彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

神社・仏閣

道草しながら車遍路(逆打ち)の四国88か所霊場めぐり 第86番札所・志度寺

(当ブログの写真・記事等の無断転用を禁じます。) 

長尾寺から県道3号線をほぼ真北へ向かって走ると、志度湾に面して建つ志度寺へ達する。
距離にして7・0km、所要時間は16短い行程である(経路地図)

1・志度寺
第86番札所・志度寺
志度寺は藤原不比等(藤原鎌足の子)を開基とし、国宝の十一面観音立像が本尊である。

2・志度寺・仁王門
仁王門
仁王門から入り、書院を右手に左手に向き合うようにして大きな本堂が見える。

3・本堂
本堂
その本堂正面から左手突き当りに五重塔が見える。

4・本堂前から五重塔
本堂前から五重塔を見る
この時期はあいにく葉叢が分厚く境内を覆うため視界が狭く、すっきりと五重塔を見上げることは難しい。

5・志度寺五重塔
本堂右に大師堂がある。

6・大師堂
大師堂
大師堂を南に下がると薬師堂。

7・薬師堂
薬師堂
薬師堂から西に向かうと左手に先ほどの書院へ通じる小さな門がある。

8・書院入口
書院への門
書院の南側には淡海公(不比等)と海女の珠取説話をテーマにした枯山水の無染庭が見える。

9・珠取説話の無染庭
無染庭
その生垣の外に日本で三つしかないという曲水式庭園が広がる。

10・曲水式庭園
曲水式庭園
そのひとつが滋賀県高島市にある旧秀隣寺庭園(現・興聖寺)であるというが、十一面観音立像の楠が流出した地がその辺りであるという不思議な縁をここにも感じる。


そんなせっかくの文化遺産であるが、手入れが行き届いていないのか全体を見渡すのが難しく、実に残念である。

11・草で覆われた曲水式庭園
曲水の石組が見えなくなっている庭
この曲水式庭園の奥にひっそりとお辻の井戸がある。

12・曲水の庭と書院の生垣に沿った奥にお辻の井戸
お辻の井戸
説明版によれば、歌舞伎や浄瑠璃の演目・「花上野誉石碑(はなのうえののほまれのいしぶみ) 志度寺の段」でお辻が水垢離し、のちに身を投じて自害した井戸と伝えられるものである。

13・お辻の井戸・納経所・五重塔・書院
左隅にお辻の井戸 手前が書院、左が納経所 遠くに五重塔
そして、御朱印をいただく納経所は書院の脇に隠れるようにしてあった。

14・納経所
さて、この寺にはその由来をひも解く「志度寺縁起文7巻」と重要文化財・「絹本著色志度寺縁起絵図6幅」(鎌倉後期)が伝わっている。その構成は次のごとくである(「珠取説話の伝承圏」(大橋直義氏)より)。

  御衣木の縁起

  讃州志度道場縁起

  白杖童子縁起

  當願暮當之縁起

  松竹童子縁起

  千歳童子蘇生記(この縁起文の縁起絵が欠漏し、縁起絵図は6幅)

  阿一蘇生之縁起

 

この縁起文・絵図の第2幅・「讃州志度道場縁起」に謡曲・能の名作「海人」の下敷きとなった珠取説話が語られている。

 

唐の第3代皇帝・高宗に嫁いでいた藤原不比等の妹が宝珠を奈良・興福寺(蘇我入鹿を討った父・鎌足の供養する藤原氏の氏寺)へ贈ろうとしたが、志度の浦で龍神により奪われてしまう。そこで宝珠を取り戻すため志度を訪れた不比等は海女を娶り、一子(房前・のちに藤原道長を輩出する北家の祖)をなす。

 

海女は房前を世継ぎとするとの約束を不比等と交わし龍神から珠を奪い返すため海に潜る。宝珠は無事、不比等の手に渡るが、龍神との戦いにより海女は息絶えてしまうといった物語である。

 

不比等が海女を供養して建立した堂宇が志度寺であり、のちに藤原家を継いだ房前がこの地をたずね、母の菩提を弔い千基の石塔を建てた一部が境内に残る海女の墓五輪塔群である。

15・古跡海女の墓 志度寺
海女の墓の石碑と木柵に囲われた五輪塔群
そして、この宝珠がその後どうなったかであるが、志度寺縁起および興福寺に係る「太鏡底容鈔」に、不比等の手により興福寺の本尊の御髪に籠められたと記述されており、志度寺が藤原氏と極めて深い関係を有していることに驚かされる。

16・海女の石塔
海女の墓の石塔群
また、「御衣木(みそぎ)之縁起」にも藤原家との濃密なつながりを伝える不思議な言伝えが描かれている。十一面観音立像の御衣木つまり像材となった楠の大木に関する奇譚である。

 

近江国高島郡三尾里から流出した楠の大木が志度浦にたどり着く。凡薗子尼(おおしそのこに)がこの霊木を引き上げ、造立されたのが本尊・十一面観音立像であるのだと語っている。

 

そして、まことに不思議なことに、この高島郡三尾里から流出した楠を御衣木(像材)として本尊の十一面観音立像を造ったという同じ縁起を有する寺が奈良の長谷寺と高島郡(現高島市)に建つ長谷寺である。

17・長谷寺の登り廊
奈良の長谷寺の登廊
この両寺院にも藤原不比等と房前が本尊建立や開基に深くかかわっており、この三寺院の縁起に流れる通奏低音(つうそうていおん)は現代のわれわれに何を語りかけようとしているのか、耳を澄ましてそのひそかごとを聴き分ける必要がある。

18・白蓮山長谷寺
滋賀県高島市の長谷寺
さらに、大津市の園城寺の寺門伝記補録に、境内に鎮座する三尾神社について、三尾里から漂着した大楠にのっていた三匹の子蛇が当社の祭神・三尾明神が化身したものであったと記されている。

19・園城寺内、三尾神社拝殿
園城寺境内の三尾神社拝殿
また、その補録には奈良の長谷寺縁起との関連も記述されており、園城寺も本尊の由来ということではないが、同じ根っこを持つ一連の霊木奇譚に因縁を有す寺院である。

20・園城寺仁王門
園城寺(三井寺)の仁王門
さらに仁王門を出たところに二つの塔頭がある。

21・仁王門と左に圓通寺・右に常楽寺
仁王門に向かって左が圓通寺、右が常楽寺
仁王門を出て右が讃岐33観音霊場の圓通寺である。

22・圓通寺本堂
圓通寺本堂
左手が自性院(常楽寺)である。境内に入ってすぐ右に苔むした古い墓石が立っている。江戸時代中期に活躍した志度出身の平賀源内の墓石である。

23・平賀源内の墓 常楽寺
平賀源内のお墓
そんなこんなで歌舞伎・謡曲などの舞台を目にし、豊かな伝承の世界にも身を浸すことのできる志度寺。
24・書院の甍と五重塔
志度寺書院の甍と五重塔
弘法大師にはまことに申し訳ないが、ちょっと霊場めぐりだけで拝観するのは惜しい、見どころ満載の八六番札所のお寺なのである。


智舟さんはどこ? 女人高野・室生寺で探そう

(当ブログの写真の転用・二次利用を禁じます)

ポケモンGOが日本全国を大騒動の渦中に巻き込んでいた7月下旬、38年前の新婚旅行で訪ねたきりの奈良桜井市の室生寺を参拝した。

1・室生寺
太鼓橋と室生寺表門

そこで、ピカチュウならぬレアもののポケモンに遭遇したので、ご紹介することにする。ポケモンの名前は智舟(チシュウ)さんといって、タイプは親切、さわやか、人なつっこいといったもので、対峙する参詣客や観光客を一瞬にして虜にするなかなかの優れものキャラである。

2・奥の院にて・智舟さん
室生寺の智舟(ちしゅう)さん

当日、長谷寺から廻ってきたわれわれ夫婦は太鼓橋を渡って、“?”

3・室生川上流から太鼓橋を
室生川に架かる太鼓橋・右手が室生寺表門

楼門をくぐっても“ハテナ”・・・ 38年前の光景、記憶は呼び戻されない。

4・楼門・新緑と朱
楼門(仁王門)

鎧坂を登り始め、かすかにこの広い石段、見覚えがあるかなといった程度。

でも、こんな手すりがあったかな・・・記憶にない

5・鎧坂
鎧坂・頂上に金堂が見える

石段を登りつめた先。石垣の上に国宝の金堂。う〜ん、見たことがあるような。

6・金堂正面
国宝 金堂

その手前左手に弥勒堂がある。

7・弥勒堂
弥勒堂 正面に弥勒菩薩・右に釈迦如来

お賽銭をあげ、お参りする。ご本尊の小さな弥勒菩薩の右手の仏像にどこか見覚えが・・・

8・室生寺弥勒堂・重文 弥勒菩薩立像
重文・弥勒菩薩立像(室生寺絵葉書より)

一木造りの釈迦如来坐像で、国宝なのだと堂内の僧侶が親切に説明してくれた。ここで、記憶がフラッシュバック。

「このお堂の中に50年近く前に入ったことがある」というと、

「その頃は堂内に入って間近に仏さまが拝めていた」との返答。


中学か高校の修学旅行でこの仏さまの前に正座し、一木造りのお釈迦様を仰ぎ見たことを思い出した。

9・室生寺弥勒堂・国宝 釈迦如来坐像
国宝・釈迦如来坐像(室生寺絵葉書より)

漣波(レンパ)式の衣の襞(衣紋)の今にも微風にたなびきそうな繊細な彫り、さらに左足を右太ももにのせた半結跏趺坐(ハンカフザ)の足の裏に浮き出た木目の美しさに目を奪われた遠い昔の一瞬の感動が蘇った。


それを家内に伝えたが、修学旅行で室生寺は訪ねていないとのことで、わたし一人がこの弥勒堂で盛り上がる。二人の時の記憶がないわたしが恨めしい。


次に国宝・金堂をお参り。正面の榧(カヤ)の一木造りの国宝、釈迦如来立像ほか素晴らしい仏像群を拝観。

10・金堂
国宝 金堂

ここでも堂内の僧侶から詳しい説明が。釈迦如来と薬師如来の間の隙間から帝釈天曼陀羅と呼ばれる国宝の板絵が見えると教えられ、目を凝らす。縦に隙間分だけの彩色しか見えぬが、普通では気が付かぬことゆえ有難味がわく。

11・室生寺金堂・国宝 釈迦如来立像
国宝・釈迦如来立像(室生寺絵葉書より)

さすが女人高野、どこもやさしいねと二人して満足。

さらに本堂、五重塔へと石段を登っていった先、石段10段ほどの高みに国宝の本堂(灌頂堂)が見える。

12・本堂を右斜めから
国宝・本堂

楓の新緑を手前に配し、軒先を反らせた檜皮葺・入母屋造の姿態は室生の空に今にも羽ばたいていく霊鳥のように見えた。そこで燈明を灯し、光明真言を唱える。

13・本堂と新緑
国宝 本堂(灌頂堂)

次にいよいよ日本最小の五重塔へ向かう。2年前に京都・南山城の海住山寺(カイジュウセンジ)で見た五重塔が日本で下から二番目で、最小は室生寺なのだと知った。

14・本堂前から海住山寺の五重塔
海住山寺・五重塔

その可愛らしい国宝の五重塔は平成10年9月22日、台風7号の直撃を受け、樹齢600年の杉の巨木が倒れ込み、損壊した。その修復なった姿がどんなものかと恐る恐る見上げた。

15・38年前の室生寺五重塔 (905x1280)
38年まえの五重塔

あぁ〜美しい。38年前、どこか幽玄の美を醸す景観に二人して吐息をついた記憶が鮮やかに呼び起された。

17・室生寺・五重塔
修復なった室生寺五重塔

そして、一見、二見、どこがどう壊れたのかわからぬ。当世の宮大工の匠の技に感服仕切りである。だから、損壊・修復したといえども国宝のままなのだそうだ。

17・修復後の五重塔
女人高野にふさわしい可憐な五重塔

塔左奥に損壊の元凶たる杉の古株が残っていた。切り株といっても家内の身長を越える高さで、室(ムロ)は大人二人がゆっくり入れるほどの大きさである。よくぞ五重塔が全壊しなかったとこの古株を目にして思ったものである。

18・五重塔を損壊した樹齢600年の杉の切り株
大きな杉の切り株

それで、ポケモン、いや、智舟さんはどないしたんやということだが・・・


実は、室生寺を訪ねる参拝客はこの五重塔を見上げたところで、大体は回れ右して拝観を終了する。38年前のわれわれもそうであった。


しかし、室生寺の真骨頂はこれから400段も続く急こう配の石段を登った先の奥の院にあったのだと、われわれは38年ぶりに知らされることになるのである。

19・奥の院登り口・左はℍ10に倒れた樹齢600年の杉の切り株
奥の院上り口・手前左に杉の切り株

われわれは今回挑戦しなければ、これから体力は衰えるばかりで奥の院を目にすることはもうなかろうと語り合った。


ただその決意や良としても、このわたしがこの先の石段を踏破できるか、それが大問題である。そこで途中で名誉の転進もありとの調停案がまとまった。それでは突撃あるのみと室生の山懐深く分け入った。

