彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

日本の古代史

日本書紀をたどり明日香を歩く―― 2=仏教公伝をめぐる権力闘争の場面で登場する海柘榴市(つばいち)6/6

海柘榴市はシルクロードの起点であると先に語った。日本書紀に仏教公伝の百済使節が海柘榴市に上陸したとの記述は見えない。


海柘榴市歴史公園と三輪山
三輪山麓、この辺りが海柘榴市・河原に海柘榴市歴史公園

しかし、隋の裴世清が遣隋使の小野妹子らと共に大和川を水行上陸したのが海柘榴市であったことは、後の推古紀16年8月条に記されている。海外の賓客が難波津から大和川を遡上し、この海柘榴市の河港に上陸し、明日香の京に陸行するというのが、その当時のメインルートであったことは確かである。


故に、それを遡ること五十有余年前にも、百済からの使節が海柘榴市に来着したことは間違いなかろうと考える。現在、大和川に架かる馬井出橋の脇、堤の上に “仏教傳来之碑”と彫り抜かれた大きな石碑が建っているのも頷けるところである。


仏教伝来地石碑
大和川岸に立つ仏教伝来の碑

仏教公伝については、欽明(キンメイ)13年(西暦552)10月の条に、「冬十月に、百済の聖明王、更の名は聖王。西部姫氏達率怒唎至契(セイホウキシダチソチルヌシチケイ)等を遣して、釈迦仏の金銅像一躯・幡蓋若干・経論若干巻を献る・・・」と伝えている。


そして、「仏法が諸法のうち最も優れたもので、三韓も皆、教えに従い、尊敬しないものはない」との百済王の上表文を読んだ欽明天皇は、「西蕃(セイバン)の献れる仏の相貌、端厳にして全く未だ曾(カツ)て看(ミ)ず。礼(ウヤマ)ふべきや以不(イナ)や」と、仏教受容の是非を群臣に問うた。


蘇我大臣稲目は「西蕃の諸国、一に皆礼(ウヤマ)ふ。豊秋日本(トヨアキヅヤマト)、豈(アニ)独り背かむや」と、仏教の受容を促した。


一方、物部大連尾輿(オコシ)と中臣連鎌子は、「我が国家の天下に王とましますは、恒(ツネ)に天地社稷(アメツチクニイエ)の百八十神(モモアマリヤソカミ)を以ちて、春夏秋冬、祭拝りたまふことを事(ワザ)とす。今方(イマ)し、改めて蕃神を拝(ヲロガ)みたまはば、恐るらくは国神(クニツカミ)の怒を致したまはむ」と、神道祭祀の長たる天皇が他宗教の神を祭拝すると国ツ神の怒りを買うと猛反対。


そこで、天皇は崇仏派の蘇我稲目に仏像を預け、試みに礼拝させることとした。稲目は自邸のある小墾田(オハリダ)にまず仏像を仮置きし、至近の向原(ムクハラ)の家を浄捨して寺とすると、そこへ移転安置し、仏道の修行に勤めた。


向原寺・本堂
向原寺(こうげんじ)・本堂

ところが、その後、折悪しく全土に疫病が蔓延、病死者が増嵩。この災禍につけ込んだ排仏派の物部尾輿・中臣鎌子は、これは国神の祟りであり、早々に仏像を棄てよと上奏、欽明天皇は「奏(マヲ)す依(マニマ)に」と、それを許す。


そこで、尾輿らは仏像を難波の堀江に棄てさせ、伽藍に火をつけ灰燼させた。この難波の堀江は仁徳天皇11年10月条に、「(難波高津)宮の北の郊原(ノハラ)を掘り、南の水を引きて西の海に入る。因りて其の水を号(ナヅ)けて堀江と曰ふ」とあるように、仁徳紀に治水工事として築造開鑿(カイサク)させた堤や運河のひとつである。


ただ、これには異説があり、現在の向原寺(コウゲンジ)に“難波池”という小さな池がある。この池が紀にある“難波の堀江”であるとの伝承が残されており、江戸時代にここから金銅観音菩薩立像の頭部が発見されている。明日香を遠く離れた難波の津までわざわざ仏像を棄てに行くのは不自然との見解である。


向原寺・難波の堀江
向原寺にある難波池

どちらにせよ、仏法の受入についてその象徴である仏像の棄却という行為は宗教戦争というよりも、これまで国家祭祀を掌って来た物部氏や中臣氏といった古豪族と擡頭著しい新興豪族である蘇我氏との姿を変えた権力抗争であったというのが事の本質である。


そして、神道派の攻勢のなかにあって、敏達天皇13年2月条にあるように、「蘇我馬子は百済から二体の仏像を請け邸宅内に造った仏殿に安置。そして、高麗の恵弁を師とし、三名の女を得度させ尼とし、これらに大規模な法会を催させる」など、蘇我氏は仏教の庇護者としての地位を徐々に固めてゆく。


そんな折、容仏派の頭目であった馬子が病に伏し、国内に再び疫病が起こり多くの民が死ぬことになる。


ここに排仏派の物部守屋(尾輿の子)大連・中臣勝海(鎌子の後継者か?)が、

「考天皇(チチノミカド=欽明)より陛下に及(イタ)るまで、疫病流行(ハヤ)りて、国民絶ゆべし。豈専ら蘇我臣が仏法を興し行ふに由れるに非ずや」と、上奏(敏達紀14年3月条=西暦585年)。


天皇の許しを得た守屋は早速に、仏像や寺の伽藍を焼き、焼け残った仏像は難波の堀江へ棄て去った。このことは仏教公伝の欽明天皇の時代に物部尾輿・中臣鎌子が同一の行為を行った記述があるが、ひとつの事件を重複して記載した誤謬ではなく、このような廃仏毀釈の迫害、弾圧が度々あったと理解すべきであろうと考える。


そして、病床に伏す馬子や仏法を修める法侶を責め尼を引っ立て、弾圧するのである。その見せしめの舞台として登場するのが、海柘榴市(ツバイチ)である。


即ち、「有司(ツカサ=役人)、便(スナハ)ち尼等の三衣(サムエ)を奪ひ禁錮(カラメトラ)へて、海柘榴市の亭(ウマヤタチ=駅舎)に楚撻(ムチウ)ちき」と、排仏の公開処刑の場として海柘榴市の馬屋館が使用されている。


それは、中世における政治犯の処刑の場としての六条河原そのものであり、川原は小屋掛け興行なども盛んに行なわれ人の往来が多いゆえに、そうした舞台にも使われたという意味において、海柘榴市が当時、殷賑を極めていたという証でもある。


それから時代は下って、1300年後の明治維新、国家運営の道具立てに宗教を利用しようとする一派により、まったく同じ蛮行、すなわち、廃仏毀釈という愚かな行為はなされることとなる。


まさに歴史は繰り返すの銘言通りの事象が起こっているのである。その一場面にこの海柘榴市も登場するという話であった。




日本書紀をたどり明日香を歩く―― 2=王権交替のさらに真相に迫る海柘榴市(つばいち)5/6

雄略に次ぐ清寧天皇の二代の間、政権中枢に据わっていたのは大伴室屋大連や平群真鳥大臣である。


紀に清寧天皇即位に両者が各々、大連・大臣に叙された際に、「並びに故(もと)の如し」とある。その前からこの体制であったと記されており、先代の雄略天皇の即位と同時に平群真鳥は大臣、大伴室屋、物部目(め)は大連に叙任せられたと紀にある。


そして、この三重臣のうち武烈天皇の時代まで残ったのが平群真鳥大臣である。


物部目は清寧天皇の即位の立役者としては登場せず、その後の皇位継承の過程のなかにも名を出すことなく歴史の世界から姿を消し去っている。


また、清寧擁立の立役者である大伴室屋も雄略23年10月4日の条(清寧紀即位前記)、「大伴室屋大連、使主・連等を率ゐて、璽(みしるし)を皇太子(清寧)に奉る」とあり、清寧紀2年2月の条に、「天皇、子無きことを恨み、乃ち大伴室屋大連を諸国に遣して、白髪部(しらかべの)舎人・白髪部膳夫(かしはで)・白髪部靫負(ゆけひ)を置きたまふ」とある後は、一切、紀の世界から姿を掻き消している。


その結果、武烈紀には大伴氏が室屋の孫である金村が連として一族の長として登場し、平群氏滅亡の大功により大連に昇進することとなる。


また、物部氏はまさに平群氏と武烈との間で娘を取り合いされる麁鹿火(あらかい)が大連として登場しているが、物部目の直系の血筋ではなく、雄略紀に重用された目の本流の方は凋落したものと推測される。


即ち、雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈の五朝に亙って常に政権中枢に据わっていたのが平群真鳥ということになる。


そして、清寧天皇擁立に際し、平群真鳥は大臣でありながら、一切名を出していないことも奇妙である。その後も、朝廷内で大臣として権力を維持しているのにである。


さらに不思議なのが、清寧天皇と武烈天皇の間の二代の天皇、即ち、顕宗・仁賢紀において、大伴、物部はおろか平群の一文字すら出てこぬことである。


清寧天皇が皇統の血筋を引く二人(億計・弘計)が発見され、都へ迎えるときに、「『朕、子無し。以ちて嗣(ひつぎ)となすべし』とのたまひ、大臣・大連と策(はかりこと)を禁中に定めたまふ。」など、一般名詞の大連・大臣や百官(ももつかさ)公卿・百寮(ももつかさ)といった表現で臣下との遣り取りの様子が描かれる。


具体的な重臣の姓は一切、登場しないのである。その為、この二代の記述は雄略天皇の追捕からの二王子の逃亡、発見の様子は極めて具体的であるものの、即位からその治世、朝廷内の描写は平板でおそろしく抽象的な記述にとどまっている。


そして、武烈紀に入り、「(仁賢紀)11年8月に、億計天皇崩(かむあが)りましぬ。大臣平群真鳥臣、専ら国政を擅(ほしきまま)にして、日本(やまと)に王たらむと欲(おも)ひ、陽(いつは)りて太子(武烈)の為に宮を営(つく)り、了(つくりをは)りて即ち自ら居(す)む」と、具体的な重臣名でその専横ぶりが描写される。


この記述の極端な落差、顕宗・仁賢二代の沈黙は一体、何を意味するのか。


その治世・朝廷人事の具体性の欠如は、やはり、この二代の天皇の即位はなかった、履中天皇の孫であるこの両王子の逃亡、それから皇統を引き継ぐ者としての入京の事実はあったとしても、仁徳天皇の皇統が清寧で一旦、途絶え、武烈天皇で復活するまでは、皇統を引き継いだ天皇という存在はなかったと考えるのが、紀を精読しての私なりの結論である。


つまり、顕宗・仁賢の二代の14年間は天皇の椅子は空位であり、平群真鳥が政敵である大伴、物部氏を排斥し、実質的な王として君臨していたとするのが妥当な推論であると思う。


その冷や飯を喰らっていた大伴・物部氏が平群王朝を転覆させるには、皇位の正統性である仁徳天皇からの血筋が必要であったと見るべきであろう。


然るに、雄略天皇が一族を根こそぎ暗殺するといったなか、子が無い清寧帝の後に続く王家の血筋は本当に絶えたかのように見えたのであろう。


だから、かつて雄略が謀殺した政敵(市辺押磐皇子)の子孫であろうが、必死で仁徳の血筋の者を探し出し、億計王子(仁賢)の子(武烈)を傀儡として擁立し、平群真鳥と一発勝負に出たというのが、この武烈=暴君の存在意義であったのだろう考える。


空位の14年間に皇統の連続性を接ぎ穂し、その裏に実在した平群王朝の滅亡、皇統復活劇、そのオペラのような舞台に海柘榴市(つばいち)という当時、誰もが知る歌垣の場がセットされたのである。


そして、王朝転覆ストーリーの舞台廻し役、実は主役なのだが、その後の大和王朝を支える重臣、大伴金村・物部麁鹿火(あらかい)、その美しき媛を登場させたというのが、正史たる日本書紀の編者・舎人親王が脚色を巧みにし、老練な脚本家としての冴えわたった腕の見せ所だったのだろうと考える。



 


 



日本書紀をたどり明日香を歩く―― 2=脚色された皇統の正統性と連続性・海柘榴市(つばいち)を逸れて4/6

海柘榴市という本来、甘い恋を語らう歌垣の舞台を使って、陰謀渦巻く王朝交替という大政変を、さらりと恋敵同士の争い事にすり替えた日本書紀の編者・舎人親王(天武天皇の皇子)の狙いは何であったのか。


父たる天武の血筋・皇統が絶えなんとすることを見越しての預言をこの話に含ませたかったのか、この話に隠された舎人親王の符牒とは何か、海柘榴市の寓話に埋め込まれた謎とは一体何なのか、興味は尽きぬところである。


そこで、ちょっと海柘榴市より話は逸れてしまうが、この王権交替の不可思議な謎にさらに迫ってみたいと思う。


前稿で語った平群真鳥による王権簒奪がなぜ起こったかと日本書紀を精読すると、皇位争いの過程で兄弟・従兄らを次々と謀殺していった雄略天皇、その時代から清寧天皇の即位に至る間の吉備一族の一連の反乱劇として記述された真相は何か。


そして、武烈天皇の先代、仁賢天皇さらにその先代の顕宗天皇が子のない清寧天皇(雄略天皇の皇子)から皇位を継承した奇妙な経緯などを具に読み込むと、凄まじい王権争奪抗争の裏に暗躍する有力豪族の、その果てには他の王朝の興亡すらも見えて来る。


つまり、吉備一族は大和にそもそも服属などしておらず、それぞれの地方の王朝として存在していたのではないか、また各々の天皇擁立に奔走した豪族は誰か、武烈天皇の前二代の天皇は実際に即位を果たしていたのか否かといった皇統の正統性や連続性といった王権の根幹部分に疑義が生じてくるのである。


武烈の前の天皇とは、武烈の父にあたる先代の第24代・仁賢天皇と仁賢天皇の弟、即ち、叔父にあたる先々代の第23代・顕宗(けんぞう)天皇である。


顕宗(弟・億計(オケ)王子)天皇と仁賢(兄・弘計(ヲケ)王子)天皇は共に市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の子である。市辺押磐皇子は父、第17代・履中天皇(仁徳天皇の長子)の長子であり、第20代・安康、第21代雄略天皇(共に第19代・允恭天皇の皇子)の従兄に当たるが、仁徳天皇の皇統でいえば、嫡流いわば直系の血筋にあたる。


億計・弘計王子の父・市辺押磐皇子は雄略と皇位継承上、対立関係にあった。その市辺押磐皇子に安康天皇が生前、皇位を譲る意向を示していたため、天皇崩御の僅か二ヶ月後の安康3年10月、雄略(允恭天皇の皇子)は策を弄し、同皇子を狩猟に誘い出し、猪と間違えたとして射殺し、その5か月後に即位を果たした。


