海上で打ち落とせると当局(防衛庁)筋は語っているので、大丈夫である」と。

 

「可能性がゼロでない」という報道の意味、政府筋の発言の重さをどのように国民に伝えるか、NHK内部で激論は闘わされたのだろうか。

わたしはこの文言を伝えたNHKの本意と、かれら自身、報道機関の究極的な使命は何たるかわかっているのだろうか。テポドン着弾に触れて、すぐに能天気なサッカーのサポーターの映像を流すその神経というか、事態の理解、重み、弛緩しきった報道姿勢が、この報道機関はわかっているのか、本当に呆れてものも言いたくなくなってきた。

 

 NHKって報道機関は、必要なのだろうか・・・。真面目に考えてしまう。日常性に埋没し、惰眠をむさぼる報道機関に、国家の危機に関する情報収集を期待せざるを得ぬ国民の不幸を心底、情けなく思った。

 

論座7月号の西村正雄氏の論文に久々の知識人の見識を見た3

「論座7月号の西村正雄氏の論文に久々の知識人の見識を見た」

論座7月号の「元自民党幹事長・安倍晋太郎氏の弟が直言、次の総理になにを望むか ―― 経世済民の政治とアジア外交の再生を」を読んだ。西村氏(元日本興業銀行頭取)は故安倍晋太郎氏の実弟だそうで、今をときめく安倍晋三官房長官の叔父に当たることになる。

その叔父が、「次の総理になにを望むか」というタイトルでものした論文である。身内に甘い内容ではと思って目を通したが、次期総理は「テレビに出る回数が多く、若いとか格好いいとかで選ばれることだけは避けなければならない」と、真っ向からの正論を展開し、久しぶりに緑陰の湧き水を口に含んだような爽やかな気分を味わった。

小泉総理がポピュリズム政治の見本のような手法でTVやメディアの力を巧妙につかい、国民の目を欺いてきたことを考えると、次の総理には是非とも、その対極にある「国家百年の大計」を見据えた堂々とした政治姿勢で、日本の舵取りを行なって欲しいと願う。

論文のなかで、同氏は次期宰相の資格として次の四つを求めた。

(1)政(まつりごと)の基本理念である「経世済民」の原則にもどること

(2)国の根本である「人づくり」において「教育のありかたを見直すこと」

(3)ポピュリズム政治と訣別すること

(4)アジア外交の建て直しを早急に行なうこと

の四つを正に骨太の宰相の要件として、提示した。まったく同感である。

この五年間の小泉政治が切り捨ててきた弱者。「格差社会」の拡大がここにきてようやくメディアでも取りざたされてきたが、小泉総理が股肱の臣として重用した竹中氏が強烈に推進した市場原理主義の当然の帰結といってよい。そもそも、市場原理主義は「弱肉強食」こそ、そのルールの大原則である、というより、原理というものはそうでなければならぬのである。強いものが正当なルールの下で、正当な手段で正当な利潤を享受する。それは至極、単純明快な理屈である。ルールさえ守れば、富める者はとことん富み栄えて構わない社会が現出するのは、市場原理主義を野放図に突き進めれば、当然の結果なのである。そして、競争に敗れた弱者はとことん社会の低層に沈み込んでいく。格差が幾何級数的に拡大していくのは必然である。

小泉総理は、国会で「格差は必ずしも悪いものではない」と答弁した。機会の平等は保障されるべきだが、結果の平等は必然ではなく、その人それぞれの能力、努力の差によって、凹凸がでるのは、ある面、公平であるという。

このことをわたしは否定もしないし、批判もしない。それは、小泉氏の言っていることは、尤もだからである。

しかし、政治は理屈の正当性や口先だけのごまかしで済まされる代物ではない。政(まつりごと)は現実社会を透徹、洞察し、たとえ理屈に合っているとしても、苦しんでおる国民がいれば、それを救うことこそ求められる最大の責務のはずである。一国の宰相が、血も涙もない市場原理主義により国民間の格差が拡大している事実に眼をそむけ、現実を直視することをせずして、役人の作った数字や文書のみで、その事態を誤って判断、いや国会答弁を切り抜けるという一点の目的のみで意図的にそれを活用しているとすれば、言語道断の極みである。

よく言われるニートやフリーター問題にいかにも関心を持つ素振りなどせず、メンフィスのプレスリーの生家を訪れる時間と余裕があるのであれば、国内の地方の経済的疲弊と人心の荒廃を知るべく、国内視察こそ今、行なうべきである。そのうえで、機会の平等というものすら崩れようとしている現実に冷徹な目を向けるべきである。そして、その平等を保障すべく、政府を挙げて智恵を絞るべきである。政(まつりごと)とは、その機会均等を保障し、努力を怠らぬ人間が社会の低層に沈み込まぬように、西村氏が述べているようにセーフティーネットを用意することなのではないのか。

