彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

障害者問題

乙武洋匡(ヒロタダ)さん、どこか考え違いをされていませんか?

乙武洋匡(ヒロタダ)さんが518日に銀座6丁目にある“TRATTORIA GANZO”というイアタリアンレストランを予約して行ったところ、車椅子利用者であったことを理由に、入店拒否にあったという。


騒ぎは乙武氏がフォロワーが60万人を超えるという自身のツイッターで、次のように呟いたことに始まる。


『今日は、銀座で夕食のはずだった。「TRATTORIA GANZO」というイタリアンが評判よさそうだったので、楽しみに予約しておいた。が、到着してみると、車いすだからと入店拒否された。「車いすなら、事前に言っておくのが常識だ」「ほかのお客様の迷惑になる」――こんな経験は初めてだ。』


『お店はビルの2階。エレベーターはあるが、2階には止まらない仕組みだという。「それはホームページにも書いてあるんだけどね」――ぶっきらぼうに言う店主。「ちょっと下まで降りてきて、抱えていただくことは」「忙しいから無理」「……」「これがうちのスタイルなんでね」以上、銀座での屈辱。』


『ひどく悲しい、人としての尊厳を傷つけられるような思いをする車いすユーザーがひとりでも減るように。』


店主の対応には、まるでが感じられなかった。接客業として、あの物言いはあまりに悲しい


この呟きにフォロワーから店主・高田晋一氏のツイッターに多くの批判が集中、HPも、一時、サーバーがダウンしたという。


いまはHPも見ることができ、乙武氏も「ぜひ、次回は事前に車いすである旨をご連絡してからお伺いしますね!」とのことで、本件も一応のおさまりがついた形になっているという。


昨夜、わたしがこの件をネットで知った時、どうにもイヤ〜な気分になった。


まず、はじめてのお店を予約する際、本人なり同行者に車椅子の人がいれば、車椅子でのアプローチは大丈夫か、店内での車椅子移動に不便はないか、トイレは車椅子対応になっているかなど確認するのは常識ではないかと思ったからである。


この“TRATTORIA GANZO”というお店のHPの店舗情報には、座席数がカウンター6名、4人テーブル席が1つ、2人テーブル席が1つだけとなっている。そしてお店は2階にあり、エレベーターはこの階に止まらないので、気をつけて下さいと書いてある。


つまり、雑居ビルのような古い建物の2階にある小さなお店という感じである。


わたしは脳卒中を患い左手足が不自由である。だが、幸いにも右手で手摺を握るか、杖を使って用心深く上り下りすることで、階段の利用は可能である。


それでも、はじめてのお店を予約する際には、地下に階段で降りるお店とか店内でも2階に席が取られる場合は、予約の際には、階段の傾斜や手摺の有無などを確認する。


事前に自ら転倒する危険がないかどうかを確認しとかなければ、わたしは逆に心配で、安心して美味しい食事を堪能できないと考えている。他人が予約してくれる場合も、そうした点を考慮した店選びをしてくれている。


折角の美味しい食事とお酒をそうしたインフラが心配で心ゆくまで堪能できないのでは、本末転倒と思っているからである。自分の状態に適ったお店で気持ちよく食事を愉しむ。それが外食というものではないか、そうわたしは考えている。


今回のケースでわたしが嫌な気分に陥ったのは、フォロワーが60万人を超えるツイッターを活用できる乙武氏が、その大勢の応援団に向かって、ツイートしたことである。店の名前をあげる影響がどういうものになるか、予想はついていたはず。こうしたお店にとって、悪評というものが即座に命取りとなることは賢明であろう乙武氏に分からぬはずはない。


乙武氏は、予約時に車椅子の使用を伝えていなかったことは反省されている。しかし、狭い店内で、シェフとスタッフの二人で切り盛りしているお店ということを想定すれば、階段を抱えて上げていってくれ、それも3、4段というのであればまだしも、2階までと唐突に申し出るのは、やはり、常識がないと言わざるを得ないし、随分と手前勝手としか思われない。


店に行って初めてそこが2階にあり、エレベーターも止まらないと知ったのだとしたら、それは乙武氏なり同行者の不注意といおうか、甘えが過ぎるというものである。これまでが偶々すばらしく親切な人たちに出遭い、いつも厚遇を受けて来られたのではないかと推測するしかない。


身体が不自由であれば、不自由なりに、自分でやれることは事前に調整なり、対応策を検討しておくのは、社会人であれば、わたしは当たり前のことだと思うし、その場でも、まず、自分や同行者の力を借りて解決すべきであると考える。


公共交通機関やデパートや大型ショップなど公共性の高い場所では、人手もあり、最近は、従業員や職員さんが車椅子の利用者に手を貸している場面をよく目にする。


しかし、この銀座のお店は二人で運営するまだ開業間もない小さなお店である。バリアフリーにもまだ対応できていないという。


もちろん、最初からちゃんとそうした点にも目配りし、店づくりをしておけと言うのは簡単だが、店舗面積の問題から普通のトイレスペースさえ十分に取れぬ飲食店はいくらでもある。零細であればそれは仕様がないことである。


そうした店は差別ではなく、資金的に対応ができないのであるから、そこに車椅子が入れないのは問題だと言うのは、筋違いというしかない。


今回は銀座のお店ということで、そうした問題はないのだと誤解したとしたら、それは不注意といおうか、世間知らずと言おうか、適当な言葉が見当たらない。


乙武氏は“店主の対応には、まるでが感じられなかった。接客業として、あの物言いはあまりに悲しい。”という。


店主の高田氏は、HP上に事が起きた18日深夜に、“乙武様のご来店お断りについて”という謝罪文を載せている。その冒頭に、“まず先に言葉遣いですが、お客様に対して「何々だ」などの強い言葉使いはしていません”と弁明している。


