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割烹「やました」・・・京都グルメ編(2008.3.14)
久しく、「割烹やました」をアップしていない。昨年の七夕の日に訪ねて以来、一年二か月ぶりの「やました」である。
今回は、初めて割烹やましたにお昼時に伺った。というのも、今回は帰京途中に京都で下車、今年、訪ねられていない「やました」にご挨拶をという主旨で立ち寄ったもの。
そして、「やました」でランチだけというのも気が引けたので、現在開催中の特別公開で目ぼしいところを訪ねようと足を向けたのが聖護院であった。
その次第の聖護院特別公開については本家西尾八ッ橋本店の紹介の際に少し触れておいたので、ここでは省略する。
さて、「やました」との付き合いももう十数年になるが、お昼に伺ったのはなんと今回が初めてである。
この日は12時45分頃に店に到着。昼は2時迄の営業ということでそうのんびりとはできぬと早速に暖簾をくぐると、芹生君がいつもの大将の位置にいたのには、少々、驚いた。
と同時に、時間も遅めのお昼ということでお客さんもピークは過ぎたのだろう二組いらっしゃるのみで、夜の部のあの熱気を帯びた賑わいがないのにもちょっと戸惑いを覚えた。
板場のなかも見知らぬ新人二人が入り、二名増えて6人(大将を入れて)体制になっていた。新顔は熊谷君と竹田君、竹田君にいたってはまだひと月とのこと。胸元の名札がなんとも初々しい。
また、先輩の部谷君が当日は焼き方に回っていた。みんなそれぞれが一流の板前への階段を一歩一歩、着実に昇っていっているのだと感じた光景である。その部谷君をやさしく指導しているのが料理長の安達さん。安達さんとはこれまでなかなかゆっくり話をする機会がなかったが、その意味では「やました」の板前さんと心置きなく会話を交わしながら食事を楽しむには夜よりもお昼のほうが良いことをこの度知った。
ここ2、3年、「やました」の板場は戦場のようで少し離れた板前に話しかけるのもままならぬほどの盛況ぶり。最近では「やました」の評判は日本だけでなくネット検索で訪ねてくる外人観光客も増えるなど、すでにインターナショナルな存在である。
昨年もわれわれの隣はオーストラリアから初めて日本にやってきたご夫婦であったし、二年前も中国から一人でやってきた若い女性が大将の前に陣取るなど京都の料理屋もなるほど国際化の波に洗われているのだと感じたところであった。
そんななかで奮闘する安達さん。一見、こわもてで話しづらかったのだが、実際はずいぶんやさしい人物であることがこの日、分かった。名前は春徳と書いて、かずのりと読むのだそうで、「春日大社の“かず”ですというと、みなさん、あぁ」と納得してくれるのだと、強面から笑みをこぼし説明する姿はまさに板場の好漢と呼ぶのがふさわしい。
当日は山下の大将は不在とのことで挨拶ができずに残念であったが骨折した足の具合はもう大丈夫でゴルフも普通にされておられるとのことでまずは安心。下の写真は昨年の7月7日、七夕の節句に伺った時のものだが、スマフォを話題に楽しそうないつもの大将の写真をご挨拶代わりに掲載しておく。
さて、「やました」のお昼はコースが主体であるようだが、当方、今年初めての「やました」である。いつも通りに旬のものを中心に好きなものをいただくこととした。いよいよ料理のスタート。手際よくいつも通りに先付が目の前に差し出された。
わたしはお昼であるにもかかわらずパブロフの犬よろしく流れ作業のように、「いつもの“桃の滴”を」と条件反射的に口走ってしまう。
そして、家内と芹生君に念押しをするかのように、「二合だけでいい。今日は料理主体」と訊かれもせぬのに言い訳めいたことをいう。
そこで当日の料理は以下のごとくである。夜の部よりもバランスのとれたものとなったが、要は家内主導の注文となったということで多様な皿をたのしめることになった。
その当日のインパクトある一品は何といっても、鱧の薄造りである。
一番脂の乗った秋鱧である。旨くないはずはないと、二重否定でほめるほどに絶品である。いつもいただく鱧の炙りも好みのひと品だが、こうして薄造りにした鱧を豪快に三切れほどひとつまみにして口に放り込むのも新たなる鱧食の悟りである。添えた酢橘は鱧にかけると身が白くなるので三杯酢ののぞきに滴らす方がよいというのでそうした。料理の見栄えは食の基本である、なるほどと納得した次第。
そして、グジ(甘鯛)もいつもは刺身でいただくところだが、鱧の薄造りをいただいたので、から揚げにしてもらった。
と、思ったらのどぐろの塩焼きを頼んでいたのを思い出した。そういえば、「やはり、脂がのっておいしい」なんて会話しながら、身をほぐしては口に運んだっけ。芹生君、失礼!身の方の写真を失念。
これまたほっこりとして、さすが食材を吟味した“やました”の一品と報告しておこう。。
次に野菜の焚き合わせを頼むが、大ぶりの栗をトッピングして季節感を演出、湯葉や麩を添えて京都をアレンジした小品である。
帆立と海老のしんじょうが目の前に。
これまたしっかりとした口触り。帆立など貝類大好きな家内の注文である。
そして、湯葉巻き。
もちろんおいしかったが、この詰め物はそのとき訊いたはずだが、忘れてしまった。
何はともあれ、何事もおいしければよい。
ほかに、皿の合間にちょちょっとサービスで出てくる“アテ”が何とも言えずうれしい。やましたならではの夜、もとい、ランチである。この椎茸、生椎茸をやましたで一週間ほど乾燥させてから戻すのだそうで、実はこれだけで十分に酒のアテにもなる手間をかけた一品で、ご飯のお伴にもなる優れものであった。
また、このから揚げも鱧の皮であったか骨であったか? はたまたグジの始末の料理であったか失念したが、いつもながらのうれしい「やました」のサプライズであった。
初めて経験した「やました」のランチ。そして、久しぶりに堪能したゆったりした「やました」の時間。
実のところ、「やました」での滞在時間はいつも他のお客よりずっと長っ尻である。これまで幾たびも看板後まで居続け、大将と語り合う時間がとれたものである。だが、ここ数年であろうか「やました」の名声が高まるにつれ、そうした独り占めの贅沢な時間に恵まれることがほとんどなくなってしまった。
「やました」の評判が高まりいちフアンとしては大いに鼻を高くする反面、大将とサシで語り合う機会がめっきり減った一抹の寂しさがある。贔屓の客としては複雑な心境にあったことも正直なところである。
そんな矢先に初めてランチに訪れ、じっくり料理に舌鼓を打ち、心置きない板場との交流を深め、以前から流れていたのだというシャレた洋楽のBGMに耳を傾ける「やました」での粋なひと時。新鮮な発見、やましたを知ったころの初心に戻ったような貴重な一日であった。
この気持ちを表わすのに例えはちょっと適切ではないが、倦怠期にある夫婦が相手の本来持っている良さ、昔、好きだった長所を再発見、思い起こし、絆をより強くする。そういった感覚、心もちをよみがえらせてくれた2016年の「割烹やました」の格別のランチであった。