彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・御旅所で御神幸行列・御斎場祭

秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=朝
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=昼・下郷笠鉾・中町屋台・中近笠鉾・上町屋台・宮地屋台
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=昼・本町屋台の屋台芝居
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・花火大会 “あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない”
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・御旅所桟敷席より屋台の団子坂登りを堪能

先にアップした秩父夜祭の花火大会は午後7時半から10時まで間断なく続いてゆく。その間、午後6時半に秩父神社を出発した御神幸(ごしんこう)の行列が1時間半のゆったりとした道行きで神社の真南に位置する御旅所へと到着する。


午後8時、会場内アナウンスのなか、御神幸(ごしんこう)の行列が先導大麻を先頭にしずしずと御旅所前の広場へ入って来る。その後方に長い列が続いている。

1・先導大麻を先頭に御神幸の列がつづく

秩父各町のお供物行列の掲げる高張提灯が厳寒の夜の底をぼんやりと灯し、幻想的な雰囲気を醸し出す。

3・高張提灯も幻想的

グラウンドが暗いうえに遠目なので行列の細部はよく分らなかったが、順番が決まっているとのことであり、先導大麻を先頭に、大榊、猿田彦、楽人、錦旗、御手箱、太刀箱、各町会の高張提灯と供物、神社神饌、大幣、神輿、宮司、大総代、そして2頭の神馬が続くのだそうだ。

2・御神幸の到着

今朝方、秩父神社境内で見かけた御神輿が見えてきた。

0・御旅所へ向かう御神輿

すぐ後ろに秩父神社の宮司や大総代が随う。夜の暗闇が厳かな行列をいちだんと近寄りがたいものにしている。 

4・神輿に続く宮司

その一団のあと暫くして、ご神馬が二頭、御旅所会場へと入って来る。

当夜はそのうち一頭のご機嫌が悪く、二頭揃っての入場とはいかなかったが、ご神馬が嘶(いなな)き、手綱引きの氏子を振り解くごとく場内を走る様は、まさに祭りが動き神々の荒魂の猛々しい息遣いが聴こえるようで圧巻である。

5・神馬の到着 6・二頭目の神馬の到着

そして、先行する各町の名前を誇らしげに標(しる)した高張提灯の行列とも併せ、この神事が古来、秩父神社の神職たちはもちろんのこと、多くの無名の氏子たちの手によって大切に守られ、営々と引き継がれてきたのだということを心底、実感させられた。


御旅所内での儀式の様子は桟敷席からは遠過ぎて、ほとんど詳細は分らぬ。

7・御旅所内での御斎場祭

しかし、ズームを効かせ撮った画像から、祭主の祝詞奏上なのだろうか・・・なんとなくその雰囲気は伝わって来る・・・。

8・祭主の祝詞奏上

そんななか、当夜の会場はこれでもかこれでもかというほどに花火の打上げ音や炸裂音、さらに加えて場内アナウンスの喧(かまびす)しい声々が・・・厳粛な神事とはおよそかけ離れた“晴れの日”の音響が支配していた。

9・御旅所神事と花火

そして、団子坂を登って次々と場内へ集結する屋台。

4・下郷笠鉾、団子坂を登る
下郷笠鉾、団子坂を登る

その最後の屋台が御旅所に到着し、すべての笠鉾、屋台が亀の小石を要として扇状の形に展開し終わった。

それを待って午後10時20分頃から、御旅所内で本義である御斎場祭の神事がはじまるのである。


その頃には桟敷席の見物客は帰宅の途につき、一部の観光客が場内へ降りて、提灯の灯に浮かぶ笠鉾や屋台を間近に見上げることに忙しい。

10・御斎場祭が始まっている頃、桟敷席に人はいない

われわれ夫婦も曳き子たちに紛れ、整列する屋台を見て歩く。実は、この時、御斎場内では、神前において素面で舞う代参宮神楽が奉納され、各屋台では稚児による三番叟が演じられているのだそうだ。

何だか、その時、そんな知識も持ち合わせていなかったので、漫然とグラウンドをさ迷い歩いていたわたしたちでありました。


その厳かな御斎場祭が終わった後、およそ午前0時頃だそうだが、笠鉾と屋台がまず御旅所から各町内に向け出発、団子坂を下る。


その後から御神幸行列がしずしずと続く。この御神幸行列が秩父神社に到着するのはなんと4日の午前3時を
まわるのだという。


そののち6日まで養糸祭や新穀感謝祭、そして例祭完遂奉告祭を最後に秩父神社の例祭の祭事はすべて終了するのである。




秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・花火大会 “あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない”


われわれは秩父の山脈に日が隠れてしばらくして、休息をとっていた南小学校(臨時駐車場)から御旅所へと歩いた。


午後7時半から始まる日本芸術花火大会の尺玉や四号玉や9時20分からスタートするスターマイン大会を見ようと、国道140号線沿いに見物客がぞくぞくと繰出してくる。

c:3D

そして、ポン!ポン!という試し打ちの音が秩父の夜空に響き渡り、かすかな衝撃波が秩父盆地の冷気をゆるがす。


途中で軽く夕食をと思い、先刻、目星を付けていた国道沿いの蕎麦屋へ・・・。ところがいつしか貸切中の札が下がり、入店不可。さてさて困ったと探し出したのが、国道からちょっと入り込んだ小さな中華料理店。


え〜、そこも席は空いているが予約席とのこと。交渉のすえ、7時までならOKということで、取りあえず焼飯を注文、腹ごしらえをすませ、押っ取り刀で御旅所の桟敷席へ。


夜祭当日はこうした個人経営のお店は、地元の方々が早手回しに花火の時刻に合わせて借切って、途中、外へ出て道路傍から花火を鑑賞し、寒くなったらお店に入り暖を取るといった利用がされているのかもしれない。国道沿いにあったファミレスに四の五の言わず入っておけばよかったというのが、今回のひとつの反省点であった。


そして7時半頃に御旅所へ到着したが、桟敷席はもう見物客で一杯。

係りの人に席まで案内してもらう。躊躇なく頼むのがよい。暗い中、席を自分で探すのは至難の業である。

氷点下の時もあるという厳寒の秩父である(過去の秩父夜祭当日の気温)。深更におよぶ観覧である、用意してきた毛布をベンチに敷く。さらに準備してきたオーバーズボンを穿き、マフラーに帽子とエスキモーのような格好で、老夫婦二人して、あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない”の、さぁ、上映開始である


秩父夜祭のクライマックス。秩父夜祭花火大会のはじまり、はじまり〜

01・あぁあぁ・・・

まずは日本芸術花火大会のスタートである。全国著名の花火師による手練れの花火の打ち上げである。



02・青の饗宴

冬の夜空に広がる大輪の花々は彩り鮮やかで豪華絢爛。美しい秩父絹で巨万の富をつくった秩父商人の豪気さと栄華を想起させる。


あの亀の子石のある御旅所へと静々と広場を歩みゆく御神幸行列。その頭上で繰り広げられる光と音の競演。

1・豪勢な花火が次から次へ

スターマイン(速射連発花火)がその言葉通りに息もつかせぬ勢いで打ち上げられ、厳寒の夜空は華やかな光のマジックを映すスクリーンへと変貌する。



2・美しい・・・

あまりの花火の数、豪勢さに皆、息を呑む。

4・夜空に小菊がいっぱい 5・ぼけても幻想的

美しい!!

6・大輪の花

あぁ・・・すばらしい・・・

7・桟敷席の後方にもスターマインが打ち上げられる

これほど連続して尺玉が・・・

8・冬空に花火

ブラボー!!

9・光が弾ける

尺玉・・・、尺玉・・・

10・青の世界

あぁ・・・あぁ・・・

11・屋台に花火

凄すぎで〜す




12・色とりどり

午後10時10分頃、最後の花火が打ち上げられる。

14・最後を彩る”黄金の滝”

扇状に整列した笠鉾・屋台の頭上高く、大輪の花々が花開く。


当夜はなんと約8000発もの花火が打ち上げられたのだとか・・・

a:タマヤ〜!! b:お見事


夢のような迫力満点の秩父花火大会。ステキ!のひと言。

老夫婦でもほっこり、幸せ気分になれる。


若い恋人同士なら・・・・・・ 
コラッ!! 何を、にやついておる彦左!






秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=昼・本町屋台の屋台芝居

秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=朝
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=昼・下郷笠鉾・中町屋台・中近笠鉾・上町屋台・宮地屋台
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・花火大会 “あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない”
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・御旅所で御神幸行列・御斎場祭
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・御旅所桟敷席より屋台の団子坂登りを堪能

境内に入ると、午前中に目にした本町の曳き廻し屋台(国指定重要文化財)が消えていた。

00・曳き屋台の本町屋台

なんと野外舞台へと見事な変身を遂げていたのである。


冬の青空に映えて、桃色の花飾りも美しく華やかな装いをほどこし、今や遅しと、重要無形民俗文化財指定の屋台芝居の開演を待っていた。

5・本町屋台の舞台出来上り

ここで、本町屋台のいわゆる曳き屋台から芝居舞台への“変化(へんげ)”を簡単に画像で追ってみる。


町を曳き廻される屋台が一部、勾欄などがはずされ、両袖に土台を作り、舞台が張り出してゆく。

01・左翼の張出し舞台の組込み

その一連のよどみない流れは、かつて息子が幼児の折に弄んだガンダムなど合体戦士の玩具を彷彿とさせた。

1・張出し舞台の組立て 2・張出し舞台の骨組み組立てと支え柱

それは、造り替えによっては大空を飛翔する“天空の舞台”の設営も決して不可能ではないと思わせるほどの“変化(へんげ)の技”である。

3・舞台の屋台本体への組込み

その大胆かつ自由な発想を具象化する精緻な計算と精巧な技術は現代のわれわれを括目させる。

4・本町屋台芝居の舞台造り

昔のこの国の匠の技が半端ではなかったことを物の見事に実感させてくれるものであった。

01・本町屋台芝居の舞台

その舞台で最初の演目、前座の“白浪五人男”が始まろうとしていた。舞台前には文字通りの立錐の余地もないほどに見物客が集まっている。

00・舞台前にひしめく観客

囃子太鼓が鳴り響くなか、いよいよ舞台の緞帳が揚がる。


まず、秩父市立花の木小学校5年生の春山夏美さんにより、堂々としてしかもユーモアあふれた口上が述べられる。歌舞伎座の口上よりも実際のところ、声の張り、その内容においてこの少女の口上の方が見事であったと感心した。

1・小学生女子による口上

そして、“白浪五人男”の始まりである。

2・白波五人男

ひとりずつ舞台へ登場し、見得を切る所作に入ると、場内から一斉に“電器屋!”といった屋号の掛け声がかかり、たくさんのお捻(ひね)りが舞う。

3・お捻りの舞う日本駄右衛門の名演技

前座は素人歌舞伎とはいえ、その迫真の熱演ぶりは秩父夜祭を盛り上げるに十分な出来栄えであった。

4・迫真の演技

このあと、秩父歌舞伎正和会による「熊谷陣屋之場」の公演が続くのだが、われわれは厳しい寒さが予想される深更におよぶ御旅所桟敷席での観覧に備え、車中で軽く仮眠をとるため、駐車場の南小学校へと一旦、移動することとした。


午後4時前の南小臨時駐車場と武甲山
午後4時頃の南小グラウンド臨時駐車場

遠くに武甲山の山容がくっきりと見えるが、なるほど、兜の形をしている。秩父出身の俳人、金子兜太氏の俳号の由来がここにあった。浅学非才の身を恥じいる次第。

武甲山

そして、これからわれわれは待ちに待った秩父夜祭のクライマックスである御旅所での神事・御斎場祭と奉曳されてくる笠鉾・屋台の集結、それからアニメ・あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない”有名な秩父夜祭の花火大会を観ることになるのである。


その様子は、秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・花火大会で紹介する。

秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=昼・下郷笠鉾・中町屋台・中近笠鉾・上町屋台・宮地屋台

秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=朝
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=昼・本町屋台の屋台芝居
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・花火大会 “あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない”
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・御旅所で御神幸行列・御斎場祭
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・御旅所桟敷席より屋台の団子坂登りを堪能

