彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

生きる・命

愛猫、麟太郎の一周忌を迎えて、その在りし日を偲ぶ

8月13日、我が愛すべき麟太郎が逝ってちょうど一年を迎える。

1・りんたろう
在りし日の麟太郎

麟太郎は昨年の8月13日、まさにお盆の入りの日に、17歳、人間に譬えると優に90歳を越える長寿を全うし、見事な最後を遂げた。


麟太郎の葬儀は翌日の8月14日、禅宗浅間山・慈恵院の付属多磨犬猫霊園(府中市浅間町2-15-1)にてリンを愛した家族でしずかに見送った。

2・慈恵院受付所
慈恵院の受付所

本日、その一周忌を迎えるにあたり、故麟太郎の在りし日のことなど偲びたいと思う。

そして、ペットの老いをどう捉え、それから避けられぬ死を迎え、その見送りをどうしたかなどをここに記す。


そうすることをたぶん、わが愛する麟太郎もきっと喜んでくれると信じている。


麟太郎は1997年9月にわが家へ迎えた。ご近所の方を通じ、その知り合いの方から生後3か月ほど経った子猫をいただいた。物静かな猫だった。


名前は息子が決めた。実は男の子が生まれたら命名したかった名前である。当時“麟”という漢字が人名漢字になかったため已む無く断念した経緯を息子が知っていた。だから雄猫にこの名前を付けてあげたらと、少々、猫にしては不釣合いな名前であったが、命名の運びとなった次第である。


それがかえって知り合いの皆様にもインパクトがあったのかすぐに名前を覚えて頂き、17年の長きにわたり可愛がっていただいた。


その麟太郎、親ばかを承知で申し上げるが、その一生はなかなか凛とした孤高の人生いや生き方を貫いたと考えている。


自ら人間の膝に乗るなどと云う隷属的な行為は一度もしたことはない。

お風呂も大好きで、家内が抱いて湯船に入ると気持ちよさそうに細く目を閉じ、何だか人間の大人と同じ雰囲気を抱かせたものだ。


また、屋根裏で生まれたミミという子猫を世話せざるを得なかった1年半ほど、君はまだ4、5歳だっただろうか、君の食事の皿にミミが横入りしてくると、争うことなくすっと身を引き譲ってしまう。お母さんがいつも“リンちゃん、あなたが主役なのよ、頑張りなさい”などと、その奥ゆかしさに半ばあきれ歯がゆさを覚えていたこともあった。その姿を目にする度にそれは臆病なのではなく、弱き者に対する温かな心持ちを有するジェントルマンシップなのだとわたしは感じ入っていたものだ。

亡くなるまで独立不羈の姿勢を崩すことはなかった。その姿は家内と麟太郎を話題とするとき、いつも二人して、何だか今の日本人に欠けている潔さ、美意識、精神力をこの子は有しているねと語り合ったものだ。

3・2008年のリン
この縁台から庭を見るのが好きだった

小さい頃から大きくて獰猛な野良猫などに立ち向かってゆく姿は常に“敢然と”と表すべき、わたしからすると無謀とも思える闘いを挑んでいた。やろうと思ってもなかなかできぬ行為だと自らを省みて忸怩たる思いがあったものである。


そうした精神性は麟太郎の立居振舞にもよく表れ、凛とした佇まいにいつも「生き方と一緒で、君はスマートだね」と声をかけたものだ。


そうした姿勢は老いても崩れることはなかった。

人間でいうともう80歳だと言われるくらいの頃から、君の食事もそろそろ僕らの食事と一緒でもよいねと、最後の1年半くらいは鯵などの焼魚を麟太郎の分として半匹くらい、時には一尾をお母さんが焼いてくれていたね。


そして君はそれを当たり前のように口にしていた。本当に甘えてどうこうするといったこともなく、わたしなんかよりも上品に上手に食べていたね。決して食べ散らかすようなことをしなかった。


お水を飲むときいつしか君は手で掬ってそれを口に持ってゆくようになったね。その姿もどこか所作に適って端然としていて美しさがあって好きだった。

亡くなる2週間ほど前あたりから足がひどくふらつき始めて2階へ上って来るのもしんどそうになってきた。それでわたしたちも君が本当に年老いたのだなぁと今後の介護をどうするかにつき真剣に話し合いを始めたくらいであった。


まさかそんなにすぐ君が逝ってしまうなどと誰も考えてはいなかった。

4・庭の麟太郎
庭のこの辺りが大好き。このすぐ右脇にいまリンのお墓がある

それくらい君は老いてもその老いを人様に見せることをしなかったのだ。今思うと、その我慢強さと真正のダンディーさには深く頭が下がる。


亡くなる日は猛暑であった。

家の中でも比較的涼しい玄関の板の間に横たわっていた君は、夕刻になりいつしかわれわれと食事を共にするダイニングキッチンで横になっていた。


わたしは2階でパソコンに向かっていたが、階下から家内が“リンの様子がちょっと変だ。病院に連絡したらこれから連れてきてくださいというので、行ってくる”という。


下へ降りて君の様子を見ると、呼吸が荒くなり、お腹と胸が大きく膨らみ縮むのを見た。明らかに変である。家内が準備を整えさぁ行こうとした時に君は大きく息を吸い口を閉じかけた・・・そして本当にしずかに息を引き取った。


いつもわたしたちと語り合い、食事をとっていた部屋で君はちょうど家に戻っていた娘とわたしたち夫婦、いや両親の見守るなかで何ら僕らの手を煩わすことなく、見事に自分の一生の幕を閉じて見せた。


見事である。


皆の頬にしずかに泪の滴が流れ落ちるのが見えた。1年前のちょうど今日である。


君はほとんど病院にもかかることがなかった。最後の今際の際にも結局、病院には行くことはなかった。


気持ちが落ち着いてから病院へ先ほど息を引き取ったことを伝え、今後、葬儀などはどうしたらよいのかなどを訊ねた。


紹介されたのが前述の府中の多磨霊園に隣接する4000坪という広大な境内を擁する“禅宗・慈恵院の付属 多磨犬猫霊園”であった。大正10年開園のペット霊園の嚆矢となる由緒のあるお寺である。

5・0この中のお堂で葬儀を執り行いました
慈恵院の犬猫の葬儀を行うお堂へこの門から入る

8月14日、同所へ麟太郎を抱いて伺った。この日も慈恵院の空から真夏の陽光が降り注いでいた。

5・1暑い日でした

手続きを終えると、お坊さんの先導で火葬場へ向かった。

6・この奥で荼毘にふしました
この奥で荼毘に付しました

そこで僧侶の読経とともに火葬を行ない、その後、骨上げを家族で行なった。

それからお堂へ移動。

7・このお堂で葬儀を行ないました
このなかで葬儀を執り行いました

骨壺と戒名を前にお坊さんが経を読み、丁寧な葬儀を行ってくれた。

8・家族で見送りました
家族で見送りました

ついこの間のことのような気がする。


2014年8月13日、今日も去年と同じ空は晴れ上がり、ひどく暑い日であった。


盆の入りの日。多磨霊園に隣接するわが家の菩提寺へ墓参した。


帰宅後、麟太郎が大好きだった庭の隅に骨壺を埋めた小さな小さなお墓があるが、そこで今度は麟太郎の一周忌の線香を供えた。

9・麟太郎のお墓
麟太郎は庭の隅にしずかに眠っています。花と線香を手向けました。

こうして想い起すと、今でもうっすらと目尻に泪が滲んで来る。本当にスマートな一生であった。夫婦二人してわれわれもかくありたいと語り合うが、この凛とした生き方はなかなか真似のできぬことだと、また一方で納得し合う二人でもあった。


そしてこの文章を書き始めて直ぐにわたしたちの寝室に突然、カナブンがどこからともなく飛びこんできた。窓は全部締め切っているので、いつわが家へ入って来たのか不明である。


最初、家内の顔にぶつかってその指に掴まれた。それからわたしの掌へと移され、ベランダの窓から暗夜のなかへ投じられた。


障子を閉めて直ぐである。コトン、コトンと窓を打つ音がする。障子を開けると、そのカナブンが見えた。


先ほどの狂ったように飛廻り挙句の果てに家内にぶつかって行った様が、“お母さん、お母さん、ボクだよ、リンだよ”と訴えているように感じられてしようがなかった。何せ、亡くなってちょうど一年経ったまさにお盆の入りの夜なのだから。

わたしはあるお盆の夜の出来事を思い出し、ふたたび窓を開け、カナブンを室内へいた。するとカナブンは閉めた障子の桟に停まると静かな眠りにつきはじめたではないか。

そしてこの文章を終える今になっても動くことはない。まるでこの家の一員のような様子でわたしのすぐ目の先で眠っているのだ。

10・桟に停まるカナブン

何だか安心しきって夢でも見ているようだ。

11・一周忌に飛び込んできたカナブン

いまから60年近く前になる。まだ幼稚園前のわたしが父母と共に祖父母の家にお盆に行った夜。


灯篭が飾られた仏壇の間にカナブンが飛びこんできて、小さなわたしが大声をあげてこれを捕まえ、外へ放り出そうとした時のこと。


その時、祖母がこう言ったのだ。


“お盆にはあなたの知っている亡くなった人たちが戻って来る”

“このカナブンも次の命をカナブンとして与えられ、たぶん、ここに戻ってきたのだ”

“だから殺生はもちろんダメだが、ちゃんとやさしく扱ってやれ”


と、カナブンが部屋を飛廻るままにさせたことを鮮明に思い出した。


だから今夜はこのまま電気を消して、カナブンに命を託し我が家へ戻ってきた麟太郎と久しぶりに一緒に眠ろうと思う。


リン、元気にしているかい?

