神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 4(大吉戸神社・鋸割岩・金田城・和多都美神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 5(鴨居瀬の住吉神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 6(鴨居瀬の住吉神社・赤島)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅――番外編(対馬のことごと)

 「神社明細帳」は、「大吉戸(オオキド)神社」(祭神 応神天皇・神功皇后・豊姫(大帳・明細帳))の由緒について「神功皇后新羅を征伐し御帰陣の時、対馬島黒瀬城を築かしめ
、防人を置かせ玉ひ、天神地祇を城山に祭らしむ。依りて大吉刀神社と称す。」と記している。吉戸(キド)は城戸(キド)を表わし、敵から守りきる縁起の良い城門の意味と解し得る。また「吉刀」という戦を象徴する刀の吉祥を願った社名は、国防の城塞の堅守を祈念するものでもあった。
 


大吉戸神社の鳥居。この上に本殿がある

城山に垣間見える石塁。金田城? 黒瀬城 ? 

 その「明細帳」が、厳原町椎根(旧佐須村字鹿ノ采(コザトヘン))に鎮座する「天神社」の境内社である「吉刀(キド)神社(若宮八幡)」(祭神 応神天皇)について、「天智天皇の御代金田城を築き祭りて鎮守となせり。貞観十二年三月従五位上を授けらる。」と、その由緒を述べている。

 

これは一体、どうしたことか。金田城の麓に鎮座している大吉戸神社ではなく、「吉刀神社」が金田城の城塞を守護しているとは、この両方の記述をどう考えたらよいのか。 

  

現在、諸書では金田城の別名を黒瀬城としている。そして、城山の頂上の石垣や中腹にある石塁、城門などは、「金田城」として国の特別史跡に指定されている。城山にあるのは金田城とされているのだから、大吉戸神社の由緒だけを見る限りは、金田城=黒瀬城と考えるしか仕様がない。 

大吉戸神社と城山
特別史跡に指定される黒瀬湾の城山の金田城 

 

しかし、明細帳における椎根の「吉刀神社」の記述を見る限り、金田城と黒瀬城はまずは別物と考えてみる必要がある。

 

旁、「吉刀神社」がその境内にあったとする「天神社」の場所は、厳原町椎根である。

椎根は石屋根の倉庫で有名
高床式の石屋根倉庫
高床で戸にある穴が鍵穴  

 そして、そこは、黒瀬にある金田城からは西南方向に10kmも離れた遠方の地であり、かつ東シナ海という外洋に直接面した場所である。但し「吉刀神社」自体は、「大帳」の作成時点(17811789)において、すでに「今社領これ無く、古帳に云う、右三社は昔、神事として造営、上よりこれ有り。郡代これ無く、その時に社領は絶える也」とあり、現在にその痕跡を止めぬところとなっている。

 

そこで、現在の椎根の「天満宮」を「天神社」と比定して考察を進めることにする。そもそも、対象物を護るために造営された鎮守の社は、その対象物の近くに存在するか、その対象物に所縁のある地に存在するのが自然である。つまり、椎根の天満宮近くに金田城があったと考えるのが自然なのである。 

 

 椎根周辺の地図を子細に眺めて見た。すると、天満宮から佐須川を1.5kmほど上った南側に金田山(216m)という名の山がある。その至近の山頂にこそ、天智天皇が造営させた金田城があったと考えるべきではなかろうか。 

 

 現に、蒙古と高麗軍が襲来した元寇の文永の役(1274年)の時、宗助国(戦死)が激戦を展開した小茂田浜は佐須川の河口に隣接する北浜であり、この地が軍事上の要衝の地であったことは歴史が証明している。 

小茂田神社境内に建つ元寇七百年の碑 

 しかも、当時において小茂田浜は現在の海岸線より500mほど内陸に入り込んでいたとされるが、蒙古軍との激戦の地は今の金田小学校のあたりであったと説明されている(小茂田神社案内による)。その金田小学校は、金田山の真北、500mの所にある。まさに小茂田浜を真下に見降ろす所に、当時、金田山があったことになる。 

