彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

民主主義

参院選挙、与党過半数割れ=「一票の格差」是正は待ったなし!

 711日の第22回参議院総選挙は、改選議席数121のうち、民主44、自民51、国民新党0で、民主・国民新党の連立与党が非改選議席の65を合わせても過半数(122)に遠く及ばない109議席と大敗の結果となった。

 

 大敗の要因として、前鳩山政権時の「政治とカネ」、迷走を繰り返した「普天間基地移設問題」、菅総理の選挙期間中の「唐突な消費税発言」と「税金還付のブレ」などが挙げられている。しかし、敗因の主たるものは、政権交代によって期待されたこれまでの自民党政治のあり方の一掃、つまり「清廉な政治」、「税金の無駄遣いの排除」、「誠実な国会運営」など「国民のための政治」が、この10カ月でことごとく裏切られたことが大きい。

 

昨夜、菅首相は記者会見において、消費税に言及したことを敗因の大きなものとして挙げたが、その認識も非常に甘い。ちゃんとした党内議論や積み上げ計算、税制全般にわたる整合性あるビジョン、使い道の詳細説明などがあっての消費税発言であれば、国民はソッポを向くことなどしない。それほど国民は無知でも偏屈でもない。納得できる説明さえあれば、十分、受け入れる心構えはあるのである。

 

 敗因分析はそれくらいにして、ここでは相変わらず改善を見ない「1票の格差」について述べたい。国民の法の下での平等をないがしろにしたままの国会のあり方を厳しく問いたい。

 

 神奈川選挙区(改選定員3)で民主党の現職閣僚(法務大臣)、千葉景子氏が696,739票を獲得したものの、48,404票差で同党の現職議員金子洋一氏(745,143票)に敗れ、落選した。

 

 この神奈川選挙区は、選挙直前の624日に総務省より発表された「選挙人名簿登録者数・在外選挙人名簿登録者数」を元に計算された「1票の格差」がもっとも大きい、つまり全国の選挙区のなかで有権者の1票が最も軽い選挙区であった。

 

 その時の時事通信社の報道によると、「1議席当たりの有権者数を選挙区ごとにみると、最大の神奈川県(2442672人)と最少の鳥取県(487893人)の開きは5.01倍となり、最高裁が格差是正を求めた前回選挙時の最大4.86倍(最大の神奈川県と最少の鳥取県との差)を上回った」とある。

 

 1票の重みが日本一である鳥取選挙区(改選定員1)では、158,445票を獲得した自民党新人の浜田和幸氏が当選を果たした。

 

 千葉法務大臣(落選後も民間人として大臣続投)は、浜田氏の4.4倍の有権者の支持を得たにも関わらず落選した。逆にいえば、神奈川の有権者は鳥取県の「4.4分の1」以上の票の軽さを強いられた。まさに法の下の平等を蔑(ないがし)ろにされたのである。

 

 折しも、昨年の930日、20077月参院選に対する最高裁大法廷判決は、「1票の格差」が最大で4.86倍(鳥取選挙区:神奈川選挙区)であったが、定数配分は合憲と判断したものの、「投票価値の平等の観点から大きな不平等があった」とし、格差縮小のために「選挙制度の仕組み自体の見直しが必要」と、選挙制度そのものの見直しに初めて言及した。一票の格差是正を怠る国会に対し、最高裁は、待ったなしの最後通牒を突きつけている。

 

 ねじれ国会の現出により、また政局は混迷を深めることが予想されるが、民主主義の基本である「一票の格差」是正は、原則中の原則である。党利党略を超え与野党一体となって、それこそ議員定数削減議論と合わせて、抜本的な選挙制度見直しを行なうべきである。これこそ、健全な民主主義を守るうえにおいて、大事な政治の責務であると考える。

社民党・国民新党が次期参議院選挙の民主党躍進の推進役に

1018日放送のフジテレビ「新報道2001」の「今週の調査(10.15調査)」で「あなたは来年夏の参院選でどの党の候補に投票したいですか」の質問の結果が、民主党38.8%(108調査39.6%・101 38.8%)、自民党9.2%(同13.2%・14,2%)となり、とうとう自民党が10%台を切った。

 

わずか二週間の短い期間の動きではあるが、916日の民主党政権発足後から1ヶ月後の数字の変動である。民主党はほぼ数字は横這いといってよい。それに対し自民党の数字の急落ぶりが目立つのである。

 

原因のひとつは党再生をかけた自民党総裁選にある。自民党は選挙前の300議席から119議席(▲181)へと大幅に議席数を減らした。自民党はその歴史的大敗北の原因を分析し、敗北に至ったこれまでの政治手法の総括をおこなうべきであった。そのうえで、解党的出直しを図るべく、一時の浮ついた人気などに惑わされることなく、強いリーダーの下で再生を期すのが当然の道筋であるとわたしは期待していた。おそらく大方の国民がそう思っていたのではなかろうか。

 

しかし、総裁選には谷垣禎一・河野太郎・西村康稔の三衆議院議員が立候補した。その顔ぶれに国民は自民党の解党的出直しの決死の覚悟を読み取ることはできなかった。相変わらずの党内力学、自身の損得に右顧左眄し立候補を見送った議員がいるとしか考えられない。これまでいつも自民党は言っていたのではないのか。「党内には人材がたくさんいる」のだと。

 

然るにこの顔ぶれであった。従来の自民党の殻を打ち破る気魄を、申し訳ないが、この三候補に感じることはできなかった。このことで、国民の自民党に対する期待は地に落ちたと言わざるを得ず、そうした思いが冒頭の数字につながっているのだと推測される。

 

その一方で、次の理由こそが実は小沢一郎民主党幹事長がいま、最もほくそ笑んでる事象なのではないかと考えるのである。

 

連立を組んだ社民党の福島瑞穂消費者及び食品安全・少子化対策・男女共同参画担当大臣と国民新党の郵政改革・金融担当大臣の自儘とも言える閣僚としての発言である。

 

先の第45回総選挙における各党別の得票率は次の通りである(得票率は各党別の小選挙区と比例代表の獲得得票数の合計を、全党会派等の総得票の合計数で除したものである)。民主党44.9%・自民党32.7%・社民党3.1%・国民新党1.4%となっている。

 

議席数よりもより民意に近い数字と言ってもよい得票率で、3.1%の社民党と1.4%の国民新党の党首が発言を繰り返すたびに、国民の気持ちが早く次の参議院選挙で、民主党に過半数を取らせねばならぬとの思いを強くして行っているという事実である。

 

とりわけ社民党の福島大臣が連立合意書で日米地位協定の改定提起を明記したことで、国の安全保障という国政の要諦に関わる問題について教条主義的な発言を繰り返すことが、あの大臣就任の時の異様なハシャギぶりの様子とダブってしまい、どうにもちょっとご自分の立ち位置、立場がよくお分かりなっていないのではないかと思ってしまうのである。

