今般当選された丸川珠代参議院議員が住民票転入未届け問題によりここ少なくとも3年間は投票権がなく、投票所に足を運んでいなかったことが判明したのは、まさに選挙期間中であった。選挙期間中に異例とも言える涙の謝罪を経ても、相当な批判が世間から浴びせられ、よもや同氏が当選を果たすとは思いだにしなかった。

 

同氏に国政に参加する資格などないといったことがネット上などでも激しく議論されていたことは周知のことであった。そして書き込みにも東京都民の良識に期待するとの他府県の人たちの意見も寄せられていた。

 

 しかし、蓋を開けてみれば691,367票を獲得し、定員5名に対して第4番目で当選を果たした。その結果に対してわたしも都民の一員として慙愧に堪えない。

 

丸川珠代氏は2005911日の郵政総選挙の投票結果について、杉村太蔵衆議院議員を引き合いに出し、自身のブログ上で「認めたくない現実」(20050103号)というタイトルで以下のように記していた。選挙期間中はその内容についての発言は一応控えていたが、りっぱな国会議員となられた今は、政治家の「言葉に対する責任の重み」という視点から、ひと言もふた言も言っておかねばならない。【( )内ゴチック文字は彦左の独り言】

 

郵政総選挙とその後について、(実は投票には行ってないのだけれど、しかも選挙権などなかったのだけれども、一応)一選挙民としての思いをお伝えしたいと思います」

「もっとも認めたくない現実(今は認めちゃってもいいかなと、ちょっと思ってる)は、小泉チルドレンと呼ばれる新人議員の一人、杉村太蔵議員のことです」

「当選直後、杉村議員は、グリーン車が無料になることを喜んだり、早く料亭に行きたいと言ったり、国会議員になって得られる特権や、得られるであろう経験を、無邪気に喜びました。そこに国民の負託を受けた責任の一片でも感じていれば話は別だったのですが(これを書いたときのわたしは国民の権利である選挙権など関係ないと軽んじていたのが実際のところなんですが・・・)、責任の重さには言及せず、それが彼の未熟さと映りました。多くの常識ある大人たちは、彼の国会議員としての自覚のなさに、がっかりしたようです。(今、思えばよくぞこんな大それたことを言ったものだと反省してます・・・)」

 

「しかし、彼のような26歳がいることも日本の現実なのです(わたしのような36歳がいることもまた残念ながら現実なのです、国民の皆さん)。彼自身がフリーターやニートの気持ちがわかる、というのなら、そういう人の中には、彼のように権利と義務についての認識が希薄な人や、社会に対する想像力に乏しい人が、多いのかもしれません(もちろん、わたしもその一人)。あるいは、大人社会のルールが身についていないため就職できない、という可能性も考える必要がありそうです。

為政者はもちろん、教育関係者や、一般の大人たちは、彼(わたし)を未成熟と切り捨てる前に、あの程度の想像力や成熟度しか持ち合わせていない若者が、この国にはどのくらいいるかを心配したほうが、よいのではないか、という気がするのです。なにしろ国会議員は苟も国民の代表なのですから。しかし、彼の存在意義は、(一部の)26歳の現実を示しただけではありません。彼は国会議員の特権を広く世間に知らしめました。私達は彼の素直な喜びを通して、一般庶民からみた国会議員の特権がどういうものかを、知ることが出来ました。

そもそも国会議員になった人は、彼のように喜びません(もちろん、わたしも喜ぶなどはしたないマネはしませんでした。バンザイもしませんでしたよ)。特権より責任に言及します。議員としての責任の重さを自覚している人も、もちろんいるでしょうが、特権から目を逸らすためという考え方もあるでしょう。特権ばかりが注目されれば、非難を受けるかもしれないからです。

いままで日本社会では、自分たちの特権を守るために、その存在を秘匿するという、暗黙のルールに従うのが常識でした。しかし杉村議員は、その大人の常識を見事に踏みにじった、ということも言えます。それは、(成熟して大人の常識を持ったわたしから見て)未成熟で自覚に乏しい彼だからこそ出来た、常識破りであったと思うのです。社会に組み込まれた大人には、そう出来ることではありません(もちろん、選挙に行かないなどという非常識なこともないはずです・・・)。

つまり、大人の常識によって隠されていた特権や真相を、白日の下に曝す力が、彼の自覚のなさにはあった、というわけです。それこそ、暗黙の了解を破って解散総選挙に持ち込み、国民の支持を得た小泉総理のチルドレンとしては、面目躍如というものでしょう。

ところが、彼は突如会見を開いてお詫びを繰り返しました。「自覚の足りないまま幼稚で無責任な発言を繰り返してしまいました。大変反省しています。今日からは心を入れ替え国会議員として、責任と品位のある言動を心がけていきます。」その反省は、彼の無自覚を嘆く大人たちにすれば、ようやくわかったか、という得心につながるかもしれません(彦左はそんなに物分かりはよくないぞ)。

 

「彼はいったい誰に詫びたのでしょう。税金が彼の歳費に使われることに怒りを覚える人、自民党を支援してきた人でしょうか。あるいは、特権を共有している人たちかもしれません。しかし彼がいくら謝っても、任期中は私達の税金が彼(彼女)のために使われることになります」

 

 オリジナルのブログは読めば読むほどよくも厚顔無恥にこんなことが言えたものだと思ってしまいました。そこでちょっと、上のように彦左の独り言を添えてみました。

 

実はこの生のブログを最初に読んだとき、破廉恥さを脇に置けば、その論理構成と文章力はそれなりの水準にあると感じました。しかし投票に行ってもおらず、民主主義の根幹である参政権を行使しなかった郵政総選挙の結果について、当選した議員を「権利と義務についての認識が希薄な人や、社会に対する想像力に乏しい人」とこき下ろす精神構造を持ち合わせた人物、そしてそれまでも棄権を常習化していたのではないかと思われる人物をこそ、「権利と義務についての認識が希薄」な「無自覚・無責任な人間」としてわれわれは糾弾すべきなのではないのか。

 

丸川珠代議員に同議員が杉村議員を詰問したように「任期中は私達の税金が彼()のために使われることになります」。そして「苟も国民の代表なのですから」「自身の無自覚さが武器になることを自覚して、誰にも出来ないことをやって欲しいと思ったのです。果たして(彼女の今後の政治活動は)どうなることやら、これまた、『認めたくない現実』に帰結しなければいいのですが」という口先だけの欺瞞に満ちたあなたご自身の言葉を今回の当選のはなむけの言葉として「鸚鵡(おうむ)返し」にここにお贈りするものです。