実刑と執行猶予、ライブドア判決が語る司法の驕った目線(下)

 

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 一方、ライブドアは今からわずか10年前に「オン・ザ・エッジ」として堀江貴文被告により設立された会社であり、株式時価総額はピーク時で約8000億円に達したものの、事件発覚前のH179月期の連結売上高は784億円、連結経常利益113億円と、経営指標から冷静客観的に見れば、西武鉄道、カネボウなどとは雲泥の差の泡沫のごとき企業であることは明らかである。

 

 両社と明確に異なったことは、IT社会の到来のなかで堀江貴文被告が時代の寵児としてもてはやされ、メディアが実態以上に堀江被告をベンチャー業界のカリスマとして持ち上げ、虚像作りに手を貸したことである。また自民党の武部幹事長(当時)が郵政総選挙において堀江被告を「小泉改革の体現者」、「我が弟です。 息子です」と絶賛し、絶叫したことなど政治の世界も同被告を時代の体現者、シンボルとして利用したことも、既成の経済界の一員である西武、カネボウ、日興コーディアルとはまったく異なる世界で生息する企業として扱われた。  

 

そしてメディアで派手に露出を重ねる堀江被告の言動や雰囲気が、既存の秩序をぶち壊し、新しい何かを作り出すという当時の小泉劇場の熱気にぴったりはまったことも、ライブドアをその経営実態と大きく乖離(かいり)した化け物に育て上げたことも事実である。

 

 そのことは堀江被告のみでなく、小泉劇場に踊らされたわれわれ国民やメディアもその虚構の世界に胡散臭さを感じながらも知らず知らずにはまり込んでいったことも紛れのない事実である。郵政総選挙の結果が、そのことを如実に物語っていると言ってよい。われわれもメディアもある時期、ホリエモンと一緒に狂喜乱舞したのである。

 

 そして2006116日、東京地検による堀江被告の自宅の家宅捜査を迎え、一年を過ぎたこの316日に東京地裁による懲役26月の実刑判決が下された。

 

 自他共に認める大企業の西武鉄道、カネボウ、日興コーディアルの証券取引法違反と、時代に弄(もてあそ)ばれた若者が経営するライブドアという小さな会社が違反した罪。同じ法律に違反した罪であることをわたしは何ら否定しない。しかし純粋に客観的な事実を前述のごとく比べてみると、今回の判決には大きな違和感と不公平感を覚え、ある種の「意趣返し」のような気分に陥ることを禁じえないのである。

 

東証のライブドアの上場廃止基準で「(粉飾の)その金額において重大であり、投資者の投資判断にとって重要な情報を故意に偽った点で悪質であり、これを組織的に行った点で上場会社としての適格性を強く疑わざるを得ないものである」と言うのであれば、西武、カネボウ、日興コーディアルはその規模と悪質性とその社会的責任において格段に罪は重いと考えるのが、国民の普通の感覚なのではなかろうか。

 

堤義明氏はその引退会見で「(西武鉄道が)何で上場したのか分からない。そういうことも含めていろいろ甘かった」と述べた。同氏は言ってみれば日本の資本主義の権化のような人物である。その人物が資本市場を愚弄するような言辞を吐いて、何ら恥じるとこがない。その人物に対する一審判決は懲役26月、執行猶予4年である。

 

また膨大な債務超過を糊塗してきたカネボウの帆足隆元社長に対する一審判決は懲役2年、執行猶予3年であった。

 

日興コーディアルは検察の動きすらない。

 

 そして堀江貴文元社長に対しては、懲役26月の実刑判決である。

 

 わたしはこの国の司法に嫉妬や意趣返しといった妄念がはびこっているなどとは考えたくもないし、思ってもみたくない。わたしは憲法第14条で定められているように国民は誰しも「法の下に平等である」ことを信じようとしてきた。

 

 しかし今回の判決に触れて、そうではないのかも知れぬと思わずにいられなくなった。

雑草とエスタブリッシュメント。その言葉が私の脳裏に浮かんできた。這い上がってきた人間が目立ちすぎたから懲らしめてやる。権威的既成勢力が少し本気を出せば、そんな泡沫はいつでも吹き飛ばせる。今回の裁判は司法界自体がエスタブリッシュメントの結束を示し、その隠然たる力をいみじくも誇示して見せたようで、驕(おご)りたかぶっているように思えてならない。

 

裁判長が判決文のなかで「あなたの生き方がすべて否定されたわけではない。罪を償い再出発することを期待する」と述べた言葉に、そのエスタブリッシュメントの驕りという鼻が曲がるような腐臭を感じたのである。