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そして学校教育法第4章で高等学校教育についてその目的と内容が次のように規定されている。

41 高等学校は、中学校における教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、高等普通教育及び専門教育を施すことを目的とする。

42 高等学校における教育については、前条の目的を実現するために、次の各号に掲げる目標の達成に努めなければならない。

1.中学校における教育の成果をさらに発展拡充させて、国家及び社会の有為な形成者として必要な資質を養うこと。

2.社会において果たさなければならない使命の自覚に基き、個性に応じて将来の進路を決定させ、一般的な教養を高め、専門的な技能に習熟させること。

3.社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、個性の確立に努めること。

43 高等学校の学科及び教科に関する事項は、前2条の規定に従い、文部科学大臣が、これを定める。

 

わが国の戦後における6・3・3制の学校制度は単線型体系と呼ばれているが、ドイツなど欧州に多く見られる分岐・複線型体系とはその様相を大きく異にしている。将来、子供がどんな職業、生き方を選択するとしてもこの日本ではほぼ100%の若者が高等学校までは進学する(H17年度進学率:高等学校96.5%、高等専門学校・通信課程1.1%)。しかも、その教育内容は学校教育法の第43条において学科及び教科を文科大臣が定めるとしており、最近は若干、多様化も見られ始めたとはいえ、きわめて画一的な教育がなされるモノトーンの学校教育制度となっている。

 

まさに学校教育法に言う「社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、個性の確立に努める」教育が言葉とは裏腹にモノトーンで施され、「個性に応じて将来の進路を決定させ、一般的な教養を高め、専門的な技能に習熟させ」るものとなっている。

つまり高等学校を卒業するときには、社会人としての一般教養と素養を身につけたうえで、「個性に応じて将来の進路を決定」するとされている。まずは学生が世間に出てから生きてゆくための一般的な教養と批判力といった社会人としての素養・常識を備えさせ「国家及び社会の有為な形成者」たることを高等学校教育実現の具体的成果として謳っているのである。

 

 そうした単線的・画一的学校制度のなかで今回の野球特待生問題が発生したわけである。野球憲章云々のまえにこの学校教育法を厳格に遵守(じゅんしゅ)するとすれば、高校球児をはじめすべての高校生は前述の社会人としての素養を備えつつ高校卒業後の進路を決定しなければならぬことになる。プロの野球選手や卓球選手になることを前提として高校に入るのは、学校教育法の定めることからすると実はおかしなことになる。まぁ夢を抱いて入学することくらいは許容するとしても、「スポーツ等の特殊技能を評価」してその後の進路も既定路線であるといった特待生制度の存在自体が、学校教育法を厳格に適用すると実は矛盾したことになる。仮に特待生制度を設けるとしたら、入学を許可した特殊技能を活かして生徒がその道に進むようなことがあってはならぬとその運用については厳格にしなければならぬことになる。

 

そんな馬鹿な話があるかと誰もが思う。

 

日本学生野球憲章は昭和211221日学生野球基準要項として制定され、その後25122日に学生野球憲章と改正されたものであるが、野球特待生問題が語られるなかで、時代に合わなくなっているとしてその見直し意見も多い。

 

しかし、一方の学校教育法も昭和22331日に公布され、その翌日の41日から実施されたものであり、現代の職業の専門性の深化やライフスタイルの多様化、そして学校というものに対する価値感の変化等を考慮すると、こちらの方がよほど時代にそぐわなくなった矛盾を抱えた代物であると言ってよいのである。多様なライフスタイル、高度に専門化した職業に順応した教育制度、学校制度が整備されておれば、こうした馬鹿げたことが社会問題として取り扱われることもなかったに違いない。

 

野球をやる特待生だけが問題とされるのは不公平であるとか、高野連はあまりに時代錯誤的であり、生徒にしわ寄せがいくのは可愛そうであるという。その限りにおいては、ある意味、わたしももっともだと思う。

しかし、その根っこにある学校制度について目を向けると、その根本的見直しを怠ってきたこれまでの政府や文科省にこそ時代の変化や価値観の多様化に背を向け続けてきた大きな瑕疵(かし)・責任があり、今回の野球特待生問題で今もっとも責められなければならぬ対象であると考えるのだが、いかがであろうか。