「働かざるもの食うべからず」は良いが、「働きたいものでも食うべからず」はあってはならぬことであるし、「努力するもの食うところに与(あずか)らず」もあってはならぬ。それは、政(まつりごと)の本質、責務であると思う。

西村正雄氏の「経世済民」という言葉、そう云えば昔、倫理社会で習った「政治の要諦」を思い出しながら、昨今の小泉政治の問題点に考えが及び、次期総理には、同氏の言う四つの要件を是非、肝に銘じ、国家運営を行なってもらいたいと願う次第である。

ドミニカ移民の棄民政策に見る日本国政府の本質5

「ドミニカ棄民政策に見る日本国政府の本質」

 

「ドミニカ移民訴訟」にいて、6月7日、東京地裁の金井康雄裁判長は「国は農地を備えた移住先の確保に配慮する義務があった」と国の責任を認定したものの、20年の除斥期間【(一定期間内に権利を行使しないと消滅する)という考えにもとづき権利を制限する制度。民法724条が根拠】が経過したことにより、原告の賠償請求権は消滅したとして、原告側の請求を棄却した。

 

最終意見陳述で原告団団長の嶽釜徹(67)(たけがまとおる)さんは「国側は時効を主張しているが、消えてしまったのは政府の良心と罪の意識。入植以来四十九年間に受けた移住者の苦しみや心の傷に時効はありません」と述べていた。

そして、一審判決を前にして、同氏は次のように語った。

 

自分の祖国を訴えるのは、我が身を切るよりつらいこと」と。

 

この言葉を今の日本国民はどう受け止めるのか。教育基本法改正案で、正に「愛国心」という言葉の字面や、愛国心を教育現場で評価する動きなどが議論されているなかでの発言であった。わたしは、嶽釜(たけがま)氏の言葉は、現在国会で議論されているどんな言葉よりも重い言葉だと感じた。「国を慕う素直な感情」が切々とわたしの胸を打ち、そして、その国を訴えざるを得ない身を切られるような痛切な心情に言葉を失した。

 

そして昨日の敗訴である。

それを受けて、同氏は記者会見の席上で沈痛な面持ちで、次のような悲痛な言葉を吐いた。「われわれは国の棄民」「祖国とは一体、何なのか」と、搾り出すようにして口にしたこの言葉を、われわれは極めて重く受け止めねばならぬ。さらに、「苦しみに時効はない。不当だ」として、原告は直ちに控訴するとのことだが、当然のことである。

 

片方で、国会では継続審議が確実視されている「教育基本法改正案」が審議中である。そのなかでの「我が国と郷土を愛する態度を養う」というお題目が、何と空々しく響くことか。政治が「祖国に捨てられた国民」を救わぬ国家を誰が愛するというのか。有言実行とは、こうした時に使用されるべき言葉であろう。ドミニカ移民の方々のあの苦渋に満ちた表情を目にし、国に捨てられた50年におよぶ想像を絶する苦難に満ちた人生に思いを致すとき、わたしは、この国、いやこの国の大半の人たち(勿論、わたしも)は同胞の苦境に目を向けることなく、やれ高度成長だ、やれバブルだ、そして、やれファンドだと、あまりに安寧の惰眠をむさぼってこなかったか。

 

嶽釜徹氏以下、原告団およびドミニカ共和国で故国を偲びながら亡くなった方々に対し、われわれは、一体、どういった形で償いをしたら良いのか・・・。ただ、言葉を綴るだけでは到底、何の意味もなさないと思いながら・・・、もうこれ以上文章を書き続けることが出来ない。

自公連立の「教育基本法改正案」の限界3

自公連立による「教育基本法改正案」の限界

 

 与党の教育基本法改正検討会の大島理森座長は十二日の会合で、自民、公明両党間で対立していた「愛国心」の表現について、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできたわが国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」とする座長案を提示、了承を得た。文部科学省は直ちに法案化作業に入り、月内にも国会に同法改正案を提出する。(産経新聞4.13

 

 「愛国心」の表現をめぐって公明党は「戦前の国家主義を連想させる」として、改正基本法から「愛国心」の言葉を外すよう抵抗を続けてきた。その結果、上記のような法案文となったとことである。愛国心の「心」という言葉も「態度」と変更された。「心」でなく「態度」であれば「内心の自由、心の問題に踏み込まない」のだと公明党は主張したと云う。

 

 いやぁ、何をか言わんやである!ここで言葉遊びをする気はないが、人の行動・態度とは意思すなわち心の動きが外的な形で顕れたものである。態度という言葉であれば心の問題に踏み込まないから大丈夫というのであれば、態度・人の行為は一体、何がなさしめるのであろうか。神がなさしめるとでも云いたいのであろうか。

