神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 10(太祝詞(フトノリト)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 9(雷命(ライメイ)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(中臣烏賊津使主と雷大臣命)
 

 比田勝港を見下ろす権現山(標高186m)の中腹に鎮座する能理刀(ノリト)神社は、その名前が示すように「祝詞」に関わりの深い神社である。

 

拝殿前から西泊の港を見下ろす
拝殿前から西泊の港を見る
 

能理刀神社の由緒書
一之鳥居脇に由緒書(左に本殿への急な石段)

 

(能理刀神社概要)

    住所:上対馬町大字西泊字横道218

    社号:氏神熊野権現/西泊能理刀神社(大小)/能理刀神社(大帳・明細帳)

    祭神:素戔鳴尊(大小)/宇摩志摩治命(注1・2)・天児屋命・雷大臣命(大帳・明細帳)

(注1)  物部氏の祖。ニギハヤノミコトの子。

(注2)  藤仲郷の説では「宇麻志麻治命は久慈真智(クシマチ)命にして、太詔戸(フトノリト)と共に卜庭(サニハ)神であり、この二坐を併せて太詔戸神ということもある」としている。また、京中2座の注釈にある久慈真智(クシマチ)命の本社とされる天香山神社には、久慈真智命が深くうらないにかかわり、対島の卜部の神であったとの話も伝わる。(10太祝詞神社より)

 

    由緒 

昔、老人夫婦が能理刀神を小舟に乗せて、邑の西北の隣ヶ浜に来り。殿を造り留り居れり。其の所に榎木あり、衣掛けと云う。後に、現在のこの地に移し祭りて、〔その後〕老人夫婦が行去る所を知らず。此の地は神功皇后の新羅征伐の時、〔戦勝祈願をした〕行宮の古跡也。亀卜所の神を祭り、在る時、異艦西泊、比田勝二つの邑の浦に寇せり。州兵、是を防ぐ時、始め〔殿が〕在りせし隣ヶ浜の上手なる山半腹より大石三つ落ち来り、異艦を覆し破る。異賊迯げ去りて行方を知らず。其の石今に存せり。(明細帳)

 

赤字部分同一に続いて)其の時代は京都より対馬守〔の格〕は御下の頃也。昔、當浦より比田勝浦にかけ蒙古の賊船数千艘酉刻頃に入船す。昔、此の神初めて着船の浜?(ナラビ)に奥の浜に賊船二、三艘着の時、里人騒動して此の神に祈れば、忽ち神が有りて、此の神、山の並び脇の山頭(トウゲ)六、七合目の處の地中より大石三つ飛び出し、彼の賊船悉(コトゴト)く、覆し碎(クダ)く。其の響きに恐れ、其の夜中片時の間に沖の船一艘も見へず、散じて失(ウエ)けり。右の大石今にあり。四五百年以前までは此の大石の下に賊船の板木見たりと云へり。扨(サ)て當浦の外目に昔、此の神の最初に着きせ玉ふ浜辺に、朝日が出る前に里人至れば、年の頃六十歳ばかりの御形にて、冠を召し至りて、貴き官人座ませり。是を見奉りて、里に帰り即ち死す。其の後も彼の處に未明に至ると即ち死す。それより此の浜へ〔里人は〕朝至らず。・・・(大帳)

 

能理刀神社の一之鳥居
能理刀神社の一之鳥居
 


 能理刀神社の大権現扁額

熊野三所大権現神を顕す「大権現」の鳥居扁額

 

能理刀神社の急勾配の石段
石段が続く

 

以上の由緒に、老夫婦が「能理刀神」を船に乗せてやって来たとある。さて、その「能理刀神」即ち、「祝詞神」とは一体、何者かということだが、当社の祭神として「大帳」および「明細帳」に記されているのは、天児屋命(アマノコヤネノミコト)、宇摩志摩治命(ウマシマジノミコト)および雷大臣命(イカツオミノミコト)という占い神事の宗家ならびに占いに深く関わる神々である。

 


 
漸く趣のある拝殿へ


能理刀神社拝殿正面
 
拝殿正面

 

能理刀神社の拝殿内部
拝殿内

 

主祭神はその三柱のうちのいずれかということになろう。これまで紹介してきた対馬所縁の諸々の伝承から考えると、津嶋直、天児屋根命十四世孫、雷大臣命乃後也云云」(「姓氏録」より)とあるように、対馬縣主の祖である雷大臣命かその祖である天児屋命のどちらかとするのがふさわしい。