 

理屈から言えば、まぁ連立合意書においてサインしたのだから、社民党の党是に触れる問題について反駁なり意見を言うことはある意味、当然な部分もあるにはあるのだが、改定提起の詳細は「米軍基地問題について沖縄県民の負担軽減の観点から、日米地位協定の改定する」と、明記されているのであって、合意しているのは基地問題においてのみである。それ以外は連立の中で協議することになるというのがわたしの理解である。

 ところが、福島大臣のこれまでの安全保障に関する発言は、協議の前に社民党の党是を主張しており、内閣を構成する大臣の発言としては、まだはっきりと合意もされていないことを勝手に言っている、堅苦しく言えば閣内不一致以前の、閣外勝手発言を放置するようなおかしなことになっているのである。

 

そのおかしな状況に、どうもついてゆけず、社民党の有する参議院5議席の重みを早いところ解消せねば、国政の要諦において、民意3.1%の党に鼻づらを引きずり回されるという滑稽な政治状況が続いてしまうという強迫観念が、日に日に強まっているというのが、今の国民の偽らざる心境なのではなかろうか。

 

 その結果、次の参議院選挙にはどうしても民主党に過半数を与えねば、本来の民意を反映した政治が行なわれないと、次回参議院選挙は民主党の候補へ、逆に自民党の候補への投票は控えようと考える人々が多くなっているのではないのかと思えて来たのである。

 だから小沢一郎幹事長は、福島瑞穂大臣にはもっとはしゃいでもらって、民主党躍進の推進役になって欲しいぐらいのことを、本気で思っているのではないのだろうかと邪推もしたくなったというわけである。

 

 健全な二大政党政治を確立するには自民党の再生が通常の有り様であると考える。しかし、この3.1%の党首の発言によって、そのシナリオがどんどん遠のいて行くようで、このフジテレビ「新報道2001の世論調査の数字の傾向には、正直、「参ったな!」と、感じた次第なのである。

民主党、政権交代=静かなる革命は成就するか?5

政権交代=静かなる革命は成就するか?

 

2009830日の第45回衆議院議員選挙において、鳩山由紀夫代表率いる民主党は公示前の115議席から193増の308議席を獲得する歴史的大勝を果たした。対する自民党は300議席から181減の119議席へと公示前の4割へとその勢力を減衰させた。

 

 日本の政治の勢力地図が過去にない劇的な転換を見せたのである。別の言い方をすれば、国民の手による静かなる革命と表現してもよい。

 

 過去、55年体制以降では、199389日に発足した細川内閣(退陣94428日・在任期間263日)が非自民政権として国政運営にあたったが、この政権は宮沢喜一内閣に対する不信任案に賛成票を投じた自民党造反組の羽田派が結成した新生党と武村正義グループの新党さきがけや細川護熙(もりひろ)率いる日本新党、さらに社会党、民社党、公明党など8つの政党、会派が連立を組んだ烏合の衆の非自民連立政権であった。しかも自民党は衆議院の第一党の地位にあった。ために、その後の政局運営は「ガラス細工の政権」と揶揄されたように多難に満ち、1年を経ずして退陣に追い込まれ、自民党が与党に返り咲いたのは周知のことである。

 

 それに対し、今回の民主党政権は参議院で過半数を押さえていない弱みはあるものの第一党の地位を占めており、二大政党制の確立を予想させる堂々たる本格政権と言える。特に98年からの新生民主党は政権交代を党是とし、二大政党政治の実現を目指した。その結党の夢が今回の総選挙によって実現を見たことになる。

 

 選挙後はそれまで以上に、マニフェストに掲げる子ども手当の創設や高速道路の無料化等その政策がばら撒きである、財源問題が不透明であるなどその実現性に関し様々な疑問の声があがっている。投票日翌日だったか、NHKの夜の各党討論会でも司会が岡田克也幹事長に対し政権担当能力への懐疑をぶつけた場面があった。そのとき岡田幹事長はまだ政権発足もしていない時点で、まだ国政運営の実際を見ることもなしに、そう言った質問をすること自体、「大変、失礼である」と不快感を露わにした。

 

 わたしも「無礼千万!」と、思ったものである。どうもこの国は何事につけ、性急な結論、結果を求め過ぎるきらいがあるようだ。そしてこの司会者は主権者たる国民が今回の総選挙で民主党に国政を託す選択をしたという重大な事実を軽視しているのではないかと、その見識を疑わざるを得なかった。

 

 国民は自らの意思により民主党に対しこれからの国政運営を託したのである。その意思の表われが308議席という歴史的数字による政権交代の実現なのである。そのことは、逆に、われわれ国民はその意思とそこからの結果に責任を持たねばならぬということを意味する。だからこそ、その意味において国民は与党となった民主党をゆっくりと育ててゆく寛恕の心を持つべきであり、成果を急かせぬ覚悟がわれわれに求められているとも言える。

 

 半世紀におよぶ一党支配の政治体制が、政治システムにとどまらず、日本社会の様々な組織や社会構造、意志決定のあり方などに硬直化や澱みそして癒着を生んできた。国民の意思を無視したそうした澱(おり)は、社会の仕組みの礎石に折敷き、長年の間に礎石の表面は汚泥に汚れ、ヌルヌルとし、その上に建つ社会構造の大黒柱がツルツル滑り、不安定な揺らぎを示していた。ここ数年、急速に進んだ社会格差や閉塞感といった負のエネルギーが、社会に充満していることは国民が、一番、よく実感していたはずである。そしてそうした状況を放置しつづけた自民党政治に憤りを覚えていたはずである。だからこそ、待ちに待った今回の総選挙において、一挙にその怒りを政権交代という形で爆発させたのである。

 

 この自明の理を民主党は忘れるべきではない。国民の意思を無視した政権は、今の小選挙区制度において、一日して簡単に与党の座から転げ落ちるという冷厳な事実を目の当たりにしたのだから。日本国民は決して愚かではなかったし、政治に無関心でもなかった。政治に対する積年の怒りを武力などという野蛮な手段ではなく、選挙という民主的手続きによって、政権交代という静かな革命の第一歩を成就させた良識ある国民であったと言える。

 

しかし、この静かなる革命を喜んでばかりはおられぬ。この革命の実質的な成否はまさに「これから」にあるからである。これからこの革命を真に国民のためにある、「正しき」方向に導くのは、実は、今回、政権交代を果たした与党民主党でもなく、ましてや細々、粗探しを行なう大手マスコミでもない。革命成就の成否は小選挙区の醍醐味を実感した、まごうことなき主権者たる国民自身の手の中にあることを知るべきである。民主党ではなく、国民が今回の政権交代を果たしたのである。その重要な歴史的事実をわれわれ自身が成したのであるということを決して忘れてはならない。