20・奥の院への参道
奥の院参道には鉄柵(夜は施錠)

これまでの参道とは明らかに周りの雰囲気、景観が異なる。勇断を早くも後悔し始めるわたしである。

21・朱塗りの無明橋へ
石段先に朱色の無明橋

朱塗りの無明橋を渡った先の階段を見上げた。気が遠くなるとはこのこと。

天空まで続いていると見紛う急こう配な石段。

22・天空へ続く急勾配の参道
ず〜っと石段が・・・

見れば、両脇に心ばかりの手すりがついている。ままよ、だめならリタイアだと最後の蛮勇を振り絞り、死の登攀を開始。


不甲斐ないが、ハァハァ、ヨイショヨイショと無意識に声が漏れる。頭から額から滝のごとく汗が流れ落ちる。

そして、見えてきた懸け造りの建物。あれはなんだ。奥の院にあんな大きな建物があるのか。

23・遠くに懸け造りの建物が
遠くに懸け造りが見えた

エベレスト登頂者の気持ちとはこんなものかと思いつつ、少しずつ大きくなる懸け造りを心の支えに、ゼイゼイと息を吐きながら一段、一段、歩を進める。

24・奥の院も間近
ようやく懸け造りの下に

そして、最後の階段。

25・奥の院へ最後の石段
この上が奥の院

頂上制覇である。

26・常燈堂下から400段の石段を見下ろす
この急勾配を登ってきた・・・

天界は想像した以上に光芒に満ち、きれいに整地された空間であった。

27・奥の院
陽光でまぶしい奥の院

頂上踏破の感慨にふける余裕もないままただただホッとして、納経所横の休憩所にへたり込む。

28・奥の院・納経所
納経所と休憩所

一方の家内は登攀の疲れも見せずに納経所で何やら言葉を交わしている。

29・納経所から石段降り口を
納経所から参道下り口を見る

一息ついて懸け造りの常燈(位牌)堂へ向かおうとすると、ポケモン?いや、一人の若いお坊さんがにこやかに近づいてきた。

  30・常灯(位牌)堂
常燈(位牌)堂

この後、下山して、かき氷を食べた橋本屋という旅館で、とても好印象のお坊さんに巡り逢えたことを話すと、

橋本屋  31・橋本屋のかき氷
橋本屋旅館と対面の食事処のかき氷

「それは智舟さんに違いない」と即答。奥の院で撮った写真をお見せすると、

「そう、この人が智舟さん」と、彼がいかに参拝客の間で好感をもたれているか、お参りに来られたお客さんはみなさん、いいお坊さんにお会いできたと喜んで帰られるのだという人物である。


その日、われわれは智舟さんから心尽くしの説明を受けた。大師堂は宝形(方形)造りで、上空から屋根を見ると正方形なのだとか。

32・板葺き二段屋根の宝形造り 御影(大師)堂
板葺き二段屋根の宝形造りの大師堂

その上にのる石の露盤と宝珠はひとつの岩から掘り出したもので大変珍しいと。

33・一枚石から掘り出した露盤と宝珠
一体の石で出来た露盤と宝珠

また、その奥の岩山に立つ七重石塔。

34・諸仏出現の岩盤の立つ七重石塔
岩山の上に七重石塔

室生山に諸仏が出現した場所故に七重の石塔を建て祀っているのだとよどみなく説明を重ねる。

35・七重石塔
七重の石塔

そして、大師堂を背景に「お二人の写真をお撮りしましょう」と言われた際にはびっくり。お坊さんがそこまで親切にしてくれた経験がなかったのである。我が家の居間には早速、その写真が飾られている。

36・智舟さんと大師堂を背景に
智舟さんと記念写真

お位牌がずらっと並んだ常燈堂は、遺骨の喉仏を納骨すればどなたでも永代供養して頂けるとの話もうかがった。


さらに懸け造りの回廊へ向かうと、そこでも二人の写真を撮ってくれた。奥の院にわれわれ夫婦だけだったとはいえ、このおもてなしは望外の喜びである。

37・常燈堂回廊から見る山
常燈堂回廊からの景観

聖地における思い出はこれからの二人の語らいに度々登場し、この日、奥の院で見上げた青い空に吹き渡る涼風を想起させてくれるに違いない。

38・奥の院の空
奥の院真上の空

二人の心にこれから先、室生寺の薫風を届けてくれる智舟さん。その日は奥の院におられたが、ある時は本堂に、また、ある時は別のところにと居場所はかわるのだと橋本屋はいう。


室生山に棲むというポケモン、いや、無量の風の薫りをあなたに届けてくれる智舟さんを探しに“智舟さんGO”と、室生寺へ急ごうではないか!!


道草遍路(87番長尾寺) 静御前の終焉の地、静薬師庵

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香川県木田郡三木町井戸

 

お遍路第87番札所の長尾寺で初めて知った静御前と讃岐のつながり。ナビにもうまく入らず、納経所で丁寧に教えていただいた道順で鍛冶池傍らに立つ静御前のお墓を探すも、結構、悪戦苦闘。

0・静御前の墓と鍛冶池
鍛冶池のほとりに立つ静御前の墓
道しるべが一切なく、畦道を舗装した車一台通るだけの農道をおそるおそる進んだ先にようやく鍛冶池らしきところへ到達。

1・右手の細道をやってきた
右手の細道を走ってきた 薬師庵より
駐車場へ車を止め、わずかな坂道を上る。そこに静薬師の説明書きがあった。

2・静薬師庵 3・静薬師の説明
薬師庵階段下に説明板
階段の上に小さなお堂が見えた。そこが静薬師庵である。

4・ひっそりと薬師庵
静薬師庵
説明書きによれば、長尾寺で得度し、尼となった静御前(宥心尼)はここにささやかな庵をむすび義経の菩提い、この地で没したとある。

5・静御前伝承
静御前の伝承説明板
そもそも静御前と讃岐の縁であるが、舞の名手であった静御前の母、磯禅師は大内郡入野郷小磯浦、現在の東かがわ市小磯705と番地までわかるほどの豪農、長町庄左衛門とツタの娘として生まれたと詳細な消息が知られている。伝誦とは知りつつも、やはり、番地までが特定さると信憑性が増すから不思議だ。

 

都へのぼった母に舞を教わり都随一と名を挙げた静御前であるが、義経との悲恋ののち親子して母の郷里である讃岐に戻り、世をはかなみ先の長尾寺で二人して得度、剃髪したのだという。

 

そして、静御前が宥心尼(ユウシンニ)、磯禅師が磯禅尼(イソノゼンニ)と名乗った。その断髪の際に切り落とした髪を長尾寺に埋めて供養したのが、あの剃髪塚なのだという。まさに“びっくりポンや!!”のお話なのである。

6・長尾寺・剃髪塚
長尾寺の静御前の剃髪塚
親娘は得度の後、この庵に移り住んだ。そこに侍女の琴路が都からやってきて、三人して義経や鎌倉で殺された静の子の冥福を祈る生活にふけった。

だが、翌年に磯禅尼、その一年後の建久3年(1192年)3月14日には静が24歳という若さでその命を閉じる。

7・静御前墓の五輪塔と鍛冶池
静御前の墓と鍛冶池
それから7日目の夜、後を追うように琴路も鍛冶池に入水して相果てたという伝説が残っているのである。

8・侍女叓路・静御前の子・静御前の墓
左から侍女の琴路、静の子、静御前の墓がならぶ
そうした哀しい伝誦を伝える鍛冶池は、この日、ほとりに咲く白い花を咲かせ、静かな水面には過ぎ去りし800年余の時空を昇華させたに違いない底抜けの蒼穹を美しくも哀しく映しこんでいた。

9・鍛冶池
鍛冶池
湖畔の説明版によると、鍛冶池をめぐる遊歩道は、“四国のみち(四国自然歩道)”の一部をなしていて、諏訪神社から前山ダムまでの約5・5kmの“木漏れ日の道”と名付けられた路ということである。

湖畔の路に立ち、静御前が眺めたであろう景色を目に焼き付けようとした。

10・鍛冶池と白山
遊歩道の左奥に東讃岐富士・白山が見える
北の方角に美しい山容を見せる讃岐富士(白山)が見渡せた。静はこの堤に立ち、あの白山を目にし、東国へ渡るときにいとしい人を想いながら仰ぎ見た富士山を思い起こしていたのかも知れぬと思った。

 

庵のそばには長年の風雪でお顔も定かならぬ数体の石地蔵が口も開かずさびしげにならんでいた。

11・鍛冶池のほとりに地蔵様がならぶ
池のほとり、庵の脇に地蔵様がならぶ
抒情あふれる道草遍路の次は第86番志度寺へと向かう。ここも道草遍路のメッカである。次回ブログをお楽しみに。

道草遍路 四国88ヶ所霊場 第87番札所 補陀落山観音院 長尾寺

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香川県さぬき市長尾西653

87 長尾寺

87 長尾寺
 

87番長尾寺 御朱印
長尾寺御朱印

88番大窪寺から車で30分弱、第87番札所 補陀落山(フダラクサン)観音院 長尾寺へ到着。琴平電鉄・長尾線の終点、長尾駅から徒歩200mの平坦な町中にあって、山深い大窪寺からするとあれも遍路、これも遍路といった感じで、すべてが難所じゃないんだと実感するお寺である。

1・こぢんまりした外観の長尾寺の正面
左側は駐車場
仁王門からの外観はこぢんまりとしたお寺で、たとえて言えば“おらが町”のお寺といった第一印象である。

2・長尾寺
コンパクトな佇まいの長尾寺
その仁王門の前に2mほどの高さの凝灰岩の石柱が二基立っている。経文を埋納する経幢(キョウドウ)というものだそうで、仁王門に向かって右手の経幢が弘安9年(1286年)、鎌倉時代後期のもので高さは253cmと高い。

3・東側経幢 弘安9年
右手の経幢(きょうどう)
向かって左、西側の経幢は高さ200cm、弘安6年(1283年)の建立で、きわめて古い時代のものということでちょっと珍しいので、境内に入る前によく観察されたらよい。

4・西側経幢 弘安6年
左手の経幢
仁王門は威圧感を感じるどころかかわいらしいと表現してよい親近感がもてるもの。

5・仁王門
この仁王門、なんともかわいらしい
そして、門をくぐる真上には吊り梵鐘が下がっている。手が届かないんだけど・・・、どうやって衝くんだい・・・・・・いやはや不思議感を催させて面白い。

6・仁王門 補陀落山の変額と梵鐘
頭上の梵鐘
仁王門をくぐるとすぐ右手に大きな楠が立っている。

0・長尾寺の大楠
こんなに大きいんです、この櫲樟(くすのき) 本堂から仁王門を
その陰を落とす石畳の参道の先にはエッというほどの境内が東西に開け、ここでまた意外感を演出。何だか、お遍路寺というよりサプライズを楽しませる趣を有すとても開放的で気分の良いお寺なのである。

7・長尾寺 左より護摩堂・本堂・大師堂
左から護摩堂・本堂・大師堂
本堂でまずお参り。もちろん、般若心経と光明真言“おんあぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まにはんどまじんばらはらばりたやうん”を三度、唱える。

8・長尾寺・本堂
近寄ると迫力がある本堂
次に本堂の東側、右手にある大師堂へ。

9・大師堂斜めより
本堂前から大師堂
大師堂のさらに右手に薬師堂と東門がある。

10・薬師堂と東門
境内東側に薬師堂と東門
そこで踵を返して本堂の前を過ぎ、護摩堂へ参拝。

11・護摩堂
本堂前から護摩堂
この護摩堂の左手前に妙なパネルが見えた。近づくと、何やら平安装束の女子の体裁。

12・静御前パネル
ややっ・・・何者じゃ?
目を凝らすと、静御前の剃髪塚との説明版が目に入る。小高く盛ったところに苔むした石塔がたっていた。

13・静御前剃髪塚
なんとあの静御前の剃髪塚とや・・・はてはて?
義経と別れ、鎌倉へと移送された静御前が、頼朝の前で“しずやしず しずのおだまき 繰り返し むかしを今に なすよしもがな”と詠いながら哀しく舞った逸話は有名であるが、その後、この讃岐に来ていたことはあまり知られていない。

14・興亜地蔵尊像と静御前剃髪塚
興亜地蔵尊と静御前の剃髪塚
わたしはもちろん、讃岐出身の家内もまったく知らなかった。

そして・・・なんと、あの静御前がこの、この長尾寺で得度して尼となり、その際の断髪した髪をここに埋めたのだという。長尾寺の片隅に都中に美しい舞の名手として名をとどろかせた白拍子、静御前のぬばたまの黒髪がここに埋まっている・・・ロマンである。

15・天神宮正面
境内西南隅に天神宮
仁王門のかわいらしさ、吊り梵鐘のサプライズ、狭い門から入って一挙に広がる境内の解放感など意外感満載の長尾寺であったが、この剃髪塚、これは、ほんとにびっくりポンな出来事であった。

 

寄り道遍路第一弾の静御前・薬師庵は次回ブログにてご案内。そこはとても美しく抒情あふれるところでしたね。

道草遍路 四国88ヶ所霊場 第88番札所 医王山遍照光院 大窪寺

(当ブログの写真の転用・二次利用を禁じます)

香川県霊場マップ(88〜66番)

