鳩山総理の辞任表明を受け、早速、民主党の後任代表のポスト争いにマスコミの関心が移った。

 

 でも、ちょっと待って欲しい。

 

 支持率が下がって、政権維持が困難として、総理の首の挿げ替えを繰り返し、民意に基づかぬ自民政権に「正統性はない」と糾弾してきたのは、ほかならぬ民主党ではなかったのか。

 

 そして、自民党のそうした選挙によらぬ総理ポストのたらい回しに怒った国民が、308という空前の議席数を民主党に与え、政権交代を果たしたのは、つい9ヶ月前のことである。

 

 今日、岡田外務大臣、前原国交大臣らが「小沢一郎議員の影響排除」を前提として菅直人氏支持を相次いで表明、菅氏の民主党代表就任が濃厚となってきた。

 

 しかし、国民は自民党が行なった総理のたらい回しで、民主主義の原則にもとる政治の理不尽さに怒りを覚えてきたはずである。そして、今度は、鳩山首相の下で、嫌というほど「総理の資質」とは何かを学び、考えさせられたはずである。

 

「クリーンな政治」はもちろん大事である。だが、国を引っ張ってゆく総理大臣は明確な国家ビジョンと確固たる政治信条がなければ務まらぬことを、この8ヶ月の政治の迷走で知った。

また、米国との信頼をぶち壊した結果、先方の言うがままに普天間の共同声明を呑まされた。そして、日米地位協定の見直しなどどこかへ吹っ飛んでしまい、国益の毀損という大きな代償を払わされた。総理の資質が国家の将来を左右する極めて大事な問題であることをわれわれは痛感させられたばかりである。

 

 その総理の資質を菅という人物が備えているかと問われれば、私は即座に「NO!」と答えざるを得ない。その理由は大きく二つある。

 

 一つは、鳩山内閣のなかで副総理というNO2の立場にありながら、普天間問題に関し、「私は直接、普天間の問題には関わっていない」と、明言したことである。

 

 鳩山内閣が、いかに「最低でも県外」という首相自身の言葉で追い込まれていったとはいえ、安全保障という国の根幹に関わる沖縄問題の解決へ向けた政治課題について、「無関係だ」と洞ヶ峠を決め込む政治姿勢は、一国を率いて行く総理の資質としては、零点と言わざるを得ない。

 

 必死に一政治家としての安全保障の考え方を総理に訴え、助言すべきであった。ましてや、彼は副総理の地位にあったのだから。そういう意味では、副総理としてもすでに失格の烙印を私は押すしかなかったのである。

 

 第二に、旧聞に属するが女性問題で週刊誌に取り上げられた時の、菅氏の対応である。こうした時の対応は、ある種、その人間の本質に近い姿を見ることが出来ると私は考えている。ある意味、皮肉ではあるが危機対応能力にも相通じるものがあるとも考えている。

 

 そうした観点で、あの醜聞を思い起こすと、菅という人物が廊下の蔭だったかどこだったかコソコソと記者から逃げ隠れしていた写真の姿が、私の脳裡に色濃く焼き付けられているのである。

 

 その件では、「不適切な関係はない」と釈明した菅氏がお相手の女性を「愛人」と報じた週刊誌に対し法的手段を講じることもなく、何かウヤムヤのうちに終わらせてしまったようだ。いずれにしても、「クリーンな政治」を標榜するのであればなおさらのこと、堂々たる人生を歩む人物こそ、総理として、国民を引っ張ってゆく人物として、ふさわしいのだと思う。

 

 その意味で、内閣に難題が降りかかった際にも、自分の身に醜聞の疑いが降りかかった際にも同様に「逃げ隠れ」し、己の心情を明快に述べなかった人物は、とてもではないが、総理の資質を欠くと断定せざるを得ないのである。

 

 その一方で、やはり、ここは政治の常道として、総選挙によって民意を問うべきである。

 

もし民主党が新代表による総理を選んだとしても、国会召集の冒頭解散を断行し、衆参同日選挙で国民の信を再度問うべきだと考える。そのことこそが、民主党自身が糾弾してきた政権の正統性を与えるものであることは、彼らが一番よく知っているはずである。政権選択の総選挙こそが、次の政権に国を運営してゆく「正統性」を与える唯一の道であると信じるが、いかがであろうか。