「格差社会が語りかけるもの」

 

 三月二十四日付東京新聞の一面で、厚労省が二十三日に発表した「2005年賃金構造基本統計調査」に基づくき、非正社員 賃金、正社員の60%」との記事が掲載された。同調査で正社員と非正社員の賃金格差を比較したのは初めてで、四十歳以降はその格差は益々大きなものになるとの調査結果である。さらに厚労省はその格差要因の説明のなかで、「若者にフリーターなど非正社員が多いことから、将来の格差拡大には注意が必要」とある。

 

 この説明自体は間違いではないのだろうが、私は「いや、待てよ・・」と、首を傾げてしまう。それは、格差社会の進行が及ぼす影響を一方向からしか捉えていない、もっとはっきり云えば社会に置いていかれる人たちの弱者、被害者としての立場のみに視線を向けた分析、論評でしかないからである。つまり、このフリーターと呼ばれる人々の社会に対する「国民として果たすべき責務」という観点からの議論がなかなかメディアで語られることがないことに、どうもしっくりこないものを覚え、そうした一面的な論評に片手落ちのようなものを感じて仕方がない。

 

今、現在、難しい企業環境のなかで、組織と云う桎梏のなかで、一生懸命に労働をしている同世代の若者たちとの間のなかで、「国民の責務を果たす」という点で、逆に、明らかな不平等が発生しているのではないか。彼らは厳しい社会に出て定職につき(転職しながらもキャリアメイクをしている人も同様)、継続的に税金を国家に納め、国家のサービスを享受する国民としての責務を果たしている。厚労省の云う「将来の格差拡大には注意が必要」はフリーターの弱者としての一面のみを指摘するのではなく、その一方で必死に働いている若者たちの方は、将来、より一層、国民としての負担がのし掛かるという意味で、「責務を負う格差の拡大」についても同様に強調し、その負担の是正を訴えるべきであろう。今日の東京新聞を読み、その記事をオープニングトークで取り上げたフジTV「とくダネ」の小倉智昭氏の話しを聴きながら、真にそうした視点が欠けているのではないかと感じ、逆にそうした警鐘を大きく鳴らすべきではないかと思ったのである。

 

そして何故、「国民の責務」という視点での論評がメディアで行なわれないのか。また、言論界や世の識者は論じられることがないのか、考えた。その結果、このこと自体に、戦後、日本が国家の背骨というものを失っている証左ではないかとの結論に至った。フリーター問題が語られる時、当事者たるフリーターの人たちは、「将来への不安を感じないのか?」という問い掛けに対し、「組織に束縛され自分を殺すより、好きな時に働き、自分のやりたいことを自由にやれるフリーな生き方に価値を求める」と云ったいかにも自由人的な反応を示す。

しかし、戦後教育で云う「自由」が、この薄っぺらなフリーターの言葉に集約されているとすれば、この国の民主主義、国民主権と云う高邁な理念は、内容空疎な画餅でしかないのだといわざるを得ない。決して、定職に就けない若者を責めるだけで、この問題が解決するなどとは思っていないし、そんなに単純な問題でないことも分かっているつもりだ。ただ、「自由」というものは、決して時間的、物理的な束縛がない状態を自由というのではないことを、私は若者たちに分かってもらいたいと願う。真なる「自由」、価値ある「自由」とは「精神の自由」即ち、思考が束縛されないことこそ、発想に制約が課されないことこそ、真実の「自由」であり、正常な「市民」の「自由」であることを我々はもう一度、考え直してみる時機に来ていると、二十四日付の東京新聞とフジTVの小倉キャスターのコメントに接し、強く感じたのである。