この国の民主主義は危険水域へ5

この国の民主主義は危険水域へ

=政治に対する関心、言葉を失うという危機

   最近、政治への関心が急速に失せ、無力感のみ感じる自分がいることに気付き、空恐ろしくなる。この国の政治に「何か」を求めることなどそもそも無意味なのだといった虚無感にすら襲われる。だからTVの報道番組もNHKのニュースをチェックする程度で、とくに民放の情報番組などは、したり顔のキャスターや不勉強なコメンテーターの存在が不快でほとんど見ることもなくなった。

 

 それほどにこの国の政治はかつてないほどに活力を失い、それを厳しく監視すべきメディアの質の劣化も著しく、したがって政治そのものにとどまらず、それをチェックするメディアにすら関心も薄れ、魅力もなくなった。主権者たる国民のひとりであるはずのわたしは、最近の自分の気持ちの枯れ枯れとして荒涼とした心象風景に、ある種の懼(おそ)れを覚える。こうした国民の気持ちの間隙をぬって「ファシズム」というファントム待望論がいつしか人々の心を熱く占有してゆくことになる・・・というおぞましい近過去の歴史・・・。

 

麻生太郎首相と小沢一郎民主党党首の党首討論(1128日)を終えた29日、30日の両日にわたり、産経新聞とFNN(フジニュースネットワーク)合同での内閣支持率等の世論調査が行なわれ(全国の有権者1,000人への電話調査)、その結果が公表された。電話調査(RDD法)による世論調査の問題点は別の稿に譲るとして、ここではアキバが産んだ麻生内閣の支持率急落について政治に信を失った者の「言の葉」を書き記そう。

 

麻生内閣発足直後の925日の同世論調査では、内閣支持率は446%であったが、今回は275%へと大きく落ち込んだ。また、「麻生、小沢どちらが首相にふさわしいか」との質問に対しては、初めて小沢一郎が32.5%と、わずかに1%ではあるが麻生太郎首相(31.5%)を上回った。

 

 このところの麻生首相は、定額給付金についての迷走や道路財源一般化に関わる1兆円の地方交付税・交付金問題、さらには第二次補正予算の今国会提出の見送りなど「政局より政策」と強く訴えてきた総理自身が、政策面で大きなブレを見せ、リーダーシップを失っている。

 

 百年に一度、未曾有(麻生読みでは「みぞゆう」)の危機に世界経済が直面している。だから国民生活を防衛する意味から早急に大型の景気対策を打たねばならぬ。そのため小沢党首がいう解散・総選挙といった悠長な政治空白を作ることは許されぬ。

 

 麻生首相はそう言っていた。わたしもそう考えたから、麻生内閣の緊急経済対策の取りまとめに期待した。「財政再建」原理主義派の硬直した頭では考えつかない柔軟な思考で、生きた経済を活性化させる大胆な景気対策が、今国会中に打ち出されると当然、思っていた。未曾有(みぞう)の事態なのだから・・・。

 

 しかし結果は違った。だから、わたしはいまの「政治」を語ることの愚かしさに打ちのめされた。そして虚脱感に襲われている。

 

 民主政治の理念では国民の審判を経ていない政権は、正統性を有さぬことは明らかである。自民・公明両党は国民の審判を受けぬまま、いわば認知されぬ政権を安倍・福田・麻生と、事もあろうに三代も続けて擁立してきた。それじゃ今度は民主党が政権党?に、でも政権担当能力は果たしてあるのか、あんなに国民の耳障りのよいことばかり言って・・・。

 

 そうしたことをあれやこれや考えているうちに、この国はほんとうに一度、どんぞこまで転落するしかなのではないかと思うようになるのである。そう、ガラガラポンすればいいのだと。だが、国を「ガラガラポン」するって、それってまさか革命ってこと?・・・、そんなことがこの「ゆるキャラ」の国で起きうるかい?

ましてや健全な批判機能を果たせぬメディアが、権力を正当に評価・批判できぬメディアが跋扈(ばっこ)する国で、そんな大それた「ガラガラポン」なんてこと、危なっかしくて、とてもとても・・・。だけど、このままじゃ・・・。

 

そんな繰り返される夢想・・・、そう、いまの自分は危険な思考回路に入っていっているのだと気付き、ふと空恐ろしくなる。そして、また考え出してしまう。

 

・・・失業者が巷にあふれ、国民生活が食糧危機やエネルギー危機に襲われ、日常の糊口(ここう)も漱(すす)げぬ困窮生活に現実に直面しなければ、もうこの国の変革は望めぬのではと・・・。そして果断な独裁者でも出現して来ないことには何も変えられぬと・・・、みんなが熱病患者のように考え出す・・・。

 

 ほんとうに今のこの国は、考える意志も、行動する決意も失った、魂のない抜け殻のような人間の群を置くただの地面になり果ててしまったのだと。将来に夢の欠片すら持てぬわたしはそう考え込んではますます滅入り、この国の深くて暗い深淵を覗き込むのみである。主権者たる自分が、本当に危険な心理状態に陥っている、そう思うとゾッとするのである。この国の民主主義は危険水域に入っているのではないのかと感じるのは、心配症で臆病なこのわたしだけなのだろうか。

 

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中山成彬衆議院議員は堂々と信念に殉じて出馬すればよい5

中山成彬議員は堂々と信念に殉じて出馬すればよい!

 

辞任する必要などない中山成彬国交相

 

(中山成彬氏の日教組批判発言は失言か?)

 

 

 

 

中山成彬衆議院議員が16日、一転、「次期衆院選で、宮崎1区から立候補したい」旨、自民党県連に電話で伝えてきたという。

 

この情報を伝えた同日のテレビ朝日の「報道ステーション」などでも古館一郎氏が随分とあきれた様子で、批判的見解を述べていた。

 

その批判自体は、大臣辞任、議員辞職が当然であるとのスタンスに立つ人間であれば、十分に予想される反応であり、至極、当たり前に「あきれる」ことなのであろう。

 

しかし、そもそも辞任も辞職もする必要はないとする立場に立つ人間からは(このわたしがそうであるが)、中山氏の今回の政治的決断は何ら批判されるものでないことも、また当然の思いであり、判断である。同氏の政治信条を国政に活かすには、やはり国会議員として立法に直接、関わる場にいる必要があるし、それが最も効果的であり意義があることである。わたしはそう考えるし、それが政治家としての最終最後の決断だと考える。

 

一言居士がよいこともある。君子は豹変しなければならぬ時もある。前言を撤回し次の総選挙に出馬するという決断は、非常に格好が悪いし、恥ずかしいことこの上ない。しかし今回のことは、勿論それを承知の上で批判を覚悟の上で決断したのだろうから、これは現下の国政の置かれている状況に鑑み、一政治家が己の政治信条を貫き通す唯一の生き方を選択したのだということで捉えねばならない。同氏のこの判断が是か非かを評価するのは選挙民たる国民である。

 

