彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

2016年・全国の紅葉狩り色とりどり(来年の紅葉狩りの参考に)

2016年も残すところあと二週間ほど。

6・若松寺(じゃくしょうじ)の紅葉
若松寺(じゃくしょうじ)の紅葉(山形県天童市)
2016年は熊本大地震や東北初という台風上陸といった天変地異やEU各国で勃発したISISによる無差別テロ、英国のEU離脱、押し寄せる難民問題など国内外で自然災害や大事件、難しい人道問題など環境問題も含め内外情勢は混迷の極みといってよい。

 

こうした色とりどりの頭が痛くなるような問題はのちに譲るとして、ここではゆるりと日本各地の紅葉の色とりどりを振り返ってみたい。いつも息苦しくなるような話ばかりでは気も萎えるし、人生楽しくない。

 

季節感がずれてきたような昨今の気象であるが、それゆえに来年の紅葉鑑賞の一助となるよう、今年、わたしが巡った各地のその時々の紅葉状況をここに記録しておこう。この二か月にわたる色とりどりの写真を振り返ってみて、季節の移ろいも土地々々でこんなに違いがあるんだ、この国は意外と広いもんだと実感した。

 

陰惨で悲惨で理不尽な事件や自然災害が多すぎる猿年だったが、こうした各地の紅葉の色とりどりはまたある一面、自然の限りない慈しみや恩恵にわれわれは抱かれて生きているのだ、大きな自然の営みと比べれば人間の存在なんてほんとに小さなものなのだと、改めて思わざるを得ない。

 

我が家の2016年の紅葉狩りの始まりは、信州の白駒の池である。ここは標高2100mにある湖のため紅葉は同じ信州といっても他所より二週間ほど早いのが常である。


例年、10月の三連休ではタイミングが遅くなり、湖畔の紅葉はほぼ終わりといった状態であった。そこで、今年は少し早めの10月4日に訪れたが、今年は逆にあと数日ほどあと、まさに三連休のあたりがどうもピーク(ブログ記事・2016年の白駒池(しらこまいけ)の紅葉は10月8日から10日の3連休が見ごろ
)であったようで、世の中、そううまくいかないものだと知らされたトホホの紅葉狩りのスタートであった。

白駒池の紅葉
10月4日の白駒池の紅葉(長野県南佐久郡)
その日、白駒池からメルヘン街道(国道299号)を下り、湯みち街道(県道191号)へ入り、標高1500mにある御射鹿池に立ち寄った。その時、撮影したのが次なる写真である。

御射鹿池の紅葉未だし
色づき始めた御射鹿池(長野県茅野市)
標高差600mというのはやはりこれだけの色づきの違いがある、自然は正直だともろもろ感じ入った秋の一日であった。

 

次に日本列島でも有数の東北の紅葉である。時期がドンピシャといかぬのが紅葉狩りと春のお花見。その日はいつとヤキモキする気持ちやついに盛りに出逢えた時の感動が日本人の心の琴線を微妙につま弾くのだろうか、その感動を求めて衝動的にみちのくの旅へと向かった今年。


まずは、松尾芭蕉の「閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声」の句であまりにも有名な立石寺・山寺(山形市)。標高350mほどにある仁王門の10月30日の紅葉です。

3・紅葉の中に立石寺・仁王門
立石寺・仁王門と紅葉(山形県山形市)
標高400m余の立石寺・奥の院の少し下にある開山堂から見た修行の岩場・釈迦が峰の景色。

30 開山堂から紅葉の立石寺
山寺の雰囲気を満喫した秋の景観(山形市)
次が翌日の朝に訪れた天童市の若松寺(じゃくしょうじ)の境内の黄葉です。

31 天童市若松寺の観音さまと黄葉
10月31日、若松寺の観音様と紅葉(山形県天童市)
10月31日の若松寺になります。地元でもなかなか見られない月山が鐘楼前の高台から見えて儲けものだとタクシーの運転手さんが言っておりましたので、一枚どうぞ。

若松寺から月山を拝す
若松寺鐘楼前から遠くに月山が見えた(天童市)
その日、天童駅から山形新幹線に乗り、郡山で磐越西線に乗車。途中、猪苗代駅で下車、猪苗代湖と湖畔に建つ有栖川宮の別邸であった天鏡閣と庭園(福島県猪苗代町)を見学。その時の天鏡閣の紅葉です。

31 天鏡閣煉瓦門から邸内紅葉を見る
天鏡閣入り口の紅葉はみごと!(福島県猪苗代町)
10月31日の状況ですが、日当たりの関係で早いやつはすでに落葉していましたが、盛りのものもあるといったまだら模様でした。

31 天鏡閣庭の紅葉
10月31日の天鏡閣の色づく庭園
次は翌朝の11月1日、会津の東山温泉の旅館・向瀧(会津若松市)の百合の間から中庭に色づく楓を撮ったものです。

1 百合の間から向瀧旅館と中庭の紅葉
11月1日 百合の間から中庭と向瀧の連なる棟を見る(福島県会津若松市)
向瀧の建物自体が国の文化庁・登録有形文化財第一号に指定され、各部屋も文化財という趣のある旅館でした。30数年ぶりの再訪でしたが、当時はこうした中庭の風情や伝統建築に興味を覚えた記憶はなく、年齢を重ねるのも一概に悪くはないなと感じたところでした。

1百合の間から
向瀧・百合の間から11月1日の紅葉
東北の旅の最終日(11月1日)はまず鶴ヶ城(会津若松市)へ向かいましたが、雨模様に色づく堀を芸術的に撮ってみました。

1 鶴ヶ城お堀の紅葉
11月1日の色づく鶴ヶ城のお堀
次は雨が降りだした城内を天守閣から空撮?しました。

1 鶴ヶ城天守閣から城内の紅葉を見る
天守閣から雨に煙る城内の紅葉をみる

帰京後、家内が仲間と箱根、11月16日に河口湖へ一泊旅行で楽しんだ紅葉の景色です。
八王子甲州街道多摩御陵手前
甲州街道・八王子の多摩御陵前の銀杏並木(2016.11.16)
箱根早雲山からの紅葉
早雲山から箱根の山の紅葉だそうです(2016.11.16)

次は11月20日の東京・昭和記念公園の紅葉です。

20 昭和記念公園 秋の景色
夕闇迫る昭和記念公園、木々の色づきが美しい(東京立川市)
秋の黄昏の風情がただよう素敵な写真になっていませんか。次は園内にある日本庭園の紅葉です。外人も多く訪れるすごい人出でした。

20 昭和記念公園 日本庭園の色づき
昭和記念公園日本庭園の紅葉(立川市)

その翌日に家内の実家の高松へ向かいました。11月22日の四国の屋島(高松市)の紅葉です。復元された日本書紀に出てくる屋島城(やしまのき)の見学に行った際に撮りました。

22 屋島南嶺に紅葉
11月22日 紅葉と屋島(香川県高松市)
屋島寺の手前にある血の池に色づく紅葉です。昔、源平屋島の合戦で武士たちが刀の血をぬぐった池だと伝わっています。

22 紅葉を散らす屋島血の池
屋島寺 血の池を赤く染める紅葉(高松市)

11月25日、岡山県にわたり古代山城・鬼の城(きのじょう・総社市)を見学。

26 鬼ノ城と紅葉
展望台から鬼ノ城と紅葉を(岡山県総社市)
1400年前の景観だとロマンを掻き立てられた秋の景色です。

26 高石垣から屏風折れ石垣と東門など鬼の城全貌
遠くに屏風折れ石垣、山腹が色づく(総社市)
屏風折れ石垣と下のほうに鬼の城の東門を見る絶景のなかに色づく木々が見えます。

そして、鬼の城約5kmを巡る山行の最後に出逢った鬼城山(きじょうさん)山頂に立つ楓が一本、とても印象的でした。

00・鬼城山頂上の紅葉
楓の下には真っ赤な落ち葉が・・・(総社市)

12月1日の名古屋市の熱田神宮を参拝。本宮の千木の向こうに黄葉が見えます。

1 熱田神宮本宮と黄葉
12月1日 熱田神宮本宮の千木と黄葉(愛知県名古屋市)
境内に色づく楓です。太陽の光があればもっときれいだったのですが。

1 熱田神宮境内の紅葉
熱田神宮境内の紅葉 晴れていれば渾身の一枚のはず

以上、2016年の紅葉狩りの総括をしてみましたが、やはり異常気象の影響でしょうか、楓の葉っぱが日に焼けていて、全国的にみずみずしさに欠けている印象であったのは残念です。日本らしい紅葉はやはり温暖で湿潤な気候に恵まれた年に目にすることができるのだと感じたところです。

 

来年の紅葉狩りの計画を立てる際の目安として、今年の日付と各地の紅葉具合が参考になればと思いアップしました。来年こそ世相も気候も穏やかで心休まる年であってほしいと願って紅葉レポートを終わります。



「彦左の正眼」も“ディー・エヌ・エー(DeNA)”の被害者であった

直近の127日、株式会社ディー・エヌ・エー(DNA)の南場智子取締役会長と守安功代表取締役社長兼CEOによるキュレーションプラットホーム事業にかかわる謝罪会見があった。薬事法違反に問われるような医療情報のキュレーションサイト・「WELQ(ウェルク)」が中心であったが、DeNAが運営する他の9つのキュレーションサイトも同時に閉鎖するというものであった。

 

この「彦左の正眼」も「FIND TRAVEL」という読者から投稿してもらい旅行に関する記事を仕上げると謳ったキュレーションサイトに写真の無断使用をされ続けた。

 

ブログの管理画面に半年ほど前からあるリンク先から入場する読者が増えた。FIND TRAVELというサイトである。その旅行のキュレーションサイトに、例えば「ビーナスラインはCMに登場するほど素敵なドライブルート。絶景を見ながらアルプスを駆け抜けろ!」という記事がある。そこに私の写真が使用されていた。写真の下に申し訳程度にhttp://findtravel.jp/article/4886とリンク先を貼っている。このURLから飛んできた人自体には何の問題はないのだが、短期間に数がどんどん増えていったのである。サイトを調べるとわたしの写真が幾枚も無断で使用されていたのがわかった。

 

そして、この記事を作成したFIND TRAVELの契約記者だか編集者は、オリジナルな写真はほとんどないのではないか、写真の下にURLがペロッと貼り付けてあるだけで私同様に使用許諾をとらずに勝手に盗用しているものと見受けられた。

霧ヶ峰
盗用された写真(蓼科・ビーナスライン)の一例
わたしの盗用された写真使用の記事をみれば、他人様の写真を無断盗用してあたかもその美しい景色を見たかのようにねつ造したと勘繰らざるを得ない記事内容なのである。ほんとうに胸糞が悪くなる話である。因みに、ここで盗用されたブログ記事は「14年8月上旬、霧ヶ峰高原・八島ヶ原湿原の植物図鑑--- その1」である。

 

こうした盗用はわたしのブログから分かったところで15件におよんでいる。そこで、2016925日に下記メールにて抗議を行なった。

 

FindTravel運営事務局御中

 

写真盗用につき抗議および削除要請の件

 Livedoor blog「彦左の正眼」の運営管理者の彦左衛門と申します。

御社が運営されているこの「Find Tavel」なるサイトで最近、当方のブログより無断で写真を盗用され、御社の言う”当社コンテンツ”なる掲載記事のなかに多数、使用されています。

わたしが御社のサイトに投稿したことも一切ありませんし、御社から使用許諾の申し出を受けたことも一切ありません。当方の写真は現地に私自らうかがい撮影をしたものですし、仏像など絵葉書をスキャンし使用したものも先方の社寺に営利目的でなければよいとの確認をとり掲載しています。

 

御社の知的財産権の要綱も読ませていただいていますが、そうした権利について知悉しながらの、こうした無断盗用については厳重に抗議します。最近、その盗用が加速しているようにも見受けられ、当方が把握しているもので当日現在で下記13件にのぼります。早急に削除を求めます。

                 記

  1. 白樺湖・蓼科・車山エリアを訪れるならぜひ!おすすめグルメスポット7選 「3.しもさか」

  2. ビーナスラインはCMに登場するほど素敵なドライブルート。絶景を見ながらアルプスを駆け抜けろ! 「4.霧ケ峰高原」

  3. 新橋で美味しい日本酒が飲めるお店20選 「6.新橋美の」

  4. 京都の超絶品モーニング33選。一度は行きたい朝食はここ! 「4.カフェレストランやよい(京都市東山区)」

  5. 対馬のホテル、宿坊、山荘など、1度は泊まりたい人気のお宿15選 「1.対馬グランドホテル」

  6. 【京都】ブラタモリでも紹介された豊臣秀吉ゆかりの「御土居」を歩く! 「1.御土居とは?」

  7. 銀山温泉の人気旅館まとめ。レトロな街並みで人気です! 「11.伝統の宿 古山閣」

  8. 奈良井宿でおいしい蕎麦を食べよう!風情ある街のオススメ店まとめ 「5.こころ音」

  9. 保津川下りは京都府亀岡市でできる歴史あるアクティビティ。スリルと絶景を満喫! 「保津川下りとは」

  10. 日本の絶景110選。全都道府県制覇の私が教えます! 「50.明野のひまわり畑」。これなど、全国制覇をされているのですから、自社なり記者自身の写真をしようすべきだと思いますよ。

  11. 佐渡島の人気観光スポットベスト30。日本最大の離島でトキに会う! 「4.トキの森公園」

  12. 愛媛の古民家に宿泊して風情を感じたい♪愛媛の古民家の宿紹介します!! 「5.松屋旅館」

  13. 買い物しながらお昼も美味しく!立川の人気なランチ32選 「13.蕎麦懐石 無庵【曙町】」

 

以上ですが、これはあくまで今までに確認できたものですので、今後、こうしたことのないよう御社で調査の上、削除を要請します。

いうまでもないことですが、写真については撮影者の思い入れ、旅の記念といった様々な気持ちがこもったものだと考えています。そうしたまさに心の財産を無断で勝手に盗用されることは、その思いを踏みにじられるようなものだと感じています。

早急な対応を要請します。ちなみに、当ブログの写真利用について某週刊誌や某神社などはちゃんと当ブログのコメント欄にて使用許諾の可否につき問い合わせをしてくるなど、知的財産権につき適切な対応をとられています。以上」

 

この抗議時点では13件であったが、その後新たに2件の盗用が判明。

 

この抗議メールに対してDeNAFIND TRAVEL)からは11日後の2016106日付で以下の返信が来た。

 

「彦左衛門

このたびはFindTravel内の記事に関し、ご連絡をいただきありがとうございます。FindTravelは、自由に記事を作成・投稿できる「キュレーションプラットフォーム」となっております。

 

それぞれの記事の著者へ確認に時間がかかりましてご連絡が遅くなりましたこと大変申し訳ございません。

 

今回貴サイトの画像がご意思に反して利用されていたとお申し出いただいた件に関しまして著者に対してはこの旨を共有、連絡という形で注意を行い、利用規約に従い、該当箇所を削除する依頼をしております。

 

現在いまだ削除されていない記事は、残り3件となりますが、10/7までに連絡がない場合には運営側で削除をいたします。また、今後同じことが起こらないようお申し立ていただいたサイトの画像が投稿されようとしたことを把握できた場合、画像投稿がなされないよう、システムに登録させていただきました。

これをもって本件への弊社の対応とさせていただきます。

ご面倒をおかけいたしまして、大変申し訳ございませんでした。

 

FindTravel運営事務局」

 

というものであった。記事盗用作成マニュアルなどないかのような、これは契約記者がやったことで、自分たち会社側には責任がないとの建て付けになっている。いかにも狡猾かつ巧妙なビジネスモデルであると言わざるを得ない。また、削除するとした残り3枚の写真は期限を過ぎても掲載されたままで放置されていた。

 

東証一部上場の(株)ディー・エヌ・エー(DNA)はIT事業が主戦場。知的財産権に最も敏感かつ関心が高いはずである。その知財を踏みにじる企業体質は決して許されるものではない。


智舟さんはどこ? 女人高野・室生寺で探そう

(当ブログの写真の転用・二次利用を禁じます)

ポケモンGOが日本全国を大騒動の渦中に巻き込んでいた7月下旬、38年前の新婚旅行で訪ねたきりの奈良桜井市の室生寺を参拝した。

1・室生寺
太鼓橋と室生寺表門

そこで、ピカチュウならぬレアもののポケモンに遭遇したので、ご紹介することにする。ポケモンの名前は智舟(チシュウ)さんといって、タイプは親切、さわやか、人なつっこいといったもので、対峙する参詣客や観光客を一瞬にして虜にするなかなかの優れものキャラである。

2・奥の院にて・智舟さん
室生寺の智舟(ちしゅう)さん

当日、長谷寺から廻ってきたわれわれ夫婦は太鼓橋を渡って、“?”