第88番 大窪寺 香川県さぬき市多和兼割96番地

大窪寺 御朱印

新緑の葉叢に漉され青味がかった線条の光が驟雨のように零れ落ちるなか、女体山(標高774m)の中腹に伽藍する四国霊場・第八十八番札所・医王山遍照光院大窪寺に到着した。

後背にそびえる女体山と大窪寺
第88番札所 大窪寺
高松市内から車で50分ほどの距離だが、途中から山間の街道を縫い山腹をめぐるように勾配をつくる自動車道を登攀する。

大窪寺へ 山肌をめぐる自動車道
ひんやりとした山気の気配を感じるころ数軒の土産物屋風の建屋が見えてくる。二天門前のいたってこぢんまりとした門前町である。

二天門前の門前町
門前町
その一軒の駐車場に車を止めた。門前で納経帳を買い求め、二天門からいよいよ遍路のはじまりである。

本来であればこの大窪寺で八十八ケ所霊場巡りはめでたく結願(ケチガン)を迎えるが、逆打ち(サカウチ・ギャクウチ)はここが遥か遍路の第一歩ということになる。

88番結願所を刻む石標
二天門前の石段・右手に結願所と刻む石標
“八十八番結願所”を刻む石標の建つ石段から楓の若葉がおおいかぶるところに二天門(山門)が見える。

5・大窪寺・二天門
二天門
二天門を潜ったところに遍路の本願成就を謝したのだろう奉納された二足の大草鞋が立つ。

6・境内より二天門
大草鞋が山門両脇に
山門から一直線に10段ほどの石段を二つそなえた石畳がつづくが、その先に後背に女体山をかかえた本堂礼堂と多宝塔(本堂奥殿)の相輪が見通せる。

7・二天門から本堂を
二天門から本堂へはすぐに到達。

8・女体山と本堂
実は、順打ち遍路の最後のお寺ということで、極めつけの修行の道になっているのかと覚悟していたが、本堂を前にしてホッとした。さすがお大師様であると妙な感心、いや、感謝した次第である。

9・大窪寺・本堂
納経所から本堂を見る
線香の煙が立ちこめた本堂で般若心経を唱え、お参りする。まだまだ新米のお遍路さんゆえ読経の声もボソボソと気恥ずかしい。遍路の最後のころにはこの声も変わってくるのだろうかと心をかすめるほどに集中力を欠いた念仏である。

10・お香のこもる本堂内
本堂内
本堂の右手に阿弥陀堂が建つが、現在は工事中で柵が設けられており、参拝は叶わなかった。

11・阿弥陀堂
本堂から阿弥陀堂を見る
そして本堂を背に斜め右手にある納経所で御朱印をいただく。ここで順打ちの遍路は結願証明書をいただくことができる。

12・結願証明書を渡す納経所
この納経所を夢に見た遍路は数多あった・・・
八十八番札所の大窪寺のみで発行されるということなので、逆打ちの場合はここに再度お礼参りを兼ねて証明書をいただきにあがるのだろうが、さてさて、いつ頃、ここに再来できるのか。

 

遍路の途中で客死なんてことになればそれも叶わぬ夢かなどとつまらぬ想念も胸をよぎる。そんな弱気を振り払うようにして、次に大師堂へ向かう。

13・大師堂へ向かう
この坂の先に大師堂
大師堂の手前になぜか“原爆の火”が灯されていた。鎮魂の意味であるからこれもありかと納得。

14・大師堂横に原爆の火
広島の原爆の火
その向こう側に遍路で使用した金剛杖を納めた“寶杖堂”がある。これも結願所ならではのお堂である。

15・寶杖堂
ガラス内にたくさんの金剛杖
そのすぐ横に大師堂がある。参拝する正面の間口は広くはないが、奥行きは長い平屋建てである。

16・大師堂
大師堂
大師堂の奥横にりっぱな大師像が立っている。弘法大師が入定(835年)してから千百五十年を記念して建立されたと記されている。ただ、ここまでやってきて参拝する人はあまり多くないように見えた。

17・大師堂と大師像
ここで一応、奥之院をのぞき大窪寺を一周したことになる。

元来た道を二天門の方へ戻るが、その途中で大きな仁王門を見下ろせる。

18・仁王門
仁王門
仁王門は堂々とした造りではあるが、平成二年に完成したまだ新しい鉄筋造りの門である。

19・二天門から門前を見下ろす
二天門から
その時はそのことも知らぬ身であったが、見たところ近代的で有難みに欠けると感じたので、趣のある二天門を再度潜って大窪寺をあとにしたいと思ったのである。

 

次は逆打ち遍路の二番目となる八十七番霊場の長尾寺を目指すことになる。


四国八十八ヶ所霊場の逆打ち、いよいよスタート

(当ブログの写真の転用・二次利用を禁じます)

四国88ヶ所霊場マップ


四国88ヶ所霊場マップ(四国八十八ヶ所霊場会HPより)

四国八十八ヶ所霊場めぐりを開始したのを機に、半年以上にわたり放置していた“彦左の正眼”を再開することにした。ブログをながらく更新しなかったのに特段の理由はない。健康も大丈夫だし、相変わらず旅にも出ているし、大好きなお酒もおいしい肴をつまみにほどほどに嗜んでいる。

遍路
同行二人のお遍路さん(88番札所 大窪寺)
ただ、昨年六月から10か月ほど神社仏閣の観光を軸とした地方創生にかかる団体の設立、運営に携わってきたことから落ち着いた時間がなかなかとれず、ずるずると更新が後ろ倒しになりついにはキッカケをつかめぬまま放置状態となったというのが実態である。事情説明はこれくらいにし、さっそく、お遍路のはなしに話題を転じよう。

 

わたしは、今からちょうど40年前、社会人最初の赴任地であった高松で同僚とともに土曜日の午後から日曜日をつかいお遍路を始めたことがある。徳島にある一番札所の霊山寺からスタートした。歩き遍路など時間の関係でとても無理。同僚の真っ赤なジェミニでドライブをかねたスタンプラリー感覚で廻ったというのが正直なところである。

 

そして、阿波国の「発心の道場」の霊場23ヶ寺、土佐国の「修行の道場」の霊場16ヶ寺の39ヶ寺を巡ったところで東京への異動となり、自身の足での遍路は終了した。その後は高松の家内の両親に廻っていただき、高野山での結願ということになった。

 

それから40年もの星霜を重ねた。その間、内外の社会は想定をはるかに超える変容をとげた。特に21世紀に入ってからは2001年の9・11米同時多発テロ事件を嚆矢とし、地球のいたるところで民族、宗教間の確執や貧困、格差といった社会問題に根差したテロが日常的に勃発する時代となった。わが国も阪神淡路大震災以来、多くの天変地異に襲われ、2011年3月11日には未曽有の大津波をともなう東日本大震災に見舞われ、日本人の心は悲痛な苦しみで引き裂かれた。

 

そんな恐怖と心の荒廃の時代に、わたしもいよいよ高齢者の一隅に身を置くこととなった。今では、家内は父を、わたしは父母を喪い、92歳の義母を高松に一人残すだけとなった。

 

40年前に出来上がった納経帳はその二年後に急逝したわたしの母のお棺に入れた。装丁された掛け軸はお盆や法事の時にいまも床の間に架けられ、わたしの目に触れる。

88箇所掛け軸
88箇所掛け軸
このたび家内とともに遍路を始めることになった理由であるが、老いた母の身の回りの世話にたびたび帰高する家内に同行する機会が増え、夫婦で88ヶ所めぐりでもどうだろうかとの提案に、介護の合間に気分転換もかねて、同行二人でなく同行三人(わたしと家内と弘法大師)ということで参りましょうとなった次第。

同行二人 八栗寺にて
歩き遍路
時間はあるので歩き遍路といいたいところだが、左半身に麻痺を抱えるわたしである。お大師様には心苦しいが、車遍路でご勘弁いただくことにした。そして、2016年は60年に一回まわってくる丙の申である。丙申に始める逆打ち(さかうち 88番から逆順)という遍路は、通常の順打ち(1番から順に88番まで遍路する)とくらべてご利益が多いのだそうだ。

大窪寺門前店で求めた逆打ち納経帳
第88番大窪寺で求めた逆打ち納経帳
40年前に阿波、土佐の二国のみを巡ったわたしである。今度は讃岐、伊予と逆に巡っていったらどうか、それに今年は逆打ちに最適の丙申であるとの筋道だった家内の薦めで、自身では結願をしてもいないのに逆打ちなどと玄人風の遍路に挑戦を始めたというわけである。

 

若いころのスタンプラリーをこの年齢でやる気はない。霊場ではしっかり般若心経を唱えながら、各地の歴史や風光明媚な名所も愉しみつつ遍路を重ねることで、豊かでふくよかな心をはぐくみ、おだやかな巡礼の光景や遍路道に生える草々の柔らかな緑を目にすることで世界の痛々しい映像に疲れ切った瞳に生気をあたえ、自然(ジネン)の呼吸をさせてあげたいと思う。

 

そんなお遍路の旅にしたいと思っている。

 

2016年6月10日、いよいよ「涅槃の道場」である讃岐の88番札所、大窪寺の寺域に遍路の一歩を印すこととなった。


京都・南山城を廻る=浄瑠璃寺で九品往生の九体阿弥陀仏を拝む

京都・南山城を廻る=海住山寺(かいじゅうせんじ)の十一面観音菩薩立像を拝む
京都・南山城を廻る=観音寺(かんのんじ)の国宝・十一面観音菩薩を拝む

木津川市加茂町西小札場40


祇園祭宵山の日中を使って、南山城へと足を伸ばした。

1・宵山・函谷鉾
祇園祭宵山・函谷鉾

先にアップした観音寺(京田辺市)、海住山寺(木津川市加茂町)につづき、皆さんも一度は耳にされたことがあろうかと思う浄瑠璃寺といういかにも旅情を誘う名の古刹を参拝した。

2・浄瑠璃寺参道
浄瑠璃寺参道

当日は生憎、中央の宝池が州浜遺跡の発掘調査中であった。

3・遺跡調査

そのため伽藍配置の美しさが半減したきらいはあったが、人影も見えぬ山深い境内でその在りし日の州浜を思い描きつつ浄土世界に想いを馳せることができたのも一興であった。

4・宝池は調査中
浄土式庭園の中央に宝池、右手に阿弥陀堂、左手に三重塔

パンフレットによると浄瑠璃寺は平安時代、1047年に西小田原浄瑠璃寺(本尊・薬師如来)として創建されたことに始まる。

5・浄瑠璃寺山門
浄瑠璃寺山門

そして、白河院や鳥羽院が治天の君として院政を布いた11〜12世紀頃、京都を中心に皇室をはじめ貴族たちの間で九体阿弥陀堂の建立が争われた。


この浄瑠璃寺においても1107年、その背景となった新たな仏教の教えに基づき、現在の本堂となる九体の阿弥陀仏を安置する “九体阿弥陀堂”が造営される。

6・1九体阿弥陀如来像
本堂に安置された九体の阿弥陀如来像(浄瑠璃寺・絵葉書より)

その新たな教えが九品往生(くぼんおうじょう)という考え方であった。


浄土三部経のひとつ“観無量寿経”のなかにある人間の努力や心がけなど衆生の機根によって極楽往生するにも下品下生(げぼんげしょう)から上品上生(じょうぼんじょうしょう)まで九つの往生の段階があるという九品往生(くぼんおうじょう)という教えである。


この教えに拠って、己の極楽往生を願う貴族たちが、九つの往生のパターンを具現する阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂を競うようにして建てたというわけである。

6・九体阿弥陀堂
九体の阿弥陀仏が祀られる九体阿弥陀堂・本堂

あの藤原道長が寛仁4年(1020年)年に建立した無量寿院阿弥陀堂(法成寺阿弥陀堂)を嚆矢(こうし)として30余例が記録に残っているが、唯一現存するのが1107年に建立されたこの浄瑠璃寺本堂である。

7・本堂・中尊の見える空間
本堂正面、一体々々の如来が堂前に一枚の板扉を持つ

そして1178年には、東面する阿弥陀堂(彼岸)の前に苑池を置き、東(此岸)に西面する薬師如来を祀るいわゆる浄土式庭園が造られ、現在の寺観が整備される。

8・此岸から本堂を
東の此岸から阿弥陀堂を見る

現在の浄瑠璃寺の伽藍配置は次の如くである。

9・浄瑠璃寺伽藍配置図
浄瑠璃寺のパンフレットより

中央の宝池を中心に東に薬師如来を祀る国宝・三重塔が建つ。

10・浄瑠璃寺・三重塔  11・彼岸から三重塔を
国宝三重塔、内に秘仏薬師如来像を安置

池の西、三重塔に対するように阿弥陀如来九体を安置する本堂・九体阿弥陀堂が建つ。

12・三重塔階段上から石燈籠と阿弥陀堂を見る
三重塔から西の阿弥陀堂を見る。手前の石燈籠は重文。

このように当庭園は平等院鳳凰堂(阿弥陀堂)などの擁する浄土式庭園の平安中期頃からの典型的な様式となっている。


さて、ここで浄瑠璃寺のパンフレットの説明に分りやすく書かれているので、簡単に仏さまについて転載しておく。


薬師如来

「東の如来“薬師”は過去世(かこせ)から送り出してくれる仏、過去仏という。遠く無限に続いている過去の因縁、無知で目覚めぬ暗黒無明の現世に光を当て、さらに苦悩をこえて進むための薬を与えて遺送してくれる仏である。」