これまでの中山成彬議員の一連の発言、行動、政治判断については、主権者たる国民、すなわち宮崎一区の選挙民が、次期総選挙で是非を判断すればよい。それこそが民主主義である。それがおかしい、違うというのであれば、見解を異にする候補者が立つはずであり、その選択は主権者たる国民がしっかりと行うのであるから。

 

 

 

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大手メディアはいつ総理大臣に成り上がったのか=麻生太郎内閣の組閣5

22日に自民党総裁選挙を終え、麻生太郎幹事長が第23代自由民主党総裁に選出された。引き続き24日に第170回臨時国会が召集された。まず衆議院で麻生太郎氏が首班に指名された。ほぼ同時に開かれた参議院本会議では小沢一郎氏が首班に指名された。そのため衆参両議院の協議会を経たのち、憲法第67条の規程「(内閣総理大臣の指名は)衆議院の議決を国会の議決とする」により、ようやく内閣総理大臣が決まる。そして、憲法第68条の規程に基づき、内閣総理大臣が国務大臣を任命、いわゆる組閣の手続きに入ることになる。

 

総理大臣の指名と組閣手続きにつき大仰に憲法の条文まで持ち出したのは、このたびのNHKを筆頭とするテレビ各局の組閣人事報道に、メディアとしての一線を超えた異様な光景を目にしたためである。

 

つまり、まだ臨時国会の本会議も開かれていない24日早朝、NHKや民放各局は中川昭一衆議院議員に自宅前でインタビューし、同時にテロップで「財務大臣・金融担当大臣」と新閣僚ポストを報じていたのである。まだ閣議で福田総理が現閣僚から辞表を取り纏めるかなり前であったかも知れぬ時間にである。

 

新しく選ばれた内閣総理大臣が各閣僚を任命することは前述したが、まだ、その前段階も前段階の時間帯に、次の閣僚人事をニュースとして報道しているのである。

 

それも「就任する見込みが強まった」と報じるのであれば、予想を伝えたのだと言い訳も通じるかも知れぬが、既成事実のように報じたのである。また午後の報道においても衆議院で首班指名が終わったばかり、参議院ではまだ指名投票が行なわれている最中に、NHKは野田聖子消費者行政推進担当大臣や舛添要一厚生労働大臣の再任をはじめ他の主要閣僚人事を断定的に伝えた。それはまるで既に閣僚名簿が発表されたとしか思えぬ報道であり、そう錯覚してもおかしくない伝え方であった。

 

こうした行為は本来の報道の使命に値することなのだろうか。何が起こるか分からないのが政治の世界、一寸先は闇ともよく言われる。しかし大手メディアはそんなことは合点承知の介で、自民党有力筋か与党有力筋か分からぬが、そこからの確実な情報を元に事前報道を決したのだろう。

 

しかし、この報道はあきらかに決まっていないことをあたかも既成事実のように報じたものであり、その時点では事実ではない。「いったいどこの誰が決めたのさ」と、異様な違和感を覚えるのも当然である。

 

総理大臣も決まっていない段階に、これから選ばれるはずの総理が任命すべき各閣僚が、大手メディアによって事前に報道発令されている。いくら、麻生太郎自民党総裁が総理大臣になることは万々が一も間違いはないと踏んだとしても、こんなニュースの断定報道はありえない。メディアは、いつから憲法に定める国務大臣の任命権者である総理大臣になったのか。

 

その時国会議事堂では、まさに衆・参議院の720余名の議員が集まり総理大臣指名選挙を行なっている。閣僚人事を流す一方で、テレビ画面のなかに映し出されているその映像はいったい何なのか。あまりにも議院内閣制という民主主義の重み、ルールを無視したやり方ではないのか。

 

「国会は国権の最高機関」(憲法第41条)である。そしてこの日、本会議に出席した国会議員は「全国民を代表する選挙された議員」(憲法第43条)であることは、論を待たない。

 

NHKをはじめとする大手メディアが、議院内閣制を軽視または無視する報道を当然のことのように行なう。こうしたメディアに民主主義を語る資格はない。それ以上に知る権利という大義名分により手にした強大な権力を嵩(かさ)にきるこうしたやりたい放題の姿勢こそが、民主主義の基盤を蝕み、崩壊させることになるのである。

 

メディアにも言い分はあるのだろう。麻生氏が閣僚候補への要請活動を事前に行ない、永田町の有力筋が大物ぶって閣僚予定人事をリークしたことに問題がある云々(うんぬん)・・・。

 

しかし民主主義の最後の砦であるはずのメディアが、定められた民主主義の正当かつ客観的手続きが済む前に閣僚人事を報じる。国民の代表による手続きにより総理大臣を選び、初めて内閣が構成される。その構成された権力を監視するのが、メディアの最も大事な使命なのではないのか。そのメディアが総理大臣、内閣を済々と決める手続きを無視して閣僚人事を報道することは、透明かつ公正な手続きが民意を反映させるのだという民主主義の根幹を無視することと同一である。

 

およそ民主主義の最低の節度すら守らず、国権の最高機関である国会を形骸化した機関のように扱い、全国民を代表する議員の国会活動を軽視した今回の報道のあり方を見せられると、大手メディアに権力を論じる資格はない。また民主主義の価値を啓蒙する資格などさらさらないと断じざるを得ない。そして現在、大手メディアこそが、民主主義を体内から蝕んでゆく獅子身中の虫であると国民はよくよく知るべきであろう。


富山冤罪事件再審判決が語る「裁判員制度」の到着する「最果ての駅」3

富山冤罪事件再審判決が語る「裁判員制度」の到着する「最果ての駅」

 10月10日、富山地裁高岡支部は2002年に発生した強姦(ごうかん)および強姦未遂事件で3年の実刑判決を受け、服役を終えた柳原浩氏の再審公判において同氏に無罪を言い渡した。同氏は服役の2年間を含め逮捕から仮出所までの2年9カ月の間、身の自由を奪われ、服役後も受刑者としての刻印を背負って生き続けてきた。そして不条理な逮捕から5年半を経てようやくの無罪確定であった。

 柳原氏と弁護団は逮捕にいたった捜査の経緯を明らかにするため2回にわたり県警捜査員の証人尋問を要請したが、藤田裁判長は「裁判は罪の有無を決める場だ」としてそれに応じることはなく、判決言い渡しにおいても冤罪(えんざい)発生の原因に触れることはなかった。柳原氏が閉廷後の会見で「真実が闇に消えたままで無罪と言われても、何もうれしくない」とその悔しさと憤懣(ふんまん)をあらわにしたことは、再来年5月までにスタートすることが決まっている「裁判員制度」が有する底知れぬ怖さをわれわれに教える結果となった。

 それは今回の再審判決公判における司法の対応が「裁判員制度」導入の理由として「裁判が身近で分かりやすいものとなり、司法に対する国民のみなさんの信頼の向上につながることが期待されています」(裁判所HPの「よくわかる裁判員制度Q&A」)と説明されていることと、真逆に位置するものと言わざるを得なかったからである。今回の判決は信頼感向上どころか、「秘密主義」・「密室性」・「臭いものには蓋(ふた)」といった法曹界の体質がまったく変わっていないことをわざわざ天下に公表したようなものであった。

