彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

随想

歳時記エッセイ 6.葉桜4

「葉桜」

 

 桜前線があわただしく日本列島のうえを過ぎ去り、葉桜が街路に目立つようになると、街に落ち着きのようなものが戻ってきた気分になる。という樹はどうしても満開になった花びらが主役であり、その絢爛豪華さとひと雨で散りゆく潔さという対極の概念が取り合わさって古来、日本人の心を捉えて離さない。

 

だから葉桜になって遅まきに咲いている桜の花びらに対して、ほんの一週間ほど前にはあれほど嘆声をあげていた人たちも思いのほか冷たい視線を向ける。と云うより、大半の人は明らかに無関心となる。そんな葉桜の花びらはどこか居場所を失った老人に似て、新緑若葉の脇で目立たぬようにさも申し訳なさそうに咲いている。

 

ところが目を凝らせばその新鮮な若葉色と薄い桜色のコントラストは、また満開の桜とは異なった趣があることに気づく。葉桜の美しさは緑の若葉の領域が増えるにつれて薄れていく。おそらく葉桜は若葉色と桜色の対照の或る一瞬に最高の輝きを放つ「刹那の美」とでもいってよいのだろう。満開の桜は少なくとも三、四日の賞美する猶予を人々に与える。しかし、葉桜のかもす特有の微妙なコントラストは「一瞬の時」しか我々にその鑑賞する自由を与えない。考えてみればずいぶんと誇り高い存在であったのだと気づいた。

 

 そう思い至った時、花見にはもうひとつの果かなさがあったのだと知った。そして若葉が枝々を占領し尽くす頃、いわゆる桜蘂(さくらしべ)が並木敷きを覆うように落ち敷き、宴の後のがらんとした座敷の静謐を思わせる光景が眼前に広がる。その春泥に桜蘂が張りついている寂しげな情景は、しかし、翌年の「刹那の美」を待つための、そう・・・序章なのだと感じた。

 

歳時記エッセイ 5.蟻の道4

「蟻の道」

 

 「啓蟄」「地虫穴を出づ」「蟻穴を出づ」と昆虫が生命の蠢動を感じ冬眠していた穴から顔を出し、活動を開始するというの到来を示す季語は多い。しかし、「蟻」単体はの季語であり、それに類する「蟻の道」「蟻の列」「蟻塚」「蟻の塔」「蟻地獄」なども夏の風物を彩る季語として採られている。

 

人間に非常に身近な虫である蟻が生物学的にはどういう位置付けにあるのか、実は今日まで浅学にして知らなかった。調べてみると蟻は昆虫綱・ハチ目・スズメバチ上科・アリ科(Formicidae)に属する昆虫であり、ハチ目のなかに属し、あの恐ろしいスズメバチと近縁種であることを私は初めて知って驚いた。我々のよく知るハチの同種であるミツバチよりもアリの方が生物学的にはスズメバチに近いのだそうだ。

 

子供の頃、神社の境内で蟻の列を目にするや、かしましいの声を聴きながらその行き着く先を探し当て、蟻の巣を小枝で穿り出した記憶を男性諸氏は、少なからず持っているのではないかと思う。風通しが悪い村の境内の祠近くで、額からを滴らせながら乾ききった白っぽい土を穿っていく。蟻のトンネルは途中からいくつかに分岐し、どっちの穴を掘り進むか悩んだりもした。そして、最後に女王蟻の部屋に辿り着く。どこかむず痒い感覚を楽しみながら小枝の先で掘り進んでいった情景を、今でも甘酸っぱい気持ちとともに思い起こすことができる。蟻たちにとっては、大変な労力をもって営々と築き上げた地中の壮大な城砦が、人間のしかも小僧ごときによっていとも簡単に破壊され尽くす。何とも非道の仕業としか云いようがない。

 