おやすみなさい・・・




平野歩夢、平岡卓選手がスノボー・ハーフパイプで銀・銅、高梨沙羅選手はスキージャンプ女子で4位、素晴らしきティーンエイジャーたち!!

ソチ五輪のスノーボード・ハーフパイプ男子は11日(日本時間12日未明)の決勝で、15歳と18歳の若人が銀メダルと銅メダルを獲得した。


一方、ほぼ同時刻にルスキエ・ゴルキ・ジャンピング・センターで行われた女子スキージャンプで、17歳の高梨沙羅選手が4位に終わった。


晩酌で熟睡できたのか、午前3時頃に目が覚めてしまった。枕元のラジオをつけると女子スキージャンプを放送中だった。“あぁ、沙羅ちゃんが飛ぶんだ”と、パジャマの上からセーターを着込み、靴下をはき、階下の居間でテレビをつけた。


NHK総合でスキージャンプ、BS1でハープパイプを放映していた。BSと地上波放送をボタン操作で目まぐるしく切り替えながら、青春のエネルギーを発散させる様子を見逃すまいと目を凝らした。


まず、ハーフパイプで息を詰めるようにして平岡卓と平野歩夢の二回目の試技を観た。最後の絶対王者のショーン・ホワイト(米)の競技を残した時点で、平野歩夢選手が二位、平岡卓選手が三位。


そしてショーン・ホワイト(米)の最終滑走がスタート。

ちょっとだけ胸は痛んだが、正直言って、失敗してくれぇ〜・・・と強く祈ってしまった・・・

いま一つ技のキレは悪い・・・ようにハーフパイプ即製評論家は見切った。


その結果、ショーン・ホワイトの点数は90.25

三位の平岡卓は92.25   あぁ〜凌ぎ切ったぁ〜・・・

ショーン・ホワイトの急追を退け、銀と銅のメダルをとった。


その頃、ルスキエ・ゴルキ・ジャンピング・センターでは、一回目第三位の記録に終わった高梨選手が二回目の試技に挑もうとしていた。


五輪前のW杯で圧倒的強さを見せていた高梨沙羅選手。初の五輪競技ということで注目を一段と浴びたなかでの本番。


一回目は上位選手が向かい風のなか有利にジャンプしたなか、最終試技の高梨選手の時のみ、不利な追い風という不運も重なったなかで、100mのジャンプ。

そして、遠く日本の地から還暦を過ぎたひとりの男が念力を送るなか、二回目の試技がはじまる。


サッツ(踏みきり)はうまくいった、空中姿勢もよし、あとは飛距離・・・・・・


着地!うーん、テレマークは入ったのかなぁ・・・、ちょっと不安・・・


飛距離は98.5m。あれっ?100mいってないんだ・・・・・・


点数を待つ。残り二人を残すこの時点で・・・二位。


そして一つずつ順位を落とし、残念ながらメダルに届かず、無念の4位。

時刻は午前4時(日本時間)。テレビを消し、寝に上がる。


その日のお昼。メダルを逸した高梨選手が涙を流す写真を見た。


胸がキュ〜ッと締め付けられた。そして、“そんな顔しないでいいんだよ、沙羅ちゃん”と、心の中でつぶやいた。


メダルに輝いた若人・・・・・・

確実視されたメダルを逃した若人・・・・・・


それもこれもひっくるめて、ぜ〜んぶ、青春。

それもこれもあるのが、人生。上がったり下がったりが、そう人生ってもんなんだよな・・・と、しみじみ思う。


でも、ティーン・エージャーが躍動したこの日。

栄光の歓喜にキラキラと輝く瞳・・・・・・

悔し涙にうるむ瞳・・・・・・


両者ともかぎりなくいとおしい・・・美しい・・・

そして、なぜか甘酸っぱくて、切ない・・・


そんな瞳のみずみずしい表情をいつの頃からかこの自分は失っていたことに気づいた。


青春・・・・・・

それは可能性を何度でも試し、チャレンジできる“時間の泉”を、両腕いっぱいに抱え込んだ人生のスタート地点だったのだなと気づいた。


そして、しばらくして・・・還暦を過ぎたわたしに、青色の濃さが薄くはなったものの、“浅葱色の青という春”のスタート地点に臆することなく、恥じることなく立っていいんだよと、この若人たちに言われたような、背中を押されたような気がしてきた。


やはり、青春の真っただ中にいる人たちの持つエネルギーは凄い。

遠いロシアのソチの地からこの日本の片隅にいるひとりの人間に、こんな当たり前のようででも、大切な人生訓という手紙を届けてくれたのだから。


ありがとう、平野歩夢君、平岡卓君。

ありがとう、高梨沙羅さん。


ありがとう!! 日本のティーンエイジャーたち!






“ころぼっくるひゅって”、手塚宗球さんのご冥福を祈る

ころぼっくるひゅって=景観保護と自然の営み(2008.6.23)

手塚宗求さんが9月12日にお亡くなりになっていたことを今日知った。


蓼科山と車山と”ころぼっくるひゅって”
蓼科山と車山頂上と”ころぼっくるひゅって”

今年、私は7月1日の足首の剥離骨折のため、猛暑の7、8月の二ヶ月、蓼科へゆくことができなかった。というより、通院以外に自宅を出ることがなかった。

高原とカルピス
いつもの席でカルピスを


車山肩にある“ころぼっくる”はこのブログでも何回かご紹介しているが、ご主人の手塚宗球さんとは一度だけ、テラスでゆっくりお話を聴く機会を得た。

コロボックルヒュッテ
ころぼっくる

その時、変遷してゆく山の環境をひどく憂い、自然保護活動を地道に続けられているご様子、自然保護の考え方も人それぞれで、一言で環境保護活動と括れぬ難しさがあることなど貴重なお話をうかがえたが、今にしてみれば、もう何度かお話をせがんで聴いておけばよかったと後悔するしかない。

骨折の直前、6月27日にレンゲツツジ鑑賞の際に“ころぼっくる”を訪ねたが、手塚さんのお姿はお見かけしなかったように思う。人も多かったし・・・

レンゲツツジと車山肩
”ころぼっくる”下のトレッキングコースからレンゲツツジと高原を

そう言えば最近は高齢者の登山ブームで平日に“ころぼっくる”を訪ねる方々が多く、なかなか落ち着いてテラスでぼ〜っとする機会も少なくなり、従って手塚さんにゆっくりお話をお聴きするなどという暇も場所もなかったような気がする。

ノビタキとレンゲツツジ
ノビタキとレンゲツツジ

どうも年内に“ころぼっくるひゅって”を訪ねるのは難しそうである。蓼科へ行けるのが多分11月の下旬頃になりそうで、もうその頃は車山肩も寒くて路面凍結の惧れも出てくるので来年の春まで待たねばならぬのかと懸念している。 


でも気温の温かな日に当るのであれば、今年中に何とか一度、お伺いしたいとも思う。


いつもの突端の席からテラスと小屋を

そしてテラスのいつもの席に坐り、宗球さんのあの優しい笑顔を想い出しながら、温かいココアをいただきたいと願っている。

コロボックル・ホットココア
いつもおいしいホットココア、ありがとうございました・・・


手塚宗球氏、享年80歳であった。心よりご冥福をお祈り申し上げます。 合掌。

哀しいことの多すぎた2011年も大みそか・・・

あまりにも哀しすぎることの多かった2011年もいつもの年のように大みそかを迎えた。
津波が越えていった石巻の堤防
あの日、この堤防を大津波が越えていった・・・(石巻市・12月23日・撮影者は息子)
3.11の東日本大震災では自然の前では、人間の知恵など何ほどのこともないことを骨の髄から知らされた。

新宿からビルが密集する小さな人の営みを望む
その一方で、東北の被災地の人々のひたむきな姿を目にすることで、人間は悲しみのどん底に落とされようとも、これから将来に横たわる一秒、一秒を拾い集めながら、”生きる”という苦しくつらいけど、”尊厳”という絨毯の敷かれた長い路を歩んでゆく存在であることを知った。

