神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 10(太祝詞(フトノリト)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 9(雷命(ライメイ)神社)

神の宿る海

水際に立つ鳥居

 当社は、対馬神道の元祖である雷大臣命(中臣烏賊津使主(ナカオミノ・イカツオミ))を祀る清浄なる雰囲気に包まれた神社である。鴨居瀬住吉神社や後に語る曽根崎(ソネザキ)神社と同様に参道は海路につながり、水際に一之鳥居が立つ。

神社裏手、朝日山古墳の脇に立つ鳥居から入る

 

右手が朝日山古墳・正面左手が拝殿

切り通しを出て小さな境内に

 陸上からのアプローチは神社裏手にある切り通しに立つ鳥居を抜け、朝日山古墳の真横を通り猫の額ほどの海辺に出る。その小さな場所が当社の境内ということになるが、拝殿前に立って見ると分かるが、この神社を創った人々は、境内はどう考えても海の上であると考えていたに違いないと、確信に似た思いにとらわれるのである。

小さな境内

神秘的で鏡のような海

 そして気の遠くなるような歳月、鏡のように穏やかな海をただ真っ直ぐに見据えてきた鳥居の存在こそが、雷大臣命(イカツノオミノミコト)とその子、日本大臣(ヤマトオミノミコト)が海からこの浜に上陸したとする伝承が単なる作り話ではないことを、われわれに語っているように思えてならなかった。

一之鳥居から海の参道 

一之鳥居

 当社の由緒には、神功皇后の新羅征伐の凱旋の際、随行した雷大臣命がこの浜久須の浜に上陸し、阿曇磯良が5kmほど南東にあたる湾口の五根緒(ゴニョウ)に上陸したとあるが、双方ともに海に面して鳥居が立つ。ただ、海神に連なる(海神豊玉彦命の孫・豊玉姫の子である)磯良が上陸したとされる五根緒の海岸は外海に近く、打ち寄せる波も荒々しく、霹靂の海とは大きく異なっている。

五根緒の対馬海峡に面する塔ノ鼻

 先に見た阿連(アレ)の雷命(ライメイ)神社にも雷大臣命が新羅より帰国の時に、その地に上陸し、亀卜の法を伝えたとの伝承があるが、この浜久須には、亀卜を伝える話は残っていない。

 

 また霹靂神社は、新羅や百済、伽耶系の陶質土器の出土品が多い、海に突き出た朝日山古墳のすぐ脇、その敷地内に神社があると云った方がよい。当社の祭神たる雷大臣命は、新羅を征伐し、百済の女性を妻に娶るなど百済との関係が極めて強い伝承を有す。そこらの入り繰り、つまり新羅や伽耶系の土器も出土した古墳の主との関係をどう捉えたらよいのか、今後、さらに考察を進めねばならぬ点である。

すぐ脇に朝日山古墳

海水に裾を洗わせる朝日山古墳

案内板

 (霹靂神社の概要)

    住所:上対馬町大字浜久須字大石隈1073

    朝日山古墳の脇に在す

    祭神:伊弉諾尊・事解男・速玉男 (大小神社帳)/雷大臣命・日本大臣命・磯武良(明細帳)

    社号:「対州神社誌」に豊崎郷浜久須村の「熊野三所権現」とある。その(注)の「大帳」に「古くは霹靂と号(名づ)く」とある。また、「明細帳」に「霹靂神社」とある。

    由緒

「大帳」に、「神功皇后御時雷大臣命使於百済國便娶彼土女、産生一男名日本大臣也。里人傳云上古自新羅御渡之時大明神は五根緒(ゴニョウ)村浦口(上対馬町・旧琴村)に御上り、此権現は浜久須村に御船を被着御上り給と云。雷大臣也。今號熊野三所権現。」とあり、中臣烏賊津使主(ナカオミノイカツオミ)が浜久須村に上陸した故事を伝える。

さらに、「明細帳」に、「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」とある。

 

 拝殿は神社というより村の集会所のような建屋であり、雷大臣の伝承を考えると、拍子抜けする造作ではあった。

拍子抜けの簡素な拝殿

 その拝殿の裏のガラス戸を開けると、急勾配の石段が見える。本殿は、それを昇った高処に鎮座している。小さな本殿ではあるが、その様はまるで湾奥から海上を睥睨するかのようにも見えた。

裏手の急勾配の石段を昇ると本殿が
 
湾奥を睥睨する本殿

 また、境内の奥の方に、社号が「熊野三所権現」であった時代の鳥居の扁額が無造作に立て掛けられていたのも印象的であった。

熊野権現の扁額