龍馬伝、長崎を歩く


京都のロケ地めぐり 1 =鴨川の飛び石

京都のロケ地めぐり--- 2 = 巽橋・白川一本橋(行者橋)

京都のロケ地めぐり--- 3 =法観寺(ホウカンジ)・八坂の塔

京都のロケ地めぐり―――4=南禅寺水路閣


  つい先日、福山雅治扮する坂本龍馬が京都河原町の近江屋で暗殺され、NHK「龍馬伝」は最終回を迎えた。


昨今の不甲斐ないわが国の政治情勢を見るにつけ、この維新の時代を駆け抜けた龍馬をはじめとする青春群像は、あまりにまぶしくわたしの目に映った。そうした想いもあってこの八月に長崎を訪れた折に、龍馬ゆかりの亀山社中や長崎奉行所などを訪ね歩いた。


長崎・亀山社中前の龍馬ブーツ像


そして最終回を迎え、龍馬が勇躍闊歩し最後に凶刃に倒れた京都を訪れ、ゆかりの地を歩いた。


同郷の土佐人で神戸海軍操練所からの龍馬の友でもある望月亀弥太が遭遇した池田屋事件の跡地を訪れた。三条小橋の旅館池田屋の跡地には、かつてのパチン店が閉鎖となり、今では居酒屋チェーンの海鮮茶屋「池田屋はなの舞」が後を襲い、池田屋の名をこの地に復活さていた。その店内には、幕末ドラマで誰しも一度は目にしたことのある「池田屋階段落ち」の8メートルの階段もご丁寧に設けられているという。


池田屋の跡・居酒屋「池田屋 はなの舞」


池田屋騒動の石碑と説明書き


池田屋正面


その池田屋のすぐ近く百数十メートルほど東に、東海道五十三次の西の起点となる三条大橋がある。


東海道五十三次の起点・弥次さん、喜多さんの銅像


欄干の二つ目の擬宝珠に池田屋事件の際に付けられたといわれる刀傷が残っている。その刀傷は大きく切れ込み、当時の時代の騒擾を今に伝えるようである。


擬宝珠に池田屋騒動の際の刀傷が


次いで、海援隊の京都における活動拠点である「酢屋」を訪ねた。「酢屋」は享保6年(1721)に屋号「酢屋」として創業した材木商である。当主が土佐藩出入りの商人であったことから、その二階を海援隊に提供し使用させた。「酢屋」はその後「千本銘木商会」と社名を変えながら現在も10代目当主の中川敦子千本銘木商会社長のもとで同じ材木を商う事業を営んでいる。


酢屋外観


坂本龍馬寓居の跡・石碑


 当日は生憎開館前(ギャラリー開館:11:0017:00)に訪ねたため内部を拝観できなかったが、二階部分を「龍馬の部屋」として当時の姿に再現しているという。「酢屋」は今回廻った龍馬ゆかりの地のなかで唯一幕末維新を偲ぶことのできる建造物であった。現在は隣地が駐車場となっているため、横から建物を眺めることができる。京都特有の間口が狭く奥行きの深い敷地の上に細長く「酢屋」が建っていることがよく分かる。


京都特有の間口が狭く、奥行きの深い構造


最後に龍馬終焉の地である醤油屋「近江屋」の跡地(
中京区河原町通四条上ル)を訪ねた。人通りの多い場所であり、歴史を偲ぶものはと言えば、ただ「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難地」の石碑が立つのみである。跡地には当世を象徴するコンビニが建っている。自分の終焉の地のこの変わりように、龍馬もおそらく草場の陰で苦笑いしていることだろう。写真を撮るのも忙(セワ)しない、そんな当世絵図であった。



いまも龍馬暗殺の地に花が手向けられている


近江屋跡に建つコンビニ


前を走る河原町通り


 また龍馬が足繁く通ったであろう長州藩邸の跡地が、宿泊先の「京都ホテルオークラ」が建つ場所であったことに、今回の旅の不思議な縁を感じたものである。ホテル前に龍馬の盟友桂小五郎の銅像が建っていることも今回初めて知った。

長州藩邸跡に建つ京都ホテルオークラ



桂小五郎の銅像