 

 国を愛する心を持つこと自体、本来、健康な国民としては自然な感情の発露であるはずである。健全な精神を持つ国民を育てるにおいて、「国を愛する心」を教えることが何故、おかしいのか私にはわからない。「愛国心」=「軍国主義」というドグマの桎梏からはこの国もそろそろ卒業すべきである。世界中でどこを見たら、国を愛することを教育で教えることはおかしいなどと叫ぶ国があろうか。国を愛することはすなわち家族を愛することであり、友人、隣人を愛することに等しい。世界中で国を愛する心を育てることに逡巡する国などない。

 

 この国はもうそろそろ軍国主義の呪縛から解き放たれるべきである。徒に軍国主義の影に脅え、健全な精神、心を育む気持ちを社会や大人たちが、積極的に表に打ち出し、主張することを躊躇うべきでない。本当に軍国主義の台頭を懸念するのであれば、健全な心を育て、その純粋な目で社会情勢を検証、分析する力を子供たち、いや大人たちにもつけさせることこそ、最も大切な対策であると考える。健全な心で権力をチェックする力が国民にあれば自らを軍国主義という暗黒のブラックホールに放り出すようなことはしない。そして健全な心こそ「国を愛する心」の宿る普遍の精神であるのだと私は考える。

 

 そう云った意味で、今回の教育基本法改正案の「愛国心」の取扱いについては、もっと素直に、健全な精神で普遍的議論を進めていくべきものであったと悔やまれ、残念でならない。小沢一郎民主党がどうこの改正教育基本法に挑むのか見ものである。

英語必修の愚行3

「言語は国を体現する唯一独自の文化」

 

 二十七日、中央教育審議会の外国語専門部会が小学校で全国一律に英語を必修とするという審議報告をまとめた。それを受けて二十八日付けの日経新聞の「春秋」では、シラク大統領がEU首脳会議で「フランス人ならフランス語を使うべきだ」と怒って席を立ったことを引き合いに、行過ぎた英語の優位性と母国語の情感や文化の奥行きを見失うことへの危惧を述べている。その春秋子の主張に全く同感であるし、この国の専門家なり識者とは一体どのような国家観と思考回路を有しているのか、私には皆目見当がつかない。

 

 その国の言葉並びに言語表現は、我々の先祖がそれぞれの時代を生き抜くにおいて、時々の生活観あるいは思考方法と云った庶民の息遣いとともに手垢にまみれた表現方式が、歴史という長い時間により濾過されて徐々に形を成し、出き上がってきたものと、私は理解している。だから日本語という言語は日本人と云う民族が生き続ける限り、時代という濾過装置を潜り抜けながら将来に渡って存在をし続けるべきものと考えている。

 

 そう考える私には、抑々、この国の国語教育の貧弱さ、哲学のなさを日頃から慨嘆してきたところである。国際人は英語が喋れる人と勘違いするこの国の知識人の愚かさに、ほとほと愛想がつきる。海外の生活が長い人々や海外で活躍をする日本人は、ある時機に必ずと云ってよいほどに、自分が日本と云う国について何も知らず、ましてや日本文化に薀蓄などを持って語れない自分に気づいて、愕然としたことを多く経験したとよく聴く。そうした人たちは口を揃えたように「国際人とは母国文化を自己のアイデンティティとして世界で自己表現のできる人であり、だからこそ他国の人々からその表現なり考え方に共感を得ることができるのだと思う」と、語る。まさにそのとおりだと自分も思う。語学ができるだけで、自国の文化も説明できぬ人物をどこの国の人間が尊敬を持って遇しようか。

 

 自国の文化に造詣を深めるのに外国語で学ぶ馬鹿はいない。母国語にこそ自国文化の真髄や先達が伝承してきた文化の心が内包されており、そこに最も大切な感情表現という文化の結晶のようなもの、国という求心力の源こそ国語なのだと思う。

 

 その国語が乱れていると云われ出してからずいぶんと時が流れた。そして、有効な対策が打たれぬままに、巷で耳にしたりTVのバラエティ番組で交わされる日本語の汚さには虫唾が走り、この国がメルトダウンして行っているような気持ちに捕われる。そして韓流ブームで韓国人のスターがマスコミに頻繁に顔を出すようになったが、彼らの口から日本語の素晴らしい敬語や美しい丁寧語を聴くと、本当に情けなくなる。一方で、相方で喋るお笑い系のタレントが文法もなっていない日本語を喋っているのを聴くと、情けなさを通り越して諦めの念が強まっていくことを留めることが出来ない。

 

 こうした壊滅的、悲観的な言語環境にあるのに関わらず、今回の英語必修の審議報告はこの国の文化を後世にどう伝承しようとしているのか、我々世代の責任は余りに大きいと云わざるを得ない。

 

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