3・室生川上流から太鼓橋を
室生川に架かる太鼓橋・右手が室生寺表門

楼門をくぐっても“ハテナ”・・・ 38年前の光景、記憶は呼び戻されない。

4・楼門・新緑と朱
楼門(仁王門)

鎧坂を登り始め、かすかにこの広い石段、見覚えがあるかなといった程度。

でも、こんな手すりがあったかな・・・記憶にない

5・鎧坂
鎧坂・頂上に金堂が見える

石段を登りつめた先。石垣の上に国宝の金堂。う〜ん、見たことがあるような。

6・金堂正面
国宝 金堂

その手前左手に弥勒堂がある。

7・弥勒堂
弥勒堂 正面に弥勒菩薩・右に釈迦如来

お賽銭をあげ、お参りする。ご本尊の小さな弥勒菩薩の右手の仏像にどこか見覚えが・・・

8・室生寺弥勒堂・重文 弥勒菩薩立像
重文・弥勒菩薩立像(室生寺絵葉書より)

一木造りの釈迦如来坐像で、国宝なのだと堂内の僧侶が親切に説明してくれた。ここで、記憶がフラッシュバック。

「このお堂の中に50年近く前に入ったことがある」というと、

「その頃は堂内に入って間近に仏さまが拝めていた」との返答。


中学か高校の修学旅行でこの仏さまの前に正座し、一木造りのお釈迦様を仰ぎ見たことを思い出した。

9・室生寺弥勒堂・国宝 釈迦如来坐像
国宝・釈迦如来坐像(室生寺絵葉書より)

漣波(レンパ)式の衣の襞(衣紋)の今にも微風にたなびきそうな繊細な彫り、さらに左足を右太ももにのせた半結跏趺坐(ハンカフザ)の足の裏に浮き出た木目の美しさに目を奪われた遠い昔の一瞬の感動が蘇った。


それを家内に伝えたが、修学旅行で室生寺は訪ねていないとのことで、わたし一人がこの弥勒堂で盛り上がる。二人の時の記憶がないわたしが恨めしい。


次に国宝・金堂をお参り。正面の榧(カヤ)の一木造りの国宝、釈迦如来立像ほか素晴らしい仏像群を拝観。

10・金堂
国宝 金堂

ここでも堂内の僧侶から詳しい説明が。釈迦如来と薬師如来の間の隙間から帝釈天曼陀羅と呼ばれる国宝の板絵が見えると教えられ、目を凝らす。縦に隙間分だけの彩色しか見えぬが、普通では気が付かぬことゆえ有難味がわく。

11・室生寺金堂・国宝 釈迦如来立像
国宝・釈迦如来立像(室生寺絵葉書より)

さすが女人高野、どこもやさしいねと二人して満足。

さらに本堂、五重塔へと石段を登っていった先、石段10段ほどの高みに国宝の本堂(灌頂堂)が見える。

12・本堂を右斜めから
国宝・本堂

楓の新緑を手前に配し、軒先を反らせた檜皮葺・入母屋造の姿態は室生の空に今にも羽ばたいていく霊鳥のように見えた。そこで燈明を灯し、光明真言を唱える。

13・本堂と新緑
国宝 本堂(灌頂堂)

次にいよいよ日本最小の五重塔へ向かう。2年前に京都・南山城の海住山寺(カイジュウセンジ)で見た五重塔が日本で下から二番目で、最小は室生寺なのだと知った。

14・本堂前から海住山寺の五重塔
海住山寺・五重塔

その可愛らしい国宝の五重塔は平成10年9月22日、台風7号の直撃を受け、樹齢600年の杉の巨木が倒れ込み、損壊した。その修復なった姿がどんなものかと恐る恐る見上げた。

15・38年前の室生寺五重塔 (905x1280)
38年まえの五重塔

あぁ〜美しい。38年前、どこか幽玄の美を醸す景観に二人して吐息をついた記憶が鮮やかに呼び起された。

17・室生寺・五重塔
修復なった室生寺五重塔

そして、一見、二見、どこがどう壊れたのかわからぬ。当世の宮大工の匠の技に感服仕切りである。だから、損壊・修復したといえども国宝のままなのだそうだ。

17・修復後の五重塔
女人高野にふさわしい可憐な五重塔

塔左奥に損壊の元凶たる杉の古株が残っていた。切り株といっても家内の身長を越える高さで、室(ムロ)は大人二人がゆっくり入れるほどの大きさである。よくぞ五重塔が全壊しなかったとこの古株を目にして思ったものである。

18・五重塔を損壊した樹齢600年の杉の切り株
大きな杉の切り株

それで、ポケモン、いや、智舟さんはどないしたんやということだが・・・


実は、室生寺を訪ねる参拝客はこの五重塔を見上げたところで、大体は回れ右して拝観を終了する。38年前のわれわれもそうであった。


しかし、室生寺の真骨頂はこれから400段も続く急こう配の石段を登った先の奥の院にあったのだと、われわれは38年ぶりに知らされることになるのである。

19・奥の院登り口・左はℍ10に倒れた樹齢600年の杉の切り株
奥の院上り口・手前左に杉の切り株

われわれは今回挑戦しなければ、これから体力は衰えるばかりで奥の院を目にすることはもうなかろうと語り合った。


ただその決意や良としても、このわたしがこの先の石段を踏破できるか、それが大問題である。そこで途中で名誉の転進もありとの調停案がまとまった。それでは突撃あるのみと室生の山懐深く分け入った。

20・奥の院への参道
奥の院参道には鉄柵(夜は施錠)

これまでの参道とは明らかに周りの雰囲気、景観が異なる。勇断を早くも後悔し始めるわたしである。

21・朱塗りの無明橋へ
石段先に朱色の無明橋

朱塗りの無明橋を渡った先の階段を見上げた。気が遠くなるとはこのこと。

天空まで続いていると見紛う急こう配な石段。

22・天空へ続く急勾配の参道
ず〜っと石段が・・・

見れば、両脇に心ばかりの手すりがついている。ままよ、だめならリタイアだと最後の蛮勇を振り絞り、死の登攀を開始。


不甲斐ないが、ハァハァ、ヨイショヨイショと無意識に声が漏れる。頭から額から滝のごとく汗が流れ落ちる。

そして、見えてきた懸け造りの建物。あれはなんだ。奥の院にあんな大きな建物があるのか。

23・遠くに懸け造りの建物が
遠くに懸け造りが見えた

エベレスト登頂者の気持ちとはこんなものかと思いつつ、少しずつ大きくなる懸け造りを心の支えに、ゼイゼイと息を吐きながら一段、一段、歩を進める。

24・奥の院も間近
ようやく懸け造りの下に

そして、最後の階段。

25・奥の院へ最後の石段
この上が奥の院

頂上制覇である。

26・常燈堂下から400段の石段を見下ろす
この急勾配を登ってきた・・・

天界は想像した以上に光芒に満ち、きれいに整地された空間であった。

27・奥の院
陽光でまぶしい奥の院

頂上踏破の感慨にふける余裕もないままただただホッとして、納経所横の休憩所にへたり込む。

28・奥の院・納経所
納経所と休憩所

一方の家内は登攀の疲れも見せずに納経所で何やら言葉を交わしている。

29・納経所から石段降り口を
納経所から参道下り口を見る

一息ついて懸け造りの常燈(位牌)堂へ向かおうとすると、ポケモン?いや、一人の若いお坊さんがにこやかに近づいてきた。

  30・常灯(位牌)堂
常燈(位牌)堂

この後、下山して、かき氷を食べた橋本屋という旅館で、とても好印象のお坊さんに巡り逢えたことを話すと、

橋本屋  31・橋本屋のかき氷
橋本屋旅館と対面の食事処のかき氷

「それは智舟さんに違いない」と即答。奥の院で撮った写真をお見せすると、

「そう、この人が智舟さん」と、彼がいかに参拝客の間で好感をもたれているか、お参りに来られたお客さんはみなさん、いいお坊さんにお会いできたと喜んで帰られるのだという人物である。


その日、われわれは智舟さんから心尽くしの説明を受けた。大師堂は宝形(方形)造りで、上空から屋根を見ると正方形なのだとか。

32・板葺き二段屋根の宝形造り 御影(大師)堂
板葺き二段屋根の宝形造りの大師堂

その上にのる石の露盤と宝珠はひとつの岩から掘り出したもので大変珍しいと。

33・一枚石から掘り出した露盤と宝珠
一体の石で出来た露盤と宝珠

また、その奥の岩山に立つ七重石塔。

34・諸仏出現の岩盤の立つ七重石塔
岩山の上に七重石塔

室生山に諸仏が出現した場所故に七重の石塔を建て祀っているのだとよどみなく説明を重ねる。

35・七重石塔
七重の石塔

そして、大師堂を背景に「お二人の写真をお撮りしましょう」と言われた際にはびっくり。お坊さんがそこまで親切にしてくれた経験がなかったのである。我が家の居間には早速、その写真が飾られている。

36・智舟さんと大師堂を背景に
智舟さんと記念写真

お位牌がずらっと並んだ常燈堂は、遺骨の喉仏を納骨すればどなたでも永代供養して頂けるとの話もうかがった。


さらに懸け造りの回廊へ向かうと、そこでも二人の写真を撮ってくれた。奥の院にわれわれ夫婦だけだったとはいえ、このおもてなしは望外の喜びである。

37・常燈堂回廊から見る山
常燈堂回廊からの景観

聖地における思い出はこれからの二人の語らいに度々登場し、この日、奥の院で見上げた青い空に吹き渡る涼風を想起させてくれるに違いない。

38・奥の院の空
奥の院真上の空

二人の心にこれから先、室生寺の薫風を届けてくれる智舟さん。その日は奥の院におられたが、ある時は本堂に、また、ある時は別のところにと居場所はかわるのだと橋本屋はいう。


室生山に棲むというポケモン、いや、無量の風の薫りをあなたに届けてくれる智舟さんを探しに“智舟さんGO”と、室生寺へ急ごうではないか!!


泊まってみたい宿 日光金谷ホテル

(当ブログの写真の転用・二次利用を禁じます)

ある親しい方から日光金谷ホテルは一度、泊まってみられる価値があるとかねてご推奨をいただいていた。

1・金谷ホテル外観
日光金谷ホテル・本館

また、独身時代に全国を旅してまわった家内も、なぜか日光を訪ねたことがなく、一度、連れて行ってといわれていて、なんと38年が過ぎてしまった。もちろん、とうにしびれを切らした家内は「日光に行かずして結構ということなかれ」で、ご近所の友人らと数年前だったか訪れていた。


しかし、その時は旦那どもをほったらかしにした科により華厳の滝が濃霧のためでまったく見ることができなかったという。


ということで、急きょ金谷ホテルへ泊まりに行こうと何故か話がまとまり、ホテルに予約を入れ、あれよあれよとあいなった次第。


日光金谷ホテルは西洋人相手に明治6年に創業された現存するもっとも古いクラシックホテルということである。

2・本館エントランス
本館・エントランス

現本館がその当時の様子を多く伝え、洋式造りの建物となっている。

3・レセプションで百年前のスタンドが現役で使われている
レセプションで現役の百年前のスタンド

今回、私たちが宿泊した別館は昭和10年に建てられたもので、唐破風造り、木造三階建の和のテーストを凝らした外観となっている。

4・金谷ホテル別館
唐破風の別館

入口の両柱には尾長鶏の木鼻をあしらえ、柱に沿い長い尾っぽを浮き彫りにしているなどその造作には多大な財力と匠の技が投じられている。

5・唐破風の柱には尾長鶏の木鼻、柱には長い尾が掘り出されている
唐破風下の木鼻は尾長鶏・尾が柱に浮し彫

そのためこの別館にはヘレンケラーや昭和天皇もご宿泊になったのだという。


もちろん客室はリゾートホテルということで洋式に統一され、スチーム暖房やアンティークなバスタブなど古き良き時代の香りが満ちている。

6・懐かしいスチーム暖房
部屋にはスチーム暖房

昨今の機能性重視やアメニティグッズの充実といったシティホテルに慣れた人間には少々、戸惑いもあることは仕方のないところ。


何を隠そう、このわたしはこの旧式の、いや、格調高いバスタブはやはり落ち着かなかったことは正直に白状しよう。

7・バスタブもアンティーク
まさにアンティークなバスタブ

しかし、本館二階のダイニングルームでのディナーはさすが日光金谷ホテル、圧巻であった。

8・ダイニングルーム
ダイニングルーム

当夜のメニューは以下の通り。

9・家内のメニュー  10・私のメニュー

家内が熟成子羊のポワレ、わたしは“特製日光虹鱒ディナー”にした。

15・熟成子羊のポワレ
熟成子羊のポワレ

オードブルやサラダは洒落ていて過不足がない。金谷ホテルの料理を先に総括すれば、“質実剛健な西洋料理”と評するのがもっとも当を得ている。


不要なデコレートや捏ね繰り回したようなソースもなく、いたってシンプル、スマートな料理なのである。

その典型がコンソメスープである。さらりと淡白で、西洋おすましのようなスープであったと家内の言。

11・コンソメ
コンソメ

そして、わたしのオニオングラタンスープは器の蓋を開けてビックリ。なんとハート型をしている。

12・オニオングラタンスープ
ハートです

今年、65歳を迎え、めでたく高齢者の仲間入りを果たした男の目の前に、まぁ、かわいらしいハートのカップが置かれたわけである。


家内もこれにはただ微笑む、いや、憐みの笑みを浮かべるしかリアクションのとりようはなかったようである。


もちろん、お味は質実剛健、玉ねぎ大好きな私好みのこってりした、農作業の後にでも呑むとさらに味が際立つといった体のスープであった。

13・食器に刻印された金谷ホテルのベルトのロゴマーク

そして、エッと驚いたのがそのカップの蓋の裏に刻印されたロゴである。聞けば、金谷ホテルでは古い食器をたくさん今でも使用しているということで、この陶器もそのひとつなのだそうだ。こうした貴重な出会いが古い格式を誇るホテルにはあるのだと改めて感じたところである。


いよいよ、メイン。伝統のフランス料理、 “虹鱒のソテー金谷風”の登場である。

14・日光虹鱒のソテー 金谷風
日光虹鱒のソテー 金谷風

見た目がしっかりとしたソテーである。結構な大きさの虹鱒である。

これ全部、食せるかと心配しながらソースをかけ、ナイフを入れる。


やわらかい!! 骨もすんなり切れてしまう。口に運ぶ。骨がまったく気にならない。

おいしい・・・。いや、お見事。


ソースもどことなく田舎風で、これ良い意味で言っているのだが、濃い目の味付けなのだが、口に残らぬあっさり味。矛盾しているようだが、それが虹鱒を食べおわってみての素直な感覚なのである。


さて、食事についてはそれくらいにして、ダイニングルームの造作もなかなかにわたし好みでありました。


入口を入ってすぐ右手には年代物と思しきレリーフなどが壁を埋めていた。さらに天井はなんと部屋の最高の格式を表わす折り上げ格天井(ごうてんじょう)で、しかもその一枚、一枚に図柄が描かれている。