13・秘仏・薬師瑠璃光如来像
三重塔内の秘仏・薬師如来像(絵葉書より)

釈迦如来弥勒如来

「苦悩の現実から立ちあがり、未来の理想を目指して進む菩薩の道を、かつてこの世に出現して教えてくれたのが、“釈迦”であり、やがて将来出現してくれるのが“弥勒”で、共に現世の生きざまを教えてくれる仏、現在仏という。」


阿弥陀如来

「西の如来“阿弥陀”は理想の未来にいて、すすんで衆生を受け入れ、迎えてくれる来世の仏、未来仏、また来迎の如来という。」


そして、太陽の昇る東方にある浄土(浄瑠璃浄土)の教主が薬師如来であり、太陽がすすみ沈んでゆく西方浄土(極楽浄土)の教主が阿弥陀如来ということなのだそうだ。

14・九体阿弥陀如来像・中尊
九体の阿弥陀如来の中尊像

だから、当寺の寺号はそもそも創建時のご本尊である薬師如来がおられる浄瑠璃浄土に因んでいることがこれによってよく理解できると思う。

さらに本来の礼拝の作法であるが、同じ形態の宇治の平等院でもこの浄瑠璃寺でも、古来、人々は浄土の池の東、当寺では三重塔が建つ側(此岸)から彼岸におられる阿弥陀仏に来迎を願って礼拝したという。

そして、春分・秋分の“彼岸の中日”には九体仏の中尊、来迎印を結ぶ阿弥陀如仏の後方へ沈んでゆくのだという。

浄瑠璃寺は南山城のさらに奥まった静寂の地に位置する。

15・山門から夏の参道を
山門から夏の参道を見る

阿弥陀堂内のうす暗い空間にわが身と九体の阿弥陀さまだけが存在する世界。ひたすらに内向的な心象世界が瞼に映し出される。

そんな聖なる空間をもとめてこの清浄の地へおもむき、現世の懊悩をすすぎ落とし未来の心の安寧を静かに願ってみてはいかがであろう。

京都・南山城を廻る=海住山寺(かいじゅうせんじ)の十一面観音菩薩立像を拝む

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京都・南山城を廻る=浄瑠璃寺で九品往生の九体阿弥陀仏を拝む

木津川市加茂町例幣海住山境外20

海住山寺(かいじゅうせんじ)は、木津川市加茂町の三上山(さんじょうざん)またの名を海住山と呼ぶ標高432mの中腹に位置し、かつて恭仁京(740-743)があった瓶原(みかのはら)を一望し、遠くに春日山を望む。
1・ご本尊横顔
重文・十一面観音立像横顔(当寺絵葉書より)

寺伝によると、創建は恭仁京造宮に先立つ六年前、天平七年(735)という古きに溯る。

2・本堂正面より
海住山寺・本堂

東大寺の大盧舎那仏造立を発願された聖武天皇が大工事の平安を祈るため良弁僧正(東大寺初代別当)に勅して一宇を建てさせ、十一面観音菩薩を安置し、藤尾山観音寺と名づけたのに始まるとされる。そして、保延三年(1137)の火事により、伽藍はことごとく灰燼に帰し、再建されることなく廃址となった。


それから七十余年を経た承元二年(1208)、笠置寺からこの廃墟に移り住んだ解脱上人貞慶によって補陀洛山海住山寺として再興がなされた。

3・文殊堂
重文・文殊堂

麓の瓶原から細い急坂を登ってゆくが、当日はタクシーで回ったので大事なかったが、マイカーで行くのは一部、すれ違いに難儀する個所もあり、運転に自信のない方は注意が必要である。

4・海住山寺入口
ここから細い急坂を登っていきます

さて、境内から少し低い場所にある駐車場からこれも結構、勾配の急な坂道を歩いて境内へと入ってゆく。

5・海住山寺への坂道
駐車場からまだ少し急坂を行きます

補陀落山海住山寺と刻まれたりっぱな石碑が見えると、もう平坦な境内はすぐである。

6・境内入口に立つ石柱
石碑の奥右手に本堂、左手が山門

本堂境内へ入ると、すぐ左手に鐘楼がある。

7・鐘楼
鐘楼・その先の葉叢のあたりが山門

鐘楼のすぐ先、南側に山門がある。

8・五重塔から山門を
五重塔から山門を見る。山門の正面に本堂

歩いて来られる方は下からの急な階段を昇って、この山門をくぐり、本堂へお参りすることになる。

9・階段下より山門を
急階段の先に山門
10・山門から本堂を
山門正面に本堂

その方がどう考えてもお詣りのご利益は多かろうと思うが、根が不精、杖をつく身をよい言い訳に、脇からの本堂境内への入場となった。

11・境内
駐車場から来ると、境内入って右手に本堂を見る

だが、先ほどの新しくりっぱな石碑が建てられているところを見ると、この高齢社会の到来とともに、こうした寺院への参詣ルートも時代と共に変わってゆくものなのかも知れぬと、いま、自分の不信心をよそに、自らの気持ちを納得させているところである。


さて、急坂を登って来たわれわれには、本堂のある場所は平坦かつ広さもかなりあった。

12・五重塔から本堂前境内を
五重塔(南)から本堂前の境内

本堂へ向かう誘導路に奇妙なものがあった。茄子の形をした腰掛である。

13・本堂へ
この誘導路から本堂へ

ここに坐ると何か願い事が叶うということであったが、檀家さんの寄贈物のようであり、ちょっと山深い寺院には不釣り合いな、でも、ちょっとくすっと笑ってしまう置物ではあった。

14・願いをかなえる茄子の腰掛

その先に、今度はぐっと時代は遡り、鎌倉時代の岩風呂が無造作に置かれているのを見つけた。

15・修行僧が使用した岩風呂
鎌倉時代の岩風呂

何ともその配置のアンバランス、いや、妙に脱帽といったところである。


この岩風呂は岩船寺の山門まえに置かれていた岩風呂と同様に僧侶が修行前に身を浄めるときに利用したものであろう。

16・岩船寺石風呂
岩船寺の岩風呂

いよいよ本堂であるが、現在の本堂は、旧本堂が明治元年(1868)の山津波で倒壊したのち、明治17年に再建されたものだという。

17・本堂
東面する本堂を南東側から

静かな堂内に入ると住職の奥様が坐っておられた。

18・本堂の中を
本堂正面から入ります

本堂正面の一段高処にある厨子のなかにご本尊・十一面観音菩薩立像が安置されている。

19・海住山寺本尊・十一面観音像(重文)・平安時代
本尊・十一面観音菩薩立像(絵葉書より)

まずは参拝し、それから堂内を廻る。奥様にご説明をいただき、しばらく歓談。


外へ出て、本堂南側に建つ国宝五重塔へ向かう。一層目に裳階がついているため一見すると六重塔にも見える。

20・五重塔
国宝・五重塔

興福寺や東寺、仁和寺といった典型的な五重塔とはかなり趣を異にしている。

21・興福寺の五重塔と鹿   23・仁和寺・五重塔
左:興福寺五重塔        右:仁和寺五重塔
22・東寺の五重塔   24・東寺五重塔の一層目
東寺五重塔と一層目

そして、外見からは分らぬが海住山寺の五重塔は心柱が初層の床まで届いていず、二層のところまでしか達していないという。だから、構造的に初層の四隅を支えるように柱を建て廻す必要があったのだそうだ。

25・五重塔第一層
海住山寺五重塔の裳階と一層目

この裳階をつけた様式は法隆寺にそれを倣うが、法隆寺は第一層に柱を建て廻す構造とはなっていない。

4撮影)
裳階のついた法隆寺五重塔

また、法隆寺の心柱は仏舎利が収められている塔の礎石の上に乗っかる、五重塔本来の構造となっている。

27・法隆寺五重塔・一層目と裳階
法隆寺裳階と一層目。柱はない。

さて、海住山寺のいくつかの寺宝が奈良国立博物館に寄託されている。過去の山津波といった自然災害で寺宝が滅失するのを避けるため致し方のないことなのかも知れぬ。


そうした寺宝は秋の「文化財特別公開 国宝五重塔開扉」のときに奈良国立博物館から里帰りする。ひとつが奥の院に安置されていた小振りの木造十一面観音像である。貞慶上人の念持仏と伝えられている。

28・解脱上人の念持仏・十一面観音菩薩立像(重文)・平安時代
丈45cmの十一面観音菩薩立像(絵葉書より)

もうひとつが、五重塔の初層に仏舎利を囲むように配されていた木造四天王立像である。

29・持国天像・鎌倉時代
持国天(絵葉書より)

例年、その時に五重塔内部とともにここ海住山寺において拝観がかなう。

30・国宝五重塔内陣
五重塔内に安置された四天王像(絵葉書より)

2014年の特別公開は10月25日(土)〜11月9日(日)の2週間と案内されている。

あと、本堂と五重塔の間の山裾に三社が祀られている。

31・五重塔
緑陰から五重塔を見る

解脱上人貞慶が春日明神のお告げによりここ藤尾山観音寺の廃墟へ移り住み補陀落山・海住山寺として再興を果たしたことから、春日神社が勧進されているのだそうだ。

32・境内の三社
本堂の南側に”三社”が祀られている

境内から瓶原(みかのはら)を一望に見おろすのは、高く生い茂った木々に遮られ、難しい。

0・境内から瓶原を見る
五重塔脇から瓶原を望む

奥様からお薦め戴いたが、脚力のある方々はぜひ本堂北側から急勾配の道を数分ゆくと絶好の眺望が得られるので、トライしていただきたい。


わたしはもう足のつっぱりが限界に来ていたので、上へさらに上がるのを断念した。帰りに下り坂を降りて行く際にタクシーの中から写した景色でもこれほどの絶景である。

33・海住山寺への急坂から瓶原と春日山を
かなりな急坂である

真下に大海原に見立てられた瓶原が広がり、その果てに補陀落山に見立てられた春日山の山脈が望まれた。


雲海が低く垂れ込めたときなどはさながら大海原に補陀落山が浮かんでいるように見えるに違いない素晴らしい景観である。

京都・南山城を廻る=観音寺(かんのんじ)の国宝・十一面観音菩薩を拝む

京都・南山城を廻る=海住山寺(かいじゅうせんじ)の十一面観音菩薩立像を拝む
京都・南山城を廻る=浄瑠璃寺で九品往生の九体阿弥陀仏を拝む

京田辺市普賢寺下大門13


最近の朝日新聞に関するブログ投稿で荒んでしまった心を落ち着かせねばと、先月、南山城を一日かけて周り、気高き仏様をお参りし心が穏やかに安らいだことを思いだし、写経でもするつもりで心に残ったいくつかの寺院をご紹介する。


まず、南山城、京田辺市にある観音寺である。

1・観音寺
観音寺・本堂を見る

観音寺は白鳳2年(662)天武天皇の勅願により、義淵僧正が親山寺(筒城寺)を開基。その後、天平16年(744)聖武天皇の勅願により良弁僧正(東大寺の初代別当)が伽藍を増築し、息長山普賢教法寺(そくちょうざん ふけんきょうほうじ)と号し十一面観音立像を安置したといわれている。

2・観音寺略縁起
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そもそも今回、南山城を訪ねる契機となった寺院が実は観音寺であった。


というのは、今年の葵祭を観覧した際に京都国立博物館で開催されていた“南山城の古寺巡礼”展を併せて参観した。

3・南山城古寺巡礼・禅定寺の重文十一面観音立像

南山城地域に点在する十一の寺院の寺宝が一堂に会する機会は稀だということで、ちょうどよい機会と京博を訪ねたのである。

4・京都国立博物館
南山城の古寺巡礼展が開催された京都国立博物館

観音寺もその一つの寺院として参加していた。そして、国宝であるご本尊は出展されていなかったのだが、観覧後、京博の売店で “これは美しい”と記念に買い求めた絵葉書が、実は観音寺の国宝・十一面観音菩薩立像であった。


当日、たくさんの仏像を見たことで、この美しい観音様もいらしたと思い込んで買ったものだ。後日、ブログにその写真を掲載したところ、京博にその観音様は出展されていませんでしたよとのご指摘がコメントで送られてきた。


いやはや、赤面しきりの失態であった。


そこで、今回、祇園祭観覧の合間を縫って、一日、木津川沿いに点在する南山城の寺院巡りを敢行、観音寺の国宝十一面観音菩薩さまにお会いしてきたのである。

5・木津川沿いに多くの古刹が点在する
海住山寺から木津川沿いに観音寺へ向かった

当寺はまず本堂手前左手前にあるご住職(三神栄弘氏)のご自宅のインターフォンで来訪を伝え、ご本尊を拝観したい旨を伝える。

6・ご住職のお宅
住職がお住いのお宅

すると当日は住職の体調が優れぬと奥様が出てこられ、本堂へと案内された。

7・本堂
本堂

本堂の階段を昇り、引き戸を開けて堂内へと導いてくれる。

8・ここから上がります
ここで靴を脱いで正面の引き戸から入ります

堂内に差込む陽光で明るくなった本堂には奥様とわたしら夫婦と運転手さんの4人だけ。身の引き締まる厳粛な空間である。


そこで奥様が諄々とご説明をしてくれるのである。まさにご本尊様を独り占めにしている気分である。

9・本堂斜めより
この本堂内の厨子に十一面観音菩薩立像が安置されている

そして大きな厨子の観音扉が開けられる。あの絵葉書で見た十一面観音立像が現われた。単に気高く気品のある御顔立ちという以上に、どこか母にも似た慈愛に満ちた御顔なのである。

