彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

古都散策

日本書紀をたどり明日香を歩く―― 2=仏教公伝をめぐる権力闘争の場面で登場する海柘榴市(つばいち)6/6

海柘榴市はシルクロードの起点であると先に語った。日本書紀に仏教公伝の百済使節が海柘榴市に上陸したとの記述は見えない。


海柘榴市歴史公園と三輪山
三輪山麓、この辺りが海柘榴市・河原に海柘榴市歴史公園

しかし、隋の裴世清が遣隋使の小野妹子らと共に大和川を水行上陸したのが海柘榴市であったことは、後の推古紀16年8月条に記されている。海外の賓客が難波津から大和川を遡上し、この海柘榴市の河港に上陸し、明日香の京に陸行するというのが、その当時のメインルートであったことは確かである。


故に、それを遡ること五十有余年前にも、百済からの使節が海柘榴市に来着したことは間違いなかろうと考える。現在、大和川に架かる馬井出橋の脇、堤の上に “仏教傳来之碑”と彫り抜かれた大きな石碑が建っているのも頷けるところである。


仏教伝来地石碑
大和川岸に立つ仏教伝来の碑

仏教公伝については、欽明(キンメイ)13年(西暦552)10月の条に、「冬十月に、百済の聖明王、更の名は聖王。西部姫氏達率怒唎至契(セイホウキシダチソチルヌシチケイ)等を遣して、釈迦仏の金銅像一躯・幡蓋若干・経論若干巻を献る・・・」と伝えている。


そして、「仏法が諸法のうち最も優れたもので、三韓も皆、教えに従い、尊敬しないものはない」との百済王の上表文を読んだ欽明天皇は、「西蕃(セイバン)の献れる仏の相貌、端厳にして全く未だ曾(カツ)て看(ミ)ず。礼(ウヤマ)ふべきや以不(イナ)や」と、仏教受容の是非を群臣に問うた。


蘇我大臣稲目は「西蕃の諸国、一に皆礼(ウヤマ)ふ。豊秋日本(トヨアキヅヤマト)、豈(アニ)独り背かむや」と、仏教の受容を促した。


一方、物部大連尾輿(オコシ)と中臣連鎌子は、「我が国家の天下に王とましますは、恒(ツネ)に天地社稷(アメツチクニイエ)の百八十神(モモアマリヤソカミ)を以ちて、春夏秋冬、祭拝りたまふことを事(ワザ)とす。今方(イマ)し、改めて蕃神を拝(ヲロガ)みたまはば、恐るらくは国神(クニツカミ)の怒を致したまはむ」と、神道祭祀の長たる天皇が他宗教の神を祭拝すると国ツ神の怒りを買うと猛反対。


そこで、天皇は崇仏派の蘇我稲目に仏像を預け、試みに礼拝させることとした。稲目は自邸のある小墾田(オハリダ)にまず仏像を仮置きし、至近の向原(ムクハラ)の家を浄捨して寺とすると、そこへ移転安置し、仏道の修行に勤めた。


向原寺・本堂
向原寺(こうげんじ)・本堂

ところが、その後、折悪しく全土に疫病が蔓延、病死者が増嵩。この災禍につけ込んだ排仏派の物部尾輿・中臣鎌子は、これは国神の祟りであり、早々に仏像を棄てよと上奏、欽明天皇は「奏(マヲ)す依(マニマ)に」と、それを許す。


そこで、尾輿らは仏像を難波の堀江に棄てさせ、伽藍に火をつけ灰燼させた。この難波の堀江は仁徳天皇11年10月条に、「(難波高津)宮の北の郊原(ノハラ)を掘り、南の水を引きて西の海に入る。因りて其の水を号(ナヅ)けて堀江と曰ふ」とあるように、仁徳紀に治水工事として築造開鑿(カイサク)させた堤や運河のひとつである。


ただ、これには異説があり、現在の向原寺(コウゲンジ)に“難波池”という小さな池がある。この池が紀にある“難波の堀江”であるとの伝承が残されており、江戸時代にここから金銅観音菩薩立像の頭部が発見されている。明日香を遠く離れた難波の津までわざわざ仏像を棄てに行くのは不自然との見解である。


向原寺・難波の堀江
向原寺にある難波池

どちらにせよ、仏法の受入についてその象徴である仏像の棄却という行為は宗教戦争というよりも、これまで国家祭祀を掌って来た物部氏や中臣氏といった古豪族と擡頭著しい新興豪族である蘇我氏との姿を変えた権力抗争であったというのが事の本質である。


そして、神道派の攻勢のなかにあって、敏達天皇13年2月条にあるように、「蘇我馬子は百済から二体の仏像を請け邸宅内に造った仏殿に安置。そして、高麗の恵弁を師とし、三名の女を得度させ尼とし、これらに大規模な法会を催させる」など、蘇我氏は仏教の庇護者としての地位を徐々に固めてゆく。


そんな折、容仏派の頭目であった馬子が病に伏し、国内に再び疫病が起こり多くの民が死ぬことになる。


ここに排仏派の物部守屋(尾輿の子)大連・中臣勝海(鎌子の後継者か?)が、

「考天皇(チチノミカド=欽明)より陛下に及(イタ)るまで、疫病流行(ハヤ)りて、国民絶ゆべし。豈専ら蘇我臣が仏法を興し行ふに由れるに非ずや」と、上奏(敏達紀14年3月条=西暦585年)。


天皇の許しを得た守屋は早速に、仏像や寺の伽藍を焼き、焼け残った仏像は難波の堀江へ棄て去った。このことは仏教公伝の欽明天皇の時代に物部尾輿・中臣鎌子が同一の行為を行った記述があるが、ひとつの事件を重複して記載した誤謬ではなく、このような廃仏毀釈の迫害、弾圧が度々あったと理解すべきであろうと考える。


そして、病床に伏す馬子や仏法を修める法侶を責め尼を引っ立て、弾圧するのである。その見せしめの舞台として登場するのが、海柘榴市(ツバイチ)である。


即ち、「有司(ツカサ=役人)、便(スナハ)ち尼等の三衣(サムエ)を奪ひ禁錮(カラメトラ)へて、海柘榴市の亭(ウマヤタチ=駅舎)に楚撻(ムチウ)ちき」と、排仏の公開処刑の場として海柘榴市の馬屋館が使用されている。


それは、中世における政治犯の処刑の場としての六条河原そのものであり、川原は小屋掛け興行なども盛んに行なわれ人の往来が多いゆえに、そうした舞台にも使われたという意味において、海柘榴市が当時、殷賑を極めていたという証でもある。


それから時代は下って、1300年後の明治維新、国家運営の道具立てに宗教を利用しようとする一派により、まったく同じ蛮行、すなわち、廃仏毀釈という愚かな行為はなされることとなる。


まさに歴史は繰り返すの銘言通りの事象が起こっているのである。その一場面にこの海柘榴市も登場するという話であった。




日本書紀をたどり明日香を歩く―― 2=王権交替のさらに真相に迫る海柘榴市(つばいち)5/6

雄略に次ぐ清寧天皇の二代の間、政権中枢に据わっていたのは大伴室屋大連や平群真鳥大臣である。


紀に清寧天皇即位に両者が各々、大連・大臣に叙された際に、「並びに故(もと)の如し」とある。その前からこの体制であったと記されており、先代の雄略天皇の即位と同時に平群真鳥は大臣、大伴室屋、物部目(め)は大連に叙任せられたと紀にある。


そして、この三重臣のうち武烈天皇の時代まで残ったのが平群真鳥大臣である。


物部目は清寧天皇の即位の立役者としては登場せず、その後の皇位継承の過程のなかにも名を出すことなく歴史の世界から姿を消し去っている。


また、清寧擁立の立役者である大伴室屋も雄略23年10月4日の条(清寧紀即位前記)、「大伴室屋大連、使主・連等を率ゐて、璽(みしるし)を皇太子(清寧)に奉る」とあり、清寧紀2年2月の条に、「天皇、子無きことを恨み、乃ち大伴室屋大連を諸国に遣して、白髪部(しらかべの)舎人・白髪部膳夫(かしはで)・白髪部靫負(ゆけひ)を置きたまふ」とある後は、一切、紀の世界から姿を掻き消している。


その結果、武烈紀には大伴氏が室屋の孫である金村が連として一族の長として登場し、平群氏滅亡の大功により大連に昇進することとなる。


また、物部氏はまさに平群氏と武烈との間で娘を取り合いされる麁鹿火(あらかい)が大連として登場しているが、物部目の直系の血筋ではなく、雄略紀に重用された目の本流の方は凋落したものと推測される。


即ち、雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈の五朝に亙って常に政権中枢に据わっていたのが平群真鳥ということになる。


そして、清寧天皇擁立に際し、平群真鳥は大臣でありながら、一切名を出していないことも奇妙である。その後も、朝廷内で大臣として権力を維持しているのにである。


さらに不思議なのが、清寧天皇と武烈天皇の間の二代の天皇、即ち、顕宗・仁賢紀において、大伴、物部はおろか平群の一文字すら出てこぬことである。


清寧天皇が皇統の血筋を引く二人(億計・弘計)が発見され、都へ迎えるときに、「『朕、子無し。以ちて嗣(ひつぎ)となすべし』とのたまひ、大臣・大連と策(はかりこと)を禁中に定めたまふ。」など、一般名詞の大連・大臣や百官(ももつかさ)公卿・百寮(ももつかさ)といった表現で臣下との遣り取りの様子が描かれる。


具体的な重臣の姓は一切、登場しないのである。その為、この二代の記述は雄略天皇の追捕からの二王子の逃亡、発見の様子は極めて具体的であるものの、即位からその治世、朝廷内の描写は平板でおそろしく抽象的な記述にとどまっている。


そして、武烈紀に入り、「(仁賢紀)11年8月に、億計天皇崩(かむあが)りましぬ。大臣平群真鳥臣、専ら国政を擅(ほしきまま)にして、日本(やまと)に王たらむと欲(おも)ひ、陽(いつは)りて太子(武烈)の為に宮を営(つく)り、了(つくりをは)りて即ち自ら居(す)む」と、具体的な重臣名でその専横ぶりが描写される。


この記述の極端な落差、顕宗・仁賢二代の沈黙は一体、何を意味するのか。


その治世・朝廷人事の具体性の欠如は、やはり、この二代の天皇の即位はなかった、履中天皇の孫であるこの両王子の逃亡、それから皇統を引き継ぐ者としての入京の事実はあったとしても、仁徳天皇の皇統が清寧で一旦、途絶え、武烈天皇で復活するまでは、皇統を引き継いだ天皇という存在はなかったと考えるのが、紀を精読しての私なりの結論である。


つまり、顕宗・仁賢の二代の14年間は天皇の椅子は空位であり、平群真鳥が政敵である大伴、物部氏を排斥し、実質的な王として君臨していたとするのが妥当な推論であると思う。


その冷や飯を喰らっていた大伴・物部氏が平群王朝を転覆させるには、皇位の正統性である仁徳天皇からの血筋が必要であったと見るべきであろう。


然るに、雄略天皇が一族を根こそぎ暗殺するといったなか、子が無い清寧帝の後に続く王家の血筋は本当に絶えたかのように見えたのであろう。


だから、かつて雄略が謀殺した政敵(市辺押磐皇子)の子孫であろうが、必死で仁徳の血筋の者を探し出し、億計王子(仁賢)の子(武烈)を傀儡として擁立し、平群真鳥と一発勝負に出たというのが、この武烈=暴君の存在意義であったのだろう考える。


空位の14年間に皇統の連続性を接ぎ穂し、その裏に実在した平群王朝の滅亡、皇統復活劇、そのオペラのような舞台に海柘榴市(つばいち)という当時、誰もが知る歌垣の場がセットされたのである。


そして、王朝転覆ストーリーの舞台廻し役、実は主役なのだが、その後の大和王朝を支える重臣、大伴金村・物部麁鹿火(あらかい)、その美しき媛を登場させたというのが、正史たる日本書紀の編者・舎人親王が脚色を巧みにし、老練な脚本家としての冴えわたった腕の見せ所だったのだろうと考える。



 


 



日本書紀をたどり明日香を歩く―― 2=脚色された皇統の正統性と連続性・海柘榴市(つばいち)を逸れて4/6

海柘榴市という本来、甘い恋を語らう歌垣の舞台を使って、陰謀渦巻く王朝交替という大政変を、さらりと恋敵同士の争い事にすり替えた日本書紀の編者・舎人親王(天武天皇の皇子)の狙いは何であったのか。


父たる天武の血筋・皇統が絶えなんとすることを見越しての預言をこの話に含ませたかったのか、この話に隠された舎人親王の符牒とは何か、海柘榴市の寓話に埋め込まれた謎とは一体何なのか、興味は尽きぬところである。


そこで、ちょっと海柘榴市より話は逸れてしまうが、この王権交替の不可思議な謎にさらに迫ってみたいと思う。


前稿で語った平群真鳥による王権簒奪がなぜ起こったかと日本書紀を精読すると、皇位争いの過程で兄弟・従兄らを次々と謀殺していった雄略天皇、その時代から清寧天皇の即位に至る間の吉備一族の一連の反乱劇として記述された真相は何か。


そして、武烈天皇の先代、仁賢天皇さらにその先代の顕宗天皇が子のない清寧天皇(雄略天皇の皇子)から皇位を継承した奇妙な経緯などを具に読み込むと、凄まじい王権争奪抗争の裏に暗躍する有力豪族の、その果てには他の王朝の興亡すらも見えて来る。


つまり、吉備一族は大和にそもそも服属などしておらず、それぞれの地方の王朝として存在していたのではないか、また各々の天皇擁立に奔走した豪族は誰か、武烈天皇の前二代の天皇は実際に即位を果たしていたのか否かといった皇統の正統性や連続性といった王権の根幹部分に疑義が生じてくるのである。