16・折り上げ格天井と柱頭彫刻

柱にも頭に彫刻がほどこされ、その贅をつくした造りに、明治初期の日本人が西洋に負けまい侮られまいとした生真面目さが窺えて、いじらしさすら感じてしまう。


そんな金谷ホテルのディナーも終了、部屋へ戻り、翌日の東照宮参詣にそなえ、早々と床に就いた。

17・別館の客室
新緑が手に届く部屋でした

したがって、本館一階にあるクラシックバーには、家内の「寄らなくていいの?」という悪魔の囁きを物ともせずに別館を一目散に目指したところである。


翌朝、朝食をダイニングルームの朝陽が差し込む窓際でとった。

18・朝陽が差し込むテラス風の席で朝食を

これも今風のビュッフェ方式ではなく、スタッフによるオールサーブのアメリカンブレックファーストである。

わたしは目玉焼き、もとい、sunnyside up・・・、いや、over easyというのかこれはと久しぶりに英単語を探り出す自分にひとり苦笑い。

卵焼き overeasy

本式に焼かれた目玉焼きである。頼めば本物のsunny side up(片面焼き)が口にできたのだろうと思った。


家内はシンプルにプレーンオムレツで苦労もなしといったところ。

20・ふわふわプレーン・オムレツ

朝陽が零れ落ちるテーブルでオールサーブでのブレックファースト。少なくなりました・・・こんな朝食の時間。


効率性追求、コストダウン、人手不足などなど、今の時代、確実に昔の豊かさは失われていっていると実感したところであった。


ゆっくり朝食を摂ったあと、金谷ホテル探索の散策に挑む。まず、家内が目をつけたのが竜宮と称する観覧亭と展望閣。

21・展望閣より観覧亭を見る
展望閣から観覧亭を見る

本館三階の北側廊下を東方向にずっと奥へ進む。途中に本館のもっとも古い部屋であるナンバーがシングルの部屋が覗けた。う〜ん、さすがの格天井である。

22・本館のシングルナンバーの部屋
格式あるシングルナンバールーム

それを過ぎてさらにゆくと最後に石段を上がる。そして屋上のような場所へ出る。

そこに日光の山並みを眺望する展望閣やプールや天然のスケートリンクで遊ぶ人々を見物する観覧亭がある。

23・観覧亭の方から展望閣を
観覧亭から展望閣を見る

現在はもう使用を中止しているということだった。ただ、リンクになる池?にはアオコが一面に発生し、黄緑色に水面が映えていた。

24・プールとスケートリンク
右がプール 奥が天然スケートリンク

また、プールには水が張られ、それがきれいであったのが、往年の夏の金谷ホテルの賑わいが耳朶の奥に響き出すようで奇妙な感覚にとらわれた。

25・展望閣からの眺望
展望閣からの眺望

そのあと、ホテルの裏庭へ出て神橋へ向かおうとしたが、生憎の工事中、途中で引き返した。


庭には木のベンチなどがおかれ、かつてはそこで団欒に耽る西洋人たちがいたのだろう。

26・裏庭
裏庭

ここからの本館の景色も新緑の中に白色と赤色がうまい具合にとけこみ美しい。

27・裏庭より本館を

一方で、別館の和風の建物はどこか寺院を見るようで、日本の伝統、格式を感じさせ、これも興趣が尽きない。

28・裏庭より別館を

一時間余の散策であったが、日光金谷ホテル、ただ、泊まって、食べて、出かけるだけではもったいない。

まさに本物のリゾートホテルである。ここでのアンニュイな時間の流れこそが一番のお宝なのだと思った。

29・レセプション
伝統を感じさせるレセプション

そして、昔の日本人は真に本物を追求し、生真面目にその達成に努力と犠牲を惜しまなかったのだと思い知らされた。そんな価値ある時間をこの日光金谷ホテルはわたしに与えてくれたのである。一度、訪れる意味は大きいと自信をもってお勧めできる“泊まってみたい宿”である。



TBSの昼ドラ・愛の劇場「砂時計」のロケ地巡り=宍道湖の見える白潟公園・仁摩サンドミュージアム・琴ヶ浜

まずは水瀬杏と北村大悟が湖畔に座って夕日を見ながら語り合っていた場面だが、宍道湖東岸にある白潟公園がそのロケ地である。


当日は、佐太(サダ)神社を参拝してから揖夜(イヤ)神社へ向かう途上の立ち寄りであった。時間はお昼過ぎであったため宍道湖に落ちる夕日は見られなかったが、秋空の下、穏やかで鏡のように美しい湖面が印象的であった。

宍道湖

湖岸から階段を昇った先に芝生の広場があり、そこからの景色も見事である。

宍道湖・白潟公園

ここはなかなか雰囲気があって、宍道湖の湖面のようにおおらかで優しい気持ちに自然となってゆくなどデートスポットとしては最適の場所である。

さぞかし、夕焼けの迫る湖畔で語り合う恋人たち・・・う〜ん、絵になるなぁ。松江は恋人に優しい街、恋人創成の街だと強く感じた次第である。

白潟公園から見える松江城
宍道湖大橋の中央部に松江城が見える

また、砂時計のドラマにも出てくる松江城が公園の北方1kmに見える。

今年7月に天守閣が国宝指定されたばかりのホットなお城だが、今回は遠目にて失礼した。


次に、いよいよ砂時計で杏と大悟が見上げた仁摩サンドミュージアムをご紹介しよう。写真で見たことしかないわれわれ夫婦は実際に現地を見てびっくり。

仁摩サンドミュージアム
仁摩サンドミュージアム

想像していたよりも大規模で、世界一という一年計の砂時計もなるほど大仕掛けで、しかも、精巧な造りで、これはドラマ云々の前に必見の価値はあると思った。

砂時計・一年計
全長5.2m、直径1m、砂の重さ1トンの一年計砂時計

この仁摩サンドミュージアムはストーリーの重要な場面でたびたび登場する。


ドラマ初回、両親の離婚を機に島根へやって来た杏が母・美和子と一緒に訪れ、一年計の巨大な砂時計を見上げて語るセリフが印象的である。

「一年ってこんなに長いのねぇ」とつぶやく母の美和子。
それに対し12歳の杏は「長くなんかないよ。たったこれだけだよ」と無邪気に応える。生きつづけることに何のためらいも持たぬ少女の真っすぐで正直な気持ちの吐露である。

「長いわよ・・・・・・この一粒目の砂が落ちるころにはこんなことになるなんて思っても見なかったもの・・・」と美和子がさらにいう。


人生の後悔と将来への大きな不安を胸に畳み込んだようなセリフで、今後のストーリー展開に十分な期待を持たせる名台詞である。


「無理やり流される時間、なんかいやね・・・」と語る母親と隣に立つにこやかな小学6年生の杏。その頭上に大きな砂時計・・・

砂時計コーナー
館内には漫画・ドラマの砂時計コーナーもある

それから、このドラマの重要な小道具として使われる一分計の砂時計をこの仁摩サンドミュージアムで美和子から買ってもらうのである。

砂時計 - コピー

サンドミュージアムには杏と大悟もその後、デートで訪れ、幸せだった二人が砂時計を共に見上げるシーンが出てくる。


また、杏と大悟の恋を最後まで邪魔する婚約者・進藤あかね(ドラマのみのキャラクター)も、杏との思い出が詰まったサンドミュージアムと知っていながら、大悟にそこへ行きたいとせがみ、この大きな砂時計を二人で見上げるシーンにも使われた。

サンドミュージアム入口
サンドミュージアム入口

このとき視聴者は、杏の気持ちを思い胸が締め付けられ、不覚にも涙をこぼし、このあかねという意地悪な女に憎悪の炎を燃え上がらせる。わたしも思いっきり、この進藤あかねを罵倒したものだ。

精巧な砂時計
精巧な造りです

そんな杏が大切にしていた砂時計、高名な砂時計職人の金子實氏がひとつひとつ吹きガラスで作った貴重なものだそうで、我が娘もこの仁摩限定のドラマ仕様の砂時計を購入していた。

未来・現在・過去
上の砂が未来、くびれ部分が現在、下に積もる砂が過去・・・

そんなことを事前に知らぬ老夫婦はこの方がお洒落でよいと購入したのが、下の砂時計。

ショップ・砂時計  ガラスの砂時計

見栄えはこのガラス製の方がよいのだが、ドラマ砂時計ファンとしては、そこは木製のものでなければ価値はない。見学後にドラマにハマったわれわれは歯ぎしりするしかない。だから、砂時計の写真は娘にお願いして撮らせてもらった。

サンドミュージアム

さらに、大悟が杏からもらったペンダントの小さな砂時計も、ドラマのヒットを受け、仁摩ミュージアム限定で製作・販売されている。娘はそれもしっかりゲットしていたのだが、もう大事な人にあげてしまったとのことで、写真もアップできない。色々な意味で、トホホ・・・


最後に鳴り砂の琴ヶ浜を紹介する。

薄暮の琴ケ浜
白砂の美しい琴ヶ浜

ここもドラマ初回に、杏が母・美和子の実家に向かう途中に立ち寄り、悲しい琴姫伝説を聞かされる場所である。


その伝説とは、平家一門の姫が琴を抱き小舟のなかに倒れたままこの浜に流れ着いた。村人に助けられ元気を取り戻した姫は報恩のため夜ごと妙なる琴の音を響かせ、村人の心を慰めた。一年が過ぎた頃、馴れぬ生活から世をはかなみ、「わたしが成仏したらばこの浜から琴の音を発しよう」と遺言して亡くなった。


それ以来、この浜の砂は鳴き出したのだという。この浜辺には琴姫を慕った地元の人によりお墓が作られている。

琴姫の碑
琴ヶ浜にある琴姫の碑

実際に菩提寺にあった姫塚からは自動車道工事の際に土葬された女性の骨が出土し、伝承が事実であったことが証明されたと地元の老人が説明してくれた。この浜辺のお墓には分骨された遺骨が入っているのだという。


その琴ヶ浜、杏との楽しいデートの場面などいろいろと登場する。

恋の邪魔をする進藤あかねの車椅子を押しながら岸壁を散策するシーンなどはむかついて仕方のないところで、琴ヶ浜が登場する。


そして、クライマックスの杏がなくした砂時計を大悟が探し出すのも、この悲しい伝説の残る琴ヶ浜である。

鳴き砂
悲しい伝説の残る琴ヶ浜

われわれは地元の方の琴姫伝説の説明を聞き終えてから、実際に浜に下り、砂を踏んだ。浜辺を少し、海側に近寄ったあたりから、大きく砂が鳴きはじめた。

琴ヶ浜

正直、ちょっとびっくりした。これほど、はっきりと耳に聴こえるように砂が鳴るとは思いもしなかった。これはすごいと家族全員でキュッキュッキュッと大はしゃぎで砂を踏みしめ、歩き回った。


時間はあっという間に過ぎ、夕刻となった。生憎、当日の空は白い雲が一面を覆い、夕日は無理だと車に乗り、エンンジンをかけまさにスタートしようとしたときである。
リアウィンドウから太陽の光がわっと車内に雪崩れ込んできた。驚いて海岸の方を振り返った。すると、水平線の少し上に茜色の太陽が顔を出していたのである。

琴ヶ浜の夕日

琴姫さまがせっかく遠い都から仁摩の浜辺へ来られたのだから、この美しい夕景色を見ていらっしゃいと引き戻してくれたようであった。全員、車を降りて浜辺へと戻り、夕日が水平線に沈んでゆくうっとりするような素晴らしい景色を愉しんだ。

琴ヶ浜の杏と大悟
この日も杏と大悟がいました・・・

その日は温泉津(ユノツ)温泉の創業100年を超える木造三階建ての老舗旅館“ますや”での宿泊であったが、その夜は目の前にある龍御前神社の社殿内で石見神楽を堪能する機会に恵まれた。これも琴姫さまの優しいお心遣いと感じたところである。砂時計の島根のロケ地めぐりはこれにて終了。


TBSの昼ドラ・愛の劇場「砂時計」のロケ地巡り=初デートの出雲大社・八重垣神社

TBSの昼ドラ・愛の劇場「砂時計」のロケ地巡り=宍道湖の見える白潟公園・仁摩サンドミュージアム・琴ヶ浜


(当ブログの写真等の無断転用・二次使用を禁じます)


なんだか、久しぶりのブログアップなのに、TPPでもなく、安保関連法案でもなく、昼ドラの、それも8年も前のドラマのロケ地巡り、しかも愛の劇場なんて一体どうしたんだい彦左衛門というお方も多いことと思う。まず、その事情から説明しなければならない。

鳴き砂
重要なシーンに出てくる”鳴き砂の浜”

それは、出雲風土記の世界に遊びたい私がしばらく一緒に旅行に行っていない娘を連れ出したいという、まぁ、子離れしていない親爺の切ない思いが、娘が大好きであった昼ドラ「砂時計」(TBS・2007年3月〜5月)のロケ地観光を行程に組み込んだ旅にして、ようやく、娘と家内との家族旅行の夢がかなったという情けない話である。

29
仁摩サンドミュージアムの一年計・砂時計

まず、われわれが羽田から到着した出雲空港。ここも早速であるが、水瀬杏と北村大悟が別れの場面などで効果的に使われたポイントである。

縁結び空港・出雲空港
縁結び空港の出雲空港

ここで、正直に白状するが、娘が所持していたDVD(全60話)をわれわれ夫婦は、この出雲、石見、萩4日間の旅を終えた後、一挙に鑑賞したのである。

出雲空港到着ロビー
別れと出逢いが繰り返された出雲空港ロビー

水瀬杏と北村大悟の出会いから初恋、大人の恋へとつながる恋愛ドラマ。これでもかこれでもかと繰り返されるすれ違いのストーリーに、わが老夫婦は涙腺を緩めっぱなしの、脚本家の思う壺状態の視聴者となったのでした。

ショップ・砂時計
ドラマには出てこぬお洒落な砂時計(仁摩サンドミュージアムショップ)

そんな、砂時計のロケ地めぐり。旅とドラマ鑑賞を終えてみて、やはり、あの北村大悟の住む街並み(太田市大森町)や大悟の家・北村商店、あの石橋、江田駅(JR山陰線波根駅)はカットせずに見ておくべきだったと後悔しきりである。


まぁ、こんな話は別として、まず、出雲大社のコイン投げを紹介しよう。

出雲大社・石碑
初デートの出雲大社

神楽殿の大注連縄の円錐台のような形をして垂れ下がる“〆の子(しめのこ)”の真下から硬貨を投げ上げ、その藁縄の房の隙間に挟まったら願いが叶う、恋が成就するということで、ドラマでは杏が何回も挑戦するものの、失敗続き。挙句には、刺さった他人のコインまでが衝撃でバラバラと落ちてくるといったシーンで、他人の恋路を邪魔しちゃダメだよと、つい、突っ込みを入れてしまう微笑ましくも初々しいカットでありました。

わが娘もこれがこの旅のひとつのメインイベントでありましたが・・・

神楽殿
神楽殿の大注連縄

え〜っ!!!!の結果でありました。

神楽殿大しめ縄
注連縄の下に人はいません

その大きな“〆の子”の下面は細い金網で覆われ、硬貨が入らぬようにしてあったのです。

金網をかけられた〆の子
細い金網で覆われており、その隙間をこじ開けて執念のコイン入れも・・・

コインの処理が大変なのか、そこに人がたむろし過ぎて危険だからということなのか、娘の落ち込みぶりは見ててもちょっと可哀想でした。


折角、東京からやって来たのにと・・・なんだかなぁ・・・最近の神さまも効率性なんて考えだしたりしてるのかなぁ・・・


次に、鏡池の縁占いで若い人たちの参拝客の絶えない八重垣神社を紹介しよう。

八重垣神社拝殿
カップルが目立つ八重垣神社境内

杏と大悟、中学校三年生の時の初デートで出雲へ行った際に、水占いをするシーン。硬貨を載せた占いの紙が池から近くで沈めば近くにいる人との縁が早く結ばれるというもの。遠くに沈めば、遠くにいる人と遠い先に縁が結ばれるという、恋人たちにとっては、結構、ドキドキの占いでもある。


そういうことなのか、われわれが訪れた日も多くのカップルに家族連れや老夫婦といったいまさら何を占うのといった雑多な人々で、鏡池には長蛇の列。ビックリ・ポンでした!!

