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後水尾上皇を巡る人物と建築物--1へ

 

後水尾上皇を巡る人物と建築物--2へ

 

後水尾上皇を巡る人物と建築物--2の2へ

 

後水尾上皇を巡る人物と建築物--2の3へ

 

 2の4 修学院離宮・中御茶屋(なかのおちゃや)

 

 さて、それでは中御茶屋・中離宮へと向かうことにしよう。

 

 下御茶屋の東門を出ると、眼前には御茶屋山。右が中御茶屋へ。左が上御茶屋へゆく赤松の並木道である。

 

 左手奥に比叡山の頂上を見上げ、右手に御茶屋山、東山連峰が連なる壮大な景観が広がる。中離宮へ向かう松並木の間に田園風景が広がる

比叡山の頂上が・・・

左手奥に比叡山の頂上が・・・

 

中離宮へ

 

ほぼ正面には東に真っ直ぐ傾斜して上る路と南に90度の角度で真っ直ぐ伸びる平坦な路が見える。それぞれの経路が人の身長を少し超える高さに剪定された赤松の並木道となっている。そして上下の御茶屋への松並木の両側には牧歌的な田畑が広がっている。

 

この田畑はそもそも宮内省(天皇家)の財産であったものが、終戦後、天皇家と雖(いえど)も例外規定は適用されず、農地解放政策により小作人の農家へと解放を余儀なくされた。その私有地となった農地が昭和三十年代に入ると次々と新興住宅地への転用が図られ、そのままでは離宮の景観維持に大きな脅威を与えることになった。そこで景観保護の要請から昭和39年(1964年)に上・中・下の各御茶屋(離宮)の間に展開する8万?に及ぶ水田畑地を買い上げて修学院離宮の付属農地としたという経緯がある。

 そして現在はその田園風景を維持するために元の農家の人々に農作業を委託している。しかし農業を継ぐ後継者が少なく、ここにも高齢化のという時代の波が押し寄せ、田畑を荒廃させずに今後、この景観を維持してゆくことに別の意味の難題が持ち上がってきているという。

 

 中御茶屋は表門、中門を抜けて、まず楽只軒から客殿をぐるりと回り、また袖塀付きの表門から出て、南・東の松並木の分岐点へと戻る経路をとる。中御茶屋が当初の離宮造営の構想に入っていれば、おそらく中御茶屋から上の御茶屋へ直接向かう別経路の道が造られていたに違いない。

 

中御茶屋(中離宮)表門中離宮表門

  

 この中御茶屋は後水尾天皇と女官櫛笥隆子の間にもうけられた第八皇女朱色光子(あけのみやみつこ)内親王(16341727 享年93歳)のために建てられた朱宮御所に東福門院(後水尾上皇の皇后・徳川二代将軍秀忠の娘・光子の養母)崩御後に女院御所の一部を移築し、拡張したものが基礎となっている。

 

従来の慣行であれば、女官との間に出来た皇女は内親王宣下を受けずに比丘尼御所で一生を過ごすのが通例であったが、この光子は東福門院の養女となり、内親王宣下されるという厚遇を受けている。

 

 光子内親王は上皇の崩御後、落飾得度しこの御所を林丘寺として読経三昧の生活を過ごしながら、捨て子を引き取り養育するなど慈善活動にも力を入れた心根のやさしい女性であったようだ。そうした心豊かで聡明な女性であったからこそ、父帝は光子を特別に寵愛したのであろう。

 

 紫衣事件など幕府との対峙において朝廷の権威を守ろうとした後水尾上皇。そして上皇の敵である将軍秀忠の娘の徳川和子(東福門院)が、夫たる上皇と女官との間に出来た娘を養女に迎え慈しんだこと。その一方で第一皇女をその営んでいた庵を撤去させ奈良に追いやってまでして離宮を造営、光子内親王という愛娘は離宮の傍に住まわせた上皇。

 

 そうした凡人の愛憎感情を超えた苛烈なまでの人間模様、すなわち自己欲成就の為に実の娘に宿命という桎梏(しっこく)を思うがままに強(し)いる男、また与えられた宿命を甘んじて許容する女に思いを馳せたとき、人間という生き物の自己実現への欲望の凄まじさ、そしてまったく別の次元の意味において自己実現に対する人間の果かないほどの従順さを見てとるのである。

 

 そう考えたとき後水尾上皇という男が、さまざまな人間の気持ちを懐深い心栄えのようなものへと変質させる魅力、人間力といった強烈な引力のようなものを持っていたように思えてならない。

 

 それでは余談はそれくらいにして、それでは中御茶屋の建物の紹介へと話を移していこう。

 

 【後水尾上皇を巡る人物と建築物 2の5へつづく】

東門からの景観

東門を出た正面の景観