彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

憲法

今こそ憲法を論ずる時、思考停止に陥る“九条教”からの解脱を

今回の選挙結果を受けた感想を、JT生命誌研究館館長の中村桂子氏があるNPO法人の会報のコラムで、


「投票率が史上最低という形で終ったのは気になります。ここでしか意志を伝えることはできないのに。」

「その結果、安倍さんが思うままに憲法改正ができる数になってしまった恐さ」


と書いておられた。


前段の、戦後最低の投票率となった点はおっしゃる通りであるが、引っかかるのは後段の部分である。


中村桂子氏といえば生命科学分野で専門的業績は言うに及ばないが、難解な生命科学の世界を世の中にわかりやすく紹介、啓蒙された功績でも評価されている人物である。


そうしたいわゆる知識人と呼称される人たちは、どうしてこうも現行憲法について語る時に一瞬にして思考停止の状態になってしまうのか、不思議でしようがない。


日本の言論界(そんなインテリジェンスな世界がこの国にあったとしたら)やメディア、そして知識人と総称される中村先生のような聡明な方々が何故にこうも憲法改正を頭から否定し、改正は悪だと与件として語るのか。


わたしにはそこがいつも分らず、理解に苦しむところである。


特に、他の様々な分野のお話において非常に見識の高さを示される人物が、こと9条問題や憲法改正問題について話される時に、決まってその脳軟化症といおうか脳硬化症という方が適切だと思われる病状に陥るのか。


中村先生ももちろん色んなことは分ったうえで、小さなコラムにちょっと書かれた感想であるから、いちいち目くじら立てて云うんじゃないとお叱りを受けるのは覚悟の上で、少々、やはり申し上げるべきと思い、愚考するところを述べることとする。


今後、2017年の参議院議員選挙において議席の2/3以上を確保し、衆参両院で与党がその条件を満たすことになったとしても、中村先生がおっしゃるような「安倍さんが思うままに憲法改正ができる数になってしまった恐さ」になるわけではない。


国会は憲法改正案を国民に対し発議することができることになるだけで、その後の国民投票において国民の過半数の賛成を得て初めて憲法改正は成る。


憲法第96条は、現在、その発議に必要な2/3を1/2に改正したいという自民党内の動きで注目を浴びたが、この条項自体は日本国憲法のなかで第9章“改正”とわざわざ章立てがなされて規定されているものである。


次にその第9章を記載するが、第9章は第96条の1条(二項)のみで成り立っており、第2章の“戦争の放棄”が第9条の1条(二項)のみで成り立っていることと同じ扱いであるともいえる。


第九十六条

この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。

 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。」


申すまでもないことだが、憲法改正の是非は主権者たる国民(2007年5月成立の「憲法改正手続法(国民投票法)」で18歳以上の日本国民)が判断するのである。


飽くまでも主権者たる国民が最終的に裁可するのであって、少なくとも、「安倍さんが思うままに」などはできないことは確かなことである。


もし、「思うままに」とおっしゃることが本音であるとしたら、それは国民主権というそもそも憲法の前文ならびに第一条で規定されている文言を信用されておらぬということになるし、また、国会で決められたことを国民は鵜呑みで賛成する、日本国民は愚かにも自己判断能力を持たぬということを言っておられることとなる。


もちろんそんなことを聡明な中村先生が考えておられるわけではないし、おっしゃるわけはない。


だから、憲法問題については丁寧な議論、言い回しが必要となるのではないかと愚考するのである。


1946年11月3日に公布された日本国憲法は、その後68年間にわたり改正は行われていない。


戦後70年目となる来年、その間に国際社会の構造やわが国を巡る周辺環境は大きく変化した。さらに民主主義に対する国民の理解も深まり、最近では税金の使い道といった視点でも、国民主権という考え方は、われわれ国民の血肉となってきたとも感じられる。


そうした歴史認識、現状認識に立ったところで、現行憲法を素直に読むと、この憲法が作られた70年前とは大きく国際情勢、国内情勢、そしてわが国国民の民度が変わって来ている。色々と現実にそぐわぬ、これは国の存亡にかかわるという点が多々、出てきているなというふうに正直に思うのである。


ひとつ、例えば憲法前文にある「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と赤字の部分など、現下の竹島情勢、尖閣諸島情勢、小笠原諸島での珊瑚乱獲に見る領海侵犯の問題、北朝鮮の核ミサイル開発問題等を列挙するまでもなく、“平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して”、国民の生命と財産を守ることなど危なくてしようがないと考えるがどうであろうか。


第2章第9条の「戦争の放棄」も、もちろん第二次世界大戦を惹起した枢軸国の一員として大きな反省に立ってのものであることは否定しないが、前文の赤字部分の理想的な国際情勢認識といおうか願望を前提にしたものであることも否めぬのである。