そんな2011年の大みそかに空を見上げた。
2011年大みそかの雲ひとつない青空
そこにはどこまでも、どこまでも、青い、青い・・・空が広がっていた。

そして中天にうっすらと白い昼の月を見つけた。
月齢6.4の月
月齢6.4、もう少しで上弦の月・・・
もう少しで上弦の月なんだ・・・

一秒、一秒、太古から変わらぬ息遣いをしている自然の不敵さを見た。

右に目を移すと、そこにキラキラと耀く太陽があった・・・
まぶしくて直視できない。

そのまぶしさを手に入れようと写真に収めた。
そこには不思議な六つの赫い光輪が太陽を守るかのように取り囲んでいる姿が映っていた
2011年大みそかの太陽
それは、わたしに”まぶしさ”を独り占めさせないかのように見えた。

まぶしい命はひとしく人々の上にそそぐのだと云っているかのように・・・

それでも春はやって来る=奈良・氷室神社の枝垂れ桜は満開

 311日の東日本大震災からもう三週間余が過ぎた。まだまだ、被災された方々へ必要な物資も届いていない。お風呂もこの3週間余入っていない。被災地の衛生状況は日に日に悪化しているという。復旧の具体的目途すら立っていないというのが、残念ながら無政府状態のわが国の現状である。

 

 そうしたなか、某知事が「花見自粛」を訴えた。未曾有の大災害、国難の時に、浮かれて花見などとんでもないということだろう。


氷室神社拝殿

 

 叔母の一周忌で奈良を訪ねた家内が近くの氷室神社へ参拝した(43日)。枝垂れ桜が満開だった。


 あまりに見事だったので写真を撮り、こうしてわたしに見せてくれた。


4月3日の朝、満開の枝垂れ桜

 

 氷室神社は遠く奈良時代、元明天皇の御世、和銅3722日(710年)、勅命により平城新都の左京、春日の御蓋の御料山(春日山)に鎮祀され、七十余年の間、41日〜930日に平城京に氷を献上し続けたという。都が移ってからはその献氷の勅祭も途絶え、貞観221日(860年)の清和天皇の御世に現在の地に奉遷せられたとのこと。

 

 今から1300年前に創建された氷室神社。平城京において朝廷の恩寵もさぞかしであったろうが、平安京へと都が遷るやその栄華もさびれ、創建150年後には遷祀され、春日大社の別宮となった。

 

 その後、氷室神社は「南都流舞楽」の本拠として平城京の舞楽を営々と伝承していった。三方楽人(奈良・大阪・京都)の一角として明治国家に召され、その心技は現在の宮内庁楽部へと一本の糸として紡がれてきている。


拝殿前の「南都舞楽」説明書き

 

 氷室神社の四脚門の右手前に枝垂れ桜は植わっている。


四脚門前に植わる枝垂れ桜

 

 千年は一日の如くまた一日は千年の如しと教え諭すかのように、それでも枝垂れ桜は満開の姿を人々に見せている。

 

それでも春はやって来るのである。

 

いい写真を見せてもらったと妻に感謝している。

広島平和記念資料館を訪ねる=原子力平和利用の国民的議論を


福島第一原発事故の被害が徐々に広がっている。そんななかで、広島の平和記念資料館を訪ねた記事をアップするのがよいか正直、迷った。しかし、こうした時機だからこそ、核兵器すなわち原子力の軍事利用の非道を強く訴えねばならぬし、その一方で原子力の平和利用について人類の叡智を募ってやはり継続してゆくべきだとの考えを伝えるべきであるとし、以下の通り掲載することとした。


平和記念資料館東館 

平和記念資料館を訪ねた当日はお彼岸の3連休の一日だったからなのか、原発事故で原子力に国民の関心が集まっているのか、雨の日にもかかわらず多くの見学者が資料館を訪れていた。

 通常であれば東館、本館合わせて一時間ほどの見学時間で館内を一周できるとのことであったが、その日はたくさんの人が列をなし熱心に展示物やパネルを覗き込んでいた。そのため、倍の二時間をかけても最後の方は少し足早で通り過ぎらざるを得なかった。


 いま、福島第一原発事故の恐怖から原子力の平和利用に大きな赤信号が灯っている。その最中、大量殺りく兵器としての「核兵器」が人類史上初めて使用された広島で、そのやるせないほどに残虐な被災実態の片りんに触れた。


「Little Boy」と呼んだ広島型原爆(ウラニウム爆弾)

「Fat Man」と呼んだ長崎型原爆(プルトニウム爆弾)・広島型より殺戮力強い

昨夏、わたしは約四十年ぶりに長崎の原爆資料館を訪ねたが、広島の原爆資料館に足を踏み入れたのは今回が初めてである。



投下後3時間の爆心地より2kmで写した貴重な写真

被爆のジオラマ

平成6年の「広島平和記念資料館」への衣替えを機に、おそらく原爆被災資料の展示のあり方が変わったのだろう。タクシーの運転手や30年ほど前に見学したという家内の話では、以前は気分が悪くなるほどに原爆罹災の写真や焼け焦げ変形した品々、構造物が「これでもかこれでもか」というほどに列んでいたという。


三輪車と鉄かぶと

ガスタンクに映るハンドルの影

剥がれた爪と皮膚

剥がれた右ひじのケロイドの皮膚

現在は長崎と比較すると、政治的メッセージの強い東館の展示にやや心理的抵抗を感じたものの、原爆被害の実態を現在に語る本館の展示物は、幾万言の言葉にも勝る迫力でわれわれの胸に「核兵器の非人道性」を訴え、長崎の時と同様に知らず知らずのうちに目頭が熱くなってきた。


原爆病で亡くなった佐々木禎子さんが折った千羽鶴 

今回の大震災による原発事故以前、北朝鮮の核武装問題など北東アジア情勢の緊迫化を受け、国家の安全保障に係る「核保有」へ向けて心が揺れていたのも偽らざる気持ちである。


焦土に残されたもの

黒い雨の跡が残った白壁 

しかし、長崎や広島の原爆資料館に列ぶ展示物は、「核戦争の非道」から目を背けるな、人類よ理性を取り戻せ、セ氏1万度の灼熱地獄のなかでのた打ち回った人たちがいたことを決して忘れるなと、静かに真摯に語りかけてきた。改めて「核兵器の非道」を忘れてはならぬと思い知らされた一日であった。


その一方で、原子力に対する正しい知識の普及を早急にすすめるべきであり、平和利用にあたっての安全対策の見直しなど今後、日本にとどまらず世界中の専門家を入れての新たな基準作りを急ぐべきだと感じた。


現在の状況下こう云ったら大きな批難を浴びるかも知れぬが、M9.0という千年に一度の巨大地震でも原発は破壊されなかった。制御棒が入り原子炉は自動停止した。今後の検証を待たねばはっきりとしたことはもちろん言えぬが、津波被害に対する安全措置つまり非常用電源の設置の在り方に大きな問題があったため、こうした人災と云うべき原発事故が引き起こされているのだということも知っておくべきである。


東電は、2007716日の新潟県中越沖地震によって柏崎刈羽原子力発電所の外部電源用の油冷式変圧器が火災を起こし放射性物質の漏えいおよび震災後の高波による敷地内冠水で使用済み燃料棒プールの冷却水の一部流出という事故を3年半前に体験している。 

その際に、今回全滅した非常用の電源が奇跡的に一台被害を免れたことで、原子炉や使用済み燃料棒プールの冷却水を循環させ得たと聴いている。その綱渡りの経験が福島原発に即時活かされておれば、非常用電源は何らかの形で確保され、原子炉内の圧力を制御し、水蒸気の発生すなわち水素爆発を引き起こすことはなかったのではないかと素人なりに考える。


被災の経験に学ばぬ東電およびその対応を早急に取らせなかった経済産業省の原子力安全・保安院および原発の設置基準の見直しを急がなかった政治の怠慢が、今回の背筋の凍る原発事故を招来したのだと云える。


雨の中、原爆死没者慰霊碑を参る人々 

まさに人災である。既存原発の設置基準の見直し、それから福島原発においては廃炉方法の検討につき政官民一体となって早急に対応すべきである。


そして、今回の事故検証、今後のエネルギー政策(エネルギー源多様化・安全保障)、地球温暖化阻止のための温室効果ガス削減の方策等その議論内容を適宜、国民に開示、説明を行ない、国民の納得を得る形で今後の原子力平和利用は進められなければならない。

その過程では当然、これまでどちらかというと議論が避けられてきた「放射性廃棄物」の処理・処分や現在、フランスやイギリスにその大半を依存している「使用済み核燃料の再処理」など一気通貫の「核燃料サイクル」構築をどうするのか、まさにエネルギー安全保障と国民の生活と命の安全の視点から、国民挙げての議論がなされるべき時機に来ているのだと強く思う。


「笑い」がもたらす健康と幸せ

BlogPaint
宇治万福寺の布袋さま
 
この一月中旬に、「単孔式腹腔鏡下・胆のう摘出手術」という長〜い名前の手術を慶応義塾大学病院で受けた。


お臍に穴をあけて、というより、生まれた時に結び合わせた結び目を久方ぶりに解き放つという方が、この場合は適切な表現のような気がする。


何はともあれ、お腹にひとつ穴を開け、そこに一本の管にまとめられた3本のファイバーを差し込み、3D角度を出して、肝臓の下にくっつくようにしてある胆のうを切除し、体外に摘出するのである。想像するだけでちょっと気分は滅入ってしまうが、全身麻酔によって全く分からぬうちに手術は終わっていた。