蟻の道蟻の塔という季語に、私は容赦のない盛夏の陽射の残酷さをどうしても重ね合わせてしまう。ジリジリとした暑さと汗の饐えた臭いが蟻の道という言葉には至極似合っているのである。忙しなく動き回る蟻の動きと相矛盾するように整然と整列した蟻の道。その光景を息を潜めてじっと正視し続ける自分、そしてその一糸乱れぬ隊列と規律をぶち壊したくなる衝動。その青い衝動を抑えきれぬまま酷暑の杜でしゃがみ込んでいる少年の頃の自分・・・。

 

そうした残虐な原風景がかつてこの自分の中に存在したことをこの「蟻の道」と云う季語は思い出させてくれた。そして蟻が実はあの可愛らしい蜜蜂よりも獰猛な雀蜂と近縁であったという事実を知った時、少年という天使の顔を持つ人間に、やはり悪魔の心は巣食うのだと思った。そのアンバランスという悪魔はいつこの自分の心から巣立って行ったのか・・・。いや、ひょっとしたらまだその悪魔は生き残ったままで、ただ心奥の襞の内にひそやかに少年の心とともに潜伏し続けているのかも知れない、際限なく続く「蟻の道」のように連綿と・・・。

 

蟻の道という季語を歳時記に見つけて、そんな少し首筋の寒くなるような気分に襲われたのである、獰猛な顔を隠した蟻たちを知って・・・。

 

 

歳時記エッセイ 3.畦塗(アゼヌリ)2

歳時記エッセイ 3.畦塗(アゼヌリ)

 畦とは「田と田との仕切りとして、土を盛り上げた細い道」(新潮国語辞典)とあるが、実用的意味では仕切りと云うよりも田んぼに水を溜めるために土で作った壁と云った方がより適切である。畦は一年の米作りの間に崩れてしまったり、踏みしめられ嵩が低くなったり、雑草が生えたりする。また冬の間の雪などで土が柔らくなったり、さらにモグラやネズミの穴などで軟弱になってしまったり、その補強が必要となる。その補強作業を畦塗と云う。田んぼに水を張る前に畦塗をしなければ水漏れが生じ、田植えどころの騒ぎではない。畦塗は畦の内側に数十センチの溝を掘り、その掘り出した土を水で捏ねて粘着質の泥を作る。その泥を鍬で壁を塗るように畦の土手にこすりつけ斜面を作って、壁の高さを嵩上げする作業である。

 都会に棲む身にとって、抑々、田園風景はTVや写真で見る映像世界となっており、田んぼと云う言葉自体に生活実感や皮膚感覚を感じ取ることはできない。梅雨になれば田植え、秋になれば実りの稲刈り。さすがにそのことくらいは知っている。しかし、自分の口に入る米粒に至るまでの一連の雑多で細々とした作業について詳細に説明できる人物を私は不幸にして知らない。

 畦塗と云う言葉の殊に「塗る」と云う単語に違和感を覚えたが、詳細に知れば畦を造るには左官屋のように鍬のヒラで泥を練り、捏ねて、塗りたくり、叩いて固めるのである。畦は塗って作る、真にぴったりの表現である。そして、畦塗と云う腕力と技量と根気のいる重労働を幾星霜にわたり幾十枚もの田んぼで行なってきた百姓と云う仕事師たちに衷心から頭の下がる思いがした。「畦塗」と云う言葉に塗り込められている様々な感情や想い、春の持つ生命の息吹。春が立ち畦を焼き、おもむろに土を耕し、その温もりを帯びた懐かしい土の匂いが仄かに立ち上ってくるようである。畦塗の前に鍬で土を削り、溝を掘り、泥を捏ね始めると黒い土の中からハムシやゴミ虫、ワラジ虫、ケラなど様々な小さな生命が顔を出してくる。生命の源泉が豊潤な土にある、まさに産土(ウブスナ)を感じさせる瞬間であろう。土への回帰、農への回帰と云った響きになぜか郷愁のようなものを感じてしまうと云ったら言い過ぎであろうか。