まだ11時ではあるが、歩き疲れもあり、本町交差点近くのビルの2階にあるジョナサンで取りあえず腹ごしらえ。

0・腹ごしらえ

 
窓際の席があいていたので、そこに坐る。ここから本町交差点へ向かう屋台や笠鉾を目の前に見ることができるはずである。そして、われわれは目論見通りに食事中に通過した“下郷笠鉾”の曳行を見ることができた。

1・ジョナサンから下郷笠鉾の曳行を見る

まさに間近で見る白木造りの笠鉾の屋根に彫られた仙人と鳳凰の彫刻は素晴らしい。

2・下郷笠鉾の見事な彫刻が目の前に

そして、4千枚ともいわれる金色の飾り金具を纏った笠鉾はキラキラと輝き、神々しくさえ見えた。


食事を終え、外へ出ると、先ほどの下郷笠鉾が秩父神社境内に向かうため方向転換をしようとしている。いわゆる“ギリ廻し”が行われているのだ。重さ20トンの笠鉾を人力だけでギリ廻す、大変な智恵と技である。

3・ギリ廻しで傾く下郷笠鉾

本町交差点を直角に曲がった笠鉾がゆっくりと神社への参道へと入ってゆく。

4・方向転換完了。秩父神社へ


その姿を左手に見ながらわれわれは見物客であふれかえる本町通りをまっすぐ歩いてゆく。

6・人混みでいっぱいの本町通り

遠くに屋台が見えてきた。

1・中町屋台

四台の屋台のなかで一番大きな鬼板(屋台前後の両端を飾る板)を掲げる“中町屋台”である。前部の鬼板は天の岩戸開きが掘り出されている。

2・中町屋台の大きな鬼板

 屋台の上で、地方(じかた)の伴奏による曳き踊りが子供の演者によって披露されている。

3・地方は大人、立方は子供

演目は“雨の五郎”、本格的な見得を切る立方(たちかた)の男の子、相当な練習を重ねてきたに違いない見事な所作である。

4・中町屋台の曳き踊り

この屋台の後ろ幕には荒波を泳ぐ赤い魚。鯛であろうか、これも豪華である。そして、後ろの鬼板の意匠は素戔嗚尊(スサノオノミコト)による八岐大蛇退治となっている。

5・中町屋台後部・八岐大蛇退治の鬼板

さらに進むと、次に“中近笠鉾”が見えてきた。本来は花笠がつけられていたが、電線が架設された大正3年から笠をはずして曳行されるのだという。

1・中近笠鉾

この笠鉾は少し小振りだが、その分、瀟洒で端正な風格が漂う。総体は黒塗りでどこか宮殿風の造りとなっている。

2・宮殿風造りの中近笠鉾

この中近笠鉾は常に秩父神社を一番に出立し、御旅所に“いの一番”に到着する役どころなのだそうである。

3・中近笠鉾・正面

それから、御旅所なるものを見ることが可能であればと、桟敷席の確認も兼ねてお花畑駅の方へと向かう。


0・秩父鉄道・御花畑駅

その道すがら、“上町屋台”が路上に止められ、お昼の休憩をとっていた。

1・休憩中の上町屋台・みごとな鯉の滝上り

間近にじっくりと見上げる上町屋台はやはり、迫力満点である。

2・牡丹に唐獅子刺繍の水引幕がみごとな上町屋台

四台の屋台の内、最も大きな屋根を持つ屋台なのだそうだ。前面の鬼板は応婦人と龍が彫出されていて、それは見事である。

3・上町屋台の応婦人と龍を彫り上げた鬼板

後方に回ると、秩父夜祭の屋台ショットでよく目にする金糸を垂らした鯉の滝上りを見ることが出来た。

4・上町屋台後部・鯉の滝上り

後面の鬼板も素晴らしいのひと言。

5・上町屋台後面鬼板

そして、お花畑駅の踏切。

0・御花畑踏切を通過する秩父鉄道
御花畑駅踏切を秩父鉄道列車が通過


いよいよ御旅所も近い。

踏切からまっすぐに団子坂、その先に開けた御旅所前の広場の入口が見える。

1・お花畑踏切より団子坂、御旅所前広場を見る

踏切を越すと、両脇の家々に“当日桟敷席有り”といった張り紙が貼られている(今年は平日なので、席が余っているのだろうか)。

3・団子坂近辺にはこういった張り紙が  2・団子坂桟敷席です

秩父夜祭のクライマックスとも云える“団子坂の曳き上げ”と屋台の上に昇る花火を観るには、ここが最良のポイントであることは確かである。


最大斜度25度という団子坂。団子坂上より見た写真である。


4・この団子坂を手前へ登って来る

見た目にはさほどの勾配を感じさせないが、ここを重さ12〜20トンもある屋台や笠鉾が上ると思うと、見ぬ前からその豪壮な光景が目に浮かぶ。


御旅所前の広場(秩父公園)はかなり大きい。ここに午後8時過ぎ頃からこれまで見てきた屋台や笠鉾がぞくぞくと上って来るのである。

5・御旅所前から右手が桟敷席、幟の立つところが団子坂上
右手が桟敷席、左手に御旅所。正面幟が団子坂を登り切った処

自分たちの桟敷席の場所を大体の目星で確認していると祭りの係りの方がやって来て、この筋の上あたりだと
教えてくれる。親切である。

6・御旅所の大桟敷席

桟敷席の正面に、高い幟の立ったところがあるが、ここが御旅所であった。

7・御旅所

この御旅所に秩父神社の御神輿が渡り、ご斎場祀りが執り行われる。

8・御旅所にある亀の子石

御旅所には妙見菩薩を表わしているという亀の形の「亀の子石」がある。

9・御旅所の亀の子石

この場所で年に一度だけ、12月3日の夜に秩父神社に祀る妙見菩薩(女神)と武甲山に棲む龍神(男神)が逢い引きするのだと言われている。何とも艶っぽいといおうか気宇壮大なデートではある。


御旅所桟敷も無事確認したわれわれは、次に秩父神社境内で催される屋台芝居を見るため、神社へと移動することにした。


10・参道の人出もすごい

昼を過ぎると、神社近くの筋という筋には多くの人が入り込み、その混雑ぶりは、朝方の景色とは様相を異にする。


境内に入ると、6台の屋台・笠鉾のうち、まだ目にしていなかった“宮地屋台”が神門前で曳き踊りを奉納している最中であった。

2・境内神門前で曳き踊りを奉納する宮地屋台
屋台上で曳き踊り
1・宮地屋台
最も古い屋台・宮地屋台

この町は一貫して曳き踊りは“三番叟(さんばそう)”を奉納するとのことであった。

3・三番叟奉納・宮地屋台

こちらも立ち方いわゆる踊り手は子供であったが、その所作は玄人跣(はだし)であり、日ごろからの修練の積み重ねであると感じたものである。


この宮地屋台の後幕がまた印象的である。

4・後ろ幕の猩々が印象的な宮地屋台

“猩々(しょうじょう)”という顔は人間、躰は紅色の体毛で覆われ、声は小児の泣き声に似て、人語を解するという想像上の怪獣だという。なかなかに怪異である。


そしていよいよ、年当番の本町による屋台芝居の開演となるが、これは次稿に譲ることにする。

秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=朝

秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=昼・下郷笠鉾・中町屋台・中近笠鉾・上町屋台・宮地屋台
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=昼・本町屋台の屋台芝居
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・花火大会 “あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない”
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・御旅所で御神幸行列・御斎場祭
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・御旅所桟敷席より屋台の団子坂登りを堪能

12月3日(火)、京都祇園祭、飛騨高山祭と共に日本三大曳山祭のひとつに数えられる“秩父夜祭”を観覧した。

団子坂を登り切る
団子坂を登る本町屋台


夜祭見学を思い立ったのは、秩父観光協会が設営する桟敷席の抽選予約最終日の10月21日であった。家内と「秩父の夜祭もいいね」などと語り合い、ネットで調べたところ、その日が桟敷席の申込み最終日で、しかもメールにての申込み可というではないか。

御旅所桟敷席
御旅所桟敷席

午後11時も過ぎた頃とて、家内にも相談せず、まずもって申込み。

それから秩父夜祭のあらまし・歴史を調べ、交通アクセスを調べ・・・と、およそ計画的でない今回の旅の発端であった。


そして、夜祭が深更に及ぶということを知り、日帰りは無理と判断、宿を探しだす。

しかし、一月半前では会場から歩いて戻れる便利な宿はすべていっぱい。こりゃ困ったと、もう少し範囲をひろげてみたところ、“彩の森カントリークラブ”の“秩父夜祭り限定素泊まり宿泊プラン”を発見。ツインキングルーム・朝食付きで25,960円(2人)とちょっと高めだが、ネットですぐ申込む。


問題はその場所が西武秩父駅から車で30分ということ。そこで、最悪、当日は車で秩父へゆき、会場の駐車場へ置いて、祭りの終了後にクラブハウスまで夜道を運転してゆくしかないとの結論に達する。


翌日、クラブハウスへ電話を入れ、会場からのタクシー移動等を相談するも、当日の夜が何時になるか、翌日の行動などを考えるとやはりマイカーでゆくほうが確実で安全と判断。しかもクラブハウスのチェックインは午前零時を過ぎても問題ないとのことで、少々、宿まで遠いものの夜祭を堪能するには仕様がないということで、車利用に決定。

観覧席入場券

そして、難関の桟敷席二席が当選との連絡が111日のメールにて届く。斯様にして秩父夜祭観覧計画はドタバタのうちに進んでいった。


12月3日。秩父夜祭の当日である。


駐車場の確保のため午前6時半に車で自宅を出立。途中、トイレ休憩などとったものの、秩父夜祭会場に用意された“南小グランウンド”へは8時50分には到着、気抜けするほどにガラガラのグラウンドに駐車完了。


午前8時52分の南小駐車場、ガラガラでした

臨時駐車場の南小グラウンド


ただ、日帰りの秩父夜祭観覧であれば、西武池袋線の特急レッドアロー号など鉄道の利用が便利である。西武池袋線が夜祭にあわせ臨時便を増発している。

さて、秩父夜祭とは何かであるが、第10代崇神天皇(紀:BC97-BC30)の御代に創祀された古社・秩父神社の例大祭にあわせて催される“付けまつり”であるという。


例大祭そのものは太古の昔まで遡ることになるが、この夜祭も江戸寛文年間(1661-72)、今から350年ほど前にはじめられたという長い歴史を有するものである。


例大祭当日の12月3日には、市街地に2基の笠鉾(中近町・下郷町)と4基(宮地町・上町・中町・本町)の屋台が繰出し、賑々しく曳き廻される。

本町屋台前方から
屋台芝居の年当番の本町屋台


その屋台はただ曳行されるのではなく、秩父神社境内において年当番の町(2014年本町)によって興行される“屋台芝居”や曳行中の屋台上での屋台囃子や屋台踊りといった伝統芸能を演じる動く舞台ともなる。

本町屋台芝居の舞台造り   本町屋台の舞台出来上り
本町屋台が一部解体され、両脇に翼を広げるように床を延ばし舞台が完成

これらは、「秩父祭の屋台行事と神楽」として、昭和54(1979)年2月3日、国の重要無形民俗文化財に指定された。


日中は町中をそぞろ歩きながら、屋台曳行や催しを楽しむことになる。

そして秩父の町が宵闇に覆われる午後7時、例大祭の本義である御神行(ごしんこう)が花園の御旅所へ向け
秩父神社を出立する。

その御神幸の行列を盛大にお迎えするのが、羊山公園で午後7時半から打ち上げられる豪壮華麗な花火の数々である。


そして、午後8時頃から御神幸の行列の後に続き6台の笠鉾や屋台が御旅所前の広場へと集結し始め、秩父の夜祭は佳境へと入ってゆくのである。

ここでは、そうした秩父の夜祭の模様を当日の朝から昼、夜と順を追って、レポートすることにする。

さて、われわれはガラガラの南小駐車場へ車を置いてから歩いて、まずは徒歩数分ほどの西武秩父駅へ向かった。

駅前に観光情報館があったので、そこで曳行のルートなど秩父夜祭のパンフレットを入手した。

西武秩父駅 西武秩父駅前の観光情報館
西武秩父駅            観光情報館

そこから歩いても10数分の距離なのだが、タクシーで秩父神社最寄りの秩父鉄道・秩父駅へ。

秩父鉄道・秩父駅
秩父鉄道・秩父駅

そこから歩いて秩父神社大鳥居前に9時半頃に到着。まだ人出がすごいというというほどではないが、境内から心躍るお囃子の音や祭りの喧噪が聴こえて来る。

例大祭当日の大鳥居


境内に入ると、やはり当り前だが人出は多い。屋台が二基見えた。

午前9時34分の境内  午前9時39分・秩父神社境内・中近笠鉾と本町屋台


ひとつが本町屋台である。境内において興行する屋台芝居の当番町である。

本町屋台

もうひとつが中近笠鉾である。

中近笠鉾


その豪華な彫物を見上げながら、まずは秩父神社へお参りせねばと、拝殿へ向かう。

屋台の集まる広い境内から階段を昇り、神門を抜けると、参詣客はパラパラである。

入ってすぐ右手に当夜御旅所へ御幸される御神輿が置かれていた。ラッキー!!

