平成21717日に改正された「臓器の移植に関する法(改正臓器移植法)」が、この717日から施行された。

 

昨日(89日)、その改正臓器移植法に基づき、脳死と判定された患者さんの家族が、故人の生前の口頭による意思を尊重し、初めて臓器移植に承諾した。

 

そして、本日、故人の尊い臓器は摘出され、臓器提供を待つ患者さんに対する移植手術が全国で実施されている。

 

 そのこと自体をわたしはここで批判する意思は毛頭ない。

 

私ども夫婦も臓器移植については、平成17年から「臓器提供意思表示カード」((社)日本臓器移植ネットワーク)に臓器提供の意思あることを承諾・署名し、家内と共に常時、そのカードを携帯している(このカードで「臓器を提供しない」との意思表示も可能)。私どもの臓器がその移植により、新たな命の歩みを手助けできることは、社会に生かされて来た人間としてきわめて意味のあることだと考えているからである。

 

ただ、今日のテレビ報道を観ていて、摘出された臓器をここまで追跡して報道をする必然性があるのかと疑問とともに不快感を覚え、メディアが伝えるべき情報とは何なのかと考えさせられた。

 

もし、わたしが臓器提供を承諾した当の家族であれば、肝臓は東京都の東大病院へ、心臓が大阪府、膵臓は愛知県、腎臓は群馬県へと、臓器が入った保冷ケースが各病院内に搬入される映像が流される度に、「不快感」を覚え、「こんなことであれば、承諾しなかった方がよかった」と、深い反省の念に苛(さいな)まれたのではなかろうかと思ったのである。

 

何か自分の愛する家族の尊い命、臓器がバラバラにされ、各地にまるで宅配便のように配送される。テレビ局がテレビ画面の向こうには物見高い見物客がたくさんいるのだと勝手に思い込み、声高にその様子を放映している。その映像を目で観ることが、何か、不謹慎であるかのような気持ちに襲われた。大切な家族の尊い遺志である提供臓器が、切り刻まれ、一個の無機質な物として配られてゆく。そう感じたのである。

 

家族にとって最も辛い愛する人の「死」に加えて、さらに故人を鞭打つような無神経な報道映像・・・。保冷ケースの中には、愛おしい家族の臓器が入っているのである。それを目の前に見せつけられる。そして、全国の見知らぬ人たちにまで、その光景が曝される。

 

決して故人はそんなことは望んでいなかったのではないのか。ただ、人間として当然のことを、静かに淡々と進めてもらいたいと願っていたのではないのだろうか。そう思ったのである。

 

臓器移植はこれまでも日々、行われている手術である。しかし、今回は、改正臓器移植法後の本人の書面での意思表示がない初のケースでの臓器摘出、移植という事例であったため、ニュース価値があるとのメディアの判断であったのであろう。

 

そのこと自体は、報道すべき意味はあると考える。

 

しかし、その尊い臓器が各地に運ばれ、搬入先、臓器名まで詳しく伝える意味、意図は何なのか、わたしには分からない。少なくともわたしは、臓器を提供された故人とそれを承諾されたご家族の臓器提供に対する深い理解のお気持ちはよく分かっているつもりだ。

 

だからこそ、今日のテレビ報道に、メディアが伝えねばならぬ情報とは何なのか、彼らは真剣に考えたうえでの今回の報道なのかと、大きな疑問と視覚に訴えるテレビメディアのあり方に、ある種の不快感と憤懣を覚えたのである。