鏡の池の行列
鏡の池には老若男女の長蛇の列

わが娘も水占いに挑みましたが、結果はなかなか沈まず・・・、浮き出た文字は下の写真でした。

八重垣神社・鏡の池縁占い

さて、ドラマのシーンでは・・・。


占いの紙に「信念を持て。願いかなう。西と南 吉」と出て、池のふちから遠くの方で紙が沈み、せっかくの初デートで身近にいる二人には期待外れの占いの結果でした。


そんな、初々しい初デートのロケ地をまずはご紹介しました。次回はいよいよ、仁摩サンドミュージアムへ向かいます。お楽しみに。

温泉へ行こう・泊まってみたい宿=大正浪漫あふれる銀山温泉の古山閣

BS・TBSの「美しい日本に出会う旅・東北の秘湯」(1月14日)という番組で銀山温泉が紹介された。その宿のひとつに古山閣が採りあげられた。
1・古山閣正面
古山閣

大正浪漫あふれる秘境の温泉という謳い文句につられ、即刻、その場でネット予約をした。

01・銀山温泉撮影スポットから
銀山温泉の街並み

NHK朝ドラ「おしん」のロケ場所として有名な能登屋旅館も魅力的であったが、川側の部屋が予約でいっぱいであったうえ、改装をしたのち部屋が新しくなった分、古きもののよさがやや損なわれた感もあるとの口コミもあった。そこで、ベンガラ色の壁と折り上げ格天井という古式な部屋が空いていた古山閣を選択した。

6・招福の間
ベンガラ色の壁に味わいがある和室・招福

TVで紹介された“招福”という部屋にわたしが一目ぼれしたのだ。

7・折り上げ格天井  8・落ち着いた部屋です
折り上げ格天井            落ち着いた和室

その古山閣は木造四階建ての伝統的な日本建築である。

4・古山閣入口  34・アンティークな世界
 古山閣入口              玄関は大正時代にあふれる

内装のすばらしさとともに外観を飾る鏝絵(こて)には職人の技とそれを育てた往時の旅館の主人たちの剛毅な芸心が偲ばれる。

2・三階の右 電気がついた部屋が招寿の間
四季を彩る鏝絵が圧巻

銀山温泉の入口を入ってすぐに古山閣が位置するため、湯治客がまず目にするのが古山閣の鏝絵である。四季の絵柄を鏝(こて)で描いた見事なものである。

25・豪華な鏝絵の古山閣
すばらしい鏝絵が壁を覆う

近くで見れば見るほどその職人芸には驚かされるのだが、一見だけでは彩がゆたかできれいだといった感想に終わってしまうので、3Dの立体的な鏝絵はよくよく目を凝らすことが肝要。

20・3Dな鏝絵・秋祭り
秋祭りを描く凹凸のある鏝絵

まず、食事の前に昼間の銀山温泉をぶらぶらした。ゆっくり写真を撮りながら“はいからカリーパン”やお土産屋に入ったりしても30〜40分ほどでひと廻りできる。

18・はいからさんのカリーパン  カリーパン
銀山温泉名物のはいからカリーパン

と言っても、冬場は白銀の滝のかなり手前で積雪により侵入不可。橋を渡って、“そば処滝見館”の玄関先をちょっとお借りして何とか白銀の滝を見ることができた。

24・白銀の滝
白銀の滝

古山閣へ戻り、まず温泉へ入る。一回目は一階の大浴場を使用。だれも入っていず、独り占め状態。少々、熱めの湯であるが、湯屋の天井が高く、空気もひんやりとしているため、湯船のなかがとても気持ちがよい。

10・大浴場
いい湯です

翌朝に貸切り風呂へ入った。貸切り風呂は二か所あるが、両方とも招福の間のある三階にある。

11・右の貸切風呂  12・左の貸切風呂
貸切風呂もゆったり

さて、夜の散策する前に夕食をとった。部屋食で高坏膳である。

26・高坏膳の夕食
なんとお膳でお出ましです

夜の街並みをそぞろあるくのがひとつの目的であるので、お神酒はほどほどに食事を愉しむ。

27・尾花沢牛温泉蒸し  28・フカヒレの中華風蒸し
左:尾花沢牛温泉蒸し       右:フカヒレの中華風蒸し

尾花沢牛あり、フカヒレあり、温かな団子汁ありと思った以上の山間の旅館の料理であった。

29・蕪と赤魚の吉野餡かけ  30・鳥団子汁
左:蕪と赤魚の吉野餡かけ          右:鳥団子汁 

丁寧に盛り付けされ、味付けも薄味で、どれもとてもおいしかった。

31・サーモンの塩麹焼き  32・蕎麦まんじゅう
左:サーモンの塩麹焼        右:そばまんじゅう

お腹も満腹、ちょっと風に当たろうと窓を開けると、そこには昼間とは異なった風情の景色がひろがっていた。

9・部屋から
部屋から対岸の伊豆の華を見る

そして、午後八時前、いよいよ大正浪漫の世界へと足を踏み入れる。当夜は雪もなく見通しがよく、これはこれでよい。まだ人通りも少ない温泉街の奥へと歩いてみた。ガス燈に灯がともり、淡い橙色の燭台のように浮かび上がる旅籠が川筋の両側にならんでいる。

15・如月の銀山温泉

遠い昔、どこかで経験したことがあるとても懐かしい光景、添い寝した母が諳(そら)語った昔話の世界のような心やすらぐおだやかな情景である。これを大正浪漫というのもよい。だが、わたしには誰しもが心の奥襞に大切に温め宿らしている童の無垢な魂のような景色、原風景のようにも思えてきた。

17・湯煙りの立ち昇る川筋
湯けむりに浮かぶ銀山温泉

幻想的とひと言でいうのはたやすいが、もっと人間の本源にある剥き出しのやさしさ、思いやりのような、そんなあったかくも産毛のような小世界にいま自分は身を置いている・・・そんな夢を見た。

16・銀山温泉奥からの夜景
銀山温泉の奥から見る

翌朝、障子を開けるとこんんこんと雪が降っていた。今回の雪国の旅で初めての降雪である。

21・翌朝は雪が降っていました
雪が降っていました

二日前はホワイトアウトで外出もままならなかったと仲居さんから訊いていた。それはさすがに勘弁いただきたいが、やはり北国の雪降る情景を目にしたいのは自然な旅人の気持ち。



旅の三日目にして空から雪が舞い落ちてきてくれた。朝食をすませると、早速に雪降る銀山温泉の散策に移った。

22・銀山温泉の雪の朝

湯治客は朝食中か温泉にでも浸かっているのか、朝の温泉街はまだまだ静寂の世界である。

23・雪の能登屋
雪降るなかに能登屋旅館

冬空から舞い散る雪はその景色を小さな物語の世界へとかえてくれる。夢のようなおとぎ話の世界にいるようである。本当に銀山温泉に来てよかった・・・そう思わせる雪景色であった。






 

横手の“雪まつり” (2/2) 憧れの“かまくら”に游ぶ

アップ遅すぎ! 横手の“雪まつり” (1/2) 横手城・平安の風わたる公園(2015.3.25)

ドイツの建築家ブルーノ・タウトも絶賛したという“かまくら”は、水神様をまつる横手の小正月行事で、毎年2月15、16日の夜に行われる伝統行事である。

1・かまくらから漏れる橙色
羽黒町武家屋敷通り

わたしは今を去ること50数年前に小学館発行の小学一年生か二年生の記事で“かまくら”を知り、そして、雪国の生活に憧れた。その憧れた夢が叶ったのが、この日である。

2・プチかまくらが行燈のよう
武家屋敷の塀沿いにミニかまくらが並ぶ

古い伝統をもったものだとは思っていたが、今度訪ねて、びっくり。なんと420年の伝統を誇るというではないか。


武家社会では災難を除き子供の無事成長を祈り左義長のかまくらが行われたという。また、町人社会では町内の井戸のそばに雪穴を作り、水神様を祀り、良い水に恵まれるようにと祈ったのだという。

3・水神さまです
水神さまを祀ります

こうした子供を慈しむ心や自然信仰の合わさった素晴らしい習俗が、関ヶ原の戦いという天下分け目の大いくさの頃からはじまっているというのも、この日本、どうしてどうしてそう捨てたものでもないなと感じ入ったところである。


当日は、まず、タクシーで羽黒町武家屋敷跡へ向かった。そこから歩き出して、ぐるっと市内のかまくらを順番にのぞいてゆくことにした。

4・武家屋敷
武家屋敷

武家屋敷通りにはいると辺りは暗闇であったが、雪道をしばらく歩くと遠くに橙色の燈りが見える。かがり火が焚かれていた。

5・除雪したところにかがり火が
かがり火も焚かれています

しばらくゆくと小さな藁くつがおかれた“かまくら”から、「はいってたんせ」、「おがんでたんせ」という幼い声が聴こえる。小学生だろうか布で作った蓑帽子にちゃんちゃんこを着た少女二人とその母親らしき方が中へどうぞと招いてくれる。

6・お餅や甘酒のおもてなしを受けます
はいってたんせ!

「かまくらに入ってください」、「水神様をおがんでください」という意味だそうで、われわれも靴を脱ぎ、火鉢を囲ませていただいた。


そこで、甘酒やおもちに太巻き寿司がふるまわれたが、見ず知らずの人間と会話をし、こうしたご接待をする様子は何とも気持ちがすがすがしくなったものである。

7・焼いたお餅がふるまわれます

四国遍路のご接待文化やこの北国のおもてなし文化をみると、昨今の殺伐としたこの国、本当は優しい国民性をもった日本人がそもそもはたくさん生きているのだと思い直したところである。


羽黒町の突当りに横手南小学校があった。その校庭一面にはミニかまくらが作られ、それぞれに燈明が灯されている。まさに幻想的な光景である。二日ほど前に、ここがTVで紹介されたと家内が教えてくれた。なるほど絵になる景色である。

8・小学校の校庭に造られたかまくら

次にかまくら館近くにゆくと、元気の良い「はいってたんせ」が聴こえる。そこで、また、お邪魔をする。横手北中学校のバスケット部の二人である。新田由直君と藤坂月(るな)君である。

9・ガンバレ! 横手北中バスケット部

快活で素直な二人に、われわれ夫婦もなんだかほっこりして、お餅もすすみ会話も進む。愛らしい藤坂君が新田君はバスケの秋田県代表なのだとかで、そういわれてみるとずいぶんと背が高そうだ。


訊いてみると、183cmあるのだとか。まだまだ身長は伸びそうでこれは将来の全日本も何とかなりそうと考えた次第。そんな若人の夢を奪うような日本バスケットボール協会のゴタゴタ騒動、早く何とかせい!!と一喝せねばなるまい。横手北中バスケ部、頑張れ!! おじさんも応援してるぜ。


最後にホテルプラザアネックス横手前に作られた“かまくら”に寄って、そこでホテルの従業員の方々からトン汁をご馳走になり、二人のお腹はもういっぱい。

10・ホテル前のかまくら
炬燵で豚汁、おいしかったですよ

そして、早く温泉につかろうとホテルに戻り、横手の“かまくら”を愉しむ夜は天候にも恵まれ、人の温かい気持ちにも触れられた素晴らしい旅のひと夜となった。


そうそう、忘れてならないことがひとつ。ここ横手は恋人の聖地に認定されおり、ハート形の“かまくら”があったことを報告せねばならない。われわれもその中に入り、記念写真をパチリしました。

11・ハートのかまくらもありました
恋人の聖地です、みなさんもどうぞ

二日前はひどい吹雪でかまくらめぐりもそこそこにホテルに舞い戻るお客さんがたくさんいたというから、この雨男、今年の旅はひょっとして汚名返上となるかも知れぬと思ったものであります。


横手の皆様、ほんとうに素敵なおもてなし、ありがとうございました。



アップ遅すぎ! 横手の“雪まつり” (1/2) 横手城・平安の風わたる公園

横手の“雪まつり” (2/2) 憧れの“かまくら”に游ぶ(2015.3.25)

東京は明日の朝の寒さまでで今年の冬の寒さはおわるのと、NHKラジオの気象予報士・伊藤みゆきさんが云っていた。


そこで、今年の冬の積み残しはさすがに、本日までにアップしておかねばと思った次第。横手でお世話になった中学生諸君にも顔向けできないしね。


秋田県横手市の“かまくら”は小学生時代からなぜだか心惹かれる存在だった。一度は訪ねてみたいと思っていたが、ようやく今年の2月にその夢が果たせた。なのに、なぜ、すぐにアップしないのか。ごもっとも!! いろいろホントに野暮用があって・・・


さぁ、ぐずぐず言わずに“かまくら”実体験レポートにいこう。訪ねたのは、かまくら祭りの最終日の2月16日。天気晴朗の申し分ない旅日和。


10:20の東京発新幹線・こまち3号で一路、夢の横手へ。初めて乗車する秋田新幹線。

1・秋田新幹線こまち

盛岡駅で東北新幹線から別れて、大きく東北内陸部へと西進。窓外は雪景色へ一転。

2・雪原に岩手山
雪原の先に岩手山と青空

くっきりと雪原のなかに岩手山が見える。これは絶景である。

0・岩手山
岩手山、ビューティフル!!

13:35に花火競技会で有名な大曲に到着。ここで、新幹線を降車し、これまた初めて体験する奥羽本線・新庄行の乗り換え、横手に向かう。

3・大曲駅で奥羽本線へ乗り換え
新幹線が遅れても待ってくれる奥羽本線

13:42に大曲駅を発車、14:02にもう目的地、横手駅へ到着。わずか20分の乗車時間。

4・JR横手駅
JR横手駅 市内の道路はきれいに除雪されている

当日の宿泊先である駅前のホテルプラザアネックス横手というホテルにチェックイン。

5・ホテルプラザアネックス横手
温泉もあるホテルで、ほっこりします

このホテルは温泉併設のうえ、翌日の朝食の場所から、あの鳥海山が見えたのです。もうびっくり、北の人たちが自慢するのがよく分かった。美しいのひと言でした。

12・ホテルから鳥海山が見えた
出羽富士とはよくぞ言った、見事な鳥海山

さて、フロントに荷物をあずけたところでホテルマネイジャーに暗くなるまでの冬の横手の観光を相談。そして、タクシーをチャーターし、まず横手城へ。ここも“かまくら”がつくられていた。

6・かまくらと横手城
天守閣とかまくら

天守閣から横手市をまずは一望。空には徐々に雲が出始め、午前中のような青空を背景にとはいかぬが、見晴らしは最高。

7・横手城天守閣から横手川と横手市内を一望
横手川と横手市内を一望

そこから後三年の役・金沢(かねざわ)資料館へおもむく。後三年の役(1083−1087年)は奥州藤原氏が奥州に覇権を確立する契機となった戦である。源義家が清原清衡を扶け、この横手の金沢柵に籠る原家衡・武衡軍を破った。その後、清衡は実父の藤原経清の姓に改め、以後、藤原四代の繁栄の礎を築いた。


その金沢(かねざわ)柵のすぐ麓に建てられた後三年の役金沢資料館、この日はなんと休館日。“雪まつり”パンフレットにはこの日は開館すると記載されていたのに、あぁ、残念。記念に無念の閉館の写真のみを撮ることに。

8・後三年の役金沢資料館・休館日でした

あまりに悔しいので、ハズレついでに“平安の風わたる公園 (横手市金沢中野三貫堰)に立ち寄ってもらうことにした。


運転手さんもホテルのマネイジャーも冬は閉鎖されているので無理だと知らされていたが、八幡太郎義家が雁行の乱れで伏兵のあることを知り、難を逃れた場所であるという公園の傍に立ち、一一〇〇年前の世界に羽ばたいてみたいと思ったのである。


そして、平安の風わたる公園へ・・・

9・平安の風わたる公園
公園の散策なんて・・・

わずかに期待していた公園への足の踏み入れも、この一面の雪を見せられるとさすがに諦めがついた。こんな雪深いところで天下に名高い後三年の役という戦があったのかと思うと、感慨ひとしおである。そして、中央の雁がね橋が見通せたのはせめてもの慰めではあった。

10・雁行を象った雁がね橋
冬ざれた小枝の先に雁がね橋が見えた

そんな分厚い雪のなか注意深く目を凝らすと、此の戦の主役たちの銅像が雪囲いされて佇んでいた。

11・雪囲いされた源義家像
雪原のなかに八幡太郎義家の銅像が・・・

一一〇〇年前の恩讐をこえて、いま、こうしてならんでいる銅像を眺めていると、いまだに止むことのない世界中の紛争といった人間の営みや存念なんてなものは、千年経とうが何にも変わっていないのだとつくづく思うしかない。人間の宿業というしかないのだろうかと、やや、やるせない気持ちにもなった。


そんなブルーな気分はやはりこの目の前に展開する一面の雪景色がそうさせるのだろうか・・・



淡雪を散らしたごとく、秩父の節分草(セツブンソウ)は満開でした

さぼりにさぼった彦左の正眼、誰かさんから早くUPしなさいと尻を叩かれ、リ・スタートはまず、大好きな花めぐりのご報告から。

00・一面に節分草
節分草(セツブンソウ)が一面に・・・

3月11、12日で春の訪れを告げる花々を求めて秩父を訪ねた。特にセツブンソウを観てみたいという家内の希望で、秩父郡小鹿野町にある節分草園(両神小森)の見ごろの時期に合わせることになった。

0・キレイ

そこで、泊りは、目的の節分草園に近い国民宿舎両神荘を予約した。

1・国民宿舎両神荘
国民宿舎 両神荘

花園ICで関越自動車道を降り、途中、長瀞で宝登山山頂にある蝋梅園と梅百花園にも立ち寄った。時季は蝋梅が少しでも残っていれば・・・梅が少し咲き始めているはず・・・と、帯に短し襷に長しと中途半端であったが、かなり意欲的な?(世上、それを欲張ったと云う)計画を立てた。


その両日は、関西方面や北海道、日本海側が荒天という気象条件のなか、関東だけは申し訳ないほどのお出かけ日和であった。午前10時45分、宝登山へ到着。早速、ロープーウェイで頂上へ。

2・宝登山ロープウェイ
宝登山ロープウェイ

山頂駅の広場では福寿草がお出迎え。

3・福寿草

そして、急階段を軽やかに?昇り、奥宮を参拝する。

4・宝登山神社の眷属・山犬が鎮座する奥宮
眷属・山犬が狛犬の宝登山神社・奥宮

そのすぐ上が標高497mの宝登山山頂である。

5・宝登山山頂

そこから秩父山地にある二つの百名山である両神山(標高1723)と甲武信ヶ岳(こぶしがだけ・同2475)が見晴らせた。

6・宝登山山頂から両神山を見る

山頂の真下に広がっているのが、東蝋梅園であった。見ごろは既に過ぎていたが、青空を背景に何とか遅咲きの蝋梅を楽しんだ。

7・東蝋梅園の蝋梅
抜けるような青空にのんびり屋の蝋梅

冠雪の秩父山地をバックに撮られた玄人の写真をまねようと試みたが、何せ蝋梅の花が少なすぎ、やはり満開の時でないとそんなショットはとても無理とつぶやいた。

8・両神山と蝋梅
両神山を背景に蝋梅を・・・

それを耳にした家内が云うには、それでもアングルの取り方がかなり難しいのではとの辛辣なコメント。まぁ、今回は腕が試されずに幸いであったということか・・・


山頂から下りかけに梅園が山腹に張りつくように広がる。梅の方はこれから満開となるところである。今日あたりは一斉に開花したのではなかろうか。

9・山腹に広がる梅百花園
この週末は見ごろでしょうね

ここからは武甲山が見渡せるので、梅と武甲山の揃い踏みが撮れるので、おそらくこの週末当りはアマチュアカメラマンが押し寄せ、この山肌にカメラレンズの砲列が並ぶことになるのだろうと想像した。