秩父神社御神輿


まずは拝殿にて落ち着いて参拝と、例大祭の準備の整う参道を歩む。

秩父神社・拝殿

お賽銭をあげ、二礼二拍手一礼。

拝殿を南東より  拝殿内

そして、東側からぐるりと社殿を一周する。

拝殿、本殿ともに見事な彫物が壁を覆い、その豪華さにちょっと驚く。

拝殿・東側  本殿・東側
拝殿・東側               本殿・東側


本殿東側の妻入り上部に、左甚五郎の作と云われる鎖で繋ぎ止められた“つなぎの龍”が見える。

左甚五郎作・つなぎの龍


本殿裏の天神地祇社には、この夜の御神行に同行する各町の供物籠が並んでいる。

天神地祇社に並ぶ各町の御供物台


本殿西側には素晴らしい彫刻が彫られている。

本殿・西側


こちらは、日光陽明門の“見ざる言わざる聞かざる”と異なり、“よく見、よく聞いて、よく話そう”という“お元気三猿”が愛嬌たっぷりに参拝客を迎えている。

お元気三猿


西側にもうひとつ変わった銀杏の樹がある。乳銀杏という変種で、澱粉が乳のように枝から垂れ下がる様は一
見の価値あり。

乳銀杏  乳銀杏の枝から垂れる乳(澱粉)


それから境内を出ようとしたところ、神楽殿で“神代神楽”が奉奏されていた。この神代神楽も現在三十五座あるのだそうだが、この日は朝から一日かけて12演目が奉納される。

その時刻はちょうど、“八握の劔”に続き、“御神前二本榊の舞”が踊られていた。


神代神楽・御神前二本榊の舞
 
神代神楽奉奏・八握の劔  


そして、秩父神社を出て、いよいよ屋台が曳行されている町中へ出た。

最初に本町交差点へ向かった。すると、上町屋台にぶつかる。

本町交差点で上町屋台に出会う


交差点で、高さ6・7m、重さ13トンもの屋台の方向転換を見学できた。いわゆる“ギリ廻し”というものである。

上町屋台のギリ廻し


迫力満点である。こうして朝から歩き回り、さすがにお腹も減ってきたということで、朝の観覧はここまでと最寄りのジョナサンへ入って、腹ごしらえをすることとした。



王家の谷、善通寺・有岡古墳群を歩く=王墓山古墳

王家の谷、善通寺・有岡古墳群を歩く=積石塚古墳・野田院古墳

王墓山古墳説明版 王墓山古墳案内板
王墓山古墳の説明版と案内板

王墓山古墳は王家の谷・有岡古墳群のほぼ中央に位置する全長46mの前方後円墳である。

王墓山古墳全景
王墓山古墳全景

この有岡古墳群を含む善通寺から北東部に広がる“弥生末期讃岐国の中心集落・旧練兵場遺跡”は45万岼幣紊肪し、佐賀県の吉野ケ里遺跡にも匹敵する規模であることが分かっている。

吉野ケ里遺跡
吉野ケ里遺跡(2004年撮影)

大和王朝の全国統一前に、この四国の地にも大きな古代の“クニ”が存在していたのである。

前方墳と我拝師山
前方墳と我拝師山
後円墳と香色山と五重塔
後円墳と香色山と五重塔

その古代国家の王家の谷の中心に位置するのが、この王墓山古墳なのである。

王墓山古墳と青空
後円墳を見上げる・横穴式石室の入口が見える

6世紀中頃に築造された横穴式石室内に石屋形を設置する特異な埋葬方式をとっており、その方式の古墳を多く残す九州・肥後地方との関係が強く類推されている。

羨道と玄室
狭い羨道と奥に石屋形を有する玄室が見える

この古墳の被葬者であるが、副葬品のなかに朝鮮半島製の金銅製冠帽や装身具、鉄地金銅張りの馬具がたくさん見られたこと、また、鉄製品や須恵器類など桁違いの数を誇ることなどから、この地で巨大な権力を振るい、瀬戸内海を通じ朝鮮半島や九州など他の先進地域とも活発に交流をはかる大きな文化圏の中心に坐っていた人物であったことが十分に想像される。(石屋形を有する横穴式石室は、6世紀前期頃から肥後地方の菊池川流域と白川流域に集中して設けられ両地域内に40例以上が分布している)

後円墳から前方墳を  前方墳下から後円墳を見上げる
前方墳から後円墳を見る
後円墳
後円墳
円墳から前方墳を見る
円墳頂上から前方墳を見る

その候補としては、やはり善通寺を氏寺として栄えてきた古代豪族、佐伯氏の首長を挙げるのが最も妥当であろう。

善通寺・五重塔
善通寺五重塔

そして、この王墓山古墳の主の何代かのち、およそ200年後に、佐伯氏の御曹司として生まれたのが、佐伯真魚、のちの空海である。

善通寺済世橋より大麻山と香色山裾を
善通寺済世橋より南に大麻山を見る。右の山裾は香色山
済世橋より香色山・筆の山を見る
済世橋より西に香色山と筆の山を見る

この国の創世記の宗教、思想の成熟に決定的な影響を及ぼした巨人が、卑弥呼の時代にすでに讃岐で栄えていた古代豪族、王家の出身であったことは、さまざまなことを考え、類推させ、まことにもって興味が尽きないのである。

王家の谷、善通寺・有岡古墳群を歩く=積石塚古墳・野田院古墳

善通寺市内に五岳山と呼ばれる屏風のように聳え立つ山塊がある。西から東へ、火上山・中山・我拝師山(がはいしさん)・筆の山・香色山(こうしきざん)と麓を連ねている。

火上山・中山・我拝師山  左:筆の山 右:香色山
左から火上山・中山・我拝師山 次の右手の尖っているのが筆の山・右端が香色山

その東端の香色山東麓に、「屏風浦五岳山誕生院善通寺」と号する四国霊場第75番札所・善通寺が大きな伽藍を配する。


善通寺
善通寺

弘法大師・空海はこの地の豪族、佐伯善通の子として生まれ、幼名を真魚と称したという。

善通寺の西院は佐伯氏の邸宅があった跡であり、弘法大師生誕の場所として、産湯井堂を再建するなど今でも大切にされている。

産湯井堂 空海が産湯を使った井戸
産湯井堂と中にある産湯の井戸

空海が生まれ育ったこの場所のすぐ西方、香色山・筆の山・我拝師山の連山と、南方の大麻山(おおさやま)に挟まれた弘田川流域、“有岡”と呼ばれる低丘陵部がある。


王家の谷・有岡地区
王家の谷・有岡地区
善通寺済世橋より大麻山と香色山裾を
善通寺・済世橋より大麻山を見る。右手の山すそは香色山

この地が1600年ほど前には住居跡などの痕跡が少なく、逆におびただしい数の古墳や祭祀の場所であったことが確認されている。


つまり、古は奥津城(おくつき)の地として聖域視された、いわば日本版“王家の谷”とも呼ばれる聖地であったと考えられるのである(『善通寺史』・総本山善通寺編を参考とした)。


善通寺市内には現在確認されるだけで四百を超える古墳が存在し、就中、この有岡地区には大小の前方後円墳が集中していることで、全国的に有名であるという。

左に樽池を見て、奥に見える大麻山へと向かいます
ここから奥に見える大麻山の頂上近くの野田院古墳を目指す

そのなかで、大麻山山麓の比較的高所に分布する大麻山椀貸塚古墳・大麻山経塚・御忌林(ぎょうきばえ)古墳・大窪経塚古墳・丸山一号、二号墳、そして大麻山北西麓(標高405m)に位置する“野田院古墳”は、古墳時代前期に築かれた古いもので、しかも石だけを積み上げてゆく積石塚古墳というこの時期の築造法としてはわが国ではきわめて珍しいものである。

野田院古墳と大麻山頂上
野田院古墳から大麻山頂上を見る

この三世紀後期から四世紀前半という古墳時代のごく前期に築造された積石塚古墳は、同じ香川県の高松市の岩清尾山古墳群で確認される二百余基の古墳のなかに20基ほど存在している。

二段の積石塚古墳
二段に石が積み上げられている

なお、この希少な積石塚古墳は、古墳時代後期に築造されたものが遠く離れた長野県や山梨県、群馬県に存在するが、その頃には讃岐地方で積石塚古墳はすでに消滅しており、それらとの関係はまだ研究が進んでおらず、不明とのことである。

円墳上部
後円墳の上部・二つの竪穴式石室の仕組みが見える

野田院古墳はその調査で傾斜地に築いた基礎部を特殊な構造で組み上げることで、変形や崩落を防ぐというきわめて高度な土木技術によって作られていたことが判った。

展望台より野田院古墳
展望台より見る

この特殊な古墳築造形式やその技術の起源だが、現在、まだはっきりとした定説はない。

前方墳より後円墳を見る
前方の方墳から積石塚円墳を見る

しかし、この形式の墳墓は高句麗や中央アジアの遊牧民の埋葬様式として数多く見られるという。また、慶尚南道にも積石塚古墳が見られるという。

方墳
前方墳です、手前に一部、積石塚円墳です

その積石塚古墳の形も、高句麗など北方は方墳、慶尚南道の朝鮮半島の南部は円墳が多いということであるが、当地の円墳という墳形を朝鮮半島南部と直接的に関連付けるのは、まだ早計との判断のようである。

野田院古墳
山腹を削った平坦地に野田院古墳がある

さて、野田院古墳であるが、大麻山中腹のテラス状平坦地で、王家の谷である有岡地区はもちろん善通寺から丸亀平野を一望に見渡し、瀬戸内の海、さらには備前地方まで見通せる特別な場所に位置している。

王家の谷を見下ろす野田院古墳
晴れ渡った日には瀬戸内海を越え、遠く備前の地が見える

しかも築造年代が三世紀後半、卑弥呼の時代(248年前後に死亡)の50年ほど後の古墳時代のごくごく初期となれば、その埋葬主も王家の始祖にも等しき重要な人物と考えてもよいのではなかろうか。


その王家というのが、前述した弘法大師、空海の出自である佐伯氏という豪族である。

五岳山・左より火上山、中山、我拝師山
野田院古墳から王家の谷を見下ろす

王家の谷を見下ろし、すぐ先に瀬戸内海を一望する特別の地に眠る王が、のちの国家鎮護の密教・真言宗の始祖、空海の祖先であるということは、大和王朝の成り立ちや天皇家との血筋の関係においても、色々と興味深いものがあると考えたところである。


如何せん、野田院古墳から見下ろす景色が壮大かつ雄渾であることは、ここの展望台に立ってみないと実感できぬ醍醐味であることは確かである。


泊ってみたい宿=江戸の風情を残す宇和町・卯之町の“松屋旅館”

愛媛県西予市宇和町卯之町3丁目215番地

TEL0894-62-0013


松屋旅館は江戸時代の街並みが残る卯之町(うのまち)の“中町通り”に面してある。

松屋旅館
松屋旅館

その主な建物は今を去ること二百余年前の文化元年(1804)に建築されている。


旅館正門に掲げられる“松屋旅館”と書かれた扁額も右横書きで、前を通る往還の情景をこの旅館が眺めてきた歴史の長さを感じさせる。

松屋旅館正門


ここ卯之町は、江戸時代、宇和島藩唯一の宿場町として、また、四国霊場四十三番札所・明石(めいせき)寺の参道入口の地として賑わいを誇ったという。


宇和島城 四十三番札所・明石寺
左:宇和島城              右:明石寺

格子戸、梲(うだつ)、半蔀(はじとみ)、出格子など古い景観を残すその街並みは200912月に重要伝統的建造物群保存(重伝建)地区に指定されている。


古い街並みの残る中町通り
江戸の面影を残す中町通り


こうした伝統的情緒を残す一方で、この卯之町が幕末・維新の頃、文化的にも高い水準にあったことが、この地に足跡を残した文化人たちの顔ぶれを見ても明らかである。


明治15年に建てられた四国最古の小学校・開明学校    大正年間に建てられた教会
四国最古の小学校・開明学校(明治15年創立)  開明学校より大正時代造の教会を見る  