市辺皇子の子、億計・弘計王子兄弟は、雄略天皇から次に命を狙われることは必至であり、忠臣の帳内日下部連使主(とねりのくさかべのむらじのおみ)とその子、吾田彦に守られ、まず丹波国の余佐郡に身を隠すことになった。


それでも、なお、雄略天皇の追捕を惧れた帳内使主は自らの名前まで変えて、播磨国の縮見山に潜伏するも逃れきれぬと思い、そこで一人縊死する。


使主と別行動をとっていた億計・弘計兄弟は、使主の子の吾田彦とともに今度は播磨国赤石郡へと逃れ、自分たちも丹波小子(たにはのわらは)と変名し、縮見屯倉首(ししみのみやけのおびと)の奉公人に身を落とし潜伏することとなった。


雄略の崩御一年前に清寧は皇太子(ひつぎのみこ)となるが、天皇の死後、吉備上道田狭の元妻であった稚媛と雄略の間にできた星川皇子が母・稚媛と組んで、雄略の後を襲おうと陰謀を巡らす。


吉備王朝を衰亡させた雄略天皇の遺詔(吉備上道臣の血を引く星川皇子は必ず王位を狙う。その時は清寧を守れ)により大伴室屋大連と東漢掬直(やまとのあやのつかのあたい)が稚媛と星川皇子一派を誅殺、さらに反乱に加担しようとした外戚・吉備上道臣の所領を一部収奪した。


真義定かならぬが、雄略天皇の遺詔という大義をもって、吉備王朝の影響力を大和王朝から一掃した大伴室屋大連と東漢掬直という有力豪族によって、ようやく雄略の皇子・清寧天皇に皇位を継承させることになる。


そうして皇統の正統性・連続性を整えたにもかかわらず、不思議なことに清寧帝に皇后が立てられることはなく、したがって皇子もなく、その皇統は絶える事態となっている。


真に以て不可思議な風景の記述なのである。



 



日本書紀をたどり明日香を歩く―― 2=王権交替の舞台に使われた海柘榴市(つばいち)3/6

あまりにも牧歌的な歌垣の情景のなかにあって、海柘榴市(つばいち)の日本書紀の初出は、仁徳天皇からの皇統の最後となった第25代武烈天皇(在位499−506)が太子(ひつぎのみこ)であった時代、仁賢天皇11年8月の条である。


有力豪族たる物部麁鹿火(あらかい)大連の娘・影媛を間に挟んで、時の権力者同士が恋の鞘当てを展開する場面である。


任賢天皇(在位488−498)が崩御し、時の大臣・平群真鳥(へぐりのまとり)臣は、「専ら国政をほしいままにして、日本に王たらむと欲(おも)ひ、陽(いつは)りて太子の為に宮を営(つく)り、了(つくりおわ)りて自ら居む。触事(ことごと)に驕慢にして、都(かつ)て臣節無し」といった王権を手中にしたかのような専横を恣(ほしいまま)にしていた。


平群真鳥は木莵(つく)宿禰(武内宿禰の子・仁徳天皇と同日の生まれ=仁徳紀元年正月の条)の子(雄略紀即位前紀11月条)である。重臣・武内宿禰の子であった木莵宿禰は第15代・応神天皇の御世において重用され、平群の祖とされる。


その平群真鳥の嫡子である鮪(しび)と、当時まだ太子であった武烈天皇との間で応酬された歌垣の舞台が海柘榴市であった。


本来、歌垣は男女で遣り取りされるものだが、ここでは恋敵同士が想い人の影媛を間に置いて相手を揶揄し合う歌合戦となっている。その様子が日本書紀には次のように詳細に描かれている。


太子が使者を遣わし媛に逢いたいと告げさせると、既に鮪と情を交わしていた影媛ではあるが無碍に断ることもできず、「妾(やっこ)、望はくは海柘榴市(つばきち=小学館・日本書紀のルビ)の巷(ちまた)に待ち奉らむ」と、海柘榴市で会いたいと応じた。

海柘榴市の馬井出橋と三輪山
大和川に架かる馬井出橋と三輪山山麓・海柘榴市がこの辺り

そこで、太子は馬に乗ってゆこうと平群大臣の管理する官馬(つかさうま)を出すように舎人に命じさせたが、「官馬は誰が為に飼養へや。命の随(まにま)に」と返答するものの、その態度は不埒千万で一向に命に服しない。


「太子、恨を懐(うだ)き、忍びて顔に発(いだ)したまはず」と、太子は平群(へぐり)一族の人を食った仕打ちにも面を伏せ、じっと忍従したとある。


その鬱屈した挙動から、後に、「女を躶形(ひたはだか)にして、平板の上に坐(す)ゑ、馬を牽(ひ)きて前に就(いた)して遊牝(つるび=交尾)せしむ」(武烈紀8年3月条)といった狂気を描かれた暴虐の大君を思わせる片鱗は一切窺うことはできない。


そんな太子がいよいよ海柘榴市で影媛と出逢い、その袖をつかみ、ぶらぶら逍遥しながら誘いをかける。そこに平群鮪(しび)が登場し、二人の仲へ割って入り、恋敵は群集の見守るなかで向かい合う形となった。


そして、まず、太子が鮪に向かって歌いかけるのである。

“潮瀬の 波折(なをり)を見れば 泳(あそ)びくる 鮪(しび)が鰭手(はたで)に 妻立てり見ゆ”

(潮の流れの早い瀬の幾重にも折り重なる波を見ると、泳いでいる鮪の傍にわたしと契った妻が立っているのが見える)


それに対し、臣下であるはずの鮪は挑発するかのように次の歌を返す。

“臣の子の 八重や韓垣(からかき) ゆるせとや御子”

(臣の子の家の幾重にも囲んだ韓垣の内に影媛を厳重に囲っているのだが、それを緩めて影媛をどうぞと差し出せというのですか、太子よ)


そこからさらに問答歌の応酬が続いたのちに、太子が影媛に次の歌を贈った。

“琴頭(ことがみ)に 来居(きゐ)る影媛 玉ならば 我が欲(ほ)る玉の 鰒(あわび)白玉”

(琴を奏でるとその音に引かれて神が影となって寄り来るという。その影媛は玉に喩えるならわたしの欲しい玉である、あの鮑の真珠のような)


それに対し、影媛に代わり鮪が答歌したのが次の歌。

“大君の 御帯の倭文織(しつはた) 結び垂れ 誰やし人も 相思はなくに”

(大君の御帯の倭文織(しずおり)の布が結び垂れていますが、その誰にも、わたしは思いを寄せておりません。思うのは鮪臣のみです)


ここにおいて鮪と影媛の相思相愛を知らされた武烈は、海柘榴市の満座のなかで赤恥をかかされた格好となる。


辱めを受け、怒りに震えた武烈はその夜、大伴金村連を召し、即座に鮪の暗殺を命じ、鮪は乃楽(なら)山で誅殺された。


鮪の死を知った影媛が泪して詠った歌が次の通りである。

“青丹よし 乃楽(なら)のはさまに ししじもの 水漬く辺隠(へごも)り 水灌(みなそそく)く 鮪の若子を 漁(あさ)り出(づ)な猪(ゐ)の子”

(乃楽山の谷間で、鹿や猪のように水浸しの片隅にこもっている水灌(みなそそ)く鮪の若様を、漁(あさ)り出さないでおくれよ、猪よ)


この絶句のよって武烈太子は完膚なきまでに打ちのめされた格好である。これほどの恥辱はそうそうないが、治天の君が太子の時代とは云え、ここまで貶められて描かれているところもいかにも奇妙ではある。


その後、鮪の父で時の一番の権力者であった真鳥も親族を含め悉く、大伴金村によって討ち果たされることとなった。


平群真鳥をはじめ一族を抹殺したのちの下りが仁賢11年12月の条である。武烈天皇即位に至る経緯を述べているのだが、それが何とも謎めいた記述となっているのである。


「十二月に、大伴金村連、賊を平定(たひら)ぐること訖(をは)りて、政を太子に反(かへ)したてまつる。・・・『今し億計(おけ=仁賢)天皇の子は、唯陛下(きみ)のみ有(ま)します。・・・日本には必ず主(きみ)有します。日本に主まさむには、陛下に非ずして誰ぞ・・・』とまをす」


一臣下たる大伴金村が“政を太子に反す”と言うこと自体甚だ奇妙であるが、それでは一体、その時点で誰が王権を有していたという認識であったのか。


また、「日本に主まさむには、陛下に非ずして誰ぞ」と、“日本に天皇がいないのはまずい、天皇になるのはあなたを措いて他にない”と、大伴金村は言っている。

普通に考えれば、武烈帝は仁賢天皇が崩御した仁賢11年8月にすんなり皇位継承しておかしくなかった。


何となれば、武烈は皇太子(ひつぎのみこ)に仁賢7年、崩御の4年前になっていたのだから、崩御後、即座に即位しても手続き上、誰も異議を唱えることはなかったはずである。


しかるに紀の記述は、武烈即位前紀としてたった4ヶ月の間の事柄として海柘榴市を舞台とする平群一族の専横ぶりを殊更に描いているのである。


つまり、平群真鳥が武烈(当時、太子)の為と称し宮殿を造営し、そこに自らが住まうなどその驕慢さや海柘榴市の平群鮪(しび)との遣り取りに至る一連の描写から、その時の王権は平群真鳥に移っていたと見るしかない。


そして、武烈天皇は大伴金村の強力な支援を受け、平群王朝を倒し、即位した。


武烈王朝の立役者となった大伴金村はその勲功により大連へと昇進することになる。その後、金村は守屋の孫で武烈から欽明五朝にわたり大連を拝命するが、とくに武烈天皇で絶えることとなった仁徳天皇(応神天皇第四皇子)の皇統に替わり、応神天皇五世の孫である継体天皇即位を実現させた大功労者として有名である。その金村に同調し、継体天皇即位を後押ししたのが、大連となっていた影媛の父、物部麁鹿火(あらかい)であった。







日本書紀をたどり明日香を歩く―― 2=歌垣の舞台、いわば公設の合コン会場でもあった海柘榴市(つばいち・つばきち)2/6

飛鳥時代の政治・文化の中心であった三輪山麓一帯、とりわけ南西部の初瀬川両岸に展開した海柘榴市(つばいち)は多彩な物品の交流する市として殷賑を極めた。

大和川の堤に立つ仏教傳来之地の石碑
大和川の堤に立つ仏教伝来の碑・この辺りが海柘榴市

そうした衆人が集う場所であったがゆえに、そこはいつしか若い男女にとっての出逢いの場所ともなり、恋を語り合いまた恋の駆け引きの舞台ともなっていった。

飛鳥時代の衣装・明日香村埋蔵文化財展示室
この様な衣装を着た若人が恋を語らったのか(明日香村埋蔵物展示室)

それは春や秋祭りの頃、若い男女が集い、五、七、五といった調子の長歌で互いの想いを伝え合う歌垣(うたがき)という風習である。


小学館古典文学全集の万葉集第3巻の注釈によれば、“歌垣は本来、呪術的な儀礼の踏歌から発した古代の習俗で、多数の男女が特定の日に集まって飲食・歌舞し、性的解放を行なった遊びをいう”とある。


当世のLineやメールを駆使する若者たちと較べると、何とも悠長であり牧歌的であり、その天真爛漫とした微笑ましい情景のなかには純朴でそれ故に心豊かな飛鳥人の笑顔が零れ落ちて見える。


そこで、ここは日本書紀というより、まず万葉集からその歌をご披露することにしよう。


巻第十二 2951番

“海石榴市(つばきち)の 八十(やそ)の衢(ちまた)に立ち平(なら)し 結びし紐を 解かまく惜しも”

(海柘榴市のいくつもの路が交錯する辻に立ち、あなたと足踏みし踊った時に結び合わせた紐と紐、その熱い夜のことを想い出すとその時の紐の結び目を解くことなどとても惜しくてできませんわ)


初々しいが、何ともストレートで情熱的な愛の告白の歌で、乙女の火照った頬の赤く恥じらう様までがはっきりと見えてくる。


もう一つ、当時、異性に名を尋ねることは求婚を意味したのだが、その有名な恋の駆け引きの問答歌を。


巻第十二 3101番(問歌)

“紫は 灰さすものぞ 海石榴市(つばいち)の 八十(やそ)の街(ちまた)に 逢へる子や誰(た)れ”

(紫染めには椿の灰を加えるとさらに美しくなるもの、そんな椿の植わる海石榴市で出逢った娘さん、素敵な貴女の名前はなんとおっしゃるの)


巻第十二 3102番(答歌)

“たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど 路行く人を 誰と知りてか”

(母がわたしのことを呼ぶ本名を教えてあげたいけど、行きずりの逢ったばかりの貴方ですものお教えすることなどできないわ)


乙女心をとろかす機知に富んだ甘い言葉に対し、乙女が切り返した歌などは、女性の初心(うぶ)さを見せるようでいて男を焦らす手管、お若いのになかなかの恋のお手並みとお見受けした。


こんな牧歌的な歌垣の情景が目に浮かぶ万葉の時代のなかにあって、日本書紀に初めて登場するのは、大和政権の覇権を巡る生々しい抗争を描く舞台装置としてここ海柘榴市が効果的に使われているのである。


それは第25代武烈天皇(在位499−506)が太子(ひつぎのみこ)であった時代、第24代仁賢(にんけん)天皇(同488−498)11年8月の条である。詳しくは次稿に譲る。




日本書紀をたどり明日香を歩く 2 =国際交流・国内交通の要衝として殷賑を極めた海柘榴市(つばいち)1/6

古墳時代後期にかぶさる飛鳥時代、その政治・文化の中心であった三輪山麓の南西部山裾、大和川を跨いで海柘榴市(つばいち)という交易市場が存在した。

海柘榴市の馬井出橋と三輪山
大和川を跨ぐ馬井出橋と三輪山山麓

海柘榴市から南西方向に池之内(橿原・磐余)から明日香にかけた一帯には、大和政権のその時々の天皇が居住し、政務をこなす宮殿が数多く存在した。


実在した初めての天皇とされる第10代・崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)は、桜井市金屋にある志貴御県坐(しきのみあかたにます)神社の辺りと比定されているが、海柘榴市から北西に500mほどの至近の位置にある。

2・志貴御懸坐神社  3・崇神天皇・磯城瑞籬宮跡の石柱の立つ境内
志貴御懸坐(シキノミアガタニマス)神社  同神社境内に立つ磯城瑞籬宮跡の石柱

また、百済からの仏教公伝の舞台となった第29代・欽明天皇の磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)は、海柘榴市から南東へ500mほど県道105号線の高架下、大和川沿いにある磯城嶋公園の辺りに比定されている。

