神々のふるさと、対馬巡礼の旅=18 多久頭魂(たくづたま)神社
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1



 現在、古代神道の名残である「赤米神事」の習俗を残すのは、対馬の多久頭魂神社(タクヅタマ)と鹿児島の種子島にある宝満(ホウマン)神社、それに岡山の総社市にある国司(クニシ)神社の3か所だけである。この3地点に古代米と云われる赤米の神事が千数百年にわたり連綿と伝承されていることから、稲作の伝播経路に大きく二つの流れがあり、それが瀬戸内海を通り順次畿内へと普及していった姿が浮かび上がって来る。


対馬豆酘・赤米神田
豆酘・多久頭魂神社脇の赤米神田

 

その「赤米神事」(国選択無形民俗文化財)を対馬でただ一人継承しているのが、豆酘で漁業を営む主藤公敏さんである。2010213日付長崎新聞は『神事は、田植えや稲刈りなども含め年間10回あり、頭(トウ)仲間と呼ばれる住民が輪番で受け継いできた。1990年に10戸だった頭仲間は、神事に伴う金銭的な負担もあり、年々減少し、2007年に1人になった』と伝えている。


 農耕の種蒔きの時期や収穫の成否が占いに拠った時代、卜部(亀卜)の宗家たる天児屋命(アマノコヤネノミコト)の末裔である中臣烏賊津使主(ナカトミノイカツオミ)が縣主であった対馬に、「赤米神事」という形で古代農耕の姿が当地の一族により引き継がれ今に保存されている、その連綿と続く気の遠くなるような時間の流れにあらためて想いを致す時、深い崇敬の念を抱くのである。

2010_赤味がかった赤米神田


さて、「神意」に基づく政(マツリゴト)を中心に据えた上古の社会で、この「赤米神事」は「紀」もその由来について語っている。


【神代下第9段 「葦原中国の平定、皇孫降臨と木花之開耶姫」 】

「・・・且(マタ)天児屋命は神事を主(ツカサド)る宗源者(モト)なり故、太占(フトマニ)の卜事(ウラゴト)を以ちて仕へ奉(マツ)らしむ(注1)。高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)、因(ヨ)りて勅(ミコトノリ)して(天照大神)曰(ノタマ)はく、『吾(ワレ)は天津神籬(アマツヒモロギ)と天津磐境(アマツイワサカ)とを起樹(オコシタ)て、吾(ア)が孫(ミマゴ)の為に斎(イハ)ひ奉(マツ)るべし。汝(ナレ)天児屋命・太玉命(フトタマノミコト)、天津神籬を持ちて葦原中国(アシハラノナカツクニ)に降り、亦吾が孫の為に斎ひ奉るべし』とのたまひ、乃ち二神(フタハシラノカミ)をして天忍穂耳尊(アマノオシホミミノミコト)に陪従(ソ)へて降らしめたまふ。

・・・(中略)・・・

又勅して(天照大神)曰はく、「吾が高天原に御(キコ)しめす斎庭(サニワ)の穂を以ちて、亦吾が児(ミコ)に御(マカ)せまつるべし」とのたまふ。〔これが赤米神事の起源となるものと考えられる〕

則ち高皇産霊尊の女(ムスメ)、万幡姫(ヨロヅハタヒメ)と号(マヲ)すを以ちて、天忍穂耳尊に配(アハ)せ妃(ミメ)として、降らしめたまふ。故(カレ)、時に虚天(オホゾラ)に居(マ)しまして児(ミコ)を生みたまふ。天津彦瓊々杵尊と号す。因りて此の皇孫(スメミマ)を以ちて、親に代へて降らしめむと欲(オモホ)す。故、天児屋命・太玉命と諸部神等(モロトモノヲノカミタチ)を以ちて、悉皆(コトゴトク)に相授(サヅ)けたまふ。且(マタ)服御之物(メシモノ)、一(モハラ)に前(サキ)に依りて授けたまふ。然(シカ)して後に天忍穂耳尊、天に復還(カヘ)りたまふ。」

(注1):「天児屋命」は神事を司る本家であり、太占の「卜」を以て仕えるとある。


    紀「神代上第7段」に、「中臣連が遠祖(トホツオヤ)天児屋命、忌部(イミベ)が遠祖太玉命」との、記述あり。


【神代下第9段一書第二】

「是の〔天忍穂耳尊を葦原中国に降臨させた〕時に天照大神、手に宝鏡(タカラノカガミ)(注1)を持ち、天忍穂耳尊に授けて(注2)、祝(ホ)きて曰はく、『吾が児(ミコ)、此の宝鏡を視(ミ)まさむこと、吾(アレ)を視るが猶(ゴト)くすべし。与(トモ)に床を同じくし殿(オホトノ)を共にして、斎鏡(イハイノカガミ)と為すべし』とのたまふ。復(マタ)天児屋命・太玉命に勅(ミコトノリ)したまはく、「惟爾(コレナムジ)二神も、同じく殿内(オホトノノウチ)に侍(サモラ)ひ、善く防ぎ護(マモ)りまつることを為せ」とのたまふ。又勅して(天照大神)曰はく、「吾が高天原に御(キコ)しめす斎庭(サニワ)の穂(イナホ)を以ちて、亦吾が児(ミコ)に御(マカ)せまつるべし」とのたまふ。


(注1)〔紀の注より〕

「宝鏡は一書第一では『八咫鏡(ヤタカガミ)』とあり、八坂瓊曲玉(ヤサカニノマガタマ)・草薙剣(クサナギノツルギ)と合わせて『三種の神器』とあるが、ここでは、この「宝鏡」一種についてのみ記され、他の記述はない」


(注2)〔紀の注より〕

宝鏡は一書第一では皇孫(天津彦彦火瓊々杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト))に授けるが、ここでは子の天忍穂耳尊に授けている。


この「斎庭の穂」の「斎庭」とは神に奉る稲を作る神聖な田のこと。そこで作られた稲穂を皇孫(瓊々杵尊)或いは子の天忍穂耳尊に持たせたとあることが、「赤米神事」で赤米を栽培する田が、神の田、即ち「神田」とかつて(8世紀初め頃)呼ばれていたことが「斎庭」に擬せられていることは容易に想像される。


そして「紀」の「顕宗(ケンゾウ)天皇3年春2月」の条に、対馬に在る「日神」が「磐余(イワレ)の田を以ちて、我が祖高皇産霊(タカミムスビノミコト)に献(タテマツ)れ」と大和王朝に命じたとある。


対馬の「赤米神事」がそもそも高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)を祭神として祀る高御魂(タカミムスビ)神社(多久頭魂神社の境内社)の祭事であったことや「神田」で作った赤米を高御魂神社に奉納している事実は、「紀」の上の記述と併せ考えるときわめて興味深いことである。



加えて、折々にねずみ藻という海藻を使う「赤米神事」という古代農耕の習俗は、上古の対馬を「日神」の本貫とみなす「紀」の内容は単なる作り話ではなく、対馬が具体的事実に基づいた天孫降臨族と海人族の融合の地であったことを明確に示唆するものと云ってよい。