シーボルトの門弟・二宮敬作(蘭学者・医学者)がシーボルト事件(1828年)に連座し、投獄後、故郷の八幡浜に近い卯之町に戻り、開業、シーボルトから請われその娘・楠本イネを日本初の女医(産婦人科)として養育・教育したのも当地である。

二宮敬作住居の地
二宮敬作の住居跡・現在、個人のお宅が建っています

また、脱獄逃亡中のシーボルトの高弟・高野長英が鳴滝塾時代の学友である二宮敬作を頼り、同人住居の裏手に潜居していた住居が細い路地裏にひっそりと残されている。

細い路地にあった高野長英の隠れ家  高野長英の隠れ家
長英の隠れ家は細い路地、二宮敬作邸の裏手にあります

斯様に、この小さな古い街並みは、幕末激動の時代の息遣いが今でもかすかに聴こえてくる、そんな錯覚を感じさせる落ち着きをもった静かな町なのである。

そのような地で、長年、旅籠を営んできた松屋旅館の宿泊者のなかにも、後藤新平、犬飼毅、浜口雄幸、若槻礼次郎、尾崎行雄などの政治家や前島密、新渡戸稲造など歴史に名をとどめた人物の名前を多数認めることが出来る。

文化元年(1804)建築の松屋旅館
幕末・維新を飾る人物が宿泊した松屋旅館

その由緒ある文化財特別室に泊まってみたいと思ったのが、今回、卯之町を訪ねた動機であった。

洋椅子がなぜか似合います
8畳の和室・なぜか洋椅子の似合う空間

当日、若女将の大氣真紀さんに案内された部屋は三つある特別室のうち“けやき”という客室であった。

8畳の居間です
8畳の和室

一階に洋間と8畳の和室、二階が寝所となっていた。一人旅のわたしにはとても贅沢な空間である。

お部屋入口から
手前がエントランス、次に洋間、その奥に8畳の和室


洋間手前に4畳ほどのエントランスにあたる板の間があるが、そこに足を踏み入れた瞬間、壁面に掲げられた額縁に目が留まった。その字体といい、時をじっくり浸潤させたかのような飴色の色調といい、飾らぬ装丁といい、自然流の時の流れを感じさせる味のある書である。

お部屋の到る所に書があります


そして次の洋間、奥の8畳和室、二階の寝所と、各部屋に謂れのありそうな書が飾られている。

書の額がいっぱいです  面白い書も


2007年には傷みがひどくなった特別室の改装、修復を行なったということで、部屋の佇まいも往時とは幾分、趣きを異にしているのだろう。洋間風の間などを設けたのも時代の流れのひとつと理解するしかない。


ただ、和風の洗面所両脇にある男女トイレも最新式のウォシュレットなどを設置し、清潔感にあふれ、現代の旅人にとってはやはりありがたいと言わざるを得ない。

ウォシュレットのトイレ

さて、特別室の外の大浴場、といっても当日は私一人の貸し切りであったが、ひと風呂浴びて部屋へ戻ると、洋間のテーブルに一人きりの晩餐のお皿が待っていた。


名物料理の用意された洋間

今朝、魚市場に揚がったという新鮮な伊勢海老、天然鯛、太刀魚の刺身の盛合せが真っ先に目に飛び込んできた。

まぁ、何とも豪快ともいえる膳である。

伊勢海老など新鮮なお刺身盛合せ

こんなにたくさんの料理・・・、食べられるだろうか・・・と、やや尻込みをしていたわたしに、若女将が気持ちをほぐしてくれるかのように、“まず、お酒の方はいかがいたしましょうか”と言うではないか。

一人前のご膳です


“ぬる燗のお勧めは?”と、訊ねると、
“うちの前の造り酒屋の開明はおいしいですよ”というので、それを頼む。
熟成純米酒・開明である。

地酒・開明


若女将のお酌と話し相手で、お酒も食事も退屈することなくスイスイと順調過ぎるほどにすすむ。


八寸


当夜のご酒・“開明”を造る造り酒屋・ “元見屋酒店”の創業は幕末の安政5年(1859)である。

ここも寛政年間(1789-1801)に建てられた前蔵も残る古い建物であるが、老朽化がすすみ、2009年に白壁は応急修理を施したものの、予算の都合上、瓦葺はスレート葺きへと変えられてしまったという。

寛政年間に建った前蔵が残る元見屋酒店
中町通りに面する元見屋酒店

伝統的建造物は日本人全員で後世に伝えてゆくべきもの。その維持・補修など保存については、その住人の大きな負担とならぬ程度の公的扶助が必要だと感じたところである。


さて、さて、食事もぬる燗で天然の鯛の刺身を・・・

最高でした。そして、わたしは初めてだったのだが、“煎り酒”という江戸時代には食卓に欠かせぬ調味料であったという醤油もどきにつけて食べました。

右が煎り酒
右が煎り酒です


松屋の煎り酒は吟醸酒に梅干しを入れ、そこに鰹節などちょっと加えてコトコト煮詰めて作るのだそうです。

これが白身魚の刺身によく合うのである。当夜はほとんどお醤油をつけずに煎り酒を使用したほどに、素材の味にやさしく、その味を引き立てる控えめというか献身的な調味料であると実感した。

そして若女将が奨めてくれた鯛の皮。

鯛の皮で一品


こうして食するとコリコリ感もあり、一種の珍味のような贅沢品に変身。

人気のNHK朝ドラ・“ごちそうさん”の始末の料理の一端を経験させていただいた。

まぁ、変わった食べ方があるものだと感じたのが、太刀魚のねじり焼き。
それと紅葵のゼリー。これもさっぱりとしたヘルシーなもの。

太刀魚の捻じり
左がねじり焼き・右の紅葉が紅葵


これも太刀魚が大振りでないとできない料理法であると、豊かな南予の海に感謝した次第である。


あと、宇和島牛・・・


宇和島牛の鍋

鱧の湯引き・・・・


鱧の湯引き

・・・と、松屋旅館の大女将が漬ける松屋名物の漬物。

松屋名物の漬物
200年の糠床でつけた松屋名物の漬物


若女将が終始、そばに居ていただけて、卯之町の歴史やわたしの他愛ない話し相手になっていただき、食事もお酒も本当においしくいただけました。

鱧の汁椀
鱧のお椀もあたたかくおいしかったです

真紀さん、本当にごちそうさまでした。


二階寝所から一階の居間への階段
修復された階段には手すりもあります

それから二階の寝所へ向かい、二百余年の月日の流れを眺め続けてきた大きな梁の下に敷かれたあったかいお布団に入り、心地よい眠りへと落ちていった“松屋旅館”の一夜でありました。

大きな梁のある二階の寝所


落ち着いた古い町並みにとけ込むようにしてたたずむ“松屋旅館”。


玄関への石畳
玄関への石畳

そしてその伝統を控えめに素朴に守っておられる若女将をはじめ松屋旅館の方々。


しっとりと来し方に思いを馳せてみたい方など、ぜひ、訪れられたらいかがでしょうか。

なんだか自分がすこしやさしい人間に変わったように思える、そんな素敵な旅館でした。

“北斗市明野サンフラワーフェス2013”で向日葵(ひまわり)に遊ぶ

山梨県北杜市明野町浅尾5259-950(会場最寄り住所)



かねて、真夏の向日葵の群生を見たいと願っていた。

真っ青な空に、ギンギンの太陽、その下に咲く誇る大輪の向日葵・・・

向日葵

まぁ、真夏の定番料理のような光景であるが、一度はそうした定食も経験すべきと、山梨県は北斗市明野のひまわり畑をようやく、この夏、訪ねることが出来た。

明野ひまわりフェスティバル

お盆も過ぎた時期だったので、明野サンフラワーフェス2013”の会場も、見ごろはメイン会場のほぼ一か所といった状態であったが、かろうじて向日葵の群生を満喫することが出来た。

見ごろのサイトは数少なくなっていました

会場にはまだ多くの観光客がおり、向日葵畑に足を踏み入れ、夏の一日を愉しんでいた。

ひまわり畑で遊ぶ人

回れ右!

全員、まわれ右!!

シンボルマークのハートのひまわり畑が見られたのも、うれしかった。

ハートのマーク

上から見たのではわからなかったが、ひまわり畑に分け行ってみると、ブラドレッドシェードという品種のえんじ色の向日葵が、ハートの正体であった。

ハートの形はブラドレッドシェードというひまわりで出来ています

黄色のいわゆるわたしが向日葵と思っている品種は、ハブリットサンフラワーという何だかハイテク技術のような名前が冠されていた。

大輪のひまわり・ハイブリットサンフラワー

惜しむらくは天候であったが、真っ青な夏空とはいかず、そこここに厚い雲も見え、そのすき間にもうっすらと雲がかかっていた。

山並みを背景にひまわりの群落

しかし、真夏の太陽が雲間から顔をのぞかせると、目の前のひまわり畑は一斉に生気を取り戻し、向日葵の顔が面をあげたようで、畑一面が極彩色の黄色の世界へと一変する。

一面のひまわり

真夏の光と向日葵が織りなす色と光の競演は見事である。

もっと青空だったら・・・

その一瞬を狙い、イメージに近い、定番ショットの写真を撮ってみた。

ひまわりと夏空

色々と試みるが、やはり基本は自然環境。いいショットには手間と時間がかかることを知らされた一日でもあった。

来年は、真っ盛りの時期にやって来て、複数のゾーンの向日葵を訪ね歩きたいと思った。


 

宮津・天橋立で優雅なランチ=ビオ・ラビット(オーガニック・レストラン)

京都府宮津市日置3599番地 マリントピア5号館1F

TEL 0772-27-0141


“ビオ・ラビット”は、籠(この)神社・傘松公園ケーブル乗場から国道176号線を“伊根の舟屋”方面へ5kmほど行ったマリーナクラブのリゾートマンションに併設されたレストランである。

ビオラビット、アプローチ

メンバーでなくともわれわれのような旅人、一般人も入店可能である。


ビオラビット看板
 ビオ・ラビット入口

店内はいかにもリゾートマンションといったインテリアが施されており、夏場はさぞかしお洒落な別荘族でいっぱいなのだろう。

開放感のある店内

われわれは一月の大寒の頃に訪れたので、さすがにお客はわれわれ4名のみ。お蔭といってはなんだが、ぜいたくな雰囲気を一人、いや四人占めさせてもらった。

テラス席もあるビオ・ラビット

一面のガラス窓越しに若狭湾が一望でき、丹後風土記逸文に記述のある“大嶋(冠島)”と“小嶋(沓島)”が見える。まさに神話と風土記の世界が目の前にひろがっている絶好のスポットである。

冠島と沓島
左が沓島、右が冠島

風土記逸文の“凡海(オホシアマ)”に、次の如き記述がある。

「凡海と称する所以は、古老が伝えて曰く、昔、天下を治めるに当たり、 大穴持命と少名彦命が、この地に到った時に、海中の所在する大嶋、小嶋を引き集め、およそ小嶋10個を以て、ひとつの大嶋となした。それで、名を凡海という。当国風土記にある」

また、逸文の“常世嶋 男嶋女嶋” に、次の如く記述がある。

「時に、大宝元年(西暦701)三月己亥、当国に地震あり。 三月震れ続けた。この嶋は一夜にして見渡す限り青々として広々とした様子に変じ、海となった。漸く、わずかに、嶋中の高い山、二峯がともに立ち、神岩が海上に出た。今、常世嶋と名づく。亦、俗に男嶋女嶋と称す。嶋ごとに神祠がある。祭る所の者は、天火明神と日子郎女(いらつめ)神なり。当国風土記にある」