10・紅梅と武甲山
何とか武甲山をバックに紅梅を撮ってみました

梅園を跡にして、椋神社を経由していよいよ節分草園へと向かうことにした。

到着したのは14時40分。閉園が16時半であるので、ゆっくりと堪能が可能である。

11・受付入り口
節分草園の入口

山間の傾斜地に自生しているため、底冷えする山気が直接、襲うので、閉園間際や天気の悪い日は、相当着込んでいかないと鑑賞どころではないと感じた。

12・傾斜地に節分草が自生する
寒々とした山の斜面一面にセツブンソウ

当日はほんとうに幸いかな気温も暖かく、絶好の鑑賞日和であったが、前日は寒さでじっくりと鑑賞するどころではなかったと売店のおばさんが教えてくれた。


セツブンソウはキンポウゲ科セツブンソウ属の多年草である・・・とWIKIPEDIAに書いてあった。和名はやはり節分の時分に花を咲かせるので、この名があるというが、それくらい想像はつく。

00・まあまあ

園内に足を踏み入れると、陽射しの関係で一面、真っ白に見える箇所がある。

13・節分草の群生

これって、満開・・・と目を凝らすと実に山肌一面に淡雪のごとく節分草の花が咲いている・・・とわたしが嘆声を発した。

14・淡雪
淡雪が降りたみたいですね・・・

すると、家内が白い花に見えるのは萼片(がくへん)で、花びらではないのよとご教授くださる。

15・きれいです

ありがとうとお礼を言いつつも、内心、興ざめさせるな!!と小声でつぶやく真正理科音痴。あぁ、小学校でもっとしっかり理科の授業を聴いておけばよかったと反省。


花弁自体は退化して黄色の蜜槽となり、多数のおしべと共にめしべの周りに並んでいるのだそうな。

16・花弁が黄色
接写しました・・・小さな黄色の点々が花びらですからね

家内が必死に携帯で接写していたので、わたしが鮮明な映像を撮ってやった。

どうだ、これが節分草の萼片(白)と花弁(黄)と雄蕊と中心にあるのが雌蕊であります。

17・花弁と萼片
クリックして更に拡大してください、黄色の花弁の先は二又です

それとかわいいと叫ぶので、蕾が開花しかけの花も撮りました。うん、なるほど結構、かわいらしいと思った。

18・つぼみ
つぼみも可愛らしいですね

そんな節分草園。そんなに人は多くはなかったが、われわれは園内を端から端まで探検しつくし、写真も丁寧に撮ったため、通常の人は20分ほどで一周するものを50分もかかってしまった。

19・白のコントラスト
自生する節分草、自然は大切にとほんとうに思った景観です

家内は満開の節分草に出会えて、それはそれは満足のご様子でありました。

わたしは出口の売店で大好きな干し柿を土産に買って、それはそれで満足の体で、当日の宿泊先、両神荘へと車を走らせたのでありました。




 

世界遺産富岡製糸場、近代日本の曙を見る

富岡市富岡1番地1  ☎ 0274−64−0005


長野の善光寺参りの帰途、日ごろ利用することの少ない上信越自動車道を通行した。

好天にも恵まれ、帰宅までの時間も余裕があったことから富岡ICで下車、約10分(駐車場まで)のところにある富岡製糸場を見学した。

1・富岡製糸場正門
富岡製糸場正門

日本の世界遺産は、現在、14件の文化遺産(法隆寺、京都の文化財など)と4件の自然遺産(白神山地、知床など・富士山は文化遺産)の合計18件が登録されている。

2・法隆寺・世界遺産石碑
日本初の世界文化遺産の法隆寺

富国強兵を強力に推し進めた近代日本の象徴でもある富岡製糸場は、長期間の蚕種貯蔵を可能にした“荒船風穴(下仁田町)”や清涼育という養蚕技術を確立した“田島弥平旧宅(伊勢崎市)”などの養蚕関連の文化財と合わせ「富岡製糸場と絹産業遺産群」として平成26年6月25日に、昨年6月の富士山につづき世界遺産の文化遺産に登録された。

3・木骨レンガ造りの東繭倉庫
木骨レンガ造りの東繭倉庫

富岡製糸場について我々世代は、機械がズラッと並ぶ工場内で生糸生産に励む着物姿の女工さんたちの写真を教科書で一度は目にしていると思う。


富岡ICから富岡市の公設駐車場が富岡製糸場の徒歩10分圏内に4か所設けられている。われわれはちょっと遠いが、唯一の無料駐車場のP4に停めてのんびり徒歩で20分ほどゆき富岡製糸場へ到着。P1〜3の有料駐車場(100円/30分)からは徒歩10分ほどで便利。

4・上信電鉄”上州富岡駅”前歩道
上信電鉄・上信富岡駅前舗道

また、駐車場から製糸場への途中には駐車料1000円ほどの数台程度停められる私営の臨時駐車場があり、足元が悪い人は休日の混雑時でない限り工場近くまでアクセスが可能である。


当日は横川ICから富岡製糸場問い合わせの番号に電話し、混雑を確認した。12時過ぎであったこともあり、待ち時間は5分ほどとのことであったが、実際に工場に着き、受付の時間待ちはなく、とてもスムーズに入場できた。


ただ、場内にはボランティアガイドさんに引率された団体、グループの見学者が多く、そうした人々の波を上手に掻い潜り自分のペースで見て回りたい方々は受付でイヤフォーンガイド(200円)を借りるとよい。

5・場内には団体客が多い
平日でも団体客で賑わう(東繭倉庫前)

興味があるところはじっくり、そうでもないところはさっと見るだけといった臨機応変の見学が効率性もよく、おすすめである。

6・繰糸場内と製紙機械
繰糸場内、ここで着物姿の女工さんが製紙器械を操作していた

また、ちょっとしたエピソードや詳しい説明が欲しい人はちょっと面倒でもボランティアガイドさんに引率された見学が質問も可能であるのでお薦めである。


われわれはイヤフォーンを借り、通りすがりにボラティアさんの面白そうな話は立ち止まって耳を傾けるといった都合の良い廻り方をした。

7・繰糸場外観
繰糸場外観

そんなこんなで約1時間半で富岡製糸工場見学を終えたが、多分、混んでいるときにはもう少し時間の余裕を見る方がよいと思う。


残念であったのは、今年2月の豪雪で乾燥場がほぼ全壊し、それがまだ再建されずに見学不能であったことである。

8・雪害で崩壊した乾燥場と煙突
雪害で乾燥工場は崩壊、煙突のみ残る

世界遺産登録が確定していたにもかかわらずにこうした被害に合わざるを得なかったのは、この国の文化財行政予算の貧困によるものではなかったかと慙愧に堪えない。


富岡製糸場は明治5年(1872)に日本初の近代的官営工場として設立、運営された。

BlogPaint
東繭倉庫入口上部に”明治五年”の刻字

そして、富国強兵を企図する明治政府が日本の輸出産業の柱となる生糸生産の近代化を急ぎ、その結果、外貨獲得に大きく寄与したと理解していた。


しかし、今回の見学で、その工場の設立目的が直接的な生糸生産にあるのではなく、全国に近代的製糸工場を増やしてゆく際の機械操作の女性指導者を育成する教育機関であったことを初めて知った。

10・女工館(仏人女性指導者宿舎
女工館(仏人女性教官の宿舎)

フランス人のポール・ブリュナ(Paul Brunat)がその日本人幹部女性の教育指導に当たったが、当初は彼が呑む赤ワインは若い女性の生血であるといった話が信じられ、全国から応募を募ったが人が集まらず、大変な苦労をしたのだという。

11・ブリュナ館  12・ブリュナ館・裏手より
壮大なブリュナ館(左:表側 右:裏手よりテラスつきの広大な住居)

そしてそんな苦労を乗り越え、器械製紙産業の普及、技術者育成という当初の目的が遂げられた明治明治26年(1893)に三井家に払い下げされ、ここで民間企業としての歴史を刻み始めている。


その後、明治35年には横浜の三渓園で有名な原合名会社に譲渡され、昭和13年には株式会社富岡製糸所として独立。戦時色の強まる昭和14年には当時、日本最大の製糸会社であった片倉製糸紡績株式会社(現・片倉工業株式会社)に合併された。

13・旧・片倉組事務所(岡谷市)
岡谷市に現存する旧片倉組事務所

戦後も現役の製糸工場として稼働を続けたものの、生糸産業の衰退も極まり、昭和62年にとうとう操業停止のやむなきに至った。


明治初期から昭和62年までの115年間におよぶ富岡製糸場の歴史の内、官営工場であった期間はわずかに21年間であったことは、ちょっと意外であった。

14・西繭倉庫
西繭倉庫

明治政府の官がやるべき時は官、民がやるべき時期には民という機動性、迅速性、効率性といった政治哲学は、今の政治がなかなか上手く公営事業の民営化を果たすことが出来ぬことと較べ、学ぶべき点が数多あると思い知らされたものである。

15・右が東繭倉庫、左が女工館
右が東繭倉庫、左が女工館

秋の好日、そんな近代日本の曙の息吹が感じられる世界遺産・富岡製糸場を見学できたことは実り多い貴重な一日であった。


佐渡の旬が旨すぎる、純朴な鮨屋・“すしの魚秀”

佐渡市両津夷136(両津港前)  ☎ 0259-27-5610


佐渡へお昼時に到着。

1・両津港に着岸したジェットフォイル    2・佐渡汽船乗場
両津港に着岸・ジェットフォイル          佐渡汽船乗場

まずは腹ごしらえと寄ったのが、予て狙い定めていた“すしの魚秀”。

3・佐渡汽船・両津港前
佐渡汽船乗場前に”すしの魚秀”のビル

佐渡汽船の両津港乗場の真ん前の小さなビルにあるので、非常にわかりやすいお店である。

4・魚秀
”すしの魚秀”のこれが入口です

“毎朝直接地元の魚市場で水揚げされた鮮魚をセリ落として仕入れている”との謳い文句に魅かれての来店である。店はビルの一階。


店内は、カウンター席に5人ほど。

5・カウンター
カウンター

入れ込みの小上りに座卓が4つだったかで合計26席という鮨屋である。

カウンターに坐って、家内は本日のお薦め握りを注文。

6・本日のお薦め握り
本日のお薦め7貫

わたしは好きなものを適宜、頼むことにした。

7・おこぜとまとう鯛
白身大好きの彦左は、おこぜとまとう鯛を注文

二人が食べ終わってみると、何のことはないメインのものはほとんど一緒のもので、謳い文句にあるように、今朝、水揚げされた地物であったということ。


なかでも特筆すべきものが、まず当店のウリとなっている“イカのワタ入り”。

8・イカのわた入り
うっすらと薄墨のように見えるのが腸(はらわた)

腸(はらわた)をワサビ代わりに入れ込んだもので、ワタの苦みとイカの甘みが海鮮の旨味を引き立たせ、漁港の鮨屋ならではのまさに逸品であった。


次に大振りのトビウオも珍しく、これまた推奨ものである。

9・トビウオ
トビウオの握り、初めてでした

ばい貝もコリッとしながら歯切れもよく、美味しい。

10・ばい貝
ばい貝も大振りで、なんか素朴な握りでした

それから、当日の極め付きが“ノドグロ”の握りである。新潟の高級魚、ノドグロが握りで食べられる。

11・ノドグロの炙り

目の前に差し出された一貫は、少し炙りをいれたノドグロは脂が適度に落ち、皮の香ばしさも加わり美味である。新潟佐渡でしか食せぬ、これぞ“すしの魚秀”の面目躍如たる握りであった。


最後に自家製の“玉”を紹介しておかねばならぬ。最近の鮨屋の大概は手間がかかる玉は、専門店からの仕入れに頼る先が多いが、魚秀のショーケースの上に鎮座するものは見るからに正真正銘の自家ものである。

12・魚秀の自家製の玉

甘過ぎず塩辛過ぎず、昔懐かしい素朴で温かみのある味であった。

13・玉
この焦げ目がなんだか懐かしい・・・


お店の佇まいは粋などと格好つけるようなものではない、正真正銘の田舎の店である。

そして店主の北浩史さんは口数は少ないし、客あしらいが上手とはあまり思えぬ純朴な人柄。


しかし、その分というのも変だが、ネタの目利きや素材の生かし方には創意工夫が見られ、職人はやはりこうでなければと思わせる人物である。


佐渡を訪ねる機会があったら、両津港前の“すしの魚秀”に立ち寄って、ちょっと不愛想だが本当は好人物の北さんが握る佐渡の旬の鮨をぜひ抓(つま)んでいただきたい。


佐渡の旅は“魚秀”の地の魚の味から始まる・・・食いしん坊を自認する人はトライする価値は十分にあると考える。


ただ、フェリーだと特に大人数の観光客が一斉に下船して来る。

14・佐渡汽船カーフェリー・おけさ丸
佐渡島沖を走る佐渡汽船カーフェリー・おけさ丸

加えて両津港近くでの食事処は多くないので、小さなお店はすぐにいっぱいになる。

そこで、お昼時や夕食時時に船が着く際には、事前に電話で予約を入れておいた方が無難であることは申し添えておく。


佐渡・“トキの森公園”で、朱鷺色?のトキに“トキ”めいた〜=佐渡の旅

流刑の地・佐渡で夢幻能を演じて見せた世阿弥を辿る=佐渡の旅
世阿弥が配流された佐渡島で“天領佐渡両津薪能”にパルピテーション=佐渡の旅
2014年6月9日、佐渡・大野亀はトビシマカンゾウが見頃でした=佐渡の旅
彦左の美術館=佐渡の幻想・大野亀

佐渡といえば〜・・・金山、もちろんごもっとも!!

0・道遊割戸
佐渡金山・道遊の割戸

もうひとつ佐渡といえば〜・・・ハ〜イ・・・トキ! そう学名ニッポニア・ニッポンの朱鷺であります。


てなことで、佐渡到着当日に早速、“トキの森公園(佐渡市新穂長畝383番2)を訪ねた。

2.トキの森公園入口
トキの森公園入口

両津港から3kmほど、車で10分ほどのところにあり、観光バスで来られた観光客も多かった。

3・トキ資料展示館
トキ資料展示館

まずトキについての基本的知識をお勉強しようとトキ資料展示館へ向かう。

4・サドッキー

その手前で、ゆるキャラの“サドッキー”がお出迎え。挨拶するも、声が聞こえなかったのはちょっと残念で物足りなかったかな。いや、老夫婦にそんなサービスしないのかな・・・


館内にはトキの生態やこれまでの飼育の概要や絶滅した日本生まれのトキのはく製などトキをめぐる苦難に満ちた歴史がわかりやすく展示されている。

5・日本最後の朱鷺、キン(2003年死亡)
2003年に亡くなった日本産最後のトキ”キン”のはく製

最後の日本産トキ“キン”のはく製は、人間の欲と都合で絶滅させられた朱鷺の恨みをみるようでどこか恨めしく哀切の表情を浮かべているように見えた。


そこで現在のトキの飼育数は何羽いるかであるが、


平成26年6月8日現在、国内で飼育中のトキは219羽で、平成26年度最初の放鳥は6月6日の19羽だそうです。われわれが訪ねた前日に放鳥されたのですね。


そして、飼育場所も鳥インフルエンザのリスク分散もあって、現在、佐渡のほかに多摩動物公園、いしかわ動物園、出雲市トキ分散飼育センター、長岡市トキ分散飼育センターで数羽から20羽程度がそれぞれ飼育されている。


また、放鳥されて自然界に生息するトキは70羽余り(トキの森HP)だという。


この6月20日、環境省は、佐渡市で放鳥されたトキから数えて3世代目にあたる野生の幼鳥1羽が、単独で餌を探す姿を初めて撮影したと発表した。徐々にではあるが自然界でたくましく生きるトキが増えていく様子が知れてうれしい限りである。