 欧米人は狩猟民族であるが日本人は農耕民族であるとは、欧米との文明比較がなされる時によく指摘されることである。しかし、現代では私を含め日本人の中で農耕民族であると自覚する人がどれだけ存在するのだろうか。農業に従事する人数は激減し、パソコンに向うことを生活の縁(ヨスガ)とする人間が圧倒的に多い時代となった。かく云う自分もそのデジタル社会の一員である。農は現代の日本社会から遠いところにあるものと、都会生活を送る人間は考えてしまうし、現実に私の日常生活の中で農の匂いを感じる瞬間はまず、殆どなかった。

 その自分が、歳時記と云う日本文化の国会図書館とも云うべきものに出会って初めて、自分が農耕民族の血を引き継ぐ証のようなものをその中に見つけ出すことができた。そして興味を覚え、さらに詳しく調べてみる機会も増えた。それは自分が農耕民族であった、あり続けている血の記憶を遠い記憶の襞(ヒダ)から手繰り寄せる行為でもあった。歳時記のページを無作為に繰ってみれば分かる。必ずと云ってよいほどに農耕民族の尻尾である言葉、季語が即座に目に飛び込んでくる。「田打ち」「豆撒く」「大根干す」と云った具合にである。畦塗から農耕民族、それから歳時記へと思考の連鎖は際限なく続くようだが、こうして春の宵にとりとめもなく思考を巡らせることこそ、悠久の時間のなかで両足をしっかりと地面に接地し、突っ立っている安心感から来る農耕民族たる証であるような気がいつのまにかしてくるから不思議である。

 

 

 

 

歳時記エッセイ 2.ふらここ3

歳時記エッセイ 2.「ふらここ」

 ふらここ」とは日本の古語でブランコのことである。古来中国で冬至から百五日目に当たる寒食節に宮廷の女官たちが鞦韆(しゅうせん)と呼ばれる現代のブランコで戯れ楽しんだことが、漢詩で詠まれているそうだ。 因みにブランコとはポルトガル語に源があると云う。

 私は百千鳥囀りに誘われるようにして、自宅から歩いて二分足らずの公園に行ってみようと思い立った。久しぶりに「ふらここ」に乗ってみようと思ったのである。そして、公園に足を踏み入れてみて「ふらここ」が何時の間にか撤去されていることを知った。ブランコだけでなく幾つかあった遊具施設も同様に持ち去られ、残っているのはペンキの剥がれた鉄棒と滑り台のみであった。自分の眼前には寂寥としか云い様のない光景が広がっていた。

 鞦韆という遊具に籠められた宮廷官女の華やかな嬌声を自分は期待などしない。しかし、二十数年前に子供たちと戯れたうきうきとした思い出をどこかに探ろうとしていたのである。ところが、その光景を目にした時、温もりのあるささやかな思い出を土足で踏みにじるようにして持ち去られ、消し去られてしまったような不快な気分に襲われた。賑やかな家庭の喧騒や無垢の子供たちのキラキラとした瞳の輝き、母親たちの子供を叱る若々しい声が赤や黄色の極彩色のペンキとともに塗り籠められ、吹き込まれていた様々な遊戯施設。それと余りに対照的な現在の歯の抜けたような寂寞とした公園の風景。ぽつりと佇む滑り台の剥がれたペンキを撫でながら云い様のない寂寥感とやり場のない憤懣を覚えた。そして思い出というものは、所詮、人間の意識の中で時とともに色褪せ、セピア色に変じていく宿命にあるのだと感じた。