 国民の参加が義務付けられた裁判員制度で対象となる事件は、簡単平易なものではなく、具体的には「殺人」「強盗致死」「傷害致死」「危険運転致死」「現住建造物等放火」「身代金目的誘拐」「保護責任者遺棄致死」など最高刑が死刑となるような一定の重大犯罪と規定されている。今回、冤罪に問われた強姦罪も「強盗強姦」「強制わいせつ致死傷」などに該当するケースであれば、われわれ国民は裁判官(3名)と一緒に公判に出席し、裁判員(6名)の一人として冒頭陳述、審理、評議、判決手続きという裁判手続きすべてにわたって当事者としてコミットし、「有罪か無罪か」「有罪とすればどのような刑にするか」を決めることになる。つまり、再来年の5月以降はTVのワイドショーで大きく扱われるような事件を、司法に素人のわれわれが裁判官と同じ重さの一票を持って、裁くこととなるのである(一応、被告人に不利な判断となる場合は、プロである裁判官1名以上の多数意見への賛成が必要となっている)。

 その一連の公判過程において裁判員は証人や被告人らに質問したり、証拠として提出された凶器類や書類を取り調べることとなる。立場は最終的には判決を下す裁判員ではあるが、まるでミステリードラマの検事や弁護士のように法廷で振る舞うのである。法律実務にズブの素人にそんなことを期待されても困るが、前述のQ&Aでは「(裁判所が)争点の判断に必要な証拠を厳選して証拠調べを行うなど、できる限り法廷での審理を見たり聞いたりするだけで(われわれ裁判員が)事件の内容を理解できるように工夫された審理が行われます」と説明されている。素人にわかるようにちゃんと判断のおぜん立てを裁判所の側でやってあげますよと言っているのである。

 しかし、今回の冤罪事件における裁判所は5年半前にはプロたる裁判所自身が「争点の判断に必要な証拠を厳選して証拠調べを」行ったうえで、3年の実刑判決を申し渡している。そして別の事件で偶然、真犯人が出てきたことから、それが冤罪と発覚した。

 さらに再審判決において「なぜアリバイの通話記録や現場の足跡の違いといったはっきりした証拠がある事件で冤罪が発生したのか」の真相を何ら明らかにすることもなかった裁判所、法曹界を信頼しろというのも、どだい無理な話というものではなかろうか。

 裁判所がいくらわれわれに「法廷」で「争点の判断に必要な証拠を厳選して証拠調べを行うなど、できる限り法廷での審理を見たり聞いたりするだけで事件の内容を理解できる」ようにすると言っても、実際にはアリバイや証拠があるにも拘(かか)わらず彼らの誤った思い込みでわれわれに知らすことをしないのであれば、われわれ裁判員は裁判官が引いたレールの上をただ走り続け、「冤罪」という「最果ての駅」まで無邪気に乗って行ってしまうことになりはせぬか。今回のような法曹界の体質のままでは、無辜(むこ)の国民を罪人に仕立て上げることを、国民参加の名のもとに正当化さえしてしまうのではないのか。

 現在の法曹界の隠ぺい体質やアカウンタビリティー(説明責任)の欠如を放置したままで「裁判員制度」を一年半後にスタートさせることは、制度導入の理由たる「裁判全体に対する国民の理解を深め、裁判をより身近に感じさせ、司法への信頼を高める」というためだけに断行するにしては、あまりに危険が大き過ぎると言うべきである。一人の善意の国民が一人の無実の国民を罪人に仕立て上げ、しかも場合によっては「死刑」という極刑を下してしまうことの可能性とその取り返しのつかない怖さが、「裁判員制度」には普通にかつ無邪気に存在することを、今回の再審判決はわれわれに教えてくれたように思えてならない。今更などということはない、制度導入の是非を再議論することにやぶさかであってはならない、それほどにこの制度は未熟なままスタートしようとしているのである。



関西テレビ捏造に透ける知的財産権の軽さ3

関西テレビ捏造に透ける知的財産権の軽さ

 

発掘!あるある大事典供彷柴ζ箪犬任隣埖せ件に関し20日午後、関西テレビ放送の岡林可典常務取締役(当時)が記者会見し、捏造内容を公表し、謝罪した。

 その5項目にわたる事実と異なる内容を読んでみて、番組自体を見ていないわたしは愕然となった。納豆のダイエット効果を紹介する番組内での実験データや米国の大学教授のコメントでの日本語訳の意図的捏造、さらに研究の引用先をワシントン大学からテンプル大学に意図的に変えるなど、その大胆かつ自由奔放な番組の捏造ぶりには開いた口がふさがらない。これだけ自侭(じまま)に目的に叶う番組制作が可能であれば、科学的に見せるデータ創造により番組は湧き出るようにして完成を見るのであろう。

 

 そこに視聴率を追い求めるコマーシャリズムの影は見えても、「事実を報道する」ジャーナリズムの原点はまったく見えてこない。逆に視聴率の高低が民放収入の大宗であるCM料に直結するという事実と考え合わせると、今回の行為は事業会社でいうところの粉飾に当たる経済犯罪行為になるのではないか。捏造番組により視聴率を上昇させ当該番組のCM時間当り単価を引き上げる、それはまさに詐欺行為であり、りっぱな経済犯罪である。番組の打ち切りや経営者の内部処分ですむ話ではない。また、同時に同社の筆頭株主である(株)フジテレビジョン(19.85%の株式保有)も頬かむりを決め込むことなどあってはならず、その経営責任が当然のごとく問われるべきである。

 

次に事実報道の観点からは、今後、放送法第3条2項の3に定められている「報道は事実をまげないですること」に抵触するか否かで当局等の事情聴取が進められ、厳しい処分が科されることになろう。

 

そしてさらに重要な視点として知的財産権という観点から本件を見てみたい。関西テレビつまり一般放送事業者は知的財産権に包含される著作隣接権者である。そして制作される番組は著作権法第98条〜100条の「放送事業者の権利」において50年間におよぶ期間、知的財産としてその権利が保護されている。その意味で報道機関は知的財産に最も敏感でありかつその意識徹底や啓蒙に最も熱心であらねばならぬ。その報道機関がワシントン大学のデニス教授の知的財産である研究成果を、無断でしかも番組構成に合わせる形でテンプル大学のアーサー・ショーツ教授が行った研究かのように紹介することなど断じて許されることではなく、その罪は格段に重いと言わざるを得ない。関西テレビや制作会社日本テレワークの知的財産権に対する意識の欠如とコンプライアンス体制の未整備には正直、呆れてしまう。

 