4・欽明天皇の宮殿跡地・土手の向こうは飛鳥川  百済王から釈迦仏が献上された欽明天皇宮殿址
磯城嶋公園と三輪山山麓 公園の東端に立つ磯城嶋金刺宮跡石柱

海柘榴市という市場はことほど左様に古代大和の中心に存在していたのである。


それほどに歴史的価値の高い場所であるにもかかわらず、現在、この辺りが海柘榴市であったという縁(よすが)は、海柘榴市観音堂(桜井市金屋544)にその名をわずかに認めるのみである。

6・海柘榴市観音堂
海柘榴市観音堂・本堂

それも、人家を抜けた路地の奥、三輪山の末裾に接するまことに小さな境内にぽつんと建つ現代風の簡易な造りの本堂からは歴史の重みを感じ取ることは至難で、ましてや千数百年前に殷賑を極めた海柘榴市のワクワクするような情景を思い浮かべることは甚だむずかしい。

7・突当り、階段上に観音堂・三輪山南西裾
この路地突き当り、階段上に観音堂

その観音堂から300mほど南下すると大和川(初瀬川)にぶつかる。

8・大和川に架かる馬井出橋
大和川に架かる馬井出橋と三輪山山麓

そこに架かる馬井出橋の両袂に“仏教傳来之碑”と“海柘榴市跡の説明板”が建っている。

仏教伝来地石碑  10・海柘榴市説明板

この馬井出橋の辺りに飛鳥と瀬戸内海を結ぶ水運の拠点となる湊があった。現在の大和川の水量からは想像しにくいが、西行する川筋を橋の中央部から見やると、その先に小さく二上山が見える。

11・馬井出橋から大和川下流を・先に二上山
川筋の先に小さく二上山

次に上流を振り返ると遠くに忍坂(おさか)山が見渡せる。

12・馬井出橋から海柘榴市歴史公園と大和川上流を・忍坂(おさか)山
上流に歴史公園と忍坂山

すぐ足元の河川敷には海柘榴市歴史公園が整備されているが、百済の使節を歓迎した様子を再現するかのように飾馬の可愛らしいレプリカが置かれている。

13・飾り馬
こんな飾馬で百済使節を迎えたのだろうか

その海柘榴市は五世紀後半、三輪山をめぐる山の辺の道、北へ淡海へと通じる上ツ道、磐余や飛鳥へ南西する安倍山田道、西に羽曳野・堺、東に長谷、伊勢へと至る横大路など幹線道路が交錯する陸路の要衝であった。


しかも、それぞれの道路は正味の路面幅で18mから35mにおよぶ大幹線道路であった。ちなみに現在の高速道路の一車線の標準車線幅は3・5mであるので、5車線から10車線の道路というとてつもなく大規模な道路網であったことが、最近の発掘調査によって徐々に明らかになってきている。


さらに古代物流の大動脈であった海路においても、三輪山南麓に沿って流れる初瀬川の河港として海柘榴市は大きな役割を担っていた。


初瀬川は下流で三輪山の北裾を流れる纏向川と合流、さらに下って飛鳥川や佐保川など奈良盆地を巡る支流を束ねて大和川となり、難波津において瀬戸内海へ出ることになる。

14・近鉄・新大宮駅国道369号線から佐保川の下流を見る
奈良市役所付近を流れる佐保川

そして、その潮路は遠く外洋へと続いており、その意味で海柘榴市は、唐、天竺など国際社会と繋がる古代シーレーンのまさに起点であり、異国文化との交流も盛んな国際色豊かな地であった。


日本書紀の推古紀15年(607)7月に小野妹子が隋へ遣わされたことが記されている。この時の国書がかの有名な聖徳太子の「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云々」である。

15・日本書紀
日本書紀(明日香村埋蔵文化村展示室・個人蔵)

その翌年4月に遣隋使は隋の使者・裴世清を伴ない帰国、8月に明日香に到着。


紀の推古紀16年8月条に、「唐客(裴世清一行)、京に入る。是の日に、飾馬七十五匹を遣して、唐客を海柘榴市の衢(ちまた)に迎ふ。額田部連比羅夫、以ちて礼辞を告(まを)す」とあり、推古天皇の住まう小墾田宮から北東5・5kmにある海柘榴市に儀典用の飾馬75匹を引き連れて額田部連比羅夫が向かっている。


この記述から海柘榴市が7世紀初頭において海外からの賓客を迎える河港であったことがわかり、シルクロードの起点といって過言ではない殷賑を極めた市場でもあったことが容易に想像される。


日本書紀をたどり明日香を歩く=1・磐余(いわれ)の池・磐余宮

日本書紀において神武天皇(漢風諡号=しごう)の国風諡号(死後の贈り名)は、“神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)”という長〜いお名前である。因みに古事記では、“神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)”と“磐余”“伊波礼”となっている。

1・2005年11月 橿原神宮・外拝殿と畝傍山
橿原神宮と畝傍山(神武天皇橿原宮の跡)

漢風諡号は大宝律令(701年制定)に続く養老律令(757年施行)体制の下、養老律令(全三十編)の第二十一編・公式令(くうじきりょう・全89条)・平出(*へいしゅつ)条(の第十二)で、「天皇諡〔てんおうのし〕(=天皇の、生前の行迹を累ねた死後の称号。)」が定められているが、それに基づき天平宝字六〜八(762〜4)年に神武天皇から持統天皇、元明・元正天皇の諡号が一括撰進された事が漢風諡号を奉られた初見といわれている。

〔*平出(ひょうしゅつ=平頭抄出)とは文中に貴人の名や称号を記す時に敬意を表わす意味で改行しその名や称号を行頭に書くこと〕


つまり、それ以前に神武天皇といった呼び名(諡号)はなく、和風の“神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)”なり、“神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)”が、大和王朝の初代天皇に贈られた諡号であったということになる。


古代天皇制において天皇が死去した際、王権は一時的に群臣に委ねられ、新たな天皇が決まるとそこで王権を返上するという形であった。その王位継承の正統性を担保する儀式として諡号贈呈があった。そして、その国風諡号は崩御された天皇の生前の功績評価を群臣が行いその諡号を定め奉ったのだそうだ。


ということで、神武天皇の国風諡号の話に戻るが、そのなかに“磐余(いわれ)”という文字が入っている。王朝の初代の諡号に与えられた“磐余”という文字がその功績、王権の権威を知らしめるためにどのような意味、価値を持っているのだろうか。


日本書紀のなかに、神武天皇が大和侵攻の際にその地の首魁・長髄彦を討伐する前に、配下の兄磯城(えしき)が陣を布いていたのが磐余邑(いわれむら)という地であるとの記述が出て来る。

2・2005年11月 葛城山から大和三山
大和三山 中央・畝傍山の右上の低い山が香久山、その向こう側が磐余の地

その磐余の地は旧名を片居といっていたが、長髄彦軍を征伐し、天皇軍がその地に満ちあふれていた〔満(いは)めり〕ので、名を改めて“磐余(いはれ)”としたとある。


さらに日本書紀の神功皇后3年1月(202年)、誉田別皇子(ほむたわけのみこ=応神天皇)を立てて、皇太子としたので磐余に都をつくり、これを若桜宮と謂うとある。


さらにずっと時代は下り、履中天皇2年10月(401年)に、磐余に磐余稚櫻宮を造営し、さらに11月には磐余池を作るとある。

3・式内稚櫻神社・石柱
式内・稚櫻神社

最近、稚櫻神社(桜井市大字池之内字宮地1000)の西北西200mほどのところ、橿原市との境界あたりに、六世紀後半以前に人工的に造られた堤の遺跡が発掘された。

4・丘の頂上に稚櫻神社・北東から見る
右の小高い丘の頂上に稚櫻神社 北東より見る

現在、磐余という地名は字名(あざな)にも残っておらず、桜井市の南西部にある池之内の稚櫻神社の周囲一帯を磐余の地と呼んだのであろうと推定されている。

5・稚櫻神社・拝殿  6・稚櫻神社本殿
稚櫻神社 左:拝殿            右:本殿

履中天皇の宮に稚櫻とあることと、その名を冠する稚櫻神社は「池之内」にあり、辺り一帯に現在でも「池尻」(橿原市)、「橋本」(桜井市)など池に関する地名が多く残り、所在について諸説はあるものの、先の堤の遺構の発見などともあわせ、この一帯が磐余と呼ばれたことは確からしい。

7・拝殿内と奥に本殿・本殿左が天満神社、右が高麗神社
拝殿内から本殿 本殿左:天満神社 右:高麗神社

稚櫻神社の北北東700mほどにある吉備池廃寺・吉備池の畔には、天武天皇の第三皇子である大津皇子の辞世の句である歌碑、“ももづたふ 磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ”が建てられている。

0・稚櫻神社由緒書き
稚櫻神社・由緒書き

日本書紀で磐余に営まれた宮は神功皇后の磐余・若桜宮を嚆矢として、履中天皇(在位400−405)が401年10月に磐余稚櫻宮を造営、清寧天皇(在位480−484)が480年1月に磐余・甕栗(みかくり)で即位し、その地に宮を定めている。

8・南東から稚櫻神社を見る
稚櫻神社を南東側から見る

次いで継体天皇(在位507―531)が即位後20年目にして、磐余・玉穂に遷った(526年9月)とある。河内・楠葉宮で即位(507月1月)したのち、山背・筒城(511年5月)、山城国・乙訓(518年3月)と転々とし、大和へ入るのに20年もの歳月を要した理由は誠に興味深いところであるが、その大和の地として磐余を選んだことも、この地が王の地として人民が認識していた、王の居る聖なる地の証なのではなかろうか。

9・この辺りに市磯池(いちしのいけ)があったのかも・・・
稚櫻神社の東側 この辺りに市磯池があったのだろうか

最後に聖徳太子の父、用明天皇(在位586−587)が586年9月に磐余に宮を造り、池辺双槻宮(いけのへのなみつきのみや)と名づけたとある。磐余の池のまさに畔に宮殿を構えているのである。


神武天皇紀に初出の、この“磐余”の土地は、神功皇后の御世を経て401年の履中にはじまり用明天皇の586年まで、時々の抜けはあるにせよ数百年の間、王家の宮殿を擁する聖なる地として特別な崇敬を集めていた場所であったといえる。

10・稚櫻神社の南裾、東から西を見通す
神社の南裾 東側から西を見通す

それから千数百年後の現在、この磐余の地には、小高い丘にぽつんと取り残されたようにして稚櫻神社が鎮座するのみで、周辺は田地と人家が散在する鄙びた何の変哲もない場所となっている。

11・境内階段上から西(磐余の池)方向を見る
稚櫻神社の階段から神社西方向、磐余池の辺りか

哀しいかな、稚櫻神社の丘をめぐる一帯には磐余の池や市磯池の痕跡はもちろんない。往時の栄華を偲ばせる縁(よすが)は微塵もないのである。




讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(5/5)

讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(4/5)
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(3/5)
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(2/5)
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(1/5)

5 北大塚東古墳・北大塚古墳・北大塚西古墳


石清尾山古墳群マップ(高松市文化財課)
(高松市教育委員会作成)

【北大塚古墳】

鏡塚古墳から尾根道を100mほど緩やかに北方向へ下がってゆくと勾配のない場所に出る。そこから少し進むと40〜60cm台の石塊が転がっているところにぶつかる。

54・北大塚東古墳・方墳
北大塚東古墳(西側から)

積石塚古墳が東から西へ接するようにして3基並ぶ北大塚古墳群の一番東に位置する北大塚東古墳である。平面形がほぼ正方形の古墳であり、石清尾山古墳群のなかで唯一確認された方墳とされている。

55・北大塚東古墳方墳の垢標石柱
東古墳・方墳の中心部か

築造は古墳時代前期の積石塚であり、一辺の長さ約10m、高さ約2mの大きさで二段築成であるが、その形態を現状の姿から想像するのはきわめて難しい。

56・形状が見分けにくい北大塚東古墳
どう見たら正方形なのか?

その方墳から連続して続いているのが、3基の中央に位置する北大塚古墳である。

57・北大塚古墳航空写真
北大塚古墳・航空写真(高松市文化財課)

築造が4世紀前半の積石塚の前方後円墳で、規模は全長約40m、高さ約4・5mで三基のなかで中核をなす古墳である。

58・北大塚古墳・後円部
北大塚古墳の前方墳から後円墳の円みを見る

前方部は三味線を弾くバチに似た形をしており、その先端部の石積みがよく残っているとの説明であるが、草が茂り、その形状を把握するのはこれまた難しい。

59・北大塚古墳・前方墳 後円墳側から見る
北大塚古墳・後円部より前方部を見る。両脇が落込んでいる。

草が枯れる冬場の気象条件の良い日に訪れてみないと、なかなか説明(高松市文化財課)のような外観に触れるのは難しいようだ。

60・北大塚古墳後円部へのアプローチ
北大塚古墳の後円部

後円部の頂上に立ち北側を見ると、眼下に高松市街を見える。その先に瀬戸内海が広がり、女木島・男木島やその陰には小豆島の山容を見晴らすことが出来る。

61・北大塚古墳より女木島など瀬戸内海を望む
素晴らしい眺望

素晴らしい眺望の地点に墓を築造しているのがよく分かる。


次に視線を西に点じこの尾根の突端部分を見ると、繁茂した雑草の先に小さく石礫の集積が見える。これが北大塚古墳のすぐ西側に接して築かれた北大塚西古墳である。

62・後円墳頂上の積石、遠くに西古墳の積石群
突端の石の塊が西古墳の後円部

古墳時代前期に築かれた積石塚の前方後円墳で、全長約19m、高さ約1・5mと中央部の北大塚古墳に比べ半分ほどの小さな古墳である。

63・北大塚古墳より北大塚西古墳を見る

写真で判るように西古墳は摺鉢谷をめぐる東側の尾根の最も北端にあたり、北側はすとんと落ち込んだ谷となっている。

石清尾山古墳群分布図(高松市文化財課)
石清尾山古墳群配置図(高松市文化財課)

北大塚古墳群から真西を見ると、摺鉢谷を挟んでその延長線上に石清尾山第9号古墳が存在している。

64・北大塚古墳から石清尾山9号墳と谷越しに見合う
石清尾山の方向を見る

その西古墳の脇を通る尾根道沿いに西古墳を真横から見ると、ここの積石の状況がよく分かる。

65・北大塚西古墳の前方部の赤標柱か
西古墳の前方部

崩壊がひどい状態でその形状を見分けるのはこれまた難儀である。

66・西古墳を脇から見る
西古墳の後円墳を横から

真横を通る尾根道から西古墳の後円部へあがってみると、すぐ目と鼻の先に女木島と男木島が見えた。

67・北大塚西古墳後円墳頂上
石組みの先に女木島が見える

そして頂上部に密集して広がる積石の状態がひどいことがよく分かった。野田院古墳のように修復せよとはいわぬが、貴重な文化財である、もう少し、こうした崩壊するのに任せたままの状態だけは何とか食い止める方策や最低限の整備を施すべきだと強く感じたところである。