武烈の前の天皇とは、武烈の父にあたる先代の第24代・仁賢天皇と仁賢天皇の弟、即ち、叔父にあたる先々代の第23代・顕宗(けんぞう)天皇である。


顕宗(弟・億計(オケ)王子)天皇と仁賢(兄・弘計(ヲケ)王子)天皇は共に市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の子である。市辺押磐皇子は父、第17代・履中天皇(仁徳天皇の長子)の長子であり、第20代・安康、第21代雄略天皇(共に第19代・允恭天皇の皇子)の従兄に当たるが、仁徳天皇の皇統でいえば、嫡流いわば直系の血筋にあたる。


億計・弘計王子の父・市辺押磐皇子は雄略と皇位継承上、対立関係にあった。その市辺押磐皇子に安康天皇が生前、皇位を譲る意向を示していたため、天皇崩御の僅か二ヶ月後の安康3年10月、雄略(允恭天皇の皇子)は策を弄し、同皇子を狩猟に誘い出し、猪と間違えたとして射殺し、その5か月後に即位を果たした。


市辺皇子の子、億計・弘計王子兄弟は、雄略天皇から次に命を狙われることは必至であり、忠臣の帳内日下部連使主(とねりのくさかべのむらじのおみ)とその子、吾田彦に守られ、まず丹波国の余佐郡に身を隠すことになった。


それでも、なお、雄略天皇の追捕を惧れた帳内使主は自らの名前まで変えて、播磨国の縮見山に潜伏するも逃れきれぬと思い、そこで一人縊死する。


使主と別行動をとっていた億計・弘計兄弟は、使主の子の吾田彦とともに今度は播磨国赤石郡へと逃れ、自分たちも丹波小子(たにはのわらは)と変名し、縮見屯倉首(ししみのみやけのおびと)の奉公人に身を落とし潜伏することとなった。


雄略の崩御一年前に清寧は皇太子(ひつぎのみこ)となるが、天皇の死後、吉備上道田狭の元妻であった稚媛と雄略の間にできた星川皇子が母・稚媛と組んで、雄略の後を襲おうと陰謀を巡らす。


吉備王朝を衰亡させた雄略天皇の遺詔(吉備上道臣の血を引く星川皇子は必ず王位を狙う。その時は清寧を守れ)により大伴室屋大連と東漢掬直(やまとのあやのつかのあたい)が稚媛と星川皇子一派を誅殺、さらに反乱に加担しようとした外戚・吉備上道臣の所領を一部収奪した。


真義定かならぬが、雄略天皇の遺詔という大義をもって、吉備王朝の影響力を大和王朝から一掃した大伴室屋大連と東漢掬直という有力豪族によって、ようやく雄略の皇子・清寧天皇に皇位を継承させることになる。


そうして皇統の正統性・連続性を整えたにもかかわらず、不思議なことに清寧帝に皇后が立てられることはなく、したがって皇子もなく、その皇統は絶える事態となっている。


真に以て不可思議な風景の記述なのである。



 



日本書紀をたどり明日香を歩く―― 2=王権交替の舞台に使われた海柘榴市(つばいち)3/6

あまりにも牧歌的な歌垣の情景のなかにあって、海柘榴市(つばいち)の日本書紀の初出は、仁徳天皇からの皇統の最後となった第25代武烈天皇(在位499−506)が太子(ひつぎのみこ)であった時代、仁賢天皇11年8月の条である。


有力豪族たる物部麁鹿火(あらかい)大連の娘・影媛を間に挟んで、時の権力者同士が恋の鞘当てを展開する場面である。


任賢天皇(在位488−498)が崩御し、時の大臣・平群真鳥(へぐりのまとり)臣は、「専ら国政をほしいままにして、日本に王たらむと欲(おも)ひ、陽(いつは)りて太子の為に宮を営(つく)り、了(つくりおわ)りて自ら居む。触事(ことごと)に驕慢にして、都(かつ)て臣節無し」といった王権を手中にしたかのような専横を恣(ほしいまま)にしていた。


平群真鳥は木莵(つく)宿禰(武内宿禰の子・仁徳天皇と同日の生まれ=仁徳紀元年正月の条)の子(雄略紀即位前紀11月条)である。重臣・武内宿禰の子であった木莵宿禰は第15代・応神天皇の御世において重用され、平群の祖とされる。


その平群真鳥の嫡子である鮪(しび)と、当時まだ太子であった武烈天皇との間で応酬された歌垣の舞台が海柘榴市であった。


本来、歌垣は男女で遣り取りされるものだが、ここでは恋敵同士が想い人の影媛を間に置いて相手を揶揄し合う歌合戦となっている。その様子が日本書紀には次のように詳細に描かれている。


太子が使者を遣わし媛に逢いたいと告げさせると、既に鮪と情を交わしていた影媛ではあるが無碍に断ることもできず、「妾(やっこ)、望はくは海柘榴市(つばきち=小学館・日本書紀のルビ)の巷(ちまた)に待ち奉らむ」と、海柘榴市で会いたいと応じた。

海柘榴市の馬井出橋と三輪山
大和川に架かる馬井出橋と三輪山山麓・海柘榴市がこの辺り

そこで、太子は馬に乗ってゆこうと平群大臣の管理する官馬(つかさうま)を出すように舎人に命じさせたが、「官馬は誰が為に飼養へや。命の随(まにま)に」と返答するものの、その態度は不埒千万で一向に命に服しない。


「太子、恨を懐(うだ)き、忍びて顔に発(いだ)したまはず」と、太子は平群(へぐり)一族の人を食った仕打ちにも面を伏せ、じっと忍従したとある。


その鬱屈した挙動から、後に、「女を躶形(ひたはだか)にして、平板の上に坐(す)ゑ、馬を牽(ひ)きて前に就(いた)して遊牝(つるび=交尾)せしむ」(武烈紀8年3月条)といった狂気を描かれた暴虐の大君を思わせる片鱗は一切窺うことはできない。


そんな太子がいよいよ海柘榴市で影媛と出逢い、その袖をつかみ、ぶらぶら逍遥しながら誘いをかける。そこに平群鮪(しび)が登場し、二人の仲へ割って入り、恋敵は群集の見守るなかで向かい合う形となった。


そして、まず、太子が鮪に向かって歌いかけるのである。

“潮瀬の 波折(なをり)を見れば 泳(あそ)びくる 鮪(しび)が鰭手(はたで)に 妻立てり見ゆ”

(潮の流れの早い瀬の幾重にも折り重なる波を見ると、泳いでいる鮪の傍にわたしと契った妻が立っているのが見える)


それに対し、臣下であるはずの鮪は挑発するかのように次の歌を返す。

“臣の子の 八重や韓垣(からかき) ゆるせとや御子”

(臣の子の家の幾重にも囲んだ韓垣の内に影媛を厳重に囲っているのだが、それを緩めて影媛をどうぞと差し出せというのですか、太子よ)


そこからさらに問答歌の応酬が続いたのちに、太子が影媛に次の歌を贈った。

“琴頭(ことがみ)に 来居(きゐ)る影媛 玉ならば 我が欲(ほ)る玉の 鰒(あわび)白玉”

(琴を奏でるとその音に引かれて神が影となって寄り来るという。その影媛は玉に喩えるならわたしの欲しい玉である、あの鮑の真珠のような)


それに対し、影媛に代わり鮪が答歌したのが次の歌。

“大君の 御帯の倭文織(しつはた) 結び垂れ 誰やし人も 相思はなくに”

(大君の御帯の倭文織(しずおり)の布が結び垂れていますが、その誰にも、わたしは思いを寄せておりません。思うのは鮪臣のみです)


ここにおいて鮪と影媛の相思相愛を知らされた武烈は、海柘榴市の満座のなかで赤恥をかかされた格好となる。


辱めを受け、怒りに震えた武烈はその夜、大伴金村連を召し、即座に鮪の暗殺を命じ、鮪は乃楽(なら)山で誅殺された。


鮪の死を知った影媛が泪して詠った歌が次の通りである。

“青丹よし 乃楽(なら)のはさまに ししじもの 水漬く辺隠(へごも)り 水灌(みなそそく)く 鮪の若子を 漁(あさ)り出(づ)な猪(ゐ)の子”

(乃楽山の谷間で、鹿や猪のように水浸しの片隅にこもっている水灌(みなそそ)く鮪の若様を、漁(あさ)り出さないでおくれよ、猪よ)


この絶句のよって武烈太子は完膚なきまでに打ちのめされた格好である。これほどの恥辱はそうそうないが、治天の君が太子の時代とは云え、ここまで貶められて描かれているところもいかにも奇妙ではある。


その後、鮪の父で時の一番の権力者であった真鳥も親族を含め悉く、大伴金村によって討ち果たされることとなった。


平群真鳥をはじめ一族を抹殺したのちの下りが仁賢11年12月の条である。武烈天皇即位に至る経緯を述べているのだが、それが何とも謎めいた記述となっているのである。


「十二月に、大伴金村連、賊を平定(たひら)ぐること訖(をは)りて、政を太子に反(かへ)したてまつる。・・・『今し億計(おけ=仁賢)天皇の子は、唯陛下(きみ)のみ有(ま)します。・・・日本には必ず主(きみ)有します。日本に主まさむには、陛下に非ずして誰ぞ・・・』とまをす」


一臣下たる大伴金村が“政を太子に反す”と言うこと自体甚だ奇妙であるが、それでは一体、その時点で誰が王権を有していたという認識であったのか。


また、「日本に主まさむには、陛下に非ずして誰ぞ」と、“日本に天皇がいないのはまずい、天皇になるのはあなたを措いて他にない”と、大伴金村は言っている。

普通に考えれば、武烈帝は仁賢天皇が崩御した仁賢11年8月にすんなり皇位継承しておかしくなかった。


何となれば、武烈は皇太子(ひつぎのみこ)に仁賢7年、崩御の4年前になっていたのだから、崩御後、即座に即位しても手続き上、誰も異議を唱えることはなかったはずである。


しかるに紀の記述は、武烈即位前紀としてたった4ヶ月の間の事柄として海柘榴市を舞台とする平群一族の専横ぶりを殊更に描いているのである。


つまり、平群真鳥が武烈(当時、太子)の為と称し宮殿を造営し、そこに自らが住まうなどその驕慢さや海柘榴市の平群鮪(しび)との遣り取りに至る一連の描写から、その時の王権は平群真鳥に移っていたと見るしかない。


そして、武烈天皇は大伴金村の強力な支援を受け、平群王朝を倒し、即位した。


武烈王朝の立役者となった大伴金村はその勲功により大連へと昇進することになる。その後、金村は守屋の孫で武烈から欽明五朝にわたり大連を拝命するが、とくに武烈天皇で絶えることとなった仁徳天皇(応神天皇第四皇子)の皇統に替わり、応神天皇五世の孫である継体天皇即位を実現させた大功労者として有名である。その金村に同調し、継体天皇即位を後押ししたのが、大連となっていた影媛の父、物部麁鹿火(あらかい)であった。







日本書紀をたどり明日香を歩く―― 2=歌垣の舞台、いわば公設の合コン会場でもあった海柘榴市(つばいち・つばきち)2/6

飛鳥時代の政治・文化の中心であった三輪山麓一帯、とりわけ南西部の初瀬川両岸に展開した海柘榴市(つばいち)は多彩な物品の交流する市として殷賑を極めた。

大和川の堤に立つ仏教傳来之地の石碑
大和川の堤に立つ仏教伝来の碑・この辺りが海柘榴市

そうした衆人が集う場所であったがゆえに、そこはいつしか若い男女にとっての出逢いの場所ともなり、恋を語り合いまた恋の駆け引きの舞台ともなっていった。

飛鳥時代の衣装・明日香村埋蔵文化財展示室
この様な衣装を着た若人が恋を語らったのか(明日香村埋蔵物展示室)

それは春や秋祭りの頃、若い男女が集い、五、七、五といった調子の長歌で互いの想いを伝え合う歌垣(うたがき)という風習である。


小学館古典文学全集の万葉集第3巻の注釈によれば、“歌垣は本来、呪術的な儀礼の踏歌から発した古代の習俗で、多数の男女が特定の日に集まって飲食・歌舞し、性的解放を行なった遊びをいう”とある。


当世のLineやメールを駆使する若者たちと較べると、何とも悠長であり牧歌的であり、その天真爛漫とした微笑ましい情景のなかには純朴でそれ故に心豊かな飛鳥人の笑顔が零れ落ちて見える。


そこで、ここは日本書紀というより、まず万葉集からその歌をご披露することにしよう。


巻第十二 2951番

“海石榴市(つばきち)の 八十(やそ)の衢(ちまた)に立ち平(なら)し 結びし紐を 解かまく惜しも”

(海柘榴市のいくつもの路が交錯する辻に立ち、あなたと足踏みし踊った時に結び合わせた紐と紐、その熱い夜のことを想い出すとその時の紐の結び目を解くことなどとても惜しくてできませんわ)


初々しいが、何ともストレートで情熱的な愛の告白の歌で、乙女の火照った頬の赤く恥じらう様までがはっきりと見えてくる。


もう一つ、当時、異性に名を尋ねることは求婚を意味したのだが、その有名な恋の駆け引きの問答歌を。


巻第十二 3101番(問歌)

“紫は 灰さすものぞ 海石榴市(つばいち)の 八十(やそ)の街(ちまた)に 逢へる子や誰(た)れ”

(紫染めには椿の灰を加えるとさらに美しくなるもの、そんな椿の植わる海石榴市で出逢った娘さん、素敵な貴女の名前はなんとおっしゃるの)


巻第十二 3102番(答歌)

“たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど 路行く人を 誰と知りてか”

(母がわたしのことを呼ぶ本名を教えてあげたいけど、行きずりの逢ったばかりの貴方ですものお教えすることなどできないわ)


乙女心をとろかす機知に富んだ甘い言葉に対し、乙女が切り返した歌などは、女性の初心(うぶ)さを見せるようでいて男を焦らす手管、お若いのになかなかの恋のお手並みとお見受けした。