 他人の研究成果を無断で引用し、その引用先に言及しないなどとは、知的財産をクリエートするものにとって致命的な不始末であり、クリエーターとしては即刻退場、その世界から永久追放されるべき不祥事である。今回の事件に触れて、番組制作というクリエーティブな事業に携る人間たちが、自らの存在を否定するような「知的財産権」を無視する行為を目にし、そのあまりにも低レベルの意識にこの国のどうしようもない文化水準の低さを見るようでむなしさを隠せなかった。


教育委員会は戦後教育の残滓3

                           

 昨年9月に起こっていた北海道滝川市の小学6年生女子(当時12歳)の教室内での自殺行為(後に死亡)が、ご両親のメディアへの原因究明依頼の動きを契機に、一年経ったこの102日にようやく市教育委員会(安西輝恭教育長)が記者会見を開いた。そして「原因は現時点で特定できない」と述べ、いじめの存在を事実上認めないとの見解を示し、世間の批判を浴び、いじめを認めた。あれだけの悲痛な遺書が残されていたにも関わらず、この一年間、事実を隠蔽し放置していたとしか思えぬ行為。「いじめ」と当初、認めなかった姿勢。

 

また1013日に分かった福岡県筑前町立三輪中学校の中2男子生徒(13歳)のいじめによる自殺(11日)も元担任教師のいじめから生徒のいじめが始まったと言われている。ご遺族に対する合谷校長の説明が、当初の元担任教師のいじめの事実を認めた謝罪から、その後の記者会見で一転、「教師の言動は直接、生徒の自殺の原因にはつながらない」と、事実否認を行なった。その翻言の背景にも教育委員会の存在を感じざるを得ない。

 

このふたつの事件の背景に共通して見え隠れする「教育委員会」とは一体、何なのか。その存在に大きな疑問を感じ、憤りを感じる。

 

今を遡る20年前の中曽根内閣時代、首相の直属諮問機関として設置された臨時教育審議会(臨教審)の第2次答申「教育行財政改革の基本方向」【1986年(昭和61年)】において、教育委員会の当時の現状について、すでに次のような厳しい言及がなされている。

 

「近年の校内暴力、陰湿ないじめ、いわゆる問題教師など、一連の教育荒廃への各教育委員会の対応を見ると、各地域の教育行政に責任を持つ『合議制の執行機関』としての自覚と責任感、使命感、教育の地方分権の精神についての理解、主体性に欠け、二十一世紀への展望と改革への意欲が不足しているといわざるを得ないような状態の教育委員会が少なくないと思われる。」

 

この指摘は20年経った現在、まったくひと言の文言もいじる必要のない「今の教育現場の問題」を摘出したものと言える。逆に言えば、20年間この答申にも関わらず、教育行政・現場ともに何の変革もなさずに無為な月日を浪費してきたということになる。

 

この国は一体この20年間、何をやってきたのか。北朝鮮の核保有問題然り。すべて問題を先送りしてきた政府の責任はあまりにも大きい。そして政府の怠慢による犠牲者となった幼い児童、夢をはぐくむ中学生たちがあまりに傷ましく、悲しい。地方教育行政法により地方自治体により設置を義務付けられた教育委員会。「教育は国家から一定の距離を置いた中立的位置にあらねばならぬ」との終戦直後の残滓である考え方で出発した教育行政のあり方の限界が、「いじめ」という傷ましい事件によってようやく浮き彫りにされようとしている。


教育委員会という戦後教育制度の残滓2

 

昨年9月に起こっていた北海道滝川市の小学6年生女子(当時12歳)の教室内での自殺行為(後に死亡)が、ご両親のメディアへの原因究明依頼の動きを契機に、一年経ったこの102日にようやく市教育委員会(安西輝恭教育長)が記者会見を開いた。そして「原因は現時点で特定できない」と述べ、いじめの存在を事実上認めないとの見解を示し、世間の批判を浴び、いじめを認めた。あれだけの悲痛な遺書が残されていたにも関わらず、この一年間、事実を隠蔽し放置していたとしか思えぬ行為。「いじめ」と当初、認めなかった姿勢。

 

また1013日に分かった福岡県筑前町立三輪中学校の中2男子生徒(13歳)のいじめによる自殺(11日)も元担任教師のいじめから生徒のいじめが始まったと言われている。ご遺族に対する合谷校長の説明が、当初の元担任教師のいじめの事実を認めた謝罪から、その後の記者会見で一転、「教師の言動は直接、生徒の自殺の原因にはつながらない」と、事実否認を行なった。その翻言の背景にも教育委員会の存在を感じざるを得ない。

 

このふたつの事件の背景に共通して見え隠れする「教育委員会」とは一体、何なのか。その存在に大きな疑問を感じ、憤りを感じる。

 

今を遡る20年前の中曽根内閣時代、首相の直属諮問機関として設置された臨時教育審議会(臨教審)の第2次答申「教育行財政改革の基本方向」【1986年(昭和61年)】において、教育委員会の当時の現状について、すでに次のような厳しい言及がなされている。

 

「近年の校内暴力、陰湿ないじめ、いわゆる問題教師など、一連の教育荒廃への各教育委員会の対応を見ると、各地域の教育行政に責任を持つ『合議制の執行機関』としての自覚と責任感、使命感、教育の地方分権の精神についての理解、主体性に欠け、二十一世紀への展望と改革への意欲が不足しているといわざるを得ないような状態の教育委員会が少なくないと思われる。」

 

この指摘は20年経った現在、まったくひと言の文言もいじる必要のない「今の教育現場の問題」を摘出したものと言える。逆に言えば、20年間この答申にも関わらず、教育行政・現場ともに何の変革もなさずに無為な月日を浪費してきたということになる。

 

この国は一体この20年間、何をやってきたのか。北朝鮮の核保有問題然り。すべて問題を先送りしてきた政府の責任はあまりにも大きい。そして政府の怠慢による犠牲者となった幼い児童、夢をはぐくむ中学生たちがあまりに傷ましく、悲しい。

 

地方教育行政法により地方自治体により設置を義務付けられた教育委員会。「教育は国家から一定の距離を置いた中立的位置にあらねばならぬ」との終戦直後の残滓である考え方で出発した教育行政のあり方の限界が、「いじめ」という傷ましい事件によってようやく浮き彫りにされようとしている。


男と女――社会常識の欠落した化け物が跋扈(ばっこ)する教育現場5

 

<体育着替え>公立小学校の6割強で男女同室 文科省調査(毎日新聞6.30)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060630-00000135-mai-soci


 まことに奇妙といおうか、不愉快で情けない話である。上に掲げた6月30日付け毎日新聞の記事を読んで、開いた口がふさがらないのである。いまも、口をだらしなく開けたままこの文章をしたためている。学校が荒れている、教育の現場が惨憺(さんたん)たる状態にあるという教育の荒廃が叫ばれ出して久しい。わたしにも小学校、高校と教師の知り合いがいる。今日の教育現場が抱えている問題について、それなりの情報、悩みは機会あるごとに彼らから聞き、議論もしてきているつもりである。そして教育現場の実態についても、普通の人より少しはわかっているつもりであった。