その男嶋・女嶋あるいは大嶋・小嶋がここ“ビオ・ラビット”で食事をとりながら眺めることが出来るのである。古代浪漫に満ちた、なかなかの風趣をそなえたお店である。

さあ、そこで、そんな神話の世界から現実の世界へ話を戻さなければならない。

このリッチで浪漫あふれる雰囲気の“ビオ・ラビット”だが、そもそもはフレンチでスタートしたお店であったという。

ただ、HPのコンセプトに謳われているように、“地元丹後の自然栽培の野菜や果物、近海で獲れた魚介類など安全な食材を使用し心を込め手作りの料理を提供するジャンルを超えたオーガニック”にこだわりをもったレストランであるのだそうな。

当日も、土地(ところ)の食材をふんだんに使ったメニューをオーダー。どれもおいしそうで珍しい料理なので、軽くランチをの予定が、ついつい注文し過ぎたのを覚えている。


最初にオーダーしたのが、オードブル盛り合わせである。スモークサーモン、スモークチキン、京都ポークのベーコン、ピクルスなどに新鮮野菜タップリの盛り合わせがうれしい。

地の食材満載のオードブル

自家製の燻製はどれも香味たっぷりで美味。

そのなかでも、宮津湾の海藻をふんだんに使ったテリーヌはこれまた珍味。

海藻とえびのテリーヌ

そして、ズワイガニだったか豪勢な海鮮パスタもみんなホクホク顔でシェア・・・、あっという間に各自の胃袋へと収納。

海鮮パスタ

わたしがさらに大好きなペペロンチーノを所望。これまた特製ベーコンや地元野菜がてんこ盛りで、食いしん坊には堪らない。

自家製ベーコンと白数農園のキノコのペペロンチーノ

次に、ピザを注文。食欲という凡人の煩悩は抑えようがない。自家製ベーコンのピザをオーダー。パイ生地は非常に薄く、歯触りも小気味よい。

特製ベーコンと?のピザ

そして、最後の止(とど)めが、初めて目にする牡蠣ピザである。新鮮でボリュームたっぷりのトッピング・・・、この大粒の牡蠣で、さすがにお腹はいっぱいである。

名物・牡蠣ピザ

パスタが二種類、ピザも二種類、四人でシェアしたというものの、半年たって写真をチェックしてみるとこのボリューム感、この4人、なんという食欲の持ち主なのかと驚いた次第。

そして食後のコーヒーと洒落込みたかったのだが、列車の時間が迫っている。これから宮津駅までレンタカーを飛ばし、車を戻し、列車に飛び乗るという離れ業をやらねばならぬ。

コーヒーに後ろ髪を引かれながらも、冷静なるわたしが、もう出ませんかと声を発し、ランチタイムは終了(この一文に異議ある方、受付けます)。予定の列車にも無事、乗ることが出来たのであります。

そこで、“ビオ・ラビット”の総括を。


せっかく優雅な時間が過ごせる“ビオ・ラビット”である。ゆっくりと時間に余裕を持たせ、訪れるのが、洗練された大人たちの旅であると、思った次第。


そして、“ビオ・ラビット”を目的に丹後を訪れるそんな旅があってもよいのかな・・・対馬シェフの創る料理は初めて丹後半島を訪れた旅人にそんなことを思わせたものである。

これぞ、讃岐うどん!! 善通寺・“宮川製麺所” 旨さもちろん、雰囲気最高!!

善通寺市中村町1--20・電話 0877-62-1229


弘法大師の生誕地というより、生まれた邸宅跡に建つ四国八十八ヶ所霊場の七十五番札所・善通寺を訪ねた。

善通寺

そのことはあとでアップしなければならぬが、ここでは食い意地の張ったわたしである。そこで出会った本物の“讃岐うどん”をまずは紹介しておかねばならない。


その名を“宮川製麺所」”という。

宮川製麺所

名前で分かる通り、卸の製麺のついでにそこで一般の人も、まぁ、食べるんだったら、お構いはしないがどうぞってな、いわゆるセルフの店である。

宮川うどん店入口です
ここが入口

JR善通寺駅から善通寺までは普通であれば歩くところだが、足が悪いわたしはこれから広い善通寺境内を歩く手前、無用な足の消耗は避けたいということで、タクシーに乗車。

JR善通寺駅

12時前だったので、運転手さんにどこかお寺に近いところで美味しい饂飩屋さんはないかと問うた。すると、まぁ、好みではあるが、“宮川製麺所”がよいかなと云う。

これぞ、讃岐うどん

名前が気に入ったので、そこに決めた。


思った通りの店構えである。まだ陽射しもきつくないのに店頭に葭簀(よしず)が立て掛けてある。

店頭に葭簀(よしず)張り

店に入り、麺の“大”を頼み、手に持ったどんぶりに釜から揚げたての玉を入れてもらい、後ろの大鍋から柄杓で汁を入れる。

自分で柄杓で汁を入れます

もちろん、わが奥様にすべてやっていただく。熱い汁を零そうものなら後が大変だからである。

この上に好みの具を載せます

そして、好みの具を選び、きざみ葱を入れて、簡易椅子に坐り、「いただきま〜す」

このテーブル席で食べました
このテーブルで食べました

この間、2分と経っていない。わたしは丸天、家内はきつねである。

丸天うどん きつねうどん

麺の腰はもちろんしっかりしているが、表面の微妙な柔らかさがなんともいえぬ、これぞ、ただ、強(こわ)い麺の腰というのではない、これぞ讃岐のうどんというものである。それにこの薄い色をした汁が何ともいえぬ味わいをもたらす。

奥が麺を湯がくとこです
麺をゆでています。この女性からどんぶりに入れてもらいます。

まさに絶品である。さぁ、これで、善通寺をゆっくりとお参りできると気合が入ったものである。


ところで、葭簀のなかは、こうなっていました。

葭簀のなかは・・・

これぞ、セルフの醍醐味、粋というものである。霊場巡りをされる方。一度、この宮川製麺所もよられてみたらいかがでしょうか。札所の善通寺から500mほどの距離。疲れた足にも効き目抜群の旨さですよ。

武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を祀る鹿島神宮をゆく(下)

武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を祀る鹿島神宮をゆく(上)
謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(上)
謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(下)
経津主神(フツヌシノカミ)と武甕槌神(タケミカヅチノカミ)=出雲で国譲りを成した二神の謎
春日大社をゆく=武甕槌神(タケミカヅチノカミ)・経津主神(フツヌシノカミ)に誘(イザナ)われ

左手に見えたのは、鹿島神宮の社殿であった。参道右手に北向きに建っているのだ。

拝殿と楼門配置が90度
手前参道左に拝殿、奥の白いシートに覆われる本殿・向こうが通って来た楼門

社殿は手前の拝殿から幣殿・石の間・本殿と北から順に奥(南)へと続いて建つ。

拝殿の後ろ、幣殿が見える
社殿横から。左より拝殿・幣殿・白いシートの中、石の間・本殿とある

しかし、ここも香取神宮同様、来年の“式年大祭御船祭”へ向けた屋根の葺き替え工事が進行中で、石の間と本殿は白いシートの中に身を隠す。

拝殿の奥、葺き替え中の本殿は覆われていた
しっかりシートの中です

本殿はだいたい参道の突当りに鎮座するものだが、ここは参道の脇、直角に曲がって拝殿で参拝する。

拝殿正面より
参道を右に90度曲がると、鳥居と拝殿が正面に見える

何か奇妙である。この謎はこれから訪れる奥宮、御手洗池、要石の項でわたしの考えを述べることにする(鹿島神宮のパワースポット“荘厳な霊気に満ちた奥宮”・“清浄の地御手洗池”・“武甕槌神の憑代 要石”を参照)。

拝殿で祈祷中です
拝殿内で祈祷が行われていた

さらに不思議なのが本殿が北向きであること。しかも御神座は本殿内南西隅に置かれ、東を向いているのだという。われわれはご祭神“武甕槌神”の横顔に向かい参拝する形となる。

拝殿
拝殿を西側より見る

当社に伝わる“当社列伝記”に次のごとく記されている(鹿島神宮元宮司東実著・学生社刊「鹿島神宮」より)。

「開かずの御殿と曰うは、奉拝殿の傍に御座す、是則ち正御殿なり、北向に御座す、本朝の神社多しといえども、北方に向いて立ち給う社は稀なり、鬼門降伏、東征静謐の鎮守にや、当社御神殿の霊法かくの如く、社は北に向ける、其のご御身躰は正しく東に向い安置奉る、内陣の列法なり」

実は本殿内の御神座のこの奇妙な配置は出雲大社に似ている。出雲大社は拝殿、八足門、楼門、御本殿と直線状に配置され、すべて南面する。その御本殿の御神座は本殿北東隅にあって西を向かれているという。
方角は異なるが、拝殿で参拝する者たちに、御祭神は横顔を向けしかも本殿内の一番奥隅に鎮座されるという形式は同一である。

出雲大社本殿
出雲大社本殿

國譲りをされた大国主命が祀られる出雲大社とその國譲りをさせた武甕槌神が祀られる鹿島神宮。方向は違えど同じ形式で祀られていることはいったい何を意味し、何を語らんとしているのか。謎は深まるばかりであり、興味は尽きることはない。

その鹿島神宮社殿の斜め対面に仮殿がある。

仮殿

その間に何故か、高天原の悪神である“天香香背男(アマノカカセオ)”を誅した“建葉槌命(タケハツチノミコト)”を祭神とする摂社・高房社が鎮座する。言ってみれば本殿の真正面であり、参道の中央に坐すとも見える(“続・経津主神と武甕槌神の謎=常陸風土記と日本書紀から読み解く”を参照)。

摂社・高房社と三つ穴燈籠
摂社・高房社と三つ穴石燈籠

次に宝物館を見る。

宝物館

国宝の“直刀”を見ようと立ち寄ったが、見事、大神社展へ貸出中!!

平成館館内
東京国立博物館平成館での”大神社展”

長さが271cmにおよぶという“ふつのみたまのつるぎ”である。宝物館には長さ、重さも同一の模造品があり、それを手で抱えて見たが、もちろん、持ち上げるだけで精一杯で、振り回すなんてとんでもないといった大刀であった。

国宝・海獣葡萄鏡
海獣葡萄鏡・復刻品

これも香取神宮の海獣葡萄鏡と一緒で、後日、東京国立博物館で拝見することとなったが、やはり実物は人出の多い博物館の中でもシンと鎮まり、その刃身から撥される神気に心を浄められた。

さて、奥参道に入ると途端に参道脇に広がる樹叢の奥ゆきが深みをます。

原生林の中を縫う参道

古木特有の捻じ曲がった枝幹は上空を縦横無人に覆い、参道に影を落とす。その樹間を縫うように数条の光が射し込んで来る。

古木

その光と陰が織りなす意匠は武甕槌神の黙示のようでもあり、歩みとともに移ろうそのフォルムが、わたしに終始、何かを語りかけているように感じられた。

光

そうした神秘的空間を歩む途中、左手に開けた場所があった。鹿島の鹿苑である。

参道より鹿苑を

春日大社の社伝によれば、称徳天皇の767年、平城京鎮護のため鹿島神宮の武甕槌神を春日大社の祭神として勧請したが、この時、武甕槌神は白鹿に乗ってひと月かけて御蓋山(三笠山)に来られたのだという。

鹿苑
この鹿たちのご先祖が奈良の鹿のご先祖にあたる・・・

つまり春日大社の鹿は鹿島の鹿の末裔ということになり、この云い伝えが両神社において、鹿が神鹿として敬われ、神の使いとされる由縁でもある。

春日大社の鹿の手水舎
春日大社・鹿の手水処

その鹿苑の一角に中臣鎌足伝承に由来する“鎌足桜”が咲いていた。

鎌足桜 鎌足桜花弁
鎌足桜が咲いていました

中臣鎌足は常陸の生まれといわれ、いまの鎌足神社(鹿嶋市宮中3354番)がある辺りがその出生地とされる。出生地常陸説の根拠のひとつとなっている藤原氏の栄華を描いた“大鏡”に、「鎌足のおとど、む(生)まれ給へるは、常陸国なれば、かしこのかしま(鹿島)といふところに、氏の御神をすましめたてまつり給ひて」とある。

さらにこの一隅に、りっぱな“さざれ石”が置かれているので、これもお見逃しなく。

見事なさざれ石

ということで、いよいよ、ここから奥宮、要石、御手洗池と鹿島神宮のパワースポットゾーンへと足を踏み入れてゆくことになる。以下、それぞれ別稿を置くので、それを参照されたい。