さて、数字の話ここまでで、われわれは展示館を抜けてガラス張りの観察回廊へ向かう。回廊から20mほど離れて繁殖ケージが設置されている。

6・観察回廊からトキの繁殖ケージを見る
繁殖ケージのひとつ。拡大してください、トキがいます。

ちょっと見づらいが、止まり木に憩う成鳥のトキたちが見える。朱鷺色の羽を広げた写真をと狙うも思うように朱鷺もサービスはしてくれない。当然、もちろん当然である。

7・トキふれあいプラザ
トキふれあいプラザ

少々、粘ってみたが見晴らしもそうよくないのであきらめて、次の“トキふれあいプラザ”での機会に賭けようとそちらへ足を運ぶ。ここは2階建てになっていた。

8・飼育ケージ
ふれあいプラザの飼育ケージ

まずケージ全体を見渡せる2階へ上がった。

雛はまだ羽の色もグレーがかっていて、まだ、トキらしさ?が感じられない。

9・二羽の朱鷺

何とかあの朱鷺色をと・・・飛んだ・・・撮ったがボケている・・・

これは腰をすえてシャッターチャンスを待つしかない。なかなか、朱鷺も飛翔しない。

10・3羽の雛が生まれた

ボランティア・ガイドの方も夕方になると活動し始めるので、もうそろそろですよと一生懸命にサービス相勤めてくれるのだが、ようやく飛んでくれても次の止まり木までのほんの2、3秒。

11・わずかに朱鷺色

羽ばたいただけのところを撮るのが精いっぱい。


音の洩れないガラスの内側にいる見物客からは一斉にため息が漏れる。
番(つが)いの朱鷺と今年生まれた三羽の雛がケージ内にいた。

1階から上を見上げてシャッターチャンスを狙ったのだが、雛の羽はまだ朱鷺色になっていないのだといわれた。なるほど・・・

12・子供なので朱鷺色までは
頑張って、これです。雛の羽、まだまだ・・・トキめき色には遠い

写真は撮って構わないが、もちろんフラッシュは禁止。なおさら、ブレるわなぁ・・・


ってなことで、ここでも冒頭に載せた両津港で飛翔するトキのポスターを撮影しておいてよかった。やはり、玄人は違う・・・、当り前か。


1階の窓からはエサを食べるトキを目線の高さで、それも数センチの間近さで見られるというが、この日はこちらには来てくれなかった。ちょっと先にある餌場でエサをついばむ雛鳥を撮らせていただいた。

13・エサをついばむ雛鳥

何だかこのうちの一羽はず〜っと食べていましたが、こうした鳥が生命力があるのだるなぁと感心したりしながら30分ほど頑張ってみたが、後の予定もあるので“トキの森公園”を後にした。

14・たくさんの観光バス

入館締切の4時半まであと30分というのに、まだ、観光バスが到着していたのには驚いた。でも、このご一行のなかで、偶然、美しい朱鷺色を写すことができる人がいたりするんだよなぁ・・・


人生ってそんなところあるでしょ、貴方。ほんと面白いですよねぇ。


流刑の地・佐渡で夢幻能を演じて見せた世阿弥を辿る=佐渡の旅

世阿弥が配流された佐渡島で“天領佐渡両津薪能”にパルピテーション=佐渡の旅
2014年6月9日、佐渡・大野亀はトビシマカンゾウが見頃でした=佐渡の旅
彦左の美術館=佐渡の幻想・大野亀
佐渡・“トキの森公園”で、朱鷺色?のトキに“トキ”めいた〜=佐渡の旅

文中3年(1374)、京都の新熊野(いまくまの)神社(東山区今熊野椥ノ森町42)にて観世清次(後の観阿弥)は結崎座を率い”今熊野勧進猿楽”を興行した。

世阿弥直筆の花鏡から採った”能”の字を刻む石碑
新熊野神社に建つ世阿弥直筆の花鏡から採った”能”の字

時の将軍足利義満はそこで藤若丸(後の世阿弥)を認め、その美貌と技量を高く評価し、父と共に将軍の同朋衆へと取り立てた。


世阿弥は生来の素質を開花させ、義満の庇護の下で申楽を能へと大成させていった。

新熊野神社
能発祥の地、新熊野神社

しかし、齢とともに将軍も代が変わりその恩寵も薄れてゆくなか、観世流の本流は甥の音阿弥(世阿弥の弟・四朗の子)が仕切り、公職たる楽頭職も同人に移っていった。


世阿弥71歳の時、著作・『却来華』のなかで「(後継者であった嫡男の)元雅早世するによて、当流の道絶えて、一座すでに破滅しぬ」と記すなど、能の表舞台から遠ざけられ、後継者たる嫡男を一年前に失い前途を悲観していたことがうかがわれる。


そうした失意のなかにあった永享6年(1434)、罪状は定かではないが72歳という高齢で、第6代将軍義教により佐渡配流の憂き目にあうのである。


さて、世阿弥は佐渡で七編よりなる小謡曲舞(こうたいくせまい)集・“金島(きんとう)書” を著している。それに拠って世阿弥所縁の地を訪ねてみることにしよう。


第二編の『海路』に、「下(しも)の弓張りの月もはや、曙の波に松見えて、早くぞ爰

(ここ)に岸影の、爰はと問えば佐渡の海、大田(おほだ)の浦に着きにけり」とあるように、世阿弥は日蓮が上陸した松ヶ崎に隣接する多田の地に配流の一歩を刻んでいる。


「(佐渡に着いた)その夜は大田の浦に留まり、海人の庵の磯枕して、明くれば山路を分け登りて、笠かりという峠に着きて駒を休めたり」とあり、「そのまま山路を降り下れば、長谷と申て観音の霊地わたらせ給。故郷にても聞きし名仏にてわたらせ給えば、ねんごろに礼拝」している。

3.観音堂から見る長谷の山々
長谷寺観音堂から見る長谷の山並み

配流一日目は多田の浦で一泊、翌日、笠借峠(現在の笠取峠・誤記との説も)を越える。そして、長谷(ちょうこく)寺に立ち寄っている。

4.長谷寺・仁王門
長谷寺・仁王門

そこで今では33年に一回開帳される秘仏のご本尊、十一面観音立像三体を世阿弥は礼拝したと記している。

5.階段上に観音堂
自然石の急な石段がつづく

長谷寺の急な石段を登り切った処に観音堂が建つ。

6.長谷寺・本堂
長谷寺・本堂

そして本堂は石段半ばに位置している。

7.世阿弥も参拝した観音堂
観音堂

当時、世阿弥がどちらに礼拝したかはもちろん詳細は分らぬが、説明板は観音堂の前にあった。


長谷寺に立ち寄ったあと、「その夜は雑太(さうた)の郡、新保(しんぽ)と云ところに着きぬ。国の守の代官受け取りて、万福寺と申す少院に宿せたり」とその行程を述べている。

8.世阿弥配処・万福寺跡石碑
佐渡市役所の西側辺りが万福寺跡

いまの佐渡市役所の西に隣接する万福寺跡が最初の配処ということになる。わたしが立つこの地をあの能聖・世阿弥も同じように踏みしめたのかと思うと、”跡”という語感もしみじみと耳に響いてきて趣きがある。

9.万福寺跡説明板

ここが、世阿弥の最初の配処である。

10.万福寺跡石碑

現在、万福寺は廃寺となっており、往時をしのぶよすがはそこに建つ石碑のみである。


第四編の『泉』に、「泉と申す所なり。これはいにしえ順徳院(順徳天皇)の御配所なり。・・・鄙(ひな)の長路(ながじ)の御住居、思いやられて傷(いた)はしや。所は萱が軒端の草、忍ぶの簾絶々(たえだえ)なり」とある。

11.黒木御所跡前
県道306号線に面する順徳天皇配処・黒木御所跡

世阿弥は次の第五編で述べているが万福寺より泉という地に移された。その泉の配処・正法(しょうぼう)寺から北へほんの400mほど歩いたところに順徳天皇(承久の変で配流)の仮御所・黒木御所跡がある。

12.黒木御所敷地内
黒木御所跡敷地内

世阿弥は徒然なるままに近くの黒木御所跡をたびたび訪れていたのであろう。


そして22年間の流刑の末、この地で果てた順徳天皇が荼毘に付された真野山・火葬塚(真野御陵)にも世阿弥は足を運んだに違いない。

13.真野御陵
順徳天皇の火葬塚・真野御陵

そこには天皇が失意のなかたびたび散策されたという御陵参道の先に小暗がりの石道があるからである。

14.奥に順徳天皇の御陵
手前柵外から撮る・この奥に火葬塚

おそらくこの石道を世阿弥は順徳天皇に心を寄せながらひとり歩いたことだろう。

15.真野御陵参道
真野御陵参拝所への参道

今では“順徳天皇遺愛の石道”と刻まれた石柱が道端にぽつんと建つのみである。

16.御陵前に建つ”順徳天皇御遺愛の石道”を刻む石柱
御陵参道の礼拝所への曲り角に建つ”ご遺愛石道”の碑

人影のまったく見えぬひっそりとした世の中から取り残されたようなさびしい小道である。


第五編『十社』に、「かくて国に戦起こりて国中穏やかならず、配所も合戦の巷になりしかば、在所を変えて今の泉という所に宿す。さる程に秋去り冬暮れて、永享7年(1435)の春にもなりぬ」とあり、戦によって新穂の万福寺から逃れ、泉の正法寺へと配流先が変わったことを述べている。

17・正法寺山門
正法寺(しょうぼうじ)山門を見る

そして、この正法寺にて、「ここ当国十社の神まします。敬神のために一曲を法楽す」とあり、能を奉納したことが記されている。

18・正法寺本殿
正法寺・本殿

これが佐渡で世阿弥が能を舞ったといわれる唯一の記録である。

19・この本堂内で”ろうそく能”を催す
この本堂内で行われる”ろうそく能”のように、世阿弥もここで舞ったのか・・・

であれば、正法寺に伝わる世阿弥の“雨乞いの面”を被り、世阿弥がこの本堂で能を舞ったということも十分、考えられるのである。

20・神事面べしみ・佐渡HDR写真研究所より
正法寺に伝わる世阿弥の雨乞いの面(佐渡HDR写真研究所より)

後日、分かったのだが、事前に正法寺に電話でお願いしておけば、住職自ら、雨乞いの面を見せていただけるということで、残念至極、無念やるかたないところである。

21・世阿弥太夫御腰掛石
世阿弥の腰掛石

境内には、世阿弥が腰掛けたと伝わる“腰掛石”も史蹟として残されている。

能に興味のあられる方は、是非とも訪れる価値のある正法寺である。

22・山門前に”世阿弥太夫旧跡記念碑”
正法寺山門前に建つ”世阿弥太夫旧蹟記念碑”

正法寺は記録で確認される限り世阿弥が最後に能を舞った処である。まさに能のパワースポットともいえる場所である。


そして、嫡男元雅亡き後、後継者と定めた女婿・金春禅竹に宛てた書状、永享7年(1435)6月8日付の “佐渡状”を最後に、世阿弥の足跡は張りつめた絹糸を断ち切ったように見事なまでに絶たれ、その行方、没年も杳(よう)として知れないのである。


一説によれば、嘉吉3年(1443)、世阿弥は81歳で他界したという。

観月能・紅葉狩り
厳島・観月能

その歿地も佐渡であったのか赦免されてどこか他国にて死去したのか、宿敵義教暗殺が観能の最中だったという宿怨、まさに怨霊を演ずる夢幻能のごとく世阿弥はその現身を霧の中にかき消すようにして己の生涯の幕を閉じたのである。


能を能たらしめた夢幻能を世阿弥自身が存在を晦ますことによって昇華させたとしか云えぬ不思議な夢現の生涯であったように思えてならない。





2014年6月9日、佐渡・大野亀はトビシマカンゾウが見頃でした=佐渡の旅

世阿弥が配流された佐渡島で“天領佐渡両津薪能”にパルピテーション=佐渡の旅
流刑の地・佐渡で夢幻能を演じて見せた世阿弥を辿る=佐渡の旅
彦左の美術館=佐渡の幻想・大野亀
佐渡・“トキの森公園”で、朱鷺色?のトキに“トキ”めいた〜=佐渡の旅

家内が会員となっているJR東日本・“大人の休日倶楽部”から毎月、“旅マガジン”という小冊子が送られてくる。そのなかに、日本海をバックにトビシマカンゾウが群生する写真が掲載されていた。


花が大好きで、毎年、やれレンゲツツジだ、もうニッコウキスゲだと蓼科へ通っている家内がこの景観に飛びつかぬはずはない。

霧ヶ峰・富士見台のニッコウキスゲ
霧ヶ峰・富士見台のニッコウキスゲ(2013年7月17日)

ということで、トビシマカンゾウとの出逢いを求めた佐渡の旅となった次第。時期は6月上旬がよいというので下調べをすると薪能もその月に全島で開催されるというので観能も兼ねての旅となった。


今を去ること“うん十年”前の青春時代に訪れた北海道・積丹(しゃこたん)半島の覆いつくすように乱れ咲くエゾカンゾウの話を何度聞かされたことか・・・


さて、トビシマカンゾウであるが、ニッコウキスゲとの違いがよく分らぬ。そこで調べてみると、こうである。


トビシマカンゾウはユリ目・ユリ科・禅庭花(ゼンテイカ)orワスレグサ属の一種であり、ニッコウキスゲもこの系統のなかにあり、ゼンテイカ属に属す一種なのだという。


要は高原に咲くのがニッコウキスゲ、島嶼部に咲いているのがトビシマカンゾウと素人はザックリと覚えておけばよさそうである。


そこで、なぜ、トビシマかと云うと山形県酒田港沖合39kmに浮かぶ飛島で発見されたことからその和名がついたとのこと。


そして、このトビシマカンゾウは飛島と酒田海岸とここ佐渡の地にだけ棲息している稀種であるという。


さぁ御託はそれくらいにして、大野亀のトビシマカンゾウの群生をご覧にいれよう。


大野亀は佐渡島の北端にあるひとつ岩の山塊である。佐渡45号一周線で佐渡島の西海岸を北上し、その突端に近づくと遠くに岬が見えて来る。海に向かって沈み込んでゆく岬の先っぽに瘤のようなものが見え隠れする。

奥の岬突端にポコンと盛り上がっているのが大野亀
遠くに見える岬の突端にポコンと見えるのが大野亀

海上に突き出しているのが大野亀である。

岬の突端、大野亀

まさに日本の三大巨岩のひとつと謳われる“海抜”167メートルの一枚岩である。大きい、これ全部がひとつの岩だと思ってみると、自然の造作とは半端でないことを思わざるを得ない。

ひとつの山塊である大野亀

因みにあと二つの巨岩は、和歌山県古座川町の高さ100m、幅500mにおよぶ“古座の一枚岩”と屋久島の高さ200mの“千尋(せんひろ)の滝の花崗岩”だとのこと。


広い駐車場に車を置き、早速、大野亀の裾のなだらかな丘陵を登ってゆく。

なだらかな丘陵を登ってゆく
正面丘の左手に大野亀

突当りで左に曲がれば、大野亀の頂上を目指す道となる。

大野亀への道傍にはトビシマカンゾウが見当たりません
写真真ん中のT字路で右手に上がってきました。見えるのは大野亀頂上。

こちらの方は日当たりの関係かそもそもトビシマカンゾウの株が少ないのか、黄色い花は疎らである。頂上に登って見渡す景色は圧巻とはわかっていても、傾斜のきつい一本道を見るだけで、当方、あっさり登頂を諦める。


反対に右手の二ツ亀方向の斜面一面はいまを盛りにトビシマカンゾウの群生である。


大野亀を背に、二ツ亀方向を
右手にトビシマカンゾウの群生、海上に二ツ亀が見える

橙黄色で埋め尽くされて、これはさすがトビシマカンゾウと唸り声を上げるしかないダイナミックな景観である。

トビシマカンゾウと二ツ亀

信州の霧ヶ峰や車山の高原で見るニッコウキスゲの風景とは異なり、橙黄色の花々の向こうに空と海を切裂く絹糸のように繊細な水平線が見える。胸のすくようなスカッとした光景である。


そして遊歩道の手すりから身を乗り出すと、切り立った崖から海際まで橙黄色の絵の具を垂れ流したようにカンゾウの花が滴り落ちていた。

波打ち際までカンゾウの花が

群青色の穏やかな海面には沖合に出てゆく漁船の澪が二筋、暢々と糸を曳いている・・・

漁船とトビシマカンゾウ

真っ青な空をバックに橙黄色のトビシマカンゾウの花を見上げる。美しい・・・

佐渡の空にトビシマカンゾウがよく似合う

梅雨入りして間近だが、前日の小雨模様は一転、日本晴れである。空高く、一羽の鳶がゆっくりと輪を描いている。

日本晴れ

当日は6月9日、例年開催される“カンゾウ祭り”の翌日であった。

トビシマカンゾウの群生

花は7分咲き程度とみられるが、日当たりの加減であろうか、一日花のカンゾウはある所はもう萎んでいるが、ある個所は一面、満開と目を向ける方向で橙黄色の世界には濃淡がある。

