泊ってみたい宿、宮島・「岩惣(いわそう)」
友枝昭世の第13回厳島観月能「紅葉狩」の夜

いまや広島のお土産と言えば「もみじ饅頭」というぐらいにその全国的知名度は高い。その表記も「もみじまんじゅう」、「もみじ饅頭」、「もみぢ饅頭」と色々である。


そこで抑々どこのお店が本物? 誰が発案したのと、紅葉は日本中にあるのになぜ、広島だけの土産になっているの、で、一体、どこのがおいしいの?といった数々の疑問をこれまで持ったことありません?


う〜ん、そんなのどうでもよい、興味ないという方は、この記事飛ばしてクダサ〜イ!今回の“厳島観月能”を観にゆくに際し、その疑問に少しでも答えるべく個人的ミッションを携え行って参りました。以下その調査並びに「おいしさ」結果につきレポートしよう。


調査対象は以下の三社・三製品である。

「藤い屋」(廿日市市宮島町1129 電話:0829-44-2221・【創業大正14年】)

「岩村もみじ屋〔(有)岩村もみじ屋〕」(廿日市市宮島町中江 電話:0829-44-0207・【創業明治末期】)

「高津堂」(廿日市市宮島口西2-6-25 電話:0829-56-0234・【紅葉饅頭商標登録明治43年】 )


現在約200社を数えるもみじ饅頭製造会社があるなかで僅か三社における比較である。だから他にこっちが一番という方がおられるのは当然であるが、今回はもみじ饅頭創出に深く関わる店であるという選考基準を設けた。


その基準で選んだのが、紅葉に所縁の土産をと製作依頼した旅館「岩惣」お勧めの二品と、もみじ饅頭を創り出した高津堂を加えた三品の「もみじ饅頭」である。


もみじ饅頭の誕生は宮島の老舗旅館「岩惣」のHP「150年の歴史」のなかの「もみじ谷と岩惣」第一章に以下の記載があるので紹介する。

岩惣
1854年創業の老舗旅館・岩惣

お茶菓子生まれる・明治39年(筆者注:西暦1906年)頃

当時の女将栄子は「なにかお客様に岩惣でしか味わえないお茶菓子をお出ししたい。」と、カステラ生地の中にこしあんを入れたまんじゅうを考案、高津堂の御主人に制作を依頼して「もみじまんじゅう」が誕生しました。時代を超え漫才ブームのネタにまでなり、国内外でご愛顧を頂けておりますことは、栄子も予想だにしなかったことと思います。

 

そしてここに名前が出てくる「高津堂」が長らく生産を止めていた「もみぢ饅頭」を今年の7月から生産再開した。その説明書き(高津堂・紅葉饅頭包装紙)に「もみぢ饅頭誕生譚」が詳しく記載されているので以下に引用させてもらう。 


常助、紅葉谷入口で茶店を開く

高津常助は、明治19510日生まれ。大阪で菓子職人となり、大阪名物岩おこし等の卸し商として宮島にやって来て、紅葉谷入口近くに茶店を開き、岩惣旅館へ茶菓子の納入を手がける。 


道路は見物人でいっぱいだった

紅葉谷公園入り口に店舗を構え、製造販売した。間口の大きな店で、大きな木製横看板には、元祖もみぢ饅頭、高津堂と書かれていた。入ると二間幅の焼きかまど、横には道具掛や商品を並べる棚、包装台などあり、道路からも見え、焼き立てが買える魅力で大盛況だった。


焼形の型を考えては図面を持って何度となく大阪に出向く

「高津堂」の常助は、もみぢを形どったもみぢ饅頭を明治43年頃に完成。味は、小豆を大釜でたきジャッキで締めて濾(こ)した餡は甘さが口に残らないため、二つ目につい手が出るほど好評。饅頭は、経木に包み、上にラベルを貼った。ラベルには元祖「もみぢ饅頭」と墨書きのシンプルなもので、明治43718日には、商標登録「紅葉形焼饅頭」を獲得。製造販売も軌道に乗り、職人養成にも力を注ぎ後、宮島菓子組合長をも務める。 


伊藤博文のひとことから生まれたもみじ饅頭

博文公は、紅葉谷に遊ばれることがしばしばあった。或る日、茶店の可愛いい娘が、お茶を差出した手を見て「このもみぢのように可愛いい手を食べてみたい」と冗談を言うのをきいた「岩惣」の女将から、客に出す饅頭作りの依頼を受けた常助はもみぢの葉形をしたもみぢ饅頭を考案。


紅葉饅頭の元祖は高津常助

常助は、紅葉谷にある旅館「岩惣」の女将からもみぢを形どった饅頭作りの依頼を受け、菓子店「高津堂」が明治43年頃に完成。その後、岩惣とコンビで販売。常助が亡くなるとほぼ同時期に高津堂と、元祖もみぢ饅頭は一代で終わってしまった。

高津堂
創業時の看板が今の名刺に

つまり厳島の旅館「岩惣」へ菓子を納めていた高津堂の高津常助氏が現在の「もみじまんじゅう」の祖形となるものを製造した。そして岩惣の女将栄子さんが常助さんに企画を持ち込んだ。その契機は何と明治の元勲、伊藤博文であった。というのだから、たかが“もみじ饅頭”と侮るなかれ、“もみじ饅頭”はことほど左様に由緒正しき銘菓だったのである。(広島出身でもないわたしが、何も粋がる必要はないのだが。まぁ、息子の嫁が広島出身だから、まぁ、いいか)