10・大御堂観音寺・国宝十一面観音立像
国宝・十一面観音菩薩立像(京博売店絵葉書)

そして、仏様に対してこう申し上げるのは甚だ不謹慎であることは重々承知であるが、その腰のくびれた立ち姿はどこか艶めかしく、肉の量感が伝わってくるのである。


厨子の真ん前に立ち喰い入るように見上げていると、奥様が少し離れてご覧になったほうがこの仏様はもっと美しいですよと教えてくれた。


そして見る方向でお顔が変わって見えるとも教えてくれた。そこで左斜め、右斜めと立ち位置を変えてみると、あら不思議、仏様のお顔がふっくらと見えたかと思うと、今度はすっきりしたお顔に見える。


名工の造形の妙であろう、光の加減なのだろうか、本当にその面立ちが変わって見えるのである。仏像の国宝は数多くあるが、これほど艶めかしく、にも拘らずに気高く美しい仏様は珍しい。木心乾漆造という手法がこの質感と嫋(たお)やかな曲線美を造りだしているのだろうか。


美しい菩薩さまといえば、わたしは薬師寺東院堂の聖観世音菩薩もその御顔立ち、シルエットともにやはり気品のある美しい仏様で大好きである。

11・薬師寺・西塔  12・聖観世音菩薩
薬師寺廻廊越しに西塔    聖観世音菩薩立像

鋳造と乾漆の違いなのだろう、十一面観音立像はその体温までがわたしのところに伝わって来るかのような温かみのある嫋やかな曲線美をもつ仏様であった。


そして、最後に一番のビューポイントを奥様が教えて下さった。


住職が日々の勤行をされる時にお座りなる場所、磬子(けいす)の前の座布団に坐って仰ぎ見るお姿が一番美しいのだと。


そこで、わたしたちも順番にそこへ坐らせていただき、御本尊のお顔を仰ぎ見た。


美しく、荘厳である。


京博で勘違いした仏様・・・こうしてお会いできて本当に幸せであった。


それから外へ出て、本堂手前左手の小高い丘陵の上に、当寺の鎮守である地祇神社が祀られていた。鳥居が本堂のすぐ脇にある。

13・地祇神社
地祇神社鳥居

延喜式神名帳に『山城国綴喜郡 地祇神社』とある式内社に比定されており、社名はクニツカミノヤシロと読むが、地元ではチギ神社と呼ばれているとのこと。


創祀は聖武天皇の時代、この観音寺(普賢寺)が創建された頃まで遡るという古社である。延喜式には祭神一座とあることからみると、オキナガタラシヒメ(神功皇后)を主祭神とするらしい。


地祇神社が建つこの地は、もともとの普賢寺「息長山普賢寺」があった場所と推定され、塔の礎石や7、8世紀の古瓦などその遺構と思われる遺跡、出土品が存在する。

14・本堂前に池
往時は大伽藍を擁した観音寺(普賢寺)もいまは本堂前に小さな池があるのみ


また、普賢寺に隣接する天王地区には、これも延喜式式内社である朱智(しゅち)神社が位置している。貞観11(869)年に朱智神社の祭神として祀っていた迦爾米雷命(カニメイカヅチノミコト=牛頭天王)を祗園の八坂神社の前身である八坂郷感神院に遷したことから八坂神社の勧請元となる神社である。


そうした縁起から朱智神社は“元祇園社”と呼ばれ、祇園祭に際しては朱智神社の氏子が奉じた榊をここ天王地区の若者が八坂神社まで届ける「榊遷」という行事があり、その榊を受けて山鉾巡行を始めたとい言い伝えが今に残されている。現にわたしはその伝誦を観音寺の奥様から直にお伺いした。

15・鐘楼の前に東大寺お水取りととの所縁の石碑
鐘楼前に”お水取り”の竹送りの碑(良弁上人の所縁)

祇園祭を楽しみに京都を訪れ、たまたま美しい観音様にお会いしに伺った場所の辺りが“元祇園社”と呼ばれる深い所縁を持つ神社に所縁のある場所であったとは、何か十一面観音様のお導きのようなまことにもって不思議な縁を感じたのであった。


湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の秘仏一挙公開を廻った=百済寺

湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の秘仏一挙公開を廻った=西明寺
湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の秘仏一挙公開を廻った=金剛輪寺

湖東三山巡りの最後に、十一面観世音菩薩をご本尊とする百済寺(ひゃくさいじ)へ向かった。

18・百済寺石碑
途中に百済寺の石碑

百済寺に向かう細い参道にベンガラを塗った家並みがつづく。何だかここから別世界へ入ってゆくような気がしてくる。

19・ベンガラの家並みがつづく
ベンガラ塗りの家並みがつづく

百済寺は飛鳥時代・推古14年(606年)、聖徳太子の発願により百済国の梵閣龍雲寺に擬して造られた。標高772mの押立山の山腹にあり、戦国時代に城塞化された城郭寺院だった頃の石垣遺構も残る湖東三山の中で最も古い寺院である。


平安時代に天台宗に改宗してからは300余坊の塔頭を構え、「湖東の小叡山」と云われるほどの大寺院として栄えた。


その後、大火事や兵火によってほとんどが焼失、その後、本堂などの再建は果たしたものの往時の殷賑を取り戻すことはなかった。


さて、駐車場で車を降りると大規模な石垣のようなものが見える。

20・中央が本坊の裏門。両脇に石垣がつづく。
石段の上に本坊裏門(受付)

その一画を割るように設けられた石段を昇った先に喜見院本坊(不動堂・書院・庭園)の建つ境内に入る裏門(受付)がある。

21・本坊・裏門受付
本坊・裏門

裏門をくぐると眼前に平坦地が広がる。

22・百済寺・本坊の建つ平坦地
裏門より表門をみる。左建物が不動堂、その左側に書院がある

遥か昔、二百を超える僧坊が林立していたかのと思うと、意味合いは異なるが、これもひとつの“兵どもが夢の跡”なのだとの思いが胸に去来した。


往時をしのぶ唯一の縁といえば、本坊辺りを二百坊跡、表門を挟んだ反対側を百坊跡と呼びならわす呼称のみである。

23・本坊横の庫裡と裏紋を見る
表門から庫裡・裏門を見る。庫裡の右側に書院

不動堂脇から書院横を抜けて池泉回遊式庭園へ出る。

24・本坊手前に不動堂
不動堂

切り出した自然石を池の周りに幾何学的に配した庭園である。

25・切り石が池泉を廻る
左の軒が書院、自然石の道が池泉をめぐる

切石を伝って池の反対側の狭い石段を昇ると、そこが天下の絶景を見渡せる自然の展望台となっている。

26・喜見院・池泉回遊式庭園と本坊(書院)
展望台への途上、書院を見る

展望台に立ち、前方を見はるかすと書院の甍の向こうに湖東平野が広がる。その向こうに初夏の陽光に白く光る琵琶湖をわずかに見下ろすことができる。

27・喜見院展望台から湖東平野を望む

さらに視線を凝らすと、とおくに薄墨を掃いたような比叡山の山容が認められる。

28・遠くわずかに琵琶湖、比叡山

その比良山脈の遥か先にこの地に多く住みついたという百済人の母国、百済国があるという。悠久の歴史を見つめてきた壮大な浪漫に満ちた望郷の丘である。



そして庭園を抜けて、いよいよ本堂へと向かう。長い石段が上っている。

29・百済寺の階段

この百済寺城の石垣の大半は織田信長が築城した安土城の礎とするため“石曳き”され、途中にわずかに城郭寺院時代の石組みも残されている。

30・百済寺城の石垣遺構

なかなか雰囲気のある味のある参道である。


そして、巨大な草鞋を掲げる仁王門に到達する。

31・仁王門
仁王門

そこから石段がまっすぐに本堂へと登っている。急勾配の石段を一歩一歩、踏みしめながら歩む。

32・仁王門からまっすぐ石段を昇ると本堂の石垣

やはり中世の一時、百済寺城であったことを偲ばせる苔生す石組みが圧倒的存在感を示している。いまにも鬨の声が頭上より響(とよめ)いてくるようなそんな気分になってくる。


そして石段を登り切るとそこは標高350mの押立山の中腹。突当りに城郭の石垣のような石組みにぶつかる。

33・本堂を支える城塞のような石垣
石垣の上に本堂が見える

石垣を右に迂回して、重要文化財の本堂の側面へ出る。

34・本堂横から
本堂の側面

百済寺は唐破風付き庇を掲げる正面から堂内へと入る。

35・本堂
唐破風庇付きの本堂

堂内は簡素かつ剛健な造りである。

36・本堂内・格子の奥に十一面観音立像
堂内・格子の奥に秘仏

その正面をふさぐ格子の内にお目見えが叶うご本尊、十一面観音立像が安置されていた。

37・釈迦山百済寺・十一面観世音菩薩
十一面観音菩薩

高さ3・2mにおよぶ大きな観音様である。

御開帳記念・百済寺


百済国の龍雲寺と百済寺の本尊は、同一の巨木から彫られた「同木二体」の十一面観世音菩薩と伝わっている。巨木の上の部分が龍雲寺、下の根っこの部分から彫り出したのが百済寺の観音様であるという。そのため、秘仏・十一面観音立像は“植木観音”とも呼ばれているのだそうだ。


湖東三山最後の秘仏をゆっくりお参りし、しずかな境内へ出る。本堂左手に千年菩提樹が植わっている。

千年菩提樹と本堂
千年菩提樹と本堂

信長の焼き討ちの際に本来の幹は焼け崩れたものの、樹霊が命をつなぐかのように、その蘖(ひこばえ)は成長し、いまも本堂の脇に立っている。


絶対権力者の暴挙により形ある大伽藍は姿を滅したものの、百済寺の菩提樹は連綿と時を刻み、その命を紡いできている。


こうした姿を見せられると、ひょっとして神様、仏様はやはり存在しているのだ、人の心の中に秘かに棲まわれているのだと、そんな心持ちに捉われていったのである。


湖東三山・秘仏巡り、思いがけず一挙にその礼拝が叶い、また一段と仏像の魅力に魅かれてゆく老夫婦であった。



湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の秘仏一挙公開を廻った=金剛輪寺

湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の秘仏一挙公開を廻った=西明寺
湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の秘仏一挙公開を廻った=百済寺

西明寺のそんなしっとりとした気分を乗り越えて、次に聖観世音菩薩をご本尊とする金剛輪寺(こんごうりんじ)へ向かった。新緑がすばらしい。

9・明寿院書院・緋色と新緑
金剛輪寺・明寿院書院

金剛輪寺は奈良時代・天平13年(741)に聖武天皇の勅願により行基が開山した。


黒門(惣門)から本堂までまことに味わい深い石段が続いている。

10・金剛輪寺・黒門
金剛輪寺・黒門

苔生した石垣の真ん中に自然の石を敷いた参道がつづく。風のそよぎにつれ石畳に緑の影がゆらゆらと映える。

11・新緑の石畳・金剛輪寺

そよ風も山気も石畳も碧色一色に染め上げられたような新緑の隧道をくぐって本堂へ向かう。緑陰とはこれを言うかという涼やかな道である。

12・参道の両脇に千体地蔵がならぶ

参道の途中からは庶民の祈りをつなぐように千体地蔵が参道の両脇にずらりとならぶ。一歩、足を進めるにつれ粛然とした心境になってゆく。


やがて、石段の上に室町時代に建立された重要文化財の二天門が見えてくる。

13・重文・二天門
草鞋を吊るす二天門

二天門をくぐるとそこに本堂がある。鎌倉時代に建立されたどっしりとした本堂である。国宝に指定されている。

14・国宝・金剛輪寺本堂
国宝 金剛輪寺・本堂

堂内に安置されるご本尊・聖観世音菩薩から衆生を救うべく導きの紐が外界へと伸びている。

15・本堂のご本尊から導きの紐が延びている
秘仏・聖観世音菩薩と繋がる導紐を境内で握る

われわれ衆生がこの紐を握ることで菩薩と結ばれるのだという。早速、われわれ夫婦もその紐を握り、家内安全・家族の健康を祈った。

御開帳記念・金剛輪寺

そして、本堂の横から堂内に入る。ご本尊の正面に坐る。

16・松峰山金剛輪寺・生身の観音・聖観世音菩薩
聖観世音菩薩

秘仏の観音さまをひたすら拝む。


明寿院・緑雪崩れる
明寿院書院・碧雪崩れる

このご本尊については次の言い伝えが残されている。


行基菩薩が一刀三礼で観音さまを彫り進めたところ、木肌から一筋の血が流れ落ちた。この時、魂が宿ったとして粗彫りのまま本尊としてお祀りしたというのである。


その故、この聖観世音菩薩は「生身(なまみ)の観音」と呼ばれるようになったと伝えられている。


薄暗い堂内から初夏の日差しが眩い外へ出て、頭上に広がる新緑を見上げた。

17・新緑に埋もれる三重塔
新緑に埋まる三重塔

その先に新緑の葉叢に埋まるようにして建つ三重塔が見えた。とても爽やかで素直に美しい光景である。

新緑のなか
新緑に透ける本堂

そして、最後にうしろを振り向くと目にも眩い新緑に透けて、観音さまを守る本堂がひっそりと鎮まっていた。





湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の秘仏一挙公開を廻った=西明寺

湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の秘仏一挙公開を廻った=金剛輪寺
湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の秘仏一挙公開を廻った=百済寺