BlogPaint

昭和30年代にはこの大野亀は牛の放牧が盛んで、牛が雑草を食べてくれたので、6月には本当に橙黄色の絨毯を一面に敷き詰めたようであったという。

トビシマカンゾウと大野亀

その放牧がすたれてゆくと同時に熊笹をはじめ雑草が繁茂し、徐々にトビシマカンゾウが駆逐されていき、このままでは大野亀のトビシマカンゾウも絶滅の危機に瀕した時期もあったそうである。


それを見て、地元の人々が雑草の手入れを行なうようになり、現在の景観を取り戻していったということである。

佐渡を世界遺産に

いま、佐渡は佐渡金山の遺跡を柱に世界遺産登録を目指している。心から応援したいと思う。


と同時に、大切に守られてきた素晴らしい自然が大勢の人出で踏みにじられる危機をわざわざ作り出さなくともよいのではないかという逡巡する気持ちも生まれて来る。


トビシマカンゾウ越しに眼の前に広がる渺々(びょうびょう)たる日本海を眺めていると、そうした相矛盾した気持ちが交錯し、ちょっと複雑な気分に襲われたのである。





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2014年6月9日、佐渡・大野亀はトビシマカンゾウが見頃でした

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佐渡・“トキの森公園”で、朱鷺色?のトキに“トキ”めいた〜=佐渡の旅


六月七日、椎崎諏訪神社にて“天領佐渡両津薪能”に興じた。

薪能・花月

佐渡には神社の境内を中心に33もの能舞台が存在し、その数は日本全体の能舞台の1/3におよんでいる(新潟文化物語・佐渡の能)という。

2・大膳神社能舞台
大膳神社能舞台

佐渡がこれほど能に縁の深い土地となったのには、初代佐渡奉行となった大久保長安の貢献が大きい。

3・佐渡奉行所
佐渡奉行所

佐渡金山の生産量を飛躍的に伸張させた大久保長安であるが、大和の猿楽師の息子に生まれ、必然、能の愛好家でもあった。

4・佐渡金山・道遊の割戸
佐渡金山・道遊の割戸

それゆえ長安は佐渡に春日神社を建立し、大和から常太夫と杢太夫を招き、能を奉納した。その後、二人は佐渡(相川)に留まり、土地の人に能の手ほどきをしたと伝えられている。


当初は武士の間で能が楽しまれてきたが、孤島の佐渡では支配階級の武士の人数も少なく、任期も短いなか一国天領というのびのびとした国柄もあり、徐々に庶民が能に接するようになり、神社への奉納舞としての出自を背負ったこともあり、神事として領民の生活の一部ともなっていったものと考えられる。

29・ワキと地謡
地元の人による地謡とワキ

そうした経緯、背景から佐渡の人々にとっての“お能”は、単に受け身の観るものではなく、自らが舞い、謡(うた)い、囃(はや)す能動的なもので、まさに自らが能を演じる“演能”として育っていったのである。

30・囃方
囃方ももちろん地元の方々

能が最盛期となった幕末から明治、大正年間には、島内の能舞台は200を超えるほどの数となったということである。


現在に残っているのは33と大きく数を減らしているとはいえ、依然、日本全体の1/3の数を擁する能興行のメッカであると言ってよい。六月は週末ごと集中的に能が上演されており、週末に来島した観光客はどこかで能を鑑賞できることになっている。


6月7日(土)に“天領佐渡両津薪能”を椎崎諏訪神社で観覧した。

7・諏訪神社
椎崎諏訪神社

椎崎諏訪神社の境内にはりっぱな能舞台が常設されている。

10・椎崎諏訪神社・能舞台
椎崎諏訪神社能舞台

当日は境内内といってよい場所に立地するホテルを宿泊先としていた。薪能の開演は7時半ということで、まず賀茂湖を見下ろす露天風呂で一汗流し、荷物をホテル従業員に預けて、そのまま諏訪神社におもむく。

6・薪能案内板
薪能案内板

境内には能舞台前にブルーシートが敷かれ、その後ろに椅子席が設けられていた。観覧料はひとり五百円。

8・諏訪神社拝殿と薪能の見所
諏訪神社拝殿と見所

われわれは地の利を活かし、一時間少し前に席を確保した。椅子席の方が足腰には楽だし、能舞台の床、つまり演者の足元もよく見えるのでよいのだが、かぶりつき(下世話な言い方で失礼)で見ることなどそうそう機会はないということで、正面の階(きざはし)の真ん前に陣取った。

9・見所正面に陣取る
見所正面に陣取る

どっかとシートに腰を下ろし、開演までの一時間余を拝殿での参拝、舞台の見学、薪能の開演直前の段取り等を具に観察させてもらった。

11・火入れ式を待つ巫女さん
火入れ式を待つ巫女さん

七時半に近づくと、ぞくぞくと客が集合。旅館の送迎バスも繰出すなど、この演能月間が観光客に周知されていることを知る。


時間通りに開演するも、場内アナウンスで開演直前から強まってきた風の影響で、火入れ式は行わないという。火の粉がお客に降りかかるので説明されるが、わたしをはじめ観客ははしたなくも「えぇ〜!」と、ブーイングの声を上げた。


これでは薪能のあの幽玄の空気感が整わない・・・

佐渡まで来たのに・・・と、心中、恨み節でいっぱいである。


時折、強い風が境内の巨木の枝をご〜っと鳴らすなか、いよいよ開演である。

ふと頭を上げると西の上空に上弦の月が鮮やかに見えた。

12・上弦の月
上弦の月

天気は大丈夫そうだ。まず、能の前に仕舞が披露される。

切戸口から舞手と地謡が入場してくると、さすがに場内は一斉に鎮まり、舞台上に目が吸いつけられる。

高校生だろうか鈴木貴江さんが天鼓を舞う。

13・仕舞 天鼓

次に、福島かおりさんが山姥を舞う。

15・仕舞 山姥

両人ともその所作、構えと運びはりりしく、美しい。本格的に修行をされていると心から思った。

14・天鼓を舞う鈴木貴江さん

そして賀茂湖を渡る風が能舞台の演者と見所の観客を包み込むようで、一体感を感じる。

16・山姥を舞う福島かおりさん

厳粛な仕舞が終わる。暗くなった境内に咳(しわぶき)のひとつもない。


そこに風がおさまってきたので、薪に火をつけるという。場内に拍手が湧く。正式な火入れ式は残念ながら省略され、待機していた巫女さんもさぞ残念であったろうと思う。

32・篝火

それでも、松明を手にした古風な装束の火守り役の若者が二人、篝(かがり)に火を燈す。

17・薪能の篝火

炎が夜風に揺れ、火の粉が飛ぶ・・・やはり、薪能はこれでなくっちゃ・・・


薪能に興じる脇正面の観客
脇正面の観客も薪能に見入る

気分が盛り上がったところで、いよいよ能・“花月”の上演である。

19・シテの登場
シテの登場

 
“能・花月”は行方不明になった息子を探し、僧となって諸国をめぐる父(ワキ)が、都の清水寺の門前で喝食(かっしき)となった息子・花月(シテ)と再会する場面の遣り取りを描いた物語である。

20・シテと間の絡み
シテと間の絡み

出逢いを仲立ちした門前の男(間)が旅僧のために所望し、花月に恋の唄を詠わせ、弓矢の舞を舞わせる。

21・弓矢で・・・ 22・鶯に狙いをつけるも・・・

次いで、清水寺の縁起を曲舞で舞う、その演技は見物である。

23・曲舞を舞う 24・曲舞

そして、その間の遣り取りで親子と判って、花月が鞨鼓を打ち叩きながら天狗にさらわれてからの身の上話をする件(くだり)が能の最高潮の場面となる。

26・鞨鼓を打つ

能舞台の灯りと白洲の篝火と月明かりのみの闇のなか、自然の風が渡る神社の境内で繰り広げられる薪能・“花月”。

27・序破急の急

東京の国立能楽堂でのいわゆる職業能、玄人による能と比較しても、一歩も引けを取らぬ出来栄えであり、質である。

25・殺生を思いとどまる

もちろん、当方、能についてはズブの素人ではあるが、その全身で受け止めた“天領佐渡両津薪能”からのパルピテーションPalpitation)は、あきらかに国立能楽堂のエアコンの効いた人工的空間で受けたインパクトとは大きく異なるものであった。

28・終焉へ・・・

薪能が終了、演者が橋掛りから去り、切戸口に消え人影がなくなった能舞台。

31・余韻・・・

まだ灯りを燈され能舞台の明るさが、四囲に押し寄せた漆黒の闇に徐々に融け込んでゆく様子は人間世界の夢うつつの境の実相を顕わしているようでもあり、つい先ほどまで仄かに残された“生”の温かみが冷酷な “死”の世界に非情にも浸み出していっているようにも感じられた。


そんな人の“生き死に”の儚(はかな)さ、老いは確実に“生命”を切り刻んでいるという冷厳な現実を胸に秘め、ホテルまでのわずかな夜道を二人で黙然として戻っていった。






懐かしい“宇高連絡船のうどん”を食べた!!

かつて本州(宇野)と四国(高松)を結ぶ主要幹線であった鉄道連絡船・宇高連絡船は、昭和63年(1988)に瀬戸大橋の開通と同時にその78年に及ぶ歴史の幕を閉じた。

宇野ゆき・四国フェリー
宇野と結ぶ四国フェリー

宇高連絡船を利用した大概の客は、連絡船の上部デッキで売られていた“うどん”の味を忘れられずにいる。

懐かしい連絡船のうどん

四国を郷里とする者、四国に勤務した者、四国に旅した者はあのデッキの上で潮風に吹かれながら“かやくうどん”を啜(スス)ったことを懐かしく思い出す。


四国と関わりを持った人たちと連絡船について語らうとき、必ずと言ってよいほどに、デッキで食べた“あの・うどん”がおいしかった、あの味が懐かしいという。


わたしも、連絡船の“あの・うどん”に強烈なノスタルジーを覚える一人である。


JR四国に勤務する大学時代の友人に、昔、「どうして、連絡船のうどんを止めたのか」と詰問したことがある。


その時、彼は、高松駅の構内で“連絡船うどん”としてお店を開いているので、そこへ行けばその味に再会できると言われた。

JR高松駅
JR四国・高松駅

しかし、時間が食事時に合わなかったり、乗車時間ギリギリだったりして、久しくその機会を得ることが出来ずにいた。


今回、ちょっとした調べものがあり、駅近くの香川県立ミュージアム(高松市玉藻町5-5)を訪れた。そこで、駅まで足を伸ばし遅い昼食として、この“連絡船うどん”を食べにいった。


“連絡船うどん”は高松駅構内・構外の双方から入店でき、その味を堪能できる。今回は構外からお店へ入った。

駅の構外からの入口
駅構外の入口
駅構内の店構え
駅構内の店構え

あの・“かやくうどん”を注文しようとしたが、メニューにそれはなかった。

そこで、シンプルに“かけうどん”を頼んだ。


店外の簡易テーブルに坐って、うどんを啜った。あの薄味の汁である。とてもおいしかった・・・


だけども、このテーブルに瀬戸内の潮風はそよいで来ない。

ここでは瀬戸内の水面に照り映える夕陽の眩さに目を細めることもしない。


そして、連絡船の船尾に流れる澪(ミオ)を無心に見つめることもない・・・


おそらく“あの・うどん”の味はそんなに変わってはいないのだと思う。


かけうどん

このわたしの上に過ぎ去った30数年の月日が、“あの・うどん”の味に薬味のように人生の苦(ニガ)みを加えてしまったのだろう・・・


そして、たとえ、このテーブルが船上のデッキに変わったとしても、わたしは“あの・うどん”の味にもう出会うことはないのだろうと、最後の汁を啜り、静かに箸を置いた。


 

パワースポット、古代吉備国発祥の地・“吉備の中山”、半歩き二日目

パワースポット、古代吉備国発祥の地・“吉備の中山”、半歩き一日目

さて、吉備の中山登攀二日目は9時26分岡山駅発で吉備津駅へ向かう。当日は、実家の高松(四国)に帰省中の家内と吉備津神社で待合せの予定である。実力不相応の険しい山路登攀を決行するわたしの、謂わば出張介護といったところであろうか。


わたしは家内より一時間ほど早めに神社へ到着、境内の写真撮影をのんびりやりながら妻を待つという当初の段取りであった。ところが、朝に弱いわたしは予定より一電車遅れ、家内が一電車早い列車に乗車ということで、わずかに二両編成の車内で遭遇と相成った。トホホ・・・(*´▽`*)


吉備津駅 JR吉備津線・二両編成
吉備津駅と二両編成の車両


てな訳で、二人一緒に吉備津神社拝殿(神社概要は別稿に譲る)で手を合わせ、当日の難行、御陵登りの開始となった。
吉備津神社
吉備津神社・左本殿、右拝殿

拝殿
拝殿でお詣り

南随身門から長い回廊を抜けて、突当り出口から一般道へ出て50mほどで御陵への登山口(吉備の中山遊歩道)へ入る。

長い回廊 御陵への登山口

道は整備されて歩きやすい。鮮やかな新緑が目に痛いほどである。

整備された吉備の中山遊歩道
登りやすいです
素晴らしい新緑です

300mほど緑陰の遊歩道を登ってまた先ほどの自動車道へ出る。茶臼山(海抜160m)方向を見ると、里山のようなひなびた景色が目に飛び込む。頂きに群れる木々がおそらく御陵を覆う樹林なのだろう。

右手が茶臼山、下ると吉備津神社    一般道より茶臼山を望む
左:170段階段方向からみた一般道。右手が茶臼山    右:茶臼山

200mほどゆくと道路左手に中山茶臼山古墳への170段の階段があった。これを登れば直ぐに御陵である。

杖を支えに注意深く一段一段足を運ぶ。時折、大きな段差があり、「よいしょ」と掛け声をかけて、体を持ち上げる必要があったが、総じて、登りやすい階段であった。

170段の階段です

頂上へ到達すると“御陵”という立札が目の前に飛び込んできた。

170段階段の頂上です

「あぁ、やった〜」とのささやかな幸せ感・・・。一方、数歩先に登り切った相方は息も上げることなく、もう御陵方向を望んでいる。

突当りが御陵
突当りが御陵です

痛む膝をさすりながら左手を見ると、まっすぐ伸びた細道の先に目指す御陵の拝所が見えた。
そして、宮内庁管理のため厳重に柵が廻らされ、下から御陵の上方に建つ鳥居を仰ぎ見た。

大吉備津彦命の墓
大吉備津彦命の御陵

柵の奥に古墳時代前期に築造されたという全長120mの前方後円墳・中山茶臼山古墳の鬱蒼たる森が広がる。

茶臼山古墳の鬱蒼たる森

往古、この山裾まで瀬戸内の海が入り込んでいたという。いまは、“吉備津”という湊を意味する名前にかつてこの辺りに充溢していたであろう潮の香を偲ぶのみであるが、桃太郎に擬せられる大吉備津彦命の墓は、むか〜し、この日のような真っ青な空を背に従え、この吉備の中山の頂きから眼下に広がる瀬戸内海を睥睨していたのであろう。

吉備の中山、左が龍王山、右が茶臼山
吉備の中山:左が龍王山、右手が茶臼山。大昔、この山裾を海の波が洗っていた

その御陵拝所の右手に備前と備中を分ける“国境石”がある。

国境石

吉備国の分国(備前・備中・備後)はいつかということだが、『岡山県通史』(永山卯三郎著)によれば天武10年(682)から持文武元年(697)の間と推定されるということである。この山がそれ以前の大きな吉備の中心にあるので、“吉備の中山”と呼ばれたというのである。

備前國御津郡 備中國吉備郡
左:備前國御津郡   右:備中國吉備郡
備前国  備中国
左:備前國                  右:備中國

その備前と備中の国境を標す国境石。御陵正面の方が備中、向こうが備前である。

小さな石であるので、見落とさぬよう注意が必要である。


さて、御陵前のベンチつまり備中側で持参のお握りで軽く昼食をとり、息を整えてから本日お目当ての“石舟古墳”を目指し、歩き出した。

古墳を廻る土塁
国境石を越え、古墳の東側へ向かう。古墳を廻る土塁に沿ってゆく

そして、国境石を越え備中國に入り、古墳を右手東側に回り込む細い山路をたどる。木の根っこなどがあり、足の不自由なわたしは注意深く足を運ばねばならぬ悪路である。

御陵の東側・前方墳から後円墳に向けて撮影
古墳の東側、前方墳から後円墳を見る

ちょうど前方後円墳の前方墳から後円墳に向けてうねる起伏の径を歩いてゆく。

途中に、“穴観音”があった。説明版によると、「昔からの云い伝えで、側面の穴に耳を当てると、観音様のお声が聞こえるという俗信仰があり、縁日には参拝客が多い。古墳築造時よりこの場所にあり、原始的祭祀行事の場所であった」 とある。