現場にいた当事者だけしかこれは分からぬことであり、言いようがないのだが、高田氏がひどい言葉遣いはしていないと言っていることも知っておくべきである。また、その場での乙武氏の言い様も、どの程度丁寧であったのか、詰問調になっていなかったかなど、ちょっとした言葉遣いにより相手の反応が変わることはよく経験することである。


また、お店まで自分を抱えて行ってくれなかった、店の対応が冷たかったとして、“ひどく悲しい、人としての尊厳を傷つけられるような思いをする車いすユーザーがひとりでも減るように。”と語っている。


しかし、もし、わたしがこのTRATTORIA GANZO”へ行って、階段を昇れなかったとしたら、事前に確認しなかった自分が悪いとわたしは考えると思う。また、人間の尊厳は障害者のみに付随する属性ではないことは肝に銘じているつもりである。お店の方にも当然であるが、尊厳はあるに決まっている。


わたしは自分が障害者だからといって卑屈になる必要はさらさらないが、だからといって、周りの人が必ず手を差し伸べるべきだとも考えていない。


自分で出来ることは何とかやってみて、それでも出来ない時には人の手を借りる。命に関わるようなケースは別だが、通常のこうした食事やエンターテインメントを享受する場合、人様に多大な負担を強いてまで自分がやりたいことをやるというのは、どうもわたしの美学にはそぐわない。それなりの常識の範囲があると考える。


そんなわたしは障害者としては未熟者なのだろうか、色々と考えさせられた今回の事件であった。


ただ、ひとつ言えるのは、この“TRATTORIA GANZO”、階段の様子を電話で確認して大丈夫と判断出来たら、一度、どうしても行ってみたいと思う店になったということだ。


人としての尊厳を持たれる高田晋一という人物に俄然、興味が湧いたからだ。

そして、最後にこのブログをアップした後に、”つぶやきかさこ”の”乙武氏ツイートの店に行き、店主に取材しました”という心豊かなご意見を見つけました。読んで見てください。

東京都心身障害者扶養年金廃止の答申出る1

10月27日(金)開催された第6回東京都心身障害者扶養年金審議会において、扶養年金制度廃止の最終答申案が採択され、答申書が山崎泰彦審議会会長から山内隆夫福祉保健局長に手渡された。当審議会は都知事から「東京都心身障害者扶養年金制度の社会的役割の変化を踏まえた今後のあり方」について諮問を受け、平成18年5月12日を第1回とし、わずか6回の審議で答申に至った。審議時間わずか7時間弱のスピード審議である。

 27日の最後の審議会は午後6時から開催され、松山祐一障害者施策推進部副参事により31分にわたり答申案の説明があり、山崎会長から質問の有無につき委員全員に確認された。委員からは質問も発言もまったくないまま、答申案は全員一致で承認された。4分間の休憩に入った後、山崎会長から予め用意されていたと思われるメモに沿い総括がなされた。

「(扶養年金制度廃止に至った)答申は、(制度の利用者、当制度を利用しない障害者、一般都民のそれぞれの立場を考慮した)ギリギリの妥当線を探ったもの」であると自画自賛の講評が行なわれた。続けて「委員を引き受けるに当り、都から財政状況の説明を受け、制度の存廃を含む審議を行なって欲しい、秋まで結論を出したいと言われ、引き受けを逡巡したが、(答申が)全員一致の結論で嬉しく思っている」と、各委員、都事務局に対するお礼と労いの言葉で総括は終了した。そこで冒頭の答申書の手交式となった。杉村福祉保健局総務部長から委員へのお礼と挨拶がなされ、閉会が宣されたのは午後6時47分であった。

 

 一般就労が極めて難しく障害基礎年金以外に収入のない障害者たちが、親亡き後に月3万円の年金をもらえるように、20年間にわたり掛け金をかけ続けてきた障害者たちの親の切実で切ない気持ちはまったく忖度されない内容の答申であった。答申の「はじめに」で「(中間答申に)寄せられたパブリックコメントは624件におよび・・・本審議会としては・・・加入者の切実な要望、様々な意見を重く受け止め、さらに審議を行い、最終答申をとりまとめた」とある。パブリックコメントの締切り以降開催された審議会は2回、時間にして2時間に満たない。これを「重く受け止め、さらに審議を行い」答申をとりまとめたと言う行政とは一体、誰のための公僕か。

会長を除く委員の発言のない無言の審議会である。「諮問」とは、都が諮問し、都自らが答申を作成・説明し、とりまとめ、納税者や利害関係者に対する偽りの客観性・公平性を担保する舞台装置なのだと、傍聴していてあらためて感じた。もうこうした形式的審議会のあり方は廃止すべきであり、事務局が準備にかけた時間は障害者の将来の経済不安の解消策の立案に割かれるべきであると強く感じた。


 

 

「障害者自立支援法による障害者いじめという矛盾」2

「障害者自立支援法による障害者いじめという矛盾」

 

 平成18年7月15日(土)の東京新聞朝刊で不定期に掲載される「からむニスト」にベリー荻野氏が「この四月から施行になった障害者自立支援法が抱える大きな矛盾と障害者という弱者が追い込まれていく」様子に、素朴で素直な感想を述べているので、以下にその全文を転記させていただく。

 

NHK教育「福祉ネットワーク」を見ていて、驚いてしまった。その日のテーマは「障害者自立支援法3ヵ月」。

私がびっくりしたのは、福祉施設などで仕事をしていた人が、職場を去るケースが増えているという現状だ。この法律では、福祉施設などで働くと「施設利用料」を障害者本人が負担しなければならない。番組のケースでは、一ヶ月四万円程度の収入があった人に対して、七千五百円の負担がかかっていた。

一方的に解釈すべきではないかもしれないが、「ここで働くなら利用料を払いなさい」ってこと?一般企業ならありえない話で、働いて自立したい人を「支援」することになるのか?