そんな小さな穴から「どうやって胆のうを取り出すのかい?」という疑念が当初からあったが、お臍の穴は意外と大きく広がるのだそうだ。術後の執刀医の説明で家内が見せられたのだが、ファイバーを収納した管(これを臍穴から入れる)の直径は2cm弱はあったというのだから、結構大きな穴が必要となるはずである。

家内も、人間の皮膚っていうのはずいぶんと柔軟で丈夫なのだと他人事ながら妙に感心したという。その孔を縫合しなおした傷口はまったく分からない。何せお臍の結び目をほどき、また結び直しただけなのだから、外見からも昔のままのわたしのお臍である。先生の技能が優れていたので、出べそにもならず綺麗なものである。

そして尾籠(ビロウ)な話で恐縮だが、手術前にお臍の掃除をしろと云われ、オリーブ油を垂らし、綿棒でお臍の穴の掃除をした。その結果、数十年分の垢を落としたのだから、逆に術前より美しくなったというべきか。お臍丸出しルックを厭わぬ女性には特にお奨めの方式である。


まぁ、そういうことで4時間弱の手術(内、1時間は麻酔を醒ますため手術室にいた)は予定通りで無事に終了。本人は気づいたらベッドの上。家内とおしゃべりをしたが、やや頭は朦朧気味で、その日はおしまい。


そして術後の翌日、早速、歩行が始まる。お腹の中心部が痛いが、シクシクとかジクジクといったものではなく、身体を動かすと痛いというだけである。それも開腹手術と違いお臍に穴を穿つだけなので、ひきつるような痛さとも違う。ただ、痛い。う〜ん、例えて言えば、体育会系的な痛さ?である。


昼過ぎにやって来た家内と話しながら、内容は忘れたが笑おうとしたら、お腹の中心が痛くて笑えない。「冗談を云うのは止めてくれ」とつい頼んでしまった。まだ点滴の管が身体に装着され、わたしが気が滅入っているのだろうと気を回し、折角、面白い話でもと持ち出したネタなのだろうが、これが堪らない。


咳をするのもお臍の傷に堪えるが、それは一瞬の痛みである。まぁ、それも薄倖の佳人がコホンコホンと儚(ハカナ)い咳をするようにやるのだが、う〜ん、やはり痛味が走る。


しかし、その「笑い」という動きが、身体の中心を絶えまなく小刻みに揺るがす運動であることに、この時、気づいた。つまり、よく分かるのである。お腹の全筋肉が相互につながって池の波紋がじわ〜っと湖面全体に伝わるように、筋肉の蠢動が小刻みに伝わってゆくのである。その伝播と一緒に、痛みもお腹全体に広がってゆく。痛みが拡散し、弱まるのではない。同量の痛みがロスなく正確に廻りの筋肉に伝えられるのである。


咳は一瞬の筋肉の動きであるが、笑いは波紋のようにしかも同量のエネルギーを廻りに伝える、何だか随分と効率のよい運動なんだと気づいた。


「笑い」は癌などの免疫力アップに良いとする治療が施されているという話を仄聞したことがあったが、今回、その意味するところが分かった気がしたのである。


これほど腹腔の筋肉を意図的に全て蠢動させることは、どんな理学療法士でも難しいだろう。でも、ひとつの楽しい話から生み出される「笑い」が、自律的に体内の筋肉そして多分、内臓の動きも微細に持続的に動かす。


命のエネルギーが細胞から細胞へ、生きる喜びのパワーが波紋のように体の隅々にまで沁み込んでゆく。


手術を終えて、痛みを味わうことで、「笑い」が持つ命のパワーを実感したものである。暗いニュースが氾濫する社会に、せめて健康的な「笑い」が家庭内でも仲間うちにでも溢れたら、もっとみんな健康に幸せに生きられるのだと感じた。


最後に胆のうを取ると油ものが食べれなくなると色んな人に訊かされていたが、事前に主治医が「そんなことはない」と言っておられたように、俗説でありまったく問題はない。ダイエットにまい進する家内と娘を横目に、美味しいものをこれからもどんどん食べられる・・・、それもわたしだけで・・・と思うと、また「笑い」の虫が蠢き出し、ちょっとまだ腹筋が痛む。これって、違う痛みなのかも・・・

明けましておめでとうございます。

卯年です

おめでとうございます

 

2011年、平成23年と書いてはみますが、まだしっくりとは来ません。この数字に違和感が無くなる頃には、皆さんにきっと何かいいことが起きているのだと思います。


元旦の空

 

そう心より願ってこれからわたしの干支である卯年をわたしも皆さんと一緒に元気に生きて行こうと思っています。

日の丸


 
これから一年間、また当ブログをご愛顧いただきますようお願い申し上げます。



 


 


 

2010年大みそか。それぞれの一年、ご苦労様でした!!

2010年大みそかの空


全国的には大雪の空模様というのに、東京の空は日本晴れです。


2010年も今日一日で終わりとなります。


それぞれの人生に、それぞれの人が、さまざまな思いを込めながら、この2010年は幕を閉じようとしています。


新年のお化粧を終えた植木と一年間のお役目を終えた百日紅


一年間、いろんなことがあったにちがいない。でも、それが生きるということ・・・


そしてこの今日という一日を精いっぱい生きれば、また、必ず明日という夜明けが等しく誰にも訪れるのも、生きている証。


ましてや、今日は大みそか。


精いっぱい一日を生きてみよう。


そしたら、新年という真新しい道がそれぞれの人生の前に、「さぁ、歩きなさい!」とまっすぐに伸びている。


青空を目指す新芽


そう、明日、目が覚めたら・・・


たわわに実をつけた万両

一年間、当ブログご愛読、本当にありがとうございました。
来たる新年が皆さまにとって幸多き年であることを心よりお祈り申し上げます。


 


 

長崎原爆資料館を半世紀ぶりに訪ねて

 広島平和記念資料館を訪ねる=原子力平和利用の国民的議論を(2011.3.31)


浦上天主堂側壁の被爆再現模型


1945年8月9日11時2分で止まった掛け時計
 

 

 たぶん、この資料館を訪ねたのは、今を去ること四十数年前の中学生の頃ではなかっただろうか。被爆した展示物の数々が多感な少年の心に原爆の残酷さを深く刻み込んだことは想像に難くない。

 


巨大な長崎型原爆ファットマン模型 

 

 30004000度の熱線により投影された人影が残る一片のコンクリート壁、ガラス瓶と人間の手が一緒に溶融した奇怪なガラス塊の姿は、これまで幾度も鮮明に目蓋に浮かんできた。

 


板塀に熱線で投影された梯子と人影
 

 

 今回、訪れた資料館は半世紀前とは打って変わって、ドーム状の近代的な建築物に変貌を遂げていた。1996年に原爆被爆50周年記念事業として、それまで被爆資料を展示していた長崎国際文化会館を建て替えたものだという。昔の、たしか三階建てくらいの簡素なコンクリート造りの建物とは大きく異なる、芸術的な建造物に様変わりしていた。

 


  

ドーム状の原爆資料館


資料館入口 

 

 それは、その後の日本社会の平和と繁栄を象徴したものなのだろうか。死者73,884人、負傷者74,909人、原爆の被害を受けた人120,820人(半径4km以内の全焼、全壊の世帯人数)〔1950年 長崎市原爆資料保存委員会調査〕という人類史上でも稀な大量殺戮の悲劇を語るには、どこか美しく整い過ぎているようで、私は違和感を禁じ得なかった。半世紀前の建物の方が原爆の残虐さ、非道さが、憤りとともに荒々しくストレートに伝わって来るように感じられたのだ。

 

 ただ、国際社会へ訴える力やプレゼンテーションの力がかつてより増していることは今回、強く感じたところである。

 

ひとつは展示側の工夫である。核兵器の悲惨さを伝える被爆者の方々のビデオコーナーや展示物の英語やハングル、中国語の説明板も丁寧で、核兵器使用による悲惨さを二度と繰り返すなという強いメッセージは十分に内外の見学者の心に届いてくる。

 


英語・中国語・ハングル併記の説明板


頭蓋骨が溶けて付着した鉄カブト 

 

二つ目は海外の見学者の核兵器に対する意識の高まりである。被爆者が語る英語テロップの流れる映像の前で、欧米の若者たちが長い間、熱心に立ちつくす姿は印象的であったし、展示物の英語説明板を食い入るように見つめる若者たちの横顔は真剣そのものであった。

 


 

展示物や説明板に熱心に見入る欧米の若者


被爆者の証言ビデオをじっと見詰める欧米の若者たち 

 

 

被爆した遺物のなかには、あまりの残虐さや悲惨さから展示を控えざるを得ず、倉庫に収納されたままのものも多いという。

 