 それと同時にどうしてこんな光景が今、自分の眼前に展開することになったのかと自問した。二十数年前と云えば昭和五十年代の半ばである。物質面での豊かさが満たされ、精神面の豊かさを求める時代へと云われ始めた頃でもある。そして、一市民としての自意識の昂まり、個の大事さが謳い上げられていった時代でもあった。それは逆から見れば、ムラや公と云った共同体の概念が人々の意識の中から希薄化し、置き去りにされていく時代とも云えた。危険な遊具は事故の起こる前に無くしておくのがよい。危険と役所の判断した遊具の撤去は、事故が起きて保護者や市民団体から袋叩きにされる前に講じた役所の自己防衛の施策であったのであろうか。まさに過剰防衛とも云える愚かな行為であったと強く思う。ただ、行政に少し同情した見方をするとすれば、事故が起きた時の「自己責任」と云う言葉がまだ巷間に馴染みのない時代にはいた仕方のない処置であったのかもしれない。

 こうした想いを胸に去来させながら、この二十数年間唱えられてきた「個性の尊重」と云う民主主義の権化のような呪文が我々を導いた先は、この麗らか春の日にも関らず今、目の前に存在する寒々とした公園であり、乾き切った肌をもった殺伐とした社会であったのだと気づかされた。

 そして、それは決して自分たちが望んでいた社会ではなかったと強く感じるとともに、公園の木々の枝に留まる鳥たちの鳴き声は二十数年前と何ら変わらずに訪れた春の日を心から喜んでいるように聴こえたのである。

 

 

歳時記エッセイ 1.入学試験4

 歳時記エッセイ 1.「入学試験」

 入学試験の季節が来ると、三十数年前にもなる自分の大学入試のことを毎回、思い出す。昭和四十年代の半ば、まさに学生運動華やかし頃のことである。一年間浪人をして悲壮な決意で受験に臨んだあの冬の厳しい寒さの日々。その悲愴感がこの肌に皮膚感覚として今でも残っており、この季節には必ずと云ってよいほどに甦ってくる。

 その記憶は風が光りはじめる季節であったにも関わらず、色に例えるとどこかモノクロームであり、それを包む空気は全きメランコリーである。受験の結果は目的の大学に入学できて幸せであったはずなのに、入学試験自体の思い出は何時までたっても心の内に冬ざれを引き摺ったままである。思い起こせば当時十九歳の私は受験日が近まってくるにつれ、ぴんと張り詰めた緊張感のなかにそこはかとない虚しさと寂寥感を覚えていたようだ。冬ざれという言葉が持つ荒涼として中身のない伽藍堂のような語感が、その時の自分の気持ちにどこかぴったり重なっているように思えてならない。

 今年、親戚の息子が受験で上京してきた。ひと晩その受験子とゆっくり話をする機会があったが、その表情を見ながら現代の受験生気質を垣間見たような気がした。やせ我慢でもなく、決して悲愴な面持ちなど見せなかったのである。いや抑々、受験を悲愴なものだとする意識そのものがないのであろう、ここの大学に落ちてもあちらがある。人生の選択肢は幾つも用意されている。私はキラキラ輝く瞳に魅入って、この若者はそのことを微塵も疑っていないし、不安も抱いていないと感じた。見事と云うしかない。私たちが感じていたこの大学でなければ・・と云った頑ななまでの拘りや切迫感が抑々、希薄なのだと知った。そして今の時代そのものが、大学卒あるいはどこどこ大学出身と云った名目のレッテルに価値を求めなくなっていると云った背景があることもそのことを後押ししているのだと考えた。そう思うと、それはそれで薫風を感じさせる新たな時代の感性でもあるのだとその若者の屈託のない顔を眺めながら得心せざるを得なかった。

 こうして入学試験と云う恒例行事も徐々にその含む意味、それに対する意識が変質していくのだろう。冬ざれから更衣若鮎と云った希望の季節への節目あるいはその勢いを求めての一通過点と云ったイメージへ変化を遂げていく。受験子の希望に溢れた明るい表情を見ているうちに、そうした感慨を覚えた。と同時に、悲壮と云う言葉に何故か温かい懐かしさと胸苦しいほどの切なさを感じたのも偽らざる気持ちであった。

 

 

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