この点は番組でも問題視されていた。私たちは、だれでも障害を負う可能性がある。こういうテーマは、もっと一般のニュースなどでも取り上げるべき。関心を持たないと、知らないうちにいろんな法律が成立しちゃう可能性だって、あるわけだからね。』

 

わたしの娘はダウン症という生まれながらにしての知的障害者である。今年で25歳になった娘に、また新たな将来への不安が生まれたのが、このベリー荻野氏が言っておられる「障害者自立支援法」という看板を掲げた羊頭狗肉の法律の施行である。

 

わたしはこの約三年にわたり社会福祉法人の設立に関わってきた。娘の将来の生活不安と自立に備えるためである。幸いにもその努力が実り、昨年、新しい社会福祉法人の設立が認められ、会館(作業所)建設にかかる国庫補助金の交付も決定を見た。これで、私たち親が死んだ後も、娘は国と障害者指導に携わる職員やボランティアの人たちに助けられながら、法律の庇護の下、何とか人生を全(まっと)うできると一安心というか、一息ついたところであった。

 

しかし、郵政解散(2005.8.8)を機に、一旦は問題が多いとして廃案になった「障害者自立支援法」が、総選挙後の与党の圧倒的多数の政治情勢の中で、成立を見た。一般にはほとんどその法案審議に関心は払われていなかったが、理解力のある障害者、障害者を抱える家族、福祉業界に携わる人々たちなどはその帰趨に重大な関心を払ってきた。そして、世間の関心をほとんど買うこともなく、この法案は2005.10.31に衆議院本会議で起立多数で粛々と可決・成立した。

 

健常者(福祉用語で障害のない人のことを指す)と異なり、企業への就職が非常に難しい障害者は、ただでさえ社会や家族の支援なくして自らの生活を自らの力で営んでいくことは至難の業である。特に健常者ですら、ニートやフリーターという実質失業者の増加を見ている社会情勢では、障害者が自立生活を営んでいく自体、これまでも無理な話であった。

 

そうした中で、この四月から「障害者自立支援法」は施行された。

その第一章、第一条の総則で、次のように「目的」が謳われている。

「この法律は、障害者基本法の基本的理念にのっとり、他の障害者及び障害児の福祉に関する法律と相まって、障害者及び障害児がその有する能力及び適性に応じ、自立した日常生活又は社会生活を営むことができるよう、必要な障害福祉サービスに係る給付その他の支援を行い、もって障害者及び障害児の福祉の増進を図るとともに、障害の有無にかかわらず国民が相互に人格と個性を尊重し安心して暮らすことのできる地域社会の実現に寄与することを目的とすること。」

 

その理念は机上のものとして理解され、その志は高いと言ってよい。しかし、具体的な条文に入り、複雑な仕組みが明らかになっていくにつれ、自立すべき収入の道が閉ざされた障害者に、その自立への支援サービスを受けることに対する応益負担という考え方が盛り込まれていることなど、この法律が実態としては、赤字財政を手っ取り早く改善するひとつの算段であったことがわかる。世間の関心も薄く、声の小さい障害者という弱者にしわ寄せをして、その一助と成そうとする余りにも冷徹な為政者の魂胆が透けて見えるのが、悔しく、そしてせつない。因みに私の娘のひと月の(授産施設での)賃金は一万円である。それでも、娘はお給料日が近づくとそれを指折り数えて待っている。その嬉しそうな姿を目にするたびに、親として胸が強く締めつけられる。この自立支援法がこのままでは、憲法に云う「25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と、麗々しく謳われている国民の「権利および義務」とは、一体何なのか、この国の根幹にある人権尊重の精神とは何なのか悩まずにはおれないのである。


 

心身障害者扶養年金制度廃止への意見書提出−−−5

心身障害者扶養年金制度廃止への意見書提出--- ?

 

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4.    仮に廃止という方向だとした場合の問題点

(a)   扶養年金制度が「保険」であるとの審議会の認識の間違い

    審議会で扶養年金が生命保険と同様であるとして議論が進められている点だが、生命保険は当然だが被保険者が亡くなった場合に保険金が支給される。

 

    扶養年金は、加入者(生命保険でいう被保険者)が亡くなった場合に、年金受給権(保険金受取権)が発生するのは同様。

 

    生命保険と根本的に違うのは、障害者(生命保険でいう受取人)が親(被保険者)より先になくなった場合、年金受給権(保険金受取権)はなくなることである。

生命保険金の場合は、受取人(障害者)が亡くなった場合でも、保険金受取権が相続人に順次移行していく、消滅はしない点で決定的な違いがある。

 

    障害者の平均寿命が短いといわれた時代にこの制度に入った加入者は、そのリスクを取っている点で、生命保険の倍のリスクテイクをしている点において、生命保険とは根本的に異なるものである。

 

    理屈を並べ立てる以上に、本来、扶養年金制度は約款第11条「調査に協力する義務」にあるように、福祉政策の一環であったと理解していた。同じ生命保険であれば、委員のどなたかがいっていたように掛け捨ての民間保険に我々は入っていたはず(特にh10年の掛け金の変更時には移行を考えたはず)であるし、行政の福祉政策と理解していたからこそ、h10年の掛金大幅引上げにも応じたのである

 