黒こげとなった少年(掲示写真) 



原爆投下翌日の煙の昇る長崎


原爆の威力を視察するために造られた米軍飛行場(右の斜めの矩形)
(真中右上から左下に真っ直ぐの筋は国鉄の線路跡)
(その左手の稲妻型に白いのが国道跡) 

 

 

 我々はそうしたことも念頭において、この資料館の語り継ぐ声に耳を澄ませ、訴えかける心に自らの心を共鳴させなければならないと、あらためて感じた。

 


人間の手の骨とガラスが高熱のためくっついている 

 

 半世紀前に衝撃を受けたガラス瓶と人間の手が溶融された塊は、今回、目にすることはなかった。しかし、誰の指であろうか、その骨がへばりついたガラス瓶の塊が、半世紀後の私を待っていた。言葉を語らぬそうした遺物の姿は、逆に私に声にならぬ衝撃を与えた。こうした類の遺物は4千度の地獄の世界では当たり前の出来事なのだと、言葉で「平和、平和」、「非核三原則」と叫ぶ我々に、「平和の覚悟」の意味を問い掛けているようにも思えた。

 


熔けてくっついたガラス瓶


熱線を受けた神社の玉石・爆風の方向で焦げ方が異なる


一瞬の熱線で溶けて泡立つ瓦やコンクリート 

 

 

 

 溶けてグニュグニュになったサイダー瓶が展示されていた。「触ってください」と、説明板に書いてある。私はそっとそのガラスに指を触れた。数千度という想像を絶する熱線の世界にあったサイダー瓶は、ひんやりと冷たかった。


熔けたサイダー瓶に触る
熔けたサイダー瓶はヒンヤリしていた・・・

 

「つらかったね・・・」と、私は指で何度も撫でながら、心の中でそっと呟いていた。

 

 そして、サイダー瓶の輪郭が、じんわりとぼやけて見えてきた・・・。

 

 資料館を出た。

 


資料館の頭上には青空が・・・ 

 

 上空には原爆投下の194589日のように青空が広がり、ギラギラした夏の日差しが鋭く私の肌を刺した。

 


平和祈念像

天を指す右手は原爆の怖さを示し、水平に伸ばす左手は平和を願う


被爆者の鎮魂を祈る折鶴の塔 

 

 

黙祷!

 

また最後になったが、当ブログにて館内で撮影した展示物の写真を掲載した。入場受付でその旨申し出て、住所、氏名を記載のうえ撮影許可の腕章を腕に巻いて入れば、自由に撮影が可能である。こうした運営上の姿勢もより多くの人々に原爆の悲惨さを語ってもらいたい、伝えてもらいたいとの長崎市民の気持ちの表れであり、大切なことだと感じ入った次第である。

 

I LOVE YOU 尾崎豊=4月25日は命日

今日は尾崎豊の18年目の命日である。

 

昨夜、NHKのBS2で尾崎豊の特集番組を観た、いや、聴いた。

 

 わたしは尾崎の「15の夜」や「17歳の地図」が好きである。仏教で写経というのがある。色々な思いと祈りを込め、お経をただひたすら書き写す。精神を統一し、一心にお経を書き写す作業の中で、自分の心を無にし、浄化してゆく、そんな精神の禊ぎだと理解している。

 


 今日は、26歳で亡くなった尾崎豊の傷つきやすく無垢な魂に少しでも触れられたらと思い、大好きな「17歳の地図」と「15の夜」の歌詞をただ、ひたすら書き写すことにする。


 

17歳の地図

(作詞・作曲:尾崎豊)


十七のしゃがれたブルースを聞きながら/
夢見がちな俺はセンチなため息をついている/たいしていい事あるわけじゃないだろう/一時の笑顔を疲れも知らず探し回ってる/バカ騒ぎしてる 街角の俺達の/かたくなな心と黒い瞳には寂しい影が/喧嘩にナンパ 愚痴でもこぼせば皆同じさ/うずうずした気持ちで踊り続け 汗まみれになれ/くわえ煙草のSeventeen`s map

 

街角では少女が自分を売りながら/あぶく銭のために何でもやってるけど/夢を失い 愛をもて遊ぶ あの子忘れちまった/心をいつでも輝かしてなくちゃならないってことを/少しずつ色んな意味が解りかけてるけど/決して授業で教わったことなんかじゃない/口うるさい大人達のルーズな生活に縛られても/素敵な夢を忘れやしないよ

 

人波の中をかきわけ 壁づたいに歩けば/すみからすみはいつくばり 強く生きなきゃと思うんだ/ちっぽけな俺の心に 空っ風が吹いてくる/歩道橋の上 振り返り 焼けつくような夕陽が/今 心の地図の上で 起こる全ての出来事を照らすよ/Seventeen`s map

 

電車の中 押しあう人の背中にいくつものドラマを感じて/親の背中にひたむきさを感じて このごろふと涙流した/半分大人のSeventeen`s map/何のために生きてるのか解らなくなるよ/手を差しのべて おまえを求めないさ この街/どんな生き方になるにしても/自分を捨てやしないよ

 

人波の中をかきわけ 壁づたいに歩けば/しがらみのこの街だから 強く生きなきゃと思うんだ/ちっぽけな俺の心に 空っ風が吹いてくる/歩道橋の上 振り返り 焼けつく様な夕陽が/今 心の地図の上で 起こる全ての出来事を照らすよ/Seventeen`s map 


15の夜

(作詞・作曲:尾崎豊)


落書きの教科書と外ばかり見てる俺/
超高層ビルの上の空 届かない夢を見てる/やりばのない気持ちの扉破りたい/校舎の裏 煙草をふかして見つかれば逃げ場もない/しゃがんでかたまり 背を向けながら/心のひとつも解りあえない大人達をにらむ/そして仲間達は今夜家出の計画をたてる/とにかく もう 学校や家には帰りたくない/自分の存在が何なのかさえ 解らず震えている/15の夜/盗んだバイクで走り出す 行き先も解らぬまま/暗い夜の帳りの中へ/誰にも縛られたくないと 逃げ込んだこの夜に/自由になれた気がした 15の夜

 

冷たい風 冷えた躰 人恋しくて/夢見てるあの娘の家の横を サヨナラつぶやき走り抜ける/闇の中 ぽつんと光る 自動販売機/100円玉で買えるぬくもり 熱い缶コーヒー握りしめ/恋の結末も解らないけど/あの娘と俺は将来さえ ずっと夢に見てる/大人達は心を捨てろ捨てろと言うが 俺はいやなのさ/退屈な授業が俺達の全てならば/なんてちっぽけで なんて意味のない なんて無力な/15の夜/盗んだバイクで走り出す 行き先も解らぬまま/暗い夜の帳りの中へ/覚えたての煙草をふかし 星空を見つめながら/自由を求め続けた 15の夜

 

盗んだバイクで走り出す 行き先も解らぬまま/暗い夜の帳りの中へ/誰にも縛られたくないと 逃げ込んだこの夜に/自由になれた気がした 15の夜

 

 私は年齢を重ねるにつれ、人生の意味が自ずと「わかって」来るつもりでいた。しかし、今日、尾崎の歌詞をひと言ひと言、書き写しているうちに、尾崎は「わかる」を「解る」と表現していることに気づいた。

 

 自分は「わかる」ことを、いつしか「分かる」、つまり分別してしまうようになっているのではないかと気づかされた。

 

 そして、研ぎ澄まされた魂は、「なぜだ」「なぜだ」と、まわり中の人や障害物にぶつかり血を流し、真の価値は何だと理解しようと、もがき苦しむものだと、知らされたような気がした。

 

ずっと昔、十代の夜、自分の将来に為すべきことを悶々と、でも一途に考えていた、あの遠い昔、自分は人生を「解ろうと」していたはずだと・・・。

 

合掌

2010年が皆様にとって良い年でありますように!!

 2009年は民主党による政権交代、米国ではオバマ政権の発足などいろいろ、この国の形が変わるような大きな出来事がありました。

 でも、今日は2009年の大晦日です。年の最後の日くらいは、浮世のそうした騒々しさを忘れ、自分の来し方行く末をゆっくりと見つめ直してみたいものです。

 2009年12月31日の空はぬけるように蒼穹です。これまでのさまざまな由なし事をおもいっきり呑み込んでくれるような、すばらしい空です。

大晦日の青空

 そしてこの一枚の写真は家内が12月20日に秩父の巡礼の途上に撮ったものです。カラスウリの朱色が鮮やかで、冬ざれた景色のなかにも心をいやしてくれるものを残してくれている、そんな日本の原風景をもう一度、思い出してくださいと、荒んだ社会に生きる私に問いかけているようで、心に沁みたものです。

秩父の烏瓜


 一年間、ありがとうございました。来る2010年・寅年がみなさまにとり、良き年になりますようお祈り申し上げます。

 

万両・千両・百両・十両、もういくつ寝るとお正月♪♪

万両・千両・百両・十両、もういくつ寝るとお正月♪♪

 

 赤い実がことに鮮やかな千両やお正月の生花に使われる万両のほかに、百両、十両というのがあるの知ってますか? 