こんな牧歌的な歌垣の情景が目に浮かぶ万葉の時代のなかにあって、日本書紀に初めて登場するのは、大和政権の覇権を巡る生々しい抗争を描く舞台装置としてここ海柘榴市が効果的に使われているのである。


それは第25代武烈天皇(在位499−506)が太子(ひつぎのみこ)であった時代、第24代仁賢(にんけん)天皇(同488−498)11年8月の条である。詳しくは次稿に譲る。




日本書紀をたどり明日香を歩く 2 =国際交流・国内交通の要衝として殷賑を極めた海柘榴市(つばいち)1/6

古墳時代後期にかぶさる飛鳥時代、その政治・文化の中心であった三輪山麓の南西部山裾、大和川を跨いで海柘榴市(つばいち)という交易市場が存在した。

海柘榴市の馬井出橋と三輪山
大和川を跨ぐ馬井出橋と三輪山山麓

海柘榴市から南西方向に池之内(橿原・磐余)から明日香にかけた一帯には、大和政権のその時々の天皇が居住し、政務をこなす宮殿が数多く存在した。


実在した初めての天皇とされる第10代・崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)は、桜井市金屋にある志貴御県坐(しきのみあかたにます)神社の辺りと比定されているが、海柘榴市から北西に500mほどの至近の位置にある。

2・志貴御懸坐神社  3・崇神天皇・磯城瑞籬宮跡の石柱の立つ境内
志貴御懸坐(シキノミアガタニマス)神社  同神社境内に立つ磯城瑞籬宮跡の石柱

また、百済からの仏教公伝の舞台となった第29代・欽明天皇の磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)は、海柘榴市から南東へ500mほど県道105号線の高架下、大和川沿いにある磯城嶋公園の辺りに比定されている。

4・欽明天皇の宮殿跡地・土手の向こうは飛鳥川  百済王から釈迦仏が献上された欽明天皇宮殿址
磯城嶋公園と三輪山山麓 公園の東端に立つ磯城嶋金刺宮跡石柱

海柘榴市という市場はことほど左様に古代大和の中心に存在していたのである。


それほどに歴史的価値の高い場所であるにもかかわらず、現在、この辺りが海柘榴市であったという縁(よすが)は、海柘榴市観音堂(桜井市金屋544)にその名をわずかに認めるのみである。

6・海柘榴市観音堂
海柘榴市観音堂・本堂

それも、人家を抜けた路地の奥、三輪山の末裾に接するまことに小さな境内にぽつんと建つ現代風の簡易な造りの本堂からは歴史の重みを感じ取ることは至難で、ましてや千数百年前に殷賑を極めた海柘榴市のワクワクするような情景を思い浮かべることは甚だむずかしい。

7・突当り、階段上に観音堂・三輪山南西裾
この路地突き当り、階段上に観音堂

その観音堂から300mほど南下すると大和川(初瀬川)にぶつかる。

8・大和川に架かる馬井出橋
大和川に架かる馬井出橋と三輪山山麓

そこに架かる馬井出橋の両袂に“仏教傳来之碑”と“海柘榴市跡の説明板”が建っている。

仏教伝来地石碑  10・海柘榴市説明板

この馬井出橋の辺りに飛鳥と瀬戸内海を結ぶ水運の拠点となる湊があった。現在の大和川の水量からは想像しにくいが、西行する川筋を橋の中央部から見やると、その先に小さく二上山が見える。

11・馬井出橋から大和川下流を・先に二上山
川筋の先に小さく二上山

次に上流を振り返ると遠くに忍坂(おさか)山が見渡せる。

12・馬井出橋から海柘榴市歴史公園と大和川上流を・忍坂(おさか)山
上流に歴史公園と忍坂山

すぐ足元の河川敷には海柘榴市歴史公園が整備されているが、百済の使節を歓迎した様子を再現するかのように飾馬の可愛らしいレプリカが置かれている。

13・飾り馬
こんな飾馬で百済使節を迎えたのだろうか

その海柘榴市は五世紀後半、三輪山をめぐる山の辺の道、北へ淡海へと通じる上ツ道、磐余や飛鳥へ南西する安倍山田道、西に羽曳野・堺、東に長谷、伊勢へと至る横大路など幹線道路が交錯する陸路の要衝であった。


しかも、それぞれの道路は正味の路面幅で18mから35mにおよぶ大幹線道路であった。ちなみに現在の高速道路の一車線の標準車線幅は3・5mであるので、5車線から10車線の道路というとてつもなく大規模な道路網であったことが、最近の発掘調査によって徐々に明らかになってきている。


さらに古代物流の大動脈であった海路においても、三輪山南麓に沿って流れる初瀬川の河港として海柘榴市は大きな役割を担っていた。


初瀬川は下流で三輪山の北裾を流れる纏向川と合流、さらに下って飛鳥川や佐保川など奈良盆地を巡る支流を束ねて大和川となり、難波津において瀬戸内海へ出ることになる。

14・近鉄・新大宮駅国道369号線から佐保川の下流を見る
奈良市役所付近を流れる佐保川

そして、その潮路は遠く外洋へと続いており、その意味で海柘榴市は、唐、天竺など国際社会と繋がる古代シーレーンのまさに起点であり、異国文化との交流も盛んな国際色豊かな地であった。


日本書紀の推古紀15年(607)7月に小野妹子が隋へ遣わされたことが記されている。この時の国書がかの有名な聖徳太子の「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云々」である。

15・日本書紀
日本書紀(明日香村埋蔵文化村展示室・個人蔵)

その翌年4月に遣隋使は隋の使者・裴世清を伴ない帰国、8月に明日香に到着。


紀の推古紀16年8月条に、「唐客(裴世清一行)、京に入る。是の日に、飾馬七十五匹を遣して、唐客を海柘榴市の衢(ちまた)に迎ふ。額田部連比羅夫、以ちて礼辞を告(まを)す」とあり、推古天皇の住まう小墾田宮から北東5・5kmにある海柘榴市に儀典用の飾馬75匹を引き連れて額田部連比羅夫が向かっている。


この記述から海柘榴市が7世紀初頭において海外からの賓客を迎える河港であったことがわかり、シルクロードの起点といって過言ではない殷賑を極めた市場でもあったことが容易に想像される。


日本書紀をたどり明日香を歩く=1・磐余(いわれ)の池・磐余宮

日本書紀において神武天皇(漢風諡号=しごう)の国風諡号(死後の贈り名)は、“神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)”という長〜いお名前である。因みに古事記では、“神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)”と“磐余”“伊波礼”となっている。

1・2005年11月 橿原神宮・外拝殿と畝傍山
橿原神宮と畝傍山(神武天皇橿原宮の跡)

漢風諡号は大宝律令(701年制定)に続く養老律令(757年施行)体制の下、養老律令(全三十編)の第二十一編・公式令(くうじきりょう・全89条)・平出(*へいしゅつ)条(の第十二)で、「天皇諡〔てんおうのし〕(=天皇の、生前の行迹を累ねた死後の称号。)」が定められているが、それに基づき天平宝字六〜八(762〜4)年に神武天皇から持統天皇、元明・元正天皇の諡号が一括撰進された事が漢風諡号を奉られた初見といわれている。

〔*平出(ひょうしゅつ=平頭抄出)とは文中に貴人の名や称号を記す時に敬意を表わす意味で改行しその名や称号を行頭に書くこと〕


つまり、それ以前に神武天皇といった呼び名(諡号)はなく、和風の“神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)”なり、“神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)”が、大和王朝の初代天皇に贈られた諡号であったということになる。


古代天皇制において天皇が死去した際、王権は一時的に群臣に委ねられ、新たな天皇が決まるとそこで王権を返上するという形であった。その王位継承の正統性を担保する儀式として諡号贈呈があった。そして、その国風諡号は崩御された天皇の生前の功績評価を群臣が行いその諡号を定め奉ったのだそうだ。


ということで、神武天皇の国風諡号の話に戻るが、そのなかに“磐余(いわれ)”という文字が入っている。王朝の初代の諡号に与えられた“磐余”という文字がその功績、王権の権威を知らしめるためにどのような意味、価値を持っているのだろうか。


日本書紀のなかに、神武天皇が大和侵攻の際にその地の首魁・長髄彦を討伐する前に、配下の兄磯城(えしき)が陣を布いていたのが磐余邑(いわれむら)という地であるとの記述が出て来る。

2・2005年11月 葛城山から大和三山
大和三山 中央・畝傍山の右上の低い山が香久山、その向こう側が磐余の地

その磐余の地は旧名を片居といっていたが、長髄彦軍を征伐し、天皇軍がその地に満ちあふれていた〔満(いは)めり〕ので、名を改めて“磐余(いはれ)”としたとある。


さらに日本書紀の神功皇后3年1月(202年)、誉田別皇子(ほむたわけのみこ=応神天皇)を立てて、皇太子としたので磐余に都をつくり、これを若桜宮と謂うとある。


さらにずっと時代は下り、履中天皇2年10月(401年)に、磐余に磐余稚櫻宮を造営し、さらに11月には磐余池を作るとある。

3・式内稚櫻神社・石柱
式内・稚櫻神社

最近、稚櫻神社(桜井市大字池之内字宮地1000)の西北西200mほどのところ、橿原市との境界あたりに、六世紀後半以前に人工的に造られた堤の遺跡が発掘された。

4・丘の頂上に稚櫻神社・北東から見る
右の小高い丘の頂上に稚櫻神社 北東より見る

現在、磐余という地名は字名(あざな)にも残っておらず、桜井市の南西部にある池之内の稚櫻神社の周囲一帯を磐余の地と呼んだのであろうと推定されている。

5・稚櫻神社・拝殿  6・稚櫻神社本殿
稚櫻神社 左:拝殿            右:本殿

履中天皇の宮に稚櫻とあることと、その名を冠する稚櫻神社は「池之内」にあり、辺り一帯に現在でも「池尻」(橿原市)、「橋本」(桜井市)など池に関する地名が多く残り、所在について諸説はあるものの、先の堤の遺構の発見などともあわせ、この一帯が磐余と呼ばれたことは確からしい。

7・拝殿内と奥に本殿・本殿左が天満神社、右が高麗神社
拝殿内から本殿 本殿左:天満神社 右:高麗神社

稚櫻神社の北北東700mほどにある吉備池廃寺・吉備池の畔には、天武天皇の第三皇子である大津皇子の辞世の句である歌碑、“ももづたふ 磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ”が建てられている。

0・稚櫻神社由緒書き
稚櫻神社・由緒書き

日本書紀で磐余に営まれた宮は神功皇后の磐余・若桜宮を嚆矢として、履中天皇(在位400−405)が401年10月に磐余稚櫻宮を造営、清寧天皇(在位480−484)が480年1月に磐余・甕栗(みかくり)で即位し、その地に宮を定めている。

8・南東から稚櫻神社を見る
稚櫻神社を南東側から見る

次いで継体天皇(在位507―531)が即位後20年目にして、磐余・玉穂に遷った(526年9月)とある。河内・楠葉宮で即位(507月1月)したのち、山背・筒城(511年5月)、山城国・乙訓(518年3月)と転々とし、大和へ入るのに20年もの歳月を要した理由は誠に興味深いところであるが、その大和の地として磐余を選んだことも、この地が王の地として人民が認識していた、王の居る聖なる地の証なのではなかろうか。

9・この辺りに市磯池(いちしのいけ)があったのかも・・・
稚櫻神社の東側 この辺りに市磯池があったのだろうか

最後に聖徳太子の父、用明天皇(在位586−587)が586年9月に磐余に宮を造り、池辺双槻宮(いけのへのなみつきのみや)と名づけたとある。磐余の池のまさに畔に宮殿を構えているのである。


神武天皇紀に初出の、この“磐余”の土地は、神功皇后の御世を経て401年の履中にはじまり用明天皇の586年まで、時々の抜けはあるにせよ数百年の間、王家の宮殿を擁する聖なる地として特別な崇敬を集めていた場所であったといえる。

10・稚櫻神社の南裾、東から西を見通す
神社の南裾 東側から西を見通す

それから千数百年後の現在、この磐余の地には、小高い丘にぽつんと取り残されたようにして稚櫻神社が鎮座するのみで、周辺は田地と人家が散在する鄙びた何の変哲もない場所となっている。

11・境内階段上から西(磐余の池)方向を見る
稚櫻神社の階段から神社西方向、磐余池の辺りか

哀しいかな、稚櫻神社の丘をめぐる一帯には磐余の池や市磯池の痕跡はもちろんない。往時の栄華を偲ばせる縁(よすが)は微塵もないのである。




大神(おおみわ)神社参拝の際には、そうめん處・“森正”でひと休み=奈良グルメ

桜井市三輪535 ☎ 0744-43-7411


そうめん處・“森正(もりしょう)”の三輪素麺は評判が良くお馴染さんがたくさんいることは聴き知ってはいた。

麻暖簾の架かる風情ある店構え”森正”
麻暖簾の架かる風情ある店構え・森正(もりしょう)

ただ、今回は折悪しく中途半端な時間であったため、素麺ではなく、早朝から歩き通しの一日の疲れをとるために甘味処として利用させていただいた。


時刻は14時40分。当日はこれから参拝というタイミングであったが、明日香村を精力的に廻ってきた疲れが足腰にどっときて、甘いものがほしいと体躯が要求していた。


そこで、まずは一服ということで二の鳥居の真ん前左手に店を構える“森正”さんに入った。

大神神社・二の鳥居
大神神社・二の鳥居 ここを左折、すぐ森正

麻の暖簾をかき分けて、石敷きの店内へ足を踏み入れると、時間が中途半端ということでお客はわれわれ二人のみ。

奥庭より店内を見る
店内にはわれわれ二人だけ・・・静かでした

古い大きな日本家屋の庭先でお店を開いており、庇の先に葭簀(よしず)葺きの屋根を設けたなかなかに風情を感じさせるインテリアである。

店内には井戸や囲炉裏もあります
井戸や囲炉裏もある店内です

加えて橙黄色の燭光が店内にほんわかとした温もりを伝えてくれる。

そんな“森正”、わたしは“でっち羊羹”なるものを注文。家内はもちろん“わらび餅”。

お品書き
お品書き

そして雨催いの一日、冷え切った体躯にはホットコーヒーも当然、オーダー。見てください、コーヒーも葭簀に似合う流儀で出てまいりました。

コーヒーとでっち羊羹
コーヒーに干し柿

くっとひと口、咽喉に流し込んだマイルダな味・・・。あぁ、温かい・・・


次にお目当ての“でっち羊羹”・・・何だろうと頼んでみたが、どうも見た目は水羊羹である。それにしてもしっかりと量がある。何だかうれしくなって、心もあったまる・・・単純です。

