海柘榴市はシルクロードの起点であると先に語った。日本書紀に仏教公伝の百済使節が海柘榴市に上陸したとの記述は見えない。


海柘榴市歴史公園と三輪山
三輪山麓、この辺りが海柘榴市・河原に海柘榴市歴史公園

しかし、隋の裴世清が遣隋使の小野妹子らと共に大和川を水行上陸したのが海柘榴市であったことは、後の推古紀16年8月条に記されている。海外の賓客が難波津から大和川を遡上し、この海柘榴市の河港に上陸し、明日香の京に陸行するというのが、その当時のメインルートであったことは確かである。


故に、それを遡ること五十有余年前にも、百済からの使節が海柘榴市に来着したことは間違いなかろうと考える。現在、大和川に架かる馬井出橋の脇、堤の上に “仏教傳来之碑”と彫り抜かれた大きな石碑が建っているのも頷けるところである。


仏教伝来地石碑
大和川岸に立つ仏教伝来の碑

仏教公伝については、欽明(キンメイ)13年(西暦552)10月の条に、「冬十月に、百済の聖明王、更の名は聖王。西部姫氏達率怒唎至契(セイホウキシダチソチルヌシチケイ)等を遣して、釈迦仏の金銅像一躯・幡蓋若干・経論若干巻を献る・・・」と伝えている。


そして、「仏法が諸法のうち最も優れたもので、三韓も皆、教えに従い、尊敬しないものはない」との百済王の上表文を読んだ欽明天皇は、「西蕃(セイバン)の献れる仏の相貌、端厳にして全く未だ曾(カツ)て看(ミ)ず。礼(ウヤマ)ふべきや以不(イナ)や」と、仏教受容の是非を群臣に問うた。


蘇我大臣稲目は「西蕃の諸国、一に皆礼(ウヤマ)ふ。豊秋日本(トヨアキヅヤマト)、豈(アニ)独り背かむや」と、仏教の受容を促した。


一方、物部大連尾輿(オコシ)と中臣連鎌子は、「我が国家の天下に王とましますは、恒(ツネ)に天地社稷(アメツチクニイエ)の百八十神(モモアマリヤソカミ)を以ちて、春夏秋冬、祭拝りたまふことを事(ワザ)とす。今方(イマ)し、改めて蕃神を拝(ヲロガ)みたまはば、恐るらくは国神(クニツカミ)の怒を致したまはむ」と、神道祭祀の長たる天皇が他宗教の神を祭拝すると国ツ神の怒りを買うと猛反対。


そこで、天皇は崇仏派の蘇我稲目に仏像を預け、試みに礼拝させることとした。稲目は自邸のある小墾田(オハリダ)にまず仏像を仮置きし、至近の向原(ムクハラ)の家を浄捨して寺とすると、そこへ移転安置し、仏道の修行に勤めた。


向原寺・本堂
向原寺(こうげんじ)・本堂

ところが、その後、折悪しく全土に疫病が蔓延、病死者が増嵩。この災禍につけ込んだ排仏派の物部尾輿・中臣鎌子は、これは国神の祟りであり、早々に仏像を棄てよと上奏、欽明天皇は「奏(マヲ)す依(マニマ)に」と、それを許す。


そこで、尾輿らは仏像を難波の堀江に棄てさせ、伽藍に火をつけ灰燼させた。この難波の堀江は仁徳天皇11年10月条に、「(難波高津)宮の北の郊原(ノハラ)を掘り、南の水を引きて西の海に入る。因りて其の水を号(ナヅ)けて堀江と曰ふ」とあるように、仁徳紀に治水工事として築造開鑿(カイサク)させた堤や運河のひとつである。


ただ、これには異説があり、現在の向原寺(コウゲンジ)に“難波池”という小さな池がある。この池が紀にある“難波の堀江”であるとの伝承が残されており、江戸時代にここから金銅観音菩薩立像の頭部が発見されている。明日香を遠く離れた難波の津までわざわざ仏像を棄てに行くのは不自然との見解である。


向原寺・難波の堀江
向原寺にある難波池

どちらにせよ、仏法の受入についてその象徴である仏像の棄却という行為は宗教戦争というよりも、これまで国家祭祀を掌って来た物部氏や中臣氏といった古豪族と擡頭著しい新興豪族である蘇我氏との姿を変えた権力抗争であったというのが事の本質である。


そして、神道派の攻勢のなかにあって、敏達天皇13年2月条にあるように、「蘇我馬子は百済から二体の仏像を請け邸宅内に造った仏殿に安置。そして、高麗の恵弁を師とし、三名の女を得度させ尼とし、これらに大規模な法会を催させる」など、蘇我氏は仏教の庇護者としての地位を徐々に固めてゆく。


そんな折、容仏派の頭目であった馬子が病に伏し、国内に再び疫病が起こり多くの民が死ぬことになる。


ここに排仏派の物部守屋(尾輿の子)大連・中臣勝海(鎌子の後継者か?)が、

「考天皇(チチノミカド=欽明)より陛下に及(イタ)るまで、疫病流行(ハヤ)りて、国民絶ゆべし。豈専ら蘇我臣が仏法を興し行ふに由れるに非ずや」と、上奏(敏達紀14年3月条=西暦585年)。


天皇の許しを得た守屋は早速に、仏像や寺の伽藍を焼き、焼け残った仏像は難波の堀江へ棄て去った。このことは仏教公伝の欽明天皇の時代に物部尾輿・中臣鎌子が同一の行為を行った記述があるが、ひとつの事件を重複して記載した誤謬ではなく、このような廃仏毀釈の迫害、弾圧が度々あったと理解すべきであろうと考える。


そして、病床に伏す馬子や仏法を修める法侶を責め尼を引っ立て、弾圧するのである。その見せしめの舞台として登場するのが、海柘榴市(ツバイチ)である。


即ち、「有司(ツカサ=役人)、便(スナハ)ち尼等の三衣(サムエ)を奪ひ禁錮(カラメトラ)へて、海柘榴市の亭(ウマヤタチ=駅舎)に楚撻(ムチウ)ちき」と、排仏の公開処刑の場として海柘榴市の馬屋館が使用されている。


それは、中世における政治犯の処刑の場としての六条河原そのものであり、川原は小屋掛け興行なども盛んに行なわれ人の往来が多いゆえに、そうした舞台にも使われたという意味において、海柘榴市が当時、殷賑を極めていたという証でもある。


それから時代は下って、1300年後の明治維新、国家運営の道具立てに宗教を利用しようとする一派により、まったく同じ蛮行、すなわち、廃仏毀釈という愚かな行為はなされることとなる。


まさに歴史は繰り返すの銘言通りの事象が起こっているのである。その一場面にこの海柘榴市も登場するという話であった。