万両の赤い実


鮮やかな千両の実

 

 

5、6年前に大原の実光院を訪ねた際に、門を入ってすぐの所の庭石にしがみつくようにして植わっている木を見つけた。赤い実をつけた可愛らしい木というより植物と言ったほうがいい。「十両」という木であった。お寺さんに伺うと「百両」の木もあるとのことで、百両の木も教えていただいた。



百両の赤い実と色づかぬ実


申し訳なさそうに実をつけた十両

 

 

その後、我が家の庭にも順次、種類を増やし、最後に百両が加わり、全種類の揃い踏みとなった。いま、お正月を飾るべく赤や黄色の実をつけているので、ご紹介することにする。

 

万両、百両、十両が薮柑子(やぶこうじ)科で千両のみ千両(せんりょう)科ということである。なるほど、千両のみ実が上に向けてついている。百両の別名は「唐橘(からたちばな)」といい、十両は「藪柑子(やぶこうじ)」とも呼ばれているそうだ。

 

そして調べているうちに、ツツジ科の「一両」(アカモノ)とアカネ科の「蟻通」(アリドオシ)が、この一連の植物に関連するものとしてあることがわかった。とくに、「千両、万両、有り通し」といってお金持ちになるおまじないのような縁起物として、語られたこともあったという。

 

それでわたしにお金が身に付かなかったのだと得心した。こうなりゃ、来年は是非とも「蟻通」を植えなければなるまい。

 

そう決心した次第であります・・・とさ!!

 

ヒロシマ・少女たちの日記帳=広島原爆5

広島平和記念資料館を訪ねる=原子力平和利用の国民的議論を(2011.3.31)
長崎原爆資料館を半世紀ぶりに訪ねて(2010.9.5)


少女たちの日記帳「ヒロシマ 昭和2046日〜86日」

広島原爆ドーム
広島原爆ドーム
 64年前の今日、午前815分。米軍のエノラ・ゲイ号は広島に人類初の原爆を投下した。当時の広島市の人口35万人の4割に当たる14万人が死亡した。


 私は長崎生まれで、長崎原爆資料館を見ているが、掌が溶け込んだグニャグニャになったガラス瓶の展示品を忘れることはできない。その記憶はもう40数年も前になるが、その時心に受けた衝撃は、今でも胸中の襞の奥底につらい疼きとして残っている。


 今夜、NHKで「ヒロシマ・少女たちの日記帳」を観た。主人公の石堂郁江さんは当時、広島県立広島第一高等女学校の一年生で、一組の副級長をしていたという。「この伝統ある広島第一県女に入学することを許されます。ます覚悟を新たにして学業にはげみ、
心身を鍛え・・・」と、つい4か月前に生徒日誌に記した少女は、その日、授業休講中の疎開作業の途中で被爆し、無辜の命を奪われた

 少女たちの生徒日誌をもとに淡々として描かれた広島原爆の日は、私に平和の意味を真剣に考え直す機会を与えてくれた。


86日原爆投下」の文字が画面中央に流れるだけの番組の終わり方だったが、それが余計に夢にあふれたこの少女たちの尊い命が理不尽にも一瞬にして消え失せた悲惨さを心に沁み入るように伝えてくれた。私はただ黙ってテレビのスイッチを切り、頬を伝う涙を流すにまかせた。

 


 つい先日、米国で「1945年8月6日と9日の広島、長崎への原爆投下について、米国民の61%が『正しい判断だった』と考え、22%が『誤っていた』とみなしていることが4日、米キニピアック大学(コネティカット州)の世論調査研究所の調査結果でわかった」(8/5中日新聞)とのアンケート結果がニュースで報じられた。


一方で、オバマ大統領は4月5日にプラハで「核兵器を使った唯一の国として行動する道義的責任がある核兵器のない平和と安全保障を追求する核兵器のない世界を目指して具体的な方策を取る」などに言及した、いわゆる「プラハ演説」を高らかに行なった。


先の米国民のアンケート結果とオバマ大統領の「プラハ演説」との乖離はあまりにも大きく、その無責任さ加減にあきれて言葉もない。


原爆の悲惨さを実際に目にしたことのない米国民。無知なるが故の米国民の非道の是認。石堂郁江さんが何を思い死んでいったかに鎮かに思いを致したとき、私は米国民の鈍感な傲慢さをとてもじゃないが許すことはできないと歯ぎしりするように思ったのである。

脳卒中へのカウントダウン (脳出血発症9日目)3

脳卒中へのカウントダウン (脳出血発症9日目)

 

【妻の看病日記より】

 

2001.3.9(金)

 

 1145分。(妻、気分悪く、近所の)内科医へ。血圧を測ってもらう、非常に高い。薬をもらう。少し頭が重い。慎重に行動しなくては。

 

 1時半、病院着。リハビリの先生来られる。手と足をゆっくり動かす練習。CTを撮りに行く。頭が痛いと言っていたが、CTを撮ったあとはすっきりした様子。

 

 S主治医から話あり。

CTの結果。良好。出血の痕も少なくなっていっているので、順調と見て良し。来週からリハビリを頑張っていくこと。酸素の量も2Lから1Lへ。(降圧剤の)薬を(点滴から)飲み薬にしたので、血圧は高目。様子を見る。

さらにリハビリ病院の説明あり。伊豆の修善寺(慶応義塾大学が瀬リハビリテーションセンター)を紹介される。少し遠いけれど、(伊豆の病院へ行くのが)最上の方法と言われれば、行かなければならないのかも。弟と一緒に聞く。息子遅れてくる。

 

6時45分IN氏見える。

7時病院を出る。疲れた。

 

自宅に戻り、遅い夕食。娘、夕食をまた嘔吐する。胃痙攣(けいれん)の様子。一緒に寝る。夜は落ち着いて寝むれた様子。

 

【日記を読んで】

 発症9日目からベッドでのリハビリが始まる。ただ、リハビリと言っても、固まった関節をほぐす程度の軽いものであった。それでも、自分で思うように動かせない腕や足をほぐしてくれるのは、身体への好影響もそれなりにあったものの、それ以上に、ずっとベッドに縛り付けられていた自分が「これから回復へ向けた努力を始めるのだ」という気持ちの切り替えをするのに効果があったように思える。

 

 リハビリ病院の選択には正直、悩んだ。そもそもリハビリ病院のイメージは新聞や電車内の広告で目にした熱川などの「温泉リハビリ」と云った程度の知識しかなく、脳卒中という病気のリハビリに適した病院がどこかなど、わたしも家内もまったく無知であった。それにも増して脳卒中というものの「リハビリ」とはいったいどういったもので何をするのかさえ、まったく知識の一片すらなかったのである。

 

家内は修善寺までだと電車で自宅から2時間半から3時間はかかるので、これまでのように看病を日帰りと言うわけにはいかない。リハビリ病院では家族はどのような手助けが必要なのかもまだこの段階ではわかっていなかった。看病に行ける回数も多分、大きく減ってしまうだろう。そして精神的に不安定になっている娘を置いては行けないなど、色々と思いをめぐらせていた。

 

 言われた当日のこの段階では、何が一番よい方法かをすぐには見出せなかったのである。それは患者であるわたし自身も同じ気持ちであった。しばらく考えさせてくれと、そのとき主治医には返答したと思う。

 

 そして娘が精神的に疲れていたことを家内は、その当時、わたしを心配させないようにと伏せていた。いま日記を読んで見て、自分が病気にかかることがどれだけ周りの人々に身体面、精神面で大きな負担を強いることになるのかを、完膚なきまでに思い知らされた。それまで健康管理をどちらかと言うと馬鹿にして来た自分の愚かさを知り深く反省するとともに、そうした自分に対する家族の無償の愛情に心から感謝の念を覚えたのである。

 

「馬鹿は死ななきゃ直らない」という冗談のようなフレーズがあるが、「馬鹿であろうとなかろうと」といった冗談は別として、「愛する家族を残して」は、決して「無闇な死を選んではならぬ」「健康を維持するのは大事な家族を守る最低の義務である」と、心底から思い知らされたのである。

 

 

人気ブログランキングへ

 

 

人気ブログランキング ON

 

 

 

【阿砲弔鼎】

,砲發匹

 

 

世界一やさしい脳卒中にならないための本世界一やさしい脳卒中にならないための本

脳卒中の運動療法脳卒中の運動療法

 

脳卒中患者の機能評価脳卒中患者の機能評価

動画で学ぶ脳卒中のリハビリテーション動画で学ぶ脳卒中のリハビリテーション

脳卒中へのカウントダウン (脳出血発症7、8日目)5

脳卒中へのカウントダウン (脳出血発症7、8日目)

【妻の看病日記より】

 

2001..7(水) 晴れ

 

