神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(中臣烏賊津使主と雷大臣命)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(対馬の亀卜)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 8(鶏知の住吉神社と阿比留一族)
 

雷命(ライメイ)神社は阿連川沿いに面した小さい丘の上にある。古くは「イカツオミ神社」、その後、明治までは「八龍大明神」と呼ばれていた。

 



 
阿連川に流れる水、川沿いに鳥居

 

 

八龍大明神の鳥居扁額
 
鳥居に掲げられる八龍大明神の扁額

 

対馬卜占に関して、伴信友はその著書「正卜考」(1858)の中で、「対馬国卜部亀卜次第」の著者、藤斎延(ナリノブ=斎長の父)がそれ以前にまとめたと云われる「対馬亀卜伝」を引き、「卜部年中所卜之亀甲を制作して、正月雷命社に参詣して、其神を祭る。雷神を祭る故は、対馬に亀卜を伝る事は 神功皇后新羅征伐之時に、雷命対馬国下県佐須郷阿連に坐して伝へ玉ふなり、依之祭之也」とあることに言及。

 

雷命神社の鳥居扁額
 
雷命神社の扁額

 

「対馬亀卜法」の伝道者が雷大臣命(中臣烏賊津使主)であり、その発祥地が「阿連(旧号・阿惠)」であることが、ここに語られている。

 


阿連の海 

 

 

雷命神社の入口前には鳥居が連なるが、一之鳥居の手前50mほどに、伝教大師入唐帰国着船之地という碑が立っている。

 


 
最澄着船の石碑

 

「対馬歴史年表」(対馬観光物産協会HP)に、「805年 第16次遣唐使に同行した最澄が対馬の阿連(あれ)に帰着。行きの船は、4船中最澄の乗った船以外はすべて難破、帰りの船も流されて対馬に漂着した。当時、玄界灘を渡るのは命懸けだった」とある。

 


 
境内へと鳥居が列ぶ

 

現在、当社は阿連の海まで500mほどの距離を隔てるが、この碑の存在が、当時、この地点が湊であったことを示し、雷命神社の一之鳥居も海辺乃至は水際に面し、立っていたことは確かと云える。

 


 
陽光に反射する阿連の海

 

 当日は、豆酘から久根田舎、小茂田浜を抜けて、阿連に入った。小茂田から山懐へ入り、曲がりくねった道が続いたが、最後の峠を越えると、突然、視界が開けて、阿連の海が目に飛び込んで来た。晴天に恵まれたこともあり、太陽の光に反射する海原は、まばゆく、神々しく、美しかった。

 


階段下の境内



階段の上に拝殿が

 

(雷命神社の概要)

    住所:厳原町阿連字久奈215

    祭神:対馬県主雷大臣命

    由緒(大帳)

県主雷大臣命の住せ玉ふ所也。又云八龍殿とは今云八神殿の事也。・・・載延喜式神名帳雷神是也。後�畍祭于與良郷加志村大祝詞神社之同殿。

(境内社の)若宮神社の祭神は日本大臣命(ヤマトオミノミコト)也。古くは阿惠乃御子神社。

・・・神下云、大八龍〔中臣烏賊津使主〕小八龍〔日本大臣命〕。亀卜傳云、昔神功皇后御時使于(ユク)三韓皈(カヘ)津島、留阿恵村傳亀卜於神人也。続日本紀云天応元年〔781年〕七月右京人正六位上柴原勝子公言、子公等之先祖伊賀都臣、是中臣遠祖天御中主命(注1:アメノミナカヌシノカミ)二十世之孫意美佐夜麻(オミサヤマ)之子也。伊賀都臣、神功皇后御世使百済便娶彼土女、産一男名日本大臣。遥尋本系、皈於聖朝時賜美濃國不破郡柴原地、以居焉。厥後(ソノゴ)因居命氏遂(ツヒニ)負柴原勝姓。伏乞蒙賜中臣柴原連。於是子公等男女十八人依請改賜云云。」
 

(注1)

『古事記』において、天地開闢の際に高天原に最初に出現した神で、その後に顕れた高御産巣日神、神産巣日神と合わせた『造化三神』のひとつ。『紀』においては、『神代上』の『天地開闢と三柱の神』の第四に「次(二番目)に国狭槌尊(クニサツチノミコト)。又曰く、高天原に生(ナ)れる神、名(ナヅ)けて天御中主尊〔造化3神〕と曰す」とある。

 


 
雷命神社



 
拝殿

 
橘の神紋

拝殿に橘の神紋

 


拝殿の奥に本殿

 


境内社の若宮神社
 
境内社の若宮神社(祭神:雷命の男子、日本大臣命(ヤマトオミノミコト))

 

 

「続日本紀」では、中臣烏賊津使主は「生二男。名曰本大臣。小大臣」と、二人の男子を百済の女性との間にもうけたとあるが、「大帳」では「産一男名日本大臣」となっており、その点も異なっている。

 

対馬の伝承では「一男」とあり、その男子は「日本大臣(ヤマトオミノミコト)」となっている。おそらく対馬には、亀卜の法を伝え、対馬県主に任じられた「日本大臣」のことのみが話として残り、「小大臣」は対馬を離れ、美濃国栗原の地を賜り、「栗原」の姓を名乗ったものと考えられる。

 

さらに「大帳」の由緒は、「姓氏録」を引用し、「津嶋直、天児屋根命十四世孫、雷大臣命乃後也云云」と記す。その対馬県の始祖たる天児屋根命「紀」【神代下第9段 「葦原中国の平定、皇孫降臨と木花之開耶姫」 】に、

 

「・・・且(マタ)天児屋命(アマノコヤネノミコト)は神事を主(ツカサド)る宗源者(モト)なり。故、太占(フトマニ)の卜事(ウラゴト)を以ちて仕へ奉(マツ)らしむ」と、「占い神事の宗家」であると記されている。

 

このことは、中臣烏賊津使主(雷大臣)とその子(日本大臣)が「対馬県主の祖」であると同時に、烏賊津使主が伝えた「対馬の亀卜法」がこの国の「占い神事の宗家」に連なる正統なる本流であることを示している。

 

 

境内より阿連川越しに田園風景

 

そして、対馬神道が雷大臣の伝来に始まると考えた時、雷大臣が、当初、住みついた阿連の地が、「対馬神道のエルサレム」であるとする鈴木棠三(トウゾウ)氏の言葉は、わたしが山間から目にしたキラキラと輝く神々しい阿連の海原と相まって、まさに得心のゆくところである。