でっち羊羹
でっち羊羹・・・量が・・・量が・・・あぁ〜

まず、ひと口。おいしい・・・

そしてまたひと口・・・おいしいです。

上品な甘さで、これは言っては何だが、あの祇園の甘泉堂さんの水羊羹にも十分引けは取らぬとお見受けした。


次に家内が本物のわらび餅との感想を述べる“わらび餅”・・・にも触手を伸ばす。

わらび餅
純正わらび餅

三輪山の湧水かそれとも狭井神社の薬井戸のあの薬水でも使用しているのだろうか、透明感のあるヒヤッとした口触りが何ともいえぬ清涼感を口腔に広げてくれる。これまた、上品でしっとりとした一品である。


ゆったりとした時間の流れるお店でもう少しゆっくりしたかったのだが、これから三ツ鳥居を拝観し、拝殿で参拝をしにゆく身。


ごちそうさまとお礼を言って、“森正”をあとにした。


大神神社参拝の際には地にも味にも優れた“森正”。一足止める価値のある一店である。次回は温かい“にうめん”をスルスルといきたいものだと思っている。


 



霊験あらたかなる安倍文殊院の“五芒星の落雁”=奈良グルメ

奈良県桜井市安倍山



京都宮津・智恩寺の切戸の文殊、山形・大聖寺の亀岡文殊とならんで日本の三大文殊のひとつ、「大和安倍の文殊さん」として名高い安倍文殊院の本堂を拝観すると、お抹茶券が一緒についてくる。

智恩寺山門
宮津・智恩寺の山門

まず、そのご本尊であるが、日本最大(7m)の大きさを誇る獅子にまたがる渡海文殊菩薩である。1203年に仏師・快慶によって造られ、国宝に指定されている。

安倍文殊院
安倍文殊院・本堂

堂内でお坊さんによる丁寧な説明を聞いた後、傍近くからご本尊を見上げ、深い智恵を授かれますようにと手を合わせる。



その後に本堂脇のお部屋でお抹茶をいただく。その際に智恵のお抹茶に添えられお茶請けに出てくるのが“吉野くず入りの手作りらくがん”である。

安倍文殊院の落雁

目の前に供されたお茶請けに、あぁ落雁かとあまり期待せずに口にしたところ、これが中の餡子が上品で何これ?ということで、お坊さんにお聞きしたところ寺務所で販売しているとのこと。そして、早速に購入したものである。



 

当院は遣唐使として科挙の試験に合格、唐の高官となった阿倍仲麻呂や陰陽師・安倍晴明などを輩出した安倍一族の氏寺であるが、当地で晴明が陰陽道の修業をしたとの伝承もあるなど文殊菩薩の智恵のみでなくなかなかに霊験あらたかなる場所なのである。



そうした当院の手作りの落雁。口にし、胃の腑に入ると、何ともいえぬ妙なる声が身内に満ちてくるではないか。五芒星が刻印された落雁・・・霊験は確かにあると確信したところである。



 

ネット通販でもとチェックしたが、やはり、当院へ伺い、本堂でお詣りして初めて手に入れることのできるものでありました。おいしいです。何かうまくいきそうな予感のする御菓子でありました。


 


 


 

京都・南山城を廻る=浄瑠璃寺で九品往生の九体阿弥陀仏を拝む

京都・南山城を廻る=海住山寺(かいじゅうせんじ)の十一面観音菩薩立像を拝む
京都・南山城を廻る=観音寺(かんのんじ)の国宝・十一面観音菩薩を拝む

木津川市加茂町西小札場40


祇園祭宵山の日中を使って、南山城へと足を伸ばした。

1・宵山・函谷鉾
祇園祭宵山・函谷鉾

先にアップした観音寺(京田辺市)、海住山寺(木津川市加茂町)につづき、皆さんも一度は耳にされたことがあろうかと思う浄瑠璃寺といういかにも旅情を誘う名の古刹を参拝した。

2・浄瑠璃寺参道
浄瑠璃寺参道

当日は生憎、中央の宝池が州浜遺跡の発掘調査中であった。

3・遺跡調査

そのため伽藍配置の美しさが半減したきらいはあったが、人影も見えぬ山深い境内でその在りし日の州浜を思い描きつつ浄土世界に想いを馳せることができたのも一興であった。

4・宝池は調査中
浄土式庭園の中央に宝池、右手に阿弥陀堂、左手に三重塔

パンフレットによると浄瑠璃寺は平安時代、1047年に西小田原浄瑠璃寺(本尊・薬師如来)として創建されたことに始まる。

5・浄瑠璃寺山門
浄瑠璃寺山門

そして、白河院や鳥羽院が治天の君として院政を布いた11〜12世紀頃、京都を中心に皇室をはじめ貴族たちの間で九体阿弥陀堂の建立が争われた。


この浄瑠璃寺においても1107年、その背景となった新たな仏教の教えに基づき、現在の本堂となる九体の阿弥陀仏を安置する “九体阿弥陀堂”が造営される。

6・1九体阿弥陀如来像
本堂に安置された九体の阿弥陀如来像(浄瑠璃寺・絵葉書より)

その新たな教えが九品往生(くぼんおうじょう)という考え方であった。


浄土三部経のひとつ“観無量寿経”のなかにある人間の努力や心がけなど衆生の機根によって極楽往生するにも下品下生(げぼんげしょう)から上品上生(じょうぼんじょうしょう)まで九つの往生の段階があるという九品往生(くぼんおうじょう)という教えである。


この教えに拠って、己の極楽往生を願う貴族たちが、九つの往生のパターンを具現する阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂を競うようにして建てたというわけである。

6・九体阿弥陀堂
九体の阿弥陀仏が祀られる九体阿弥陀堂・本堂

あの藤原道長が寛仁4年(1020年)年に建立した無量寿院阿弥陀堂(法成寺阿弥陀堂)を嚆矢(こうし)として30余例が記録に残っているが、唯一現存するのが1107年に建立されたこの浄瑠璃寺本堂である。

7・本堂・中尊の見える空間
本堂正面、一体々々の如来が堂前に一枚の板扉を持つ

そして1178年には、東面する阿弥陀堂(彼岸)の前に苑池を置き、東(此岸)に西面する薬師如来を祀るいわゆる浄土式庭園が造られ、現在の寺観が整備される。

8・此岸から本堂を
東の此岸から阿弥陀堂を見る

現在の浄瑠璃寺の伽藍配置は次の如くである。

9・浄瑠璃寺伽藍配置図
浄瑠璃寺のパンフレットより

中央の宝池を中心に東に薬師如来を祀る国宝・三重塔が建つ。

10・浄瑠璃寺・三重塔  11・彼岸から三重塔を
国宝三重塔、内に秘仏薬師如来像を安置

池の西、三重塔に対するように阿弥陀如来九体を安置する本堂・九体阿弥陀堂が建つ。

12・三重塔階段上から石燈籠と阿弥陀堂を見る
三重塔から西の阿弥陀堂を見る。手前の石燈籠は重文。

このように当庭園は平等院鳳凰堂(阿弥陀堂)などの擁する浄土式庭園の平安中期頃からの典型的な様式となっている。


さて、ここで浄瑠璃寺のパンフレットの説明に分りやすく書かれているので、簡単に仏さまについて転載しておく。


薬師如来

「東の如来“薬師”は過去世(かこせ)から送り出してくれる仏、過去仏という。遠く無限に続いている過去の因縁、無知で目覚めぬ暗黒無明の現世に光を当て、さらに苦悩をこえて進むための薬を与えて遺送してくれる仏である。」

13・秘仏・薬師瑠璃光如来像
三重塔内の秘仏・薬師如来像(絵葉書より)

釈迦如来弥勒如来

「苦悩の現実から立ちあがり、未来の理想を目指して進む菩薩の道を、かつてこの世に出現して教えてくれたのが、“釈迦”であり、やがて将来出現してくれるのが“弥勒”で、共に現世の生きざまを教えてくれる仏、現在仏という。」


阿弥陀如来

「西の如来“阿弥陀”は理想の未来にいて、すすんで衆生を受け入れ、迎えてくれる来世の仏、未来仏、また来迎の如来という。」


そして、太陽の昇る東方にある浄土(浄瑠璃浄土)の教主が薬師如来であり、太陽がすすみ沈んでゆく西方浄土(極楽浄土)の教主が阿弥陀如来ということなのだそうだ。

14・九体阿弥陀如来像・中尊
九体の阿弥陀如来の中尊像

だから、当寺の寺号はそもそも創建時のご本尊である薬師如来がおられる浄瑠璃浄土に因んでいることがこれによってよく理解できると思う。

さらに本来の礼拝の作法であるが、同じ形態の宇治の平等院でもこの浄瑠璃寺でも、古来、人々は浄土の池の東、当寺では三重塔が建つ側(此岸)から彼岸におられる阿弥陀仏に来迎を願って礼拝したという。

そして、春分・秋分の“彼岸の中日”には九体仏の中尊、来迎印を結ぶ阿弥陀如仏の後方へ沈んでゆくのだという。

浄瑠璃寺は南山城のさらに奥まった静寂の地に位置する。

15・山門から夏の参道を
山門から夏の参道を見る

阿弥陀堂内のうす暗い空間にわが身と九体の阿弥陀さまだけが存在する世界。ひたすらに内向的な心象世界が瞼に映し出される。

そんな聖なる空間をもとめてこの清浄の地へおもむき、現世の懊悩をすすぎ落とし未来の心の安寧を静かに願ってみてはいかがであろう。

京都・南山城を廻る=海住山寺(かいじゅうせんじ)の十一面観音菩薩立像を拝む

京都・南山城を廻る=観音寺(かんのんじ)の国宝・十一面観音菩薩を拝む
京都・南山城を廻る=浄瑠璃寺で九品往生の九体阿弥陀仏を拝む

木津川市加茂町例幣海住山境外20

海住山寺(かいじゅうせんじ)は、木津川市加茂町の三上山(さんじょうざん)またの名を海住山と呼ぶ標高432mの中腹に位置し、かつて恭仁京(740-743)があった瓶原(みかのはら)を一望し、遠くに春日山を望む。
1・ご本尊横顔
重文・十一面観音立像横顔(当寺絵葉書より)

寺伝によると、創建は恭仁京造宮に先立つ六年前、天平七年(735)という古きに溯る。

2・本堂正面より
海住山寺・本堂

東大寺の大盧舎那仏造立を発願された聖武天皇が大工事の平安を祈るため良弁僧正(東大寺初代別当)に勅して一宇を建てさせ、十一面観音菩薩を安置し、藤尾山観音寺と名づけたのに始まるとされる。そして、保延三年(1137)の火事により、伽藍はことごとく灰燼に帰し、再建されることなく廃址となった。


それから七十余年を経た承元二年(1208)、笠置寺からこの廃墟に移り住んだ解脱上人貞慶によって補陀洛山海住山寺として再興がなされた。

3・文殊堂
重文・文殊堂

麓の瓶原から細い急坂を登ってゆくが、当日はタクシーで回ったので大事なかったが、マイカーで行くのは一部、すれ違いに難儀する個所もあり、運転に自信のない方は注意が必要である。

4・海住山寺入口
ここから細い急坂を登っていきます

さて、境内から少し低い場所にある駐車場からこれも結構、勾配の急な坂道を歩いて境内へと入ってゆく。

5・海住山寺への坂道
駐車場からまだ少し急坂を行きます

補陀落山海住山寺と刻まれたりっぱな石碑が見えると、もう平坦な境内はすぐである。

6・境内入口に立つ石柱
石碑の奥右手に本堂、左手が山門

本堂境内へ入ると、すぐ左手に鐘楼がある。

7・鐘楼
鐘楼・その先の葉叢のあたりが山門

鐘楼のすぐ先、南側に山門がある。

8・五重塔から山門を
五重塔から山門を見る。山門の正面に本堂

歩いて来られる方は下からの急な階段を昇って、この山門をくぐり、本堂へお参りすることになる。

9・階段下より山門を
急階段の先に山門
10・山門から本堂を
山門正面に本堂

その方がどう考えてもお詣りのご利益は多かろうと思うが、根が不精、杖をつく身をよい言い訳に、脇からの本堂境内への入場となった。

11・境内
駐車場から来ると、境内入って右手に本堂を見る

だが、先ほどの新しくりっぱな石碑が建てられているところを見ると、この高齢社会の到来とともに、こうした寺院への参詣ルートも時代と共に変わってゆくものなのかも知れぬと、いま、自分の不信心をよそに、自らの気持ちを納得させているところである。


さて、急坂を登って来たわれわれには、本堂のある場所は平坦かつ広さもかなりあった。

12・五重塔から本堂前境内を
五重塔(南)から本堂前の境内

本堂へ向かう誘導路に奇妙なものがあった。茄子の形をした腰掛である。

13・本堂へ
この誘導路から本堂へ

ここに坐ると何か願い事が叶うということであったが、檀家さんの寄贈物のようであり、ちょっと山深い寺院には不釣り合いな、でも、ちょっとくすっと笑ってしまう置物ではあった。