ところで、常助さんに紅葉饅頭のアイデアを持ちかけたのは、岩惣の「おまん」という仲居だという別伝もあるが、真実はどっちかなんて詮索するのも野暮というもの。もみじ饅頭を愛する人々がその見ぬ女性への想いを巡らすのが一興というものであろう。

紅葉谷橋
岩惣前庭に架かる紅葉谷橋

わたし好みで言えば、「もみじのような小さな可愛いい手」の持ち主が、あの朱塗りの紅葉谷橋の上にたたずみパクリと「もみじまんじゅう」を口にしたとするのが何やらお茶目でその甘みが倍加するように思うが・・・。(生誕100周年もみじ饅頭誕生の歴史に高津堂の歴史が詳しい)


ということで「もみじまんじゅう」を3種類買い込んで食べ較べをして見たわけである。「にしき堂」のもみじまんじゅうは、これまで、いやと言うほど土産で食べさせられており(生地がパサパサしていて私は好きではない・ただ“最近は美味しくなったんです”と息子の嫁は申しておりましたが・・・)、食傷気味なので今回は比較からはずすことにした。


まず本家本元の高津堂は1960年後半に宮島から現在の宮島口へ海を渡り、お店も酒類販売業へと業種転換をしていた。ところが常助氏の孫の加藤宏明さんがこの7月に元祖「紅葉形焼饅頭」を復刻した。まるでわたしの「厳島もみじまんじゅう探行」を待っていたかのようにである。お店を探して行かずにいられない。何か本当に運命的なものを感じたのである(かなり、大仰!!)。

高津堂地図
高津堂の地図・多加津堂酒店で”もみぢ饅頭”が求められる

お店はJR宮島口の西側、線路を北へ越えた細い道路が二股に分かれる場所に「多加津堂」という名で、酒類販売業を営んでいた。店前の小道を挟んだ所のプレハブ小屋で二人の職人が一生懸命に饅頭を焼いていた。生地と餡は宏明氏のご子息、現在、広島市の和菓子店で働く友和さんが用意しているという。

高津堂・もみじ饅頭
もみぢ饅頭の由来が書かれた包装紙

高津堂の生地は、いま、私たちがもみじ饅頭と考えるものとは少々異なり、もち米を使ったモチモチ感があり、食感は京菓子の「阿闍梨餅」に似ている。餡も常助氏の時代と異なり、いまはつぶ餡のみを販売している。そして元祖紅葉饅頭はもみじ形の中に鹿が二頭描かれていたが、現在は包装袋に往時の絵柄を残すのみである。

  
創業時のもみぢ饅頭のデザインが描かれた包装紙・右の復刻版には二匹の鹿がいない
高津堂・もみじ饅頭
モチモチ感がたまらない高津堂のもみぢ饅頭”(つぶ餡)

まだ復刻3ヶ月目の製品であったので、これから常助氏の幻の味へとますます洗練されてゆくものと思われる。東京へ戻って、食べ較べをした20代の若い人はこの高津堂が一番おいしいと感想を述べた。

藤い屋・もみじ饅頭
上品な包装紙
  
高級感のある藤い屋のもみじまんじゅう
藤い屋・もみじ饅頭
藤色のこし餡が見事

私はと言えば、「岩惣」がお土産として現在、提供している「藤い屋」が、カステラ生地のしっとり感、藤色のこし餡の上品な味わいが格別で、一番好みに合った。


家内は「岩村もみじ屋」のつぶ餡、「藤い屋」のこし餡、どちらにもそれぞれ上品でそれぞれの味わいがあり、軍配団扇をあげた。

  
岩村もみじ屋のつぶもみじ(つぶ餡)
岩村もみじ屋のつぶもみじ
家内推奨のつぶもみじ

また「岩村もみじ屋」を食べた人はつぶ餡のもみじまんじゅうは初めてだと、「おいしい」と語っていた。(「岩村もみじ屋」は岩惣に頼むと翌日に旅館に届けてもらえる。岩惣の披露宴などでは引き出物のひとつとして「岩村もみじ屋」を用意する人も多いそうだ)

岩村もみじ屋もみじ饅頭
披露宴でわざわざ”岩村もみじ屋”のもみじ饅頭を引き出物に用意される方もいらっしゃるそうだ

年齢、好み、その日の体調などでもちろん評価は異なってくるのは当然である。実際に皆さんがご自身で宮島を訪ね、そこで焼きたての「もみじまんじゅう」を食し、そのおいしさに覚醒していただけたらと切に願うものである(別に広島県に頼まれたわけでもないのだが・・・)。


されど、たかが土産のもみじまんじゅうと言う勿れ。斯様に「もみじまんじゅう」には何とも100年前の浪漫の馨りがプンプンと漂ってくるではないか。


そして今回、食べ較べをした結果、誰が何と言おうと、私は「もみじまんじゅう」は宮島の由緒正しき「銘菓」であると呼ぶことに決めたのである。BBの島田洋七ではないが、私は世界の中心で
「もみじまんじゅう〜!!」と、叫びたいのである。