武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を祀る鹿島神宮をゆく(上)

武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を祀る鹿島神宮をゆく(下)
謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(上)
謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(下)
経津主神(フツヌシノカミ)と武甕槌神(タケミカヅチノカミ)=出雲で国譲りを成した二神の謎
春日大社をゆく=武甕槌神(タケミカヅチノカミ)・経津主神(フツヌシノカミ)に誘(イザナ)われ

東京から鹿島神宮へゆくには八重洲南口からの高速バス(JR・京成・関東鉄道)が便利である。10分間隔で運行されており、鹿島神宮駅まではわずか1時間56分の乗車である。


ただ、今回は香取神宮経由での鹿島参拝のため、一時間に一本のJR鹿島線を利用することになった。 香取駅から鹿島神宮までの乗車時間はわずかに16分というのにはちょっと驚く。  

香取駅ホーム

ところが、地図を見るとその間に利根川、常陸利根川、北浦と3つの大きな川や湖を渡っている。鉄橋や陸橋がなければ相当難儀な行程である。

 
往古、この間が海で隔てられていた頃は対岸が見渡せたとしても、当時の舟で行き来するのは湾口の潮流もきつかっただろう、そんなに容易なことではなかったはず。そんなことをぼんやりと頭に浮かべながら窓外を見やると、春の夕日が一条の帯地を広げたように北浦の水面を茜色に染めあげていた。

北浦に沈む夕日

鹿島神宮駅は周囲を台地に囲ませた窪地にある。当夜の宿は駅前のビジネスホテル鈴章をとっていたが、なるほど鹿島神宮へ向かうには駅からひたすら坂道を登ってゆくのがわかる。ホテルまでのわずかな距離ですら坂道である。

ビジネスホテル鈴章
ホテル鈴章前の坂、結構、急です。これを上って鹿島神宮へゆく

香取神宮で歩き疲れたわたしの次なる愉しみといえば食事。当地名物の鯰(ナマズ)料理はどうかと奨められた。う〜ん、鯰ネェ〜と躊躇したが、何せ香取の要石を拝した身。やはり地震退治に協力せねばと老舗・鈴章での夕食となった。おいしかった話は別稿で(“鹿島のグルメ:鯰料理の老舗・鈴章”参照)。


さて、早起き苦手のわたしが9時にはすでに鹿島神宮の門前に立った。ホテル鈴章の方がこの登り坂は足の不自由なわたしには大変だと車で送ってくれたのである。前日の鯰料理・鈴章への送迎といい、今朝といい、感謝、感激である。

大鳥居前の参道
大鳥居前の門前町

そして、いよいよ鹿島神宮参拝の始まりである。

鹿島神宮石標

嫌な予感はしていたのだが、まさか、初っ端からとは。二之鳥居の大鳥居がない。

鹿島神宮大鳥居跡

前日の香取神宮といい、 鹿島でも肩透かしを喰らわされた形で、どうも心持ちが宜しくない。 ただ、鹿島神宮と大書された石標は隆々と青空の中に聳え立っていた。

青空に石標が立つ

御影石造りの大鳥居は2年前の9.11東日本大震災で倒壊したとのこと。大鳥居は境内側へ倒れたので、門前町への被害はなかったという。しかし、考えてみれば不思議である。鹿島神宮は坂を上り切ったところにある。通常であれば、傾斜に沿って下の方に倒れるものだが、人々に害を及ぼさぬようにわざわざ逆側へ倒れ込んだとしか思えぬのである。

ここに大鳥居の柱が立つ
御幣で囲われた大鳥居柱の跡

その大鳥居は来年の御船祭りに向けて再建が進められ、此度は古来の木造に戻すそうで、6月の竣工予定である。鹿島の森に育つ杉の古木を使用するとのことで、それを語る氏子の方の誇らしげな笑顔が印象的であった。


なお、大鳥居が二之鳥居というのであれば、一之鳥居はどこに・・・となるが、大船津、北浦・鰐川の水中に立っている。今年の6月1日に約30年ぶりに川中の鳥居として復活したのだという。

鰐川に立つ”一之鳥居”:東京新聞より
東京新聞より

まぁ、そうしたわけで鳥居をくぐることなく鹿島神宮という聖地に足を踏み入れることになった。

早朝の境内・楼門

御幣で囲われた大鳥居の柱跡を見ながら石畳を踏みゆくと、正面に大きな総朱漆塗りの重文・楼門が立つ。屋根は入母屋造りの緑青のふいた銅板葺きである。

堂々とした楼門

その楼門左手前に手水舎がある。

手水舎

手前を左に入ると小さな鳥居が見えるが、境内末社を祀る一画である。

手水舎脇に摂社・末社参拝鳥居が

左手前より熊野社・祝詞社・津東西社と並ぶ。右手は須賀社である。

境内末社 末社・須賀社

そして正面には、境外摂社である坂戸社(祭神 天児屋根命・北に2km)と沼尾社(祭神 経津主大神・北に4km)を拝む遥拝所が設けられている。

摂社・坂戸社、沼尾社遥拝所

次に参道へ戻り左手を見ると、目の前というより人を圧するように楼門が迫り、その造りに圧倒される。

楼門を見上げる

その中央・高処には、香取神宮と同じ東郷平八郎元帥揮毫の扁額が掛かる。

東郷平八郎元帥揮毫

楼門を抜けると左手に社務所や神札授与所がならび、朝の準備をしている愛らしい巫女さんが見えた。

早朝の境内

そして、参道がまっすぐ奥へ奥へと続いているのが見える。19万坪におよぶ広大な境内を本堂までどこまで歩くのだろうと不安になる。

拝殿前から奥宮への参道を見る

参ったなと楼門を振り返ったところ、ちょうど当神宮の鹿島則良宮司が歩いておられた。これは何かの瑞兆か・・・

鹿島神宮宮司 鹿島則良氏
鹿島則良宮司

と思った瞬間、右手に鳥居と何やら構築物が・・・

参道右手に鳥居と構築物が

謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(下)

謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(上)
経津主神(フツヌシノカミ)と武甕槌神(タケミカヅチノカミ)=出雲で国譲りを成した二神の謎
春日大社をゆく=武甕槌神(タケミカヅチノカミ)・経津主神(フツヌシノカミ)に誘(イザナ)われ
武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を祀る鹿島神宮をゆく(上)
武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を祀る鹿島神宮をゆく(下)

総門から奥へ進むと、左手に壮麗な八脚楼門が聳え立っているのが見える。丹塗りも鮮やかな、色彩、造りとも見事のひと言に尽きる。

八脚楼門

扁額の揮毫は軍神・東郷平八郎元帥のもの。

東郷元帥揮毫の扁額

楼門前の広場に末社・諏訪神社がある。

末社・諏訪神社

その斜め対面に黄門桜がある。貞享元年(1684)に水戸光圀が参拝の折のお手植え桜の蘖(ヒコバエ)が成長したものである。

黄門桜

そして楼門をくぐり神宮中核部の拝殿へ向かうが、ここも修復中・・・無念である。

屋根の桧皮葺替工事中の社殿

お賽銭をあげ、拝殿内部をパチリ!

拝殿内

拝殿から本殿まで見事に覆われている。来年のお披露目を楽しみに待つしかない。

修理中です

それではと本殿左手へ回り込み、有名な三本杉を見学。根っこが三股に分かれていたとかで、真ん中の一本は既に朽ち果てている模様。

三本杉

その奥の摂社・匝瑳(ソウサ)神社を参拝。経津主神の両親である磐筒男神・磐筒女神を祭神とする。

摂社・匝瑳(ソウサ)神社

復び拝殿前へ戻り、社務所手前の祈祷殿へ向かう。

祈祷殿(旧拝殿)

旧拝殿であったというが、この造作の素晴らしさを見ると現役の拝殿はいかばかりかと思う。

祈祷殿

愚痴をこぼしても始まらぬと、もう一つのお目当の宝物館を見学することに。

宝物館入口

その真ん前にご神木があるが、高過ぎてテッペンまで映せない。

ご神木

それから館内へ・・・ここもまた・・・

海獣葡萄鏡・複製品

国宝・海獣葡萄鏡は東京国立博物館で開催中の“大神社展”に貸出中とのこと。

国宝・海獣葡萄鏡

写真は復刻品である。素人目にはりっぱに見えるのだが・・・。でも、後日、大神社展で見た本物は、より大きく、そして神々しく見えたことは紛れもない事実である。

ただ、それに劣らぬお宝がこの宝物館にはたくさんあった。しかも東京国立博物館の常設展示場と同様、写真撮影可というのがブロガーとしてはうれしい。

重文・“双龍文鏡”である。

重文・双龍文鏡

重文・“古瀬戸黄釉狛犬”である。

重文・古瀬戸黄釉狛犬

“源頼朝寄進状”である。

源頼朝寄進状

そしてこの日最も魅入られたのが、鎌倉末期作の“古面”であった。

大癋見(オオベシミ)面を見た時、肌は粟立ち、何者かに頭を押さえつけられたようで目を離すことができなかった。

大癋見(おおべしみ)面

姥面のどこか奥深い、でも、不気味な笑み・・・

姥面

獅子口面の威嚇・・・

獅子口面

得体の知れぬ桎梏を振り解くようにして足早に外へ出ると、春の陽光が目にまぶしい。

力比べに用いた”さし石”

出口の脇には、昔、氏子の男たちが力比べをした際に用いた”さし石”が置かれていた。

それから本殿右手へ回り込み、校倉造りの神庫を見る。

神庫・奥に香取文庫

その奥に当宮の古文書を収蔵する香取文庫がある。

香取文庫

そして、後生だと未練たらしく背後から社殿を眺めたが、流麗な三間社流れ造りの本殿はもちろん白い覆いの中にあり、目にすることは叶わなかった。

本殿修復中

裏手の北参道へ出る手前右に摂社・鹿島神宮がある。

摂社・鹿島神宮

斜め対面に末社・桜大刀自神社がある。

末社・桜大刀自神社

北参道を左にゆけば鹿苑があったのだが、もう足は棒のよう。目の前の”名代だんご”と看板を掲げる”寒香亭”で轟沈。

寒香亭

お昼抜きで歩いたので団子が殊の外おいしかった。

名代だんご

そして好人物の店主・香取さんに出会った。

店主の香取さん

お名前から分かる通り、代々の社家(シャケ)の血筋だそうで、色々と興味深いお話が伺えた。

そしてタクシーを呼んでいただき、真北に位置する津の宮へと向かう。車で6、7分の距離だが、歩くとなると相当ありそうだ。

土手下でタクシーに待っていただき、利根川の川べりに立つ。

津の宮

そこから見下ろす浜鳥居は想像以上に大きい。


浜鳥居

かつて海が湾入していた頃、経津主神は海路、この津の宮から上陸されたのだという。つまり、往昔はこの地が表参道口であった。

利根川から浜鳥居

その故事にならい式年神幸祭にはここから神輿を御座船に乗せ利根川を遡ってゆくという。

式年神幸祭の御座船

黄昏時の利根川に傾いてゆく太陽・・・。

利根川に傾く太陽

この景色を眺めていると、遠〜い昔、御座船に座乗された経津主神が岸辺へと近づいてくる光景が瞼に浮かんできた。

その悠久の浪漫を胸におさめ、JR鹿島線香取駅へとタクシーを走らせた。

JR香取駅

香取駅は無人駅であるが、神宮に似せた色調で統一された趣きある駅舎である。

この電車に乗りました

そして1時間に一本の電車に乗り、鹿島神宮駅へと向かった。

謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(上)

謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(下)
春日大社をゆく=武甕槌神(タケミカヅチノカミ)・経津主神(フツヌシノカミ)に誘(イザナ)われ
武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を祀る鹿島神宮をゆく(上)
武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を祀る鹿島神宮をゆく(下)


経津主神(フツヌシノカミ)と武甕槌神(タケミカヅチノカミ)=出雲で国譲りを成した二神の謎”で小難しい話をしたが、いよいよここからは神社巡りである。まず、香取神宮をご案内しよう。

東京から香取神宮へゆくもっとも便利な手段は高速バスの利用である。東京駅八重洲南口から出る東関東高速バス・麻生鉾田8番乗場)に乗って、わずか1時間10分で香取神宮の広い駐車場の前に着く。