14・願いをかなえる茄子の腰掛

その先に、今度はぐっと時代は遡り、鎌倉時代の岩風呂が無造作に置かれているのを見つけた。

15・修行僧が使用した岩風呂
鎌倉時代の岩風呂

何ともその配置のアンバランス、いや、妙に脱帽といったところである。


この岩風呂は岩船寺の山門まえに置かれていた岩風呂と同様に僧侶が修行前に身を浄めるときに利用したものであろう。

16・岩船寺石風呂
岩船寺の岩風呂

いよいよ本堂であるが、現在の本堂は、旧本堂が明治元年(1868)の山津波で倒壊したのち、明治17年に再建されたものだという。

17・本堂
東面する本堂を南東側から

静かな堂内に入ると住職の奥様が坐っておられた。

18・本堂の中を
本堂正面から入ります

本堂正面の一段高処にある厨子のなかにご本尊・十一面観音菩薩立像が安置されている。

19・海住山寺本尊・十一面観音像(重文)・平安時代
本尊・十一面観音菩薩立像(絵葉書より)

まずは参拝し、それから堂内を廻る。奥様にご説明をいただき、しばらく歓談。


外へ出て、本堂南側に建つ国宝五重塔へ向かう。一層目に裳階がついているため一見すると六重塔にも見える。

20・五重塔
国宝・五重塔

興福寺や東寺、仁和寺といった典型的な五重塔とはかなり趣を異にしている。

21・興福寺の五重塔と鹿   23・仁和寺・五重塔
左:興福寺五重塔        右:仁和寺五重塔
22・東寺の五重塔   24・東寺五重塔の一層目
東寺五重塔と一層目

そして、外見からは分らぬが海住山寺の五重塔は心柱が初層の床まで届いていず、二層のところまでしか達していないという。だから、構造的に初層の四隅を支えるように柱を建て廻す必要があったのだそうだ。

25・五重塔第一層
海住山寺五重塔の裳階と一層目

この裳階をつけた様式は法隆寺にそれを倣うが、法隆寺は第一層に柱を建て廻す構造とはなっていない。

4撮影)
裳階のついた法隆寺五重塔

また、法隆寺の心柱は仏舎利が収められている塔の礎石の上に乗っかる、五重塔本来の構造となっている。

27・法隆寺五重塔・一層目と裳階
法隆寺裳階と一層目。柱はない。

さて、海住山寺のいくつかの寺宝が奈良国立博物館に寄託されている。過去の山津波といった自然災害で寺宝が滅失するのを避けるため致し方のないことなのかも知れぬ。


そうした寺宝は秋の「文化財特別公開 国宝五重塔開扉」のときに奈良国立博物館から里帰りする。ひとつが奥の院に安置されていた小振りの木造十一面観音像である。貞慶上人の念持仏と伝えられている。

28・解脱上人の念持仏・十一面観音菩薩立像(重文)・平安時代
丈45cmの十一面観音菩薩立像(絵葉書より)

もうひとつが、五重塔の初層に仏舎利を囲むように配されていた木造四天王立像である。

29・持国天像・鎌倉時代
持国天(絵葉書より)

例年、その時に五重塔内部とともにここ海住山寺において拝観がかなう。

30・国宝五重塔内陣
五重塔内に安置された四天王像(絵葉書より)

2014年の特別公開は10月25日(土)〜11月9日(日)の2週間と案内されている。

あと、本堂と五重塔の間の山裾に三社が祀られている。

31・五重塔
緑陰から五重塔を見る

解脱上人貞慶が春日明神のお告げによりここ藤尾山観音寺の廃墟へ移り住み補陀落山・海住山寺として再興を果たしたことから、春日神社が勧進されているのだそうだ。

32・境内の三社
本堂の南側に”三社”が祀られている

境内から瓶原(みかのはら)を一望に見おろすのは、高く生い茂った木々に遮られ、難しい。

0・境内から瓶原を見る
五重塔脇から瓶原を望む

奥様からお薦め戴いたが、脚力のある方々はぜひ本堂北側から急勾配の道を数分ゆくと絶好の眺望が得られるので、トライしていただきたい。


わたしはもう足のつっぱりが限界に来ていたので、上へさらに上がるのを断念した。帰りに下り坂を降りて行く際にタクシーの中から写した景色でもこれほどの絶景である。

33・海住山寺への急坂から瓶原と春日山を
かなりな急坂である

真下に大海原に見立てられた瓶原が広がり、その果てに補陀落山に見立てられた春日山の山脈が望まれた。


雲海が低く垂れ込めたときなどはさながら大海原に補陀落山が浮かんでいるように見えるに違いない素晴らしい景観である。

京都・南山城を廻る=観音寺(かんのんじ)の国宝・十一面観音菩薩を拝む

京都・南山城を廻る=海住山寺(かいじゅうせんじ)の十一面観音菩薩立像を拝む
京都・南山城を廻る=浄瑠璃寺で九品往生の九体阿弥陀仏を拝む

京田辺市普賢寺下大門13


最近の朝日新聞に関するブログ投稿で荒んでしまった心を落ち着かせねばと、先月、南山城を一日かけて周り、気高き仏様をお参りし心が穏やかに安らいだことを思いだし、写経でもするつもりで心に残ったいくつかの寺院をご紹介する。


まず、南山城、京田辺市にある観音寺である。

1・観音寺
観音寺・本堂を見る

観音寺は白鳳2年(662)天武天皇の勅願により、義淵僧正が親山寺(筒城寺)を開基。その後、天平16年(744)聖武天皇の勅願により良弁僧正(東大寺の初代別当)が伽藍を増築し、息長山普賢教法寺(そくちょうざん ふけんきょうほうじ)と号し十一面観音立像を安置したといわれている。

2・観音寺略縁起
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そもそも今回、南山城を訪ねる契機となった寺院が実は観音寺であった。


というのは、今年の葵祭を観覧した際に京都国立博物館で開催されていた“南山城の古寺巡礼”展を併せて参観した。

3・南山城古寺巡礼・禅定寺の重文十一面観音立像

南山城地域に点在する十一の寺院の寺宝が一堂に会する機会は稀だということで、ちょうどよい機会と京博を訪ねたのである。

4・京都国立博物館
南山城の古寺巡礼展が開催された京都国立博物館

観音寺もその一つの寺院として参加していた。そして、国宝であるご本尊は出展されていなかったのだが、観覧後、京博の売店で “これは美しい”と記念に買い求めた絵葉書が、実は観音寺の国宝・十一面観音菩薩立像であった。


当日、たくさんの仏像を見たことで、この美しい観音様もいらしたと思い込んで買ったものだ。後日、ブログにその写真を掲載したところ、京博にその観音様は出展されていませんでしたよとのご指摘がコメントで送られてきた。


いやはや、赤面しきりの失態であった。


そこで、今回、祇園祭観覧の合間を縫って、一日、木津川沿いに点在する南山城の寺院巡りを敢行、観音寺の国宝十一面観音菩薩さまにお会いしてきたのである。

5・木津川沿いに多くの古刹が点在する
海住山寺から木津川沿いに観音寺へ向かった

当寺はまず本堂手前左手前にあるご住職(三神栄弘氏)のご自宅のインターフォンで来訪を伝え、ご本尊を拝観したい旨を伝える。

6・ご住職のお宅
住職がお住いのお宅

すると当日は住職の体調が優れぬと奥様が出てこられ、本堂へと案内された。

7・本堂
本堂

本堂の階段を昇り、引き戸を開けて堂内へと導いてくれる。

8・ここから上がります
ここで靴を脱いで正面の引き戸から入ります

堂内に差込む陽光で明るくなった本堂には奥様とわたしら夫婦と運転手さんの4人だけ。身の引き締まる厳粛な空間である。


そこで奥様が諄々とご説明をしてくれるのである。まさにご本尊様を独り占めにしている気分である。

9・本堂斜めより
この本堂内の厨子に十一面観音菩薩立像が安置されている

そして大きな厨子の観音扉が開けられる。あの絵葉書で見た十一面観音立像が現われた。単に気高く気品のある御顔立ちという以上に、どこか母にも似た慈愛に満ちた御顔なのである。

10・大御堂観音寺・国宝十一面観音立像
国宝・十一面観音菩薩立像(京博売店絵葉書)

そして、仏様に対してこう申し上げるのは甚だ不謹慎であることは重々承知であるが、その腰のくびれた立ち姿はどこか艶めかしく、肉の量感が伝わってくるのである。


厨子の真ん前に立ち喰い入るように見上げていると、奥様が少し離れてご覧になったほうがこの仏様はもっと美しいですよと教えてくれた。


そして見る方向でお顔が変わって見えるとも教えてくれた。そこで左斜め、右斜めと立ち位置を変えてみると、あら不思議、仏様のお顔がふっくらと見えたかと思うと、今度はすっきりしたお顔に見える。


名工の造形の妙であろう、光の加減なのだろうか、本当にその面立ちが変わって見えるのである。仏像の国宝は数多くあるが、これほど艶めかしく、にも拘らずに気高く美しい仏様は珍しい。木心乾漆造という手法がこの質感と嫋(たお)やかな曲線美を造りだしているのだろうか。


美しい菩薩さまといえば、わたしは薬師寺東院堂の聖観世音菩薩もその御顔立ち、シルエットともにやはり気品のある美しい仏様で大好きである。

11・薬師寺・西塔  12・聖観世音菩薩
薬師寺廻廊越しに西塔    聖観世音菩薩立像

鋳造と乾漆の違いなのだろう、十一面観音立像はその体温までがわたしのところに伝わって来るかのような温かみのある嫋やかな曲線美をもつ仏様であった。


そして、最後に一番のビューポイントを奥様が教えて下さった。


住職が日々の勤行をされる時にお座りなる場所、磬子(けいす)の前の座布団に坐って仰ぎ見るお姿が一番美しいのだと。


そこで、わたしたちも順番にそこへ坐らせていただき、御本尊のお顔を仰ぎ見た。


美しく、荘厳である。


京博で勘違いした仏様・・・こうしてお会いできて本当に幸せであった。


それから外へ出て、本堂手前左手の小高い丘陵の上に、当寺の鎮守である地祇神社が祀られていた。鳥居が本堂のすぐ脇にある。

13・地祇神社
地祇神社鳥居

延喜式神名帳に『山城国綴喜郡 地祇神社』とある式内社に比定されており、社名はクニツカミノヤシロと読むが、地元ではチギ神社と呼ばれているとのこと。


創祀は聖武天皇の時代、この観音寺(普賢寺)が創建された頃まで遡るという古社である。延喜式には祭神一座とあることからみると、オキナガタラシヒメ(神功皇后)を主祭神とするらしい。


地祇神社が建つこの地は、もともとの普賢寺「息長山普賢寺」があった場所と推定され、塔の礎石や7、8世紀の古瓦などその遺構と思われる遺跡、出土品が存在する。

14・本堂前に池
往時は大伽藍を擁した観音寺(普賢寺)もいまは本堂前に小さな池があるのみ


また、普賢寺に隣接する天王地区には、これも延喜式式内社である朱智(しゅち)神社が位置している。貞観11(869)年に朱智神社の祭神として祀っていた迦爾米雷命(カニメイカヅチノミコト=牛頭天王)を祗園の八坂神社の前身である八坂郷感神院に遷したことから八坂神社の勧請元となる神社である。


そうした縁起から朱智神社は“元祇園社”と呼ばれ、祇園祭に際しては朱智神社の氏子が奉じた榊をここ天王地区の若者が八坂神社まで届ける「榊遷」という行事があり、その榊を受けて山鉾巡行を始めたとい言い伝えが今に残されている。現にわたしはその伝誦を観音寺の奥様から直にお伺いした。

15・鐘楼の前に東大寺お水取りととの所縁の石碑
鐘楼前に”お水取り”の竹送りの碑(良弁上人の所縁)

祇園祭を楽しみに京都を訪れ、たまたま美しい観音様にお会いしに伺った場所の辺りが“元祇園社”と呼ばれる深い所縁を持つ神社に所縁のある場所であったとは、何か十一面観音様のお導きのようなまことにもって不思議な縁を感じたのであった。


2014年、祇園祭の“割烹やました”で、涼をもとめる=京都グルメ

2016年9月、倦怠期に木屋町通りの「割烹やました」のランチは格別!(2016.9.30)
2014年祇園祭・山鉾巡行前祭(さきまつり)に興じる(2014.7.21)
2013年・水無月の割烹“やました”、“あこう”の洗いで初夏の爽やかな音色を聴く=京都グルメ
(2013.7.1)

中京区木屋町通二条下ル上樵木町491−3 ☎075−256−4506


7月17日、山鉾巡行が終了した夜、京都の知人ご夫妻と“割烹やました”で会食をした。

0・いつもながらいい笑顔です
いつもこの笑顔がたまらぬ山下茂氏

祇園祭の本義である神幸祭の神輿渡御が木屋町通りすなわち“やました”の前を通ることを知ったので、この日に“やました”を予約した。

1・舞殿に並ぶ三基の神輿
宵宮に八坂神社舞殿にならぶ三基の神輿

要は、“やました”の料理に舌鼓を打ちながら神輿渡御も観覧するといった一挙両得、ぜいたくな目論見を立てたというわけだ。


加えて一年半ぶりの再会となる旧知のご夫妻と積もる話も同時に楽しもうとイベント、テンコ盛りな“やました”の夜を計画したわけである。


6時の予約にあわせ押小路橋を歩いていると“やました”の前で祭りの出店を準備する大将の姿を認めた。

2・割烹やましたへ

え〜っ! やました”が出店屋台?と訝(いぶか)るわたし、つい、「大将! 商売熱心だねぇ」と声をかけた。

3・神輿渡御振舞い酒の準備をする大将

気づいた大将が何か言うがよく聞こえない。近づくと缶ビールやらペットボトル飲料を氷で冷やす仕度中である。


神輿を挙げる連の人たちへの差入だという。当方、冗談にせよ商売熱心だねなどと声をかけたことに、少々、赤面の態。


それと、“やました”へ通うのに一斗樽を積んだ高瀬舟が見えないのはちょっと情緒に欠けていた。

4・高瀬川に浮かぶ旧高瀬舟  5・高瀬舟のない高瀬川
左:旧高瀬舟(2008年撮影)  右:2013年、撤去されて何もない高瀬川

当日はまだ明るい高瀬川にひとまわり大きくなった高瀬舟が新調なって浮かんでいた。そこで一枚、写真を撮った。

6・0新調なった高瀬舟

高瀬舟が浮かぶ景色、京都情緒たっぷりのまことにいい雰囲気である。


さて、店内、いつものカウンター奥の席へ陣取った。

6・1先付
先付

早速、乾いた喉を潤すべく恵比寿ビールを注文、それから“桃の滴”の冷酒をいただく。

6・2冷えた桃の滴

料理の方は今回のサプライズは“鱧の洗い”と“冷やし肉”。


これまで“やました”の鱧と云えば“炙り”であった。もちろん、当夜も炙ってもらった。

7・真剣に鱧を炙る芹生君
鱧を炙る芹生君

ところが、芹生君が“鱧の洗い”はいかがですかとさらに問う。

8・活きの良い鱧を捌く芹生君
跳ねる鱧を捌く芹生君、頑張る!!