午前中、たまった雑用をこなし、一時半病院着。H、A研修医と話し中。

ヨーグルトを何口か食べたところ。(嚥下に)問題ないので、降圧剤の点滴を1本にし、飲み薬にする。むくみの方の薬は今しばらく点滴による。とうふ、卵とうふ、プリンなどなめらかな物は食べてもよい。ジュースなどもOK。さっそく、みかんのジュースを作り飲む。(飲んだのは)半分。吸飲みで飲むので、味気ないとの感想。

 

 2時40分頃、首すじのエコーを撮りに出かける。3時15分頃もどると、I夫人がお見えで、待っておられる。エコーの後のせいか、H、疲れ気味。血圧を測ったりとあわただしく、早々にお帰りになる。

 

 4時、O氏見える。H、ウトウトと寝ていて、あまりしゃべれず。(妻が)一応の状態を話し、O氏帰られる。

 

 5時、医学部生が臨床実習か?診察に来る。血圧が高め177(収縮期)。

 

【日記を読んでのコメント】

 

 やわらかい物はよいと言われたものの、その頃はまだ気分的に食欲があるとはとても言えぬ状態であった。そして、お見舞いはもちろんありがたいのだが、人との応対がこんなに気づかれすることも初めて知った。脳がむくんでおり、体は当然だが、心も思考能力もまだ正常ではない。とくに色々な意味において「意欲」というものが、まだまだ湧いてこなかったなと、今にして思い起こされる。

 

 

【妻の看病日記より】

 

2001.3.8(木) 晴れ

 

 3時到着。色々と(自宅に)電話があり、その応対、そして銀行など必要な先で手続きなどすませ、(Hの)眼鏡ができたので、それをピックアップしての3時到着。

「やっと来たか」の(H)のひと声。

 

 リハビリの先生はすでに来られたとのことで、明日より(まず、病室内で簡易リハビリを)始めるとのこと。また昨日、S主治医より「9日はCTをとり、エコーおよびCTの結果説明を5時半頃よりする」と言われていたが、弟、息子には連絡済み。

 

 441分、H、軽いいびきをかいて寝ている。立て続けに来客があると疲れるのかな・・(昼過ぎから三人の見舞い客があった)。来客の合間にプリンを8分目ほど食べる。

 

 昨夜は考え事を始めると眠れなかった、血圧も190(収縮期)近くなり(睡眠)薬をもらって寝たとのこと。まだまだの様子。血圧が早く安定して欲しいものである。

 

 5時15分夕食。おかゆ3口、鯵(あじ)の塩焼き1/4、こうやとうふ1切れ、とうふ少々、おいしくないと言いながら食べる。帰宅後、方々からお見舞いやHの状態確認の電話がある。こちらの要件連絡先にも電話を入れる。

 

 

【日記を読んでのコメント】

 

 日記を読んでいて、この時期の患者(わたしのこと)は自分だけのことしか考えていないのだなと思った。これはわたしのわがままな性格もあると思うが、自分を取り巻く全体感が把握できていないことは確かであった(何せ、自分の病状についても一時は命も危なかったのだということを、この時点ではまだ理解もしていなかった)。だから、発症後1週間がたって妻がどれほど心身ともに疲労困憊(こんぱい)しているかなど、思いが至らなかった。目の前で振る舞う妻の姿はいつもながらの姿に見えていた。

 

 一方、わたしの病状は順調に回復をしていたことがわかる。ただ、当時は血圧について過敏なほどに過剰反応していたことを思い出した。収縮期いわゆる上の血圧値が190などと言われると、それだけで胸がドキドキし、血圧がどんどん上がって行っているのではと恐怖に捕らわれた。今では「上は200を超えることも正常な人でも、状況によってはあるんですよ」と医者に言われて、「そうですか」と、どっしりと構えているものの、その時は定時の血圧検診に一喜一憂したものだ。

 

 ただ、約一週間目にして普通の食事(病院食ではあるが)を自分の口で食べられる状態にあったことは、やはり回復は幸いかな至極、順調であったことの証左であろう。

 

 

人気ブログランキングへ

 

人気ブログランキング ON

 

 

 

 

につづく

,砲發匹

 

 

 

 

世界一やさしい脳卒中にならないための本世界一やさしい脳卒中にならないための本

脳卒中の運動療法脳卒中の運動療法

動画で学ぶ脳卒中のリハビリテーション動画で学ぶ脳卒中のリハビリテーション

 

 

脳卒中の早期リハビリテーション第2版脳卒中の早期リハビリテーション第2版
脳卒中リハビリテーションポケットマニュアル脳卒中リハビリテーションポケットマニュアル

 

脳卒中へのカウントダウン 5

脳卒中へのカウントダウン(脳出血発症6日目)

【妻の看病日記より主に病状について抜粋】

 

2001.3.6(火)晴れ 

 

 H、うとうと寝ている。

頭の痛さ、首の痛さは変わらない様子。左半身もしびれ感は同じ。意識で左腕を挙げたり、(左手を)握ったりはできるが、(自分の腕が)どの辺りに挙がっているかとかの感覚はないので、(妻が)手を離すとことができない。

 

 CDでプレスリーをかける。(中略)

Hはこちらが話し掛けている途中で、軽いいびき。見舞い客があると、一生懸命にしゃべるので、どうしてもその後は疲れる様子。なぜかお客が重なるものである。夜はあまり眠れないということで、看護師さん達は昼の間は起きていてねと声を掛けて行く。

 

 445分頃、M氏にお見舞いいただく。狭心症で2回ほど入院経験があると、色々と病気になったときの心境について語ってくれる。励ましてくれてありがたい。

 

 53分、T助教授が顔を出す。

 

 眼鏡店で眼鏡を注文する(わたしはコンタクトレンズ使用で、それまで眼鏡を持っていなかった。自力で立つこともできぬわたしは足元が見えぬではリハビリは不可能であった。コンタクトなど左手が意思どおりに動かぬのに装着などできなかった。7年経った現在は、自由な右手で両目に装着している。今でも、左指にレンズを載せての装着は眼球を傷つける危険があり、できない)。

 

(妻が帰宅後、見舞いに来た)息子と弟から(翌日になるが)午前1時に電話あり。

 

 明日、プリンを食べる練習をして、それがOKだと降圧剤を(点滴から)飲み薬に替えるとのこと。

 

【日記を読んだわたしのコメント】

発症後、5日目で左腕を意識して挙げることはできていたのだと、日記を読んで本人がびっくりしている。発症してから左手の指すらまったく動かなかったのが、わずかに動き出したのが1週間くらい経ってからと思っていたが、腕を挙げることが5日目にできていたということは、わずかにでも動きを取り戻したのは3日目とか4日目のことなのであろう。

 

さらに、これはリハビリセンターに転院してから知らされたが、重要なことなのでここに記しておく。まだこれから2〜3週間後においても腕を挙げた時に、自分ではその腕がどこの位置にあるかまったく分からぬ状態であった。感覚がないのである。目をつぶって挙げようものなら、挙がっていると思った腕が寝ている顔のすぐ前にあるといった状態である。そしてまだ痛さなどの感覚がないため、どんな恰好でも腕を持っていける。「痛くないのだから」。そして中程度以上の麻痺を抱えた大抵の患者は、不随になった側の腕の肩を脱臼してリハビリセンターに転院してくると、月ヶ瀬リハビリテーションセンターの作業療法士に言われた。「あなたは、家族および医療スタッフがよく注意して看護してもらっていたので、本当によかった」と。

 

脱臼をしていると麻痺した腕や指のリハビリに即座に入れない。ひと月ほどは健全な右手での社会復帰へ向けた動作をやるしかない。早期リハビリがよいのに、ひと月ほどを無駄にすることになる。最初の病院で注意深く脱臼させないように看護することが、その後のリハビリにきわめて重要ということを知らされた。

 

現に、弟に退院後に言われたが、ICUにいるときの兄貴は不自由ながら、腰が痛いと体をくねらせていた。その時に不随の左腕がアクロバティックな形で背中の下に行こうが、苦痛を感じないのと、どこに自分の腕があるのか位置感覚が分からぬため、悲鳴どころか眉一本動かすこともなかったという。感覚喪失というのは本当に恐ろしいものだ。

 

「俺たちがその度に兄貴の腕を引き出したんだ」と、後に言われた。いま振り返り、家族と云うもののありがたみをしみじみと思う。本当に感謝の言葉しかない。

 

 

人気ブログランキングへ

 

人気ブログランキング ON

 

 

 

 

,砲發匹

につづく

 

脳卒中へのカウントダウン 5

脳卒中へのカウントダウン 

【妻の看病日記より】

―――( )内は筆者がこの掲載にあたり説明の為の加筆。〔 〕は日記のママ。

 

2001.3.5(月)晴れ(脳出血発症5日目)

 

 雛の日に色と言葉をとりもどす〔Hが披露した句〕

 

 2時半病院到着。社外のM氏見える。ウォークマンとマドレーヌ持ってきてくれる。Mさん見える。神田明神のお守りを持参してくれた。土曜日もお見えになったとか。(ICUが)ものものしくてそのまま帰られた由。弟が(社外の)M氏と入れ違いに来る。その後すぐ、S氏とRさん見える。