2014年4月4日〜6月1日までの2か月間、天台宗の湖東三山〔西明寺(さいみょうじ)・金剛輪寺(こんごうりんじ)・百済寺(ひゃくさいじ)〕の秘仏とされるご本尊が一斉に公開された。


本来であれば御開帳時期は各寺で『住職一代で一度』の公開、つまり数十年に一度、それもくどいようだが三つのお寺で時期はバラバラであった秘仏の公開が。今年度は「湖東三山IC開設と交通安全祈願」を記して三山一挙の特別公開となった。


いつものように家内がその特別公開情報をキャッチ、葵祭で京都へ向かう途上、一時下車し、秘仏を拝観することとなった次第。


お蔭で当日は20年ぶりに新幹線“ひかり”に乗車。米原でJR東海道本線に乗り継ぎ、ひと駅先の彦根駅で降車。


そして事前に予約しておいた近江タクシー(湖東三山巡り4・5時間 19,890円)で5時間弱のスピード遍路の観光、もとい敢行となった。


たいへん親切で朴訥な運転手さんで半日だけの同行であったが、夕方、彦根駅でお別れする時は、何だか少ししんみりとなったものである。


湖東三山巡りの途中、まず、多賀大社へお参りした。

1・多賀大社拝殿・神楽殿・幣殿・本殿
多賀大社 拝殿・神楽殿・幣殿・本殿

古事記に「(子の須佐之男命を根の国に追い払い)故(かれ)、其の伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)は、淡海の多賀に坐(いま)す」と記される由緒ある神社である。


それからいよいよ秘仏巡りである。


まず、秘仏・薬師瑠璃光如来をご本尊とする西明寺(さいみょうじ)に参拝。

平安時代・承和元年(834)、三修上人が湖東に一寺を建立、仁明天皇より西明寺の勅願を賜わっている。

3・西明寺・惣門
西明寺・惣門

惣門から自然石を敷き詰めた幅のゆったりした石段がのぼっている。

4・二天門へのぼる石段

その最後、急勾配となる石段のうえに新緑の鮮やかな碧に染められた重文の二天門が見える。

5・新緑の西明寺二天門(重文)
新緑に染まる二天門

二天門をくぐって、本堂の位置する内境内へと入る。右手に美しい三重塔が建つ。鎌倉後期の飛騨の匠による建造物で国宝である。

6・国宝・三重塔

本堂は鎌倉時代初期に建立され、別名“瑠璃殿”と呼ばれる。鎌倉様式の釘を一本も使わない純和風建築で国宝に指定されている。

7・国宝・本堂
二天門より本堂を見る

本堂にあがり、回廊を左手に廻り、横から堂内に入る。いよいよご本尊の秘仏・薬師瑠璃光如来に相見えることになる。


薄暗い堂内、薬師瑠璃光如来がしずかにわれわれを見おろす。手を合わせ、お祈りする。

2・龍應山西明寺・薬師瑠璃光如来
西明寺本尊・薬師瑠璃光如来

そのお顔をじっと仰いで、もう生きているうちにこのご本尊にお会いすることはないのだろうなぁと思うと、人の一生って宇宙という悠久の時間の流れのなかでは、ほんの0コンマ0、0、0、0、0、0・・・・の1秒の世界といおうか、僕の肉体を構成する無数の細胞のなかでたったひとつの細胞がひっそりと命を終えていくような、そんな無限大のなかの虚数みたいな・・・、なんだか自分で何言っているのかよく分らないようなとても切ない気分になってくるのであった。

そして、西明寺には蓬莱庭という名勝の庭園がある。

8・蓬莱庭
蓬莱庭

ここの新緑のモミジは素晴らしい。さぞ、紅葉の季節は息を呑むような景観になるのだろうと趣きのある西明寺の石段をおりながら思った。

9・蓬莱庭から本堂へのぼる趣きのある石段
苔と新緑の緑がゆるやかに下る石畳にゆらゆらと反射し、わたしの心中に碧色の陽炎がするりと映り込んでゆく。

肺を思いっきりいっぱいに膨らませてみた。爽快なペパーミントの薫りがキューっと泌(し)み渡ってくるのがわかった。


信州の鎌倉 その6=中禅寺・薬師堂(重要文化財)

信州の鎌倉 その1=塩田平
信州の鎌倉 その2=北向観音堂
信州の鎌倉 その3=安楽寺
信州の鎌倉 その4=常楽寺
信州の鎌倉 その5=独鈷山・前山寺

上田市前山1721番地

塩野神社前より独鈷山
独鈷山


中禅寺は独鈷山(標高1266m)の北側の山裾(同600m)に位置し、先述した前山寺の末寺となっている。


中禅寺の拝観時間は午後4時まで。われわれが到着したのは4時を20分ほど過ぎた頃。本堂は閉まっていたので、御朱印をもらうことはかなわなかった。


25 中禅寺・本堂

しかし、境内には自由に足を踏み入れることができた。ご近所の方が夕刻の散歩に来られていたので、観光寺院とは異なり、近在の人々の日常生活のなかに融け込んだ、共に長い時を刻んできた純朴な“お寺”なのだろ
う。

中禅寺・標石

本堂入口の左手に、これまた質朴簡素な仁王門がある。門の両脇に金剛力士像が睨みを利かせていなければ、田舎の普通に古い家の手入れをしていない門のように見える。

中禅寺・仁王門
仁王門

ただ、最近の研究調査によって、二体の金剛力士像は平安末期の制作のものと判明し、日本で5番目に古い仁王像なのだという。


吽形・金剛力士像(左) 阿形・金剛力士像(右)
左:吽形の金剛力士像        右:阿形の金剛力士像

そんな貴重な仁王像だが、あまりにも素っ気なく置かれているので、どうもありがたみに欠ける。それはまことに失礼というものだろうと、今は深く反省している。

中禅寺・薬師堂斜め方向から

その仁王さまを横に見て、仁王門をくぐった正面に、重文に指定される薬師堂がある。

この薬師堂は平安末期から鎌倉初期に建立されたものである。藤原時代に数多く造営された「方三間の阿弥陀堂形式」という建築様式で、平泉の中尊寺金色堂などが有名だが、中部日本では最古の木造建築物とされている。


中禅寺・薬師堂正面より
薬師堂正面

屋根は茅葺きで、方三間の宝形造である。四囲のどちらから見ても柱が四本立ち、その柱と柱の間(けん)が三つある正四角形の建物である。


薬師堂真横から
薬師堂真横より

正面三間と側面第一間には、両開きの板扉が設けられている。また、背面には引き戸の入口が一つ存する。


散策の人もいなくなった境内に建つ薬師堂は、鎌倉という時代が語りかけてくれているようで、まことに端正で質実剛健な佇まいを見せていた。

パワースポット・霊峰明神岳の下、明神池湖畔に鎮まる“穂高神社・奥宮”

上高地・穂高神社奥宮の古式ゆかしい御船神事を参観する(2013.11.4)

松本市安曇上高地明神


霊峰・明神岳(標高2931メートル)の直下、

霊峰・明神岳
霊峰・明神岳

上高地・明神池の湖畔に

明神岳を正面に明日の出番を待つ龍島鷁首の舟

穂高神社の奥宮は、ひそやかに鎮まる。

奥宮拝殿前に狛犬

ご祭神は穂高見神(ほたかみのかみ=神武天皇の御叔父神)である。

奥宮

安曇野にある本宮のご祭神は綿津見命・穂高見命・瓊瓊杵命である。

 

穂高神社
穂高神社・本宮

 

奥宮は小さな祠が建つのみであるが、ご神体である穂高連峰の中心たる明神岳を後背にいただく神域は約16千坪の広さにおよぶ。

大正池とならび上高地を代表する天空の湖、明神池は、実は穂高神社の神領地なのである。

大正池から穂高連峰を
大正池から穂高連峰を望む

したがって、40年前にはそんな拝観料など払っていなかったと語る家内も、その事情を知れば、社領地であり、その自然環境保護に少しでもお役に立てることになるのだからと納得した次第である。

正面に奥宮・左が社務所
正面に奥宮、左手が社務所

神官が一人常駐する社務所と奥宮の間を抜けると、そこに鏡池とも称される明神池が広がる。

一の池
明神池・一の池

一の池である。正面に明神岳の霊峰を仰ぐ。

明神池より明神岳を仰ぐ

透き通った伏流水を張った湖面には霊峰の明神岳が映り込む。

湖面に映る霊峰

また、あまりの透明感から池の魚も鮮やかに目にすることが出来る。

明神池に泳ぐ魚


10月上旬。この明神はすでに紅葉が盛りに近づき、その色づいた木々が山肌と湖面を彩る。

秋の明神池・一の池
一の池、美しい鏡池である

まさに息をのむ景観とはこのことである。

神の造形
神の造形・二の池

明神池・二の池は奇石、奇樹、枯れ樹が水面に浮かぶがごとく点在し、神が造形した枯山水ならぬ“活山水(いけさんすい)”のお伽話のような光景が眼前に広がる。



二の池と明神岳
二の池

江戸時代・寛文年間のあたりから、島々谷から徳本峠を越えるルートが木材の搬出や炭焼きなどの生活を支える道であり、上高地へは徳本(とくごう)峠を越えて入山するのが常の経路であったという。

穂高神社奥宮・参道入口
明神館前で徳本峠と明神池方面が分岐

つまり、穂高神社奥宮の祭られる明神は峠を越えた到着点であったことになり、現在の観光客の主たるアプローチである河童橋からとは反対側から明神へ到達していたわけである。

奥宮参道入口から穂高岳を仰ぐ
正面にゆくと明神池・奥宮、右手へゆくと徳本峠、手前左手が河童橋方向

上高地を世界に喧伝した英国人宣教師ウォルター・ウェストンを上条嘉門次(島々谷の猟師)が案内したルートも、まさにこのルートであった。


嘉門次小屋
上條嘉門次が設けた嘉門次小屋

だから、往古の日本人やウォルター・ウェストンが最初に目にした穂高連峰は明神岳を中心となす光景であったことになる。

『明神岳は、かつて「穂高大明神が鎮座する山々」という意味で、穂高連峰全体をさす言葉として使われていた(上高地公式ウェブサイト“明神”)』のは、この徳本峠から見た崇高なる霊峰を信仰の対象としていったのも、十分、うなずけるところである。


その峠を降りて行った先に、霊峰の直下に清澄な山水を湛える明神池がある。山気を頬を打たせ、畔に立った時、その地を神と出合ったまさに“神合地(かみこうち)”であると感じたのは、至極、自然な人の心の動きだったのではなかろうか。



穂高神社・奥宮
穂高神社・奥宮


奥宮由緒によれば、その“上高地”という名称が、古来、神降地、神合地、神垣内、神河内と神との関わりのある地と称されていたことから、この明神の地が清浄の地、神域として崇められてきたことは明らかである。


奥宮由緒(境内案内板)の説明は以下の通りである。

穂高神社奥宮・御朱印

『太古奥穂高岳に天降ったと伝えられる穂高見神(ほたかみのかみ)は、海神・綿津見神(わたつみのかみ)の御子神で、海神の宗族として遠く北九州に栄え、信濃の開発に功を樹てた安曇族の祖神(おやがみ)として奉斎され、日本アルプスの総鎮守として明神池畔に鎮座する。

奥宮・鳥居
奥宮の鳥居

松本藩主水野忠恒、大成の信府統記(1742)には、


「皇御孫尊(すめみまのみこと)穂高嶽ニ鎮座マシマスト云ヘリ。此嶽清浄ニシテ其形幣帛ノ如ク、麓ニ鏡池、宮川、御手洗(みたらし)、河水在ル所ヲ神合地ト云フ。大職冠(たいしょくかん)鎌足公モ此神ヲ敬ミ祭り給ヘリ・・・」


とあり、すでに江戸時代中期には松本藩からも厚く崇敬されて、鎮座の昔を仰ぎみることが出来る。上高地は古くから神降地、神合地、神垣内、神河内とされ、神々を祀るに最も相応しい神聖な浄地である。


善光寺名所図会(1843)に霊湖とされている明神池は鏡池、神池ともいわれ、明神岳の直下にして、一の池・二の池からなり、奇石、奇樹の島影は神秘ただよい、108日神池に浮かぶ龍島鷁首の御船は碧潭(へきたん)に映えて美しく、平安朝の昔を偲ばせる。』