「エッ? 鱧の洗い」と問い返すと同時に「それもちょうだい」と即答する。まだまだ私も若い、すばらしいクイックリスポンス、条件反射能力であると妙なところで悦に入る。

9・鱧の洗い
これが鱧の洗いです

ともあれ、この洗いには正直、唸り声を上げた。この発想、仕上げにはアッパレというしかなかったのである。

あまりにも新鮮な食感! 炙り鱧にも、もちろん湯引きの鱧など遠く足元にもおよばぬ斬新なまさに炎暑に涼を呼び込む食感である。

10・鱧の洗い、これは新たな発見
お見事、この食感!!

常に食材の新たな調理法を追い求める“やました”の姿勢に恐れ入り、またまた惚れ直したところである。


次に“冷やし肉”なる、これまたこんなお肉の食べ方、初めてという代物。

実のところ男性陣は網焼きを頼んでいたのだが、お隣のご婦人方の前にならぶお肉に目がいった。

11・牛の網焼き
男性陣が頼んだ網焼き

それに気づいた女性陣がおひとついかがと憐憫をかけてくれたので、この新たなる珍味にありつけたもの。

12・0冷やし肉
これが冷やし肉です

二杯酢でさっぱりと“涼”をいただく、美味である。


12・1万願寺唐辛子の掏り流し  12・2冷たい野菜の炊合せ
左:万願寺唐辛子の掏り流し 右:詰めた野菜の炊き合せ

炎暑の夜に斯様な涼を次々と演出する大将の凄腕にあらためて驚嘆するとともに、衷心からの敬意を表するところである。


そして、いよいよもうひとつのビッグイベント、神輿渡御の始まりである。


まだまだ明るい午後7時少し前。神輿を先導する行列が“やました”の前の木屋町通りに入ってきた。

13・色々、雅な行列が続きます

お客さんも一時、食事を中断、外にて観覧。駒形稚児や騎馬で進む神官の行列がつづく。

14・稚児さんも騎馬でゆく
可愛らしい駒形稚児が通る

神輿の前にこれほど本格的な行列を見たのは初めてであった。

15・騎馬行列がゆく

7時17分。三若神輿会の担ぐ中御座神輿が“ほいっと、ほいっと〜!”の掛け声とともに近づいてきた。

道路を埋め尽くす人、人、人にはビックリ。

16・道を埋め尽くす人
大勢の人と共に中御座が見えて来る

中御座は六角形の屋根に鳳凰を冠し、ご祭神は八坂神社の主祭神・素戔嗚尊(スサノオノミコト)である。

17・中御座
中御座神輿

何しろすごい人数が次々と店の前を通り過ぎてゆく。

18・大勢の担ぎ手が過ぎてゆく

中御座を見送ると、一同、一旦、店内へ戻る。


午後9時前、錦神輿会が担ぐ西御座がやってきたので外へどうぞとの声。大将以下、お客とともに道路へ出る。さすがにもう外は真っ暗。


だが、神輿が近づくにつれ人の大群が押し寄せるようなどよめきが聴こえる。

19・西御座がやって来る
西御座が近づく

“ほいっと!ほいっと!” 西御座神輿が現われる。

屋根が八角形の鳳凰を冠するこれまたりっぱな神輿である。ご祭神は素戔嗚尊の御子たちである八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)。

20・錦神輿会・西御座
西御座神輿

錦神輿会のメンバーは“やました”が仕入れでお世話になる錦市場の人たちが大勢いるのだという。

“やました”の前で神輿もしばし休憩。担ぎ手の人たちも乾いた喉を潤す。大将が準備した飲料の前は昂揚した連の人たちの熱気があふれる。芹生君や女子衆もお世話に大活躍。

21・錦神輿会の人たちに振る舞う

そんななかを粛然と騎乗の神官が行く姿もこれまたすばらしい。

22・担ぎ手のなかを行く騎馬

そして、神輿はふたたび大勢の担ぎ手に担がれ、暗闇に“ほいっと! ほいっと!”の響(とよ)みを残し四条の御旅所へと去っていった。

23・西御座

嵐のようにやってきた神輿を見送り、暖簾の方を見返ると大将が満足の笑みである。

大将、満面の笑み
大将、最高の祭だね〜

神輿渡御の迫力と行列の厳かさを目にし、1100年の歴史を有する祇園祭の本義・神幸祭は京都の町衆に支えられてきたまさに神儀であると実感させられた。


路傍から観覧するだけで祭の当事者のような高揚感を味わったわれわれはふたたび店内へ戻り、じっくりと“やました”の料理を堪能。

25・料理が並んでいます
まだまだ祇園祭の夜は長いのです・・・

神輿渡御を“やました”の前で観覧するという最高の祇園祭を過ごすことが出来た。満足この上ない一日であった。


そして、“やました”の“もてなし”の真義が大将の日頃の心映えにこそあったのだと心底、納得した。


2014年の“割烹やました”!!


祇園祭の神輿渡御を観ながら料理に舌鼓をうつという新たな“やました”の魅力を発見した一日でもあった。


そして最後に新料理長を紹介しておかねばならない。安達料理長である。

26・大将と新料理長の安達さん
新料理長・安達さん

以前、長年“やました”におられたということで、これから勝手知ったる板場で大将の右腕として思う存分その腕を振るっていただけると大いに期待している。


何せ、当夜は神輿見物に出たり入ったり、久しぶりの旧知の友との語らいとやたら忙しく慌ただしい時間を“やました”で過ごした。


次回にじっくり安達さんとお話できることをきたいして2014年の“やました・訪問記”の筆を置くことにする。



2014年祇園祭・山鉾巡行前祭(さきまつり)に興じる

2016年祇園祭・後祭で大船鉾を見た 山鉾巡行一挙掲載!!(2016.8.23)
2014年、祇園祭の“割烹やました”で、涼をもとめる=京都グルメ(2014.8.13)

2014年7月17日、気温35.5度の猛暑のなか、1100余年の歴史を有する祇園祭の目玉のひとつ、山鉾巡行・前祭(さきまつり)を観覧した。

8・大役果たした生き稚児さん

今年からは49年ぶりに後祭(あとまつり)が復活。これまで33基の山鉾が17日に一斉に巡行していたものが、17日の前祭に23基、残り10基が24日の後祭と、2日間に分けての巡行となった。

0011・宵山の八坂神社
宵山の八坂神社

そもそも祇園祭の本義は、八坂神社のご祭神(素戔嗚尊・櫛稲田姫命・八柱御子神)を三基の神輿に遷し、洛中の厄神をかき集めながら御旅所へと向かう神幸祭(17日)と、

0001・神幸祭を待つ宵山の神輿
神幸祭を待つ三基の神輿・八坂神社宵山

その厄神を神泉苑へ流し去った神輿が御旅所から八坂神社へ還る還幸祭(24日)にある。

001・御旅所
四条御旅所

山鉾巡行は神輿の先触れとして京の町衆が自発的に実施したものであり、本来、神事の外にあるが、美麗に飾りつけられた巡行が八坂神社の祭礼に賑わいと華やかさを添える大きな役割を持つに至ったことから不即不離の関係へと変わっていった。


そういう由来に照らせば、前祭と後祭に巡行が分けられたことの方が、祇園祭本来の姿に立ち戻ったということになる。


その49年ぶりの前祭が復活した祇園祭を、15日の宵々山から18日までの4日間、目一杯、堪能した。


宵山や山鉾建てなどの様子、そして神輿渡御については別稿に譲るとして、ここではまずは祇園祭のハイライトである山鉾巡行について記すことにする。


当日は注連縄切りがよく見える四条麩屋町より少し西に陣取った。7時半に現地到着、すでにその周辺は道路に面した一列目が長く伸びており、何とかわれわれもその一画にスペースを見つけた。

001・8時半頃、すでに沿道はいっぱい
8時半頃、沿道にはたくさんの見物客

いよいよ午前9時。

01・巡行がやって来る

四条通り烏丸から “くじ取らず”の長刀鉾を先頭に巡行が四条通りを西へと進んでくる。

3・注連縄に近づく

そして神域との結界である四条麩屋町角に張られた注連縄の前に長刀鉾が止まる。

4・止まる
四条麩屋町に張られた注連縄の前に止まる

四条通りに渡された注連縄を長刀鉾に載った生き稚児が太刀で断ち切る“注連縄切りの儀式”が執り行われる。


今年の生き稚児の大役を務めるのは、まだ愛らしい平井誠人君(9歳)。

09・正5位

この厳かな“注連縄切り”が山鉾巡行の一番のハイライトと云ってもよい。

5・注連縄切り
注連縄がまさに切り落とされる瞬間

注連縄が切り落とされた瞬間、沿道の見物客から拍手と歓声が挙がった。

7・無事終了

“生き稚児”が結界を破ることでいよいよ山鉾が神の領域に入ってゆく。

我々の目の前を2日の“くじ取り式”で決まった順番で山鉾が曳かれてゆく。

9・神の領域に入って来る長刀鉾
神の領域に入る長刀鉾

常に先頭をゆく長刀鉾(なぎなたほこ)と5番の函谷鉾(かんこくぼこ)、21番の放下鉾(ほうかぼこ)、22番岩戸山、23番船鉾は、“くじ取らず”といって、巡行の順番は常にその位置となっている。


次々と目の前を過ぎてゆく山鉾を以下、順に紹介する。

2番目が山一番を20年ぶりに引き当てた占出山。占出山の順番が早い年は安産が多いといわれているとのこと。

11・占出山

3番目は芦刈山。

12・芦刈山

4番目が孟宗山。

13・孟宗山

5番目は“くじ取らず”の函谷鉾。鉾頭は月に山形。

14・函谷鉾

6番が山伏山。

15・山伏山

7番が囃し方を擁する綾傘鉾。

16・綾傘鉾

8番は伯牙山。

17・伯牙山

9番目が菊花の紋様が鉾頭の菊水鉾。

18・00菊水鉾も来る

10番目が太子山。山には松の木が取り付けられているが、太子山のみ杉が立てられている。聖徳太子が大杉の霊木で六角堂を建立されたとの六角堂頂法寺の縁起に拠っているという。

19・太子山

11番目が霰(あられ)天神山。小祠と鳥居が飾り物。

20・霰天神山

12番は人形と鳥居が載る油天神山。

21・油天神山

13番は鶏鉾。

22・鶏鉾

14番は木賊(とくさ)山。

23・木賊山

15番目が囃し方のいる四条傘鉾。

24・四条傘鉾

16番が飾り物の蟷螂(カマキリ)の羽や脚が動き、子供たちに人気の蟷螂(とうろう)山。

25・01蟷螂山

17番が鉾の天王が月読尊(つきよみのみこと)の月鉾。

26・02月鉾

18番が白楽天山。

27・白楽天山

19番が保昌(ほうしょう)山。

28・01保昌山

20番が唯一、屋根のある山、郭巨(かくきょ)山。

29・02郭巨山

21番目からが“くじ取らず”になるが、その21番目が放下(ほうか)鉾。

30・01放下鉾

22番が山でありながら形態は鉾と同じ岩戸山。真木として松を立て、高さは15mにおよぶ。

31・01岩戸山

そして、前祭の殿(しんがり)が23番目の船鉾。曳き鉾のなかで唯一、真木がないのが特徴。

32・01船鉾

巡行は先頭の長刀鉾が眼前を過ぎてからちょうど2時間が経過する炎暑のなかの長丁場であった。


翌日の京都新聞によると、山鉾の基数が10基減少した今年の巡行時間は、結局、15分の短縮がなったのみという。


原因は35・5度の炎暑により巡行関係者を中心に体調不良者が相次ぎ、救急搬送など対応に時間を費やしたためと説明された。


当日の人出は例年より3万人少ない11万人。後祭に分散したのではないかとのことであったが、われわれが陣取った四条通りの混雑は半端なものではなかった。


そして、23基の山鉾を見送った後、巡行行列を追いかけて四条河原町での辻回しも郭巨山からどん尻の船鉾まで4基を観ることができた。


祇園祭山鉾巡行の観覧は待ち時間を含めて5時間におよんだが、注連縄切りに辻回しも目にすることができ、実り多い時間を過ごせた祭りの一日であった。



佐々木蔵ノ介・ハンチョウの蔵元、佐々木酒造に御礼=京都グルメ

6月30日の“鶴瓶の家族に乾杯”で佐々木蔵ノ介が茨城県石岡市の造り酒屋を訪問していた。現在、上映中の超高速参勤交代の舞台となる街道筋の宿場町を訪ねてみたいというのが訪問の契機ということであった。

1・超高速参勤交代
くだらねぇ〜!! でも超!面白かった!!