現実にこの国は激変を重ねる国際情勢のなかで日米安保条約という軍事同盟を背景に戦後の経済発展を享受し、経済大国としての地位を確立してきた。


しかし、それは米国の核の傘があっての、日米地位協定という不平等で屈辱的な条件下での、平和の享受、経済繁栄の享受であったということも冷厳なる事実である。


真の独立国家とは何か。


この一点で戦後70年となる2015年、その目指すべき国家像を議論し、若者たちが誇りをもって生きていける国造りをなすために議論を尽くし、深めてゆくべき時機(とき)が来たと考える。


その詰まるところが憲法議論である。現行憲法を所与のものとする思考回路はもう棄てなければならぬ。硬直的な思索、いや、宗教ともいってよい“九条教”をまずは脇に置いて、誇りある真に自立した独立国家たるにはどういった課題を解決しなければならぬのか、核や国防軍など安全保障の問題を含めどういった国家としての構えが必要なのかを、真摯にかつ冷静に議論を進めてゆくべきである。


そう考えた時に、その“とば口”で、憲法改正は悪である、戦争国家への道だと決めつけて、憲法議論を脳内で封殺することだけは勘弁してほしいと思うのである。


安倍晋三が右寄りで怖いと考えるのはもちろん自由である。しかし、二一世紀の“複雑怪奇なる国際情勢”のなかで真の独立国家として生きてゆく道筋は何か、これからの誇りある日本人、若者たちのためにも、憲法議論に真正面から取り組んでいく覚悟が必要であり、その義務、責任がわれわれ大人にはあるのだと考える。


 


 



「なしくずし派遣」は限界、体系的な法律論議を=ソマリア沖海自護衛艦派遣5

ソマリア沖海自護衛艦派遣=体系的な法律論議を

「なしくずし派遣」はもう限界!

 

ソマリア沖の海賊対策を目的として海上自衛隊護衛艦「さざなみ」「さみだれ」(両艦乗員約400人)の2隻が呉基地を出航(314日)してから早、一ヶ月が過ぎた。

 

護衛艦2隻は日本時間の330日にソマリア沖・アデン湾に到達すると、その夜から早速、日本関係船舶の護衛任務を開始。この2週間の間ですでに、3日と14日の2回、海賊と思われる不審船排除を行なったが、幸い今のところ武器を使用する深刻な事態にはおよんでいない。

 

414日から衆議院本会議においてようやく「海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律案」(通称「海賊対処法」)の本格審議に入った。その同じ頃に2回目の不審船排除が現地で行なわれていたことになる。

 

現在の海自護衛艦の派遣および護衛活動は「自衛隊法」6章「自衛隊の行動」第82条定める「海上における警備行動」を根拠としている。同条には「防衛大臣は、海上における人命若しくは財産の保護又は治安の維持のため特別の必要がある場合には、内閣総理大臣の承認を得て、自衛隊の部隊に海上において必要な行動をとることを命ずることができる」とある。

 

つまり日本関係船舶の海賊からの護衛を行なう為、自国領海内ではなく、アフリカ東海岸まで遠路はるばる海上自衛隊の護衛艦を派遣した根拠が、上記の第82条の「89文字」のみなのである。

 

その第6章「自衛隊の行動」及び第82条「海上における警備行動」の文脈のなかに、海上自衛隊の行動海域を世界の七つの海どこでも構わないのだと読み取ることはきわめて難しい。ましてや「専守防衛」を国是としてきたわが国自衛隊が、世界の公海上でドンパチやることなど眼光紙背に徹し何度読み直してみても、とてもそんなことができるとは理解できない。

 

また武器の使用については「海上における警備行動」の場合は、「海上保安庁法」や「警察官職務執行法」に定められた規定が準用されている。

 

派遣された護衛艦には、艦対艦ミサイル(90SSM・射程150km)や683連装短魚雷発射管(搭載魚雷射程515km)そして54口径127mm単装速射砲(射程2.4km)といった重火器が装備されている。そうした「軍艦」の武器使用を、例えば「警察官職務執行法」第7条にいう武器使用、すなわち「警察官は、犯人の逮捕若しくは逃走の防止、自己若しくは他人に対する防護又は公務執行に対する抵抗の抑止のため必要であると認める相当な理由のある場合においては、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度において、武器を使用することができる。但し、刑法第36(正当防衛)若しくは同法第37(緊急避難)に該当する場合(以下略)」という、いわゆる犯人に対するピストルの使用を想定した法律に準拠するとしている。

 

何が起こるか分からぬ遠く離れた公海上で、ピストルの使用基準あるいは、正当防衛か緊急避難を根拠として、護衛艦は54口径127mm単装速射砲を撃つのだろうか。これはどう考えても無理がある。「牛刀」を備えている自衛隊の(海上警備に係る)武器使用規定が、鉛筆を削る「小刀」を使う使用注意書きのような「警察官職務執行法」に依拠する「自衛隊法」の建付けに、やはり無理があると言わざるを得ない。