穴観音と後方に後円墳

いまでは、そんなに人が訪ねて来るといった様子ではなく、山深い古墳の裾にひっそりと鎮まっており、なかなか雰囲気のあるパワースポットといった趣きである。

後円墳の東に鎮まる穴観音

ここは、この下50mほどにある八徳寺(神社)の奥宮であったと推測され、これらの岩は古代、まさに磐座であったと考えるべきである。

手前の磐座に穴が開いている
手前の石の横に穴が穿たれている

そして、穴観音の位置は茶臼山古墳の後円墳の中心部分の東側となっており、横穴式石室があるとすれば、ここが古墳を拝する正面部分に当たる。

また、竪穴式墓室としてもここから真西に墓室があることになり、この場所は本来、古墳を拝する最も聖なるポイントということになると、わたしは考えている。


さて、そこを離れて石舟古墳を目指して歩いていると、胸に“古代吉備文化センター”と印した男性が私たちを追い抜くや、ちょっと振り返って、どちらまでと問うた。


石舟古墳と答えると、わたしの覚束ない足で急坂を下るのは難しいという。そこで、家内と相談のうえ、石舟古墳を断念。紹介された近くの吉備桜を鑑賞しにゆく。見ごろは過ぎていたが、その大きさ、りっぱな枝ぶりには驚嘆した。

吉備櫻 満開は過ぎていました
四股に分かれた吉備桜の古木 満開は過ぎていたが、大きさにビックリ

そして、ちょっと下った先にある、往古の高麗寺跡に比定される八徳寺に立ち寄る。寺というより、さびれた小屋のように見えたが、一応、お祀りはしているようである。高麗寺は源平盛衰記に「大納言(藤原成親)の御座する有木の別所高麗寺というのは備前と備中の境・・・」とあり、写真の石柱が高麗寺金堂の礎石の一つの跡を標すものである。

山腹の平坦地に八徳寺・右斜め上御陵

八徳寺は明治初期の「一品吉備津宮社記」の末社に関する記載中に「波津登玖(ハットク)神社。小祠。此地坪今属備前国。祭神温羅命」とあり、この八徳寺という山寺が波津登玖神社と同一のものと考えられるとのこと(「考えながら歩く吉備路」・薬師寺慎一著)。

八徳寺

大吉備津彦命が退治した温羅(ウラ)を祀る神社がその御陵のすぐ脇にあることが不思議と言えば不思議である・・・。本当に温羅は悪者だったのか・・・。民に慕われていたのではないのか・・・。ひっそりと佇む八徳寺を見ていると、そういう気が確かにしてくるのである。

手前石柱の下に高麗寺礎石が埋まる
手前の石柱の下に高麗寺の礎石が埋まっている

それから、そこを後にして御陵の横に広がる“古墳公園” の広場に向かった。

八徳寺から古墳公園への道
手前、八徳寺から古墳公園への道

茶臼山山頂にぽっかり広がる平坦地。そこから遠くに常山が見え、眺望は最高である。

古墳公園 古墳公園・奥にいくと御陵
左:古墳公園からの眺望 右:この奥は170段階段、その先、御陵へ通じる

そして、そこからまた170段の階段を下り、吉備津神社へと戻って行った。


石舟古墳を見られず誠に残念であったが、この日は天気も良く、絶好のハイキング日和であり、眩いほどの新緑のなか、それなりの幸せを感じられた一日であった。


また、万歩計も前日に引き続き14000歩を越え、わたしのリハビリにはきわめて充実した一日であった。


 

パワースポット、古代吉備国発祥の地・“吉備の中山”、半歩き一日目

パワースポット、古代吉備国発祥の地・“吉備の中山”、半歩き二日目

まがね吹く吉備の中山帯にせる細谷川のおとのさやけさ(古今和歌集)

ときはなる吉備の中山おしなべてちとせを松の深き色かな(新古今和歌集)


古来、古今和歌集、新古今和歌集などで詠われている吉備の名山・“吉備の中山”は、現在の岡山市北区に位置し、標高170mの龍王山をはじめ幾つかの山塊から成り立っている。

吉備の中山
JR吉備線・備前一宮駅ホームから”吉備の中山”を見る

江戸後期の儒学者・頼山陽はその一連の山容が鯉に似ているとして“鯉山(りざん)”と呼称したが、吉備国の中心に位置することから“吉備の中山”と号した昔からの呼び名がやはり、この聖なる山の名称としては最も適切であり、意義のある名前と言えよう。


そして、その山腹から頂上にかけては古代吉備国の謎を秘める、首長の墓や巨石信仰遺跡の磐座群が多数存在する。


古より神奈備の山として崇められてきた“吉備の中山”。古代史オタクには堪らぬ魅力と豊富な謎に満ちたスピリチュアル・スポットである。


なかでも、箸墓古墳より古く最古の前方後円墳といわれる矢藤治山古墳や100mを超える大型前方後円墳の尾上車山古墳、御陵と呼ばれる中山茶臼山古墳など前期古墳の一群、石棺が収められた石舟古墳など後期古墳などが注目すべきものとしてあげられる。


4月13日と14日の2日にわたり、“吉備の中山”の山麓に鎮座する備前一の宮・吉備津彦神社と備中一宮・吉備津神社を参詣したが、往古、ご神体でもあったはずの聖なる山・吉備の中山をぜひ散策してみたいと考えたのである。


吉備津彦神社
吉備津彦神社

第一日目は別稿に記す吉備津彦神社を参拝したのちに、本殿向かって左側にある中山登山道口から入山した。その日は標高170mの龍王山の頂上を目指し、元宮磐座、八大龍王の石祠や経塚、そして天柱岩を順次、見学して戻る予定であった。


ところが、境内におられたボランティアの方からこれから雨が降るとの予報であるし、足の不自由なわたしが杖を突きながら登ってゆくには、途中の急坂が半端ではなく、その行程は険しすぎるとのアドバイスをいただいた。


それでは途中まで登ってみて無理だと思ったら戻ってきますということで、ボランティアの方の「注意されて登ってらしてください。くれぐれも無理をなさらずに」との言葉を背に拝殿の左側を廻り、登山口へと向かった。


稲荷神社の朱塗りの鳥居群前を左手に迂回すると、正面に登山口の石柱があった。

稲荷神社鳥居前を左に向かう

登山道入口の脇に、吉備津彦命薨去之地と刻まれた堂々たる石碑が建っている。吉備津彦命(大吉備津彦命)とは、吉備津彦神社のご祭神で、中山の頂上に築かれた中山茶臼山古墳に眠る吉備國平定の英雄である。

大吉備津彦命薨去之地の石碑
吉備津彦命薨去之地の石碑と右側が登山口入口

さて、その登山道であるが、入口付近はきれいに整備された山道で、歩くのに何の不安感も覚えぬものであった。

整備された登山道入口
緩やかな傾斜の登山道入口

その山道に入る前に、左手の平坦な草地の奥に、大きな台石の上に建つ忠魂碑が見える。

忠魂碑

忠魂碑もりっぱだが、その下の巨大な台石を見落としてはならないと言うことであった。その昔、この巨石は今の場所より後方、一段高いところにあったものを、この地に忠魂碑建立の際に、下へおろしてきたのだそうだ。

磐座 古代御社図
左:忠魂碑台石となった磐座  右:古代御社図

そして、巨石の元あった場所が、境内に案内される“古代御社図”に見える“御本社(もともと本殿があった場所)”の位置とほぼ一致することから、これこそが古代吉備津彦神社の本殿といおうか磐座(いわくら)であったというのである。


つまり、古代の神社は現在のような本殿のような建物はなく、自然の中に存在する“磐座”やその背後に麗しい姿を見せる“吉備の中山”こそが信仰の対象であり、聖なる神の憑代(よりしろ)であったという。


その古代の磐座を後にして、いよいよ吉備の中山へと分け入っていった。ゆるやかな傾斜道をゆくと右手に卜方(うらかた)神社(輝武命【備前国岡山藩主の池田氏の祖・信輝の霊を祀る】)が建っている。

卜方神社
卜方神社

そこから100mほどゆくと、こんもりとした盛り土の上に藤原成親の五輪の供養塔が見えて来る。

成親供養塔

成親は俊寛や西光と平家討伐を謀ったいわゆる“鹿ケ谷の謀議”の発覚により備前国に流されたが、配流の1か月後には早やこの地で殺害されたとのことである。

五輪塔と横穴石室古墳

その五輪塔は、なぜか横穴式石室を持つ後期古墳の上にひっそりと建っている。

横穴式石室
横穴式石室

供養塔と石室をのんびり観察していた時、予報通り雨がパラパラと降ってきた。こりゃまずいと、杖の支えも借りて少し足を速め、勇躍、登山にかかりだした。


途中、龍神谷あたりまではゆるやかな坂がつづき、道幅もそこそこに広かったので、歩行はいたって快調であった。まぁ、余裕の歩きであったと、言っておこう。

龍神谷の曲り角
右上から左下に龍神谷の細流が落ちる

だが、次第に道幅が狭まるにつれ勾配もきつくなり、九十九折となった道も粘土質で滑りやすい状態へと変わっていくなど、わたしの歩きに不安の兆しが見えてきた。

道幅も狭く、起伏も急に・・・
何だか、ややこしそうな岨路に・・・

そして、ところどころ、杖を支えに体を持ち上げねばならぬような急勾配の傾斜が多くなるや息も上がって来る。


加えて雨がポタポタと大粒になる気配。このままでは帰りの下り坂がこの雨で滑りやすくなり危険だと判断するに至った。登山道入り口に入ったのが2時12分。そして2時52分に無念の反転を決断。残念至極ではあったが、一人旅、無理はよくない。

ここらで雨もきつく、道も険しくなった
このちょっと先で、無念の転進

それから、ゆっくりと吉備津彦神社へ向かい、下って行った。雨で山の上の清掃作業を終えた人たちがわたしを軽々追い越して、下山してゆく。齢はわたしより上のはずのその一群、足取りのあまりの軽さにほれぼれするしかなかった(通常の足であれば不安を感じるほどの山ではないのだろう)。

軽々と下る作業の人々

そして、吉備津彦神社に到着。再度、お参りした後、吉備線で岡山へ戻り、当夜の宿であるホテルグランヴィア岡山に辿り着いた。


過酷?な山歩きで両脚は筋肉痛というか、もう一歩も歩を進められぬといった状態で、バスタブに急いでお湯を張り、じっくりと足をもみほぐし、明日の吉備津神社からの御陵登攀に備えた。


その後、一息ついてから駅前の赤ちょうちんにでも繰出そうと考えていたが、そぞろ歩きする体力も残っておらず、ホテル内の“吉備膳”という和食店で、ママカリの南蛮漬けをつまみに“鬼の城”など地酒で英気を養う形となった次第である。




秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・御旅所桟敷席より屋台の団子坂登りを堪能

秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=朝
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=昼・下郷笠鉾・中町屋台・中近笠鉾・上町屋台・宮地屋台
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=昼・本町屋台の屋台芝居
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・花火大会 “あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない”
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・御旅所で御神幸行列・御斎場祭


神事が御旅所のなかで続くなか、われわれは屋台が到着するまでの間、桟敷席左斜めと左後方に次々と打ち上げられ、炸裂する大輪の花火の彩りに酔い痴れ、“うわ〜!”、“すごい!”、“キレイ!”などと嘆声をあげ、あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない”の世界にどっぷりと浸る。


そしていよいよ、午後8時半まえ・・・

団子坂方向から秩父囃子の軽やかな音に覆いかぶさるようにして、うねるような群集の響(とよ)みが地鳴りのように伝わってきた。団子坂頂上に、曳き子の人たちが姿を現し、“中近”と標した高張提灯が見えてきた。

00・団子坂頂上に中近の高張提灯が・・・

一番目に、毎年御旅所への一番乗りの栄誉をいただく中近笠鉾がやってきたのである。

1・中近笠鉾、団子坂駆け上る

御神幸につづく笠鉾・屋台の奏曳順は不変ということで、中近笠鉾、下郷笠鉾、宮地屋台、上町屋台、中町屋台、本町屋台の順で続いてゆくのだそうだ。


それから30分後。今度は下郷笠鉾が姿を現す。あの白木造りの笠鉾も、夜の闇のなか強いライトを浴びて身に纏う4千枚の飾り金具が煌めき、笠鉾は金色に輝いている。

2・下郷団子坂

場内になだれ込んで来る曳き子の数の多さにも観客は驚きの声を発する。ものすごい人数である。

下郷屋台一番乗り

場内には先行して到着した中近笠鉾が奏でる秩父囃子の太鼓の音が人間の情念を掻き毟るかのように響いている。“うお〜っ!”という大歓声が挙がる。最高斜度25度の団子坂を登り切ったのである。

6・中町屋台が団子坂を登って来た

そののちも、順次、屋台が多くの曳き子たちとともに場内へと入って来る。場内の空地も徐々にそのすき間をなくしてゆく。

そして、屋台の数が一基また一基増すにつれ、秩父囃子の旋律は秩父の夜空に反響するかのようにし、その響(とよ)みは場内にいる人間の情念の共鳴をひろげてゆくようである。

7・続々、到着する屋台

すでに場内には五基の笠鉾・屋台がそろい、シンガリの本町屋台を待ち受ける。

8・夜祭りも最高潮

午後10時を数分過ぎた頃、屋台芝居の舞台を解いた本町屋台の登場である。団子坂登りの最後の屋台である。

9・本町屋台・団子坂を登り切る

曳き子と屋台で立錐の余地もなくなった場内に、本町の曳き子が一直線にその引き綱と一緒になだれ込んできた。

10・大勢の曳き子により本町屋台が御旅所へ入ってきた

まさに千両役者の風格である。屋台囃子も天にも届けと太鼓や笛の音がその律動を早め、場内は祭りの終焉へ向けて最後の情念を燃やし尽くす。

11・最後に登場した本町屋台

そして、勢ぞろいした屋台の頭上に花火が二発、美しい輪を広げて、その炸裂音を遠く秩父の山脈へと響かせた。

14・最後を彩る”黄金の滝”

本町屋台のギリ廻しが終わると、御旅所の亀の子石を要に6基の笠鉾・屋台が扇を開いたように形を整える。

午後10時半。2013年の御斎場祭の終了である。

12・本町屋台の最後のギリ廻し
本町屋台のギリ廻し
13・すべての笠鉾・屋台が御旅所へ集結

10時を過ぎると桟敷席の観客は一挙に退席し始めるが、実は10時半から見物客も曳き子たちが一服する場内へ降りることを許される。

御旅所に6基の笠鉾・屋台がならぶ

興奮冷めやらぬ曳き子や氏子の群れのなかに入って祭りの熱気をより身近に感じ、そして、夜空を背景に灯り提灯に浮かび上がる笠鉾や屋台を真下から見上げることができるのである。

1・御旅所へ降りて、左:宮地屋台・右:上町屋台

夜の闇に浮かぶ宮地屋台や上町屋台は、昼間、市街で見た姿とは異なるどこか幽玄の美しさを感じさせた。

5・御旅所に勢ぞろいした笠鉾・屋台

二基の笠鉾がならぶ。

2・笠鉾二基・左:下郷 右:中近

四基の屋台を一望する醍醐味。

3・四台の屋台揃い踏み

いずれも壮観である。

そして日にちを越えた12月4日の午前零時20分頃から、各町内の収納庫へ向けて順次、団子坂を降りてゆく。秩父祭マニアは必見といわれる、いわゆる難度の高い“団子坂下り”が始まる。


寒さも身に応えるわれわれ老夫婦は、そちらは若い方々にお任せするとして、その前に会場を後にした。


それと、車で今夜の宿泊場所・
“彩の森カントリークラブ” へ向かうため、臨時駐車場の南小学校へ向かわねばならなかった。南小の駐車場は午前零時までの利用となっているので、“団子坂下り”を見ることは難しかったのである。


それでも・・・祭りである。


何か大事な忘れ物をしているようで・・・
昂奮した人声があふれ出している屋台が目に入る。
午前零時までにはまだ少し時間がある。“躰が冷えたね”と家内に呟く。“熱いオデンでも食べて行こうか”と、もう足は広い店内へ。すごい人である。当然、クラブハウスまでの運転は家内である。まことに申し訳ないが、わたしのみちょっと体内温度を上げさせていただくこととした。

観覧を終えた人々でいっぱいの屋台

そして暗闇にいたせいか、やたらに明るい。オデンにワンカップの熱燗もと家内にねだる。

おでんで熱燗・武甲で一杯

秩父夜祭の興奮はまだまだこれから夜明けまで続くのだろう。半被を着込んだ若い衆もおり、これからの団子坂下りまでの一服なのかもしれぬと、わたしたちもその興奮の渦の片波に少し体躯をゆだね、揺らさせてもらった。


瞼には秩父の夜空に花開くスターマインの金色の彩りが映る。

そして、耳朶(じだ)には口元まで込み上げてくるような秩父囃子の切迫した律動が響く。


秩父夜祭、存分に堪能しつくした2013年12月3日の一日であった。


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