八重洲南口高速バス8番乗場

停車場から“歓迎”の大看板が掲げられる参道口までは徒歩1分ほど。

バス停留所から参道入り口を見る

大きな看板をくぐり参道へ入ると、両側に土産物屋や蕎麦屋が10軒ほど並んでいる。

参道両脇には土産物屋や食事処が並ぶ

その門前通りを抜けると、正面に香取神宮と書かれた大きな石標が見える。

工事中の香取神宮二之鳥居

その奥に二之鳥居があるはず・・・え〜っ!!  なんと白い布ですっぽり覆われているではないか。そんな〜

来年の4月15・16日に行なわれる12年に一度の“式年神幸祭”にむけて修復作業中とのこと。 トホホ・・・
*’デー`)


それでもめげずに若葉のまぶしい参道に入ると境内にただよう空気は一変、清浄さを増し、身も心も清められてゆくように感じられたから不思議だ。

新緑萌える参道

先に護国神社と要石、それから奥宮を廻ってゆくことにした。

境内内から二之鳥居の姿が透けて見える

日差しの関係で境内からうっすらとシルエットが透けて見える二之鳥居を過ぎると左手に要石へつづく“要石道”がある。

参道左に奥宮・要石へ向かう要石道

飛び石がおかれた登り路は狭くて歩きづらいが、それは香取神宮が鎮座する標高40mほどの“亀甲山(カメガセヤマ)”へ登る径でもある。

護国神社への参道

途中で視界が開けた場所があり、先ほど歩いてきた門前通りの家並が見下ろせる。

亀甲(カメガセ)山より門前にならぶ土産屋を見下ろす

古代、この辺りから東は霞ヶ浦(霞ヶ浦市)、北西部は印旛沼(八千代、佐倉、成田市)、そして北部の手賀沼(我孫子、柏市)一帯へと深く内海が湾入し、その名を“香取海(カトリノウミ)”と称したというが、この高処に立つとそれが実感できる。


亀甲山の真下に海が迫り、やはり小高い台地に位置する鹿島神宮の地とは“安是(アゼ)の湖”を挟み一衣帯水(13km)の互いに視認できる状況にあった。


太平洋から海路、下総・常陸など東国の地に分け入る要衝の地に、国家鎮護の武神が睨みを利かせていたことになる。

護国神社・要石へ向かう石段

さて最後の石段を上り詰めると、突然、平坦な広場が開ける。

護国神社・左奥に要石

護国神社は亀甲山中腹の静謐の地に鎮まる。

護国神社

その小さな祠の左手奥にパワースポットとしても有名な“要石(カナメイシ)”がある(「香取神宮・パワースポットの凸型“要石”」を参照)。

要石駒札

地上に顕れた部分は何の変哲もない小さな凸石だが、根っこがどこかも分からぬ巨石だという。

要石

鹿島神宮の凹型の要石と地中で繋がっているとの伝承が残る。

鹿島神宮の凹形の要石
鹿島神宮の凹形要石

正面には末社・押手神社がある。

末社・押手神社

そこから経津主神の荒魂(アラミタマ)を御祭神とする奥宮へ向かうのだが、どうも門前のお店の裏側へ逆戻りしている気がする。イヤハヤ・・・ (*´Д`)

左手前:長威斎の墓、正面:奥宮

辿り着いた奥宮は霊気一杯!!(「パワースポット 香取神宮・奥宮には一閃の光芒が差す」を参照)

奥宮の石標と鳥居

香取神宮へ参拝する際には、ぜひ、こちらへの参詣も薦めたい。あなたの何かが変わる・・・

神秘的な奥宮

それから、再度、緩やかに曲がる参道へと戻った。新緑からこぼれる春の光が心地よい。

三之鳥居へ向かう参道

参道が開けた先に堂々たる石造りの三之鳥居が聳え立つ。

三之鳥居

その奥の階段上に丹塗りの総門がまるで地上界を睥睨するかのように威容を誇る。

総門

階段両脇に厳めしい阿吽の狛犬が坐る。

吽形の狛犬   阿形の狛犬

そして重文・総門に近づくにつれその壮麗さに圧倒されることになる。

総門アップ

総門をくぐると正面に手水舎。

手水舎

次に手水舎をいったん左に折れ、一段上がった場所にある境内末社の一群を参拝する。左が市神社・天降神社、右が馬場殿神社である。

左:末社天降・市神社 右:末社馬場殿神社

そこで踵を返して右手に総門を見る。

手水舎より総門と三之鳥居を

まるで総門を額縁にして三之鳥居が納まるようで総門の大きさがさらに実感される瞬間である。

丹後國風土記の世界に游ぶ=天橋立

2013年の最初の旅は、かつて天橋立を参道としていた籠(この)神社を訪ねることでスタートした。



籠神社
籠(この)神社

大寒直後の1月22日の早朝、東京駅から新幹線に乗り、一路、京都府・宮津を目指した。途中京都駅で家内の親しい友人と京都で大学教授として心豊かな第二の人生を送っておられるご主人のお二人と合流、賑やかな天橋立への道行きとなった。

  
京都駅31番線ホームで待合せ、特急”はしだて”に乗りました

さて、丹後國風土記は『奈具社』『天椅立』『浦嶋子』というわずか三つの逸文が残されているのみである。


丹後國は和同6年(713)4月、丹波國から加佐・與佐・丹波・竹野・熊野の5つの郡を割って成立した。


そのひと月後の5月、元明天皇によって、『1・畿内七道諸国の郡郷の名は好き字をつけよ』、『2・其の郡内に生ずる銀・銅・彩色草木禽獣魚虫等の色目を記録せよ』、『3・土地の沃塉(よくせん=肥沃か瘠せているか)、山川原野の名が名づけられた由来』、『4・古老が伝える古い伝承、珍しい話』を言上せよとの『風土記』撰進の詔が発せられた。


そして、出来たてホヤホヤの丹後國から報告されたもののうち、『地名の由来(3)』にも言及した『古老の相伝する旧聞異事(4)』に関わる前述の三つの逸文が現在に至るまで残っていることになる。


その一つが『天椅立』であり、今を去る1300年前に以下の如く記述されている。



傘松公園より”斜め一文字”
傘松公園より天橋立・手前の森が籠神社で府中側、海の向こう側が文殊側

「丹後の国の風土記に曰く、与謝の郡。郡家の東北の隅の方に速石(はやし)の里あり。此の里の海に長く大きなる前(さき)あり。長さは1,229杖(3.64km)、広さは或る所は9丈(26.6m)以下、或る所は10丈(29.6m)以上、20丈(59.3m)以下なり。先を天の椅立(はしだて)と名づけ、後(しり)を久志(くし)の浜と名づく。然云ふは、国生みましし大神、伊奘諾尊、天に通ひ行でまさむとして、椅を作り立てたまひき。故、天の椅立と云ひき。神の御寝(みね)ませる間に仆(たふ)れ伏しき。仍ち久志備(くしび)ます(霊異のはたらきをする意)ことをあやしみたまひき。故、久志備の浜と云ひき。此を中間(なかつよ)に久志と云へり。此より東の海を与謝の海(現在の宮津湾)と云ひ、西の海を阿蘇の海(現在も同名・内海)と云ふ。是の二面(ふたおもて)の海に、雑(くさぐさ)の魚貝等住めり。但、蛤(うむぎ)は乏少(すくな)し。」


風土記編纂の時代の度量衡は“和同の制”によるが、その単位でメートル法に換算すると、1丈は10大尺(1大尺=曲尺0.978尺)、つまり2.96mとなる。つまり風土記内に記述されている天橋立の長さは3.64km、幅は26.6m以下或いは29.6mから59.3mとなる。


そこで1300年後の天橋立の姿はどうかということだが、現在、その長さは3.6km、幅は20170mと表示されており(天橋立観光協会HP)、長さは風土記の時代と同じ、幅が3倍ほどに広がった個所があるということになる。

雪舟観より与謝の海と天橋立
雪舟観:雪舟が天橋立を描いた場所(宮津湾東)から見た天橋立・手前が宮津湾

また風土記にいう橋立の基部を指した“久志の浜”は、現代では天橋立の先端部、つまり風土記とは反対側の、廻旋橋の方の文殊水道側の浜の呼び名となっている。


伊勢神宮外宮の祭神・豊受大神(天女)が舞い降りた地上界の地とされる“真名井原”こそが、“久志備(くしび)ます”処であるはずであり、天橋立の基部、即ち現在の籠神社・真名井神社があるあたりを久志の浜と名づけた風土記が理に適ったものといえ、なぜ、後世にその呼び名が反対側に転遷したのかは定かでない。


そして天橋立は伊奘諾尊が天に通った梯子が倒れたわけだが、どう倒れたかという、まことに瑣末なことだが・・・(『細かいことが気になるのが、私のイケナイ癖・・・』、杉下右京じゃぁ、あるまいし・・・)。


天女(豊宇賀能賣命=豊受大神)が降臨されたのが、真名井神社・籠神社のある真名井原ということになるので、籠神社側すなわち府中側に梯子の基部があったことになる。


だから梯子は宮津湾を分割するように府中側から文殊側に南方向に仆(たお)れたということになる。


のちに真名井原に籠神社が創建されて、海中に伸びる天橋立がその参道となったが、参拝客は梯子の上部から下へ向かって歩いていっていることになる。どうでもよい話ではある。


さて、われわれ4人は其の日、宮津湾沖に停泊する貨物船から沖採りする日本冶金所有の艀(はしけ)が阿蘇海とのピストン輸送を繰り返すという天運に恵まれ、廻旋橋の開閉を飽くことなく何度も見ることができた。日頃のわが身の行ないの良さ?いや、伊奘諾尊、火明命のご加護であろうと、感謝した次第である。



廻旋橋が開き、バージが通る
廻旋橋が開き、艀が通ります。橋上の赤い傘の人は開閉を指示する人で観光客ではありません
  
廻旋橋上より東側に文殊水道を見る・廻旋橋を渡る知人ご夫妻

橋立に赴く前に、智恩寺に参拝したあと、文殊水道(天橋立運河)に架かる廻旋橋(小天橋)を渡り、まずは小橋立エリアへ上陸。 

  
智恩寺山門と智恵の輪燈籠
  
小橋立に建つ昭和天皇御幸の歌碑(左)、日本三景の石碑(右)

そしてすぐの大天橋を渡るとそこが大橋立、いわゆる天橋立である。小雨が時折ぱらつく大寒の頃とて、天橋立に人影は見えず、森閑としている。

  
この大天橋を渡ると、上の大橋立エリア、いわゆr天橋立の松並木となる

およそ8000本もの松の茂る大天橋の松並木の一本道をたった4人で贅沢にもゆったりと散策した。松並木の道がひっそりととおく続くのみである。

天橋立松並木
当日は人影も見えぬ天橋立の松並木

/3ほどいったあたりに、天橋立神社がある。



  
天橋立神社・神社東側に松並木が府中へと続く

その西側に両岸が海に囲まれているにも拘わらず、塩気のない真水が湧くという不思議な“磯清水”がある。



  
左が天橋立神社、右奥に見えるのが磯清水・磯清水の真水が流れています

磯清水

さらに、岩見重太郎の仇討ちの場所や試し切りしたといわれる石が神社の東側にある。 

岩見重太郎仇討ちの場 
左:岩見重太郎仇討の場の石碑 右:試し切りの石だそうです・・・

その当りでちょっと松林を東に抜けて見る。白砂の浜辺へ出る。誰もいない浜辺に4人の声だけが響く。その声が渡る先に宮津湾(与謝の海)が拡がっていた。宮津の地名は籠神社をむかし吉佐の宮(天照大神が伊勢へ遷る前、4年間当地に遷座)と呼んでいたので、宮の湊というので、その名がついたと云われる。 

誰もいない浜辺と与謝の海
誰もいない白砂青松と与謝の海(宮津湾)

また、今度は取って返して西側へ松林を抜ける。すると、そこには冬の薄日がこぼれキラキラときらめく穏やかな阿蘇の海があった。その様はあたかも水面に薄絹の羽衣がひらひらと舞い落ちてきたようにも見えた。