 

さらに海上保安庁法第202項の一において「船舶(海賊船)の進行を停止させるために他に手段がないと信ずるに足りる相当な理由のあるときには、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度において、武器を使用することができる」場合も、「我が国の内水又は領海において現に(海賊行為を)行つていると認められることとなっている。

 

そうした出来合いの法律をつなぎ合わせた不具合、居心地の悪さみたいなものは、詰まるところ自衛隊は「軍隊」であるか否かというきわめて明々白々の事実から目を逸(そ)らしてきた政治の責任である。そして国を守るという至極当然の問題について「非武装中立」というお題目だけで善しとしてきた政治家、メディア、さらには国民をふくめたすべての怠慢である。

 

そして本来、自然権であるはずの「交戦権」すら認めないとしたわが国憲法(第92項)および理想主義に対する行過ぎた妄信が、国益が複雑に錯綜し、ぶつかり合う国際情勢のなかにおいて、ひとり赤子のような心理的、理念的無防備国家を作り出してきたと言える。

 

17日、政府はソマリア沖・アデン湾へのP3C哨戒機2機の派遣を決めた。同時に現地駐機場(隣国ジブチ国際空港)での警備が必要として陸上自衛隊の派遣も行なうと発表した。

 

「憲法」や「国防」、「自衛隊」の本質的議論を避けたままで、自衛隊と言う「軍隊」の海外派兵がなしくずしで、しかもあれよあれよという間に既成事実化していっている。

 

幾多の法律を駆使し、その細かな条文を錯綜させ、牽強付会(けんきょうふかい)の法的正当性を唱え、「思い込みの国際的要請」や議論と呼ぶにはあまりに浅薄な生煮えの「国益論」を根拠に、このソマリア沖の海賊対策の海自護衛艦派遣は行なわれた。

 

いま国会で審議されている「海賊対処法」は、現在の根拠法では対処できぬ「日本関係船舶」以外の「外国船舶(軍艦等外国政府保有のものは除く)」への警護も可能なものとなっている。そして武器使用規定も「停船命令に応じなければ船体射撃が可能」と大幅に緩和するなど、これまたズルズルと自衛隊による国外での初の武器使用への道を拓いて行こうとしている。

 

海賊対策として「海賊対処法」ひとつを採り上げれば、前述したように現実の海上警備を想定すると、実情に即した権限を自衛隊に与えねば安全な任務遂行は難しい、海賊対処法は現実的な法整備であると見える。

 

それだからこそ、非常に怖い話だと考えるのだ。対処法的な法律、それもミクロで見れば妥当に見える法律のツギハギだけで、国の骨格にかかる正面切った論議をしない。つまり「交戦権」「国防」「軍隊」「安全保障」といった核心の論議をせずして、「軍隊」の「国外」での運用が着々と既成事実として積み重ねられてゆく。そのことの怖さをわれわれは知らねばならないし、知っているはずである。

 

われわれの先達が先の大戦で本質的問題に正面から対峙(たいじ)せず、ひとつひとつは事情やむを得ぬとの「なしくずし的」既成事実の積み重ねにより結果として筆舌に尽くしがたい悲惨な体験をしたからである。

 

国民自身がこの国の「平和憲法」をもう一度、真摯に見つめ直し、交戦権まで認めぬ憲法を戴く覚悟は本当に出来ているのか。ミサイルを平気でぶっ放す「ならず者国家」がすぐ指呼の距離に存在する今、「平和憲法」の言う意味、われわれがそれを厳密な意味において遵守することは、理想のために愛する家族・恋人・親友たちの命を場合によっては無条件にならず者に差し出すことなのだという決死の覚悟を持ち、イザの場合にそう行動することなのだということを、本気でわが良心および国政の場において問うてみる時機が来たと考える。

 

そしてその覚悟に国民の合意を得るのであれば、その「必死の理想」、「理想に殉じる覚悟」を声高く国際社会に訴え、理想の旗を翩翻(へんぽん)と掲げ直せばよい。

また、逆に軍隊を国防のために保有するのであれば、実効的なシビリアン・コントロールのあり方、専守防衛や武力行使可能地域の定義等もっと徹底・厳密化した形での憲法改正議論をする必要がある。そして真の独立国として日米安全保障条約の見直しも併せて行わねばなるまい。

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久間という人物の国会議員以前の資質3

久間章生防衛大臣(当時)の「しょうがない」発言には、正直、驚いた。久間氏も長崎県出身の衆議院議員であるのだから、当然のことだろうが、長崎原爆記念資料館を拝観しているはずである。わたしも遠い昔、中学生の時代に資料館を見学した。原爆罹災の悲惨さは話には聞いていたが、実際に原爆のすさまじさを伝える当時の遺跡や遺留品の展示物を目にした時の、大きな衝撃は40数年を経た現在、未だに目蓋から離れることはない。