そこで、佐々木蔵ノ介が実家と同業の造り酒屋を訪ね、蔵の中を見学。蔵主との何気ない会話のなかで日本酒への造詣の深さが何気なく語られ、そうだ、彼の実家、佐々木酒造のアップを忘れていたと、本日、こうして京都の旅の写真フォルダから引っ張り出してここに掲載する次第である。


訪問日は2011年6月13日、TBSドラマ・“ハンチョウ〜神南署安積班〜のシリーズ#4が放映中の最中であった(シリーズ#5から“ハンチョウ〜警視庁安積班〜)。


さて、16世紀頃の京都市街の景観や風俗を描いた“洛中洛外図”という屏風はあまりにも有名である。正確な名前は言えずともその屏風絵を目にすれば、あぁ、この絵かと誰しも頷(うなず)くはずである。


そこで、“洛中洛外”とは一体何を意味するのか?


この佐々木酒造を紹介するには、そこから話を進めてゆかねばならない。
なぜなら、現在、洛中で唯一、酒蔵を営んでいる蔵元が、ほかならぬ佐々木酒造であるからである。

2・佐々木酒造正面
佐々木酒造・正面

豊臣秀吉は“御土居”といわれる土塁で京の町全体をぐるりと囲撓(いにょう)した。そして御土居の内側を洛中、外側を洛外と区分、御土居の数か所に関所を設け洛外から洛中へ入る者を検分したという。

3・北野天満宮・御土居説明板
北野天満宮の御土居案内

その意味でいう洛中は現在の京都市内中心部と比較しても、相当に狭い範囲を指すことが分る。東西が鴨川の西側から北野天満宮辺りまで、南北が京都駅から大宮交通公園へ辺りまでの南北に細長い地域となっている。

4・北野天満宮・御土居の上部 5・蘆山寺墓地内にある”史蹟御土居”
左:北野天満宮の御土居の上部  右:蘆山寺の御土居跡

その狭い、京都のいわゆる中心部で蔵元として日本酒を造り続けているのが、この佐々木酒造一軒ということになる。


余談であるが、今に名前が残る鞍馬口や粟田口、丹波口といった“口”のつく地名は関所のあった名残であるという。


さて、佐々木酒造はここ良質な湧き水が豊かな上京の地で明治26年(1893)に創業、120年の歴史を有する、現在では、先述の洛中における唯一の蔵元・造り酒屋となっている。


いまでは京都のお酒といえば“伏見”と相場が決まっているが、室町時代中期にはこの洛中の地下水の良い処に300軒を超える蔵元が建っていた(佐々木酒造について・佐々木晃社長)のだそうで、京都の造り酒屋の起源は洛中にあったということである。


その由緒正しき場所・洛中に残るただ一つの蔵元“佐々木酒造”は二条城の北側にあり、当日は千本釈迦堂へお参りする途中にお寄りしたという次第。


丸太町通を日暮通へ上がると、茶色の杉玉が店頭に下がる懐かしい商店造りの二階建ての佐々木酒造が見える。

6・佐々木酒造
佐々木酒造

店舗の脇、手前に日本酒を造る大きな蔵が併設されている。この時代、よくぞ京都のど真ん中に造り酒屋の蔵が現存しているなと感心したというより、ちょっとした感動を覚えたのを思い出した。

洛中唯一の蔵元・佐々木酒造
右手が店舗入口

早速、店内に入る。こじんまりしたお店である。入って正面に“ハンチョウ”のポスターが貼ってあった。

7・ハンチョウのポスターが貼られた店内

右手コーナーに佐々木酒造の代表銘柄の“古都”をはじめ純米大吟醸の“聚楽第”など豊富な銘柄が取り揃えられていた。

8・たくさんの銘柄があります

その “古都”のラベルの文字は、同名の小説を物し、「この酒の風味こそ京都の味」と愛飲された川端康成の揮毫によるものである。


そうした古都京都に所縁のある佐々木酒造のお酒を、旅先でもあり、荷物にあまりならないようにと夏季限定のセットと放映中のみの限定販売の“ハンチョウ”を購入した。


そして帰京後、早速、封を開け、以下の銘柄をおいしくいただいたというわけである。


特別純米・“西陣”と蔵出し原酒・“呑切り”である。

9・特別純米酒”西陣”     蔵出原酒”古都”の”呑切り”

シュワーっと爽やかな純米吟醸原酒の“夏方(なつざま)”

10・”古都”の純米吟醸・生貯蔵酒”夏方(なつざま)”

そして、娘が大ファンのTVドラマ“ハンチョウ〜警視庁安積班〜”に因んだ特別純米酒“ハンチョウ”である。

11・神南署安積班の刻印のある”ハンチョウ”

帰ってから判ったのだが、この銘柄は“ハンチョウ”が放映されている期間だけの限定販売で超レアものであったといってよい。


そんなことはもちろん知らずに訪ねたのだが、娘への土産といってもお酒を嗜むわけではないが、土産話にと思い買って帰った。


案の定、娘には大うけに受けて、早く飲んで頂戴と日頃にない“飲酒慫慂令”が出されて700mlの中瓶はあっという間に空瓶と化したのである。


そして、その空き瓶はきれいに洗浄され、現在、娘の机の上に麗麗しく鎮座している。

12・佐々木酒造”ハンチョウ”

グループホームの生活が楽し過ぎてなかなかこちらへ帰って来てくれない娘に、実家の良さを再認識させるに当り多大な貢献を戴いている佐々木酒造さんにこの場をお借りして御礼申し上げて、この稿を閉じることとする。



湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の秘仏一挙公開を廻った=百済寺

湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の秘仏一挙公開を廻った=西明寺
湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の秘仏一挙公開を廻った=金剛輪寺

湖東三山巡りの最後に、十一面観世音菩薩をご本尊とする百済寺(ひゃくさいじ)へ向かった。

18・百済寺石碑
途中に百済寺の石碑

百済寺に向かう細い参道にベンガラを塗った家並みがつづく。何だかここから別世界へ入ってゆくような気がしてくる。

19・ベンガラの家並みがつづく
ベンガラ塗りの家並みがつづく

百済寺は飛鳥時代・推古14年(606年)、聖徳太子の発願により百済国の梵閣龍雲寺に擬して造られた。標高772mの押立山の山腹にあり、戦国時代に城塞化された城郭寺院だった頃の石垣遺構も残る湖東三山の中で最も古い寺院である。


平安時代に天台宗に改宗してからは300余坊の塔頭を構え、「湖東の小叡山」と云われるほどの大寺院として栄えた。


その後、大火事や兵火によってほとんどが焼失、その後、本堂などの再建は果たしたものの往時の殷賑を取り戻すことはなかった。


さて、駐車場で車を降りると大規模な石垣のようなものが見える。

20・中央が本坊の裏門。両脇に石垣がつづく。
石段の上に本坊裏門(受付)

その一画を割るように設けられた石段を昇った先に喜見院本坊(不動堂・書院・庭園)の建つ境内に入る裏門(受付)がある。

21・本坊・裏門受付
本坊・裏門

裏門をくぐると眼前に平坦地が広がる。

22・百済寺・本坊の建つ平坦地
裏門より表門をみる。左建物が不動堂、その左側に書院がある

遥か昔、二百を超える僧坊が林立していたかのと思うと、意味合いは異なるが、これもひとつの“兵どもが夢の跡”なのだとの思いが胸に去来した。


往時をしのぶ唯一の縁といえば、本坊辺りを二百坊跡、表門を挟んだ反対側を百坊跡と呼びならわす呼称のみである。

23・本坊横の庫裡と裏紋を見る
表門から庫裡・裏門を見る。庫裡の右側に書院

不動堂脇から書院横を抜けて池泉回遊式庭園へ出る。

24・本坊手前に不動堂
不動堂

切り出した自然石を池の周りに幾何学的に配した庭園である。

25・切り石が池泉を廻る
左の軒が書院、自然石の道が池泉をめぐる

切石を伝って池の反対側の狭い石段を昇ると、そこが天下の絶景を見渡せる自然の展望台となっている。

26・喜見院・池泉回遊式庭園と本坊(書院)
展望台への途上、書院を見る

展望台に立ち、前方を見はるかすと書院の甍の向こうに湖東平野が広がる。その向こうに初夏の陽光に白く光る琵琶湖をわずかに見下ろすことができる。

27・喜見院展望台から湖東平野を望む

さらに視線を凝らすと、とおくに薄墨を掃いたような比叡山の山容が認められる。

28・遠くわずかに琵琶湖、比叡山

その比良山脈の遥か先にこの地に多く住みついたという百済人の母国、百済国があるという。悠久の歴史を見つめてきた壮大な浪漫に満ちた望郷の丘である。



そして庭園を抜けて、いよいよ本堂へと向かう。長い石段が上っている。

29・百済寺の階段

この百済寺城の石垣の大半は織田信長が築城した安土城の礎とするため“石曳き”され、途中にわずかに城郭寺院時代の石組みも残されている。

30・百済寺城の石垣遺構

なかなか雰囲気のある味のある参道である。


そして、巨大な草鞋を掲げる仁王門に到達する。

31・仁王門
仁王門

そこから石段がまっすぐに本堂へと登っている。急勾配の石段を一歩一歩、踏みしめながら歩む。

32・仁王門からまっすぐ石段を昇ると本堂の石垣

やはり中世の一時、百済寺城であったことを偲ばせる苔生す石組みが圧倒的存在感を示している。いまにも鬨の声が頭上より響(とよめ)いてくるようなそんな気分になってくる。


そして石段を登り切るとそこは標高350mの押立山の中腹。突当りに城郭の石垣のような石組みにぶつかる。

33・本堂を支える城塞のような石垣
石垣の上に本堂が見える

石垣を右に迂回して、重要文化財の本堂の側面へ出る。

34・本堂横から
本堂の側面

百済寺は唐破風付き庇を掲げる正面から堂内へと入る。

35・本堂
唐破風庇付きの本堂

堂内は簡素かつ剛健な造りである。

36・本堂内・格子の奥に十一面観音立像
堂内・格子の奥に秘仏

その正面をふさぐ格子の内にお目見えが叶うご本尊、十一面観音立像が安置されていた。

37・釈迦山百済寺・十一面観世音菩薩
十一面観音菩薩

高さ3・2mにおよぶ大きな観音様である。

御開帳記念・百済寺


百済国の龍雲寺と百済寺の本尊は、同一の巨木から彫られた「同木二体」の十一面観世音菩薩と伝わっている。巨木の上の部分が龍雲寺、下の根っこの部分から彫り出したのが百済寺の観音様であるという。そのため、秘仏・十一面観音立像は“植木観音”とも呼ばれているのだそうだ。


湖東三山最後の秘仏をゆっくりお参りし、しずかな境内へ出る。本堂左手に千年菩提樹が植わっている。

千年菩提樹と本堂
千年菩提樹と本堂

信長の焼き討ちの際に本来の幹は焼け崩れたものの、樹霊が命をつなぐかのように、その蘖(ひこばえ)は成長し、いまも本堂の脇に立っている。


絶対権力者の暴挙により形ある大伽藍は姿を滅したものの、百済寺の菩提樹は連綿と時を刻み、その命を紡いできている。


こうした姿を見せられると、ひょっとして神様、仏様はやはり存在しているのだ、人の心の中に秘かに棲まわれているのだと、そんな心持ちに捉われていったのである。


湖東三山・秘仏巡り、思いがけず一挙にその礼拝が叶い、また一段と仏像の魅力に魅かれてゆく老夫婦であった。



湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の秘仏一挙公開を廻った=金剛輪寺

湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の秘仏一挙公開を廻った=西明寺
湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の秘仏一挙公開を廻った=百済寺

西明寺のそんなしっとりとした気分を乗り越えて、次に聖観世音菩薩をご本尊とする金剛輪寺(こんごうりんじ)へ向かった。新緑がすばらしい。

9・明寿院書院・緋色と新緑
金剛輪寺・明寿院書院

金剛輪寺は奈良時代・天平13年(741)に聖武天皇の勅願により行基が開山した。


黒門(惣門)から本堂までまことに味わい深い石段が続いている。

10・金剛輪寺・黒門
金剛輪寺・黒門

苔生した石垣の真ん中に自然の石を敷いた参道がつづく。風のそよぎにつれ石畳に緑の影がゆらゆらと映える。

11・新緑の石畳・金剛輪寺

そよ風も山気も石畳も碧色一色に染め上げられたような新緑の隧道をくぐって本堂へ向かう。緑陰とはこれを言うかという涼やかな道である。

12・参道の両脇に千体地蔵がならぶ

参道の途中からは庶民の祈りをつなぐように千体地蔵が参道の両脇にずらりとならぶ。一歩、足を進めるにつれ粛然とした心境になってゆく。


やがて、石段の上に室町時代に建立された重要文化財の二天門が見えてくる。

13・重文・二天門
草鞋を吊るす二天門

二天門をくぐるとそこに本堂がある。鎌倉時代に建立されたどっしりとした本堂である。国宝に指定されている。

14・国宝・金剛輪寺本堂
国宝 金剛輪寺・本堂

堂内に安置されるご本尊・聖観世音菩薩から衆生を救うべく導きの紐が外界へと伸びている。

15・本堂のご本尊から導きの紐が延びている
秘仏・聖観世音菩薩と繋がる導紐を境内で握る

われわれ衆生がこの紐を握ることで菩薩と結ばれるのだという。早速、われわれ夫婦もその紐を握り、家内安全・家族の健康を祈った。

御開帳記念・金剛輪寺

そして、本堂の横から堂内に入る。ご本尊の正面に坐る。

16・松峰山金剛輪寺・生身の観音・聖観世音菩薩
聖観世音菩薩

秘仏の観音さまをひたすら拝む。


明寿院・緑雪崩れる
明寿院書院・碧雪崩れる

このご本尊については次の言い伝えが残されている。


行基菩薩が一刀三礼で観音さまを彫り進めたところ、木肌から一筋の血が流れ落ちた。この時、魂が宿ったとして粗彫りのまま本尊としてお祀りしたというのである。


その故、この聖観世音菩薩は「生身(なまみ)の観音」と呼ばれるようになったと伝えられている。


薄暗い堂内から初夏の日差しが眩い外へ出て、頭上に広がる新緑を見上げた。

17・新緑に埋もれる三重塔
新緑に埋まる三重塔

その先に新緑の葉叢に埋まるようにして建つ三重塔が見えた。とても爽やかで素直に美しい光景である。

新緑のなか
新緑に透ける本堂

そして、最後にうしろを振り向くと目にも眩い新緑に透けて、観音さまを守る本堂がひっそりと鎮まっていた。





湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の秘仏一挙公開を廻った=西明寺

湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の秘仏一挙公開を廻った=金剛輪寺
湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の秘仏一挙公開を廻った=百済寺