しかし、掲題の記事が目に触れた時、わたしは正直、自らの目を疑った。


今の教師というのは、男女というもの、人というもの、異性というもの、コミュニケーションというもの、その他諸々の一般知識と言おうか、いや世の中の常識、コモンセンスに絶対的に欠けている存在であると確信した。この一事を持ってすべての教師を一刀両断することは控えねばならぬが、あまりの愚かしさに、わたしのわずかな理性は吹き飛んでしまう。


全国の公立学校で「体育時の着替えを男女同室で行っているのは小学校では低学年を中心に平均で62.97%、中学校は7.49%、高校1.12%」あると、文部科学省の調査が発表された。同省は30日、「児童生徒に羞恥(しゅうち)心や戸惑いを感じさせる恐れが大きい」として都道府県・政令市教委に対し、是正を求める通知を出したと云う。当然の指示、指導である。


子供たちの早熟度やTVや携帯ネットなどを通じた性に関する情報の氾濫、性犯罪の低年齢化など現在の社会情勢を冷静に把握し、それに対処しようという姿勢、努力、取り組みが、この男女同室での着替えや身体検査の行為から、まったく見えてこない。いや、その性犯罪を教師自らが助長するような教育を行なっているとしか、わたしには見えない。


わたしは、どうしてこのような非常識な行為が、教育と云う現場で、それも白昼堂々?と、大手を振ってまかり通るのか、浅学非才にして回答が見つからない。一時期、男女同権、男女平等を履き違えた「ジェンダー・フリー」なる如何わしい和製英語が、この日本を席捲(せっけん)した。「性による差別」があってはならぬという、見当はずれの平等主義者の主張、運動であった。平等の本質をよく理解しておれば、そうした愚かで馬鹿げた考えは生まれ出るはずはないのだが。というより、一般社会常識さえ備わっておれば、そうした考え・行為が、どこかおかしいと直ぐに気づくはずである。


それを教えるのが、まずは初等教育の基本中の基本であるのではないのか。一般社会の常識、約束事、きまり、こういった所謂、社会的規範のイロハを教えるべき教師に、その社会的規範いや、そんな難しいことを言うまい、「普通のこと」「ダメなものはダメ」という意識が欠落していることに、わたしは非常に驚愕するとともに、レベルの低下した教師と呼ばれる化け物が、教育界に跋扈(ばっこ)している現実を早く国民は認知し、その化け物たちの手から子供たちを救い出さねば、「日本は滅びる」と、心底、思った。

 

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NHKの使命2

「NHKの使命」

 

 NHKは、職員の度重なる不祥事を契機として、昨年9月の「NHK新生プラン」の公表、今年1月の平成18年からの3事業年度にわたる「経営計画」を発表し、真に再建の道を歩み出そうとしている。

 

しかし受信料不払い行為は相変わらず続いている。NHK経営委員会は執行部に対し「企業体質等も含めた原因の分析(不祥事の)真因を真摯にとらえた実効性のある対策を講じることが最も重要である。そして、対策を全職員にしっかりと浸透させる必要がある。」と申し入れているが、執行部の動きは遅々としており、具体策に目を引かれるものはない。

 

先の「新生プラン」において「NHKは今、「すべては視聴者のみなさんのために」という公共放送の原点に立ち返り、新たに出発をします。」と宣言し、「経営計画」の「経営の基本方針」なかにおいても「NHKだからできる放送に全力を注ぎます」と、宣言した。

 

「公共放送の原点」とは何か?

「NHKだからこそできる放送」とは何か?

 

NHKは言葉面はまさに正眼の構えである。しかし、本気で彼らは自らの使命、原点について呻吟し、熟考を重ねているとはとても言いがたい。その具体例を、NHKニュースの報道内容、あり方に見ることができる。

現在、国会は会期中である。にも拘わらず、民放、大手新聞社とも、その関心は小泉後継問題に大きく移っている。NHKも然りである。そして、この両日はワールドカップの日本代表選考である。

 

視聴者も競馬予想よろしく、9月の自民党総裁選で誰が小泉総裁の後釜に坐るのか、また、何故、ワールドカップでフォワードの久保が落選したのか興味津々である。勿論、わたしもその例外ではない。一方、いま国会では、国民にとって非常に大きな影響をおよぼす法案が、衆議院の各委員会で審議されている真っ最中である。「共謀罪の創設」「教育基本法の改正」「国民投票法の立法」等、将来のわれわれの生活、思想信条のあり方に大きく関わってくる重要な法律が審議されているのである。

そして視聴率には決して結びつくことのない、その審議内容・経過をNHKは時々刻々と報道してはくれない。

 

NHKは視聴率と無縁の世界で、国民に知らしむべき事柄を適時・正確に、そして丁寧に伝えることこそその使命ではないのか。わたしは、NHKは、まず国民に何を優先的に知らせるのか、その優先順位のあり方の議論のなかにこそ、「NHKの原点とは何か?」「NHKだからこそできる放送とは何か?」の答えがあるのだと考える。うわ滑りする字面などではなく、日常の番組編成の姿勢こそNHKの原点を真剣に彼らが模索しているか否かのリトマス試験紙であると考える。ことに最近のNHKニュースの報道の視聴者に媚びるような内容、報道項目の選択、放映の優先順位を見るにつけ、まだNHKはことの重大性を認識していない、己の使命を体躯で理解していないとの感を深くせざるを得ないのである。

 

匿名社会と民主主義3

「匿名社会」

 

 自分でブログをやりながら、匿名社会の怖さを実感している。文章を書いているうちについ、筆がすべるというより言葉を選ぶのにその場の感情に流されてしまうことがよくある。とくに、批判なり反対意見を書いている時にその傾向が顕著である。感動したことやちょっとイイ話を伝えたい時は、逆に後で読んで頬を赤らめることがよくある。

 

 後者は、まぁ頬を自分だけが赤らめれば済む話だが、前者は全く次元の異なる話である。批判なり相手に反対意見を述べる際には、ファクトに基づいた冷静な議論なり論評が必要である。正確な数値や冷静な事態把握、それに加えて自らを客観的な位置に置いた視点は議論する前の必須条件である。その場の感情論や自分の思い込みをベースに徒に議論、意見を展開するべきではない。

 

 TVのコメンテーターと称される人々が、キャスターから瞬間的に振られたテーマに答える時にそうした自己都合の応答をする様子を目にすることが多い。咄嗟の対応であるため情状酌量の余地はあるとはいえ、プロとして画面に登場しているのであれば、日頃より基本的なデータや数値的な分析、社会情勢、世論動向等の把握は常識というより教養として備えているべき素養、条件であろう。ただ、彼らはコメントするにおいても、自己の責任、自身の名前のもとに行なっていることはTV画像に顔を曝け出していることから当然であり、その発言が引き起こす反響には、必要であれば自分で後始末なり、説明をすることとなる。