人の手のひらが高熱により溶け込んだビール瓶とおぼしき不形状のガラスの塊。真黒に焦げたなかに人影だけがくっきりと白く浮き出たコンクリートの壁等々・・・。


その展示物を思い起こしてみるだけで、原爆、核兵器はこの世の中からなくさねばならぬと心に誓うはずである。

世界で唯一の被爆国たる日本。この意味合いを最も理解しているはずの長崎出身の代議士である久間氏。その日本人が米国の原爆投下を是認したとも受け取れる発言は、許されるものではない。同氏の発言を不適切な発言と評する人物や国会議員もいたが、その人物たちも久間氏と五十歩百歩である。「不適切」とは「ぴったりあてはまらない」という意味であり、表現の仕方を変えれば原爆投下の大義もありうるともとれなくもないのである。

その意味でこうした反応を示した人たちも久間元防衛大臣と同罪とも言える。原爆の投下にどんな理屈をつけても大義などあるはずはないのである!

コンクリートの壁に己の姿のみを遺影として残して逝った人物が、そんな平和ボケした現在の日本人を許すことなどありえない。

久間前防衛大臣が発言した内容は、国会議員の資質を議論する以前の人間として最もプリミティブな次元の問題である。

日本人として間違っても口にしてはならぬ、いや口になど出せるはずのない「鬼哭啾啾(きこくしゅうしゅう)」の爛(ただ)れた歴史の瘢痕(はんこん)の部分なのである。今回の発言はそのカサブタをひっぱがす蛮行とも呼んでよい。

こうした人物が国民の代表として国会議事堂に席を有していたことが、一国民として恥ずかしさを超えて決して許せぬことであると感じた。



6カ国協議再開に覚えた屈辱感と揺れる気持ち3

6カ国協議再開に覚えた屈辱感と揺れる気持ち

 

 6カ国協議の再開日が16日から18日に延期になることが最終的に決まったと伝えるアナウンサーの口元を眺めながら、「何か変だな」と感じたが、理由は簡単だった。6カ国メンバーの一国であるはずの日本がその事前の調整協議にまったく関与していないことなど、協議メンバーの一員でありながら、どこか蚊帳の外に置かれているその中途半端なわが国のポジションに納得のいかぬ気持ちがあったのである。

 これは外交の世界においてわが国の力がいかにひ弱であるかをまざまざと象徴する事象でもある。当初、わが国では6カ国協議はどちらかと言えば拉致問題にウェートが置かれていたが、北朝鮮の核実験実施以降は関係国の関心は、かれら本来の関心事である核保有問題に一挙に収斂(しゅうれん)していった。これまで拉致問題を人道問題、国家犯罪と日本が声高に叫び、それをブッシュ・アメリカが後ろ盾となり後押しをしていたことも、北朝鮮を除く4カ国が協議テーマに挙げざるを得なかったことも偽らざる事実であろう。

しかし、11月の米中間選挙での共和党惨敗の結果を受けたブッシュ米大統領は、外交におけるイニシアチブを国内外で急速に弱める形となった。その影響がこの6カ国協議でも露わになってきた。そしてブッシュ・アメリカを強力な後ろ盾だと思っていたわが国も、ここへ来て一挙に北朝鮮に対する「対話と圧力」外交に多大な影響を被らざるを得ない状況とあいなった。つまり拉致問題については自力で解決の道を切り開いていく智恵と覚悟と行動が必要となってきた。しかし、これまでの対北朝鮮との二国間交渉のあり様を冷静に思い起こしてみれば明らかなように、わが国の自力外交という道は空虚な絵空事のように見えて心許ない。

 

この一週間ほど北京とワシントンから伝えられる協議再開に向けた動きを見るにつけ、この国は本当に自立した外交権をもった独立国家なのだろうかと真剣に憂うるしかない。自身の隣国が拉致という犯罪行為を重ね、国際社会の懸念を嘲笑うかのように核開発再開、続く核実験を実施したことにも自力で何ら効果的抗議すらできず、外交交渉でねじ込もうにも相手にだにされなかった。それではと6カ国協議という団体戦の一員に入れてもらっていたが、今度は北朝鮮から日本がこの協議に入る資格はない、権利もないと一方的に言われてしまう。その理由の一つが、「米国の属州であるから」という独立国家としては屈辱的なことまで言わしめている。本来、こうした発言に対しては、即座にその非礼を断じ、謝罪させるのが独立国家としての尊厳を保つ道であり、常道と考えるが、そうしたことを行なったとの報道にも接していない。

 

 日米安保条約による米国の核の傘下での平和。非核三原則という国際社会に誇れる平和理念。それはそれでよいのだが、こうした近隣の理屈の通らない暴力的な国家を相手にするときに、こうした屈辱的な扱い、言動を封じる術をわれわれは有していない。安保条約が実質的軍事同盟でありしかもそれが片務的であることは、国際社会ではやはり米国の属国と見られても仕方がないのだろうか。これまでのように自国防衛を米国の核抑止力という他力本願に頼ったままで独立国家と言えるのか、その揺れる気持ちと、平和憲法第9条の60年余の重みとその評価されるべき実績とを天秤にかけたとき、正直どちらを選ぶべきなのか、屈辱的な外交の実態を見せ付けられると本当に悩みは深まるばかりである。

 

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給食費滞納に見る義務教育無償とは?4

給食費滞納に見る義務教育無償とは?