2014年4月4日〜6月1日までの2か月間、天台宗の湖東三山〔西明寺(さいみょうじ)・金剛輪寺(こんごうりんじ)・百済寺(ひゃくさいじ)〕の秘仏とされるご本尊が一斉に公開された。


本来であれば御開帳時期は各寺で『住職一代で一度』の公開、つまり数十年に一度、それもくどいようだが三つのお寺で時期はバラバラであった秘仏の公開が。今年度は「湖東三山IC開設と交通安全祈願」を記して三山一挙の特別公開となった。


いつものように家内がその特別公開情報をキャッチ、葵祭で京都へ向かう途上、一時下車し、秘仏を拝観することとなった次第。


お蔭で当日は20年ぶりに新幹線“ひかり”に乗車。米原でJR東海道本線に乗り継ぎ、ひと駅先の彦根駅で降車。


そして事前に予約しておいた近江タクシー(湖東三山巡り4・5時間 19,890円)で5時間弱のスピード遍路の観光、もとい敢行となった。


たいへん親切で朴訥な運転手さんで半日だけの同行であったが、夕方、彦根駅でお別れする時は、何だか少ししんみりとなったものである。


湖東三山巡りの途中、まず、多賀大社へお参りした。

1・多賀大社拝殿・神楽殿・幣殿・本殿
多賀大社 拝殿・神楽殿・幣殿・本殿

古事記に「(子の須佐之男命を根の国に追い払い)故(かれ)、其の伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)は、淡海の多賀に坐(いま)す」と記される由緒ある神社である。


それからいよいよ秘仏巡りである。


まず、秘仏・薬師瑠璃光如来をご本尊とする西明寺(さいみょうじ)に参拝。

平安時代・承和元年(834)、三修上人が湖東に一寺を建立、仁明天皇より西明寺の勅願を賜わっている。

3・西明寺・惣門
西明寺・惣門

惣門から自然石を敷き詰めた幅のゆったりした石段がのぼっている。

4・二天門へのぼる石段

その最後、急勾配となる石段のうえに新緑の鮮やかな碧に染められた重文の二天門が見える。

5・新緑の西明寺二天門(重文)
新緑に染まる二天門

二天門をくぐって、本堂の位置する内境内へと入る。右手に美しい三重塔が建つ。鎌倉後期の飛騨の匠による建造物で国宝である。

6・国宝・三重塔

本堂は鎌倉時代初期に建立され、別名“瑠璃殿”と呼ばれる。鎌倉様式の釘を一本も使わない純和風建築で国宝に指定されている。

7・国宝・本堂
二天門より本堂を見る

本堂にあがり、回廊を左手に廻り、横から堂内に入る。いよいよご本尊の秘仏・薬師瑠璃光如来に相見えることになる。


薄暗い堂内、薬師瑠璃光如来がしずかにわれわれを見おろす。手を合わせ、お祈りする。

2・龍應山西明寺・薬師瑠璃光如来
西明寺本尊・薬師瑠璃光如来

そのお顔をじっと仰いで、もう生きているうちにこのご本尊にお会いすることはないのだろうなぁと思うと、人の一生って宇宙という悠久の時間の流れのなかでは、ほんの0コンマ0、0、0、0、0、0・・・・の1秒の世界といおうか、僕の肉体を構成する無数の細胞のなかでたったひとつの細胞がひっそりと命を終えていくような、そんな無限大のなかの虚数みたいな・・・、なんだか自分で何言っているのかよく分らないようなとても切ない気分になってくるのであった。

そして、西明寺には蓬莱庭という名勝の庭園がある。

8・蓬莱庭
蓬莱庭

ここの新緑のモミジは素晴らしい。さぞ、紅葉の季節は息を呑むような景観になるのだろうと趣きのある西明寺の石段をおりながら思った。

9・蓬莱庭から本堂へのぼる趣きのある石段
苔と新緑の緑がゆるやかに下る石畳にゆらゆらと反射し、わたしの心中に碧色の陽炎がするりと映り込んでゆく。

肺を思いっきりいっぱいに膨らませてみた。爽快なペパーミントの薫りがキューっと泌(し)み渡ってくるのがわかった。


聖地・“てら川”に根づいてきた“割烹まつおか”=京都グルメ

初々しさの匂い立つ、京都・“割烹まつおか”に初見参=京都グルメ(2012.10.7)
味と妙技と人の出逢いを演出する・割烹“まつおか” =京都の“割烹まつおか(2013.9.20)


開業二周年をひと月前に迎えた五月、“割烹まつおか”を訪れた。

割烹まつおか

今年は13日に、湖東三山の秘仏巡りをしてから京都のホテルでシャワーを浴びてお店へ向かうので、予約は当初、午後9時としていた。“割烹まつおか”の利点のひとつに、午後10時以降でもお店へ入れるということがある。

当日のようにちょっと寄り道をして京都へ入り、夕食が遅めになるときには、旅行者にとってこうした京料理のお店があるのはとても便利である。

和室から入口を
奥の和室前から入口を見る

本当の馴染になれば色々と無理のきくお店も当然あるのだろうが、旅人風情ではそうした我が儘はききにくい。

その意味で、“まつおか”は遊ぶの大好き人間にとっては必要不可欠な京の割烹なのである。


割烹まつおかのお蔭で、もう一生見ることのできぬ湖東三山の秘仏三体を一挙に見たうえに、こうしておいしい料理にありつけたのである。
予定より早めに京都へ到着できたので、まつおかへは八時過ぎには到着。

まず、八寸がだされる。

八寸

そして、当夜は、松岡君の心づくしで私たちの好物である今年の初物を二品いただいた。

ひとつ目が岩ガキである。もちろん、おいしいのは当然である。

岩ガキ

次に、私が来るというので、まだ日本産は早いのでといって、韓国産でいいのが出ていたので用意したと、今年初の鱧の炙りを食した。

鱧を炙る松岡店主

目の前で炙ってくれる鱧を二倍酢でさらりと食べる。

鱧 鱧の炙り

おいしい。今年も夏が来た・・・と、脳内細胞が蠢いてくるのが分る。


この日、わたしの左横に若い男性が一人坐っていた。

和室への通路からカウンターを
和室への通路からカウンターを

昨年の九月に松本市のお嬢さんと知り合いになったのがこの“まつおか”である。

その時の様子を「味と妙技と人の出逢いを演出する・割烹まつおかというタイトルでアップしたのだが、今年はどんな出逢いが待っている?


そして、カウンター内で調理の手伝いをする木村有紗(ありさ)さんと控えめに言葉を交わしていた若者たちの間に、またまたこのお節介おじさんが割り込んでしまった。

木村有紗(ありさ)さん
がんばる”ありさ”さん

家内は横でまた始まったと、我関せずに次の料理を物色している。


男性は梅津君と言い、現在、かの瓢亭で修業中だとのこと。ありささんとは、京都の調理学校での同期生であるという。


そして、ビックリしたのが、ありささんがこの”まつおか”で働いていることをわたしのブログの写真で知り、連絡を取って、当日、初めて来店したのだというではないか。


わたしもその偶然に驚いたが、梅津君もえぇ〜ということで、三人で盛り上がってしまいました。

家内は横でその間、松岡君とお喋りしながらしっかりと料理を口へ運んでいた様子。


それから鰹のいいのが入っているので、タタキでどうかというので、それを注文。

かつおのたたき

翌日は別段、用もないのでニンニクも多めにいただく。これも身がしっかりとしていてさすがにおいしい。

当日のお酒は桃の滴の冷酒。伏見の松本酒造の酒である。舌に柔らかく、口触りのよい日本酒である。

桃の滴の冷酒

それからカワハギだったか、白身の魚のお造り。思った以上に肉厚で歯ごたえがしっかりとしていて、美味である。

カワハギのお造り

あとで、皮と背骨だったか揚げ物ででてきたが、これもカリッとして、なかなかよい。

揚げ物

天婦羅大好きの家内が、何か揚げてくれますって注文した”芝エビ”の天婦羅を半分、つまみ食い。いやぁ、これも、絶妙。

芝エビの天ぷら

ここらで、わたしもだいぶお腹がいっぱいになってきた。煮物でちょっとしたものはと訊くと、蛸の柔らか煮はどうかというので、それを頼む。

蛸の柔らか煮

またこれが優しい味付けで、もちろんふんわりと至極柔らかいのである。


家内はウニのおいしいのが入っているときき、これをいただこうということになった。どうして食べたらおいしいかと相談の上、結局、白いご飯の上に生うにをぶっかけた所謂、あまちゃん・うに丼が一番いいんじゃない?と、わたしが無粋なアドバイス。

洲本のうに丼

松岡君の調理の腕を封じ込めたようで、今になって少々反省をしているが、家内曰く、”とてもおいしかった”とのコメントで、結果良ければ全てよしなのかなと思い直しているところである。


こうして葵祭社頭の儀の前々夜も、賑々しく更けていったのであります。


”割烹まつおか”も、まる二年を過ぎ、三年目に入った。開店当初はやはり仕事の流れもスムースさに欠けていたが、昨年九月にはそれぞれ店の人間の持ち場、役割も収まる所に収まる落ち着きをみせていた。


そして二周年を迎えた今年は、あきらかに”まつおか”に変化が見えた。

店主の松岡氏をはじめそれぞれが、どっしりとこの聖地・てら川の跡地に根を張ったように、仕事をこなしているのである。

主人が板についてきた松岡氏

最初は新装なったこのお店にちょっと浮いたように見えた松岡氏も、堂々たる店主の趣きを見せ、その安定感を支えに店の者も手際よく仕事を進めてゆく。


カウンター越しの会話も店主の松岡氏に倣い、ありささん、也子(なりこ)さんも上手に話をつないでゆく。


松岡氏はじめみなさん、お若い方々である。それでもなのか、だからこそなのか、しっかりと地に足をつけた仕事ぶりが徐々に際立ってきており、これからますます楽しみな応援し甲斐のあるお店となってきた。


それと最後になったが、当夜、知り合った梅津さんの今後の修行の更なる実りを願って、またの機会の出逢いを楽しみにすることにする。


松岡君のいつものおもてなしに感謝である。




京都国立博物館・“南山城の古寺巡礼展”は必見、6月15日まで

前日の湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の秘仏本尊御開帳を巡ったあと、京都国立博物館で4月22日から6月15日まで開催されている“南山城の古寺巡礼・祈りと癒しの地”展を拝観した。

南山城古寺巡礼・禅定寺の重文十一面観音立像
禅定寺蔵 重文・十一面観音立像

どちらも貴重な機会であり、時間がある方はぜひご覧になられたらよい。ちなみに湖東三山の秘仏公開は6月1日までである。

百済寺石碑

南山城は京都府の南部、木津川流域の辺りを指す旧国名である。その地は古代から水運に利用された交通の大動脈であったため、縄文時代よりたくさんの人々が住みついた場所であった。

京博入口

その証拠に縄文遺跡や古墳時代前期の椿井大塚山古墳など多くの考古学的な遺跡が残されている。


また、奈良時代の740年に聖武天皇の勅によりこの南山城の地(現在の木津川市賀茂地区)に遷都が行われた。いわゆる恭仁(くに)京であるが、この地に都があったのはわずか2年の短期間であるが、その後も平安、鎌倉と仏教寺が、多数、創建されており、現代に多くの文化財を伝えている。

京都国立博物館

南山城は“古仏の宝庫”なのだという。それも十一面観音信仰が色濃く残る古寺の集積地だと説明された。


一堂に集められた南山城の主な古寺は以下の通りである。


相楽郡笠置町     笠置寺

木津川市加茂町   海住山(かいじゅうせん)寺・浄瑠璃寺・岩船(がんせん)寺・現光寺

木津川市山城町    蟹満(かにまん)寺・神童(じんどう)寺

京田辺市         観音寺・寿宝(じゅほう)寺・酬恩(しゅうおう)庵(一休寺)

綴喜郡宇治田原町   禅定寺


南山城古寺巡礼では、そうした古仏のほかに、京都国立博物館の今回の文化財調査を通じて初めて明らかにされた仏像・工芸品・書跡・絵画なども併せて展示されており、仏教美術に深い関心のおありになる方は必見である。

大御堂観音寺・国宝十一面観音立像
観音寺・国宝十一面観音立像(京博・販売写真)

交通が不便な南山城にある一寺、一寺を訪ね歩くと大変な時間と労力がかかるのを、今回は京都国立博物館へ足を運びさえすれば、そのすばらしい古仏が一堂に会し、われわれを待っていてくれる。


わたしたちは約3時間かけて美しい仏像や貴重な仏宝を堪能した。これほどの文化財をわずか3時間で見ることが出来たのである。


そして、「なかでもとくに気に入ったのが、観音寺の国宝・十一面観音立像である。天平時代を代表する美しい仏様である。」と、当初、このブログに記載したが、南山城の巡礼を実際になさっておられる”まさこ”様から、ご指摘があり、今回、この観音様は出展されていませんでした。

赤面の至りですが、その誤解の弁明はコメントの返信で詳述しましたが、次は実際に京田辺市普賢寺下にある観音寺へ参拝し、直接この美しい観音様にお目にかかってこようと思います。

ということでございまして、出展されていない仏様にも場合によっては、お目に掛かれるこの
“南山城の古寺巡礼展”は6月15日まで、あとわずかである。






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