2の6 修学院離宮---中御茶屋・客殿

 

(後水尾上皇を巡る人物と建築物2の5―【楽只軒から】)

 

【客殿――霞棚】

 

楽只軒建立の10年後に養母である東福門院(16071678)が崩御されたが、その女院御所の奥対面所であった建物が当地へ移築されたものが客殿である。

 

楽只軒から東南に雁行し階段によりつながる入母屋造りの木賊葺(とくさぶき)の建物が客殿である。この二つの建築物は上皇薨去(1680年)後に内親王が落飾得度し、御所が林丘寺と改め、尼門跡寺院とされた際に、施入されたものである(離宮編入いついては「後水尾上皇を巡る人物と建築物4」参照)。

 

そこで客殿の入母屋造りの威風や室内の豪奢な装飾は、修学院離宮の他の建築物との比較において「周囲の自然との融合」という一点で明瞭な差異、違和感がある。京都御所にあった女院の建築物が移築されたためで、後水尾上皇の離宮構想とは大きく懸け離れた「造形美」をなしており、やはり修学院離宮によって追求された「美」・「精神世界」は「下・上の御茶屋(離宮)」をもって考えるべきである。

 

だからこの客殿の霞棚が桂離宮の桂棚とならび「天下の三棚」(他に醍醐寺三宝院の醍醐棚)と称され、離宮の代表のひとつに掲げられている現実には、後水尾上皇もさぞかし苦笑いしていることであろう。 

一の間格子襖

一の間格子模様の襖

 

まぁ、そうした堅い話は別として客殿の造作自体は単一の建築物として見れば、やはり女院御所の風格を汚さぬ重厚さを備えている。特に一の間の霞棚はその規模、霞のように棚引く違い棚の配置そして地袋に描かれた絵や羽子板形の引き手など心憎い名工の技が、そこかしこに散りばめられている。その意味では、上皇の御意志とは関係なく修学院離宮の目玉であることは認めざるを得ない。また杉戸に描かれた鯉の絵のどこか王朝の風合いをもったエピソードも面白い。宮内庁職員の話では「夜な夜なこの雌鯉が杉戸から逃げ出してどこかに夜遊びにゆくという。そこで逃げ出さぬようにこの鯉に網を掛けて逃げぬようにした」という。金色の網はかの円山応挙の手になるというが、鯉自体は作者不明であると言う。ただ、この網が洒落ていて注意深く目を凝らすと、真ん中に小さな破れ目が存在する。「あの裂け目から雌鯉は結局、毎夜逃げ出して恋人の雄鯉との逢瀬を重ね、そして杉戸には、だから・・幼い子鯉が描かれているでしょう」と、落ちがつくのである。宮内庁もそうそうお固いことばかり言うところではないようだ。これも雅(ミヤビ)というものか・・・。

霞棚地袋羽子板形引戸

霞棚地袋羽子板形引き戸

 

杉戸の雌鯉
杉戸の鯉

 

 

 

そこで宮内庁の方の説明にもない秘密のお話をここでひとつご披露することにしよう。

 

 朱宮御所の雌鯉が夜な夜な逢瀬を重ね子供までもうけた雄の鯉はいったいどこの何者なのだろうか?

 

 想いを寄せた雄の鯉は、修学院離宮を遠く南に下った山科の毘沙門堂(正しくは出雲寺)(京都市山科区安朱稲荷山町18)という歴とした門跡寺院にいらっしゃるのである。

 

 毘沙門堂は、春は枝垂れ桜、秋は紅葉が美しい隠れた名所であるが、宸殿に描かれたすべての襖絵(狩野益信作)がすべて「騙(だま)し絵」であることでも有名で、まだ見方が解明されていない絵も多くある(説明員の方の説明)遊び心いっぱいの寺院である。

 

 その遊び心いっぱいのお寺の宸殿内の衝立のなかに想われコイ!の雄鯉はひっそりと棲んでおられたのである。こちらはお一人?でした・・・。

 

 一見すれば、修学院離宮の雌鯉(作者不詳)と同一人物の手になる絵であることが分かる。杉戸の鯉とそっくりなのである。説明員の方に質問したところ、この衝立は何と後水尾上皇がお持込みになったということで、「杉戸の鯉」と対であるとのこと。何とも不思議な縁を感じたものである。

 

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毘沙門堂

毘沙門堂本堂

 

宸殿
この宸殿の中に愛しい雄鯉がいらっしゃるのです

霞棚

天下の三棚---霞棚