枳殻邸の池
   枳殻邸印月池より右に南大島と大樟、左に北大島と縮遠亭を見る


 鴨川から水を引き、陸奥塩竃の風景をそっくり模した広壮な六条河原院には、在原業平をはじめとした平安の文人、雅人たちが多く訪れ、邸内の塩竈で藻塩を焼く際に立ち昇る紫色の煙に雅びを感じ、ともに心を和ませたのであろうか。

 

 しかし、冒頭の融の政界での動きをみると、藤原基経との政争に敗れたのち、それを眺める日々、融の心情が到底、穏やかであったと考えることはできない。湾内で藻塩を焼く大自然の景色をそっくり自分の邸宅の庭に再現させるとは、財力だけでなく、胆力も必要とする。ただ、おだやかな心情でその風雅を愛でていたとはとても思えないのである。

 

難波津、敷津、高津の三つの浦から一日三千人の人足を使い、海水を運ばせ、六条河原院ではまた三千人の人に塩を焼かせ、汐屋から立ち昇る紫煙を愉しんだという。その様は目に浮かべるだけで豪気といえば豪気だが、見方によればその行状は世を恨む狂気と紙一重の所作と言えなくもない。容姿端麗で才能に満ちた男が最高権力者の座を争い、その栄光の座が永遠に遠のいたのち、そのエネルギーを持て余し、世の中を怨み、さらに馬鹿げた世界を演出したのではないのか。

 

そう考えてみると、世阿弥が能の傑作といわれる「融」を物したのも、現世の栄華を最後まで忘れることのできなかった源融の霊が、世阿弥という希代の天才に筆をとらせ、命の限り、その現世への迸る想いを書かせたのかも知れないと想像してみたくもなるのである。


 

君まさで煙たえにし塩竈のうらさびしくも見え渡るかな
(紀貫之:古今和歌集巻16)


 

 

 そうしたことを脳裡に思い浮かべては打ち消したりしながら、六条河原院に縁の場所を訪ねてみた。

 

 まず、東本願寺の飛び地にある渉成園(しょうせいえん)、通称「枳殻邸(きこく)」(下京区烏丸通七条上る)を訪ねた。枳殻邸は1641(寛永18)年、徳川家光によって現在の地が寄進され、1653年に石川丈山によって作庭されたと言われている。


枳殻邸の入り口
渉成園入口脇の尾花

紅葉の映る池
丹楓渓から印月池を

回棹廊と縮遠亭を望む
回棹廊と右上に縮遠亭を望む

回棹廊
回棹廊

北大島と縮遠亭
北大島に建つ縮遠亭

侵雪橋から遠くに漱枕居を望む
侵雪橋から遠くに漱枕居(茶室)を望む

侵雪橋
北大島に渡る侵雪橋

傍花閣
石川丈山が天体観測をしたと伝わる二層の傍花閣(ぼうかかく)

印月池からロウ風亭を望む
印月池からロウ風亭を望む

漱枕居
茶室の漱枕居(そうちんきょ)

キンモクセイ
園内のキンモクセイ 

 この地は、六条河原院苑池(ろくじょうかわらのいんえんち)の遺蹟と伝えられていたが、その後の調査(1994年京都市埋蔵文化財研究所)で庭園の池の跡とされる一部が
左京六条四坊十一町(現在の五条通富小路の北側)で発掘されている。そのため、枳殻邸よりわずか北方に位置する上徳寺・本覚寺の辺りが宏大な院の跡地であろうとされている。


しかし、洛中のど真ん中にこんな閑静な庭園があることに驚くとともに、印月池に浮かぶ南大島が六条河原院にあったというマガキガ島を想起させて、しばし、時間の流れが止まったように感じた。そして静謐の時空がわたしを包み、能の「融」の幽玄の世界の息遣いを耳元に感じた。

そして、枳殻邸を後にしようとしたとき、わたしを足止めするかのようにキンモクセイの香りがほのかに匂って来た。


能・「融(とおる)」 六条河原院の縁の地を歩く 壱

能・「融(とおる)」 六条河原院の縁の地を歩く 参