(b)  「加入者からの訴訟」を心配する審議委員の本審議会のスタンスは何か

 議事録を読んでいて、審議委員の本件に対する基本的姿勢は何であるのかを問いたい。「加入者からの訴訟」に耐えうるかとの発言は、「(扶養年金制度を)どのように立て直すかという問題意識から審議をはじめた」と中間報告にあるが、どう議事録を読み直してみても障害者の立場に立った発言ではなく、行政の側に立った発言としか残念ながら見えぬのである。

 

(c)    未受給者への対応

 

    「全国制度の2万円に平均的受給期間分に給付したと仮定した場合の総額をもとに、現在価値に換算して算定」の問題点と疑問点

 

.支給額は全国の1.5倍と手厚い制度であったが、一方で掛け金においても東京都は全国制度よりそもそも高い(全国制度の1.37倍から1.17倍)

.支給額の算出根拠のみを全国ベースとし、返還金において都民のみが高い掛け金を払ってきたことを一切、評価しない根拠・理由は何か。片手落ちといわれてもしかたがないのではないか

.現在価値換算の「割引率」の水準により、支払い金額は大きく異なる。

客観性のある割引率をどう規定するのか。財源が破綻するとした「扶養年金財源の将来推移」の試算で使用した運用利回り0.5%を「割引率」とするのか。

 割引率が大きくなれば、支払い金額は減ることになる。一方で、当然だが基金の運用利回りは上昇することになり、基金の破綻は先に延びていく試算となる。

 割引率と運用利回りは、当然のことだが表裏をなすものであり、説明に都合の良い数字だけを使用すべきではないと考える。

 

    特約付加は東京都のみの制度かと思うが、その支給額1万円は全国制度を参考できないが、何を基準に金額を決定するのか。

 

(d)    年金受給者との公平性の確保に納得しかねる

    既に扶養年金を受給している人と受給権が発生している人との不公平感は、どう埋めるのか。民間の年金も財政基盤が悪化した際、既受給者の受給額の削減も併せて実施することは、周知のこと。未受給者は予定の3万円ではなく、全国ベースの2万円という余りにも安易な対応に、この審議会の目的は誰のためのものなのか、何を目的としたものなのかを問わざるを得ない。

 

    さらに扶養年金は任意加入であるから、未加入の障害者との間に不公平感が生じるとの意見も、解しかねる。当時の障害者制度は身体障害者、知的障害者、精神障害者等縦割りになっていたことは周知のはず。そして、それぞれに補助金の仕組みが異なっていた、即ち不公平であったことも自明の事実であった。軽度の知的障害の人が扶養年金制度への加入が多かったのも、軽度の知的障害者はその助成・補助が少ないとの認識が保護者にあったから、将来に不安を抱えたからこそ、当該制度に加入した事実を知ってもらいたい。

 

    今になって、未加入者との間との不公平感があるというのであれば、当時の障害者間での不公平な補助金のあり方については、行政はどう説明するのか。誠実な回答を求めたい。廃止に都合の良い理屈・事実のみを取りあげて、議論するのは厳に慎んでいただきたい。

 

以上


心身障害者扶養年金制度廃止への意見書--- 5

障害者扶養年金廃止への意見書提出---

 

,砲發匹

 

2.    「諮問内容」の「東京都心身障害者扶養年金制度の社会的役割の変化をふまえた今後のあり方について」は、「役割の変化」の認識が異なれば、政策的対応は全く逆に

 

    制度の立て直し審議からはじめたと、「心身障害者扶養年金加入者だより(h18.8)」にあるが、審議内容は「廃止」を前提に終始。

 

「どのように立て直すかという問題意識から審議をはじめた」との説明だが、平成18年5月12日からのたった3ヶ月間の短い審議(審議会は4回)、総審議時間は僅かに4時間58分(1回目1時間55分、2回目1時間7分、3回目1時間30分、4回目56分)で、どのような具体的、真摯な建設的議論がなされたというのか。本気で、「制度をどう立て直すのか」議論がなされたとは、議事録を読んでみても、またこの審議時間を考えても先に結論ありきとしか見えない。行政も委員の方々も障害者の将来を本気で考えようとしているとは、悲しいことだが思えない。

 

    項番1で云う「政策目的」が達成されていないという立場にある私は、「財政的に立ち行かぬので」廃止するという理屈は理解できない。その理由は、国民年金も同じなのではないか。強制加入か任意加入かで異なるという議論は、生計の道を自ら見つけられない障害者の保護者には、あまりにも冷淡な理屈に聞こえる。そうであれば、何度も言うが、民間の単純な生命保険に私は入っていた。

 

3.    審議会の自立支援法施行後の同政策の評価・現状認識と、障害者の親や福祉現場の認識との間に大きな乖離

    政策評価の相違に起因する当該制度の位置づけに大きな差異

福祉保健局長の「我が国の障害者施策は格段に充実した」「障害者を取り巻く環境も変化してきている」との障害者を取り巻く環境が改善していることを強調されているが、その認識はこの国・自治体の財政基盤の悪化のなかで、「環境は悪化してきている」と正さねばならぬ。そもそも政策の実績評価を下すのは、納税者であって、行政者ではないことは自明のはずである。

 

    制度見直しの方向性に大きなズレが生じることに

「環境悪化」のなかで、支援法施行で障害者の経済的負担はさらに増して行く。こうした状況下、自活の難しい「障害者の親亡き後の不安をどう払拭するか」という政策課題は、ますますその意義を強めこそすれ、弱まることはない。現状認識の違いが、まったく異なる政策判断となっていると言ってよい。

 

につづく

 

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障害者扶養年金廃止への意見書提出5

障害者扶養年金廃止への意見書提出--- 

 