紅葉のなかをゆく龍島鷁首
10月8日の御船神事

その鏡池で催される108日の例祭こそが、今回の旅の目的である“御船神事”、別名を紅葉祭りというものであった。


此の度、その御船神事に参加すべく明神池を訪ねたのであるが、秋晴れの天候の下平安朝を偲ばせる厳かでしかも華麗な御船神事の様子は別稿に譲ることにする。

鹿島神宮のパワースポット “武甕槌神の憑代 要石”

要石へ続く道 突当り石灯籠前に要石

要石はパワースポットたる奥宮をさらに右、すなわち南に折れてまっすぐ150mほど行った先にある。


要石への参道
この突当りに要石

鹿島の樹林がその一画だけぽっかりと小さく開けた処に、安永五年に献灯された石燈籠がある。


要石前の石燈籠
石燈籠向こうの細い参道を歩いてくる

その西側の鳥居のなかに要石が鎮まっているのだが、脇に松尾芭蕉の句碑が立つ。


枯枝に鴉のとまりけり穐の暮

鳥居前に立ってみると、要石は思っていたより小さい。写真は脇から石柱内を撮ったものだが、よく見ないと要石ははっきりしない。


BlogPaint

アップで撮ったものが次なる写真だが、1円玉の大きさと比較していただくと大体の大きさが分っていただけるのではなかろうか。


一円玉と要石

要石は直径30cm、高さ7cmほどの中央に少し人工の窪みをもった花崗岩であり、見た目には鳥居を配した仰々しさとは裏腹に、何の変哲もない丸くて薄っぺらな石である。

 

香取神宮の要石が凸型であるのに対しこちらは凹型である。経津主神と武甕槌神が協同で國譲りを果たしたことを象徴するように、2つの凹凸異なる性格がともに力を合わせることで、地震を抑え込む霊力を発揮するのだといった風にも見える。


円みを帯びた凸型
香取神宮の凸型要石

そこで、駒札を読むと、

「神世の昔、香島の大神が座とされた万葉集にいう石の御座とも或は古代における大神奉斎の座位として磐座(いわくら)とも伝えられる霊石である。この石、地を掘るに従って大きさを加え、その極まる所しらずという。水戸黄門仁徳録に、7日7夜掘っても掘り切れずと書かれ、地震押えの伝説と相俟って著名である。信仰上からは、伊勢の神宮の本殿床下の心の御柱的存在である。」

とある。


要石の鳥居

何の変哲もないなどと評するのは失礼である。往古、この根深い石は磐座であったというのだから、民衆の信仰は尋常ではなかったのだろう。


鹿島神宮の凹形の要石

その霊石、鹿島のパワースポットということもあって、この森深いところにある要石を訪れる人は後を絶たない。

 

霊石を少しでも近くから見たいと覗き込む人や、団体でにぎやかに見物する人など、いろいろな人がいる。


要石に見入る人々

でも、やはり、この霊地において奥宮で見かけた光景と同様に、敬虔に祈りをささげる人がいた。

祈る人

その姿は実に美しい。

ふと、頭上を見上げると、春の陽光がまさにその祈る人目がけて確かに降り注いでいるように見えたのである。

要石の頭上から差込む光

まるで、神が憑代(よりしろ)をめざして舞い降りてくるように・・・

鹿島神宮のパワースポット、荘厳で霊気に満ちた“奥宮”

奥宮は本殿を過ぎ、杉や椎の古木の並木が鬱蒼とした奥参道へ入り、まっすぐ行った突当り、神門からは300mの場所に鎮座する。

奥宮への参道

鹿島の森の原生林は厚く、深く、鬱蒼としている。

鹿島の原生林

その葉叢を切裂いた光が参道に神の意匠を刻む。歩みとともに移ろうその形状はまるで神が伝えようとする黙示録・・・暗喩のように思えた。

光と影で神の意匠が描かれた参道

その暗示に心を奪われながらなおも参道をゆく。

奥宮へ辿り着く

歩みとともに神秘さを深めゆく空間。ようやく奥宮の鎮座する地へ

奥宮・鹿島鳥居と社殿

鹿島神宮・奥宮(重文)は、社殿前の駒札によると、「慶長10年(1605)に徳川家康公により本宮の社殿として奉納されたが、元和5年(1619)に二代将軍秀忠公によって現在の本宮が奉建されるに当り、現在地に引移して奥宮社殿となった」とある。祭神は“武甕槌神の荒魂”である。

奥宮・石標

家康が奉建した武神を祀る鹿島神宮本殿をわずか14年にして奥宮へと移転させた事実は、秀忠の父に対する屈折した心情を垣間見るようで興味深い。


ただ社殿前にたたずんでいると、そうした人間社会の生臭い話とはかけ離れた“気”がこの奥宮の鎮座する地に充溢しているのが自然と納得できるから不思議だ。

奥宮・祈る

その朝も祈る女性がいた。それは敬虔で侵しがたく、崇高な光景である。


その場の空気をわずかに揺るがすことすら躊躇(ためら)われるほどの非日常的な景色であった。


荘厳で霊気に満ちた空間。こうしたところに身を置くと、誰しも自然に神の意思を感じ、ただ祈るしかないのだと、手を合わせ、頭を下げる・・・

祈る

“祈り”という行為がこれほどに美しく思えたことは記憶に少ない。


神域という言葉を肌感覚として、呼吸のように感得した瞬間でもあった。


このうら若い女性が立ち去るのを待って、わたしも社殿前に立った。

奥宮社殿

重厚さのなかに素朴な祈りの気持ちが籠められた美しい社殿であると感じた。

社殿の外郭をゆっくりと巡ってみる。


斜めから。

奥宮を斜めから

後ろに回って見上げてみる。流造の流麗な勾配をもつ茅葺屋根が間近に見えた。

斜め後ろから社殿を見上げる

簡潔で無駄が省かれた率直な造りであると感心した。

奥宮に満ちるパワー・霊気を十二分に体内に取り込み、次なるパワースポット。“要石”へと向かう。

6月の京都、花の寺社めぐり(平安神宮・法金剛院・しょうざん庭園・建仁寺両足院・蘆山寺)

此の度、ようやく念願かなって蘆山寺の桔梗を鑑賞できたが、そのほかにも京都には花をたのしむ神社・仏閣がたくさんある。

山門より
蘆山寺・薬医門

そこで、ここでは花の寺社めぐりを紹介しよう。季節は2年前のやはり6月。家内とともに京都の花めぐりをした際のものである。


まず平安神宮である。

大極殿
平安神宮・大極殿

平安神宮は東西に池がめぐらされている。東が東神苑といい、泰平閣(橋殿)で有名である。

東神苑、橋殿を望む
東神苑

西が西神苑である。

西神苑・花しょうぶ
西神苑

6月は花しょうぶなどが美しくこの神苑を彩る。

花菖蒲がきれい

その水辺の河骨、睡蓮、花しょうぶの花の競演は見事である。

花菖蒲、河骨、睡蓮の揃い踏み
手前より花しょうぶ、河骨、睡蓮

睡蓮が咲く。

睡蓮

河骨もまだ多くはないが、緑の葉のなかから黄色の花をいくつかのぞかせていた。

河骨がチラホラ咲いています

河骨の花はどこか印象的であり、一度見たら忘れない花である。

河骨が咲いています 河骨の花がのぞく


次いで、花の寺あるいは蓮の寺の名で有名な法金剛院である。

花の寺・法金剛院

ここは蓮がとくに有名だが、6月なので、沙羅双樹と菩提樹の花が見られるはずと、家内の強い希望で訪れた。

手前、方丈玄関の唐破風と本堂を望む

平家物語の書き出し部分のあのあまりに有名な条(くだり)。


「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛き人もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」

沙羅双樹落花

沙羅の木の高みに花芯が黄色のくっきりとした白い花、樹下にその花びらが数片、散華しているのを認めた家内はいたくご満悦であった。

沙羅双樹の花が咲く
沙羅双樹の花

もちろん、わたしも、“盛者必衰の理をあらわす花の色”とはいったいどんな花で、どんな色をしているのか興味津々で観察した。

沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす
盛者必衰の落花の図

そして、菩提樹の花も見つけた家内は、今日はラッキーと喜色満面であった。

菩提樹の花
菩提樹の花

そこで、ちょっと薀蓄を・・・


釈迦が亡くなったのは“沙羅双樹”の下であるが、わが国では“夏椿”を間違って、沙羅双樹と呼んでいるそうである。だから、インドの沙羅双樹は法金剛院のものとはまったく別物ということだそうだ。


ただ、平家物語に謳われている沙羅双樹はまさにこの“夏椿”のことなのだから、日本人の感性でいう盛者必衰をイメージさせるのは、まさにこの花の色なのである。

沙羅双樹花弁
日本では、これを沙羅双樹というのです

さらに云えば、釈迦が悟りを開いたのは“菩提樹”の木の下ということだが、これも正しくは“インド菩提樹”の下であるとのこと。

菩提樹の名札

これもわが国では、“菩提樹”を“インド菩提樹”と混同しているのだそうだ。


だから、この法金剛院の菩提樹の下に坐っていても凡人はなおさらに悟りなど開けぬということになる。

菩提樹の花の下で
菩提樹の花が満開

いやぁ、つまらぬ理屈をいって申し訳ない。「本当に無粋なんだから」とつぶやく声がすぐ耳元で聴こえてきそうだ。


法金剛院には“苑池”と呼ばれる平安時代の浄土式庭園が残されており、季節は異なるが蓮の花が水面に咲いたらさぞ美しかろうと思ったものだ。

苑池
浄土式庭園の苑池

ただ、この時季、花しょうぶが咲いていて、さすが花の寺と呼ばれるだけあって、花が尽きず、来る者の目を愉しませてくれる。


花しょうぶといえば、洛北の“しょうざん庭園”も訪れる価値はある。此の時はまだ一面というわけではなかったが、静かな園内をゆっくり散策するのもよい。

しょうざん庭園
しょうざん庭園
しょうざん庭園・花しょうぶ

菖蒲がきれいです 石と苔と清流
落ち着いた雰囲気の庭園です

紅葉の季節などは人出も多かろうが、季節の節目節目で訪れても面白いところである。


あと、以前アップした建仁寺の両足院の半夏生はぜひご覧になるとよい。

両足院・半夏生の庭
半夏生の庭です

これだけの株数の半夏生が植わるのはここだけだという。

いつ見ても、半夏生は不思議な謎めいた植物である。とくに雨がしとしと降っているときの濡れた白い葉と緑の葉のコントラストは何ともいえず清らかで美しい。

雨にぬれる半夏生
半夏生、大好きです

最後に、おまけで、蘆山寺の桔梗の花の写真を掲載して、“京の花めぐり”を終了しよう。

桔梗と楓

二年越しのブログのアップとなったが、前から気になっていた“花めぐりの記”であったので、これでようやく小さな肩の荷を下ろすことができた。

源氏物語執筆の地、蘆山寺(ろざんじ)の桔梗は三分咲き、満開は7月中旬!

山門

蘆山寺薬医門・上京区寺町広小路上る


この前、蘆山寺を訪れたのは、二年前の6月12日であった。源氏庭いっぱいの桔梗を期待していたところ、一輪の花も咲いていず、落胆したものである。

一輪も咲いてませんでした
2011年6月12日。一輪の桔梗も見えなかった

此の度は6月26日。二週間遅いので、捲土重来を期しての再訪である。

が、当日は雨。梅雨だもんね、仕方はない。

蘆山寺の広縁に出て、源氏庭を見た。

うん?

