2−2修学院離宮=下御茶屋(しものおちゃや)
下御茶屋(離宮)中門
表総門から広い白砂利の坂道を登り御幸門から下御茶屋(下離宮)ゾーンに入り右に折れて中門をくぐる。すると目の前に池を配した庭園があらわれる。左前方石段を登ったところに玄関となる「御興寄」があるが、われわれはそれを横目に見ながら庭の方へと回る(離宮内の建物はすべて屋外からの拝観となる。桂離宮も同様)。池の中央に通された二枚橋を渡り、ゆるやかに曲がる苑路を上ると�達葺(こけらぶ)き入母屋数奇屋風造りの「寿月観」の南側に面した庭へ出る。白川砂を敷いた飛び石が印象的な庭から寿月観の屋内をわれわれは見ることになる。
寿月観扁額(後水尾上皇御宸筆)
まず、軒下奥に後水尾上皇の御宸筆(ごしんぴつ)になる扁額が目に留まる。腰障子と濡れ縁を巡らせた建屋の造作は驚くほどに簡素であり、離宮という宮殿のイメージとは大きくかけ離れている。その低い縁側からは鍬を担いだ農夫でも出てきそうなそんなそんな気配すら漂っている。室内は雨戸も見えず障子も開け放たれているため、開放的な空間が広がって見える。そしてよくよく観察すると、この建物には戸袋というものがない(見えない)。実は雨戸は各角でくるりと回転させられ、客人の目に触れぬ建物北側の裏にまとめて収納されている。心憎いばかりの周到な工夫がなされているのである。
それではまず「一の間」を見ることにしよう。広さは15畳で、上皇が坐した三畳の上段が設けられている。その背面には一間半の床、左横に半間の琵琶床と飾棚が配されている。
寿月観 一の間(正面左が琵琶棚・右が飾棚)
四枚の襖絵は岸駒(がんく=1756-1839)の描く「虎渓三笑(こけいさんしょう=俗界禁足の高僧慧遠が陶淵明らを見送る際、話に夢中になり渡ってはならぬ虎渓という谷を越え、虎の吼え声を聞いて気づいて大笑いしたという中国の故事)」である。耳を澄ますと深山での三賢人の清廉な語らいが今にも聴こえてきそうな簡素な佇まいである(心頭滅却すれば同行の拝観者の声も聴こえてこない?)。
虎渓三笑(こけいさんしょう)の襖絵
右の人物が慧遠・左の二人が詩人の陶淵明と道士の陸修静
虎を題材とした絵で有名な岸駒の作
次に「二の間」に移ると、左奥正面に夕顔の絵の描かれた杉戸(作者不詳)があるが、仙洞御所から移されたものと伝えられとのこと。ここもまた、装飾と言えばそれだけの簡素なものである。
二の間杉戸夕顔の絵
「三の間」はお供の者たちが控える間として設けられているが、手前が6畳、奥に5畳の間がある。奥の肘掛窓は大きく開き、お供の者たちが主人を待つ間、退屈せぬよう四季折々の景観が楽しめるように心配りがなされている。後水尾上皇の客人を「もてなす心」の細やかさが表れているといってよい。徳川幕府と厳しく対峙した火のような激しい性格とは正反対の「静」の心もちがここには見てとれ、上皇本来の本性が那辺(なへん)にあるのか、その奇妙な不可思議さ、謎がこの離宮のそこここに埋め込まれているようで興味深い。
三の間 泊舟の襖絵・奥の5畳間と肘掛窓
寿月観の南面には一筋の小川を超えて小振りの庭がある。それはこれから東門を出たところに広がる雄大な景観をより引き立てるための心憎い舞台装置のようでもある。
南面の庭・白糸の滝から流れる来る鑓水
それから「一の間」東側の庭には上御茶屋から流れ来る谷川の水を落す「白糸の滝」と命名された可愛らしい滝がある。東門へと急ぐ箇所にあるので、参観者の後方の人はつい見落としがちになるので、注意が必要。滝の落し口に置かれている山形の石は何に見えますか? じっくりと見てください。そう!「富士山」がこんな小さな滝のうえにあったのです。いやぁ、その徹底した遊び心には頭が下がるしかありません・・・。この滝の水が南面の庭の小川(遣り水)へつながり最後に石橋で渡った池へと流れ込んでいるのです。上御茶屋から下御茶屋へと富士山の伏流水のように「水」の「尾」から「尾」へとつながる離宮でもあるのです。
一の間東側庭の「白糸の滝」・落し口の三角形の石が富士山
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