 福祉保健局作成の「心身障害者扶養年金加入者だより(h18.8)」や、東京都のHPにて開示されている過去4回の審議会議事録を読み、中間報告で示された扶養年金制度廃止の方向性について以下の、疑問点ならびに問題意識を列挙、提示させていただく。

 

1.    扶養年金制度創設時の政策課題は既に達成されたのか

    制度創設時の目的は達成されたのか

    扶養年金制度は「障害者の保護者が死亡した後、障害者に年金を支給するため扶養年金制度を設け、・・・残された障害者の将来に対し保護者の抱く不安の軽減を図ること」を目的とすると謳われている

    自立支援法の施行により、逆にますます親亡き後の「障害者の将来」への不安は大きくなっており、当該制度の政策目的は達成されたとは、とても言い難い

 

    障害者の立場に立っての検証・総括が不十分

    障害者関係の制度や法律は昭和44年当時と較べればたくさん立法化され、施行に移され、障害者への理解が進んでいることは事実である

 

    しかし個々の障害者が置かれている立場(地域と共生と言いながら施設整備が遅れている・一般就労も極めて困難・自立支援法で自己負担が従来以上に発生・法外施設通所の障害者の存在は未解消)に思いを至し、自立とは逆に障害者が経済的にも制度的保護の観点からも、ますます厳しい状況に追い込まれて行っていることをもっと検証すべきと考える。

 

    第一回審議会の福祉保健局長の冒頭発言に「我が国の障害者施策は格段に充実した。近年では、グループホームや障害者地域自立生活支援センターの整備など、障害者が地域で自立できるような環境の整備も進み、さらに一般就労に向けた取り組みも始まるなど障害者を取り巻く環境も変化してきている」とあるが、この現状認識は、現実とは大きくかけ離れた認識であることを、まず委員の方々は検証すべきなのではないか。

 

福祉保健局長は、「そうした法律や掛け声などはだいぶ整備された」というべきであり、続いて「しかし、その政策効果はほとんど上がっていず、実際に障害者の一般就労は一向に進んでいない」と挨拶すべきであった。

さらに、この4月にスタートした自立支援法は障害者自立を目指す方向とは反対に、自立を阻害する法律になっていることが、4月以降の施設退所者が急増している現状が証明しており、その目の前の現実をどう委員の方々は考え、行政に対し問い質すべきなのではないか。

そもそも、局長が言われたように障害者施策が充実しておれば、こうした事象は起こりえないのではないか。

 

    「当該制度の社会的役割の変化(相対的に小さくなった)」との認識に異論

    昭和44年当時は、民間の保険制度も充実せず、障害基礎年金制度がなかったとあるが、扶養年金制度の役割は今もその当時も役割自体の意義と価値は変わっていない。いやそれ以上に増していると言ってもよい

 

    4回審議会で、一部委員に「扶養年金が作られたときには、時代背景として民間保険がないとか」という発言がありましたが、民間の生命保険は下記のように30年代には既に十分に整備されており、40年代半ばには親が生命保険に入る行為は普通であった。そうしたなかで、この扶養年金に加入したのは、この制度がひとえに障害者を支援する福祉政策(公的支援があるから民間保険とは異なる)であると理解したためである。扶養年金が現在のように廃止リスクがあると考えたら、私は当然、民間の生命保険に加入した。

 

この制度が公的政策のひとつであると私が認識したのは、年金約款第11条「調査に協力する義務」の「加入者、年金受取人、障害者又は年金受給権者は条例第13条第4項の規定により知事が行なう調査に協力することを要します。 2項 加入者又は年金受取人は、毎年1回生活状況を窓口機関に報告することを要します」にある。委員のいうこの制度が「一種の生命保険」であるというのなら、なぜ私たちはこうした「プライバシーを行政に報告する義務」を20年間もの長きに亙り課されなければならなかったのか。委員の方々の見解を伺いたい。

 

【昭和30年、生活保障のニーズに対応して、従来の養老保険の保障部分を増大した定期付養老保険が発売された。その後、日本経済の発展とともに定期付養老保険は年々人気があがり、昭和33年末の保有契約高は4兆4,640億円、国民所得に対する保有契約高の割合は94%となった】

 

    私の子供(愛の手帳3度)のケースで経済面での自立支援の意義を説明する

 

  障害基礎年金---6.6万円/月 (20歳から支給開始)

東京都育成手当て---1.5万円/月

授産施設工賃---1万円/月          

合計月収 9.1万円/月(年収109万円)=A

 

 自立のためのグループホーム入居費用---9万円/月

 社会福祉法人利用料---1.5万円/月(就労移行支援サービス)

 昼食代---1万円/月

 送迎費用---0.5万円/月                 

 合計支出 12万円/月(年間出費144万円)=B

 

 単純に35万円/年の赤字(A−B)である。

現状は、この赤字を扶養年金の48万円(特約付き=4万円×12ヵ月)で、ようやく埋める計算となっている。

 

    この上記出費は施設との往復だけの人生を送るだけという費用である。趣味のCDやV6のコンサートなどに行くお金は勿論なく、健常人の人生の娯楽やちょっとした買い物、洋服代等最低限の生活を送ることも不可能なことは自明である。

    こうしたなかでの、扶養年金4万円/月(私は特約に19年間入っているので)は、私たち両親亡き後の子供が一人ぼっちになった時に、人間らしい最低の人生を保障する貴重な制度的に保障された財源として期待し、疑いなく信頼していた収入であった

 

△砲弔鼎



心身障害者扶養年金の一方的廃止に福祉行政の本質を問う1

心身障害者扶養年金の一方的廃止に福祉行政の本質を問う

 