 

読売新聞の10月から11月にかけた調査で全国の公立小中学校で2005年度に18億円を超える給食費が滞納されていたことが分かった。滞納の理由について「経済的に困窮して支払うゆとりのない家庭が増えている」との回答がある一方で、経済的に余裕がありながら「『払う必要がない』と言って保護者が支払いを拒否している」との回答も目立ったと伝えられた。この経済的余裕があるのに『払う必要がない』と支払を拒否する親たちの理屈の根底には、「義務教育だから」という一言があるように思える。その行為はおそらく憲法26条2項に言う「義務教育は,これを無償とする」に依拠する確信犯だと推察される。

 

しかし、この義務教育無償の解釈についてはすでに昭和39226日最高裁大法廷で「義務教育費負担請求事件判決」において「義務教育は、これを無償とする」とする具体的範囲が示されている。その無償の範囲を大法廷は次のように説明している。

「国が義務教育を提供するにつき有償としない(中略)同条項の無償とは授業料不徴収の意味と解するのが相当」であるとし、「それ故、憲法の義務教育は無償とするとの規定は、授業料のほかに、教科書、学用品その他教育に必要な一切の費用まで無償としなければならないことを定めたものと解することはできない」との判断が示されている。つまり授業料以外に当たる給食費は憲法でいう無償の範囲には含まれないと言っているのである。

 

一方で給食の経費負担については、「学校給食法」の第6条2項で具体的に定められている。「前項(施設及び設備に要する経費並びに学校給食の運営に要する経費のうち政令で定めるもの)に規定する経費以外の学校給食に要する経費は、学校給食を受ける児童又は生徒の(中略)保護者の負担とする」とある。つまり昼食代は親の負担であると定められているのである。

 

一部自治体はすでに最高裁の判例やこの学校給食法に準拠して、経済的余裕のある親たちに対し簡易裁判所への督促申立てや差し押さえ請求など法的措置に踏み出している。この国は法治国家である。自身の主義主張につき何を思い、主張し、どう行動しようが自由であるが、法治国家である限りその行為が法律を逸脱しているのであれば、その行為を規定する法律が適用されるのは当然である。経済的余裕がある一部の親たちが給食費を納めぬという違法行為をわれわれは法の名のもとに断じて許すべきではない。


夕張市破綻、国は憲法25条にどう対処する3

夕張市破綻、国は憲法25条にどう対処する

夕張市(後藤健二市長)は929日に地方財政促進特別措置法第22条に規定される準用再建制度に基づき、財政再建団体指定申請を市議会で了承、この1114日にA4版の「夕張市財政再建の基本的枠組み案について」がまとめられ、公表された。現在、この資料に基づき市内6地域で順次、住民説明会が開催されている。ここ数日、TVや新聞で住民が市に対して大きく反発し、不満を述べる映像が流され、またその状況が記事として報道されている。

 

住民に示された「財政再建の基本的枠組み案」に目を通してまず気づくのが、財政再建団体への転落という事実に対する夕張市の認識の甘さである。市議会での申請議決から1カ月半、いや申請を検討し始めた段階から計算すれば、再建案の具体化には相当な時間的余裕があったはずである。1頁目にある「今後、再建計画を具体化する中で、さらに歳出の削減等の見直しをすすめてまいります」と他人事のように述べる言葉に、破綻・倒産といった切迫感は伝わってこない。

 

しかも、その資料は冒頭に述べたようにA4でたった5枚の紙切れのみである。その内容は、歳出削減については、職員数を「同程度の団体(自治体)の2倍程度いる職員数を平成21年度当初までに平均以下とし、平成22年度当初までに同程度の市町村の最小の規模にします。人口の減少に沿って、さらに削減を進めます」。また給与水準等の引き下げは「職員の年収はh17からh19の間に最大で約4割減額となります」と、倒産した私企業であれば何を能天気なことを言っているのかといった微温的な言葉が並んでいる。その他項目でも、「物件費4割程度の削減」、各種団体等への「補助金削減は8割程度削減」といった細目の示されていない大雑把な数字がただ羅列されているだけである。