午後1時に峰山公園をスタートした石清尾山古墳群巡りもこの北大塚古墳で終了である。時刻はすでに午後4時55分。日も傾き、われわれの影もかなり長くなってきた。


これからゆく道は遊歩道と呼ぶにはちょっと無理のある草むらのなかの獣道のような山道である。

68・この道を降りて行く
草茫々の道を・・・

こんな心細い道で大丈夫かと不安になったが、一般道から逸れていった先刻の石船積石塚まで戻っていると夕陽が落ちるまでに下に降りるのは難しいと判断、この獣道を強行下山することにした。


下山を始めてすぐに視界が開けた個所があった。少し進むと、足のすくむような切り立った崖である。その縁から下を見下ろした。

69・下の自動車道まで一挙に降りる
エッ!! あんな下まで・・・

あの路へ降り立つにはかなりの急勾配の山道となるに違いない。そんな急坂それも獣道のような悪路を果たして短時間で下りきれるのかと心配になった。


結果的には無事、下山できたわけだが、そこからはまさに想像通りの直滑降の下り道であった。足の不自由なわたしは杖と家内の文字通りの手引きを支えに必死の下山行となった。

70・かなりの急坂です
ものすごい急坂

道幅は狭くむき出しの自然石を探りあてながら足をのせ、次にまた支えの石を探すといった難度の高い下山であった。

71・この急坂道を頑張りました

なれど人間必死になると何とかなるもの、ようやく車道まで到達したとき、時刻は午後5時15分。わずか20分であの目のくらむような高さから転がり落ちるようにしてこの人里へと舞い降りたのである。

72・最後の難所
城壁のようなところを下りた・・・

「自分で自分を褒めてあげたいと思います」というあの“臭すぎる”と思った名言を心中、まじめに己に向けて語り懸けたものであった。

73・峰山公園への自動車道
ようやく人心地・・・

そこからは近隣のタクシー会社へ電話し、迎えに来てもらい、当日の古墳巡りも無事、終了。こうしてレポートをさせていただくことが叶ったというわけであります。


さてさて、読者の皆様、長々と石清尾山(いわせおやま)古墳群巡りにお付き合いいただきありがとうございました。


讃岐の貴重な古墳群。目で実際に確かめると、その立地の眺望の良さがわかり、尾根筋のかなり危険な場所に築かれたものもあり、その理由は何ゆえか?といった素朴な疑問などを抱えながらの探査行。


ただ、学説の一つにある「積石の素材の安山岩がそこにあるから積石塚をその高地に造った」というだけのそんな単純な理由だけでは考えられぬほどの絶景の地さらに危険な個所に古墳は造営されていた。


と云うのもこうして実際に峰山の尾根筋を歩いて自分の目と足で確かめてみると、何だか1700年前にはもっと瀬戸内の海はこの山裾の方まで入り込んでいたのではないか・・・、この尾根の上まで打ち寄せる波音が時には聴こえてきたりしていたのではないか・・・と、何の理由もなく、そう思えてきた・・・。


平地から見上げると云うよりも海上から見上げて最も効果的に見える場所に石を積み上げた大きな墓を築いたのではないか・・・と。


古墳の頂上に立ち、丈が伸びた草陰に真下の市街地が隠れ、すぐ目の先に青い海原と島々が見えるといった景観に触れる体験をすると、そんな想像も決して奇想天外でもないなと思えてきたのである。


そう書いたところで、古墳時代の高松市の海岸線を検索したところ次のようなことであった。


「当時(古墳時代)海岸線は現在の高松市中心部の西端を流れる摺鉢谷川の流域全て、即ち峰山の裾野にあり、人間はそれら海、山に挟まれた平野、後の宮脇町周辺に居住していたと類推される。」


なるほど・・・海上から海抜200mほどの高さの山上に全長40mから100mほどの二層、三層の石積みの大きな構造物が見える。


1700年前の人々にとって、山の稜線から迫り出す、まるで空中に浮かぶかのような石組みの構造物は度肝を抜く権力の示威であったことだろうと得心したところである。




讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(4/5)

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4 鏡塚古墳


【鏡塚古墳】

次に石船塚古墳から北へゆるやかな登りを30mほどゆくと草むらを迂回した先に鏡塚古墳が見えてくる。

41鏡塚古墳が見える
突当りの石組みが鏡塚古墳

4世紀前半に築かれた積石塚古墳であり、猫塚と同じ双方中円墳という特異な形状をしている珍しい古墳である。

42・鏡塚古墳測量図
鏡塚古墳測量図(高松市文化財課)

その規模は全長約70m、高さ約3.6mと大規模な猫塚と比較すると一回り小さくはあるが、猫塚より全容が見えやすいので迫力はこちらの方があると感じた。手前の石ころの集積している辺りが双方中円墳の片方の方墳である。その向こうに大きく盛り上がった大きな積石の塚、中円墳が見える。

43・手前(南)の方墳から中央の円墳を見上げる
南の方墳から中円墳を見る

われわれは南側の石船積石塚からのアプローチであったため、ほぼ南北の方向に配置された双方中円墳の南方墳を最初に目にし、その先に大きな中円墳を見る恰好となった。

44・手前(南)から中央円墳を見る
方墳の端から高さ3・6mの中円墳を見る

方墳は50、60cm大の石ころが集積しわずかな盛り上がりを見せているが、その形状が四角形であると認識することはいまや難しい状態となっている。

45・中円墳側から見た南側方墳
中円墳から南側方墳を見る

そして、いよいよ、双方中円墳の中核をなす中円墳に登ってみた。

頭頂部一面には30cm台から60cm台の大きな石ころが乱雑に放置されているといった印象である。

46・真ん中の円墳頭頂部の積石
中円部の頂上

修復された野田院古墳のような整然と組み合わされた石組みを脳裡に描くのははなはだ難しい。

47・円墳上部
野田院古墳の円墳頂上(二段構成)

しかし、この鏡塚古墳は摺鉢谷をとりかこむ東側の尾根筋の最も高いところにあり、野田院古墳同様にその頭頂部からの景色はまことに壮大である。

48・頂上からの壮大な景色
頭頂部からの景観

人影を認めることもない静かな尾根のうえ、その頂に築かれた古墳の上には真っ青な秋空が広がっている。その静寂のなかに時折、聴こえてくる鳥の啼き声の他には谷越に聞こえてくる峰山公園で遊ぶ子供たちの歓声のみである。


1700年まえにこの峰越しに声を掛け合っていた人たちがいたのだと確信した瞬間であった。


それから目を右側へ転じると北側に小さな方墳が見える。

49・鏡塚古墳・中円墳から奥(北)の方墳を
南の方墳の対称線上に北側の方墳が見える

やはり3・6mの中円墳の上から見下ろすと方墳の高さはかなり低くそして一辺の長さも短い。


逆に南側を向くと、北の方墳の対称線上に南方墳が見える。

50・中円墳から南方墳を見る
頭を巡らし反対側を向くと、南側の方墳下見える

これが全国でも珍しい双方中円墳の全貌である。

円墳を下りて、その裾を廻る遊歩道を北大塚古墳へと向かってゆくのだが、真下から見る円墳はなかなかの質量感である。

51・盛り上る中円墳
中円墳の脇から見上げると結構な迫力

これもかつては野田院古墳のような二段構成であったというから、下の写真を目に浮かべながら脇を通り抜けて行った。

52・二段の積石塚古墳
野田院古墳の横から後円墳を見上げる(後円墳高さ2m)

北側の方墳をやり過ごして振り返ると、尾根の一段高い個所に中円墳を築いていることがよくわかる。

53・奥(北)の方墳から中央円墳を見上げる
北の方墳から中円墳を見る

一説によると鏡塚古墳には6基の石室があったと伝えられるが、これだけの規模である、やはり首長の家族などきわめて近しい人々を埋葬したものであろう。


ただ、両側に方墳を従える特異な形状の意味合いは謎めいていてはっきりしないままである。方墳が祭祀、拝礼の場所というのであれば、なぜ二か所必要なのか、それも対称線上にする意味とは何であろうか。草生した積石塚の頂きに佇み想像をめぐらしてみても解答は見つからぬままであった。


そして、いよいよ石清尾山古墳群の最後の古墳、北大塚古墳へと向かった。



讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(3/5)

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3 姫塚・小塚・石船積石塚


石清尾山古墳群分布図(高松市文化財課)
石清尾山古墳群の配置図(高松市文化財課)


【姫塚古墳】

猫塚古墳から舗装された一般道を尾根筋に東へ歩いてゆく。その尾根道の右手には南東から南方向にかけて仏生山そして香南の平野が広がっている。

19・姫塚から仏生山、香南地帯を
讃岐名物の三角山がならぶ

6、7分歩くと峰山公園の第4駐車場入口の真向かいに姫塚古墳がある。姫塚古墳の北側にのびる尾根には次に見る小塚古墳が続く。

20・正面右手のこんもりした丘が姫塚
正面の樹木の茂る辺りが姫塚古墳

3世紀末から4世紀前半に造営された全長43m、高さ3・6mの中規模の積石塚前方後円墳である。

21・姫塚・後円部裾から前方部を見る
後円部の裾から右手に前方墳を見る(積石塚)

石船積石塚とともに前方後円墳の形状が最もよく保存されている古墳である。

22・姫塚古墳航空写真
航空写真(高松市文化財課)だときれいに前方後円墳の形状がわかる

どこかロマンを呼び起こす姫塚という名であるが、古よりここが首長の娘の墓であるという伝承に基づき「姫塚」と呼ばれてきたのだという。そんな1700年も昔のことがいまに語り継がれてきた姫塚。

23・姫塚
姫塚 前方墳(青い柵の向こうの積石)から紅葉した木の下の後方墳の積石塚を見る


民衆にこよなく愛された王女だったのだろう、数多い王家の墓にあってこの姫はその名前は残さなくとも死して王女の墓であることを今に至るまで伝えてきたのだから。


果たしてどんなプリンセスがこの可愛らしい古墳に葬られていたのだろうか、想像は秋の空高く、その羽を広げてゆくのである。


【小塚古墳】

24・小塚古墳測量図
小塚古墳測量図(高松市文化財課)

小塚古墳は姫塚古墳から北へ200mの距離、姫塚古墳と石舟塚古墳のほぼ中間に位置する。

25・小塚古墳
小塚古墳

小塚古墳は古墳時代前期(4世紀)の造営であるが、墳丘中央部を尾根道が走っているため元の形状は破壊され判然しないが全長約17m、高さ約1mの最も小形に属する前方後円墳と考えられている。

26・手前の尾根道に縦断された小塚古墳
小塚古墳を振り返る

ここで舗装道路は終わり、これ以降は自然の一般道を歩いてゆくことになる。

27・小塚古墳からは自然道をゆく

この時点でちょうど午後4時を回った頃。ススキの穂の向こうに傾くのが早い秋の太陽が見えた。


28・午後4時、秋の陽が傾くのは早い


【石船積石塚】

29・石船積石塚古墳へ120mの標示

小塚古墳から自然道をさらに100mほど進むと、右側に石船積石塚へ120mという石板の標示が見える。

BlogPaint

そこから広い本道を外れ、右の狭い小道へと入ってゆく。

31・この先すぐに石船積石塚がある

灌木のなかに一応、人の通る道が続いているものの見通しはきわめて悪い。


しかし、突然に目の先に小高い積石塚が現れる。

33・目の先に石船積石塚が見える
石船積石塚が坂の上に見える

石船積石塚は、4世紀後半に造営された全長約57m,高さは約5・5mの積石塚の前方後円墳である。

34・石船積石塚古墳航空写真
航空写真(高松市文化財課)

後円部は三段、前方部は二段に積石が築かれているのだそうだが、ご覧のように雑草が生い茂り、まったく定かではない。

35・後円部頂には雑草が繁茂・刳抜式石棺が隠れる
石船積石塚・後円部の頂上の石棺も隠れるような状態

前方部も確認出来ぬ状態であり、資料の記述をそのまま転載するのみである。

36・後円部の積石
後円墳の積石

ただ、石船積石塚の後円部中心に露出された刳抜式割竹形石棺は形態上、舟形石棺に分類される。

37・刳抜式石棺 左が棺、右が蓋
刳抜式割竹形石棺 左が棺、右が蓋

石船積石塚に代表される讃岐の刳抜式石棺の成立が全国的に見て最も早いとされている。ことほど左様にきわめて希少価値の貴重な遺跡なのである。


石材としては高松市国分寺町の鷲ノ山産出の鷲ノ山石(石英安山岩質凝灰岩)が使用されている。
この鷲ノ山石の刳抜式石棺は高松平野から丸亀平野を中心に8棺が知られている。

また、香川県外でも大阪府安福寺(柏原市玉手山3号墳から出土(伝))に所蔵されているほか、大阪府松岳山古墳からは刳抜式石棺ではないが、組合せ式石棺の側壁材として使用されているという。
さらに松岳山古墳の周辺には積石塚古墳が分布しているという興味深い事実も存在する。


1600余年前に、ここ讃岐の鷲ノ山で製造された石棺が瀬戸内海を渡り、大阪で古墳に埋蔵する石棺として使用された。


その事実が語り懸けているのは、同じ埋蔵方法を採る部族の存在あるいは石材加工技術の優れた讃岐の石棺をわざわざ運ばせた交易や情報伝達の広範さを考えざるを得ないところである。

備前一の宮駅にある石舟古墳の石棺の蓋
岡山吉備線の備前一の宮駅に置かれた吉備・中山の石舟古墳の石棺の蓋

西暦400年に満たぬ頃に、この重い石棺を載せて運ぶ船とはどの程度の大きさであったのだろうか。また、讃岐の石材や加工技術が優れているという情報はどのようにして広がっていったのか。積石塚を造営する技術集団は讃岐から移動したのか。

ひょっとしたら請負で讃岐からやって来て、完成後には讃岐へ戻ったのではないかと想像を膨らませると現代の常識をちゃぶ台返しをするようで何だか面白くなってきて仕方がない。


古代社会において、人・物の移動、情報の伝播のスピードは現在のわれわれが想像するよりもはるかにずっと早かったのではないか。


何かまだわれわれが知り得ぬ手段や運送技術、理解を越えた社会構造や人的交流といったものがあったように思えて仕様がないのである。

38・刳抜式割竹形石棺
石清尾山・石船積石塚の刳抜式割竹形石棺

そんなお宝をあるがままで目にする幸せには浴したものの、棺内に雨水を溜め雨ざらしにされている姿は痛々しく、稀少文化財の保存の観点からはレプリカに替えるといった手当が早急に講じられるべきだと強く感じた。