 8月14日、自宅に東京都の福祉保健局より一通の封書が届けられた。中身は、障害者扶養年金制度が財政的破綻に直面し、廃止せざるを得ないということで、審議会で中間報告をまとめたことを知らせるものであった。そして、年金加入者に対し、審議会の制度廃止の方向での中間案について意見を伺うという体裁であった。平成18年5月12日から東京都心身障害者扶養年金審議会を開催し、知事から諮問を受け「東京都心身障害者扶養年金制度の社会的役割の変化を踏まえた今後のあり方」について、議論を重ねてきたとのこと。

 

 しかし、中間報告までに(と言ってもこれまでの審議会のあり方からすれば、制度廃止がほぼ最終結論であることは、ほぼ確実)、たった3ヶ月の議論(審議会開催4回。総審議時間は僅かに4時間58分)である。この手続き自体が、「利用者・障害者の方々の意見は広く聞きました」と、申し開きするための行政のアリバイ作りと云われても仕方あるまい。障害者の立場に立った障害者の財政基盤確立の議論が、親身になされたか東京都(在宅福祉課)のHPで開示されている議事録を読む限り素直に頷くことは出来ない。

 

 わたしはこの身勝手な行政の、障害者とその関係者に対する冷淡かつ無責任な対応に怒りと憤りを覚えた。もちろん、ただこうして怒ってばかりでは行政の思う壺である。「ご意見は拝聴したが、この財政難の折、制度廃止は止むを得ない。加入者からも大きな反対の声は届いていない」と、ご意見〆切の9月8日以降の審議会で、都庁の役人が委員にこう説明する姿が目に浮かんでくる。

 

 この無責任で冷酷な行政の責任は、誰が、どうとるのか、そして生活保護者よりも少ない障害年金額しかもらえぬ障害者にささやかでも金額の上乗せをと願って、この扶養年金制度に入り20年間にわたり掛け金を払いつづけてきた親の立場から、しっかりとした行政の答えを引き出すべく、意見書をしたためようと思う。

 

 そもそも、この年金制度は昭和44年から「東京都心身障害者扶養年金条例」を根拠法としてスタートしたものである。それから37年の月日がたち、財政的に立ち行かぬということで、廃止せざるを得ないとの中間報告がまとめられた。報告書にある「扶養年金制度(東京都は、加入者=親が亡くなれば、障害者に対し月3万円(全国ベースは2万円)の年金支給。都はその分、掛け金が高い)の果たしている役割は、障害者施策全体の中で相対的に小さくなっており」とは、誰が云った言葉か? 先に言ったように、障害者(特に知的・精神)は一般企業への就労の道がほとんど閉ざされ、収入の道がない。親なき後、わたしの子供を初めとした(知的)障害者たちは、どうやって生きていけばよいのだろうか。

 

報告書に云う「障害者施策全体のなかでこの扶養年金制度の役割が相対的に小さくなっている」との文脈は、生活を保障する障害者施策全体が充実してきて、こうしたサポートの必要性が低まったとの認識をベースにしている。昭和61年創設の障害基礎年金などのことを言っているのであろうが、その年金額は私の子の場合(愛の手帳3度)で月6.6万円(基礎年金20歳から支給開始)と東京とから別途1.5万円の育成手当てで、年間で96万円にも満たない。

 

これで、他に収入を得る術のない(現在授産施設で月一万円の工賃のみが娘の収入)障害者が、憲法25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」で保障されている最低限の生活をどうやって営むことが出来るのか。

 

ただでさえ、この4月からの障害者自立支援法の施行により、応益負担と称し授産施設(作業所)へ通うにあたっても(福祉サービスを受ける)施設利用料として上限3万7千円を限度として支払うことになった。従来よりも金銭負担が増大するという障害者を取り巻く厳しい時代環境を、審議会の委員はどうして「障害者施策全体のなかでこの扶養年金制度の役割が相対的に小さくなっている」と、判断できたのか。自立支援法が今、福祉の世界で大きな問題になっていることを、まさか知らないような方々が審議委員などをなさっているわけではなかろう。「親亡き後」の生活保障の一助として、「政策」として導入された「扶養年金制度」のはずである。福祉政策を審議するというより、保険制度諮問委員会の様相を体した審議会の姿に、現状の行政の福祉に対する取り組み姿勢、本質を見たような気がする。

 

「親亡き後」の障害者の生活をこの国、そして直接の行政責任者たる自治体である東京都はどう担保するつもりなのであろうか。

 

 

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差別を法制化させた障害者自立支援法4

差別を法制化させた障害者自立支援法

 

 またまた、東京新聞の87日付け「からむニスト」で、ペリー荻野さんが、自立支援法にもっと「関心の輪 広める努力を」と、訴えている。

 

同氏は715日の「からむニスト」で、「この四月から施行になった障害者自立支援法が抱える大きな矛盾と障害者という弱者が追い込まれていく」様子に、素朴で素直な感想を述べ、「福祉番組だけでなく一般のニュースでも報道を」と訴えておられた。

 

そのお陰もあってか、一般ニュースで実際に自立支援法について報道されるのを目にするようになった。障害者問題は、概してニュースとしての派手さ、意外性、目新しさといったものに大きく欠ける。しかし、少し視点を変えて見て、「人間の本音」といった視点から障害者を取り巻く諸問題を取り上げると、意外とこの社会の本質、実相が見えてくるようで、じっくり報道機関が取り組んでいけば質の高い社会性を持った報道番組に仕上がるのではないかと考える。

 

例えば、障害者自立支援法の理念は、「障害者基本法の基本的理念にのっとり・・・障害の有無にかかわらず国民が相互に人格と個性を尊重し安心して暮らすことのできる地域社会の実現に寄与することを目的とすること」と謳われている。その目指すところは素晴らしく、崇高でさえある。

