小野小町ゆかりの随心院門跡を歩く 弐

随心院・小町和歌石碑

随心院庫裡前の小町歌碑

薬医門
随心院門跡薬医門・築地塀の五本の定規筋が美しい

京都市山科区小野御霊町
35

 

あかつきの 榻の端書き 百夜書き 君の来ぬ夜は われぞ数書く

 

 

 随心院は、そもそも平安時代正暦二年(991年)、弘法大師第八代の法孫である仁海僧正が一条天皇からこの小野の郷に寺地を下賜され、建立した牛皮山曼荼羅寺をその前身とする。

 

 その牛皮山曼荼羅という古名は、仁海僧正が亡き母が牛に生まれ変わったことを夢見し、鳥羽の辺りに牛を探し求め、孝行を尽くした。その牛が亡くなり、供養として牛の皮に両界曼荼羅の尊像を描き、本尊として祀ったことに由来する。

 

その後、当山第五世の増俊阿闍梨が塔頭として随心院を建立した。さらに第七世親厳大僧正が後堀河天皇より門跡の宣旨を賜り(1229年)、爾来、随心院門跡と称されることとなった。最盛期には七堂伽藍を擁するほど隆盛を誇ったが、承久應仁の兵乱(14671477年)の最中にそのすべてを灰燼に帰した。その後、百二十年程の歳月を経て、慶長四年(1599年)に本堂が再建され、以後、九条、二条の両宮家より門跡が入山することとなり、その支援の下、再興のみを歩み現在に至る。


庫裡入口
唐風庇の庫裡玄関

庫裡内
庫裡の太い柱と素朴な梁

 

 当院の拝観者は庫裡より入るが、この建物は1753年に二条家より、その政所が寄進、移築されたもので、切り妻の大屋根と唐風造りの庇が特徴的で面白い。また中へ入ると重厚な柱や素朴で太い梁にまず目を奪われる。そこに随心院やそこに帰依する宮家の、ながくて浮沈の多い歴史の重みを感じずにはいられない。


大玄関から薬医門を


 

本堂へ向かう途中、薄暗い大玄関式台から秋の陽射の注ぐ薬医門が真直線に見えるが、その穏やかな様子が心地よい。そして表書院の廊下へ出ると、ふくよかな緑色の大杉苔を一面にまとう庭園が目の前に広がる。その視線の先、長い廊下を直角に右へ曲がった処に本堂が見える。



 襖絵に四季花鳥図を描く表書院を覗き、次の間となる「能の間」で腰を下ろす。緋毛氈の敷かれた廻廊越しに観る庭は、漆喰壁の白を背景とした霧島ツツジやモミジの緑、塀瓦の鼠色の先に広がる真っ青な秋空・・・、その色彩のコントラストにおいてわたしが好む景観のひとつである。



表書院より本堂を望む
表書院廊下より本堂を望む

洛巽の苔寺と呼ばれる大杉苔
洛巽の苔寺と称される見事な大杉苔

能の間より庭園を観る
能の間から庭園を眺める

 

 本堂には護摩壇正面に本尊の如意輪観世音菩薩坐像(鎌倉時代の作)が鎮座する。その両脇に重要文化財に指定される阿弥陀如来坐像(定朝作)、金剛薩捶坐像(快慶作)らが並び、真言密教の世界が堂内の空間に密やかに存在する。折しもその日のお勤めが始まろうとしていた。われわれは堂内から三段に分かれる前廊へ出て、突き当たりから池泉を眺めた。池には鯉がなぜか一直線に粛々と泳いでいたのが印象的である。山科の静かなお寺には心鎮まる時の流れがふさわしいとつくづくと感じた光景であった。


本堂より能の間・書院を
本堂前廊から表書院、能の間を見る

本堂廊下より池を望む
一列に泳ぐ鯉、一途な深草少将の恋の想いか・・・