そんな石船積石塚であるが、石棺は何とか目にできたもののその全貌は草で覆い尽されており、前方後円墳の形状は分りかねる状態であったのは如何にも残念であった。

39・石船積石塚頭頂部

しかし、その石棺の置かれた後円墳の頭頂部からの眺望は1600年余を越えた今日においても、まことに壮観であった。

40・石棺からの眺望

見晴らしの良い尾根伝いに積石塚を築き、そこに埋葬された人々とはいったいどのような部族であったのか、妄想は風船のように膨らみつづけ、興味は幼児の好奇心のように尽きることはない。




 

 

讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(2/5)

讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(5/5)
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(4/5)
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(3/5)
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(1/5)

2 石清尾山13号墳・石清尾山9号墳・石清尾山2号墳・猫塚


9月下旬の秋の好日、悠久のロマン、古代史の謎に触れようと石清尾山古墳群のなかでも代表的な次の図にある9つの古墳を廻った。

石清尾山古墳群マップ(高松市文化財課)
高松市教育委員会作成

不自由な足を庇い、杖をつきながらの山道歩行である。下から登ってゆき、そして、また下って降りるといった踏破行は当初から諦め家内のサジェストにより最も標高の高い石清尾山頂上真下にある峰山公園までまずタクシーで登った。


要は、上の図にあるように峰山の高処にある13号古墳(上記図)から逆順に─↓А↓ΑΑΑΝ,伐爾辰討罎という省エネ踏破を目論んだのである。

石清尾山古墳群分布図(高松市文化財課)
石清尾山古墳群配置図(高松市文化財課作製)

当日は好天の土曜日ということもあり、多様なアスレチック遊具のそろった峰山公園には多くの子供連れの家族が訪れていた。

5・峰山公園
ユニークな遊具の多い峰山公園

われわれはまず瀬戸内海を一望できる展望台へと向かい、これからの難儀な踏破行へむけた英気を養うことにした。晴れ渡った空の下に空と一体となったかのような瀬戸内海が広がり、手前には女木島や小豆島、遠くに目をやると本土が見渡せた。

6・展望台から遠くに岡山県を望む
峰山公園展望台からの眺望・女木島、男木島の向こうに小豆島


【石清尾山13号墳】
最初の石清尾山13号墳は、展望台を少し下った先にある。

7・石清尾山13号墳
石室がなければただの盛土と勘違いする石清尾山13号墳

古墳時代後期の6世紀末から7世紀中頃に築造された径9m、高さ1・5mの盛土墳で、横穴式石室の天井石が取り除かれた状態である。


そこから公園を突っ切り一旦車道へ出て、石仏のならぶ先の細い下り坂へとUターンして入り込む。これでよいのかと不安になるほどに熊笹で覆われた細道である。

8・石清尾山9号墳への細い道

そして、いつしか上り坂となり灌木の隙間から向こう側の峰が見えることで自分たちが峰山の尾根筋に歩いていることに気づく。

9・9号不への稜線の道から摺鉢谷を挟んで向こうの峰を見る


【石清尾山9号墳】

そして、ようやく石清尾山9号墳(図の─砲肪り着く。

10・石清尾山9号墳
石清尾山9号墳・前方墳の先に後円墳の積石塚

石の瓦礫が無造作に放られているような保存状態だが、全長27mの積石塚の前方後円墳である。

石清尾山9号墳・後円墳から前方部を見る
石清尾山9号墳・後円部から前方墳を見る

摺鉢谷を取り巻く稜線上の北東部の突端に位置しており、谷を挟んで真東に向き合っているのが、最後に訪れる北大塚古墳(図の 砲任△襦

64・北大塚古墳から石清尾山9号墳と谷越しに見合う
北大塚古墳から見た9号墳が位置する石清尾山

そうした墓の配置に古代人のどういった意図が隠されているのか、興味は尽きぬところである。


【石清尾山2号墳】

9号墳から2号墳(図のА砲泙任錬隠以ほどの距離である。

11・9号墳から2号墳へ
9号墳から2号墳へ向かう道

峰山公園の芝生広場から行く場合は、自動車道をちょっと上って左に大きく曲がるカーブの右手側に20mほど入った民家の庭先にある。

12・2号墳を真横から
石清尾山2号墳・真横から

横穴式石室が開口している直径約10m、高さは約2mの円墳・盛土墳である。

13・石清尾山2号墳
石清尾山2号墳・羨道から石室を見る

4世紀代の積石塚古墳が集積するこの地区で、6世紀末から7世紀に造営された横穴式古墳群はその総数では積石塚古墳の数を越えているというが、その300百年前にこの地に住みついていた積石塚古墳群を築いた人々との関連はわかっていない。


【猫塚古墳】

この2号墳から徒歩約10数分、幅広の道から右に細道を300mほどゆくと、ここ石清尾山古墳群のなかで最大規模を誇る猫塚古墳(図のΑ砲愿着する。

14・猫塚への細道
この道の先に猫塚古墳はある

その猫塚古墳は全国でも非常に珍しい双方中円墳という独特の形態をしている。

15・猫塚・雑草に覆われた中円墳
猫塚古墳の中央の円墳、高さは5mとかなり見上げる感じ

築造時期は4世紀前半に築かれた全長約96m、高さは約5mの石清尾山古墳群のなかで最も大きな古墳である。

16・猫塚墳丘測量図
猫塚・墳丘測量図 (高松市文化財課・高松の埋蔵文化財より)


中央の小高い大きな円墳の両脇に小さな方墳を従えたどこか蝶ネクタイのような形をした積石塚古墳である。

17・猫塚古墳航空写真
航空写真(高松市文化財課)

しかし、この日は草が生い茂り下から見上げただけではその形を実感することは難しかった。

18・猫塚の双方のひとつ
円墳の手前を左に回り込むと先に小さな方墳らしきものが・・・

石清尾古墳群のなかでこの特異な双方中円墳はもうひとつ鏡塚古墳(図の◆砲あるが、そちらは古墳上部へ登っての写真撮影が可能であったので、この変わった形を実感してもらえると思える。

49・鏡塚古墳・中円墳から奥(北)の方墳を
積石塚の鏡塚の中円墳から北の方墳を見下ろす

上の写真で大体の感じをとらえてもらえればありがたい。猫塚はこの写真よりも規模は1・4倍ほどであるので、上から俯瞰できればかなりの迫力があると思われる。


讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(1/5)

讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(5/5)
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(4/5)
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(3/5)
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(2/5)

1 石清尾山古墳群を代表する積石塚古墳とは


高松市の中心市街地の南西部に位置する石清尾山(標高232m)や紫雲山(同200m)などを擁する石清尾山塊の尾根上に4世紀から7世紀にかけて造成された200余基におよぶ古墳群が存在する。

1・石清尾八幡神社の後背に石清尾山を見る
石清尾八幡宮の鳥居から石清尾山山頂を見る

そのなかでも有力な古墳のほとんどが弥生時代後期(3世紀後半)から古墳時代前期(4世紀)にかけて築かれた積石塚という墳丘を石で積み上げた特殊な形態の古墳である。


その形態がよくわかる積石塚の代表例が善通寺市の有岡古墳群にある野田院古墳(3世紀後半)である。積石は後円部にみで、前方墳は盛土となっている。

2・善通寺・野田院古墳
積石塚の野田院古墳(全長44・5m 前方後円墳・3世紀後半)

全長44・5mという大規模な前方後円墳はこの善通寺一帯を支配していた豪族の首長の王墓とみられるが、標高616mの大麻山(おおさやま)北西麓の瀬戸内海を一望する高所(405m)に築かれている。

0・野田院古墳から瀬戸内海を一望
野田院古墳から瀬戸内海を一望

1700年前もの昔にどうしてこんな山の稜線上の高みに墓所を構えなければならなかったのか。


これから見る石清尾山(いわせおやま)古墳群の積石塚も野田院古墳同様に見晴らしの良い山の稜線上に造営されていることと考えわせ、その理由を探ってゆくことにする。


その善通寺市の有岡古墳群から坂出市の積石塚古墳群、その東方の石清尾山古墳群と讃岐平野を東西に貫き、3世紀後半から7世紀前半にかけて築かれた古墳群の大規模な集積が認められる。

善通寺市の王墓山古墳
有岡古墳群の中央部に位置する王墓山古墳(全長46mの前方後円墳・6世紀半ば)

そのことは、古墳時代の初期において大和王朝はまだ一地方を統べる時代であり、この一帯に勢力を張る確かな王朝が存在していたことを物語っている。


この讃岐王朝の特色ともいえる大規模な積石塚古墳は讃岐の他には長野県の松代市大室古墳群(6−7世紀)に、小規模なものでは徳島県、兵庫県に例が見られる程度で、国内においてはかなり特殊な位置づけの墳墓形式となっている。


ただ、国外に目を転じれば高句麗の首都・扶余(現在の中国東北地方集安県)に多くの積石塚が存在するほか中央アジアにも存在することから、遊牧民あるいはそこから派生した騎馬民族の墳墓形式とする見方もできる。


因みに朝鮮の古代国家・新羅の古墳群が慶州に存在するが、その形式は円墳である。第13代王である未鄒(ミチュ)王(在位 262−284年)の墓をはじめ23基もの円墳が集まる大陵苑の写真が下である。

4・慶州の大陵苑古墳群
慶州の大陵苑古墳群

高さは20数メートルにもおよぶ小高い丘のように見えるものが固まって造営されている。形状は円墳が基本的なものだが、皇南大塚のように円墳が二つつながった双円墳も変化形として存在する。


さらに、最近では、前方後円墳が日本独自の古墳形式だとするこれまでの学説を翻すかのように、前方後円形の積石塚古墳が扶余の周辺で数多く発見されている。


大和王朝を中核に据え続ける唯我独尊の日本考古学をひっくり返す発掘・発見が大陸においては既になされているのである。


つまり類似した墳墓形式を有す部族が朝鮮半島や中国北東部から渡来したという見方を裏打ちする、前方後円墳という墳墓形式が日本独自のものではなく、大陸にも存在していたという事実である。


そうした大陸の墳墓形式の系列に属するとみられる日本で珍しい形態の積石塚古墳を有する石清尾山古墳群をこれから紹介していこうと思う。


パワースポット 宮津・籠(この)神社の奥宮、真名井(まない)神社の神域を間近で見た

12月25日付の読売新聞に、「神域荒らす不届き者続出、柵設置した京都の神社」のタイトルで、京都府宮津市にある真名井神社の磐座(いわくら)に不届きな参拝者がたびたび攀じ登り柵内に入るというので、手前に玉垣を設け神域に近づけぬようにしたとの記事が掲載された。

匏宮石碑
真名井神社

3年前に祈願成就のパワースポットとしてテレビや雑誌で紹介されたことから、当神社を訪れる人が増え、そのなかの心無いものが社殿裏に鎮座する磐座に土足で登ったりと不埒な行為が続いてきたとのと。


何度、警告してもそうした罰当たりな行為が止まぬことから、今回、やむを得ず、社殿横に玉垣を巡らして奥の磐座へは近づけぬようにしたという。


誠に残念であり、これから訪れる敬虔な参拝者たちが、あの深とした霊域の雰囲気にとっぷり包み込まれる機会を非常識な観光客たちによって奪われたことに心から憤りを感じる。


二千年余の悠久の時を超えて守られてきた神聖不可侵の神域を未来の日本人にしっかりと伝え残してゆくには、仕方のない仕儀なのかもしれない。

籠神社
籠神社

わたしは昨年の1月に籠神社を訪れた際に、奥宮である真名井神社に参拝した。

真名井神社拝殿

当時はまだ玉垣もなく、社殿をぐるりと廻り、真裏の磐座やその奥の真名井原神体山の原生林内に鎮座する諸々の磐座も間近で見ることができた。

本殿裏より
社殿裏より境内を見る。右の石柱内が二坐の磐座

森閑とした山中に響く小鳥たちの啼き声に耳を澄まし、遠く二千年前の世界に想いを馳せていると、往古、この地に神々が降臨したという数々の伝誦が紛うことなき“真正”であると感得した。


真名井神社は本宮である籠神社から距離にして500mほど、徒歩数分の地にある。

途中、真名井川を渡るが、ここから後ろを振り向くと天橋立を見ることが出来る。

真名井川と天橋立
真名井川から天橋立を望む

すぐに一の鳥居に達するが、その先に天香語山が見える。その天香語山(神体山)の南麓、真名井原に目指す
真名井神社は位置する。

真名井神社一の鳥居と天香語山
一の鳥居の右柱奥に天香語山

しばらく道なりに歩いてゆくと、森閑とした山裾に真名井神社と匏宮(ヨサノミヤ)の石柱が立っている。

その真名井神社と刻まれた左側の石柱脇に、小さな石碑がある。

真名井神社石碑


この石碑の一代前のものが、地中より掘り出された六芒星(ダビデの星)が刻まれていた石碑である。


籠神社宮司
第82代海部光彦宮司

六芒星、すなわち籠目紋は真名井神社の裏紋であることを第82代宮司・海部光彦氏が公表しており、失われたイスエラエルの十部族との関連、籠目の唄の謎など古代史オタクには興味の尽きぬ神社であり、強烈なパワースポットである。

真名井神社と匏宮と刻まれた石柱の内に足を踏み入れると、すぐ左手に“波せき地蔵堂”がある。

真名井原”波せき地蔵堂”
波せき地蔵堂

大宝年間(1300年ほど前)にこの地を襲った大津波を標高40mのここでせき止めたとの伝承に基づき、天災
地変から守る霊験と子育て病気よけを祈願し、地蔵堂が建てられたのだという。

そのすぐ奥に聖泉・真名井の泉がある。当日も車に大きなポリタンクを積み込んだ地元の方が、その清らかな霊水をとりにやって来た。

真名井の御神水
真名井の霊水

“真名井(まなゐ)”とは、日本書紀の巻一・神代上(第六段)、“素戔嗚尊と天照大神の誓約”出て来る“天真名
井(アマノマナイ)”に対する丹後の国・比治の真名井を表わす。


そして、まなは、すばらしい、神聖なの意であり、は清泉という意味である。すなわち、宗像三神や天孫を次々に産み出した聖泉、清らかな水の如く尊い生命を湧き出だす泉ということである。


そして、真名井神社の社殿への階段前に二の鳥居が立つ。
その両脇に狛犬ならぬ狛龍が睨みを利かせている。


真名井神社二之鳥居と阿吽の狛龍

二の鳥居と狛龍

龍は水神の化身であるが、本宮である籠(コノ)神社の“籠”と云う字が竹カンムリに龍という造作であり、籠神社の裏紋が籠目であることも考え合わせると、“竹籠に龍が閉じ込められている”という、いかにも謎めいた古代からの暗号がわれわれに投げ掛けられているようにも思える。