 その一方で、住民負担の増加については市民税(個人・均等割)3000円→3500円、市民税(所得割)6.0%→6.5%、固定資産税1.4%→1.45%、入湯税新設150円というふうにやけに詳細に記述されている。こうした内容の記述自体が、この資料が住民に負担増を強いるためだけに作成された説得資料であることを如実に語っているように思えてならない。この事態に至った原因と行政の責任の所在については、「不適正な財政運営により膨大な赤字を抱えたことを深く反省し」と冒頭に述べるに止まり、その責任の取り方を示す文言は具体的にどこにも記述されていない。その認識の甘さと責任の取り方については、行政サービスをどう継続していくのかという対応策とは別に、今後とも糾弾されていかねばならぬ重要な問題である。

 

ただ現実的には、このたった5頁の「財政再建の基本的枠組み案」で行政の責任は問われぬまま13千人の夕張市民が自治体の財政再建という茨の道に放り出されようとしている。一部報道ではこの再建案はまだ甘過ぎる、もっと削る経費部分や工夫の余地があるとの総務省の意向を伝えている。そして資料に述べられているように来年3月までに総務大臣の同意が得られれば、夕張市民は否も応もなく私企業でいう倒産にあたる自治体の再建団体の住民へと転落させられることになる。

もちろん自治体の倒産は、私企業のように債務と資産を相殺して残った債務を債権者が被る形で企業そのものを消滅させる清算という行為はあり得ない。自治体は憲法で定められた制度であり、現にそこに住民が住み、生活を営んでいるため自治体消滅という事態にならぬことは言うまでもない。

 

ここに破綻自治体の再建の難しさがある。こうした厳しい条件が多いなかで倒産実務そして再建を図っていかねばならぬ夕張市民の財政再建準用団体への道は当然のことだが、容易ではない。再建への第一歩として住民に対する行政サービスは大幅に低下する。小(現在7校)・中学校(同4校)を各々一校に統合したり、下水道使用料の増額など決まっているものだけでも市民生活は大きなダメージを受けることになる。さらに唯一の医療機関である夕張市立総合病院も道内の病院よりも約3百万円低い給与水準ということもあり、現在の医師数5名(最盛期11名)から実質2名体制となることが決まっている。医療体制の崩壊と言ってよく、命の保障さえままならぬ状況の中に市民はいやおうなく放り込まれることになる。

 

 日本国憲法はその25条で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と定めている。過大な観光事業への投資等夕張市の財政運営の失敗といった理由はともあれ、国家は「健康で文化的な最低限の生活」を夕張市民に保障するそもそもの義務がある。

 

 歳出削減を図り、住民にも重い負担を強い、標準財政規模わずか44億円の自治体が総額360億円にものぼる膨大な赤字をどう解消していくのか。5頁の資料からはその大勢感も具体的道筋もまったく見えてこない。そのなかで、憲法でいう「健康で文化的な最低限の生活」水準がどう保障されるのかは、当然のことながら詳らかにされていない。現在、夕張市の人口の3割強は70歳以上の高齢者である。つまり課税負担に弱いさらには納税力の弱い税年齢構成となっている。石炭産業の衰退、閉山、観光産業投資失敗という過程における再建団体への転落であり、夕張市の人口は産炭地として隆盛をきわめた最盛時の11万人から減少の一途にある。市民の経済的負担を増やせば、それを嫌気し転職可能な人々、特に若い人々の夕張市脱出が増える。その一方で、市内には脱出すらできぬ経済的弱者の人々が残されていき、その人々への課税額はさらに大きくなる。そのおぞましい負の連鎖は実際にもう始まっている。

 

 現行の準用再建制度では、認定自治体に起債が認められるほかは国から一時借入金に対する特別交付税措置などがあるだけで、抜本的な財政支援措置は講じられていない。夕張市の言うように20年間という長期にわたり市民に重い負担と劣悪な行政サービスのもとで約定弁済を続けていくと述べるしか策がないのが現実である。

「地方分権21世紀ビジョン懇談会」の報告を踏まえ、この2006年7月7日の閣議で「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2006」が承認され、「再建法制等も適切に見直す」とされた。今後、民間でいう破綻組織の存続を前提とした「会社更生法」や「民事再生法」のような法整備が地方自治体の破綻法制の議論のなかで深められていくことになろう。しかし、夕張市にその議論の決着を待つ時間的猶予は与えられていない。国も総務省も今回の夕張市のケースは、ただ、歳出削減を厳しくと「口先」指導を行うだけではなく、国として「健康で文化的な最低限の生活」水準とはいったい具体的に何を言うのか、どの行政サービスは残し、どのサービスは停止するのかなど具体的指針を示す必要があろう。そして、夕張市単独でその指針にある水準まで達することが不可能な場合は、まずは国の財源で最低限の生活を保障する義務があるはずである。

 

 本件については行政間のやりとりで時間を空費する余裕も夕張市に住む住民の不安をいたずらに引き伸ばす精神的余裕も残されていない。速やかに破綻法制の整備を行う努力を進めることは言うまでもないが、いま目前にある夕張市の財政再建には、行政には「大ナタ」を振るい、市民には「安心」という国民の国民たる権利を与え振る舞うべきである。



