わたしは、以前、「安倍晋三官房長官の総理の資格」というタイトルで、その資格に不安と疑問を呈した。そのなかで、地域ブロック大会で総裁候補間のディベートのなかで、安倍氏の議論を「抽象論でもよいのだが、国家ビジョンというにしても、ある種のコアになる具体的柱、芯がなければ、国民の心には目指すべき国家のイメージすら浮かんでこない」と評した。

その後、わたしは、日頃から批判しているメディアのように、ファクトに基づかず自分も感覚的に評価を下す愚に陥っているのではないかと思い至った。安倍氏の考えを深く勉強もせずに、TVの映像や新聞のコメントという間接的情報で、評価を下す愚かさをわたしは犯してしまったことを、まず安倍総理に謝らねばならぬ。

まず、具体性を欠くと一部で酷評されている「美しい国へ」(文春信書)を買い求め、読み終えた。読み出すに当って、メディアや評論家がこの本について色々、コメントしていることを頭から消去して、まっさらな気持ちで読んでみようと考え、一気に読破した。そして、929日の第165回国会での新総理の所信表明演説を聴いた。

わたしが知っている総理大臣で、国家ビジョンについてこれほど熱っぽく語った本を知らぬ。そして自らが筆を取り書き上げ、自分の言葉で語られた堂々とした「所信表明演説」を聴いた記憶がない。

週刊誌や政治評論家の森田実氏など多くの政治評論家が安倍内閣なかんずく安倍総理をこき下ろす論評を加え続けている。それはそれで、それぞれ意見の相違、商売、拠って立つ場が異なるのであるから、自由である。

しかし、昨日の所信表明演説は、稀代の名演説であったと感じた。21世紀の百年を見据えた国政の方向性を明確にかつ凛として訴えたものと高く評価したい。今日の朝刊やTVでは早速に、総花的・具体性を欠くといったそれこそ事大主義的なコメントが並んだ。

たぶん具体的に、官僚が作った文章を読めば、「国家ビジョンを欠いた」所信表明とこき下ろされたのだろうが、今度の所信に官僚の手は入っていないという。でなければ、あの安倍氏の謳い上げるような演説の熱気は伝わってこないはずだ。わたしは冷静に演説を聴いたつもりだし、今日、新聞で全文を読み直した。ある面、現在の社会の抱える問題に、極めて具体的に数字を明示し、解決すべき決意を表明し、またある面、国家百年の計に立って国民に自立の精神を訴え、そのために国家として基盤整備を行なわねばならぬことも、堂々と言っている。

限られた時間で内政・外交等すべての課題につき洩れなく語るのは難しい。どうしてもメリハリを欠くきらいもあろう。しかし、わたしは演説を実際に自分の耳で聴いた。最後の結びの「戦前、戦中生まれの鍛えられた世代、国民や国家のために貢献したいとの熱意あふれる若い人たちとともに、日本を、世界の人々が憧れと尊敬を抱き、子供たちの世代が自身と誇りを持てる「美しい国、日本」とするため、私は、先頭に立って、全身全霊を傾けて挑戦していく覚悟であります」言葉にいたり、国民もまさに安倍氏とともに立ち上がり、変わらねばならぬのだと強く思った次第である。

「美しい国へ」のなかで、『「公」の言葉と「私」の感情』という小題のなかで、知覧飛行場から飛び立っていった鷲尾克己少尉23歳の日記に言及する部分があった。

〔「はかなくも死せりと人の言わば言へ、我が真心の一筋の道」

自分の死は、後世の人に必ずしもほめたたえられないかもしれない、しかし自分の気持ちはまっすぐである。〕

わたしは、安倍新総理のその自書と所信表明演説に触れることで、骨太の政権構想と国民という公に対して不退転の覚悟を示した政治家としての姿勢に素直に、感動を覚えた。今後の具体的な政策に期待を抱き、冷静にこの政権の行く末を見守って行きたいと思う。