そして私は、どうしても日本書紀・巻第二・第十段の“海幸・山幸説話”の記述を思い起こさざるを得ないのである。


すなわち、塩土老翁が彦火火出見尊(山幸彦=籠神社の元々のご祭神)を海中の龍宮城に送るために入れた“無目籠(マナシカタマ)=すき間のない籠”こそ、籠神社の名前の謂れであり、丹後風土記逸文にある“筒川の嶼子(シマコ)”、すなわち、浦島太郎の話とあまりにも平仄のあった伝誦であるといわざるを得ない。

また、昭和62年に現宮司の海部光彦氏(82代)により二千年の沈黙を破り
“邊津(ヘツ)鏡(前漢時代・2050年位前)”と“息津(オキツ)鏡(後漢時代・1950年位前)”という当社秘蔵の日本最古の伝世鏡が突如公表された。

その二鏡の存在の事実と、丹後風土記逸文の記述や籠神社の裏紋である籠目を考え併せることで、籠神社が往古より口を閉ざしてきた大きな謎を解くヒントが見えてくるようにも思える。

こうした籠神社、真名井神社の抱える深遠なる謎についての詳しい話は別稿に譲るとして、われわれは社殿の方へいよいよ向かってゆくことにしよう。

真名井神社拝殿と狛犬


真名井神社の拝殿につづく本殿の裏に、祭祀の中心となる磐座主座と磐座西座の二つの森厳なる磐座が鎮座する。

磐座・手前が天御中主大神霊畤、奥が天照大神霊畤
本殿裏にある二坐の磐座


その為、本殿裏には神々が磐座へと移り給うための出入口が存在するという。

拝殿の真裏・この勾欄の向こうに出入口がある
この勾欄の奥、本殿裏壁に扉があるという


向かって右(東側)の磐座主座は豊受大神を主祭神とし、相殿に水の神である罔象女(ミズハノメ)命・彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)・神代五代神を祀っている。

天御中主大神霊畤の磐座
磐座主座

左の磐座西座は天照大神を主祭神とし伊射奈岐大神・伊射奈美大神を配祀している。

天照大神小宮霊畤の磐座
磐座西座

その神々しい磐座を割り、竜蛇のごとく四方に根を張る古木を見ると、民衆が太古より神々を敬ってきたその歴史の長さ、重ねた時間の重みに自然と心を致さぬわけにはいかない。

磐座の上には古木が根を張る

いつしかそんな敬虔な気持ちになっている自分に気付かされる“真名井神社”である。

小さな、小さな社殿である。

真名井神社拝殿より本殿を
拝殿から本殿扉を見る

簡素で何の飾り気もないお社である。


拝殿と本殿

拝殿と本殿

でも、その佇まいはあくまでも気高く、崇高に見える。

本殿・外削ぎ千木と五本の鰹木
外削ぎの千木と五本の鰹木

磐座の奥には真名井原神体山が深々と広がり、その樹林のなかにもまた多数の磐座が鎮座している。

本殿を囲む真名井原神体山
社殿奥の真名井原・神体山にも磐座がある。左の石柱内に二坐の磐座

神体山入山口に立つ鳥居の正面に塩土老翁(シオツチノヲジ)の磐座がある。

神体山の磐座群
神体山に磐座群

塩土老翁は、本宮・籠神社のそもそもの主祭神であった彦火火出見尊(山幸彦)を龍宮城へといざなった潮流・航海の神様である。

塩土老翁の磐座
塩土老翁の磐座

そのすぐ右手にあるのが、宇迦之御魂(ウカノミタマ)の磐座。宇迦之御魂は伊邪那美尊が飢えていた時に産まれ出でた穀物の神である。

宇迦之御魂の磐座
宇迦之御魂の磐座

そして、樹林の左奥に須佐之男命の磐座と道祖神が見える。

神体山には諸々の磐座が鎮座
須佐之男命の磐座や道祖神も

太古からの聖地がこの神体山の先、奥に今でもずっと鎮まっているのだと思うと、日本人の祖先が大切に、大切に守り育ててきた祈りの地を、この後も子々孫々、侵すことなく、引き継いてゆかねばならぬと衷心より思ったものである。



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王家の谷、善通寺・有岡古墳群を歩く=王墓山古墳

王家の谷、善通寺・有岡古墳群を歩く=積石塚古墳・野田院古墳

王墓山古墳説明版 王墓山古墳案内板
王墓山古墳の説明版と案内板

王墓山古墳は王家の谷・有岡古墳群のほぼ中央に位置する全長46mの前方後円墳である。

王墓山古墳全景
王墓山古墳全景

この有岡古墳群を含む善通寺から北東部に広がる“弥生末期讃岐国の中心集落・旧練兵場遺跡”は45万岼幣紊肪し、佐賀県の吉野ケ里遺跡にも匹敵する規模であることが分かっている。

吉野ケ里遺跡
吉野ケ里遺跡(2004年撮影)

大和王朝の全国統一前に、この四国の地にも大きな古代の“クニ”が存在していたのである。

前方墳と我拝師山
前方墳と我拝師山
後円墳と香色山と五重塔
後円墳と香色山と五重塔

その古代国家の王家の谷の中心に位置するのが、この王墓山古墳なのである。

王墓山古墳と青空
後円墳を見上げる・横穴式石室の入口が見える

6世紀中頃に築造された横穴式石室内に石屋形を設置する特異な埋葬方式をとっており、その方式の古墳を多く残す九州・肥後地方との関係が強く類推されている。

羨道と玄室
狭い羨道と奥に石屋形を有する玄室が見える

この古墳の被葬者であるが、副葬品のなかに朝鮮半島製の金銅製冠帽や装身具、鉄地金銅張りの馬具がたくさん見られたこと、また、鉄製品や須恵器類など桁違いの数を誇ることなどから、この地で巨大な権力を振るい、瀬戸内海を通じ朝鮮半島や九州など他の先進地域とも活発に交流をはかる大きな文化圏の中心に坐っていた人物であったことが十分に想像される。(石屋形を有する横穴式石室は、6世紀前期頃から肥後地方の菊池川流域と白川流域に集中して設けられ両地域内に40例以上が分布している)

後円墳から前方墳を  前方墳下から後円墳を見上げる
前方墳から後円墳を見る
後円墳
後円墳
円墳から前方墳を見る
円墳頂上から前方墳を見る

その候補としては、やはり善通寺を氏寺として栄えてきた古代豪族、佐伯氏の首長を挙げるのが最も妥当であろう。

善通寺・五重塔
善通寺五重塔

そして、この王墓山古墳の主の何代かのち、およそ200年後に、佐伯氏の御曹司として生まれたのが、佐伯真魚、のちの空海である。

善通寺済世橋より大麻山と香色山裾を
善通寺済世橋より南に大麻山を見る。右の山裾は香色山
済世橋より香色山・筆の山を見る
済世橋より西に香色山と筆の山を見る

この国の創世記の宗教、思想の成熟に決定的な影響を及ぼした巨人が、卑弥呼の時代にすでに讃岐で栄えていた古代豪族、王家の出身であったことは、さまざまなことを考え、類推させ、まことにもって興味が尽きないのである。

王家の谷、善通寺・有岡古墳群を歩く=積石塚古墳・野田院古墳

善通寺市内に五岳山と呼ばれる屏風のように聳え立つ山塊がある。西から東へ、火上山・中山・我拝師山(がはいしさん)・筆の山・香色山(こうしきざん)と麓を連ねている。

火上山・中山・我拝師山  左:筆の山 右:香色山
左から火上山・中山・我拝師山 次の右手の尖っているのが筆の山・右端が香色山

その東端の香色山東麓に、「屏風浦五岳山誕生院善通寺」と号する四国霊場第75番札所・善通寺が大きな伽藍を配する。


善通寺
善通寺

弘法大師・空海はこの地の豪族、佐伯善通の子として生まれ、幼名を真魚と称したという。

善通寺の西院は佐伯氏の邸宅があった跡であり、弘法大師生誕の場所として、産湯井堂を再建するなど今でも大切にされている。

産湯井堂 空海が産湯を使った井戸
産湯井堂と中にある産湯の井戸

空海が生まれ育ったこの場所のすぐ西方、香色山・筆の山・我拝師山の連山と、南方の大麻山(おおさやま)に挟まれた弘田川流域、“有岡”と呼ばれる低丘陵部がある。


王家の谷・有岡地区
王家の谷・有岡地区
善通寺済世橋より大麻山と香色山裾を
善通寺・済世橋より大麻山を見る。右手の山すそは香色山

この地が1600年ほど前には住居跡などの痕跡が少なく、逆におびただしい数の古墳や祭祀の場所であったことが確認されている。


つまり、古は奥津城(おくつき)の地として聖域視された、いわば日本版“王家の谷”とも呼ばれる聖地であったと考えられるのである(『善通寺史』・総本山善通寺編を参考とした)。


善通寺市内には現在確認されるだけで四百を超える古墳が存在し、就中、この有岡地区には大小の前方後円墳が集中していることで、全国的に有名であるという。

左に樽池を見て、奥に見える大麻山へと向かいます
ここから奥に見える大麻山の頂上近くの野田院古墳を目指す

そのなかで、大麻山山麓の比較的高所に分布する大麻山椀貸塚古墳・大麻山経塚・御忌林(ぎょうきばえ)古墳・大窪経塚古墳・丸山一号、二号墳、そして大麻山北西麓(標高405m)に位置する“野田院古墳”は、古墳時代前期に築かれた古いもので、しかも石だけを積み上げてゆく積石塚古墳というこの時期の築造法としてはわが国ではきわめて珍しいものである。

野田院古墳と大麻山頂上
野田院古墳から大麻山頂上を見る

この三世紀後期から四世紀前半という古墳時代のごく前期に築造された積石塚古墳は、同じ香川県の高松市の岩清尾山古墳群で確認される二百余基の古墳のなかに20基ほど存在している。

二段の積石塚古墳
二段に石が積み上げられている

なお、この希少な積石塚古墳は、古墳時代後期に築造されたものが遠く離れた長野県や山梨県、群馬県に存在するが、その頃には讃岐地方で積石塚古墳はすでに消滅しており、それらとの関係はまだ研究が進んでおらず、不明とのことである。

円墳上部
後円墳の上部・二つの竪穴式石室の仕組みが見える

野田院古墳はその調査で傾斜地に築いた基礎部を特殊な構造で組み上げることで、変形や崩落を防ぐというきわめて高度な土木技術によって作られていたことが判った。

展望台より野田院古墳
展望台より見る

この特殊な古墳築造形式やその技術の起源だが、現在、まだはっきりとした定説はない。

前方墳より後円墳を見る
前方の方墳から積石塚円墳を見る

しかし、この形式の墳墓は高句麗や中央アジアの遊牧民の埋葬様式として数多く見られるという。また、慶尚南道にも積石塚古墳が見られるという。

方墳
前方墳です、手前に一部、積石塚円墳です

その積石塚古墳の形も、高句麗など北方は方墳、慶尚南道の朝鮮半島の南部は円墳が多いということであるが、当地の円墳という墳形を朝鮮半島南部と直接的に関連付けるのは、まだ早計との判断のようである。

野田院古墳
山腹を削った平坦地に野田院古墳がある

さて、野田院古墳であるが、大麻山中腹のテラス状平坦地で、王家の谷である有岡地区はもちろん善通寺から丸亀平野を一望に見渡し、瀬戸内の海、さらには備前地方まで見通せる特別な場所に位置している。

王家の谷を見下ろす野田院古墳
晴れ渡った日には瀬戸内海を越え、遠く備前の地が見える

しかも築造年代が三世紀後半、卑弥呼の時代(248年前後に死亡)の50年ほど後の古墳時代のごくごく初期となれば、その埋葬主も王家の始祖にも等しき重要な人物と考えてもよいのではなかろうか。


その王家というのが、前述した弘法大師、空海の出自である佐伯氏という豪族である。

五岳山・左より火上山、中山、我拝師山
野田院古墳から王家の谷を見下ろす

王家の谷を見下ろし、すぐ先に瀬戸内海を一望する特別の地に眠る王が、のちの国家鎮護の密教・真言宗の始祖、空海の祖先であるということは、大和王朝の成り立ちや天皇家との血筋の関係においても、色々と興味深いものがあると考えたところである。


如何せん、野田院古墳から見下ろす景色が壮大かつ雄渾であることは、ここの展望台に立ってみないと実感できぬ醍醐味であることは確かである。


経津主神(フツヌシノカミ)と武甕槌神(タケミカヅチノカミ)=出雲で国譲りを成した二神の謎

春日大社をゆく=武甕槌神(タケミカヅチノカミ)・経津主神(フツヌシノカミ)に誘(イザナ)われ
謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(上)
謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(下)
武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を祀る鹿島神宮をゆく(上)
武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を祀る鹿島神宮をゆく(下)

春日大社で不思議に思った経津主(フツヌシ)神と武甕槌(タケミカヅチ)神を尋ね、瑞々しい新緑が芽吹く頃、香取神宮(千葉県香取市)と鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)を訪れた。


経津主神と武甕槌神は高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)から蘆原中津国の平定を命じられ、天安河原から出雲へ降り立ち、大国主命に国譲りをさせた武神である。


そのニ神について、日本書紀と古事記の記述は異なる。


〔日本書紀〕

高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)が誰を平定のために遣わしたらよいかを諸々の神に尋ねている。

そして、一同が「磐裂・根裂神の子、磐筒男(イワツツノオ)・磐筒女(イワツツノメ)が生める子経津主神、是佳(ヨ)けむ」と推挙したところ、武甕槌神が進み出て、「豈唯経津主神のみ独り丈夫(マスラオ)にして、吾は丈夫に非ざらむや」と異議を唱えた。

その結果、「故、以ちて即ち経津主神に配(ソ)へ、葦原中国を平けしたまふ」と、武甕槌神を経津主神に添えて、平定に向かわしたとある。


〔古事記〕

天照大御神が「曷(イヅ)れの神を遣さば、吉(ヨ)けむ」と諮ったところ、思金神(オモイカネノカミ=予見の神)と諸(モロモロ)の神が、「建御雷之男神(タケミカヅチノオノカミ)、此、遣すべし」と推挙し、「天鳥船(アメノトリフネノ)神を建御雷神(タケミカヅチノカミ)に副へて遣しき」とある。


つまり、“経津主神”は、日本書紀では葦原中国平定の正使として顔を出すが、古事記には、一切、名前を出さない。一方の“武甕槌神”は“紀”では副使、“記”では正使と肩書は異なるものの両書に顔を出す。


そこで、古事記において“経津主神”を想起させる個所が、伊耶那美命(イザナミノミコト)が火の神・迦具土神(カグツチノカミ)を生んだ際、“みほと”を炙(ヤ)かれて亡くなった場面である。