 

核保有議論封殺の愚3

 

北朝鮮の核保有問題で北東アジアが激震している。10月15日、中川昭一自民党政調会長がわが国の核兵器保有につき「議論は行なっていい」という認識を示し、18日、麻生太郎外相が「(核保有を含め)いろいろな議論もしておくというのは大事」と発言。これに野党、大手メディアは一斉に非難の声をあげた。

こうした中、国際原子力機関(IAEA)のエルバラダイ事務局長は16日、「非常に短期間に核兵器を製造する能力を持つ国が30カ国増加」との懸念を表明した。その中にオーストラリア、台湾といった国名が見える。日本は「非常に短期間のうちに」核保有国に包囲される可能性が高いということである。「非核三原則」という自縛により安全保障の議論すらできぬ平和ボケというより思考停止に陥っていると言わざるをえない。

ここで冷静に国際情勢を見渡して見ると、別の風景が見えるはずである。米・中が恐れるのは北朝鮮の核保有ではなく、日本の核を最も危惧しているのである。これまで被爆国として憲法第9条の下でマインドコントロールされてきた日本が、自らの核保有でのみ核抑止力は働くのだという自明の理に気づくことを恐れているのである。  

日本の対北朝鮮強硬路線に米・中が素早く応じ、行動した事実がそのことを如実に語る。独立国家として当然の国防行為につき具体策を議論することのどこに非難されるべき点があるのか。

ライス国務長官は米国の核の傘の実効性につき口を極めて強調した。しかしその口調が強ければ強いほど、自国が報復されることを容認してまで、日本のために他国へ核攻撃を行なうなど、国益から考えてどうしてもあり得ぬ。他国民のために自国の国民の生命と財産を犠牲にする国などありえぬからである。

 そろそろわが国が米国の核の傘というイリュージョンから覚醒するべきときがきたのだと、今度の北東アジア情勢の緊迫は語りかけているのではなかろうか。

 


光市母子殺害事件の最高裁自判回避に不満4

「光市母子殺害事件の最高裁自判回避に不満」

 

 99年に光市で起きた母子殺害事件に、最高裁第三小法廷(浜田邦夫裁判長)は20日、無期懲役とした二審・広島高裁判決を破棄し、審理を差し戻す判決を下した。浜田裁判長(退官)と上田豊三、藤田宙靖、堀籠幸男の各裁判官の4人全員一致による結論であったということだ。

 

 法曹界では現在、裁判の迅速化・裁判員制度の導入(h21.5までに施行)など平成11年7月に内閣に「司法制度改革審議会」が設置されて以降、司法制度改革は「法制面の整備」においては着々と進められていると言ってよい。

 

95年に起きた凶悪なオームサリン事件において、首謀者である松本智津夫被告の一審死刑判決(04.2)まで9年もの歳月を費やし、あまりにも悠長な裁判審議に世論の批判が集中した。そうした、国民の苛立ちが改革の後押しをしたといってよい。もちろん、冤罪(えんざい)を避けるために慎重な証拠固めや証人からの証言の聴取などやるべきことをやるのは当然であるが、それこそ限度、世間の常識というものがあってもよいのではなかろうか。

 

 そのバランス感覚からいって、無差別テロ事件であることがはっきりしているオーム裁判に、何故、これほどの公判回数が必要なのか、審議時間の長さは異様であり、無意味である。

 

司法にズブの素人であるわたしが、あまり無責任なことを言ってはいけないが、「世間の常識」というものは存外、庶民の公正なバランス感覚によって構成されていると思う。国政選挙での与党圧勝の次は、野党が議席数を回復するといった意図せざる平衡感覚が今、現在の国民には存在しているように思われる。

 

 今回、光市の、当時18歳1ヶ月であった少年による強姦致死という痛ましい事件において、最高裁判決は、やはり、世間の常識からいって「そこまで(元少年の責任は誠に重大で、特に酌むべき事情がない限り死刑を選択するほかない)言うのなら、何故、審理差し戻しなのか、何故、最高裁が自判(じはん)しないのか」と、首を捻らざるを得ない。TVなどでは、一応、高裁で「更生の可能性についての審議を深める必要」ということだといった解説がなされているが、最高裁は「(二審判決の)量刑(無期懲役)は甚だしく不当で、破棄しなければ著しく正義に反する」とまで言い切ったのである。世間の常識であれば、自判で「死刑」の判決が下されるのが自然であると思える。

もう一方で鋭意、進められている「裁判の迅速化」の観点から、それは当然なされねばならぬことだと考える。最高裁自らがその範を垂れずして、何が司法改革か。審理差し戻しであれば、逆に「量刑(無期懲役)は甚だしく不当で、破棄しなければ著しく正義に反する」とまで言い切れない何かが、それまでの公判のなかに残されている、審議不充分であると判断したのだと、世間のわたしたちは考えてしまうのだが、実際はどうなのであろうか。

