富山冤罪事件再審判決が語る「裁判員制度」の到着する「最果ての駅」

 10月10日、富山地裁高岡支部は2002年に発生した強姦(ごうかん)および強姦未遂事件で3年の実刑判決を受け、服役を終えた柳原浩氏の再審公判において同氏に無罪を言い渡した。同氏は服役の2年間を含め逮捕から仮出所までの2年9カ月の間、身の自由を奪われ、服役後も受刑者としての刻印を背負って生き続けてきた。そして不条理な逮捕から5年半を経てようやくの無罪確定であった。

 柳原氏と弁護団は逮捕にいたった捜査の経緯を明らかにするため2回にわたり県警捜査員の証人尋問を要請したが、藤田裁判長は「裁判は罪の有無を決める場だ」としてそれに応じることはなく、判決言い渡しにおいても冤罪(えんざい)発生の原因に触れることはなかった。柳原氏が閉廷後の会見で「真実が闇に消えたままで無罪と言われても、何もうれしくない」とその悔しさと憤懣(ふんまん)をあらわにしたことは、再来年5月までにスタートすることが決まっている「裁判員制度」が有する底知れぬ怖さをわれわれに教える結果となった。

 それは今回の再審判決公判における司法の対応が「裁判員制度」導入の理由として「裁判が身近で分かりやすいものとなり、司法に対する国民のみなさんの信頼の向上につながることが期待されています」(裁判所HPの「よくわかる裁判員制度Q&A」)と説明されていることと、真逆に位置するものと言わざるを得なかったからである。今回の判決は信頼感向上どころか、「秘密主義」・「密室性」・「臭いものには蓋(ふた)」といった法曹界の体質がまったく変わっていないことをわざわざ天下に公表したようなものであった。

 国民の参加が義務付けられた裁判員制度で対象となる事件は、簡単平易なものではなく、具体的には「殺人」「強盗致死」「傷害致死」「危険運転致死」「現住建造物等放火」「身代金目的誘拐」「保護責任者遺棄致死」など最高刑が死刑となるような一定の重大犯罪と規定されている。今回、冤罪に問われた強姦罪も「強盗強姦」「強制わいせつ致死傷」などに該当するケースであれば、われわれ国民は裁判官(3名)と一緒に公判に出席し、裁判員(6名)の一人として冒頭陳述、審理、評議、判決手続きという裁判手続きすべてにわたって当事者としてコミットし、「有罪か無罪か」「有罪とすればどのような刑にするか」を決めることになる。つまり、再来年の5月以降はTVのワイドショーで大きく扱われるような事件を、司法に素人のわれわれが裁判官と同じ重さの一票を持って、裁くこととなるのである(一応、被告人に不利な判断となる場合は、プロである裁判官1名以上の多数意見への賛成が必要となっている)。

 その一連の公判過程において裁判員は証人や被告人らに質問したり、証拠として提出された凶器類や書類を取り調べることとなる。立場は最終的には判決を下す裁判員ではあるが、まるでミステリードラマの検事や弁護士のように法廷で振る舞うのである。法律実務にズブの素人にそんなことを期待されても困るが、前述のQ&Aでは「(裁判所が)争点の判断に必要な証拠を厳選して証拠調べを行うなど、できる限り法廷での審理を見たり聞いたりするだけで(われわれ裁判員が)事件の内容を理解できるように工夫された審理が行われます」と説明されている。素人にわかるようにちゃんと判断のおぜん立てを裁判所の側でやってあげますよと言っているのである。

 しかし、今回の冤罪事件における裁判所は5年半前にはプロたる裁判所自身が「争点の判断に必要な証拠を厳選して証拠調べを」行ったうえで、3年の実刑判決を申し渡している。そして別の事件で偶然、真犯人が出てきたことから、それが冤罪と発覚した。

 さらに再審判決において「なぜアリバイの通話記録や現場の足跡の違いといったはっきりした証拠がある事件で冤罪が発生したのか」の真相を何ら明らかにすることもなかった裁判所、法曹界を信頼しろというのも、どだい無理な話というものではなかろうか。

 裁判所がいくらわれわれに「法廷」で「争点の判断に必要な証拠を厳選して証拠調べを行うなど、できる限り法廷での審理を見たり聞いたりするだけで事件の内容を理解できる」ようにすると言っても、実際にはアリバイや証拠があるにも拘(かか)わらず彼らの誤った思い込みでわれわれに知らすことをしないのであれば、われわれ裁判員は裁判官が引いたレールの上をただ走り続け、「冤罪」という「最果ての駅」まで無邪気に乗って行ってしまうことになりはせぬか。今回のような法曹界の体質のままでは、無辜(むこ)の国民を罪人に仕立て上げることを、国民参加の名のもとに正当化さえしてしまうのではないのか。

 現在の法曹界の隠ぺい体質やアカウンタビリティー(説明責任)の欠如を放置したままで「裁判員制度」を一年半後にスタートさせることは、制度導入の理由たる「裁判全体に対する国民の理解を深め、裁判をより身近に感じさせ、司法への信頼を高める」というためだけに断行するにしては、あまりに危険が大き過ぎると言うべきである。一人の善意の国民が一人の無実の国民を罪人に仕立て上げ、しかも場合によっては「死刑」という極刑を下してしまうことの可能性とその取り返しのつかない怖さが、「裁判員制度」には普通にかつ無邪気に存在することを、今回の再審判決はわれわれに教えてくれたように思えてならない。今更などということはない、制度導入の是非を再議論することにやぶさかであってはならない、それほどにこの制度は未熟なままスタートしようとしているのである。