 

能理刀神社拝殿内から本殿を
 
拝殿内から本殿を見る


能理刀神社の拝殿奥の本殿と境内社
 
本殿・手前が拝殿・左は境内社

 


本殿

 

さらに、当社のそもそもの鎮座地はいまより少し西北の同じ権現山の山麓にあった。その地が明細帳の由緒では、神功皇后の新羅征伐の際の行宮の古跡であり、亀卜所の神も祀ったとある。そのことを踏まえると、ここの主祭神は皇后に随行した雷大臣命と比定するのが至極妥当である。

 


西泊の港、ここに大石が三つ落ち、異国船を沈める

 

美津島町加志にある、太詔戸命、即ち雷大臣命の祖である天児屋根命と、加志に住居し亀卜に従事した雷大臣命自身を主祭神とする太祝詞(フトノリト)神社のことを考慮しても、能理刀神社の方は雷大臣命を主祭神とするのが自然である。

 

 その能理刀神社は外部の人間には非常に分かりづらい場所にあった。湾に沿って突端近くまで行ったがどうも場所が分からず、途方に暮れていた。近くにお婆ちゃんを見つけたので早速、尋ねたところ、「それは、うちの神社じゃ」と場所を教えてくれたのである。さらに、「車は公民館の前に止めるとよい」と言ってくれた。お礼を言い、車をUターンさせ、ゆっくりと注意深く右手の家並みを眺めながら進むと、先ほどのお婆ちゃんがスタスタと追い越して行くではないか。

 

 そして、お出でお出での手招きである。家並みから少し引っ込んだところにある公民館前の小さな空き地まで先回りしてくれたのである。しかも、車を降りたわれわれ夫婦に、階段の下まで案内してくれると云う(娘は車の中で休憩すると云って、畏れ多くも能理刀神に御挨拶をしなかった)。恐縮したが、お婆ちゃんは「さぁ、どうぞ」と個人のお宅の裏の道というより、庭?、筋?に入ってゆく。

 

 こちらも、こりゃ、ちょっと大変と、お婆ちゃんの後に続くことにした。何しろ、不審者として咎められたら一大事である。10軒ほどのお宅のオープンな裏窓を横目に見ながら進むと、袋小路の突き当たりのような場所に出た。右手に急峻な階段があった。

 

能理刀神社の登り口
 
袋小路の突き当りのような場所(石段の上から)

 

能理刀神社へこの石段を昇る
 
この狭くて急峻な階段を昇って本殿に到達する(袋小路から)

 

「ここの上だよ」と、お婆ちゃんは言った。短い言葉であったが、ありがたい言葉であった。こちらに何を尋ねるわけでもなく、「うちの神社」へ案内してくれたお婆ちゃん。お礼を言うと、お婆ちゃんは、もう踵を返し、元へ戻って行った。その何とも言えぬ素朴な心遣いに心がじわ〜っと温まってきた。

 

対馬の西泊のお婆ちゃん、本当にありがとうございました。お陰で、お婆ちゃんの「能理刀神社」を拝ませていただくことができました。

 

あと、一之鳥居手前右手に西福寺(サイフクジ)というお寺がある。そこに「宗晴康の供養塔」との標示板があった。宗家第15代当主の晴康(14751563)のことであり、引退後(1553)に当寺に隠棲し、没後、そこに菩提を弔った。ちょうど一之鳥居の右手辺りに立つ宝篋印塔が晴康のお墓である。

 

西福寺の本堂と宗晴康供養塔標示板
標示板と一般家屋のような西福寺本堂

 

宗晴康の宝篋印塔
 
宗晴康の宝篋印塔

 

同寺には、また県指定有形文化財の「元版大般若経」約600巻があるが、その内の約170巻が20061月に盗難にあい、まだ解決を見ていない。「大般若経」は中国杭州普寧寺で元朝1326年の作成された貴重な元版であることが、巻末の記載から分かっている。宗家第8代当主である宗貞茂(〜1418)が西福寺に寄進していることから、1418年以前に当寺に収蔵されたことになる。

 

同寺の縁起に「大陸からの使者は、まず西泊湾に停泊し府城に向かっている。西福寺はそれら使節の宿泊所でもあった。西泊は、大陸文化が最初に入ったところであり、多くの歴史を秘めた名所である」と記されている。