 

 看護師さんより(わたしが)夜眠れないので、昼間はなるべく起きておくように言われる。が、やはりうとうとする。4時半以降は来客につき話すこと多し。(入院病棟の)担当のA医師(研修医)が挨拶に来る。

 

 T助教授診察。

首筋痛い〔出血のためいましばらく仕方ないとのこと〕。吐き気があるのも同様。安静は10日〜2週間くらいかかる(とのこと)。

 

(入院病棟)主治医のS医師とA研修医来る。来週、長期的な事について話し合う。今週、CTをもう一回とる。

 

 7時近くI氏来る。

 

【以上看病日記より転載】

 

【日記を読んで、いま言えるわたしのコメント】

 

これまでの妻の日記を読んでいると、本人が思っていた以上に改善のテンポが早いように見える。発症後、4日目で面会を拒絶されることなく、わたしが多くの見舞い客と話ができる状態にあったことは、今、思い返せば本当に奇跡に近いことだと思わざるを得ない。

 

 ただ、会社へ復帰後、その時点で見舞いに来てくれた方々に話を聞くと、わたしの会話は相当にゆっくりで、呂律(ろれつ)がまわらず朦朧とする部分があったと証言している。

 

 しっかりした口調で話をしているつもりが、やはり、まだ脳のむくみなどは、依然ひどく、会話が打々発止というわけにいかなかったのは当然である。しかし、発症前と較べると、相当に滑舌(カツゼツ)が悪くなったことは感じていた。口を動かすのにも発音しやすい単語を探して会話をするという脳内作業をこの頃から始め出したようだ。

 

しかし、家族にとって、場合によっては言葉も失う病であるにも関わらず、ノロノロであろうが呂律が回っていなかろうが、口が効けることだけで妻は「話ができる」として心から喜んでいたのだと思う。意思の疎通は確実に図れていたのだから。

 

 

人気ブログランキング ON

 

 

 

 

,砲發匹

にもどる

につづく

 

 

人気ブログランキングへ

 

 

 

ためしてガッテン 糖尿病・脳卒中(DVD) ◆22%OFF!
Yahoo!ショッピング(ヤフー ショッピング)

 

【満足百貨】オムロン 手首式デジタル自動血圧計 HEM-642【大きな文字とワンプッシュ測定が便利】
Yahoo!ショッピング(ヤフー ショッピング)

 

【オムロン】自動血圧計(上腕式) 大きい文字で見やすい!ボタン1つで操作も簡単 HEM-7051
Yahoo!ショッピング(ヤフー ショッピング)

脳卒中へのカウントダウン 5

脳卒中へのカウントダウン 

(脳出血発症3、4日目)

【妻の看病日記より】

これより、病気に関することを中心に参考となるものを日記より抜粋することにする。

 

2001.3.3(土)(ICUにて治療中)

 

 1240、特急にて病院へ。H(わたし)、ウトウトと眠る。昨日ほどうるさく腰痛を訴えず。まどろんでいる。夜もゆっくりねむれた様子。

 

 ベッドを30度上げる許可がおり、4時頃動かしてもらう。色々に姿勢がかえられ少し楽になった様子。3時半頃、(担当医の)S医師、Kインターンより状態を聞く。きわめて安定しているので、月曜日(5日)には一般病棟へ移動とのこと。差額ベッド代につき同意書提出。

 

 酸素の管は安定しているのでとれるであろう事。胃よりの管は明日にでも水を飲み下せるようだと、とれるとのこと。

 

 一般病棟では機械はとりはずし、血圧の確認で様子を見るが、一週間は安静の状態。その後、徐々に動き、リハビリを行っていくと同時に、高血圧治療を進める。

 

(会社の)F・M両氏からのお見舞い、お守りを見せる。(仕事の案件成就の)“祝勝会”の文字を見て少し涙ぐむ。〔つらいね!!〕

 

 昨日の新聞の記事を見たがる。新聞を忘れてくる〔失策〕。社長の偉大さ、強さ、そして勉強させてもらった事を話す。社長わざわざの見舞いについても感謝。気持ち的につらさがわかる。けど、これからも何度も感じるつらさと思うと、ただ、はげますしかない。

 息子、弟の事、気にかける。〔(見舞いは)いいといいながら待っているところ有〕

 今日はおとなしくねている事が多く、6時には帰っていいよという声。娘のこともあり、早目に出る。

 

 息子よりTel7時頃、弟と(病院へ)出かけた由。

 

 

2001.3.4(日)(ICUにて治療中)

 

 娘と2時過ぎに病院に着く。

 

 ベッドが50度まで起きて、胃液をとる管がはずれて、少し楽そう。氷とポカリを買いに行く。氷は少し口に入れてとかす。ポカリも吸い飲みで少し飲み下す。少しづつ良好。

 

 4時半頃少し動いたせいか、頭を動かすと気持ちが悪い(吐き気)と言う。看護婦さんに伝えるが、まだ(脳出血後)4日目で脳内のむくみのせいだろう、今しばらく安静が必要とのこと。特に異常な状態ではないとのこと。

 

 弟、4時前に来て、4時半頃帰る。

 

 

(12)につづく

,砲發匹

 

PJニュース.net

PJ募集中!

人気ブログランキングへ

 

脳疾患治療の実力病院―日経病院ランキング

世界一やさしい脳卒中にならないための本世界一やさしい脳卒中にならないための本

脳卒中患者の機能評価脳卒中患者の機能評価

動画で学ぶ脳卒中のリハビリテーション動画で学ぶ脳卒中のリハビリテーション

脳卒中へのカウントダウン(10)5

脳卒中へのカウントダウン(10)

発症翌日(ICU)

 【妻の看病日記】

慶応病院外観

ペンのマーク

入院病棟望む

 

 

    

 慶応病院外観      慶応病院のペンのマーク   入院病棟を望む

2001.3.2(金)

 

 10時すぎI氏よりTel。会議の結果が当方の思い通りに決着がついたとのこと。早くHさんに知らせて欲しい旨のTel。弟宅で掃除、食事後、買物(病院に持っていく物)をして病院にむかう。1時すぎ。タクシーが混んでいるため途中で下車、電車に変更。結局、病院着が2時15分頃。I氏、N氏、K氏が待っている。さっそくに面会。会議の結果を伝える。連絡が遅いと叱られる。正常の時だともっと怒っていただろうと思われる。N氏にじきじきのお見舞いをいただく。K氏、W氏見舞いに来られる。会議の決着につき皆喜ぶ。Hさんの状態は落ち着いている。話は十分に出来、会話は正常。ただ、腰が痛いと訴える。しばしば。4持半頃にDrSより説明有。

 

 第3回目。

 

 2回目のCTを12時半頃とる。出血の状態は昨日からほぼ変化なし。脳室穿破による脳室にも変化なく、水頭症にはなっていない。状態はきわめて安定している。来週〔月〕には病室移動も可能。これからは自然に血液がひく(脳内に吸収されていく)のを待つのみ。筋力の回復は認められるが、感覚神経については重症であるため、回復力によるが、つえ歩行の可能性が大である。リハビリ次第ではある。慶応(信濃町)は2ヶ月程度、その後はリハビリ病院に転院になる。〔リハビリ病院紹介する。リハビリ期間が〕3ケ月程度。退院は6か月後が目途。その時の状態により会社復帰の可能性をさぐる。病室が空いていないため差額ベッド代が必要。

 

(同期の)N氏、I氏及び弟、息子、娘が一緒に聞く。

 

N氏〔同期・人事部〕が医療保険及びリハビリ病院について調べてくれる由。保険については自分でも調べてみる必要あり。

 

 H(わたしは)、ひたすら腰痛をうったえる。病室(ICU)につき添うよう看護婦さんよりの連絡。3時すぎから9時まで腰をさするしか方法なし。(鎮痛剤の)座薬を2回使う。

 

 6時、弟を含め食事。娘を息子が送る。弟、Hさんの顔を見た後帰る。(妹を送った)息子病院に戻り、帰る。

 

 9時消灯につき座薬で少しねむりにはいったので帰る。帰りのバスの中、涙がとまらない。

 

(ペットの猫)R、庭にいる。一緒に(家に)入り、だきしめる。

1時就寝。めずらしくすでにRふとんの中!!

 

 PS:留守電M氏よりTel有。「健康はいかが?懸案事項うまくいって  おめでとう」

  

 帰宅途中、病院の前でF、MU両氏に会う。日枝神社の御守を届けて下さる。感謝!

 

「発症翌日の3月2日の妻の看病日記より」

 

(11)につづく

,砲發匹

 

人気ブログランキングへ

 

 

 慶応病院HP

 

 

 脳疾患治療の実力病院―日経病院ランキング

 

PJニュース.net

PJ募集中!

 

 

 

 

 

最新記事
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

記事検索
livedoor プロフィール
livedoor動画検索
本ブログパーツの提供を終了しました
NAVERまとめ
「NAVERまとめ」ブログパーツは、サービスを終了しました。
  • ライブドアブログ