 

 ところが、今日、2チャンネルやブログへの書き込みといった形で、一般人が自分の名前を秘し日常的に意見表明が行なえる誠にやっかいな社会が到来した。そうした社会では、前述のコメンテーターのような訳にはいかない。一般の人は事実誤認に基づいた反論を受けた時や、それに基づいた個人的な誹謗中傷、酷い時は身の危険さえ感じるような書き込みをされた場合に、それに対し有効な反論の術を持たず、法的措置などという究極の手段をとることなど心理的には難しい。

 

 互いに顔を知っており反対意見を闘わせる程度であれば、少々、過激な言葉の遣り取りはあるにせよ、ある程度の感情の抑制は効く。しかし2チャンネルなどに匿名で一方的に書き込まれた言葉などは、関係のない私なり他人が目にしてもこれほど卑劣で品性下劣な言葉の暴力があるのかと目を疑うことが日常茶飯事である。

 

そこには、表では華やかに持て囃されるネット社会が抱える暗黒の部分が見えてくる。まさに「匿名」というある種人間に好都合な「社会」の出来により、人間の厭うべき本能のひとつである「卑劣な劣情」を、顔の見える表の社会から解き放ち、「匿名」という闇の世界で跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)させることになってしまった。

 

現在、政府は匿名性の翳の部分に光を当て、こうした事態の改善を図ろうと後追いで法整備を含め色々な手立てを模索しようとしている。しかし、このことは、言論の自由、個人情報保護法など表の世界の権利ならびにプライバシーの保護といった民主主義の根源にある権利と相矛盾し、それと真っ向から衝突する状況にあると云ってよい。

 

 人の口には戸は閉てられない。口は災いの門。わが身をつねって人のいたさを知れ。うそつきは泥棒の始まり。噂をすれば影が差す。かには甲羅に似せて穴を掘る。きじも鳴かずば撃たれまい。昨日は人の身、今日は我が身。曲がらねば世がわたられぬ。丸い卵も切りようで四角、物も言いようで角が立つ。

 ことわざ辞典を久しぶりに紐解いてみた。先人たちがこうした人間の翳の部分に光を当てて、あるべき行動規範を諭した諺の類が、この日本にはたくさんあることを知った。そして、この種のことわざは確かによく人間の本性や社会という化け物の本質を見抜いた警句に充ちているとあらためて感心した。

 

 法律という物理的拘束力でこの「匿名社会」に規律を求めるのは、民主主義の根底にある自己責任の社会機構自体を「法」で破壊しかねない危うさを内包する。しかし、「名を秘匿する」ことも言論の自由という民主主義の根幹に関わる権利である。誠にこの問題への対処は難儀であり悩ましいと考えざるをえない。この先達たちの警句を何とか自分たちで再評価、再認識し、その先人の智恵で民主主義の利点を自らの手で守るという強い意識を持つことが、今こそ必要とされているのだと思う。

 

 

艦載機移転に関わる岩国市住民投票の怪3

「艦載機移転に関わる岩国市住民投票の怪」

 

 12日に山口県岩国市で米空母艦載機の岩国基地移転計画に関し、民意を問う住民投票が行なわれた。投票率は58.7%で投票数の87.4%が反対票(投票資格者数の51.3%に当たる)であった。この開票結果を受け井原岩国市長は「重く受け止め移転計画の撤回を求める」「取り引きして受入れるようなことはしない。地元の声は国にとって大切なものだ。厚木の問題は国全体で負担軽減を考えるべきだ」と述べたと云う。

 

 基地問題は振り返れば昭和30年の砂川基地(現立川市)闘争や現在、紛糾している沖縄の普天間基地の問題まで常に地元との衝突が繰り返されてきている。基地問題には地元と国家の利害に常に齟齬があるところにその問題の根の深さがある。しかし基地問題はイコール国家の安全保障の問題であって、ここで国家の利益と地域の利益(被害)の問題をごっちゃにして議論することに抑々の不合理と無理が存在する。

 

 国家は国民の生命と財産を守る使命を負う。その重要な使命の一つが独立国家たりうるための安全保障である。現在日米安全保障条約によりわれわれの平和と安寧が守られているが、この保障条約を破棄した場合は当然自国の安全は国民自らで守ることになる。米軍が撤退したその時には、自衛隊は今よりも多くの兵力と戦備を必要とすることになろう。その場合も現在の国際環境を前提に考えれば、沖縄や岩国、三沢、横須賀と云った現在ある米軍基地の地勢面における軍事的価値は変わらないはずである。即ち、米軍が一兵残さず撤退したとしても、その後に自衛隊がこの国の防衛のためにその基地に進駐してくることは容易に想像される。

 

 基地問題は米軍と地元の関係から、自衛隊との関係に置き換えられるだけである。本当に基地周辺の耳をつんざく騒音や治安の悪さは地元に生活する人たちにしか分からぬ苦痛と不安であろう。たまに上空にヘリコプターが飛来するだけで、その騒音の凄まじさは驚くばかりである。基地住民の永年の忍耐には頭が下がり、その心痛に対しては言葉がないのも正直なところである。

 

 しかし、やはり私は再度、云わねばならない。「公と私」「国家と個人」の関係について。憲法では国民の自由と権利が保障され、また個人を尊重することも国政に課された最大の責務であることが高々と謳われている。但し、それはその第1213条にあるように飽くまでも「公共の福祉に反しない限り」において、それが保障されることをわれわれは忘れてはならぬし、それを肝に銘記すべきだと思うのである。

 

 十三日午前の記者会見で阿倍官房長官が住民投票の結果を受けて、「基本的に日米間の交渉が整えばそれが最終結論である。地元にしっかり説明しないといけない」と表明したことは、国の安全保障に責任を持つ内閣として当然で妥当なコメントであったと考える。十分丁寧な説明は必要であり、出来得る限り地元の負担を減らす努力は惜しむべきでない。

 

 だが、やはり国を守ると云うことはそう云うことなのだと考える。

 

井原勝介岩国市長が貴重な税金をかけて移転問題の賛否を住民投票において問うた。これは自治体の長として極めて見識に欠ける行為であり、今後の結果に対して負う責任は重いと云わざるをえない。「公と私」のバランスを市民に説明し、大きな視野で移転問題の持つ意義を本来、市長並びに議会は説明すべきであり、決して住民投票と云った似非民主主義にその解決の道を求めるべきではなかった。そして、そうしたことに貴重な税金を投じるべきではなかったと思うのである。

 

(参考:憲法)

12条【自由・権利の保持の責任とその濫用の禁止】

この憲法が国民に保障する自由及び権利は,国民の不断の努力によって,これを保持しなければならない。又,国民は,これを濫用してはならないのであって,常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 

13条【個人の尊重と公共の福祉】

すべて国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公共の福祉に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする。

 

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