怒った伊耶那岐命(イザナギノミコト)が、長剣の十拳(トツカ)の剣で迦具土神(カグツチノカミ)を斬り殺した時に飛び散った血から産まれた神として、


剣の切っ先から生まれたのが、石折神(イハサクノカミ)・根折神(ネサクノカミ)・石箇之男神(イハツツノオノカミ)の三柱。

剣の鐔(ツバ)から生まれたのが、甕速日神(ミカハヤヒノカミ)・樋速日神(ヒハヤヒノカミ)・建御雷之男神(タケミカヅチノオノカミ)の三柱。

剣の柄(ツカ)から生まれたのが、闇淤加美神(クラオカミノカミ)・闇御津羽神(クラミツハノカミ)の二柱。


合計八柱の神が十拳(トツカ)の剣に因って生まれた。


その一神・建御雷之男神の別名を“建布都神(タケフツノカミ)”あるいは“豊布都神(トヨフツノカミ)”と古事記は云っている。また、紀の第9段正文で経津を“賦都(フツ)”と云うとあることからも、“布都(フツ)”=“経津(フツ)”を想起させる。


次に、もう一方の日本書紀の記述を見る。

やはり、火の神である軻遇突智(カグツチ)の斬殺に起因して“経津主神”が生まれており、古事記にその名はないものの、“経津主神”は一連の“武甕槌神”誕生譚と深く関わっており、両神の祖は同根であると断じてよい。  


日本書紀は、伊奘諾尊が十握剣(トツカノツルギ)で“軻遇突智(カグツチ)”三段に斬ったが、第5段・第6書において、その刃から滴る血が天安河辺(アマノヤスノカワラ)に至り、五百箇磐石(イホツイハムラ)になった。それが“経津主神”の祖であると明記している。


第7書には、五百箇磐石の岩から「磐裂神、次に根裂神、その児・磐筒男神、磐筒女神、その児・経津主神」とある。


そして“紀”は、剣の鐔(ツバ)から激越(タバシ)った血が甕速日神(ミカハヤヒノカミ)になり、次に熯速日神(ヒノハヤヒノカミ)が生まれ、甕速日神が武甕槌神の祖であると記す。


さらに剣の鋒(サキ)から垂れ激越(タバシ)った血から磐裂神(イワサクノカミ)、次に根裂神(ネサクノカミ)、次に磐筒男神(イワツツノオノミコト)(一説に磐筒男命と磐筒女命)が生まれたとなっている。因みに、剣の柄(ツカ)からは、闇龗(クラオカミ=水神)、闇山祇(クラヤマツミ=谷のある山の神)、闇罔象(クラミツハ=谷の水神)


つまり“紀”および“記”ともに、“武甕槌神”は鐔から、“経津主神”は鋒(先)からと、部位こそ違え、同じ長剣の十握剣(トツカノツルギ)が生まれたことになる。


そして、経津主神と武甕槌神が古来、武神として崇敬されてきたのは葦原中国平定の偉業に加え、その出自が十握剣という聖剣に深く関わっていることによる。


こうした紀・記の記述を見てくると、武甕槌神の別名が“建布都神(タケフツノカミ)”あるいは“豊布都神(トヨフツノカミ)”と“フツ”を冠する神名であること、鹿島神宮に伝わる国宝・“韴霊剣(フツノミタマノツルギ)”、さらに物部家および天皇家の武庫であった石上神宮の御神体なる神剣・韴霊(フツノミタマ)と“フツ”の名を冠していることから、葦原中国平定を成した聖剣こそがすなわち経津主神、同神の御魂のようでもあり、謎は深まるばかりである。


さらに、経津主神について詳しく見ると、紀・第9段一書第二に、


「天神(アマツカミ)、経津主神・武甕槌神を遣して、葦原中国を平定めしめたまふ。時に二神曰さく、『天に悪神有り。名けて天津甕星(アマツミカホシ)と曰ふ。亦の名は天香香背男(アマノカカセヲ)。請はくは、先づ此の神を誅(ツミナ)ひ、然して後に下りて葦原中国を撥(ハラ)はむ。』とまをす。是の時に斎主(イワヒ)の神を斎(イワヒ)の大人(ウシ)と号(マヲ)す。此の神、今し東国(アヅマ)の檝取(カトリ)の地に在します。」


とある。


この斎主(イワヒ)の神については、“古語拾遺”に「経津主神云々、今下総国香取神是也」とあり、延喜式祝詞「春日祭」にも「香取坐伊波比主命」とある。つまり、“紀・第9段一書第二”に云う“斎主(イワヒ)の神”は“経津主神”であり、下に続くように、全国平定を果たしたのは、ひとり経津主神ということになる。


“一書第二”には、経津主神と武甕槌神の二神で出雲で国譲りを成就した後、「経津主神、岐神(フナトノカミ)を以ちて郷導(ミチビキ)として、周流(メグ)りて削平(タヒラ)ぐ」とある。


すなわち、ひとり経津主神が、帰順した大己貴神(オホアナムチノカミ=大国主命)が推挙した岐神(フナトノカミ=道祖神=猿田彦大神)を先導役として全国を斬り随えたとあり、出雲平定ののちの全国平定に関しては武甕槌神の名前が出ていないのである。

経津主神と武甕槌神、この二神はいったい別々の神なのだろうか。国家鎮護を成した人物とその佩いた聖剣を武の神として祀ったのではないのか。そうであれば、二神であるが、同一神とみてもよいとも云える。都よりも遠く離れた地にこの二神が相並ぶようにして鎮まっているのも、この神々が不即不離の関係にあることを暗示しているのかも知れない。

春日大社をゆく=武甕槌神(タケミカヅチノカミ)・経津主神(フツヌシノカミ)に誘(イザナ)われ

3月のお水取りを観覧した際に、久方ぶりに春日大社を訪ねた。

世界遺産・春日大社
世界遺産・春日大社

春日大社といえば、朱塗りの廻廊と釣燈籠のイメージしか浮かんでこず、その御祭神がどなたであるかも知らずにいたのが正直なところである。 

御廊(オロウ)
御廊(オロウ)
西回廊
西回廊

この機会に同神社の由緒などに当たると、「奈良遷都の710年、藤原不比等がその氏神である武甕槌命を鹿島神宮から奈良の御蓋(ミカサ)山山頂浮雲峰に迎えた。768年、称徳天皇の勅命を受け、左大臣藤原永手によって香取神宮から経津主命、また枚岡神社から天児屋根(アマノコヤネ)命・比売(ヒメ)神を迎え、中腹となる今の地に四殿の社殿を造営し祀ったのが当社の創始」とある。

中門・御廊(オロウ)
中門と御廊(オロウ)
中門奥に本殿
中門の奥に四柱の御祭神を祀る本殿がある

そう言えば、藤原氏の始祖である藤原(中臣)鎌足は常陸国の出身といわれている。


藤原道長など藤原氏の栄華を描いた“大鏡”に、「鎌足のおとど、む(生)まれ給へるは、常陸国なれば、かしこのかしま(鹿島)といふところに、氏の御神をすましめたてまつり給ひて、その御代より、いまにいたるまで、あたらしき御門、后、大臣たち給ふをりは、みてぐらづかひ、かならずたつ。みかど、ならにおはしまししときは、かしことほしとて、大和国みかさ山にふり奉りて、春日神社となづけたてまつりて、いまに藤氏の御氏神にて、おほやけ、をとこ女づかひたてさせ給ひ后宮、その氏の大臣公卿みな此明神につかうまつり給ひて、二月十一日上申日御まつりにてなん、さまざまのつかひたちののしる」とあり、藤原摂関家の栄耀とともに春日大社の権威も高まっていったことが分かる。

BlogPaint
弊殿・舞殿(ブデン)

そうした由緒を持つ春日大社に参詣し、その御祭神である武甕槌神(タケミカヅチノカミ)、経津主神(フツヌシノカミ)なる大国主命からの国譲りを成し遂げた二神に、俄然、興味を抱くことになったのである。

直会殿(ナオライデン)
直会殿(ナオライデン)

そして、藤原氏の旧姓、占部を職とする中臣氏の祖神は、確か天児屋根命のはず。藤原氏の氏神であれば、枚岡神社から天児屋根(アマノコヤネ)命のみを分祀すればよかったのではないのか。


なぜ武甕槌神(タケミカヅチノカミ)や経津主神(フツヌシノカミ)という国家平定二神を氏神として第一殿、第ニ殿へ祀ったのか。

四つの本殿
右手に並ぶのが四つの本殿(奥より武甕槌神・経津主神・天児屋根命・比売神)

春日大社は鹿が“神使(シンシ=神の使い)”とされているが、それは大社創建の際に、鹿島神宮の御祭神である武甕槌神が常陸国から神鹿に載ってやって来られたことに由来すると伝えられている。

春日大社の神鹿と二之鳥居
春日大社の神鹿と二之鳥居

鹿島神宮の祭神だけにとどまらず、神鹿まで印画する複製品のようなこの春日大社とは一体、何なのか・・・。


また、それほどの神力を有していた鹿島神宮とはいったいどういう由緒を持つのか・・・

春日大社で生まれた謎が謎を生み、そして止め処なく脹らみ続けてゆく。

春日大社参道
春日大社の厳かな参道

わたしはその謎を追うようにして、新緑を深めゆくこの春、武甕槌神(タケミカヅチノカミ)、経津主神(フツヌシノカミ)に誘われるように、その二神を祀る香取神宮と鹿島神宮、そして武甕槌神に打ち負かされた建御名方神(タケミナカタノカミ)を祀る諏訪大社を巡ることとなったのである。

丹後國風土記の世界に游ぶ=天橋立

2013年の最初の旅は、かつて天橋立を参道としていた籠(この)神社を訪ねることでスタートした。



籠神社
籠(この)神社

大寒直後の1月22日の早朝、東京駅から新幹線に乗り、一路、京都府・宮津を目指した。途中京都駅で家内の親しい友人と京都で大学教授として心豊かな第二の人生を送っておられるご主人のお二人と合流、賑やかな天橋立への道行きとなった。

  
京都駅31番線ホームで待合せ、特急”はしだて”に乗りました

さて、丹後國風土記は『奈具社』『天椅立』『浦嶋子』というわずか三つの逸文が残されているのみである。


丹後國は和同6年(713)4月、丹波國から加佐・與佐・丹波・竹野・熊野の5つの郡を割って成立した。


そのひと月後の5月、元明天皇によって、『1・畿内七道諸国の郡郷の名は好き字をつけよ』、『2・其の郡内に生ずる銀・銅・彩色草木禽獣魚虫等の色目を記録せよ』、『3・土地の沃塉(よくせん=肥沃か瘠せているか)、山川原野の名が名づけられた由来』、『4・古老が伝える古い伝承、珍しい話』を言上せよとの『風土記』撰進の詔が発せられた。


そして、出来たてホヤホヤの丹後國から報告されたもののうち、『地名の由来(3)』にも言及した『古老の相伝する旧聞異事(4)』に関わる前述の三つの逸文が現在に至るまで残っていることになる。


その一つが『天椅立』であり、今を去る1300年前に以下の如く記述されている。



傘松公園より”斜め一文字”
傘松公園より天橋立・手前の森が籠神社で府中側、海の向こう側が文殊側

「丹後の国の風土記に曰く、与謝の郡。郡家の東北の隅の方に速石(はやし)の里あり。此の里の海に長く大きなる前(さき)あり。長さは1,229杖(3.64km)、広さは或る所は9丈(26.6m)以下、或る所は10丈(29.6m)以上、20丈(59.3m)以下なり。先を天の椅立(はしだて)と名づけ、後(しり)を久志(くし)の浜と名づく。然云ふは、国生みましし大神、伊奘諾尊、天に通ひ行でまさむとして、椅を作り立てたまひき。故、天の椅立と云ひき。神の御寝(みね)ませる間に仆(たふ)れ伏しき。仍ち久志備(くしび)ます(霊異のはたらきをする意)ことをあやしみたまひき。故、久志備の浜と云ひき。此を中間(なかつよ)に久志と云へり。此より東の海を与謝の海(現在の宮津湾)と云ひ、西の海を阿蘇の海(現在も同名・内海)と云ふ。是の二面(ふたおもて)の海に、雑(くさぐさ)の魚貝等住めり。但、蛤(うむぎ)は乏少(すくな)し。」


風土記編纂の時代の度量衡は“和同の制”によるが、その単位でメートル法に換算すると、1丈は10大尺(1大尺=曲尺0.978尺)、つまり2.96mとなる。つまり風土記内に記述されている天橋立の長さは3.64km、幅は26.6m以下或いは29.6mから59.3mとなる。


そこで1300年後の天橋立の姿はどうかということだが、現在、その長さは3.6km、幅は20170mと表示されており(天橋立観光協会HP)、長さは風土記の時代と同じ、幅が3倍ほどに広がった個所があるということになる。

雪舟観より与謝の海と天橋立
雪舟観:雪舟が天橋立を描いた場所(宮津湾東)から見た天橋立・手前が宮津湾

また風土記にいう橋立の基部を指した“久志の浜”は、現代では天橋立の先端部、つまり風土記とは反対側の、廻旋橋の方の文殊水道側の浜の呼び名となっている。


伊勢神宮外宮の祭神・豊受大神(天女)が舞い降りた地上界の地とされる“真名井原”こそが、“久志備(くしび)ます”処であるはずであり、天橋立の基部、即ち現在の籠神社・真名井神社があるあたりを久志の浜と名づけた風土記が理に適ったものといえ、なぜ、後世にその呼び名が反対側に転遷したのかは定かでない。


そして天橋立は伊奘諾尊が天に通った梯子が倒れたわけだが、どう倒れたかという、まことに瑣末なことだが・・・(『細かいことが気になるのが、私のイケナイ癖・・・』、杉下右京じゃぁ、あるまいし・・・)。


天女(豊宇賀能賣命=豊受大神)が降臨されたのが、真名井神社・籠神社のある真名井原ということになるので、籠神社側すなわち府中側に梯子の基部があったことになる。


だから梯子は宮津湾を分割するように府中側から文殊側に南方向に仆(たお)れたということになる。


のちに真名井原に籠神社が創建されて、海中に伸びる天橋立がその参道となったが、参拝客は梯子の上部から下へ向かって歩いていっていることになる。どうでもよい話ではある。


さて、われわれ4人は其の日、宮津湾沖に停泊する貨物船から沖採りする日本冶金所有の艀(はしけ)が阿蘇海とのピストン輸送を繰り返すという天運に恵まれ、廻旋橋の開閉を飽くことなく何度も見ることができた。日頃のわが身の行ないの良さ?いや、伊奘諾尊、火明命のご加護であろうと、感謝した次第である。