黴雨に濡れる源氏庭

目を凝らす・・・、咲いている。桔梗が咲いている。

雨滴と桔梗
雨滴をおく桔梗

でも、白い敷き砂利に緑色がすっくと立つが、紫色は少ない。

二分咲きかな

源氏雲文様に造られた杉苔の地が黴雨に濡れ、緑が浮き立つようで、ことのほか美しい。

黴雨に映える杉苔

観覧終了時を過ぎて、見学者もなくなった静謐のひと時・・・



翌日、新島襄旧宅の見学を終えて、昼食までに時間が残ったので、歩いて15分ほどにある蘆山寺を再訪することにした。

山門より
薬医門より

一日違えば桔梗の数も・・・、そして晴れた日差しのなかの桔梗も美しかろうと思ったのである。

本堂玄関
本堂玄関

ひと夜にして満開になろうはずはない。自然のごく自然な摂理である。

まだ三分咲きの源氏庭
う〜ん・・・

桔梗は贔屓目に見て三分咲き。

桔梗、咲いています
咲くところには咲いていますよ

でも、梅雨の合間の日差しに源氏庭はやはり映える。

源氏庭
源氏庭

源氏物語絵巻の雲の意匠から名づいた“源氏雲”の文様にあしらわれた杉苔と白石のコントラストがこの庭の清楚さを際立たせる。

源氏雲に桔梗

桔梗も日差しの関係だろうか、幾輪も咲かせる株もところどころに見える。

御黒戸隅から

また、そこに数輪だけ小さい花をつける桔梗も、凛としたたたずまいで好もしい。

凛と咲く桔梗

庭の南西に位置する“紫式部邸宅跡(考証した歴史学者・角田文衛)”と揮毫(言語学者・新村出)された石碑も桔梗のなかに馴染んで落ち着いている。

紫式部邸宅跡揮毫の石碑
紫式部邸宅跡と比定する石碑

見学者もまばらなこの日。ひとり、黙然と、庭を眺める。

本堂・内廊下
本堂・内廊下

ここで、紫式部は源氏物語を千年前に執筆したのだ・・・

蕾と花

この地で、紫式部は娘の時代、結婚してからも過ごし、息をしていたのだ・・・

桔梗と楓

光源氏って、藤原道長・・・、源融・・・、なんて想いをめぐらす・・・

桔梗がチラホラ咲いている

現代を紫式部が見て、なんと思い、そしてどのような男と女の物語を紡ぎだすのだろうか・・・

色模様

蘆山寺はひとり時間があるときに、夢想、妄想、空想にふけるときに訪ねるのが良いと感じたひと時であった。

蘆山寺の桔梗の満開は7月中旬あたりとのことである。

武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を祀る鹿島神宮をゆく(下)

武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を祀る鹿島神宮をゆく(上)
謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(上)
謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(下)
経津主神(フツヌシノカミ)と武甕槌神(タケミカヅチノカミ)=出雲で国譲りを成した二神の謎
春日大社をゆく=武甕槌神(タケミカヅチノカミ)・経津主神(フツヌシノカミ)に誘(イザナ)われ

左手に見えたのは、鹿島神宮の社殿であった。参道右手に北向きに建っているのだ。

拝殿と楼門配置が90度
手前参道左に拝殿、奥の白いシートに覆われる本殿・向こうが通って来た楼門

社殿は手前の拝殿から幣殿・石の間・本殿と北から順に奥(南)へと続いて建つ。

拝殿の後ろ、幣殿が見える
社殿横から。左より拝殿・幣殿・白いシートの中、石の間・本殿とある

しかし、ここも香取神宮同様、来年の“式年大祭御船祭”へ向けた屋根の葺き替え工事が進行中で、石の間と本殿は白いシートの中に身を隠す。

拝殿の奥、葺き替え中の本殿は覆われていた
しっかりシートの中です

本殿はだいたい参道の突当りに鎮座するものだが、ここは参道の脇、直角に曲がって拝殿で参拝する。

拝殿正面より
参道を右に90度曲がると、鳥居と拝殿が正面に見える

何か奇妙である。この謎はこれから訪れる奥宮、御手洗池、要石の項でわたしの考えを述べることにする(鹿島神宮のパワースポット“荘厳な霊気に満ちた奥宮”・“清浄の地御手洗池”・“武甕槌神の憑代 要石”を参照)。

拝殿で祈祷中です
拝殿内で祈祷が行われていた

さらに不思議なのが本殿が北向きであること。しかも御神座は本殿内南西隅に置かれ、東を向いているのだという。われわれはご祭神“武甕槌神”の横顔に向かい参拝する形となる。

拝殿
拝殿を西側より見る

当社に伝わる“当社列伝記”に次のごとく記されている(鹿島神宮元宮司東実著・学生社刊「鹿島神宮」より)。

「開かずの御殿と曰うは、奉拝殿の傍に御座す、是則ち正御殿なり、北向に御座す、本朝の神社多しといえども、北方に向いて立ち給う社は稀なり、鬼門降伏、東征静謐の鎮守にや、当社御神殿の霊法かくの如く、社は北に向ける、其のご御身躰は正しく東に向い安置奉る、内陣の列法なり」

実は本殿内の御神座のこの奇妙な配置は出雲大社に似ている。出雲大社は拝殿、八足門、楼門、御本殿と直線状に配置され、すべて南面する。その御本殿の御神座は本殿北東隅にあって西を向かれているという。
方角は異なるが、拝殿で参拝する者たちに、御祭神は横顔を向けしかも本殿内の一番奥隅に鎮座されるという形式は同一である。

出雲大社本殿
出雲大社本殿

國譲りをされた大国主命が祀られる出雲大社とその國譲りをさせた武甕槌神が祀られる鹿島神宮。方向は違えど同じ形式で祀られていることはいったい何を意味し、何を語らんとしているのか。謎は深まるばかりであり、興味は尽きることはない。

その鹿島神宮社殿の斜め対面に仮殿がある。

仮殿

その間に何故か、高天原の悪神である“天香香背男(アマノカカセオ)”を誅した“建葉槌命(タケハツチノミコト)”を祭神とする摂社・高房社が鎮座する。言ってみれば本殿の真正面であり、参道の中央に坐すとも見える(“続・経津主神と武甕槌神の謎=常陸風土記と日本書紀から読み解く”を参照)。

摂社・高房社と三つ穴燈籠
摂社・高房社と三つ穴石燈籠

次に宝物館を見る。

宝物館

国宝の“直刀”を見ようと立ち寄ったが、見事、大神社展へ貸出中!!

平成館館内
東京国立博物館平成館での”大神社展”

長さが271cmにおよぶという“ふつのみたまのつるぎ”である。宝物館には長さ、重さも同一の模造品があり、それを手で抱えて見たが、もちろん、持ち上げるだけで精一杯で、振り回すなんてとんでもないといった大刀であった。

国宝・海獣葡萄鏡
海獣葡萄鏡・復刻品

これも香取神宮の海獣葡萄鏡と一緒で、後日、東京国立博物館で拝見することとなったが、やはり実物は人出の多い博物館の中でもシンと鎮まり、その刃身から撥される神気に心を浄められた。

さて、奥参道に入ると途端に参道脇に広がる樹叢の奥ゆきが深みをます。

原生林の中を縫う参道

古木特有の捻じ曲がった枝幹は上空を縦横無人に覆い、参道に影を落とす。その樹間を縫うように数条の光が射し込んで来る。

古木

その光と陰が織りなす意匠は武甕槌神の黙示のようでもあり、歩みとともに移ろうそのフォルムが、わたしに終始、何かを語りかけているように感じられた。

光

そうした神秘的空間を歩む途中、左手に開けた場所があった。鹿島の鹿苑である。

参道より鹿苑を

春日大社の社伝によれば、称徳天皇の767年、平城京鎮護のため鹿島神宮の武甕槌神を春日大社の祭神として勧請したが、この時、武甕槌神は白鹿に乗ってひと月かけて御蓋山(三笠山)に来られたのだという。

鹿苑
この鹿たちのご先祖が奈良の鹿のご先祖にあたる・・・

つまり春日大社の鹿は鹿島の鹿の末裔ということになり、この云い伝えが両神社において、鹿が神鹿として敬われ、神の使いとされる由縁でもある。

春日大社の鹿の手水舎
春日大社・鹿の手水処

その鹿苑の一角に中臣鎌足伝承に由来する“鎌足桜”が咲いていた。

鎌足桜 鎌足桜花弁
鎌足桜が咲いていました

中臣鎌足は常陸の生まれといわれ、いまの鎌足神社(鹿嶋市宮中3354番)がある辺りがその出生地とされる。出生地常陸説の根拠のひとつとなっている藤原氏の栄華を描いた“大鏡”に、「鎌足のおとど、む(生)まれ給へるは、常陸国なれば、かしこのかしま(鹿島)といふところに、氏の御神をすましめたてまつり給ひて」とある。

さらにこの一隅に、りっぱな“さざれ石”が置かれているので、これもお見逃しなく。

見事なさざれ石

ということで、いよいよ、ここから奥宮、要石、御手洗池と鹿島神宮のパワースポットゾーンへと足を踏み入れてゆくことになる。以下、それぞれ別稿を置くので、それを参照されたい。

武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を祀る鹿島神宮をゆく(上)

武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を祀る鹿島神宮をゆく(下)
謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(上)
謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(下)
経津主神(フツヌシノカミ)と武甕槌神(タケミカヅチノカミ)=出雲で国譲りを成した二神の謎
春日大社をゆく=武甕槌神(タケミカヅチノカミ)・経津主神(フツヌシノカミ)に誘(イザナ)われ

東京から鹿島神宮へゆくには八重洲南口からの高速バス(JR・京成・関東鉄道)が便利である。10分間隔で運行されており、鹿島神宮駅まではわずか1時間56分の乗車である。


ただ、今回は香取神宮経由での鹿島参拝のため、一時間に一本のJR鹿島線を利用することになった。 香取駅から鹿島神宮までの乗車時間はわずかに16分というのにはちょっと驚く。  

香取駅ホーム

ところが、地図を見るとその間に利根川、常陸利根川、北浦と3つの大きな川や湖を渡っている。鉄橋や陸橋がなければ相当難儀な行程である。

 
往古、この間が海で隔てられていた頃は対岸が見渡せたとしても、当時の舟で行き来するのは湾口の潮流もきつかっただろう、そんなに容易なことではなかったはず。そんなことをぼんやりと頭に浮かべながら窓外を見やると、春の夕日が一条の帯地を広げたように北浦の水面を茜色に染めあげていた。

北浦に沈む夕日

鹿島神宮駅は周囲を台地に囲ませた窪地にある。当夜の宿は駅前のビジネスホテル鈴章をとっていたが、なるほど鹿島神宮へ向かうには駅からひたすら坂道を登ってゆくのがわかる。ホテルまでのわずかな距離ですら坂道である。

ビジネスホテル鈴章
ホテル鈴章前の坂、結構、急です。これを上って鹿島神宮へゆく

香取神宮で歩き疲れたわたしの次なる愉しみといえば食事。当地名物の鯰(ナマズ)料理はどうかと奨められた。う〜ん、鯰ネェ〜と躊躇したが、何せ香取の要石を拝した身。やはり地震退治に協力せねばと老舗・鈴章での夕食となった。おいしかった話は別稿で(“鹿島のグルメ:鯰料理の老舗・鈴章”参照)。


さて、早起き苦手のわたしが9時にはすでに鹿島神宮の門前に立った。ホテル鈴章の方がこの登り坂は足の不自由なわたしには大変だと車で送ってくれたのである。前日の鯰料理・鈴章への送迎といい、今朝といい、感謝、感激である。

大鳥居前の参道
大鳥居前の門前町

そして、いよいよ鹿島神宮参拝の始まりである。

鹿島神宮石標

嫌な予感はしていたのだが、まさか、初っ端からとは。二之鳥居の大鳥居がない。

鹿島神宮大鳥居跡

前日の香取神宮といい、 鹿島でも肩透かしを喰らわされた形で、どうも心持ちが宜しくない。 ただ、鹿島神宮と大書された石標は隆々と青空の中に聳え立っていた。

青空に石標が立つ

御影石造りの大鳥居は2年前の9.11東日本大震災で倒壊したとのこと。大鳥居は境内側へ倒れたので、門前町への被害はなかったという。しかし、考えてみれば不思議である。鹿島神宮は坂を上り切ったところにある。通常であれば、傾斜に沿って下の方に倒れるものだが、人々に害を及ぼさぬようにわざわざ逆側へ倒れ込んだとしか思えぬのである。

ここに大鳥居の柱が立つ
御幣で囲われた大鳥居柱の跡

その大鳥居は来年の御船祭りに向けて再建が進められ、此度は古来の木造に戻すそうで、6月の竣工予定である。鹿島の森に育つ杉の古木を使用するとのことで、それを語る氏子の方の誇らしげな笑顔が印象的であった。


なお、大鳥居が二之鳥居というのであれば、一之鳥居はどこに・・・となるが、大船津、北浦・鰐川の水中に立っている。今年の6月1日に約30年ぶりに川中の鳥居として復活したのだという。

鰐川に立つ”一之鳥居”:東京新聞より
東京新聞より

まぁ、そうしたわけで鳥居をくぐることなく鹿島神宮という聖地に足を踏み入れることになった。

早朝の境内・楼門

御幣で囲われた大鳥居の柱跡を見ながら石畳を踏みゆくと、正面に大きな総朱漆塗りの重文・楼門が立つ。屋根は入母屋造りの緑青のふいた銅板葺きである。

堂々とした楼門

その楼門左手前に手水舎がある。

手水舎

手前を左に入ると小さな鳥居が見えるが、境内末社を祀る一画である。

手水舎脇に摂社・末社参拝鳥居が

左手前より熊野社・祝詞社・津東西社と並ぶ。右手は須賀社である。

境内末社 末社・須賀社

そして正面には、境外摂社である坂戸社(祭神 天児屋根命・北に2km)と沼尾社(祭神 経津主大神・北に4km)を拝む遥拝所が設けられている。

摂社・坂戸社、沼尾社遥拝所

次に参道へ戻り左手を見ると、目の前というより人を圧するように楼門が迫り、その造りに圧倒される。

楼門を見上げる

その中央・高処には、香取神宮と同じ東郷平八郎元帥揮毫の扁額が掛かる。

東郷平八郎元帥揮毫

楼門を抜けると左手に社務所や神札授与所がならび、朝の準備をしている愛らしい巫女さんが見えた。

早朝の境内

そして、参道がまっすぐ奥へ奥へと続いているのが見える。19万坪におよぶ広大な境内を本堂までどこまで歩くのだろうと不安になる。

拝殿前から奥宮への参道を見る

参ったなと楼門を振り返ったところ、ちょうど当神宮の鹿島則良宮司が歩いておられた。これは何かの瑞兆か・・・

鹿島神宮宮司 鹿島則良氏
鹿島則良宮司

と思った瞬間、右手に鳥居と何やら構築物が・・・

参道右手に鳥居と構築物が
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