阿蘇海

そこには古代人の息遣いが聴こえるようで、そのゆったりとした平安な時の流れに全身が抱きすくめられたような奇妙な気分にとらわれた。



  
神さびた苔蒸す松の古木・だれもいない天橋立

そして真名井原に舞い降りた天女、豊受大神を想い、往古、神が通った道の土の感触を味わうかのようにしずかに歩をすすめた。

香嵐渓(こうらんけい)、4000本の紅葉、まだ見頃

11月21、22日に愛知県の中央部東北寄りにある足助(あすけ)町・香嵐渓(こうらんけい)を訪ねた。


飯盛山、巴川下流を

足助町はかつて、岡崎や名古屋から信州へ向かう中継地として栄えた。藍や魚、塩などを岡崎街道や巴川(矢作川)、伊奈街道(別名、中馬街道、飯田街道)を利用し信州へ運び込んだという。


そのため足助町には旅籠や置屋がたくさん軒を連ね、賑わいを見せていたが、時代の趨勢とともに衰退した。しかし、今日現在、足助のその古い街並みは汲々とした日常にくたびれた現代人の心をいやす場所として、巴川沿いの名勝、香嵐渓の紅葉を観賞する処として脚光を浴びている。


足助町の紹介は別稿に譲るとして、本稿においてはここ数日が見頃である香嵐渓4000本の紅葉について語ることにする。


21日の9時過ぎに車で東京を発ったわたしたちは、途中、駒ヶ岳SAで昼食をとり、鋭意、香嵐渓を目指したが、東海環状自動車道の藤岡ICを降り、国道153号線へ入ると大渋滞に巻き込まれ、当日の宿、待月橋(たいげつばし)袂の“香嵐亭”に辿り着いたのは陽のとっぷりと落ちた5時半過ぎであった。

国道135号線大渋滞
大変な渋滞でした

宿の女将の“食事を早々にとり、ゆっくりと紅葉のライトアップを愉しむべし”との適切なアドバイス通りに、午後7時過ぎには待月橋の雑踏のなかに入り込むことができた。

部屋からライトアップされた紅葉と待月橋
香嵐亭の部屋から待月(たいげつ)橋とライトアップされた黄葉を

飯盛山全山にライトアップがほどこされ、ライトの加減で黄色く見える夜の黄葉をそれこそ豪勢に堪能した。

巴川沿いにライトアップされた紅葉
巴川沿いにライトアップされた黄葉

途中、足助屋敷の辺りの飲食店では、多くの観光客、地元民が入り混じり、“花より団子”に興じていたのには、日本人の花好きも花が好きなのか、花の下での宴会が目的なのかと、微笑ましくも見えたものである。


紅葉よりも団子?

こちらは食事後ということで、香ばしい団子の匂いに微塵も動じることなく、ただ一心に黄葉の美しさに、目の保養をさせていた。

闇に浮かぶ黄葉
ライトアップされた楓が見事です

平日というのに家族連れや若いカップルで香嵐渓の散策道は人影をなくすことはなかった。

黄葉のなかに月
黄葉のなかに月と、洒落こんでみました・・・

そしてそこかしこで自慢の一眼レフやスマフォでパチパチと自称プロカメラマンやにわかカメラマンが活躍していた。

紅葉に構えるカメラマン
カメラマンは大忙し

その日はニ時間ほど夜の紅葉の競演を愉しみ、宿へ戻った。


翌朝は雲がうすく空を覆っていたが、天気である。


部屋からの待月橋や飯盛山の写真である。

香嵐亭の部屋から

香嵐渓は飯盛山の西側斜面に当るため、朝陽より西陽が美しいのだと家内が云った。なるほどそうである。朝陽の蔭に当るため、せっかくの紅葉に精気が見られぬようで、もったいない。


朝食後、すぐに、紅葉狩りへと出立した。 

待月橋より巴川上流を
待月橋から巴川上流を
有名な五色紅葉
待月橋を渡った先に有名な五色の紅葉があります

まずは観光客が繰り出さぬうちに、飯盛山の中腹にある香積寺へ向かった。江戸初期(1634年)、当寺の11世参栄禅師が楓や桜を香積寺参道沿いに植栽したのが、紅葉の名勝、香嵐渓の嚆矢とされる。

香積寺本堂
香積寺本堂

その香積寺の紅葉はその山門や本堂の甍と相和し、秋の風情を一幅の絵画のようにして思う存分楽しませてくれた。

境内から山門出口を
境内から山門を
参道から本堂への階段を
本堂へ階段をのぼる
本堂境内から山門を

また、寺の奥を登ったところに十六羅漢像や橙の住職の墓石が並ぶが、その高みからの景観は、さらに絶景であった。

香積寺の本堂上、十六羅漢石像から

そこに眠る参栄和尚もさぞかし鼻高々であろうなと思った。

香嵐渓の開祖、参栄禅師のお墓
第11世参栄禅師のお墓

寺を降り、足助屋敷前の広場に至ると猿回しの芸が披露されていたが、既に観光客の人垣でいっぱいである。


こうした演し物には日頃からどちらかというと冷淡であったのだが、隙間からちょっとだけ覗き見ようと思ったものが、“タケオ君(猿)”の表情や仕草がまことに愛らしく、結局、最後まで見てしまった。

紅葉と”タケオ君”の妙技
紅葉を背景に”タケオ君”、絶妙なバランス

大道芸、おそるべし!!である。


キャッキャッ云ってるわたしを横目で見て、家内は“花よりお猿さんなの”なんて冷やかしておりましたな。

紅葉と茅葺
紅葉と茅葺の家です

何を言ってる! 自分も結構、愉しんでいたくせに・・・。だから“とかく女は五月蠅いものだ”と言われるのだ!


そんなこんなで香嵐渓をとことん歩きつくし駐車場へと向かう際、地図と方向感覚にめっぽう強い家内が“巴橋を渡って行きましょう”と云う。


巴橋がどこやら知らぬ、既に疲労困憊のわたしは“うん”と頷き、抵抗の余力もなくトボトボと家内の背中をただ見つめながら歩いて行った。


気づくと橋の途中でオイデ!オイデ!をしているではないか。くたびれた左足を引き摺りながら欄干に手を置き、飯盛山を眺めると・・・

山も川も紅葉

あぁ〜!!


巴川河原と待月橋を望む

陽光を浴びた紅葉、黄葉が見事にわたしの目を射抜いた。

十二単を色鮮やかに纏う飯盛山

やはり自然の光があってこその紅葉と感じ入った次第である。


巴川に映る紅葉の揺らぐ色彩もまた見事であった。

紅葉に酔う観光客

まだ山中の楓は緑色である。香嵐亭の女将が云っておられたが、“表面の楓が落葉すれば中の楓が紅葉する”と。

五色紅葉
待月橋を渡ると五色の楓が・・・

4000本の香嵐渓の楓。その盛りは今週末くらいまでは続きそうである。ぜひ、足を運ばれ、紅葉狩りに興じてみられてはいかが。

2012年紅葉情報・榛名湖の紅葉の見頃は過ぎた〜(11月8日)

四万温泉から伊香保温泉へ向かう途中、榛名富士へ登り、榛名湖畔を巡った。

榛名富士
榛名富士

水面標高1084mの榛名湖の紅葉は既に盛りを過ぎていたが、ところどころにまだ紅葉の名残りを見ることができた。

一部にまだ遅ればせの黄葉が
遅ればせの紅葉は空の青さを味方につけ皆の注目を浴びる

カメラアングルによっては今を盛りの榛名湖畔の紅葉の写真が撮れた。 

紅葉も残りわずか

榛名富士の山腹はもう落葉して茶褐色の山肌を見ることになった。もう一、ニ週間早ければ、もみじ越しに湖畔から見る榛名富士の紅葉はさぞかし見事であったろうと思われた。

湖畔の黄葉は残っています

ただ、落葉した湖畔の木々のバックに端然とたたずむ榛名富士の容姿はそれはまたこれで、美しい。

終わっています

ロープーウェーで榛名富士の頂上へ登ったが、ここからは遠くに富士山が見える絶好の天気であったが、山の紅葉は終了していた。

榛名富士山頂より
榛名富士頂上より

湖畔を巡る人影も少なかったが、アマチュアカメラマンだけはわずかに残る紅葉を追いかけ、榛名湖や榛名富士を背景にのせ、シャッターを切るのに余念がない。

榛名富士の紅葉は終わりました

もちろん、かく言うわたしもその一人であった。

2012年紅葉情報・四万温泉の紅葉はもう終盤、お早目に

奥四万湖の神秘的な青色
奥四万湖の神秘の青色

11月7日、当日の宿泊場所である四万温泉から車で10分ほどにある奥四万湖へと紅葉狩りへ向かった。


ネット情報でもう紅葉の盛りが過ぎようとしているとあったので、四万温泉の町並みを散策するのは後回しにして、一秒でも陽の高いうちにと気が急いたのである。

全山紅葉
盛りを過ぎつつある山の紅葉

四万川ダムにせき止められた奥四万湖へ到着したのは、午後150分頃。晩秋の陽は西の空へともう傾きかけていた。

紅葉と赤沢橋
まだ間に合いました・・・、この紅は最高でした

一周4kmの奥四万湖を巡り、ところどころで車を止めながらの紅葉狩りである。

ダムと紅葉
四万川ダムと紅葉

陽射しの向きや陽の陰りによって奥四万湖の紅葉は時に鮮やかに、時に晩秋の翳りを帯びて、わたしたちの目を愉しませてくれた。

展望台より赤沢橋を望む
展望台より赤沢橋を望む

この紅葉が落ちつくすと、四万温泉の町に足早に冬がやってくる。

奥四万湖と全山紅葉の息を呑むコントラスト
奥四万湖の青と紅葉の息をのむコントラスト

その厳しい冬の到来前に見せる刹那の自然の造形美がここ奥四万の湖にあった。

赤沢橋より紅葉と四万川ダム

磐梯高原の五色沼の神秘的な湖面(2010年、裏磐梯・五色沼の紅葉を愛でる)の色とも重なる水面のたとえようのない青色と全山を彩る紅葉の色調との競演は息を呑まずにはいられない。

四万川ダムと紅葉
四万川ダムと紅葉
秘境四万温泉のなお奥津方、ひっそりと光と色の饗宴が繰り広げる自然の様(さま)を心ゆくまで愉しんだ晩秋のひと時であった。

2012年紅葉情報・伊香保温泉の紅葉、今しばらくが見ごろ

伊香保温泉の紅葉観賞のメッカ、河鹿(かじか)橋の紅葉が、いま、最高の見頃です。

河鹿橋の紅葉
河鹿橋の紅葉(2012.11.9)

河鹿橋の周囲には次から次に観光客が訪れ、紅色、黄色、黄檗(おうばく)色、黄緑色と自然が織りなす彩りのグラデーションに“わぁ〜、きれい”、“あぁ〜、すてき”と歓声ともため息ともつかぬ声がそこここにあがっていました。

河鹿橋に雪崩れる紅葉
河鹿橋に雪崩れる紅葉

そして、もう装備はプロと云ってよいでしょう、カメラマンが三脚を据えて、雲間から覗く陽射しに合わせシャッターを切っていました。

河鹿橋で紅葉を愉しむ観光客
河鹿橋の上で紅葉を楽しむ観光客

河鹿橋近くまで車でゆくのも可能ではありますが、この時期はいつも駐車場が満車で、当日も多くの人が紅葉を見ずして無念のUターンをしていました。


車の場合は伊香保名物の階段下にある市営駐車場(狭い)かそのすぐ近くの徳富蘆花記念文学館駐車場(広い・2時間無料)に止めて、歩いてゆくのが結局、一番の近道のような気がします。


階段下から河鹿橋まで直行するとすれば、急いで20分弱、足の悪いわたしでも30分強で到着できます。


もちろんわたしどもは、途中で射的のお店を覗いたり“湯乃花饅頭”を買い求めたり、薬師堂や伊香保神社でしっかりとお参りしたり、それから立ち止ってはパチリと写真撮影をしながらのゆったりとした階段散策を楽しみながらの登攀(とうはん)でしたので、午前10時半に階段を昇り出して、河鹿橋の見事な紅葉を目にしたのは1120分となりました。

秋空に映える紅葉
秋空に紅葉が映えます

いま、最高の見頃です。

河鹿橋上空
河鹿橋上空です・・・

ぜひ、秋の陽射しとモミジが織りなす色彩の饗宴を、伊香保温泉の河鹿橋で愉しまれてはいかがでしょうか。


お時間がない方は、わたしの拙い写真で、少しはその雰囲気を愉しんでもらえたらと思います。

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