 

しかし、実態はペリー荻野さんも指摘されているように、支援法は『障害者が仕事をすると「施設利用料」などを負担』することを法制化している。これは「福祉サービス」をその施設で障害者が受けるのだから、「応益負担」であるとする「霞ヶ関の理屈」である。

 

障害者は授産施設や福祉工場に仕事をするために通っている。わたしの娘も毎朝、結構疲れるわとぼやきながらも、一般のサラリーマン同様に、有給休暇の範囲内でしか休暇取得をせずに、真摯にパン工房(作業所)でパン造りに勤しんでいる。

 

健常者(サラリーマン)がパン屋さんに勤めにいって、「施設利用料」を取ると言われることを想像して欲しい。お給料を貰うためにパン屋さんで必死にパン造りに励むわけで、パン焼き器を使用する使用料など払うことなどないことは、自明である。

 

何故、同じことを障害を持つ人が行なえば、その会社から福祉サービスを受けているのだと云う「霞ヶ関の人間」の深層の意識は「障害者差別」以外の何ものでもないのではないかと、思うのである。「差別のない社会」「平等社会」「ノーマライゼーション」等々、霞ヶ関から空疎な念仏のような言葉だけは、広告や通達で社会に溢れ返っている。

 

しかし、今回の障害者自立支援法は、上記の一点のみで障害者を特別視する「差別意識」そのものが、こともあろうに法制化されたものであると断じざるを得ない。本当に障害のある人の自立を助けたいと法制化を目指したのであれば、どう考えても今回の「自立支援法」の中身になるはずはない。

 

何故なら、この自立支援法は障害者を自立させるのではなく、社会参加を阻止する法律としか思えぬからである。行政官の意図してはおらぬと思うが。「差別意識」が、これほど表面に表われた法律も今時、珍しいと思った。



障害者自立支援法に矛盾を見る高校生4

「障害者自立支援法に矛盾を見る高校生」

 

 東京新聞24日朝刊の「わかものの声」に滋賀県湖南市の高校三年生田中博子さんの自立支援法に対する投稿があった。ボランティアを経験し、同法の矛盾について抱いた若者らしい感想が出ていたので紹介したい。

 

『この間行ったら仲間(作業員さんのこと)が減っていたのです。それは四月一日から施行となった「障害者自立支援法」のせいだと先生がおしえてくれました。この悪法のせいでその作業所に働きに行くだけでお金をとられるのです。しかも、その施設利用料は給料より高いのです。なぜ働きに行ってお金を取られなくてはいけないのですか?それは国による「障害者に対する差別」ではないのですか。それならば政治家の皆さんも国会に行くたびにお金を払うべきではないですか。老人、シングルマザー、障害者…この国は弱者に対する悪法が多すぎませんか』。

そして、

『私は日本が好きです。だから日本がもっといい国になってほしいです。まだ社会のことを、なにもわかっていない私にさえわかる「おかしいこと」が今おこっているのです。これ以上仲間が減らないように助けてください』

と、結んでいる。若者のみずみずしい実体験に基づいた感受性豊かな意見であると感心もし、厚労省の役人、永田町の政治家に博子さんのこの投稿を是非、読んで欲しいと思った。

 

この障害者自立支援法の「自立」、「支援」と、応益負担との理屈で、作業所に通うと費用負担がかかることの「矛盾」を田中さんは、非常に素直に感じ取っておられる。こうした若者が何かおかしい、誰のための法律かと感じた事実は大きい。しかも、その受けた実感をこうした投稿という形で、世に知らしめ、素朴な疑問を社会に問いかけることの意義は大きい。

 

 さて、内閣府の組織のなかに政策統括官という各省庁の政策を横断的に調整・推進することを職務とする組織がある。縦割り組織の官僚機構の政策を横断的・一元的に行なおうとする目的で設置されたものであろう。その政策統括官は七つの職務分担に分かれ、そのひとつに共生社会政策担当統括官というポストがある。

 

共生社会政策統括官は、青少年の健全な育成、少子・高齢化の進展への対処、障害者の自立と社会参加の促進、交通安全の確保などに関し、行政各部の統一を図るために必要となる事項の企画及び立案並びに総合調整に関する事務等を掌握していると政府広報にはある。H176月には、共生社会政策統括官により「共生社会形成促進のための政策研究会」報告がなされた。そこで、副題とも言うべきだが、提唱されたのが「共に生きる新たな結び合い」というフレーズである。

 

しかし、よ〜く思い起こしてみると良い。

 

共生社会の実現化については、既に、H7年に内閣府障害者施策推進本部で作成された「障害者プラン――ノーマライゼーション7ヵ年計画」に謳われていた。そして、平成14年度がその最終年度であったので、そのノーマライゼーション計画の第一項、第二項に掲げられた

「地域で共に生活するために」

「社会的自立をするために」

の政策目的は、相応の成果があがっているはずである。というより、共生社会が出現し、その次の新しいステージへ障害者施策は移っているはずである。

 

  ノーマライゼーション」とは、

これまでの福祉が、障害者を一般社会から引き離して、特別扱いする方向に進みがちであったのに対して、すべての人が、同じ人として普通に生活を送る機会を与えられるべきであるという福祉の考え方である。

 

 わたしが、なぜ10年以上も前の政策を持ち出したか、皆さんには分かっていただけると思う。国は政策目的が果たせなかった同じことを、また麗々しい文言で飾りつけ、再び行なおうとしているからである。そして、今回は障害者の人たちの、自立を支援するより、自立を阻止する法律まで用意して、この十数年、何も具体的に共生社会がわたし達の身の回りに出現した実感もないのに、この十年の政策の検証もないまま実施しようとする。そして、今度は共生どころか、障害者の自立の道すら閉ざそうとする政策を推し進め始めたのである。