 

 今回の最高裁の自判回避には、最高裁は「庶民の感情に媚を売り、だが、審議はどうも不充分である、もう少し進めなさい。自ら手は下したくない」と、その姿勢は、どう考えても責任回避としか見えてこない。法の番人の頂点にある最高裁自らがそうしたポピュリズムに陥っているとしたら・・・、この国の将来ははなはだしく暗い。本村洋氏の「ここまで7年。これから高裁へ戻され、また上告して最高裁へ。どれだけの歳月が流れるのか」「無期懲役を最高裁が妥当と思わないのなら、差し戻しでなく自ら死刑判決を下してほしかった」との述懐の言葉をわれわれは極めて重く受け止めねばならぬ。大きな不満の残る判決であった。

 

司法改革―市民のための司法をめざして

艦載機移転に関わる岩国市住民投票の怪3

「艦載機移転に関わる岩国市住民投票の怪」

 

 12日に山口県岩国市で米空母艦載機の岩国基地移転計画に関し、民意を問う住民投票が行なわれた。投票率は58.7%で投票数の87.4%が反対票(投票資格者数の51.3%に当たる)であった。この開票結果を受け井原岩国市長は「重く受け止め移転計画の撤回を求める」「取り引きして受入れるようなことはしない。地元の声は国にとって大切なものだ。厚木の問題は国全体で負担軽減を考えるべきだ」と述べたと云う。

 

 基地問題は振り返れば昭和30年の砂川基地(現立川市)闘争や現在、紛糾している沖縄の普天間基地の問題まで常に地元との衝突が繰り返されてきている。基地問題には地元と国家の利害に常に齟齬があるところにその問題の根の深さがある。しかし基地問題はイコール国家の安全保障の問題であって、ここで国家の利益と地域の利益(被害)の問題をごっちゃにして議論することに抑々の不合理と無理が存在する。

 

 国家は国民の生命と財産を守る使命を負う。その重要な使命の一つが独立国家たりうるための安全保障である。現在日米安全保障条約によりわれわれの平和と安寧が守られているが、この保障条約を破棄した場合は当然自国の安全は国民自らで守ることになる。米軍が撤退したその時には、自衛隊は今よりも多くの兵力と戦備を必要とすることになろう。その場合も現在の国際環境を前提に考えれば、沖縄や岩国、三沢、横須賀と云った現在ある米軍基地の地勢面における軍事的価値は変わらないはずである。即ち、米軍が一兵残さず撤退したとしても、その後に自衛隊がこの国の防衛のためにその基地に進駐してくることは容易に想像される。

 

 基地問題は米軍と地元の関係から、自衛隊との関係に置き換えられるだけである。本当に基地周辺の耳をつんざく騒音や治安の悪さは地元に生活する人たちにしか分からぬ苦痛と不安であろう。たまに上空にヘリコプターが飛来するだけで、その騒音の凄まじさは驚くばかりである。基地住民の永年の忍耐には頭が下がり、その心痛に対しては言葉がないのも正直なところである。

 

 しかし、やはり私は再度、云わねばならない。「公と私」「国家と個人」の関係について。憲法では国民の自由と権利が保障され、また個人を尊重することも国政に課された最大の責務であることが高々と謳われている。但し、それはその第1213条にあるように飽くまでも「公共の福祉に反しない限り」において、それが保障されることをわれわれは忘れてはならぬし、それを肝に銘記すべきだと思うのである。

 

 十三日午前の記者会見で阿倍官房長官が住民投票の結果を受けて、「基本的に日米間の交渉が整えばそれが最終結論である。地元にしっかり説明しないといけない」と表明したことは、国の安全保障に責任を持つ内閣として当然で妥当なコメントであったと考える。十分丁寧な説明は必要であり、出来得る限り地元の負担を減らす努力は惜しむべきでない。

 

 だが、やはり国を守ると云うことはそう云うことなのだと考える。

 

井原勝介岩国市長が貴重な税金をかけて移転問題の賛否を住民投票において問うた。これは自治体の長として極めて見識に欠ける行為であり、今後の結果に対して負う責任は重いと云わざるをえない。「公と私」のバランスを市民に説明し、大きな視野で移転問題の持つ意義を本来、市長並びに議会は説明すべきであり、決して住民投票と云った似非民主主義にその解決の道を求めるべきではなかった。そして、そうしたことに貴重な税金を投じるべきではなかったと思うのである。

 

(参考:憲法)

12条【自由・権利の保持の責任とその濫用の禁止】

この憲法が国民に保障する自由及び権利は,国民の不断の努力によって,これを保持しなければならない。又,国民は,これを濫用してはならないのであって,常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 

13条【個人の尊重と公共の福祉】

すべて国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公共の福祉に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする。

 

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