廻旋橋が開き、バージが通る
廻旋橋が開き、艀が通ります。橋上の赤い傘の人は開閉を指示する人で観光客ではありません
  
廻旋橋上より東側に文殊水道を見る・廻旋橋を渡る知人ご夫妻

橋立に赴く前に、智恩寺に参拝したあと、文殊水道(天橋立運河)に架かる廻旋橋(小天橋)を渡り、まずは小橋立エリアへ上陸。 

  
智恩寺山門と智恵の輪燈籠
  
小橋立に建つ昭和天皇御幸の歌碑(左)、日本三景の石碑(右)

そしてすぐの大天橋を渡るとそこが大橋立、いわゆる天橋立である。小雨が時折ぱらつく大寒の頃とて、天橋立に人影は見えず、森閑としている。

  
この大天橋を渡ると、上の大橋立エリア、いわゆr天橋立の松並木となる

およそ8000本もの松の茂る大天橋の松並木の一本道をたった4人で贅沢にもゆったりと散策した。松並木の道がひっそりととおく続くのみである。

天橋立松並木
当日は人影も見えぬ天橋立の松並木

/3ほどいったあたりに、天橋立神社がある。



  
天橋立神社・神社東側に松並木が府中へと続く

その西側に両岸が海に囲まれているにも拘わらず、塩気のない真水が湧くという不思議な“磯清水”がある。



  
左が天橋立神社、右奥に見えるのが磯清水・磯清水の真水が流れています

磯清水

さらに、岩見重太郎の仇討ちの場所や試し切りしたといわれる石が神社の東側にある。 

岩見重太郎仇討ちの場 
左:岩見重太郎仇討の場の石碑 右:試し切りの石だそうです・・・

その当りでちょっと松林を東に抜けて見る。白砂の浜辺へ出る。誰もいない浜辺に4人の声だけが響く。その声が渡る先に宮津湾(与謝の海)が拡がっていた。宮津の地名は籠神社をむかし吉佐の宮(天照大神が伊勢へ遷る前、4年間当地に遷座)と呼んでいたので、宮の湊というので、その名がついたと云われる。 

誰もいない浜辺と与謝の海
誰もいない白砂青松と与謝の海(宮津湾)

また、今度は取って返して西側へ松林を抜ける。すると、そこには冬の薄日がこぼれキラキラときらめく穏やかな阿蘇の海があった。その様はあたかも水面に薄絹の羽衣がひらひらと舞い落ちてきたようにも見えた。




阿蘇海

そこには古代人の息遣いが聴こえるようで、そのゆったりとした平安な時の流れに全身が抱きすくめられたような奇妙な気分にとらわれた。



  
神さびた苔蒸す松の古木・だれもいない天橋立

そして真名井原に舞い降りた天女、豊受大神を想い、往古、神が通った道の土の感触を味わうかのようにしずかに歩をすすめた。

韓国へ初めて旅した!=新羅千年の王都、慶州を巡る その3 魚板・雲板

大雄殿の廻廊に魚板(ギョバン)と雲板(ウンパン)が吊るされていたが、同形のものは日本では中国色の濃い禅宗寺院で見ることができる。

仏国寺・魚板と雲板
大雄殿廻廊にある龍頭魚身の魚板(ギョバン)と雲板(ウンパン)
仏国寺・魚板
下部が大きく空洞にされ、角の生えた魚板・この空洞の中を叩くという

日本の魚板は食事や修業開始の時を告げるときに叩くものと教えられたが、今回、もっと深い意味があったことをガイドの趙(ジョウ)さんから説明を受けたので、ここに記録として書き留めておく。

「魚板は水中で生きる衆生に、雲板は空に生きる衆生に、これを叩くことで仏法を教え、すべての衆生が天国へゆけるようにと祈るもの」だという。

「魚の口に見える珠は衆生の持つ3つの毒を表していて、魚板の腹中を叩くことで、この毒を体外に吐き出させる」のだそうだ。つまり、魚板は日本ではお腹の部分を表面から叩くが(下に穴が開いていない)、韓国では以上の意味から腹中から叩かないと吐きださせる意味がないとのことであった。なるほど・・・仏国寺の魚板には内臓が抜かれた肴のようにぽっかりと大きな空洞がある。

仏国寺・魚板
なるほど大きな空洞である・・・

それで三毒とは華厳経の一説である懺悔文(ザンゲモン)に云う、「貪(トン)・瞋(ジン)・癡(チ)」のことだと帰国して調べて分かったので、ここに記す。

「我昔所造諸悪業(ガシャク・ショゾウ・ショアクゴウ) 皆由無始貪瞋癡(カイユ・ムシ・トンジンチ) 

従身口意之所生(ジュウシンゴイ・シショショウ) 一切我今皆懺悔(イッサイ・ガコン・カイサンゲ)」

「我昔より造るところの諸々の悪業は皆無始の貪(トン=貪欲)・瞋(ジン=怒り)・癡(チ=愚かさ)に由る。身・口・意従(ヨ)り生ずる所なり、一切、我今皆懺悔す」

ということなのだそうだ。

そして韓国の魚板には肴の頭に角が生えているが、これはどうしたことか。よくは分からぬが「竜頭魚身」ということらしく、この形の木魚を魚板ということらしい。

通常日本のお寺で住職がポコポコ叩く丸いものを木魚というが、角の生えたこの魚の形をしたものが魚板と呼ぶのだと、どこいらに書いてあったが、これまで日本で見た“魚板”に角は生えていなかったので、どういうことなのか・・・、もう少し勉強してみなければ・・・。  


また、これまで“雲板”を目にすることは少なかったが(というより気づいていなかったのだろう)、江戸中期(1740年・第13代竺庵浄印)まで歴代住持を中国から招聘していた宇治の黄檗宗・萬福寺には、仏国寺と同様の雲板が存在するものの、魚板には角はなく、彩色もほどこされていず、下方に穴も開いていないため写真のようにお腹を表面から叩くため、腹部中央がへこんでいる。    

宇治・萬福寺の雲板(ウンパン)
宇治・萬福寺の雲板
萬福寺大雄宝殿
萬福寺大雄宝殿
宇治・萬福寺の魚板(ギョバン)
萬福寺の魚板・腹の中央部分が叩かれてへこんでいる
仏国寺・大雄殿の雲板
仏国寺紫霞門から雲板を見る

長崎の唐寺、長崎三福寺のひとつ興福禅寺の魚板は下腹を叩くのだろう、萬福寺とは異なり、下腹部がえぐられたように削り取られている。こちらの叩き方のほうが毒を吐き出させる意味合いから云うと、大陸の魚板の叩き方をわずかに今に伝えているのかも知れない。双方の魚板とも口には三毒を意味する珠を咥えているのだから。

長崎・興福禅寺山門
長崎興福禅寺山門
長崎・興福禅寺の魚板
長崎興福禅寺の魚板・下腹部から抉(エグ)り取られている

そして、哀しくも痛ましい雲板が、同じ長崎三福寺のひとつ福済寺の“片耳が落ちた”雲板である。原形は仏国寺のものと同形であるが、原爆投下により大雄宝殿以下七伽藍が一切焼失した際に、一片が毀損したものの雲板が今にその惨状を伝えるために生き残っている。

長崎・福済寺本堂
国宝の大雄宝殿址に建つ現在の福済寺・伽藍配置も一切断ち切ったお寺になっている

それは空に生きる衆生に仏法を教えるという“雲板”が、片耳を落としながらも必死の思いでわが身と引き換えに、原爆により空に昇った多くの魂を天国へと誘ったように思えてしかたがなかった。

長崎・福済寺の雲板
原爆で左肩が焼け落ちた雲板

現在の福済寺に往時の姿を偲ぶ縁(ヨスガ)はない。ただ“耳の落ちた”雲板が寺院の片隅に吊られているのみである。

元禄15年7月吉日と刻まれた裏面
雲板の裏面・鋳造された元禄15年7月吉日の日付が読み取れる

遠い韓国でたまたま目にした雲板に今更ながらに命の重みを知らされたところである。

韓国へ初めて旅した!=新羅千年の王都、慶州を巡る その2---仏国寺 紫霞門・大雄殿

高句麗は375年に仏教を公認。百済には384年に仏教が伝来したと云われ、新羅は両国に遅れること150年ほどたった527年に漸く公認されたという。


ただ、公認を果たした第23代法興王(在位514-540)は律令制の導入など中央集権的統治機構の整備を強力に推し進め、仏教も護国宗教と位置づけられ王権強化の舞台装置としてその影響力を急速に増していくこととなった。


そうした護国宗教のシンボルのひとつとして創建された(528年)のがこの仏国寺であり、当時は華嚴仏国寺、また“法流寺”とも呼ばれていた(因みに日本の“法隆寺”607年創建と伝えられる)。


法隆寺の五重塔・金堂・中門

そして新羅文化の黄金期である8世紀半ば、第35代景徳王10(751)に時の宰相、金大成により大がかりな拡充・整備がなされ、建造物60余棟を擁す現在の10倍もの壮大な規模を誇る大寺院となった。それを機に現在の“仏国寺”と寺号を改めた。


石窟庵世界遺産石碑

なお先に紹介した石窟庵も金大成による同年の設計・創建となるものである。


その後、高麗、李氏朝鮮王朝時代の“尊儒棄仏”という仏教衰退のなかでもこの仏国寺だけは補修、維持が続けられていたが、1593年の豊臣秀吉による壬辰倭乱、いわゆる文縁の役で全ての木造建築物は焼失したという。ガイドの趙さんの話では、敗色濃い李氏朝鮮の兵がここに逃げ込み、立て籠ったため加藤清正帥いる軍勢が大伽藍共々一網打尽に焼討にしたという。わたしはその時、織田信長が行なったあの凄惨な比叡山焼討のことを思い描いていた。


だから創建時のものとしては石造の多宝塔・釈迦塔や建物の基壇が残っているが、基壇の多くが黒く煤けているのは当時の無残な焦土の痕跡であるという。 


黒く煤けた大雄殿の基壇

その後、1604(宣祖 37)頃から1805年にかけ四十数回に渡って部分的補修も含め建物の再建がなされてきた。そして1969年の仏国寺復元委員会の下で、ようやく現在、われわれが目にすることのできる“新羅仏教芸術が一堂に会す韓国随一の仏教古刹”・仏国寺が復元された。


それでは、能書きはこれぐらいにして仏国寺の境内へと足を踏み入れることにしよう。仏国寺の伽藍配置は以下の写真の通りであり、ここでの案内は写真を主に説明をすることにする。何しろ当日は雨の中グルグル昇ったり降りたり境内を廻ったため、帰国後に配置図を見て、ああ、ここが○○殿だったんだってな調子でありまして・・・、シュン・・・(;´Д`)

仏国寺建造物配置図
仏国寺の配置図

さて、「仏国寺」と書かれた扁額の掛かる“一柱門”をくぐって仏国寺の広大な境内に入る。

日本で言う山門、一柱門

まず、般若蓮池に架かるアーチ型の解脱橋を渡る。渡り終わるとすぐ正面に十数段の階段の上に天王門がそびえる。

解脱門の正面に天王門が見える
DSCF2568
天王門扁額

般若蓮池には回遊式日本庭園にある鶴島のような松が植栽された島がひとつ浮かんでいる。紅葉が始まり雨の中とはいえ見事な景色である。

般若池と解脱橋
雨に煙る般若蓮池に浮かぶ島と解脱橋

天王門の両脇には広目天・多門天、持国天・増長天の四天王が参拝者に睨みを利かす。しかし、写真をご覧になって分かるように、日本の四天王よりずいぶんと愛嬌のあるお顔をしている。写真では分かりにくいが、四天王に踏みつけられている小鬼がまた実にかわいくて、ちょっと可哀そうな気がした。


京都東寺の五重塔

怒髪天を抜く形相の京都・東寺の立体曼陀羅の四天王とその足元に踏みしだかれる憎々しげな鬼の相貌とは似ても似つかぬ心持ちの良さを感じた。

四天王・広目天と多聞天
左が広目天・右が多聞天
四天王持国天と増長天
左が持国天、右が増長天
持国天と増長天に踏みしだかれた憎めない小鬼

天王門を抜け、小さな般若橋を渡ると正面に紫霞門、左手に極楽殿に通じる安養門を備える寺というよりどこか城塞のような石造りの宏壮な中核部分が聳え立つ。

紫霞門の左に泛影楼・その左に蓮華橋
紫霞門・下段が青雲橋、上段が白雲橋、左隅に安養門の上段七宝橋が見える

右手正面の大きな門が大雄殿に向かう紫霞門である。石の階段の下半分を「青雲橋」、 上半分を「白雲橋」と言うのだそうだ。階段をなぜ橋と呼ぶのか不思議であったが、趙さんの解説を聴いて納得。俗世から仏国に渡る橋なのだという。 青雲橋は17段で人間の青年時代、白雲橋は16段で老境へ向かう壮年・老年時代。合計33段は帝釈天が統治する「三十三天」を表すのだそうで、人間は年を取りながらその功徳を積み、これを昇り切って紫霞門をくぐると、そこが仏の世界だというのだ。

紫霞門から手前白雲橋と青雲橋を

大雄殿は日本で云う本堂である。わび、さびの日本の古色蒼然とした寺院と異なり、大雄殿をふくめ各伽藍は極彩色で彩られ、仏の世界の美しさを競っているように見えた。

大雄殿
大雄殿
大雄殿から紫霞門を
大雄殿から正面の紫霞門を

平等院鳳凰堂の堂内彩色の復元を見たが、まさに仏国寺の各伽藍の華やかさの通りであった。かつての日本の寺院もこのように絢爛豪華であったかと思うと、“わび・さび”の文化が、創建時の彩色に復元する努力を行なわなかった“ズボラ”の産物であったともいえ、何とも白けて来るのも正直なところである。

宇治の平等院鳳凰堂

大雄殿のご本尊は釈迦牟尼仏である。

大雄殿本尊・釈迦牟尼仏
釈迦牟尼仏

大雄殿の前庭には東に多宝塔、西に釈迦塔が立つ。どちらも10.4mの高さの石造で創建時(751)のものである。

釈迦塔
釈迦塔
仏国寺・多宝塔
多宝塔
仏国寺多宝塔を飾る獅子
唯一残る獅子像

多宝塔の造作は見れば見るほどその石工の造作は見事の一言につきる。一層目に一頭の獅子が配されているが、もともとは四方に四頭あったという。

石灯籠から見える仏様
石灯籠の灯りとりからお釈迦様のお顔が見える

大雄殿の真正面に石灯籠が置かれているが、その灯り取りからご本尊の御顔が見える。

平等院鳳凰堂正面から扉越しに阿弥陀さまのお顔が見える
平等院鳳凰堂の格子窓に阿弥陀如来のお顔が見える

これらも東大寺や平等院鳳凰堂などの窓や扉の格子越しにご本尊の尊顔を拝するのに似ている。

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