椎根周辺の地図

小茂田神社より内陸部を 

 大吉戸神社のちょうど上方に金田城とされる城の一ノ城戸が位置する。しかし、この辺りは古来、湾名にあるように「黒瀬」と呼称されて来ている。「大小神社帳」(1760年編纂)では、「大吉戸神社」を金田城八幡宮ではなく、「黒瀬城八幡宮」と呼んでいる。

 

そして、この黒瀬近辺に「金田」という地名の痕跡を探し出すことは出来ないのである。逆に黒瀬湾奥に皇后岬という岬があるが、そこに黒瀬城を造営させた神功皇后の遺骨を葬ったとの伝承が残されているほどである。

 

 こう考えて来ると、国の特別史跡たる金田城は、「紀」の天智紀に記述された「金田城」ではなく、対馬の伝承に残る三韓征伐の凱旋時に国防の拠点として築城された「黒瀬城」と考える方が、諸々の傍証からして妥当な結論だと云える。

 

 そう問題を整理して見ると、「大吉戸(オオキド)神社」は、明細帳にある通りに、神功皇后が黒瀬城を築かせ、その「天神地祇(アマツカミクニツカミ)を城山に祭ら」しめるために、造営された社だと見た方がよい。

 

 そして、今はない「吉刀(キド)神社」が、黒瀬城の後に朝廷が椎根の金田山に築城させた金田城を鎮護する社であったと考えるべきである。社名に「大」が欠けているのも、新羅に戦勝した後に造られた大吉戸神社と新羅に敗戦した後に造られた神社の格の違いのようなものを感じるのは、考え過ぎだろうか。

 

 さらに、現在の金田城とされている城山の古い石塁の築造が、放射性炭素式年代測定法によると6世紀後半と推定されるとの検査結果も出ており、白村江の戦い(663年)以前に城山に城塞があったことの可能性が極めて高い。白村江の敗戦に備えて築城されたはずの金田城が6世紀の築城ではおかしい。金田城は城山とは別の場所にあったとするのが、科学的な結果と整合性のとれる唯一の結論であると考える次第である。

【追記(2010.9.29)】
 「金田城椎根説」を裏付ける有力な資料を見つけたので、ここに追記し、当説の補強材料とする。

 資料は、対馬島誌所引の対馬編稔略である。

 そこに、阿比留一族が対馬の支配者となる経緯が書かれている。女真族といわれる「刀伊の賊」の来寇を防ぎ、殲滅した際の記述である。
「刀伊賊と佐須で合戦した後、椎根に引き入れ、金田を以て本城と為す」と、金田城が椎根にあったことを、明確に記述したものである。

 以下にその原文を記す。

「弘仁八年(817)、就刀伊国賊追討之事公卿僉議(センギ)有之処、被定申上総国流人比伊別当可然之間、別当卒去之故、重被召其子畔蒜太郎同二郎同三郎、三将催軍兵到当島、
早速於佐須合戦、賊徒引入椎根、以金田為本城、堅守不降、太郎中矢死、二郎三郎終始於和歌田奥、撃竜羽将軍獲其首」とある。

 金田城はやはり、椎根にあったのである。

 そして、国の特別史跡とされている城山の金田城は「黒瀬城」ということになる。

 したがって、黒瀬城は、「紀」に記述されなかった一群の神護石系の朝鮮式山城に属する城塞の可能性が極めて高いと推測される。残念ながら今回、私は史跡の金田城の石塁を間近で仔細に見ることができなかった。

高良大社の鳥居扁額
   高良大社(久留米市)鳥居の扁額

高良大社神護石
   高良大社の神護石の石塁

 もし、それが列石で造られた石塁であったとしたら、黒瀬城が大和王朝成立以前に築城されたものであることは確かなのだが・・・。