 

 ノーマライゼーション」が聞いて呆れる。あまりにも貧相な心を持った国家ではないか。高校三年生の田中博子さんの感受性のひとかけらでも、永田町、霞ヶ関の人間たちが持っておれば、こんな「アブノーマル」な社会にならないのにと強く感じた。

 


障害者の社会参加を阻害する障害者自立支援法5

「障害者自立支援法による障害者いじめという矛盾」

 

 平成18年7月15日(土)の東京新聞朝刊で不定期に掲載される「からむニスト」にペリー荻野氏が「この四月から施行になった障害者自立支援法が抱える大きな矛盾と障害者という弱者が追い込まれていく」様子に、素朴で素直な感想を述べているので、以下にその全文を転記させていただく。

 

NHK教育「福祉ネットワーク」を見ていて、驚いてしまった。その日のテーマは「障害者自立支援法3ヵ月」。

私がびっくりしたのは、福祉施設などで仕事をしていた人が、職場を去るケースが増えているという現状だ。この法律では、福祉施設などで働くと「施設利用料」を障害者本人が負担しなければならない。番組のケースでは、一ヶ月四万円程度の収入があった人に対して、七千五百円の負担がかかっていた。

一方的に解釈すべきではないかもしれないが、「ここで働くなら利用料を払いなさい」ってこと?一般企業ならありえない話で、働いて自立したい人を「支援」することになるのか?

この点は番組でも問題視されていた。私たちは、だれでも障害を負う可能性がある。こういうテーマは、もっと一般のニュースなどでも取り上げるべき。関心を持たないと、知らないうちにいろんな法律が成立しちゃう可能性だって、あるわけだからね。』

 

わたしの娘はダウン症という生まれながらにしての知的障害者である。今年で25歳になった娘に、また新たな将来への不安が生まれたのが、このペリー荻野氏が言っておられる「障害者自立支援法」という看板を掲げた羊頭狗肉の法律の施行である。

 

わたしはここ約三年にわたり社会福祉法人の設立に関わってきた。娘の将来の生活不安と自立に備えるためである。幸いにもその努力が実り、昨年、新しい社会福祉法人の設立が認められ、会館(作業所)建設にかかる国庫補助金の交付も決定を見た。これで、私たち親が死んだ後も、娘は国と障害者指導に携わる職員やボランティアの人たちに助けられながら、法律の庇護の下、何とか人生を全(まっと)うできると一安心というか、一息ついたところであった。

 

しかし、郵政解散(2005.8.8)を機に、一旦は問題が多いとして廃案になった「障害者自立支援法」が、総選挙後の与党の圧倒的多数の政治情勢の中で、成立を見た。一般にはその法案審議に関心が払われることはほとんどなかったが、理解力のある障害者、障害者を抱える家族、福祉業界に携わる人々たちなどは福祉現場の実情を無視したその法案の帰趨に重大な関心を払ってきた。そして、世間の関心を買うこともなく、法案は昨年の10.31に衆議院本会議で起立多数で粛々と可決・成立した。

 

健常者(福祉用語で障害のない人のことを指す)と異なり、企業への就職が非常に難しい障害者は、ただでさえ社会や家族の支援なくして自らの生活を自らの力で営んでいくことは至難の業である。特に、ニートやフリーターの増加にあるように健常者ですら就職難という社会情勢では、障害者が自立生活を営んでいくこと自体、これまでですら無理な話であった。

 

そうした中で、この四月から「障害者自立支援法」は施行された。

その第一章、第一条の総則で、次のように「目的」が謳われている。「この法律は、障害者基本法の基本的理念にのっとり、他の障害者及び障害児の福祉に関する法律と相まって、障害者及び障害児がその有する能力及び適性に応じ、自立した日常生活又は社会生活を営むことができるよう、必要な障害福祉サービスに係る給付その他の支援を行い、もって障害者及び障害児の福祉の増進を図るとともに、障害の有無にかかわらず国民が相互に人格と個性を尊重し安心して暮らすことのできる地域社会の実現に寄与することを目的とすること。」

 

そ これまで身体、知的、精神など障害の種類ごとに支援する縦割りの法体系であったものが一本化され、障害の種類に関わらず平等の支援が受けられるという、その理念は机上のものとしては理解され、法の志は高いと言ってよい。しかし、法律の具体的条文に入り、複雑な仕組みが明らかになっていくにつれ、自立すべき収入の道が閉ざされた障害者に、その自立への支援サービスを受けることに対する応益負担という考え方が盛り込まれていることなど、この法律が実態としては、赤字財政を手っ取り早く改善するひとつの手段であったことがわかり、愕然とした。世間の関心も低く、声の小さいあるいは自分の意見すらまとめられない障害者という弱者に財政赤字改善のしわ寄せをして、財政負担軽減の一助と成そうとする余りにも冷酷な為政者の魂胆が透けて見えるのが、悔しく、そして情けない。因みに私の娘のひと月の(授産施設での)賃金は一万円である(作業所の工賃としては高いほうである)。それでも、娘は給料日が近づくとそれを指折り数えて待っている。その嬉しそうな姿を目にするたびに、親として胸が強く締めつけられるのである。

 

こ この自立支援法がこのままでは、日本国憲法25条に「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。2. 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と、麗々しく謳われている国民の「権利および義務」とは、一体何なのか、この国の根幹にある人権尊重の精神とは何なのか問わずにはおられないのである。

 

 

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